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パブロン中毒さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 914
性別 女性
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自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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【製作年 : 1980年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ミュージックボックス 《ネタバレ》 
…ここまでやってくれれば、何も言うことはないです。 コスタ・ガブラス、あんたはすごい。 気持ちの弱い人や落ち込んでいる人は見ないほうがいいと思いますが、サスペンスとしては最高の出来です。抑えた演出や編集がニクい。やっぱり社会派作品はこうでないと。 パパが秘書の黒人女性を「ジプシー」と最初から呼んでいることで、なんとなく「クロ」であることは予想がついてしまいまして、2人目の証人の様子でもって「写真を直視することもできないほど怖い」ということなどから、「クロ」であることは容易に観客には割れてしまいます。スカーのある男の件も、伏線が少ないので「たぶんそういうことだろう」とは想像できてしまいます。 するとそのあと、事実が判明したときに娘がどういう態度に出るのか、ということが主な関心事になります。私が想像していたのとは違う結末でしたが、もちろんこのほうがすっきりします。 それにしても、ミシュカという男の凄まじさ、前半生にやったことも鬼畜なら、後半生もそれに引けを取らぬ鬼畜ぶり。 …ミシュカは生まれ変わったつもりだったのです。まっとうに生きようとした。 だから、ミシュカであることの動かぬ証拠をつきつけられても、認めない。生まれ変わって、別人になったのだから。 けれど、昔の仲間に脅されて殺してしまい、なおかつ素性がバレて戦犯で起訴され、どこまでも「ミシュカ」が追ってくる。 追い詰められたミシュカの取った行動は、「家族に頼る」と「ミシュカを否定する」であって、そのエゴイズムはとても醜く露骨に描かれています。 そして、私がぞっとするのは、孫に自分の名前からとって「マイキー」とつけていることだ。この子の本名はおそらく「マイク」か「マイケル」でしょう。 鬼畜殺人男の名前をつけられてしまった孫。なんてことだ。 マイキー役はなんと、子役時代のルーカス・ハースだったのですね。今ではラリリ演技で活動中。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2011-04-18 21:18:55)
2.  ハーヴェイ・ミルク 《ネタバレ》 
84年のアカデミー賞ベストドキュメンタリー受賞だそうです。 ハーヴェイの生い立ちに詳しく触れていないとか、彼の政治活動について通り一遍の説明しかしていないとか、彼の恋愛関係について全く触れていないとか、金銭問題はなかったのかとか、ドラッグはやっていなかったのかとか、消化不良の点はいっぱいあるが、まあこれは殺されてしまった哀れなハーヴェイへの追悼映画、ということである程度美化されても仕方ないのであろう。美化することで、実物よりもつまらないハーヴェイ・ミルクになってしまったのではないだろうか。 申し訳ないけど私はハーヴェイ・ミルクよりもダン・ホワイトにほうに、激しく興味が湧く。 私なりにダン・ホワイトの犯行を分析してみますと、これは「失敗した無理心中」ですね。 ダンは市長とハーヴェイを道連れに死のうとしたのです。 彼は「世界が終わった」と感じ、1人で死ぬことができずに無理心中しようとしたのだった。 見るからに虚勢を張っていて、建て前ときれい事しか言えず窮屈で余裕のなさそうな、まさにコロンボドラマの犯人役に出てきそうなダン・ホワイトにとって、何が「世界の終わり」なのかというと、「家庭の崩壊」です。 具体的には、妻から離婚を迫られたのです。 理由にはいろいろな可能性があるが、たとえば、言いなりの条件で離婚に同意しなければ、妻への暴力について被害届を出すと脅されたら、元警官のうえ有名人である彼は相当追い詰められたのではないか。 妻に捨てられたという事実は、ダン・ホワイトにとって決して他人に知られたくない恥部なので、自ら語ることは絶対になく、こうなった以上は妻も隠すでしょう。 実際にダンは85年に自殺したそうですから、もともと「自殺志向」だったのです。 また、ダンはハーヴェイ個人を嫌っていたわけではないと、私は思う。「自分に対していつも誠実(オネスト)に接してくれた」と言っている。 けれど、学歴でも収入でも人気でも〝恥ずべきゲイ〟であるはずのハーヴェイより劣ることになったとき、ダンが唯一勝てるものだった「ファミリー」が崩壊して、彼の中で「世界」は終わったのです。たぶん。 ダンの妻がインタビューに応じたこと自体が不思議であり、なにか自分の「アリバイ作り」的なものを感じるし、妙に落ち着いていて怖かった(分かる人は分かるよね)。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-03 15:47:40)
3.  アグネス 《ネタバレ》 
