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プロフィール
コメント数 170
性別 男性
年齢 43歳
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1.  デジモンアドベンチャー 《ネタバレ》 
20分ぐらいの短編ですがこれ、子供の頃見たら高確率でトラウマになっていたかと。DVDに収録してある劇場二本目の「僕らのウォーゲーム」にも驚かされたが、作者の衝動という意味では、おそらくデジモンとの始めての接触を扱ったこの劇場一本目の方がより危なっかしい。あんなに可愛らしかったデジモンがあっという間に成長し、敵と対峙した際にはその凶暴性を解放するというプロセスの前に無力を晒さざるを得ない兄妹。妹はその恐怖に泣きじゃくり、兄は純粋な力に対して憧れに近い感情を覚える。自分たちの力ではどうにも出来ないものを初めて認識する(してしまった)ことを契機とする、成長/喪失についての物語として非常に良くできた作品だと思う。そうそう、ラヴェルのボレロの使い方もユニーク。
[DVD(邦画)] 8点(2007-03-28 13:17:35)
2.  クレーヴの奥方(1999)
普通に考えれば、何故この世紀末(公開されたのが1999年)にこんな化石的メロドラマが作られたのかと首を傾げざるを得ない。原作は17世紀の小説で、現代に時代を設定しているものの倫理観だけはそのままなので、その貞操観念には苦笑を禁じえないだろう。また感情移入が望めないだけでなく、現代に設定する事で「エデンより彼方に」のような懐古調メロドラマにすらなりえず、さらにこの映画は盛り上がりが予想されるシーンを字幕のみでスルーしちゃう。画面にはキアラ・マストロヤンニが演じるクレーヴ夫人と、その親類や夫、あるいはシスター役のレオノール・シルヴェイラが座りながら/歩きながら会話をするシーンばかりが映る。オリヴェイラ翁よ、そこまでやるか。映画にストーリーという要素が欠かせないのは事実。だがストーリーだけが映画内時間の主役である必要はない。オリヴェイラはストーリーによる映画の起伏を拒否する。メロドラマという形式からここまで自由になった映画は空前絶後ではないか。ある評論家の小津安二郎評に「何を考え、何を言ったかではなく、何かを考え、何かを言うことにまつわる諸々の不自由を突き詰め、考え、そして言うことそのものをめぐっての映画を撮り続けた」とあるが、この賛辞の多くがまさにオリヴェイラにも当てはまり、そこからさらに邁進していくだろう。というのもオリヴェイラの偉大な同世代(ジャック・ベッケル、ジョセフ・ロージー、小津、マキノ・・・・等など)は皆死んでしまったが、オリヴェイラはまだ生きてますんで。オリヴェイラこそは映画史の生きた化石、最長老、八百比丘尼なのである。映画史が1世紀分丸ごと生きた映画監督の名を刻む瞬間はもう近い。 【追記】本当に刻んじゃいました(笑)
[映画館(字幕)] 10点(2007-03-22 21:28:54)(良:1票)
3.  ベレジーナ
テオ・アンゲロプロスがギリシャを曇天と黒のロングコートの国にしてしまったように、ビクトル・エリセがスペインを熱情から詩情の国にしてしまったように、ダニエル・シュミットは「ベレジーナ」でスイスの国旗の白十字を黒に上塗りした。なんていうのは大げさだし、そーやって勝手に影響を受けている自分が単なるアホなのだが、この3人が作る映画は単なる「お国映画」に留まらず、独特な視点を提示している。この点の非凡さと同時に映画としての贅沢さも持ち合わせていて、言い方はあれだが、見たあと非常に得した気分になる(で、その後に「ヨーロッパ映画ってやっぱり深いねー」みたいな感じになるとちょっとマズいわけだが)。まあ、それ以前に「ベレジーナ」は文句なしに面白く、艶のある映画だと思った。うっとりするような反復(画面に見とれて字幕を見逃してしまうほど)が繰り返されながら少しずつズレが生じてきて、そのズレが決定的になった時、スイス最後の一日が始まる。その始め方が、とんでもなくバカにされたというか、煙に巻かれたようなひっくり返しなのだけど、その後の怒涛の展開はさらにぶっ飛んでいて、最後に独立の旗がバッと開いた時が最高潮。鑑賞後の幸福感がたまらない。ハラーショってあんた・・・
[映画館(字幕)] 10点(2006-06-14 18:46:19)
4.  エスケープ・フロム・L.A.
