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プロフィール
コメント数 433
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 56歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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【製作年 : 2020年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN 《ネタバレ》 
ティモシー・シャラメは、ボブ・ディランによく似ている。彼の顔、声、眼差し。昔、ドキュメンタリー映画で観た若き日のボブ・ディラン、その雰囲気がよく出ている。そして、ギター、ハープの演奏も素晴らしい。ジョーン・バエズと寝起きのベッドに座りながら歌う『風に吹かれて』は爽やかで且つ生々しかった。  私がこの映画を観て改めて認識したのは、ディランという存在の凄さである。全編通して流れる初期ディランの曲。映画はディランの歌を主旋律として描かれている。主役は彼の歌だと言っていい。そこにドラマが重ねられていく。  ディランの2ndアルバム"The Freewheelin'"は初期の代表作で、私の愛聴盤でもある。そこには、世界の在り方(『風に吹かれて』)があり、政治(『戦争の親玉』)があり、戦場(『はげしい雨が降る』)があり、ロマンス(『北国の少女』)があり、別離(『くよくよするなよ』)がある。彼の人間ドラマが歌詞となっており、映画はそれを辿るように描かれる。  彼は自分が何者かよく分からない(Complete Unknown)と言う。分からないことが自明であるが故に、そのことを常に(風の中に)放置し自由に転がり続けるだけだ(Like a Rolling Stone)と言う。こう表現すれば単純だが、映画の最初の方のシルヴィとの会話でも、彼女の考え方と決定的な違いが分かる場面があった。社会的であろうとする彼女に対して、ディランは常に自分の気持ち、信念を優先する、文学的なのである。  彼が歌詞の中で操る自己と社会を表現する言葉は観念的で利己的であったが、且つその言葉は美しく世界に響いた。それは世界がまだ自己に傾いていた時代だったから。彼は社会と2人の女性の間を自由に行き来し、時に強く、時に弱かった。そして、彼は常にダークサイドに居て、そこから見ていたのだ。  明かりで照らしても無駄なことさ たとえ今まで見たこともない明るさでも 僕は道の暗がり(ダークサイド)に居るから ボブ・ディラン『くよくよするなよ』  映画のティモシー・シャラメ演じるディランにそういった人間的複雑さ、暗さを感じることは難しい。時代の違いもある。自己が世界に沈んでしまった現代。そこでディランを演じること。弱みを見せない仮装、それがディランのパブリックイメージであるように彼を演じてみせる。そうであるが故に、ティモシー・シャラメ演じるディランは、彼の歌を歌いながらも、彼の歌を作った人物のようには見えない。でも、それは仕方がないこと。ディランを演じることは出来ても、ディランそのものにはなれないのだから。その文学性を身に纏うことは、現代において至難の技だろう。  しかし、ディランを演じる、ディランの物真似として、ティモシー・シャラメは素晴らしく適任だったと思う。映画後半のあの髪型でサングラスを掛けたティモシー・シャラメは、ボブ・ディランにしか見えなかったし、演奏する姿も彼そのものだった。  ニューポートでエレキギターを携えてロックを歌ったディランは、観客の罵声を浴びてステージを降りる。彼は涙を浮かべて“It's All Over Now, Baby Blue”を歌ったとされている。今や、YouTubeでそれらの映像を簡単に観ることが出来る。ディランにはそういう弱さがあり、それが彼の文学性を生んだ。映画の中で弱さを表現することも出来たはずだが、その方向には行かなかった。映画の中の彼は決して涙を見せず、その代わりに「歌」で全てを表現した。それはそれで映画の在り方として有意だし、ディランの歌ならそれが出来る。様々な人々(ディランのファン達や彼の曲を全く知らない人達)に映画が受け入れられる方法論として。  これまで、私はティモシー・シャラメが好きではなかった。ティモシー・シャラメはウディ・アレン監督作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』に主演した後、アレンのスキャンダルの件で記者にアレンとの絶縁を迫られて信念なくそれに従ってしまったり、風見鶏のポピュラリストなのだと思っていた。だから、それとは真逆の信念の人であるディランを演じるのは違うと思った。単なる器用さ、物真似だけでなく、人間として滲み出るものがなければ、ディランを演じられないと思った。  アレン好きな私にとって、当初、本作品は批判の対象でしかなかったが、その考えは観賞後にすっかり変わった。『名もなき者』は傑作映画であり、ボブ・ディランの歌の素晴らしさ、その歌が紡ぐドラマ、彼の文学を堪能できる。彼がノーベル文学賞を獲得したことが至極真っ当であることを理解できる。そういう映画としての新しさを感じたし、とにかく観て良かった。