ジェーン・フォンダが出ていれば、それはおおむね駄作ではない。 美人で知的で金持ちの生まれなのに、なぜかこきおろす気にならない。 私はジェーン・フォンダ好きなんだよなあ。 プライベートで話すときはまるで大学教授のような話しかたをするし、セクシーなアメリカ人女性なのにインテリという変り種。シャロン・ストーンもそうだけど。 さて、「相手の男はいったい誰なのか」という興味だけで1時間半引っ張ったあげく「不明」というふざけた回答の本作だが、やっぱり「不明」にするしかなかったかもなあ。 「不明の男」は修道院近辺をうろついて歌を歌って注意を引き付け、秘密の通路から納屋に現れたアグネスをレイプした。なんだそりゃ。 …これは、シスター・ポールに仕組まれたということですね。シスター・ポールも生前にその男を見たとアグネスは言っている。 50年間修道院で過ごしたシスター・ポールは、80過ぎて自分の死が近づき、哀れなアグネスを修道院に埋もれさせたくないと思ったのだ。 秘密の通路をアグネスに教えたのは、シスター・ポール。死の床で、アグネスだけに分かる何かをつぶやいたのは、「不明の男」との密会を導く合図だったに違いない。 シスター・ポールは、生前に「不明の男」と何らかの接触をし、アグネスを誘惑するよう頼んだのだ。 死にかけた尼さんのくせになんでそんなことを、と誰もが思うだろうが、死にかけた尼さんだから、荒療治を用いても、アグネスを修道院から出したかったのだ…と私は思う。 しかし、シスター・ポールの善意は思わぬ悲劇へ発展し、妊娠と子殺しを招き、そして結局アグネスは死んだ、のだと思う。そんな感じのラストだった。 すべての原因であるシスター・ポールは死んでいる。相手の男は不明。子殺しをしたアグネスは知的障害。 さて、誰を責めたらいいのでしょうか。責める相手が居ませんよね…という話。 佳作だと思うが、教会への配慮から、色々な意味で遠慮がちな作品になってしまっていると思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-01-29 23:57:42)
4.  パッション・ダモーレ 《ネタバレ》 
〝好き〟の反対は〝嫌い〟ではなくて〝無関心〟である。 なんたってフォスカが登場するまで30分も観客をじらしているんですからね。 同じくジョルジョもじらされて、〝関心〟を持っただけでなく顔を見て叫び声を聞いたら〝大嫌い〟になってしまいます。こうなればもうこっちのもの、フォスカの勝ちです。 そのブスだブスだと評判の彼女、そんなにブスとは…つまり、感動するほどのブスには見えなかったのです。美醜感覚の違いでしょうか。 確かにアントネッリのほうがどうみても美人だし、フォスカはげっそりして、目は落ち窪み、出っ歯ではあるが…わざわざ見に行くほどのブスではありません。ちょっと太って歯を治せば充分イケる顔じゃないですか。 なんというか、30分も客を待たせるのなら、もっと感動するほどのブスを見せてもらいたいんだ私は。 ま、それはともかく、フォスカ登場後の展開はホラー映画の要領で進み、なかなか驚かせてくれます。ここまでする女は映画界広しといえどもフォスカの前にフォスカなし、フォスカの後にフォスカなしと言ってよいでしょう。もうほんとうに思い切りが良いですこの監督さん(不遇だったらしいけど)。 本筋と関係あるのかわかりませんが、冒頭のクララの部屋シーンで私はぎょっとしたのですが。…鳥カゴのある部屋に猫を入れるなよ!!鳥飼いにとっては絶対の禁忌なんですけど。実際に喰われるかどうかという問題より、捕食者と同室になるだけで小鳥にとってはすごいストレスなんですから。もしかしてクララの性格を暗示する描写なんでしょうかねえ…。それとも単なる当時の風習なのか、作り手が無神経なのか、よくわかりません。 ともかく「ハンサムで優しいということはそれだけで罪だ」とかとかとか、イタリア映画らしい意味深なセリフもいっぱいですし、なかなか楽しめます。最初の30分をガマンすることです。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-05-18 21:25:31)
5.  バックマン家の人々 《ネタバレ》 
あー、なんですな、コレを語るには下世話な言葉の連発になってしまいますので、嫌いな方はパスしてください。 一応見終わって何を思ったかといいますと、「子供をもつのは素晴らしいことなので、無計画にどんどん作ろう!」ちゅーことですね。 原題は「親業」ですが、その前に、「作る」ちゅー過程がなければならんでしょうが。 そこのとこはどうなっているかというと、老いも若きもとにかく避妊はしない。 この作品世界では、子供というのは「ハプニング」でできることになっています。 計画出産をしようとしている唯一のカップルはおかしなことに、妻のペッサリーに頼っていることになっていて、夫のほうが妊娠させたくない側ですから、ペッサリーの穴に怒るより、あんたがコンドームをすればいいだけの話でしょうが(怒)。ペッサリーとコンドームと、どれだけ装着の手間が違うと思っているねん。こんなヘンな話はないので、妻がわざと穴を開けたことにしたいためのご都合エピソードでして、バカバカしくて見てられない。 そしてまた、この唯一の計画出産カップルは、「計画出産」というポリシーを不自然なものと「気付いて」「転向」することになっています。…あのなあ。 私は「ビューティフルマインド」とか「アポロ13」とかけっこう面白いと思ったんだよなあ。 冒頭だけ無意味にウッディ・アレンの真似を入れてみたりしてもコレは全くダメ。 そらあーた(ロン・ハワード)やアメリカ人(の大部分)がハプニング出産礼賛者で、若い頃にワンワンニャンニャンやって無計画に子供を作っているから少子化とは無縁なことはよくわかったが、そんなものを「ねっ素晴らしいでしょう」と押し付けるのはやめてもらいたい。 「神さまにお任せする」ということで無計画に子供を作っても、まともに育児をしてもらえない子供が増えるんじゃないのかい?それも神のご意思だからOKなのか。 そして声を大にして言いたいけれど、「なんでそんなにコンドームが嫌いなんだよ」。 使えよ、コンドーム。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2010-03-26 17:40:07)(笑:1票) (良:1票)
