1. 東京物語
《ネタバレ》 この年になって人生で初の小津作品の鑑賞だったと付け加えておく。そしてとても複雑な気持ちにさせられた。画面はとても美しく、詩的であるとすら思えたが、話の頂点がどうにもこうにも心にひっかかってならなかった。一応「8点」をつけてはいるが、正直何点をつけたらよいのかよくわからない。 年老いた両親は子供にとっては厄介者になっていた。親への愛情がないわけではないのだが(後に長女は母の容態をきいて慟哭している)、特に物語の前半では長男長女は露骨に親を邪魔者扱いする。哀れな両親はあちこち追い立てられる。だが次男の嫁の紀子だけは義理の両親にかいがいしく接する。最後に父が「自分の子供より、いわば他人のあんたの方が、余程よくしてくれた」と感嘆するぐらいに、である。だがそう言われた紀子は激しく泣き出す。しかもその涙はその賛辞に対する感涙では全くなく、自分の中の矛盾をずばりと指摘されたような罪悪感を伴った涙なのである。これがなんともこちらの心を複雑にさせた。 なぜ紀子は自分を「ずるい」というのだろうか? 恐らくは本音の部分でもう夫を忘れつつあり、新しい人生を歩みたいと漠然と思っているのに、その本心を隠しながら亡き夫の両親に尽くす自分の矛盾をわかっていて「ずるい」と言っているのだろう。本心を隠して両親をもてなしたのはいわば演技であり芝居である。今風に言えばいい子ぶりでありご機嫌とりである。少なくとも紀子自身は自分をそんなふうに思っている。だからそんな自分の「ずるい」親切をありがたがって心の底から自分の幸せを願ってくれる父親の言葉に耐えきれずに泣いたのだろう。‥‥とまぁそんなふうな解釈は一応成り立つと思うのだが、根本的な疑問として「どうしてそこまでしなければならないのか」という考えが自分から消えない。 「古き良き日本人を描いたものだ」という意見もあるが、その割には特に長女は繊細さのかけらもないような人物として描かれていて、対比させる意味だとしても極端すぎる。さらに紀子は長男長女を非難する末娘には「嫌だけど仕方がないこと」といって二人をかばうのである。しかも「自分も二人と同じ」とまで付け加えている。義理の両親にあれだけ尽くしたのに、邪険にした長男長女と自分は同じだと言っていることになる。余りにも八方美人すぎるとは言えないだろうか。「昔の古き良き日本人」は、果たして本当にこんな姿なのだろうか。仮にこの作品の数十年後を想像してみると、「何かを待っている」とはいうものの紀子は年老いるまで結局再婚はせず、寂しい心のまま笑みを絶やさず慎ましく、それでいて内心そういう自分に本当は腹を立てているという姿が想像される。もしそうならそれは余りにも鬱屈した人生だし、救いがなさすぎる。それとも形見の時計に紀子は何かを誓って生まれ変わることができたのだろうか。そう解釈する向きもあるようだが、私にはそう断定できる根拠は感じられなかった。 「そもそも主人公は老夫婦であり、紀子ではない」のだろうか。視点を老夫婦に移してみると、彼らこそ心穏やかな人格者であり、長男長女についても立腹するわけでもなく「すべてをそのまま受け入れる」達観した感がある。特に父は苦楽を共にした妻の死にもまるで動揺せず涙一つ見せず(悲しくないわけではないと思う)「もっとやさしくしてやればよかった」とつぶやく。こちらの方がまだ「昔の古きよき日本人」と言われれば納得できるかもしれない。実際家族の死などは、結局のところ受け入れるしかないことが多いからだ。だが正直、行き過ぎている感は拭えない。何年も経過した後ならともかく、亡くなるということを聞かされた直後に「そうか、もういかんのか」と淡々と語るのは並の達観ではない。普通なら絶句するとか、涙を堪えるとか、そういう姿を見せるものではなかろうか(それまで死ぬということは予想もしていなかったことがセリフから伺えるので、余計そう思われる)。紀子ともども、ありえないような作り物のような人物だなという印象が拭えない。そう考えると詩的に思えた人物の撮り方(常に人物が正面で語りかけるような撮り方)も、さらに「作り物じみた」錯覚を起こさせる。 年老いた親とそれぞれの人生を歩む子のどうしようもない亀裂が見る人の心を打つのだろうか。だがそれを描きたいのなら紀子は不要だ。両親を邪険にする長男長女とそれに憤る末娘だけが出てくればいい。紀子が出てくる以上、紀子はこの映画が描く人間関係において救世主的な、ある意味人間愛の権化のように描かれなければならないはずなのに、そしてその通りの行動を紀子は示して父を感嘆させているのに、肝心の本人がそれを「ずるい」と言っているのはどうにもこうにもこちらを当惑させる。すべては見るものが想像するしかないのだろうか……。(セリフ引用はすべて趣意) [インターネット(邦画)] 8点(2024-08-16 16:34:40) |