[映画館(字幕)] 8点(2025-03-10 19:01:52)
2.  ファーストキス 1ST KISS(2025) 《ネタバレ》 
タイムトラベルSF好きの身としては、なかなか興味深い内容だった。  タイムトラベル設定としては、『バタフライ・エフェクト』の男女逆バージョンとも言える。それとも『ソンジェ背負って走れ』の大人バージョンか。タイムスリップの仕方は『知ってるワイフ』とも。展開の速いところは、1日を繰り返す『恋はデジャ・ブ』や8分間を繰り返す『ミッション:8ミニッツ』も思い出す。他にもいろいろと。まぁ、設定はありきたりといえばそうだけど、坂元裕二脚本なので、人間ドラマ、会話劇としてかなり面白かった。  タイムトラベル物として興味深い点は以下の2つ。 1. パラレルワールドを作り出す=デジャブを紡ぎ出す。 2. 硯駈が未来から来た将来の配偶者カンナの情報により、自分の未来の愚行を反省し、その行動を先取して改める。しかし、運命は変わらない。  まず、1つ目。私が思い出すのは、同じくタイムトラベルを扱った映画『バタフライ・エフェクト』である。以前、『バタフライ・エフェクト』のレビューで、私は「失われた記憶」こそが「運命」の由来だと書いた。彼と彼女が出会った時、二人の記憶をよぎる微かな瞬き、第一印象で「ビビビっ」とくるアレ。相手を運命的だと感じるアレ。それは、実は量子論的多世界解釈(いわゆるマルチバース)のパラレルワールドによって何度も繰り返し出会い、共時的に重ね合わされ、生成しつつ失われた記憶によって紡ぎ出される。駈がカンナに感じた第一印象の「ビビビっ」、それが「デジャブ」。(デンゼル・ワシントンの『デジャヴ』って映画もあり。あれもパラレルワールドを描いていたと記憶。)  かき氷屋さんで駈とカンナが並ぶ、その後ろにいた女性達が最後に2人を応援するシーンは、それこそ実は何度も重ね合わされ紡がれた「デジャブ」が生み出した感情から来ているのではないか。 「パラレルワールドを作り出す=テジャブを紡ぎ出す」とは、そういうことなのです。  2つ目。駈が時空のミルフィーユとデジャブによって瞬時にカンナとの関係性を理解するが、それは未来の姿の経験的先取りでもあった。しかし、それは『ブラッシュアップ・ライフ』や『時をかける愛』のような生まれ変わりやタイムトラベルによる人生何周目かの学びというのとは違う。実際に駈は何も経験していないわけだから、経験的であって経験ではない。想像し悟ったのである。  私たちは、人間関係、夫婦関係の中で、相手の気持ちを理解しながら、咄嗟にそれとは反対の行動を取ってしまうことがある。それによって相手の気持ちを毀損してしまい、時に取り返しがつかないことにもなる。事後に反省しても、時既に遅し。時間は元に戻らない。  駈は、その失敗をタイムトラベル者の情報で事前に知ることにより手を打つことが出来たとも言える。しかし、本当はそんなことがなくても、想像力を働かせることで、相手の思いを先取りして行動し、関係をより良く生きることが出来る(出来た)のではないか。この映画はタイムトラベルという特殊性というよりも、共時性という概念(重ね合わせ、想像し、悟ること)によって、それが可能になるということを良く教えてくれる。とても教条的、道徳的なドラマなのだと感じた。  確かにそれでも運命は変わらない。それは共時的に決められていることだから。しかし、同時にその共時性を意識することで関係をより良く生きることができる。豊かに生きることができる。その点が私にはとても興味深かった。
[映画館(邦画)] 8点(2025-02-17 22:42:41)(良:2票)
3.  別れる決心 《ネタバレ》 
常に場面の意味、セリフ、色彩、アイテムを記憶に留めながら観ないと物語を理解し損ねる。観ることへの緊張感を自律的に強いる映画。観終わってからもラストの意味を暫く反芻せざるを得ない。その意味について思いを巡らし、それを確かめる為にもう一度観たくなる。誰でも容易に理解出来るエンタメ映画ではなく、様々な伏線回収とその解釈を要する難解な文芸ミステリー作品、、、でもないように思える。(敢えて一般的に語られるイメージを記してみた)  この映画は、純粋に恋愛の本質を描こうとしている。ストーリーの中で彼らが何時、どの様にそれに囚われたかということ。恋愛感情が生まれ、気が付けばそれを中心に様々な状況が振り回される。そこにのみ思いを巡らし、彼らの目と表情と声の響き、手と脚の動きに注目していればそれでよいとも思える。そうすれば、何のことはない、とてもシンプルに恋愛を描いた物語だと分かる。恋愛は自意識の劇であり、鏡であること、そしてその究極には不可能性という可能性への期待があり、それが刹那に超越され、持続しない。  「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛における関係は既に全く終わっているのである」(キルケゴール)  お互いに芽生えた強迫観念ともなり得る恋愛という外部の力、にも関わらず自意識とも言える内なる感情。それを追っていくことで、ラストまで一直線に流れていく。ストーリーに一本筋の通った純粋な恋愛映画。胸にストンと落ちる。こう言って語弊がなければ、これは反世界、反共感の人間性、君と私が現代に生きる可能性を描いた作品なのです。ちなみに増村保造の『妻は告白する』との類似性も話題となっているが、ラストのタン・ウェイと若尾文子の選択に対する感情が決定的に違う。そこがまた面白いかも。