6.  鬼ママを殺せ 《ネタバレ》 
ダニー・デビートはさあ…なんか、撮るほうには向いていないような気がしますね。 役者さんとしてはもちろんおいしいキャラで、「撮ってください」と言わんばかりの人物です。 だが「おまけつき結婚生活」といいコレといい、どうしてここまで不発にしてしまうかねえ、と私は出演者に同情してしまいます。 ビリー・クリスタルという、観客を笑わせないほうが難しいような役者を得ながらこのていたらくだ。…クリスタルは相当がんばっていました。こんなダメダメな脚本でも、全力投球していたと思います。なんだかスゲーかわいそうです。 だいたい、「ママを列車から捨てろ」という題名と内容が全然合っていないじゃないか。 あそこでは、殺しかねたママが絶妙のハプニングにより列車から転落するべきなのです。 その後は、転落したママの存在を世間から取り繕っていくことにより、新たな笑いが取れるじゃないですかあ。それで、実際にはママは死んでいなかったということでもいいし、何らかの偶然でママの死体が運ばれて絶妙のタイミングで発見される、ということでもいいのです。ママの死体が偶然ミンチになっていてソーセージになって2人の口に入る、というグロいオチでもかまわないのです。 …とにかくなんのオチもないこのシナリオで、いったいどうするつもりだったのかダニー・デビート。 冒頭の複線はなかなか良くても、いつもまとめられない。「不発」という言葉はカレのためにある、ような気がするのだった。もうカントクはしないほうがいいと思います。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2010-03-11 17:52:18)
7.  眺めのいい部屋 《ネタバレ》 
眺めのいい部屋=満たされた人生、はあそうですか。良かったですね。 というような気の抜けたコメントしか残らないけどこんなことでいいのか。 もしかすると、もしかすると、もっと深いウラがあってしかるべきなんじゃないのか。 ルーシーは人生最大の失敗をしたのかもしれず、ああ~セシルと結婚しとけば良かったのにねえ、この5年後には可哀相な彼女は…てな噂話の途中で話が終わったようなこととかさ。 それでも一時「満たされれば」よくて、それが人生のヨロコビなのじゃ、ということを言いたいのでしょうか。イギリスの話なのに? かわいそうなシャーロットと、もっとかわいそうなセシルは、所詮誰かの「脇役」として生きればいいじゃん、というような扱いなんですけど、そんなんズルいんじゃないでしょうか。 やっぱここで話が終わるのは脳天気に過ぎるよなあ。 セシルいいじゃないですか。もともとすっごく好きな相手じゃなければ、情熱が冷めたとき相手にうんざりするということが無くてすみます。それに彼のほうは誠実でルーシーのことを好きなわけですし。理想的な結婚相手だと思うけどなあ。だってどんな相手と結婚したって数年後には、夫婦の会話の大半は事務連絡とか事務折衝になるわけですから、なまじ情熱的になった相手となら、うんざりする度合いもUPします。生活はルーティンですが、情熱は違います。 そして、どうも作り手はあんまり主役二人に感情移入しているようには思われません。私の想像では、弟のフレディに自分を模しているのではないでしょうか。フレディばっかりいいとこどりされている気がします。 ところで私の頭の中ではヘレナ・ボナム=カーターといえば猿、というヒドいことになっているので、いくらなんでもイギリス文芸作品に出たのなら(そして猿顔だったとしても)そのあと猿を演じるべきではありませんでした。役は選ばなくては。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2009-11-19 15:02:16)
8.  モーリス 《ネタバレ》 
西欧文化圏において同性愛とは常に「神との関係」で語られるものであり、この作品もちゃんとその枠内で語られています。まっ日本人にはいまいちピンと来ないのはそのせいだしある程度仕方のないことですよね。 なんたって人体は「神の宿る神殿」なんですから、なんと美しい表現なのかと感動しますけれども、そういうことがピンとこなければ「モーリス」を見てもなんだかなあ、というふうになります。 私だってそうなんですけど、まー、そんな自分でも「神」との関係でこの二人が散々悩んでいることは知れます。「彼らにとっての神」とは日本人には理解しがたいものですきっと。 さて、最初に火がついたほうのクライヴは「燃えやすく冷めやす」かったわけで始末が良かったのですが、「後から火をつけられた」ほうのモーリスのほうが、「燃えたら最後」冷めない状態になってしまったわけです。皮肉な感じです。 そしてあまりにもわかりやすい展開でもって「身分も性別も越えて」スカダーと結ばれるのですが、私はいつも男性の同性愛関係について思うんですけど「それは〝愛〟なの?」。 男どうしの同性愛って、「性欲」とどう違うのか?セットというより、イコールじゃないのか?中には例外もあるでしょうが、愛=セックスというよりセックス=愛、というふうに私には見えてしまう。そしてモーリスとスカダーもまさにその例ですよね。 