2.「窃視」の映画といっても良いくらい、画面の中をすれ違う視線の数々。入学後、お互いを意識しはじめている二人は、お互いに見守られている事を知らぬまま見つめ、また見つめられる。『映画研究塾』の成瀬論が言うところの「見られていることを知らない無防備な身体」のショットの丁寧な積み重ねが、二人が惹かれあっていく裏付けとして強い説得力を獲得していく。
その身体性を保障するため、作者たちは映画の特権としてパソコン・固定電話・携帯電話といった簡易なコミュニケーションツールを主人公から周到に排除する。多部未華子は、手を取り合い、ノートを手書きし、肩を抱き合い、懸命に走って会いにいき、相手の目を見つめながら、直の言葉を相手に届け、思いを伝える。「走る」ショット自体の運動感にやや不満はあっても、支持されるべき映画的な美点だ。
初めて友人達とラーメンを食べた帰り道、自転車を押しながら先を歩く三浦春馬と、その後を遅れながらついていく多部の二人を捉える横移動のショット。その二人の歩調と微妙な距離感が素晴らしい。
「内気」な少女が「家を出」る成瀬的「親離れ」の物語は、エンディング後のラストに、上の移動ショットに対応する意味からしても必須となる成瀬的ショットを以って的確に締めくくられる。