[映画館(字幕)] 9点(2025-01-14 23:08:37)
4.  PLAN 75 《ネタバレ》 
主人公ミチは映画の中盤辺りでプランに申し込むのだけど、その理由、経緯、彼女の心の声は一切言葉として説明されない。これは主人公に限らず、主要な登場人物たちも同様で、誰も語らず、叫んだり、大きな声を上げない。皆が日常を過ごし、そこに現れる違和を噛みしめながら、ラストシーンに至る。  この映画は、社会問題を扱った作品だけど、そういう意味で映画的文学性が高い。問題が社会に広く伝わるというよりも個人の心に深く刺さる。倍賞千恵子の佇まい、その声も感動的です。  このような主題は日本だからこそ切実となる。少子高齢化、同調圧力、希望格差、そこから来るある種の諦め。遠ざかるアカルイミライ。この映画がカンヌで評価された背景には、現代版『楢山節考』という捉え方があったからだと言われる。  カンヌ最優秀作の今村昌平『楢山節考』。私は深沢七郞の原作小説が好きなので土着性に寄り過ぎている今村版映画はそれほど評価していないのだが、何れにしろ現代(近未来)の日本が舞台の『PLAN75』と『楢山節考』は決定的に違う。姥捨という社会のルール、その合理に対する個人の行動、ラストが違う。そこにこそ、社会と個人の関係性における、この作品の現代的な意味と価値があると私は思う。  ちなみに『遠野物語』の中で姥捨て山「デンデラ野」は、老人たちが村落共同体から離れて集団生活する場所として紹介されている。今で言う老人ホームみたいなもの、介護人はいないけど、そこを拠点に老人たちが衣食住を共有し、働けるものは働きにも出ながら、家族から離れて集団生活していた。棄老や姥捨は、口減らしのために、老人を山中などに捨てたという習俗として、日本各地に伝説として残っているが、『遠野物語』の「デンデラ野」のようなケースもあったのではないか。江戸時代の町人が書いた日記に「病気になった者や世の中で不要になった人間を捨てるな」との町触れが幕府から全国的に出たという記事がある。村落共同体から離れて、そういう棄てられた人々が集う場所が実際にあったということは想像に難くない。  棄老と共に、江戸時代の農村では、間引きも普通に行われていたという。赤ん坊は初宮参りという通過儀礼を済ませる事によって産褥が終了し、人間社会の一員になるという一般認識があった。「七歳までは神のうち」という言葉があるように、人間には「正式な人間」と死と繋がっているという意味での神仏の領域があり、その区分は地域によって違いがあった。生の領域と死の領域が人間の一生の内にもあり、死の領域は霊的な世界として神仏に繋がる。生の向こう側の死を生きて家を守る。さらに生まれ変わるという輪廻の考え方もあっただろう。それが祖霊信仰であり、日本人の昔からの宗教でもあったといえる。  そう考えると、生と死の境界がはっきり分かれた人生、生を生きる人間という概念は近代以降に確立したものであることが分かる。母性や父性、風景なども同じ。そこに近代文学の起源もある。  今、私達は近代からのヒューマニズムを当たり前のこととして、それを大前提として社会を構築している。それは素晴らしいこと。しかし、昔から当たり前であったわけではない。だからこそ、歴史を知ることで、生を生きる人間を第一とする今の社会の在り方を捨ててはいけないと思える。
[映画館(邦画)] 8点(2025-01-14 23:05:06)(良:1票)
5.  アバター:ウェイ・オブ・ウォーター 《ネタバレ》 
『アバター』は森、海、砂漠、山、極地と舞台を変えて続くらしい。『ウェイ・オブ・ウォーター』が期待以上に面白かったので、このサーガとても楽しみ。  『アバター』は既にストーリーテリングではなく、ストーリーの背後にある世界観の構築にこそ唯一無二性があると思う。世界観とは、スターウォーズやガンダム・シリーズに代表されるような、仮想世界としての独自の歴史や地理の詳細までが構築されるメタ的な世界のことを言う。そのプロットの意味性にこそ、世界観の本質がある。文化人類学的、反西洋主義、反人間主義的な思想において、『アバター』の世界観はエンタメの枠を超えて特筆すべきものであろう。元々『エイリアン』と対となる作品として『アバター』は製作されている。つまり、エイリアン側から見た人間による侵略の歴史。『駅馬車』の対となる『ダンス・ウィズ・ウルブズ』。イーストウッドで言えば『父親たちの星条旗』の対となる『硫黄島からの手紙』。  従来の人間主義/反人間主義という対の考え方から、ナヴィの家族を中心にした旧約的なサーガに世界観が移行しようとしている。森を出たアダムは家族を得て、生きるために罪を犯す。家族は一族となり、海から砂漠へ。原罪を抱えつつ、先の見えない世界、目的のない世界を見据えて、物語は駆動する。人間/反人間を一体何処に向かわせようとするのか? それは「精神」に向かうのか?その崩壊、歴史の終わり、最後の人間へと向かうのか? それとも、、、。新しい旧約としての大きな物語。そういえば、手塚治虫の『火の鳥』にもそういう話があった。こういう大きな物語は結局のところ巡りめぐるものか。
