7.《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。
ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。
そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。
ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。
それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。
彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。
やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。
そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。
戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。
タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。
俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。