彼らはこれからフランスかイタリアにでも行って、しばらくは仲良く暮らすのでしょうが、二人には「社会に対するカップルとしての居場所も責任」もなく「子供の育雛」を共同で行う目的もなく、「共に神に仕える仲間」でもないわけです。そんな中で関係を保ち続けるほど、普通の人間は賢くも強くもなくて、だから頭のいい誰かが用意して推進したキリスト教の神はかの地で「機能」し続けているわけで、クライヴはそのことに気がついたわけです。私は二人の先行きは見えていると思います。 なので、この時点で物語が終わってしまうことはある意味ズル…と私は言いたい。 あと、難を言えばウィルビーのようにまつ毛まで金髪の色素の薄い俳優って、情感に欠けて見えるところがソンですね。お人形感があるので、こういう情感重視の作品の重要な役柄には向かないかも。 ちなみに、この日のシネフィルイマジカチャンネルの予定は「モーリス」の次が「ブロークバックマウンテン」。…。わかりやすいプログラムだよね。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2009-11-14 16:00:31)(良:1票)
9.  刑事グラハム/凍りついた欲望 《ネタバレ》 
02年のブレット・ラトナー監督作のほうを先に見ていたために、あまりにそのまんまで役者が違うだけ、というシーンに思わず笑ってしまいます。つまりはラトナーがまんまで撮った(部分が多い)というだけのことですが。 もちろん、ラストは違いますけど、これはこれでリアリティを重視した結果であって、その件だけじゃなく実は私はマイケル・マンのほうに軍配を上げたいと思ったです。変ですか。 まあまず、レイフ・ファインズをフランシスに配したことが…比べてみてはじめてわかるラトナーの通俗さ、というか志の低さの最たるものだったことだなあ。 ラトナーは通俗メロドラマが得意であって、それはそれで楽しいものなんですが、マイケル・マン作のほうを見てしまうと「ダメだファインズでは」ということがはっきりする。…かっこよすぎるじゃんレイフ・ファインズじゃ。 んでリーバとのシーンなんかはほとんどおんなじなんですけど、作り手が違えば違うのでして、「明らかに醜い」役者を配したことによって、リーバとの一夜が明けたあとのフランシスの涙の意味が観客にちゃんと理解される。ああ、カレはその醜さゆえに己の肉体が他人に愛されることなんて想像もできない人生を歩んできたんだなあ、と。んでまた戻りますけど、ファインズではこの味が出せなかった。だってそこそこかっこいいんだもの。ここらへんはマイケル・マンの圧勝だ。 残る問題はピーターセンなのかもしれないが、意外とマッチョではないうえかなりのO脚だったカレは、今では立派なメタボおやじとしてCSIドラマの専属と化しているのだが、「顔」以外の要素がマイナスばかりの主役ということになるわけだが…可も無く不可も無くとしておこう。今回は完全な脇役だと思う。 マイケル・マンがピーターセンを起用したのはもしかして、ヒーロー然とした役者がイヤだったからかもなあ。ぶよっとしたボディにO脚って、アメリカの男優じゃなかなかいないからなあ。…なんかまとまらないけど、ラトナーのは「物語」としてはよく出来ている、マイケル・マンのは説得力があるような気がします。比べて見ることをおすすめします。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2009-09-03 16:11:27)
10.  終わりなし 《ネタバレ》 
日本人にはほとんど発音できないし覚えられないという気の毒な名前の監督ですな。おかげで、なるべくならこの人を無視して通り過ごしてしまおうなどと思ったりしないでしょうか。 そんなものぐさは私だけでしょうが、この作品は日照の少ない国らしい独特の暗さが炸裂していました。 ほどよく日が当たれば人々は笑顔になり、あんまり日が当たらないとへの字口になる。 あんまり日が当たらないだけでなく、暖房しないと生命の維持ができないようなところに住むと、とても険しい顔になってきます。ポーランドというところはこの当時政治状況も悪くて、男も女も人はみなとても険しい顔をしています。私はそれがなにより怖い。 その険しい顔の男女しか出て来ないこの作品では、二人の女が夫を取り戻そうと四苦八苦します。 1人は生きた状態で夫を確保できたけれど、たぶん心は取り逃がしてしまったのでしょう。 もう1人は夫を取り戻すために自分があっちの世界へ行ってしまう。 この話では、弁護士秘書以外の大人も子供も男も女もそれぞれの人が私的な欲望だけで動いていて、それは最後までそうなのです。 しかも、死んだ人間までそうなので、アンテクの亡霊はこういった場合にお約束の「妻子の幸福を願って」いるのではなくて、妻を呼び寄せようとしているように感じられる。そして?マークとか突然のエンジンストップとか黒い犬とかで死人が現世に直接作用してしまうという特異な展開により、ウラはアンテクの存在を信じてしまうのです。 アンテクの霊が存在することを確信したからこそ、自由にコミュニケーションが取れる状態にするためには自分がそっちに行くしかないという選択をすることになるのです。 「社会のため」「組織のため」「友人のため」「子供のため」とかいう「自分以外の誰かのため」という行きかたを全部捨てて、ウラはアンテクのところへ行くので、ひたすら個人的な目的を達成したといえる。 ウラが子供を捨てたことも充分に意外ですが、死人が〝善人〟にならずに私的な欲望のために動くというのも洋の東西を問わず常識を裏切っていると思います。私は観客を裏切ってくれる映画が大好きなのだが、コレに関してはどうも喜べないイヤ~な気持ちで終わりますね。所詮は凡人なので、「死んだお父さんは、妻子の幸福を願い見守っている」と思いたいのです。  