[3D(字幕)] 9点(2025-01-14 22:56:06)
6.  陪審員2番 《ネタバレ》 
ある事件の陪審員となったことで、偶発的とはいえ、自ら罪を犯していたことを知る主人公。事件の被告人は無実である。彼は事件の陪審員として自らの犯した罪を被る被告人に対峙する。彼の罪を知る者、知らぬ者。最終的に知る者。  「真実が正義とは限らない」 アメリカ、そして、アメリカ映画はこれまで「真実が正義とは限らない」という前提の中で、真実よりも正義を優先してきたように思う。特に法廷を描く映画『評決』などは正にそうだろう。そもそも真実はそれを捉える人間によって見方が変わるため、人々が集団生活の中で因って立つのは物事の真実ではなく、正義という観念になる。映画は、そういった「真実の不確かさ」をこれまでよく描いてきた。『羅生門』『怪物』然り。『真実の行方』然り。  映画のストーリーだけ見れば、イーストウッドは最後に「正義よりも真実を優先させた」と言いたくなる。検察官は全ての調和をかなぐり捨ててでも、ただ公正に真実をテイクする決断をしたと。でも、本当にそうだろうか? ここでイーストウッドが示したかったものは「正義よりも真実」などという次元の違うあやふやなものではなく、やはりストレートに正義の意義、イーストウッドの考える正義の位置付けだったのではないだろうか?  「正義とは何か?善とは何か?」 18世紀のイギリスの法哲学者ベンサムは、最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善と見做した。いわゆる「最大多数の最大幸福」である。正義とは社会の公約数的な善、社会福祉として計量されるものだと考えられた。主人公(役名:Justin=Justice)が自らの罪を正当化する論拠、検察官が真実を知りながらそれをやり過ごそうとした時の正義とは、この「最大多数の最大幸福」であることが分かる。  20世紀のアメリカの政治哲学者ロールズは、ベンサムの正義に対して、「各個人は正義に基づく不可侵性を持ち、社会全体の福祉といえどもこれを侵すことはできない」と反論した。ある人々が自由を失い、他の人々がそれにより大きな善を受け取るならば、その自由の喪失は正当化されない。ここでの正義とは、個人の地位や過去に依らない、それらの属性に無知であることを前提にして、その上で理想的な公正社会を構築するものとして在るべきだと。いわゆる「無知のヴェール」である。正義は、全ての人々に平等にあり、社会全体の福祉に優先する。且つ、社会はそういった個人の正義に因って立つものだという考え方になる。  検察官(役名:Faith)が最後に決断の拠り所とした正義とは、この「平等公正な個人の正義=信念」である。正義論に関するこの辺りの映画的な意図はわりと明らかなものだと言えるだろう。しかし、クリント・イーストウッドの映画に込めた思いはさらにその先にあると私は感じる。善と悪、善人と悪人。この映画でも善人と悪人は、陪審員と被告人という立場で対比的にとても明確に描かれている。「善人だから、悪人だから」と劇中で何度も語られる。ここでの善人、悪人は、親鸞の「悪人正機」を基に定義できる。最後にそれが反芻されるように映画として仕組まれているのではないか。『硫黄島からの手紙』のイーストウッド監督ならば、その映画的意図はあながち間違っていないのではないか。  悪人 衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。  善人 「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。  因果 凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。  出典: ウィキペディア『悪人正機』  正義と善悪。そのエッセンスがこの映画には詰まっている。『陪審員2号』は、アメリカ的な正義論に留まらず、善悪の本質にまで思い至らせる真の意味で道徳的な映画だと私は思う。クリント・イーストウッドが94歳にして、何故『陪審員2番』という作品を撮ったのか? その深い洞察を感じざるを得ない。
[インターネット(字幕)] 9点(2025-01-14 22:08:10)
7.  サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時) 《ネタバレ》 
