48.第一章から映画館で見てきたシリーズが、ついに終わってしまった。
このシリーズにはこれまでも色々と考えさせられてきた。第三章は"この映画は誰を対象にした作品なのか?"という根本的かつ重要なテーマについて考えさせられた。
第三章も、これまでの作品と同様に終盤までは原作に忠実に描かれている。しかし、第三章は"原作とは異なる結末"なるものをウリにしているので、終盤からは"原作に忠実"というわけではない。
この"原作とは異なる結末"なるものの正体だが、ただ単に原作の結末をわかりやすくそれはそれは懇切丁寧に描いたものであって、決して原作とは"異なって"はいない。
思い切ってここで、本当に原作とは違う結末を持ってきたらよかったのかもしれない。しかし、実際はそうではない。
ここで一つの疑問が生じるのだ。この映画は、誰のための作品なのだ?と。
原作のファンは、難解な結末を自分たちの頭で様々な形に解釈していた。そこに、これが答えですと言わんばかりに映画で全ての"答え"が突きつけられてしまうと、今までの考察が意味をなさなくなってしまう。
少なくとも、自分たちが考えていた"答え"が正しい答えではなくなってしまうのだ。
そのような作品にわざわざ映画館まで足を運ぶ原作のファンは少ないであろう。
しかし、この映画は原作を読んでいないとわからないと言われている。原作を読んでいないとわからない=原作のファンを対象にしている、はずなのだが、原作ファンの"結末を考察する"という楽しみを最終章で完全に奪ってしまっているのだ。
再び問いたい。
いったい、誰のための映画なのかと。
結果として、第三章は大きな矛盾をはらんだ作品になってしまったように思う。
だが、三部作を"原作に忠実に"描き続けた堤監督、漫画のキャラクターを演じるという難しい技をこなした役者さんたち。その人たちには存分に敬意を払いたい。
長編漫画の映画化ということに関して、様々な問題提起を投げかけた三部作だったのではないだろうか。