2. 七人の侍
「生きる」と並び称される黒沢作品だが、個人的には「生きる」の方に断然軍配を上げたい。率直にいってこの作品は私には長すぎて中だるみしてしまう。もちろんつまらないわけではないが、世間での評価に今一つ納得できないでいる……。というわけで映画の方にあまり感動できなかったのだが、何かの本でみかけたこの映画の志村喬の写真に私は大変驚いた。「生きる」の志村しか知らなかったので、この映画で侍大将を演じていると知って「あの地味な印象(生きるの主人公)しかない役者が侍大将?」という違和感を(映画を見る前は)感じていた。ところが写真の志村を見て私はうならされた。風格があって堂々たる侍の姿がそこにある。たった一枚の写真でなるほど侍だと思わせるこの姿、いやはやこの役者は凄いなぁと感服させられた。 [インターネット(字幕)] 8点(2016-10-22 16:10:19)(良:1票) |
3. 生きる
《ネタバレ》 黒沢映画や日本映画という枠を越え、すべての映画の中で最高傑作を争える作品。「生と死」という重い厄介な主題と取り組んでここまで感動的な物語を作り出したことが何よりすばらしい。一つ一つの場面の何と痛烈なことか! 公園計画の邪魔をしたくせにいざ公園が完成すると手柄を横取りする助役が厭味たっぷりな演説をぶって一同お追随を打った直後のお焼香の場面、こんな強烈な皮肉が他にあるだろうか。役所の連中にひとかけらの良心でもあるのなら、強烈に自分を恥じるしかないではないか。また主人公がヒロインと最後の会食をする場面、「自分にも、何かできる。ただやる気になれば」と興奮しながら立ち去るところで「ハッピーバースデー」の歌が重なるところは何度見ても本気で泣けてきてしまう。主人公の「生きる」姿を祝福しているのである。誕生日の歌はこのすぐ後に役所の場面でも繰り返されて主人公の「生きる」姿を強調している。その直後に急転直下で通夜の場面になってしまう意外性、さらにその通夜の席で主人公の行動と「癌だったことを知っていたのかどうか」の真相が次第に明らかになり、主人公が残り少ない命を真に燃焼し尽くし、その死は無念な悲惨なものではなく満足した上での死であったことも明らかになる。何度も何度も取り直したという「馬鹿野郎!」「助役とはっきり言えよ!」という左卜全の痛烈なセリフがこちらの肺腑にまで届く。またその場面で終わらずに、所詮は皆の感動も酒の席の上での決意でしかなかったことを見せる場面があってから公園の場面で終わるのも深い見せ方だ。他にも胃袋のレントゲン写真からはじまる冒頭、無音の状態からいきなりクラクションの爆音が響く場面などなど、恐ろしいほど考え抜かれて書かれたシナリオであり、天才が全力投球するとこうなるのだと言わんばかりである。この素晴らしすぎる映画にあえて欠点を言うなら、やはり主人公が超人的すぎ、話が理想的に進みすぎることだろう。それととんでもない誤解を受けたからと言って息子に何も知らせず死んでいくのはやはりちょっと息子に気の毒な気がする。そういう部分はあるが、息子についてはともかく、主人公が超人的すぎ話が理想的すぎることについては「生きものの記録」「どですかでん」できちんと回答を出しているように思う。一つの金字塔であり、この作品がある限り自分が日本人であることに誇りが持てる。心から感謝したい。 [地上波(邦画)] 10点(2010-08-01 05:02:20) |
4. 羅生門(1950)
《ネタバレ》 これを最初にみたときは中学生のときで、マセガキだった私は芥川の主要作品は全部文庫で読んでいたから、途中から「あれ? これ『藪の中』じゃん」と肩すかしというか妙な違和感を持ったのを覚えている。それから相当年月が経ったけど、どうして「藪の中」でなくて「羅生門」なのか、いまだにわからないままだ。 この作品に対しては、黒沢よりも原作者の芥川龍之介に軍配を上げたい。この作品について「今昔物語の話を多少設定を変えて書き直しただけ」だと私は長年思っていたが、実は原作はこんな話では全くなく、妻を目の前で手込めにされる情けない男の話でしかないことを最近知って驚いた。要するにこれをミステリー仕立てにし、さらに一つしかない事実が人(死者も含めて)によってかくも違うように語られるという不条理さを追加したのは全部芥川の手腕なのだ(もっとも、これについても何か原案がある可能性は残っているが)。まことに驚嘆するべき想像力、洞察力ではないだろうか。 [ビデオ(邦画)] 6点(2009-05-25 14:36:20) |