Rock=American Spirit≒映画、ってことなのか?カーペンターの映画を見てから、ストーリーとか映像のチープな部分について突っ込むのは止めようと思いました。それって映画とは別の話ですし。映画としての完成度とかもどうでもいいっす。あの波とかさぁ・・・ここまでやっちゃったら、こっち側も一緒に壊れるしかないじゃないですか!大衆消費文化の申し子、映画。このことを体で理解して作っているに違いないカーペンターの映画は、映画の歴史という巨大なビッグウェーブに対しても、ピーター・フォンダのようにハイテンションでどこか狂ってる。このバランス。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-03 00:27:58)(良:4票)
5.  トカレフ(1994)
子供がゴミ袋の中で発見されるあたりから、この映画は物語をちゃんと進行させることを拒否し始める。この映画が歪んだ社会を描くつもりも、犯人との心理ゲーム(あるいはそこから生じる家族の絆)を描くつもりでもないことはすぐに分かった。いらない物をどんどん削ぎ落とし、最終的には銃に憑かれた2人の男と、そして女だけの世界にしてしまった大胆さ。三者三様の孤独感の中で、それでも力強く生きる決意を見せる西山由海の表情。何かの予感を察知しながらも踵を返さないで祭りへと向かう彼女の後ろ姿は、一種の安らぎすら漂わせていたように思う。それに対して、死へと突撃する大和武と佐藤浩市の二人はその憎悪の形を歪めていく。それは2つの銃がもたらしたものだったのだろうか。だが派手な銃声はそこには響かず、命が削れる音だけが聞こえたようだった。「ソナチネ」からは絶対に見えてこない(ソナチネはまず、死が前提になっている)、生ありきの死がこの映画のラストにはあったような気がした。風車小屋が燃え上がる田園風景を突っ切る真っ赤な消防車が忘れられない。
[DVD(字幕)] 9点(2005-09-26 15:09:10)(良:1票)
6.  老人Z
バブル期の香りが作品全体から漂う。扇を振ってる女が出てるわけでもないし、バブルに便乗した金まみれ男が出てるわけでもない。なんか知らないがとにかくそう感じる。独り暮らしをする寝たきり老人の家で、アンナミラーズの制服を着た女の子が洗濯物を干すシーンに代表される無節操なサービス精神に、あるいはそのことが含まれているかもしれない。そんな時代を謳歌する江口寿史のキャラクターがどことなく哀しく映る。とかいいつつ、はっきり言ってバカバカしい映画だ。楽しけりゃいいじゃん、な終末的なノリが凄くいい。そして大友克洋にかかれば、老人だって「ネオ」にしてしまうということがよくわかる映画でもあった。工場のおびただしいパイプやコンクリート、大友の作品ではこういう無機質のものが主役になる。「あのね、未来ってみんなツルツルに書くでしょ。ぼくはああいうのは嫌いなんです。もっとザラついて錆びていて、油もギトギトしている。だから世界はそこにしかないというか、どこにもないっていうか」。「AKIRA」の背景はこの言葉が全てを物語っている。そして「老人Z」はマンガ「童夢」のチョーさんの皺から始まっている(笑)老人とメカ。プリンに醤油をかけたらウニの味がするようなもんだ。もう、この映画はメカデザインを担当して介護用ベッドにブラックジョークを詰め込みまくった大友の道楽に違いない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2005-04-29 11:02:00)
7.  MEMORIES
