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《ネタバレ》 映画が料理だとすると、ここに使われた食材はすべてもともとが「生」「死」「癒し」なのである。「他のものが一切入っていない料理」という、ある意味珍品といえるかも、のメニュー。例えば、「憎しみ」「妬み」「嘘」「偽善」「怠慢」などはこの映画のどこを探しても出てこないでしょう。
ということで「いい人しか出てこない」というより、「3つの要素だけで作ってある」なのだ。 「仕事」というのは「他人の要求に応えることである」と言ったのは橋本治。そして、「他人の要求に応えすぎる」と、人は「消耗」する。たとえ他人の死を見取りすぎたという特殊な職業下でなくたって、「他人の要求に応えすぎる」のは不健康なことで、職業としてであっても「消耗」は避けられない。私はそれが身にしみてわかる。美智子先生の置かれた状況がよーーくわかる。 村に着いても、最初は発作も起こして「これで診察できるのかいな」という頼りなげだった美智子先生が、次第にキャリアウーマンぶりを取り戻してバリバリになっていくのがおもしろい。比べてダンナのほうは一貫して同じペース。いいかげん寺尾は見飽きたけれど、孝夫役は彼でなければならなかったというのはうなずける。 さてこの村の人々がいたずらに死を恐れず穏やかに生きているのは、梅さんの存在ゆえである。 死んだ経験のある人は誰もいないので皆「死」が怖いのだけれど、「限りなく死に近いところに生きる梅さん」の存在によって、人々の「死の恐怖」は緩和されることになる。昔の船旅に不可触の人柱を乗せたように、梅さんは「不吉なもの(死穢)を全部引き受けてくれる」身代わりのような存在だ。 よくできたシステムだと思うが、このような存在は昔は賤しまれていたのではないかと考えるのが妥当だ。最も卑なる聖=アンタッチャブル=有形無形に疎外(隔離)する、というのが日本の文化だ。 映画ではそんなことはみじんも描かれないが、私は「梅さん=アンタッチャブル」という意識で見たほうがいいと思う。それで初めて「なぜ一人であんな便所もないところに住んでいるのか」「なぜ家族の訪問が無いのか」「人が死んだ時しか村人が訪れないのはなぜ」などの疑問が解ける。 偉すぎるニョーボの亭主であるというのも実は努力と技術が居るのでバカにしたもんではなく、どんな男でもなれるというものではありませんね。たまにはこんな珍品も、の一作。 【パブロン中毒】さん [CS・衛星(邦画)] 8点(2008-06-30 13:48:28)(良:1票)
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