5. チャップリンのニューヨークの王様
《ネタバレ》 黒沢ですらも老いて無残な映画を残したが、チャップリンには老いはなかったことの見事な証明。いわゆる「チャーリー」ではなく、スクリーンに写る姿は老いたチャップリンそのものだが、精神は断じて老いてはいない(相変わらず女好きでもある:笑)。ユーモアを交えながらも痛烈にアメリカを皮肉っているのがまさに「王様」の貫祿だ。なるほどこの映画がアメリカで10数年の間公開できなかったのも頷ける。なお本作は当時のアメリカの状況がわからないと意味がわからないので、赤狩りやチャップリンがアメリカを追放された歴史について少しでも知っておくべきことは、言うまでもない。それにしても病めるアメリカの姿は、ついに飛行機による自爆テロまで引き起こした。あれをチャップリンが見ていたらどう思っただろうか。 [ビデオ(字幕)] 9点(2009-05-25 10:25:42) |
6. ライムライト
《ネタバレ》 全編を流れるのは老いがもたらす悲哀である。かつてどんなに勢力を誇っても、老いからくる衰えはどうしようもない。必死で過去の栄光を取り戻そうとする主人公の芸人がチャップリン本人と重なって見えるのも自然なことだと思う。 が、考えてみると不思議だ。普通の老人ならともかく、チャップリンは世界の喜劇王ではないか。確かにアメリカを追放されるなど困難な時もあったが、それで没落して死んだわけではなし、金銭的にも名声も人からうらやましがられることはあっても、他人をうらやむ必要はない。悲嘆にくれる必要はないのだ。それにカルベロは年の若いヒロインとの結婚を最後まで拒絶して死んでいくが、チャップリン本人は何度も結婚・離婚を繰り返し、最後の妻は30歳ほども年下であった。だから同じ芸人でもカルベロはチャップリンとは似ても似つかないとすら言えるのである。 これはひょっとすると「仮定」なのかもしれない。現実のチャップリンは大成功をおさめ、世界の喜劇王となった。だがもし芸人として名前がそこそこ売れても、それだけだったとしたら……? 成功した途端周囲を見下し馬鹿にする人間がいる一方で、どんなに出世しても苦しく貧しかったときのことを忘れないという人もいる。現実のチャップリンと劇中のカルベロは正反対の境遇にあるが、チャップリンが重なって見えるのはチャップリンがもちろん後者に属していたからだろう。 本作でもっとも感動的な場面はヒロインが歩けるようになる場面である。もうとっくに怪我自体は治っているが、ヒロインには歩くだけの勇気がない。カルベロがいかに励まそうと心を閉ざしてしまっている。だが、あるときカルベロが珍しく失意のどん底に落ち、ヒロインは彼を何とか励まそうとする。いつもの役割が逆になるわけだ。そして心から相手を励まそうとしたときに、自分でも思いもしない力がわき出て、ふと気がつかないうちに歩けるようになる。もっとも力強い勇気は他人を思いやることによって生まれるものなのだと教えているのである。「I'm walking!!!!」の絶叫とともにこの場面は忘れられない。 [地上波(字幕)] 10点(2008-08-24 14:49:18)(良:1票) |
7. 隠し砦の三悪人
《ネタバレ》 内容は確かに重いものじゃないが、こんなに痛快でハラハラドキドキさせてカッコよくてスカッとする映画もないだろう。馬上の三船が雄叫びを上げて「八双の構え」で突き進む有名な場面、ビデオで見てすらド迫力なんだから、スクリーンだったら全身鳥肌が立ったんじゃなかろうかと思う。確かに聞き取りにくいセリフがちらほらあるが、一度何言ってるか理解すれば次からは問題ないのでそんなにひどい傷とは思わない(DVDには日本語字幕があるので、この問題は解決済みだと思う)。雪姫もりりしく、美しい。リメイク? 悪いけど、見る気にもなれない。 [ビデオ(邦画)] 9点(2008-08-08 04:18:25) |