前半の2話は、まあいわゆる限界状況サスペンスの典型みたいな話であり、娯楽性にも富んでいて楽しませるがこれらは別に大友でなくとも作れるレベルの作品だと思う。問題は3つ目。大友の作品にはその背景に必ず国家がある。この国家はかなり曖昧だ。全体がみえてこない。ただ、何らかのシステムによって支配されているということはわかる。そして、それは人間による人間の為のシステムであるに違いないが、大友の場合このシステムが突然自己生成を始める。それらは例えばAKIRAであり、暴走した介護用ベッドであったり感情の振幅によって殺戮能力の変化する人体兵器だったりする。これらのシステムは最終的に国家に対して復讐を行うわけだが、この辺が大友作品の痛快な部分なんだと思う。この「大砲の街」はわずか20分ほどの短編であるが、国民が総動員で大砲作りに従事している街の一日という恐ろしい寓話となっている。ここでもやはり彼らは何のために、そもそも誰に対して大砲を打ち込んでいるのか分からない。で、やはり大砲を作るという「システム」に対しては徹底的な描写(それは蒸気の噴射や計器の振れに至るまで!ここを見ないと大友を何も見ていないのと同じ)をこなしている。この短編ではシステムの描写のみで話が終わるが、人々は完全にシステムに組み込まれ、彼らを統治しているであろう王様を疑うことすらしない。しかし実のところこの大砲を発射する王様が本当に支配者なのかも定かではない。彼でさえシステムの中に組み込まれた一要素だと言える。そんな機械のような人間たちと対照的に、生き物のように敵国に向けて砲弾を飛ばす大砲。この終末観は、アナログへの偏愛ともいえるほどの執着でもってただのメルヘン世界で終わらせない鋭さを纏っている。街への爆破を予感させるラストのサーチライトとともに。点数は1話7点、2話7点、3話10点という配分を平均したもの。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2005-04-27 15:54:29)(良:1票)
8.  初恋のきた道
「アジアンビューティー」ことチャン・ツィイーです。ヨーロッパが嫉妬する黒髪です。その彼女を世界に知らしめた出世作がこれ。チャン・イーモウがまるで彼女を「発見」したかのように、カメラは彼女を追っていきます。多少のバランスの崩れは無視。ファインダーに捉えられた未来のアジアンビューティーは完全無欠の田舎娘を演じきり、目がくらむほどの極彩色の風景に溶け込んでました。俗っぽい審美眼は置いとくとして、純愛映画に欠かせない、古き良き時代の設計は完璧だったと思います。ただ、映画としてはつまらんですね。まったく映画に無駄がないから。チャン・ツィイーの魅力もノスタルジックな田舎も全部計算されてる感じがします。だから想像のつく魅力でしかないんです。ゴダールの映画におけるアンナ・カリーナを見るとドキッとする瞬間が何度もありますが、これは計算できるものではないと思います。最近観たものだと「子猫をお願い」のペ・ドゥナにもそういう瞬間がありました。この映画はチャン・ツィイーを愛玩化することで、カメラの先にある意外性を排除している気がします。ただ一ヶ所だけ、料理を作っているシーンではチャン・イーモウの愛玩から解放されているように思いました。「紅いコーリャン」のコン・リーも、やっぱり料理を作るシーンがいいんです。蒸したギョーザを手で触るシーンがこの映画の白眉ですね。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2005-04-21 07:45:12)
9.  シャンドライの恋
ベルトルッチ凄すぎるよ。「暗殺の森」がよくわからなくてそれ以降、彼の作品を見るのはやめてたけど、バカだった。「暗殺の森」ももう一度見なければ。この人は間違いなく映画作りの天才。映画を設計するってのはこういうことなんだな。ただでさえ素晴らしいあの螺旋階段の屋敷を、スーッと抜けるように動くカメラの曲線的な動きは繊細なガラス細工のよう。で、そのカメラがシャンドライ(髪型が気に入った)と一緒にスーッと上っていくと、あの赤を基調としたピアニストの部屋が現れる。長い1ショットがもうそれだけで映画になってる。凄い。あと部屋。シャンドライがピアニストの靴をベッドの下から拾うシーンがあるのだけど、ここの光線がやばい。埃まで誇らしい。そんな事まで言いたくなる。室内撮影の制限を完全に利点にしてしまっているのです。凄い。そして衣装や文様。この映画では細かい模様をメチャクチャこだわっている。映像にもあからさまに入れている。一度見た人は今度はもっと画面の近くに寄って見るべし。遊び。映画に遊びを盛り込むヌーヴェルバーグをこよなく愛している(に違いない)彼ならではのジャンプショットやスローモーションや早送り。