ニーナ・シモン、マヘリア・ジャクソン、ザ・ステイプル・シンガーズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、B.B.キング、フィフス・ディメンション、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、そして、若き日のスティーヴィー・ワンダー。この面子が出演するというだけで、映画『サマー・オブ・ソウル』を観ないわけにはいかなかった。  上映時間2時間では各々の演奏時間が限られる。予想はしていたけど、作品のドキュメンタリー色もあり、インタビューも多く挟まるので、そっちに時間を取られて演奏はカットされまくる。楽しみにしていたライブをフルコーラスで楽しむことはできない。残念だけど、ドキュメンタリー映画として、それは仕方ないこと。何十年もお蔵入りされていたサマー・オブ・ソウル=ハーレム・カルチュラル・フェスティバルの映像、それがそうならざるを得なかった経緯と共に世に送り出すことがこの作品の意義でもあるのだから。  キング牧師やマルコムXを失った当時のアメリカ黒人社会。1969年、ニューヨーク、ハーレムの黒人たちを30万人以上集めた黒人による黒人のための音楽フェスティバルが如何に革命的であったか?それを白人社会がどのように扱ったのか?ウッドストックに比べて全く知名度がない、歴史に埋もれたその祭典の経緯を明確にしたい演出の意図はよく理解できる。  確かに仕方ないこと。私はこの映画のサントラを買って、彼らのライブを純粋に堪能することにした。私の中でこのライブのクライマックスは、マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルズの共演になる。こんな貴重なデュエット、迫力あるシャウトの競演、その映像を観られただけで、この作品の価値は十分である。私は、これまでステイプル・シンガーズをラスト・ワルツでしか知らなかった。とんでもないこと。勿体ないこと。こんなに素晴らしいシンガーズのアルバムをまともに聴いてこなかったとは。それを認識しただけで、私にとって、この作品の価値は十二分にある。  しかし、サマー・オブ・ソウルの本当の価値、世界に向けたその意義は、映画の後半からラストを飾るスライ&ザ・ファミリー・ストーンとニーナ・シモンのステージにある。彼らは音楽家を超えたアジテーターであり、30万人の黒人たちを一体化させた彼らのステージこそがドキュメンタリーなのだから、これは明らかだろう。映画は特に、ニーナ・シモンの登場からのアジテーション、彼女の叫びと動きと聴衆とのやり取り、その音楽を克明に捉える。1969年当時、ハーレムのマウント・モリス・パークに押し込められ、世界に伝わることがなかった黒人たちの熱狂を見事に映す。50年間、忘れ去られたシーン、映像に焼き付けられたが、陽の目を観ることがなかったそれらのシーンが、その価値と意義と共に今よみがえる。  1970年、ニーナ・シモンは全てを捨ててアメリカを去り、リベリアで音楽と無縁の暮らしを送ることになる。音楽家であり、活動家としての彼女が最も輝いた人生の瞬間と喪失の未来。この映画は、ニーナ・シモンのドキュメンタリーでもあったのだと今更ながら思う。  コロナ禍の合間、日比谷シャンテで映画を観てから3年が経ち、もう一度、このドキュメンタリーを改めて観たいと思う。ニーナ・シモンの立ち姿を観たいと思う。ステージに立つ彼女から私たち人間の可能性、そして、それを信じた彼女の勇気を感じたい。そう思った。
[映画館(字幕)] 8点(2024-10-22 00:15:36)
8.  ソウルの春 《ネタバレ》 
韓国の現代史を描く超大作。1979年12.12粛軍クーデターの詳細を描ききっており、とにかく引き込まれた。ファン・ジョンミンとチョン・ウソンの電話や拡声器でのやり取りは演出も有るだろうが、殆どクーデターの駆動と抑制がこの2人に掛かっていたように進むドラマはフィクションとしても見応えがあった。  キム・ソンス監督『アシュラ』と同じく、ファン・ジョンミン vs チョン・ウソンが物語の軸となるが、今回は舞台が国家レベルとなる。ファン・ジョンミンが粛軍クーデターの首謀者、全斗煥(役名はチョン・ドゥグァン)、チョン・ウソンが反クーデター側の中心人物となる張泰玩(役名はイ・テシン)。そして、パク・ヘジュンが盧泰愚(役名はノ・テゴン)、イ・ソンミンがクーデターで逮捕される参謀総長鄭昇和(役名はチョン・サンホ)。イ・ソンミンは『KCIA 南山の部長たち』で朴正煕を演じていて、今度はその影を引きずりつつ、朴正煕暗殺共謀で逮捕される役となる。イ・ソンミン、政治家や実業家の超大物をやらせたら右に出る者なしというところか。  ファン・ジョンミン、とにかく私の好きな役者。『新しき世界』『工作』『ベテラン』『ただ悪より救いたまえ』、そして『ナルコの神』。ファン・ジョンミンは悪も正義も違和感なく演じられる。  チョン・ウソンといえば、『アシュラ』『ザ・キング』『鋼鉄の雨』。カッコ良くて、すごく痺れる役者です。2枚目なだけじゃない、声がすごくいい。今回の正義感役も声に迫力があって、ばっちりと嵌っている。  『息もできない』のチョン・マンシク、『夫婦の世界』のパク・ヘジュン。その他、韓国ドラマ・オールスターズの面々。