[CS・衛星(字幕)] 7点(2008-12-24 19:05:54)
11.  テンダー・マーシー 《ネタバレ》 
いわく言いがたい傑作です。 他のレビュワーさんがおっしゃるように、大したことが起こらない=つまらない、というような見方もありましょうが、私にとっては「そこ」こそがこの映画のツボである。 ここには、必要以上の対立もなく、必要以上の希望も絶望もなく、人々は神の慈悲に委ねて淡々と日々を生きているのです。激しすぎる愛や暴力や死別の悲しみは、ここでは「過去のもの」だからなのです。そのために、私好みの大変繊細な抑制のきいた演出がされています。 壊れた男マックが、偶然拾われたモーテルで小さな幸せを「発見」していく過程は穏やかで美しい物語です。彼が過去に知っていた幸せとは、もっとデカくて絶対的な幸せだったからです。 そこに、次から次にマックの「過去」が追いかけてくる。けれど、「小さな幸せ」の味を知ったマックは、「もう少し生活がラクになる程度」の望みしか抱かない。もう一発当てて、返り咲いてやる、というような野心は持たない。実に正しい態度です。 娘が会いに来ても、鳩の歌のことを忘れたと嘘を言います。この理由ははっきりしませんが、もう娘にとって自分は必要ないから、という意味ではないだろうか。今さら父親に期待を持たせないほうがいいということなのか。 色々なことが、緩やかに好転し、マックは洗礼を受けます。主は自分を見捨てていなかったと知ったからです。 しかしマックが過去にしたことがすべてチャラになっていたわけではありませんでした。娘は、父親の不在に傷ついて育ったため、ちょうど出て行った時のマックと似たような男を好きになってしまいます。酒飲みで、ミュージシャン崩れで、離婚歴があって、自分よりずっと年上の男です。この原因は元を辿ればやはりマックにあります。 マックは娘の死を受けて、神の慈悲を疑います。自分のようなダメ男を生かして、なぜ娘を奪ったのかと。 そして、マックは受洗したばかりの自らの信仰を維持していけるのだろうか。というところで映画は終わるのです。ラストのソニーとのフットボールシーンは、それでもマックに残された「小さな幸せ」の存在をあらわしている。 こういう抑制のきいた映画をもっと見たいですね。 カウボーイハットの中にはハゲがなくてはならないのは必然です。ロバート・デュバルとサム・シェパードは甲乙つけがたいベスト・カウボーイハッター(変?)だ。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-25 13:53:34)
12.  遠い夜明け 《ネタバレ》 
高校生の時、同級生の女子が父親の仕事の都合で南アフリカのヨハネスブルグへ行くため退学した。今思えばそのころビコはもう死んでいて、マンデラはまだ刑務所だった。 彼女のためにまわってきたサイン帳に「むこうで名誉白人扱いされても思い上がってはいけない」と迷わず書いた。私は生意気で血の気の多い意地悪な高校生だったので。 私と南アフリカの接点はそれしかなかったのだが、この作品を見ていろいろ調べたり考えることになった。 この映画は、マンデラが大統領になる前の作品だという前提で見なければならないだろう。 また、マンデラとビコの対比について考えざるを得ない。 マンデラが27年間も殺されなかったのになぜビコはあっけなく殺されたのか。 マンデラは部族の長の家系だから、日本でいったら皇族に近いだろう。皇太子がレジスタンスの指導者になって逮捕されたら、殺すのと人質にしておくのとどちらが有効か。そういうことなのではないか。 いっぽうビコはどこの馬の骨かわからない貧民街生まれ。 エンディングの獄中死亡者名を見ながら、ビコが死んでマンデラが生きのびた意味を考えていた。「殺す」のが当たり前であって、利用価値のある者だけが例外的に生かされたのだ。 そしてビコはたぶんそのことがわかっていて、「なるべくならあまり早く死なないほうがいいけれども自分の場合はいずれ殺されるだろう」という前提のもとに活動していたとしか思えない。そして死んだ場合には、それが運動のために「価値ある死」になることを望んでいた。 逆にマンデラは、「自分が死なないこと」に全力を注いで獄中を生きたのだと思う。 結果的に、両者とも正解だったことを歴史が証明した。 ビコたちが命を捧げた戦いに一応の勝利をおさめたというのに、「エイズ」という新たな敵が南アフリカを滅ぼそうとしている事実は皮肉である。 映画の構成としては、冒頭で公権を剥奪されたビコの不自由さを第三者的に見せておいて、後半でウッズが同じ立場に立たされてはじめてビコの気持ちを知るあたりなどうまい。もう少し、ウッズ家以外の白人社会の生活風景を描いて、黒人社会との差を見せるべきだったか。ビコの拷問シーンをカットしたのは正解。デンゼルは出番少ないが、ラストのウッズとの電話シーンがビコ役のすべてを決めた。デンゼルは確かにビコだった。リチャード・アッテンボローの勇気に敬意を表す。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-20 20:19:57)(良:2票)
13.  シー・オブ・ラブ 《ネタバレ》 