あるいは同じイタリア映画の「特別な一日」を髣髴とさせる洗濯物をしまいこむ風景。ベルトルッチのカメラは速い。画面の切替えとかそういうことじゃなくて、コマの連続性が、まあサッカーで言うならACミランのカウンター攻撃のように合理的なのにそこには即興的な想像力が秘められている・・・よくわからないけど、そんな感じ。ミランのサッカー見てください。対の音楽。延々と反復し続けるアフリカの民俗音楽とクラシックピアノがまさにドラマそのものとなっている。こういう映画にセリフや具体的な物語はただの雑音にしか聞こえないだろう。ラストは当然セリフなし。印象的な青みがかった早朝のローマの町並みに佇む夫こそドラマの終焉。映像美っていうか彼の場合は映画美だな。凄い。 (追記)と、大絶賛したものの冷静に考えて10点はあげすぎか。なんか、バカみたいに高揚してたな・・・
8点(2005-03-28 12:28:33)(良:1票)
10.  こうのとり、たちずさんで
この映画でのテーマは多分日本人にとって一番理解しにくい部分の一つだろう。島国である以上、国境の存在はかなり曖昧だ。県境とはわけが違う。「あと幾つ国境を越えたら自分の家に帰れるのか」なんて、日本列島に住む人間が叫んでたら「頭、大丈夫?」と言われるのは確実だ。しかしこの映画ではこのセリフがそのまま現実としてある。ギリシャを含めたバルカン半島諸国は、その国境線を何度も蹂躙され、あるいは侵攻して、という歴史を繰り返して今の国土となった背景がある。だから国境線近傍は当然のことながら常に緊張している。そんな場所が舞台の「こうのとり、たちずさんで(この邦題、いいなあ)」はアンゲロプロスが国と国との間にある数え切れない襞に入り込んで、そこから見つめた人間ドラマである。これはもはや自分の理解のレベルを超えている。こういう場所が現実にあるのだと想像するしかない。マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モローという大物俳優が出ているがあの重たく暗いコートを着こんで、すっかりアンゲロプロスの子供になっている。そして映画の内容もこのコートのように暗く重たく、あるいは静かで冷たい。主人公は珍しく普通の人だ。彼に個性を持たせないことで、我々に直接に国境の住人達の感情を伝えている。必死とか諦めという言葉はここでしか意味にならないかのようだ。そしてあの結婚式。悲しさと美しさの間に立つアンゲロプロスにとって、川を挟んだ新郎新婦そして家族とその仲間たちは希望であって絶望なのか。頭を抱えるしかない。
[映画館(字幕)] 8点(2005-02-28 07:55:32)
11.  パルプ・フィクション
個人的にはもっとも愛着のある映画だから客観的評価は不可能。一体何度見たことか。徹底したチープさもここまでくればある意味芸術。サミュエルLジャクソンが、「Hmm, tasty burger!」って言ってむしゃぶりつくバーガーは、マジでうまそうだ。おそらく生粋のjunk food junkieであろうタランティーノだからこそジャンクフードをうまそうに食べる角度とか構図を撮れるんだろうなあ。ユマ・サーマンとジョン・トラボルタがデートしたレストランでの食事もホント高カロリー低栄養って感じで、「ナマ焼け」って何だよ(笑)とは思うんだけど、この辺もアメリカ人の偏食度合いがよく出ている(ような気がする)。食べ物だけでも十分に語れるこの映画は、どうでもいいことやタイトルのようにチープな話の集合となっている。「どうでもいいこと」を見る目は人それぞれ全く違うけどタランティーノからはそこに愛を感じさせるぐらいだから、タランティーノの映画を語るとつい顔がほころぶし声もうわずってしまう。しかも冒頭のエゼキエルがどうとかっていう話、千葉真一の映画がアメリカで配給されたときに配給側が勝手につけた序文の引用なんだって!?降参です。ちなみにこの映画はビデオで見たほうがいいかもしれない。スクリーンで見たとき妙に照れくさかったんで。
10点(2004-12-10 13:02:05)(良:1票)
12.  DEAD OR ALIVE 犯罪者
