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1.  バーニング 劇場版 《ネタバレ》 
逆光が強く印象に残る。それは女友達ヘミが半裸で踊るパントマイムの夕刻だけではない。彼女が住む、弱々しい一条の光線が北向きの窓からかろうじて射す薄暗い部屋、さらには、ジョンスが外界から恐る恐る内部を覗き込む荒れ果てたビニールハウス。それらもまた悉く逆光の構図で描かれている。空港からヘミとベンを乗せて走るジョンスのトラックのその車内でも、光はリアウインドーから射し込む。光源に背を向けた彼らは、時に陰影が描き出す水墨画のようでもあり、また、その墨の濃淡に仔細な表情を隠す模糊たる存在でもある。常に翳ったヘミの部屋では実存すら不確実であった猫ボイルがのちにその姿を顕にするのが、隈無く光に充たされたベンの部屋であるということはとても象徴的だ。生命力が迸るかのようなグレートハンガーを陶然と踊るヘミは、墨絵からやがて輪郭だけをくっきりとふちどるばかりの影絵となり、刻一刻と夕闇に塗りつぶされていく。のちにジョンスが見る夢の中では徹底的な無音で描かれる、烈しく燃えさかり焼け落ちていくビニールハウス。イ・チャンドン監督はヘミに於ける無情なその様を、あらかじめ丹念にここで描出している。一つの救いは、そこにマイルス・デイヴィスの喇叭が哀切に鳴り響いているということだ。井戸の記憶や、猫、さらには自分自身の存在すらも焼き尽くし、彼女は泥のような眠りに落ちる。思えば『シークレット・サンシャイン』のジョンチャンは、女の見つめるささかなな陽だまりを、傍らで静かに共有することで、彼女に深く愛を示した。『オアシス』のジョンドゥは愛する女のため、禍々しい影絵を鋸で果敢に切り落とした。だがジョンスは、与えられたそのどちらの機会も、ただただ無感動な傍観者として逸してしまう。そうして、這々の体で微睡みから目覚めた瀕死の女に、男は決定的な言葉を投げつける。女は二度と男を見返すことなく闇に溶け、この世界から跡形もなく消え去る。やがて描かれるフィルム・ノワールめいた後段は、一方でジョンスにとっての喪の作業、その隠喩でもあるだろう。無いことを忘れる、それはこんなにも苦しく、そして難しい。靄と煙の立ち込める曖昧な境界線をぐるぐると、彼は息を切らして永遠に走り続ける。
[映画館(字幕)] 10点(2019-02-25 18:41:45)
2.  リバーズ・エッジ 《ネタバレ》 
岡崎京子の原作漫画に強い思い入れがある人間は多い。彼女ら彼らの、その思い入れの強さは少し常軌を逸している程だ。本作の登場人物の名を借りるなら、田島カンナ的であるとさえ言っていい。そして間違いなく、私もその黒焦げの田島カンナたちのうちのひとりだ。それゆえに初見では、まさに岡崎の漫画を読んでいたあの頃そのままに、頑なに閉ざした私の心はぴくりとも動かなかった。好演は認めつつも二階堂ふみら俳優たちがどう見ても大人であることが許せなかった。そして何よりも、吉川こずえとして登場するのが(無茶な話は百も承知で)90年代の異星人じみた吉川ひなのでないことが、どうしても許せなかった。それでも思い直して、改めて二度目を観たのはなぜだろう。目から鱗が落ちたようだった。あまりに自然に、素直に、この映画を受け容れている自分がいた。永遠にやって来ることのないUFOにあらかじめ見棄てられ、それでも平坦な戦場で彼らは生き延びていく。心からそう思えた。行定勲監督は、漫画の構図を意識して本作に4:3スタンダードを選んだと言う。さらにその画面の中に展開する物語や描写もまた、原作漫画を、執拗なほど、忠実になぞっていく。映画監督としては、漫画を「映画」として新たなマスターピースに創りあげていくことが、本来の使命であるはずだ。しかしながら行定は、その作家としての主張を敢えて抛ち、終始職人役に徹した。とても危険な賭けだ。そして事実批判の声もあるようだ。しかし私は、彼の選択は正しかったと思う。行定勲の、ではなく、岡崎京子のリバーズ・エッジをまずここに焼きつけることこそが、少なくとも本作に限っては、彼の使命であったのだ。随所に挿入される二階堂らが役を演じたままインタビューに答える原作にはないシーンは、90年代を生きる若草ハルナたちと現代を生きる生身の俳優らをシンクロさせる意図が不発に終わった感が否めないものの、彼らのサバイブの隠喩として原作よりも印象深くガジェットとして機能する牛乳や、火だるまとなってゴミ棄て場に転落する田島カンナの軌跡をタバコの吸い殻によってあらかじめ提示する描写などには、行定勲ならではの冴えが垣間見えることも付け加えておきたい。