『サバイバー』のソウル市長アン・ネサン、『ムービング』の怪力お父さんキム・ソンギュン、『梨泰院クラス』の秘書室長ホン・ソジュン、『サム、マイウェイ』のおでん屋台コーチのキム・ソンオ、『相続者たち』の財閥会長お父さんチョン・ドンファン、『W』の漫画家お父さんキム・ウィソン、『知ってるワイフ』の融資課チーム長パク・ウォンサン、『再婚ゲーム』の元カレのパク・フン、『秘密の森』の龍山警察署署長チェ・ビョンモ、同じく『秘密の森』のドンジェことイ・ジュニョク、『SKYキャッスル』の元神経外科長ユ・ソンジュ、『二十五、二十一』のペク・イジン叔父さんパク・ジョンピョ、そして、チョン・へイン。揃いも揃ったり、それも曲者ぞろいの名バイプレーヤーたち。韓国ドラマ好きには堪らない。それぞれにいい味を出している。  映画について。私達はプロットとなる粛軍クーデターの顛末、事件の結末を知っている。知っていても、最後の最後まで画面から目が離せなかった。行くも退くも自らを犠牲にする覚悟を決めた軍人チョン・ウソンの決意と涙に心を打たれた。自然と涙が溢れた。その後の彼(モデルとなった張泰玩)自身と家族の不幸を思うと本当にやるせない。つらい。  作品の描き方から、ファン・ジョンミンが悪、チョン・ウソンが善。今の視点ではどちらが正義か分りやすい作りとなっているが、当時、中堅層の軍人たちはクーデターの中で、どちらの側に付くか、1日の攻防の中で揺れに揺れたはず。結局は、政治における軍部の立ち位置や民主化の在り方という点ではなく、ハナか、非ハナか、派閥の勢力争い、出世争い、保身、韓国社会の人間関係の力学によって、勝敗は決したと言える。勝った方が正義であり、負けたらゼロに落ちる。どちらが強いか? 強さを化身した存在、ファン・ジョンミンのセリフにもあったが、そのアピールこそが粛軍クーデター成功のカギだった。  その後、新軍部の戒厳令下で軍が民間人を大量虐殺した光州事件があり、1980年9月、全斗煥は韓国大統領まで上り詰める。全斗煥政権下では、多くの民主活動家や学生の拷問、不審死が1987年の民主化宣言まで続く。しかし、政権は盧泰愚に引き継がれ、粛軍クーデター組織による政権支配が終わるのは盧泰愚失脚後の1993年になる。韓国初の文民政府である金泳三政権により組織が解体され軍から排除されるまで待たなければならなかった。彼らの韓国支配、強権政治は実質10年以上続いた。近年の韓国映画によって、私達はそれらの事実を漸くと知ることになる。  2017年、朴正煕の娘、朴槿恵が失脚して、堰を切ったように『タクシー運転手』や『1987、ある闘いの真実』が公開された。韓国現代史、軍事政権による様々な事件、その黒い霧は、映画によって明らかにされ、人々に共有されて、歴史地図がパズルのピースのように繋げられていると感じる。『ソウルの春』もこの流れ、韓国の民主化の不可逆的な流れの中に確実に位置付けられる。そう考えれば、この映画の大ヒットも韓国にとって歴史的必然だったのだろう。
[映画館(字幕)] 10点(2024-09-16 23:57:21)(良:2票)
9.  ラストマイル 《ネタバレ》 
連続爆破テロを巡るストーリー。近年こういうプロットの場合には愉快犯との頭脳戦、ハッキング合戦だったりして、動機などどうでもよい犯罪ドラマ、エンタメ映画の類型となっているように思う。 本作品『ラストマイル』はどうか? 犯人の影が見え始める中盤より、そこには連続爆破テロを実行する切実な理由があるように展開していく。では、テロルとは何か?  「埴谷雄高によって「暗殺の美学」と名づけられた「自らの死は暗殺を行う叛逆者達の行動の正当性の端的な証明である。殺した者は殺されねばならぬ。もし殺されずに生きてさえいれば、彼は殺人者になる」という思想になって結晶化した」 笠井潔『テロルの現象学』より  犯人の動機は正しく自らの命を掛けた殺戮、テロルの論理そのものであったが、それは結局達成されることなく終わる。主人公達の活躍によりギリギリのところで防がれたからである。実際には重傷者も出ているので、いくつかの爆破事件はあったが、大量殺戮は運良く防がれたと言ってもいい。その運の良さにより、従前にテロルだったものが、いつの間にかそうでないものに変わったような錯覚を生んでいる。実はテロリストは最初からいなかったかのような錯覚、ファンタジーである。そもそもテロルとは、現代社会のひずみが生み出したものである。北と南、資本家と労働者、搾取する側とされる側。その明確な違いから必然的に生じるひずみ。その変革の意志が絶望から生じることでテロルになるのであって、それが「精神を病んでバーン」という短絡的な表現に落ちるのには違和感を覚えた。  ラストマイルを担うドライバーの過酷な労働環境や巨大物流センター(大企業)の無責任体質等、物流業界の問題に焦点を当てているが、結局のところ、「精神を病んでバーン」とならないように、根詰めずに生きましょう、助け合いましょう、悪いの経営者、お上、システムだと。「そこに在るべき悪」を仮想敵に短絡するが、いつの間にか標的を見失ってしまう。実はどこまで行ってもそれは同じ人間、凡庸な悪で、それ故に私たち自身も、集団において自ら悪人であることに無自覚となる。私には何かモヤモヤとした結末だった。犯罪ドラマ、エンタメとしては面白かったが、それ以上のことを作品から汲み取ろうとすると、ファンタジーさ故に肩透かしをくらったような気分になる。ファンタジーではないエンタメから少しでも離れたドラマならば、人間の仄暗い部分、さまざまな欲望への視線、原罪、愚かさ、悪を探していたら善なのではなく、悪から善を生む物語があってもいいのではないかと感じてしまう。但し、この作品が共感頼みの現代的な人間の薄さ、能天気さを描いていると思えば、納得もしてしまうのだが。