テンポはそこそこいいのだし、脇を固める刑事たちも豪華なのだがサスペンスとしては突っ込みどころが多すぎて、犯人当てのスリルとかはあんまり期待できない。 冒頭から、フランクがサイドミラーを全く見ないで車道側に降りるとかいう細部も気になるし、暴力夫が元妻の男遊びを黙って見過ごしているという設定も有り得ない気がするし、殺すのだったら相手じゃなくて元妻のほうだという気がするし、自分がデートした男が3人も殺されているのに、何も気付かず平然として次の男を漁るヘレンという女も変だなあと思うし。 会ったばかりで「タイプじゃない」と言い放っておきながら、次に偶然会ったらもうベッドインしているヘレンという女は相当変。だいたいなぜ偶然会う。「誰とでも寝る女じゃないのよ」というお約束のセリフが非常に浮いている。 …というように脚本がご都合すぎて、せっかくのパチーノ主演作だというのになんだかなあ。 フランクという男については、仕事以外ではいつも酔っ払っているとか、女性を支配したいタイプの古い男性だとか、なのに女が居ないとどうしてもやっていけない典型的なアメリカの男だとか、人物としてはそこそこ描けていると思う。 でもヘレンについては本当に変。女性が描けていないとまともな作品にはならないという見本のような作品。若き日のサミュエル・L・ジャクソンが冒頭に出ているが話には全く絡まない。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2008-07-14 14:23:05)
14.  パーマネント・バケーション 《ネタバレ》 
冒頭の独白では、人や場所を深く知ると、必ず醜い部分が見えてくるから「移動」するんだ、と言っている。なんというか、コップの水はなるべく上のほうだけ飲みましょう、半分より下は濁って不純物などが沈澱しているので。という気がする。 アリー少年は、居場所を探しているのではなくて、自分の居場所がないということを確認するために街をうろうろしているように見える。NYならNYで、すでに自分の居場所がないということを全部確かめたら、次の場所に移動する。コップの上澄みを飲み忘れていないかどうかの再確認作業をしているように感じた。 普段は働かない彼の生活費というのは、ヒモ状態の恋人から小遣をもらうなどして調達しているとしか考えられないが、まとまった金が欲しいと思った彼は何をするか。 自動車ドロなのであるが、その巧妙さ、スマートさには舌を巻く。 彼には罪の意識はゼロ、ほとんど捕食動物が獲物をゲットする際の必要悪、というふうにここでは描かれている。なおかつラストの独白で、アリーは自分は責任や労働や税金と無関係である、という。 さて、アリーが「責任がない」と主張している己の犯罪行為について、ジャームッシュはどういうつもりでいるのだろう。 文化によって、何が犯罪かは異なるし、幼児の割礼が罪とされない文化だってある。儀式でドラッグを使うことが罪とされない文化だってある。けれど、盗みは西洋文化では犯罪ということで間違いないだろう。 ところが、ここでは盗みが生理活動のごとく描かれている。 もし、あのあとアリーが800ドルを紛失したり、取られたり、もしくは船の中や着いた先でオカマを掘られるなどのひどい目にあうなりすれば、それが作り手の「盗み」に対する価値観というものである。 けれどアリーにとって、あくまでも盗みは己のニーズに従った自然な捕食活動なのである。たぶん、この子は人殺しやレイプや強盗はしないであろうが、更なるニーズがあれば、置き引きでもスリでもやるのであろう。 ジャームッシュに神は無く、仏も無く、従って罪も来世も因果応報も存在せず、何ものも恐れない。 私はこういう人間は恐ろしいと思うし、そう思う人の多い社会で生きたい。 船の上から遠ざかるビル群という、何となく美化されたラストであるが、現実的にはフランスに着いたアリーは、「労働はしない」と言い張りつつ男娼で稼ぐしかないと思うのだが。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2008-07-10 12:07:53)(良:1票)
15.  やかまし村の春・夏・秋・冬 《ネタバレ》 
前作では、ほとんどが子供中心の描写で、極力大人を描かないように意識して撮られたように思った。 続編では、けっこう大人が出てきたりセリフも少しある。あくまでも、「子供の耳に聞こえた大人の話し声」としてではあるけれど。 私はリサのお父さんが大好きなのです。あのもったりした口ヒゲの。 なんというか、大人の男性が備えていなくてはならない美質をちゃんと持っている、という感じがする。 吹雪の帰り道、リサたちが偏屈な靴屋の家に避難していたとき、お父さんがソリで現れる。 子供たちは火のそばにも勧められず、温かい飲み物も提供されず、ただ、屋根の下を借りていただけの状況で、扉の開け閉めにも靴屋に怒鳴られていた。…現れたお父さんは、一瞬のうちにそんな状況を察していただろう。 けれど、「子供に対してひどいじゃないか」とか「もっと手厚くしてもバチは当たらん」とか「あんたは冷たい」とか一切文句を垂れずに、お父さんはただこう言うのだ。「グドー、グドー(こんにちわ)」と。 これは、優しくない靴屋に対して「あなたは、共同体のメンバーとして最低限の事はしてくれた。子供たちに軒を貸してくれただけでも、じゅうぶん感謝していますよ。ありがとう。」という意味である。そして、相手が非礼だからといって、己も非礼を真似することは潔しとしない、という子供たちへの教育にもなっている。なおかつ、「あなたが優しくなくても、私はこうしてあなたに対して礼を尽くしますよ。それに対してあなたの態度は恥ずかしくありませんか?」という相手への一撃でもある。…そして、グドー、グドーと言われた靴屋は、それ以上何も言えなくなってしまう、というワケだ。 ああお父さん、あなたはすばらしい。すべての大人の男性のみなさんよ、お父さんを真似ましょう。そして平和な世の中が…やかまし村にしか存在しませんね、やっぱり。 「やかまし村」は、ハルストレムがフィルムに焼き付けた人類の理想郷だった。もしかして監督は、「宇宙へのメッセージ~私たちの地球ではこんな暮らしをしています」といって、無人ロケットに搭載するような気持ちでこれを作ったのではないかしら。あながちマチガイではないと思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-12-13 20:14:45)