[インターネット(邦画)] 8点(2018-08-12 15:36:21)
3.  ソーシャル・ネットワーク 《ネタバレ》 
ガールフレンドとの噛み合わない会話で主人公の人となりを如実に示す導入が見事だ。主人公マーク・ザッカーバーグが如何に傲慢なティーンエイジャーであるか、そして自らのその傲慢さに如何に無自覚であるか、さらには彼が如何にコミュニケーション能力の欠落した孤独な嫌われ者であるかを、監督デイヴィッド・フィンチャーは、一見他愛のない冒頭の数分間だけで強烈に印象づける。ボストン大の学生なら時間を惜しんでまで勉強する必要もないだろうと悪気なく言う彼が、一目散に走り戻る名門ハーバード大の学生寮。フラれた腹いせにガールフレンドの中傷をブログに書き込むマークは、それが恥ずべき卑劣な行為であるなどとは夢にも思わない。自分を必要としない凡庸な人間への怒りと渇望、それこそが彼の持ちうるただ一つのコミュニケーション手段だからだ。悪趣味な女子学生の品評サイトも、それに続くSNSの立ち上げも、マークのそうした幼い承認欲求に基づく産物であるという意味では、本質は同じだ。欲求をあからさまにむきだしたブログや品評サイトは反発を食らい、欲求を包み隠したスマートなFacebookは万人に受け入れられた、両者の差違はただそれだけでしかない。彼の思惑どおり、驚異的なスピードで膨れ上がっていくFacebook。だがフィンチャーがここで真に見据え、そして描くのは、この若き天才青年によるサクセスストーリーの、奇型的なその裏側である。Facebookの爆発的成功とはうらはらに止めどなく空洞を拡げていくマークの青春と、その失敗。彼の不遜なまでの優越感と一方でその内に巣喰う巨大な劣等感は、まさに青春映画の構図そのものだ。 ウィンクルボス兄弟のようにボート部のエースとして活躍すること、あるいはエドゥアルドのように名門クラブから招待を受けること、そんなちっぽけな権威や名誉は、史上最年少で億万長者になったマークの成功に比べれば子どもだましな玩具のようなものだ。しかし誰もが羨む成功を手にしたこの孤独な天才が心の底で本当の本当に望んでいたのは、その玩具の方だったのかもしれない。ラスト、はじめて自分から痛切に友だちを求め「更新」キーをクリックし続けるマーク。皮肉たっぷりなビートルズのBaby You're a Rich Manが、負け犬の栄光と挫折を辛辣に祝福する。祈るように彼が見つめるモニターは、そして彼が見つめるその世界は、いつか更新されるだろうか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-18 17:33:04)(良:5票)
4.  悪人 《ネタバレ》 
主人公の男と女。出会い系サイトで知りあった二人は、いつしか互いを祐一、光代と呼びあうようになる。だがそこには、肝心の説得力が伴わない。彼らがそうして親密さを深めるに至った経緯が物語からきれいさっぱりと抜け落ちているからだ。それは、観客の想像を刺戟するような映画的表現としての「省略」ではない。本来あるべき必要なシーンが強引に割愛されてしまったかのような、単なる唐突さだ。食卓に並ぶイカ(奪われた生命)の目に罪悪感を喚起された祐一が殺人の回想へと至る場面のひとりよがりな上滑りも、さらには祐一の祖母が自分を騙した漢方薬詐欺の事務所に敢然と乗り込む薮から棒な描写にしてもそうだ。巧みな演者が見せる登場人物たちのゆらぎ移ろい変化する多面的な心情も、その過程や余白が綿密に描ききれていないため、まるで一貫性のない突飛な言動に見えてしまう。李相日監督は前作『フラガール』もそうであったように、俳優たちから最上の演技を引き出す術に実に長けた映画監督だ。本作でも、主演から助演に至るすべての俳優から瞠目に価する素晴らしい芝居を導き出すことに成功している。