屈指のバカラスト。ヤクザ映画史に残る数分間だろう。それ以外で覚えているのは哀川翔の変な声と杉田かおるが爆死するシーンだけ。これ、映画館でやった時観客の反応はどんな感じだったんだろう?凄い気になる。
[DVD(字幕)] 7点(2004-11-30 16:29:42)
13.  ボスニア
怪作(怪物のような作品の意)「アンダーグラウンド」のラストの字幕<この話には続きがある>という不穏なメッセージ。バトンを受け取ったボスニアの詩人でもある監督が描いたボスニアの内戦は、その不穏が筆舌に尽くしがたい程の絶望に変換されたものだった。いや、戦争の恐ろしさや狂気を描いた作品は今ではどこにでもある。そんなものまでも消費物としてポップコーンを飲み込むようにしてやがて排出される運命にある現状で、「ボスニアを東京まで拡大せよ」というメッセージを受け止める覚悟はなかった。「いつまでも平和ボケしていられると思ったら大間違いだ」と釘を刺されたような気分だった。反対に「ボスニア」を直接に体験する登場人物たちは確実に生きていてそして何かを勝ち取る為に死んでいく。生き長らえたとして残るものは・・・・全編通じて流れるジプシー音楽の調べは彼らの青春であり諦念でもあった。それらを包み込む「民族と友愛のトンネル」の暗闇と円環構造になっている物語がこれから続くであろう世界規模の内戦を予見している。アメリカ同時多発テロ後しばらくして見ただけに終了後はどうしようもない気分になった。とんでもないものを見てしまったという感情と、ユーゴ問題すら気がつけば忘却のかなたにあったということ。そして何よりも日本でこの映画を見たということにショックを受けた。にもかかわらず、この映画が自分にとって愛すべき映画になっている。それはこの映画にこもった魂があまりにも切実だったから。
[映画館(字幕)] 9点(2004-09-05 01:50:36)
14.  ユリシーズの瞳
映画誕生100年目にして出来た唯一無二のこの作品、一回見ただけでは何の判断も下せないでしょう。寄せては返す波のごとく行ったり来たりしながら、ハーベイ・カイテルが演じた映画監督Aとマナキス兄の現実(旅)と夢(追憶)に少しずつ近づく必要があります。映画はエンターテインメントだ、とはよく言われることでありますが、それと同時に抑圧から生まれる純度の高い結晶としての映画の存在も忘れてはならない。最初は何のけがれもなかった映画へのまなざしは100年を経て今の姿となりました。古典となった映画を今でも見るのは、映画にこびりついてしまった手垢に触れたくない時があるからでしょう。失われた無垢のまなざしを求める時空を超えた旅は歴史の渦に巻き込まれ、悲しすぎる惨劇でもってラストを迎えます。映画の敗北か、それとも第2章の始まりか。アンゲロプロスのまなざしは、私には遠すぎます。
[映画館(字幕)] 9点(2004-07-25 01:17:27)
15.  大地と自由
この一作でケン・ローチに活目した。金曜ロードショウが映画の源だった自分にとっては、危ない時には誰かが助けに来て、運命を分ける選択があれば正しい方に動くのが映画らしさだと思っていた。当然ながらそこには人間臭さはない。しかし、ケン・ローチ映画からは嫌というほど臭う。世知辛い世の中を忘れるためにエンターテインメント映画を見るのはいい。しかし時には世の中に対して余計なおせっかいをかけたいことがある。「戦争反対!」とか「麻薬撲滅!」とか「少年犯罪云々」といったように。そんな時こそケン・ローチの映画は刺激的な薬になるに違いない。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のような自分からは遠すぎる悲劇と違い、限りなく近くに悲劇を持ってくる。そうなると「戦争反対!」とか「麻薬撲滅!」といった話では解決できない複雑な社会構造が見えてくる。この視点をひたすら冷静に、時に冷徹になってカメラを向けてくるのがケン・ローチだ。
[ビデオ(字幕)] 8点(2004-07-09 01:11:43)(良:2票)
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