16.  やかまし村の子どもたち 《ネタバレ》 
われわれが普段よく見ている映像世界では、「平穏無事な風景」というのは、その後の異変の前ふりであるのが常である。よって、平和な風景を見ながら、「来るぞ来るぞ」という予感に捕らわれているのがいつもの状況だ。 「やかまし村」のような作品を作ったということは、そういう「緊張感ある映像」に対するハルストレムからの「異議申し立て」という意味があると思う。曰く「幸せや平和が続いてもいいじゃないか」。 緑あふれるスウェーデンの風景の美しさ、そこに住む人間の性質の良さ、ひたすら癒される。癒されるのだが、「やかまし村」を見る際に、無視できないことがある。「己との落差」である。 世界中の観客が「やかまし村」を見るだろうが、見たときに感じる思いは、国や地域によってかなり違うのではないかと思う。 「やかまし村」は、あまりにも平和で幸福で美しいために、見る者は「やかまし村と自分の間の距離」を意識せざるを得ない。よって観客自らの「幸福からの距離」を確認するための最適なツールとなる。たとえばマイケル・ジャクソンなら、まさにこのような幼年時代を送りたかったと嫉妬にかられることだろう。犯罪者に見せたなら、このような幼年時代を送れていれば、犯罪者には育たなかったのに、と思うだろう。北朝鮮で飢えている人民に見せたなら、同じ地球上の出来事とは思われず、よその星のこととしか思えないだろう。アメリカで家庭に銃を備えている人々に見せたなら、「やかまし村」の無防備さに不安を感じるだろう。 映画「やかまし村のこどもたち」とは、見る人の幼年時代や社会状況が「やかまし村にどのくらい近いか」を測ることにより、「案外自分の幼年時代も悪くなかった」なり「自分はこんなに不幸だったのか」と気づかせたりする作用がある。おそらく地球上に、「やかまし村」以上に幸福な幼年期を送れる場所はないからだ。…罪な映画である。 「将来もこの村で暮らしたいから、村の男の子と結婚するの」…すごいことを言わせる。これこそが、共同体における究極の理想だ。 犬を貰い受けるエピソードが印象的。お父さんは、どうやって偏屈な靴屋と話をつけたのかが非常に気になる。「やかまし村」では、「金や物」で話をつけるはずはない、と思うからだ。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-12-02 18:37:22)(良:1票)
17.  グロリア(1980) 《ネタバレ》 
クールでかっこいい。子供を出している映画なのに、とことん甘さを排しているところがいい。 一家惨殺までの場面をダラダラ説明せず、観客に最小限の情報を与えてテンポよく見せる。うまい。あえて惨殺場面を見せず、マンションのガラスが内側から吹き飛ぶ場面だけで語る。うまい。 特に感心したのは、グロリアとフィルのママの関係性について、ものの5秒くらいしか説明していないというのに、その後のグロリアの行動で充分想像させてしまうことだろう。 「コーヒー飲ませて」とフラッと訪れることのできるご近所さんなんて、そんなにいるだろうか。グロリアは、「彼女が在宅なら必ずコーヒーを飲ませてくれる」という確信を持っている。相手が不在なら、別に構わない。もし居るならば、彼女の顔を見て、おしゃべりをしながら、コーヒーをごちそうになれば、この世の「憂さ」も少し晴れるような気がするわ。…と、外出帰りのグロリアはインターホンを押す。 きっと、こういう関係になるまでには、フィルのママとグロリアの間にはそれなりの「歴史」があったに違いない。共通点は「一匹狼」で冒険を恐れないところだろう。 普通なら、普通の監督なら、まずは「日頃の関係」をある程度見せてから一家惨殺を見せると思うのだ。「惨殺」の悲劇的な効果をより狙うならそうだろう。 フィルのママとグロリアの浅からぬ関係は、その後のグロリアの行動にとって非常に重要なものなのだが、この映画では事件前の「日頃の関係」を全く見せることなく、それをなんと「コーヒー飲ませて」と、「私の親友なのよ」というママの言葉だけで充分語ってしまう。ほんとうにクールだ。 この映画は「激動の昼間」と、「静寂と暗闇の夜」の繰り返しになっている。「朝起きて、昼逃げて、夜寝る」の繰り返しだ。そして、繰り返すことによる効果を充分上げている。なんというか、「連続ドラマ」を何回分か見ているような気持ち。実際には何日も経っていないというのに、冒頭の事件から、どんどんどんどん遠いところへ連れてこられたような気持ち。上記のママとグロリアの件といい、非常に巧みな脚本だと思う。 最初は憎たらしかったフィル小僧が、途中から可愛く見えてくるのも、この映画ならではの醍醐味だ。大傑作。でも子供はもう少しお行儀よくね。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-11-16 19:06:12)
18.  スポンティニアス・コンバッション/人体自然発火 《ネタバレ》 