妻夫木聡のこんな表情を、今まで一体誰が想像できただろう?自転車置き場で涙する深津絵里のせつないたたずまい、あるいは雨に打たれる満島ひかりと柄本明の、傘一つに万感の思いを託した鮮烈な切り返しなど、特筆すべき描写だっていくつもある。水準を下回る映画では決してない。だが、だからこそ、残念なのだ。ラスト、花束を抱えた光代がいつまでも車中に留まり続けるのは、彼女が悪人と被害者の狭間に立ちすくむ非力な存在だからだろう。ここでも深津絵里は、悪人を愛した女の、被害者にはなりきれぬ苦悩や葛藤をその表情に滲ませ見事だ。しかし、やはり映画としては最後まで消化不良で上滑りした印象が拭えない。
[映画館(邦画)] 5点(2010-12-04 16:21:24)(良:1票)
5.  さんかく 《ネタバレ》 
吉田恵輔監督は宮崎あおいの熱烈なファンであるに違いない、と推測してみる。宮崎との結婚で世間の反感を買った高岡蒼甫が扮する本作の主人公百瀬のキャラクターは、結婚騒動で高岡を逆恨みする宮崎ファンが憎き彼に抱くマイナスイメージそのものなのだ。ビッグマウスでナルシストのくせに器の小さいダメ男。女癖だって絶対に悪いに違いない。こんな奴が俺のあおいちゃんを幸せにできるもんかい畜生!という、やっかみ120%なイメージ。だが面白いのは、吉田監督(および観客)のこのどす黒い悪意を真っ向から受けて立つ当の高岡が 実に生き生きと、このいけ好かない軟弱男を演じ切っていることだ。不敵な面構えを見せた『パッチギ』での好演をも凌ぐ高岡の凄まじい本気っぷりは、演じるキャラクターに反してもはや清々しいほどだ。そして田畑智子。彼女もまた、 かつての天才子役というナメられたレッテルを、ここでついにぶち破る。田畑智子という役者をここまで見事に活かし、さらに神がかったそのポテンシャルを引き出した映画監督は、それこそ彼女のデビュー作『お引越し』を撮った相米慎二以来だろう。多少なりとも角のとれた感のあった前作『純喫茶磯辺』は別にしても『なま夏』『机のなかみ』と、吉田の意地の悪さはすでに折り紙付きだ。だが本作で吉田はさらにその上をいく。ラストシーン、田舎町の畦道にたたずむ男と女と少女のストーカー三角形。幕切れは女、佳代の笑顔だ。佳代=田畑の慈愛に満ちたその表情の何という 美しさ!だがこれは能天気なハッピーエンドなどではおそらくない。劇中、佳代にとっての「愛」は相手をうんざりさせるほどヒステリックに泣き叫びまた見苦しく追いすがるイタい行為として終始描かれる。ではそんな彼女が笑顔を見せる瞬間とは何なのか。自ら両腕を掻き切るほど必死で追い求めたその男の正体を前に、彼女は別人のように柔和にほほえむ。それは「百ちゃんがバカなのは知ってる」はずの彼女がついに真実を悟り、はたと我にかえる瞬間だ。怒濤の愛から醒め呪縛から解き放たれた彼女は、その時本当の意味で男のすべてを赦し、男のすべてを包み込むことができる。菩薩の如き慈愛は、裏を返せば女としての拒絶でもあるという残酷。美しい映像や照明に騙されてはいけない。柔らかく照らし出される田畑智子快心の笑顔。そのラストショットに、吉田恵輔は、愛が今まさに終わる無慈悲なその瞬間を描いている。   
[DVD(邦画)] 9点(2010-11-29 00:01:26)(良:3票)
6.  告白(2010) 《ネタバレ》 
告白とは主観だ。そこには話者の思い込みや誤解、そして嘘が含まれる。つまり告白とは純然たる真実をありのままに語るものであるとは限らない。少年と少女が睦まじく戯れる同じ光景が、少女の告白においてはまぎれもない恋である一方、少年の告白の上ではくだらない暇つぶしに過ぎないようにだ。いびつな道路反射鏡や防犯ミラー、あるいは姿見に反転させて中島哲也監督が描くのは、そうしたこの世界の不確実さだ。窓外の風景は常に磨りガラスやカーテンにより遮蔽され、リアルから切り取られたその世界の上空には常に不純物としての雲が配置される。時に鈍色に時に茜色に空を蔽う雲は、まるで真実を不透明に彩る彼らの告白=嘘の暗喩のようだ。森口先生の娘を殺した修哉と直樹それぞれの嘘、直樹の母親の嘘、修哉の理解者たる美月の嘘、1年B組の教室に渦巻く嘘、さらには熱血教師ウェルテルの滑稽な存在意義それ自体の嘘。