[映画館(邦画)] 7点(2024-09-05 22:28:15)
10.  君たちはどう生きるか(2023)
『君たちはどう生きるか』は、「宮崎駿が高畑勲に掛けられた呪いから自らを開放する物語」と確かに読める。そうであれば、彼は少なくとも、呪縛が解かれた自分としてもう1作品作りたくなるのではないか。  呪いとは何かは、二人の間のことなので正確には分からない。しかし、高畑勲が『火垂るの墓』『平成狸合戦』の人であれば、彼は教養の人であると共に哲学的意味において「精神」とその獲得の為の闘争の人だったのだろうと感じる。それは「どう生きるか」において呪縛となるであろう。
[映画館(邦画)] 8点(2024-09-05 22:27:18)
11.  福田村事件 《ネタバレ》 
『福田村事件』は、利根川流域の村人達が9人の日本人同胞を朝鮮人と見做して虐殺した事件。殺された人の中には2歳、4歳、6歳の3人の子供達と2人の女性(内1人は妊婦)がいた。何十人もの村人が竹槍や鳶口、日本刀で子供達を切り刻んだ上に川に投げ捨て、その現場を多くの者が目撃した。犯人は捕まったが、直ぐに恩赦で全員釈放され、その後村人は口を閉ざした。  千葉県野田の普段は農家や工場で働く人々。善良な村人達が何の躊躇もなく、3人の子供達を虐殺できたのは何故か?彼らが無知だったからか?当時、避難してきた多くの朝鮮人を凶暴化した群衆から匿った日本人の警察署長もいた。彼は正しい情報を得ていた為、デマに踊らされることはなかった。限られた情報の中で、危機に瀕した人々の集団は容易にヒステリー状態に陥り、時に凶暴化する。あなた(私)がその集団にいたとして、どのように振る舞えるか?そういう想像力が試される。  現代社会は情報に溢れているように見えて、島宇宙化した領域では情報が偏り、いつの間にか限定されてしまうこともある。気が付けば集団の中で加害者側にいる自分。その可能性を想像し、集団心理にのみ込まれないよう(ノリに流されないよう)、常に個であり、俯瞰的であり、逆張りでいる自分を手放さないようにしたいと思う。  森達也の映画も良かったが、その原案に位置づけられる辻野弥生のルポも読み応えがあった。
[映画館(邦画)] 8点(2024-09-05 22:24:27)
12.  怪物(2023) 《ネタバレ》 
是枝裕和の『怪物』は3部構成。ひとつのプロットを3つの視点により描いている。  1つ目の母親の視点では、保利がとことん歪んでいる。 2つ目の保利の視点では、湊が歪む。 3つ目の湊の視点で、歪むのは誰か?  羅生門形式。そもそも、映画とは他者の視線から見られた世界の風景。世界を捉えようと思ったら、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。それは視線の「反復性」と呼ばれる。  視点によって人物像が違っているのは、主観による視点であるから。それが怪物を生む。湊の視点は不安定で、「それ」が歪んで見えかけるのだけど、自分がどうしようもなくなり、それを受け入れる。そのキッカケが校長のいるところ。結局、怪物を断つ回路は、言葉(世界)ではないところ「非言語性」にあったのだなと。  すべての物語は本来、謎解きである。でもそれは容易には解かれない。だから謎は宙吊りとなり、観ている人の身体の中に「内面化」され、その人のものになる。  「反復性」「非言語性」「内面化」 『怪物』を傑作たらしめているターム。私ならこの3つを挙げる。  「なぜ性的マイノリティを描きながら不可視化したのか?」 それは、映画がその「気付き」こそを描きたかったから。ある人は、最後に二人が死んで違う世界で生き返ったとし、現世の死を以て、制裁が再生産されたと言う。これを「君と世界の戦い」(カフカの『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』)として単純化すれば、ある人は、「君が世界となるべきだ」と見做し、映画は「君は君であるべきだ」として映す。  私は、映画が文芸であるとすれば、映画は「君は君であるべきだ」ということこそ捨ててはいけないと思う。それが優先されなければ、君が世界になる、その世界を描くことだけに過ぎなくなるから。監督は、性的マイノリティーの世界ではなく、「君」を描きたかった。その決意を『怪物』から強く感じる。  彼ら二人は何処に生き返ったのか?ビッグクランチは時間の逆行。実は死んだのは飽和した世界の方だった、というのが私の解釈である。
[映画館(邦画)] 9点(2024-06-19 00:33:19)
13.  生きる LIVING 《ネタバレ》 