キューブリックもかくやと思わせる、スタイリッシュな冒頭に比べ、グズグズになだれこむラスト、ここまでのアンバランス、これぞフーパーとおっしゃる下のレビュワーさんはいかにもご明察。 さて、トビー・フーパーは日本人に対して何か特別な思い入れでもあるのか? …と思わせるに充分な、意味深な作品だ。理由は以下に。 被験者の男性(ブライアン)に、極端な低身長の男優を配したこと、ここを見逃してはいけない。コレは決して偶然などではない。他の研究スタッフと並ぶと子供に見えるほどの低身長に童顔、これは何を意味するのか。ブライアンとペギーの夫婦の、ままごとのようなお子様風な外見は何を意味するのか。 もちろん、「日本人」である。世界で唯一原爆の被害を受けた民族、である。「低身長」に「童顔」=「日本人」を意味しているのである。 そして、ラストでルウがサムに言い放つ暴言、これは「オデッサファイル」のラストとそっくりである。ナチスが優性生殖を推進したことにより生み出された主人公が、元ナチに同じことを言われるのだ。「その健康な体は、誰のおかげだと思う」。 フーパーが「オデッサファイル」を見逃しているはずはない。この映画は、フーパーによる「アメリカ帝国主義版オデッサファイル」というべきものだと思う。グズグズで終わりはするが。 それを念頭に、例のルウのセリフを点検すると、すごいことを言っている。 「お前を生み出してやったのは、俺だ。」(もともとそんなもの無いところにアメリカの占領政策により強引に生み出された〝民主主義日本〟)「本当はお前なんか殺してもよかったんだ。」(天皇を生かし、虎視眈々と割領を狙っていたソ連から守り、アメリカの州の一つにもせず、日本という国を存続させてやった恩義)「でも、もう生かしておけないから死ね」(植えつけられた〝民主主義〟が行き過ぎてしまった日本を方向転換させるために、アメリカが行ったとされる数々の謀略を意味すると思われる)。 …で、トビー・フーパーは日本人に対して何か特別な思い入れでもあるのか?に戻るわけだ。それとも単に、「オデッサファイル」の向こうを張る作品を作りたかっただけなのか? よく知らないが主役の俳優は絶妙なキャストだ。右目のあたりに残酷さが漂っているところがよい。突如現れて火を噴くジョン・ランディスはご愛嬌。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2007-09-05 11:54:18)
19.  さよならゲーム 《ネタバレ》 
年下の男を調教するイケている年増女役が十八番となってしまった(もう無理をしているような気もする)サランドンが、後の夫ティム・ロビンスと共演する。 スーザン・サランドンにそういうものばかりを求める映画界というものに対しても、男性側の隠れた欲望を感じてしまい多少げんなりしてくるというものだ。 アニーというのは、「トップガン」の女性教官の跳んでるバージョンでしかなく、サランドンがやっているからそう見えにくいというだけで、ようするに「都合のいい女」でしかない。 サランドン以外の女優がアニーをやったとしたら、どう考えたって、そうとしか見えないだろう。 疲れた男が癒しを求めて訪れる場所。身過ぎ世過ぎを忘れたい時に思い出す女。それがアニー。 中野翠がひいきの映画だといっていたので一応見てみたが…なんにしても、ティム・ロビンスとケビン・コスナーがどうしても野球選手に見えない。野球選手どころか、どんなスポーツ選手にすら見えない体型である。ダメである。 だいたい野球なら尻がデカくなくてはダメだろう。コスナーの悲惨なほどの下半身の貧弱さ。肩幅の狭さ。私のような素人だって、「俳優さんが野球の演技していますね」以外には思いつかないというものだ。ダメだ。 さらに、クールで知的な野球選手を演じるコスナーというのが…あんまりにもキザに過ぎると思うのだなあ。いくらハンサムだといってもなあ、ここまでキザだと、ほとんどの日本人女性は「寒い」としか思えないだろう。あちらでは、こんな男でもフツーにモテてしまうのだろうか。 そういうわけで、ほとんど見どころというべきものはなく、ぬるーい映画である。 単に、サランドンかコスナーかロビンスのファンなら楽しめるのでは、という程度のお寒い出来であった。
[DVD(吹替)] 4点(2007-03-24 19:28:03)
20.  アフター・アワーズ 《ネタバレ》 
数年前に見ていたら間違いなく途中でやめていただろう。 そして現在。なんとも味のあるスコセッシ印のこの作品、愛らしいと思うのだった。 この手の作品はテンポが絶対。冗長に感じられたら終わりだ。スコセッシでなければどうしようもない出来になっただろう。どっかの大学生が書いた脚本を安く買い取って、ティム・バートンも監督候補に挙がっていたという。ああスコセッシで良かった。 80年代に作られたこの作品には、スコセッシがこだわっているものがいっぱい詰め込まれていて、「救命士」の根っ子はこのころから芽生えていたのだなあ、と改めて感じます。ニューヨーク、真夜中の彷徨、交差する人々、交差しているように見えるだけの人々、混沌、錯乱、そして一夜明ければ何事もなし。 道端にはゴミの山、アパートのドアはボロ、登場人物ひとりひとりの部屋も個性的でリアルに描かれ、画面の中からそこに暮らしていることを主張してくる。ジュリーの部屋なんてすごく可愛くて凝っている。部屋中なめるように見つめてしまった。そしてどの役者さんも「撮影中」という感じは皆無であり全員が「地」であるかのような臨場感。とにかくスコセッシのリアリズムは「空気」を運んでくる。 帰れない、お金が無い、というシュールなストーリーはまさに筒井康隆の「俺は裸だ」を思い出させる。噛み合わない会話、通じない意思、こんなシュールが楽しめるのはある程度年を食ってからかもしれないなあ。ひとことでいってしまえば「悪夢」、ということになるのだけど、これをどういうふうに味わうか、楽しむか、人それぞれですね。 
[DVD(字幕)] 7点(2006-09-30 23:13:18)
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