だが、無限の嘘で塗り固められたその箱庭を、中島は最後の最後に容赦なく爆破する。そうしてそこにただ一つの真実を強烈に叩きつける。それは、粉々に魂を砕かれる人間の、想像を絶する痛みと、断末魔だ。中島が『夏時間の大人たち』や『嫌われ松子の一生』で祈るように描いてきた、階段上の一室で両手をひろげて自分を待ち侘びてくれる、大切なだれかの愛情。修哉にとってのその階段が、愛が、木っ端微塵に破壊され焼失するさまは、まさに胸をえぐるばかりの壮絶さだ。愛する人に見せたかったくだらない発明品=逆回り時計によって甦る彼の切望した光景が、針を戻したこの装置に再び跡形もなく焼き尽くされるその地獄。牛乳に血を混ぜたと語る森口の告白を、美月の告白における森口が覆したように、時限爆弾の顛末もまた森口の嘘であったかもしれない。「あなた方は嘘をつくのが実に上手」だと生徒たちを評する彼女にとっては、その嘘こそを彼らへの復讐の刃とすることに大きな意味があるからだ。大切なものが消える音が私にも聞こえたと森口は言う。すさまじい形相で彼女が放つ爆発音は、あの夜プールサイドで彼女自身が聞いた、その音でもあるだろう。そうして森口が突きつける、本当の地獄。想像を絶するその痛みに自らも貫かれた時、少年Aはようやく森口と同じ地平に立つ。リアリズムの映画ではない。正しい映画でもない。だが、ただ一つの真実が、凄まじいその痛みが、観る者の胸をも木っ端微塵に打ち砕く。
[映画館(邦画)] 10点(2010-06-08 12:36:37)(良:3票)
7.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 
大林宣彦版(1983年)と、細田守版(2006年)、多くの人々の記憶に刻まれたこの二作の間にもドラマを含め数々の『時をかける少女』が撮られてきた。そのすべてを観たわけではないが、両作に匹敵するレベルに達した作品は一つとしてなかったように思う。細田版以降初の再映画化となった本作もまた、残念ながらその一つとなってしまっている。監督谷口正晃は演出家としてあまりに底が浅く、その稚拙さばかりが目につく。奥ゆきのない平板な映像に映画ならではの魅力はなく、バストショットからアップで人物を捉える構図の多用もまた俳優たちの小手先の表情をくどくどと説明するだけで、まるで出来の悪いテレビドラマのようだ。夢物語としての幼稚さや突飛さは大林版も細田版も同様であり、SFジュブナイルとしての原作の性質上、在って然るべきものだ。だが、夢物語にひそむ、少女や思春期の普遍的な有り様を、きちんとその荒唐無稽の中に描ききれていないのが致命的だ。筒井康隆の原作以上に初恋の抒情と痛みを鮮烈に焼きつけた大林版にも、そんな大林版を覆し初恋を晴れ晴れと解放することで新たな金字塔を打ち立てた細田版にも、遥か遠く及ばない下手さだ。だがこのド下手くそな映画は、それでも下手なりに、ひたすらけなげに『時をかける少女』であろうとする。そのけなげさは主人公芳山あかりにも通じる。ふにゃふにゃと周囲に甘えるばかりで幼く頼りない彼女が、雨の中傘を差し自分を待つ涼太を前にふざけようとして、真顔になり黙りこむ。物語上まるでとってつけたような二人の恋ではあっても、この瞬間にだけは間違いなくウソいつわりない初恋の有り様が活き活きと映っている。さらに本作は、細田版が省き、省くことで新たなスタンダードを創造しえた意味で旧作の遺物となった「記憶の抹消」というテーマと、愚直なほど真摯に向きあおうとする。初恋を消去されるあかりの痛みは、あからさまなバス事故や死を用いずとも表現できたはずであり、やはり出来の悪さは否めないが、それでも愚鈍なこの映画は、軽やかな細田版が切り棄てた「深町くんの手のひら」の計り知れないその重みを、泣けてくるほど馬鹿正直に、まっすぐ見据えるのだ。逆立ちしても傑作とはなりえない本作は、けれどそんな風にバカが付くほど誠実な、愛すべき『時をかける少女』である。
[映画館(邦画)] 6点(2010-03-20 22:18:25)(良:3票)
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