14.冒頭、カメラは主人公の背中を延々と追い、そのうらぶれた様を映し出す。
そこからは、ただこの男が惨めな生活に追いやられているという状況説明だけでなく、プロレスラーとして確実にあった過去の栄光を雄弁に物語ると共に、彼が今なおリングに上がり、そこで少なからずの尊敬と敬愛を受けているということがしっかりと伝わってくる。
そういう描写の後に、ミッキー・ロークの表情が映し出された瞬間、「ああ、この人はかつてのスターレスラーだ」とリアルな存在感を持って納得させられる。
この冒頭数分間の主人公描写の時点で、この映画の成功は間違いないと確信した。
イントロダクションからは、かつてのスーパースターの復活を描いたサクセスストーリーのような印象も受けるが、今作は決してそのような綺麗な映画ではない。
主人公の風貌そのままに、汚れ、くたびれ、傷だらけの映画だ。
「満身創痍」という言葉が相応し過ぎる映画世界、そしてミッキー・ローク演じる主人公の「大馬鹿野郎」としか言いようがない生き様に対して決して共感は出来ない。
ただしかし、引き込まれ、目が離せなくなる。
プロレスに生き続けた老ファイターが、遂に最後までリングにしか居場所を見出せなかったと言えば聞こえは良い。
しかし、そこに映し出されているのは、愚かで、切ない一人の男の姿であり、この映画が描こうとしたことはまさにそういう人間の根本的な無様さだ。
“現実”の死を厭わず恐らく最後になるであろうリングに立つ男の姿に涙が溢れるわけではなかった。
唯一残された「居場所」、そこに立つまでの男の全ての言動が、哀しく切ない。
この映画に描かれていることも、描かれていないことも、この男の人生そのものに涙が溢れた。
リング上で闘い続けるということが、逆接的に立ち向かうべき己の人生から逃げ続けたこととイコールになる悲哀。
ただし、それが不幸だろうが幸福だろうが、決して他人はその人生を否定も肯定も出来ない。
その価値を計れるのは、紛れもないその人生を生きた本人しかいない。
「生きる」ということの普遍的な厳しさと、だからこそ垣間見える人間の煌めきが心を揺さぶる。これはそういう映画だ。