黒澤の『生きる』を洗練した感じではある。『生きる』のモチーフはちゃんと引き継がれている。違いがあるとすれば、主役のビル・ナイに志村喬のような切羽詰まった感じがなかったこと、途中で元部下の女性に決定的に気味悪がられたりもしない。  黒澤版『生きる』後半のあのグタグタした葬儀の後の喧々諤々は、列車内の率直なやり取りに変わっている。実は、私が『生きる』で一番感銘したのは葬儀の後のグダグダの喧々諤々なのである。それが黒澤らしさでもあった。  イシグロらしさは何だったのかなと、『浮世の画家』『日の名残り』『夜想曲集』を思い浮かべる。特別な境遇にある人間が彼らの理路によって普遍を語りながら、全く普遍的な共有感が見いだせないような、それでいて、共有の欠落感に共有感を感じてしまうような不思議な感覚。そんな捻くれた感じは完全に抑えられていたように思う。  黒澤らしいある種の分かり易い社会的グダグダ感をより捻れたニンゲン的グダグダへと昇華できればもっと面白かったかなと。でも、率直に素直に感動はした。
[映画館(字幕)] 8点(2024-04-30 22:24:15)
14.  オッペンハイマー 《ネタバレ》 
『オッペンハイマー』は知性についての物語でもある。  オッペンハイマーは高い学識を持った科学者である。量子力学を学び、早くからブラックホールの存在を思考し、その生成条件を理論化、中性子星の質量限界についての計算式を発見する。その功績から、マンハッタン計画の責任者に抜擢され、グループを率いて原子爆弾の製作を実現する。計画の中で多くの人々と社会的関係を築き、複数の女性を愛し、家族を得る。ユダヤ人として、科学者として、彼は彼の正義に基づきロス・アラモスに帝国を築く。しかし、彼は優しく、弱い人間でもあった。詩人にして、文学的、芸術的思考の持ち主でもあった。そういう視線で捉えれば、帝国の内実も見えてくる。戦後、原子爆弾が広島、長崎に投下されたことについて、彼は何を見ていたか、さらに赤狩りの嵐にどう立ち向かったか?  オッペンハイマーの視点、そしてサリエリ(『アマデウス』)的なスクローズの視点。科学者(知性)と元靴売りの政治家(反知性)の対比。知性は「物自体」を正しく把握し、大衆を正しい道に導く。それが西洋的な形而上学の考え方。オッペンハイマー、アインシュタインもスピノザ的な神の信奉者であり、科学こそが知性であり、その手段であると信じていた。彼らにとっての知性こそ、社会性の基盤であった。  しかし、現代は、知性受難の時代。西洋的な形而上学は、相対主義の中でその価値と歴史を見失う。ゲーデルの不完全性定理は数学の、ハイゼンベルクの不確定性原理は科学のインテグリティを根本のところで否定する。現代において、科学は純粋に科学として取り扱われず、反知性、政治家や大衆は、科学者を奈落へと突き落とす。知性は彼を救わない。  私は、映画を観ている間、オッペンハイマーと共に、その時制の揺れと共に、ずっと揺れ、揺さぶられた。映画とは、新たな視点による歴史の追体験でもある。知性を揺さぶる文学的視線である。それにより、私自身を直視させられ、そして私は揺れるのである。社会は揺れるのである。  『オッペンハイマー』は素晴らしい文芸映画である。それは「私」に落下するが故に、私的な解釈を許す。そう、文芸作品とはそういう視線のものであると私は思っています。
[映画館(字幕)] 9点(2024-04-29 11:44:57)
15.  落下の解剖学 《ネタバレ》 
この映画は「おとなのけんか」である(ポランスキーにそういう映画があったが)。夫婦が喧嘩するだけでなく、裁判での検察官と被告、証人、弁護人とのやり取りも口喧嘩のようなもの。言葉尻を捉える子供じみたソレである。そういえば、冒頭にキャストの子供の頃の写真が出ていたなと。 被疑者の女はドイツ人で、転落死した夫はフランス人。裁判ではフランス語の質問に英語で答える。言葉の壁に子供っぽい心理が加わり、共通のコードを持たないコミュニケーション不全が前提であれば、それは言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン!)となる。  言語ゲームとは、言葉と意志が通わないところに起こる本来的な他者との邂逅。結局のところ、彼らの子どもで、おとなになろうとする盲目のダニエルにこそ全能性が宿るラストが象徴的であった。 転落死した男は自殺か他殺か? 彼は落下する。私には、それもダニエルに見透かされたように、言葉を失いながら、言葉を紡ぐしかない作家の子供っぽさ所以の自作自演の典型のように思えた。  『ある言葉の根拠を示そうとして、いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。自分自身で決めたルールのなかで、自分自身を正しいとしているのだから、つまるところ「論理」というものは、すべて「自作自演」となる』 飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」より
[映画館(字幕)] 8点(2024-03-05 19:21:31)(良:1票)
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