8.驚いた。何という圧倒的なスペクタクルだろうか。
2020年、“コロナ禍”の真っ只中。1980年公開のこの国産超大作を、今このタイミングで鑑賞したことは、極めて稀有な映画体験だと言えよう。
新型コロナウイルス感染症の蔓延とそれに伴う悲劇が、全世界的に収束しない今の時世において、このSF映画が描き出したパニックと世界の“終末”は、決して大袈裟ではない「予言」であり、恐怖であった。
序盤のパンデミック描写はまさに今現在の社会の有様そのものだったし、そこから展開される人類死滅の地獄絵図は、とことん絶望的で遠慮がなかった。
そして、世界の人口が南極に取り残された数百人のみとなっても、さらなる破滅の進行を余儀なくされる人類の行く末には、恐怖や憤りを遥かに超えて、只々虚無感を覚えた。
その“虚無感”は、今作同様に明確な滅亡の最中を生きる人類の顛末を描いた「渚にて(1959・米)」や、冷戦下における核戦争の危機を真摯に描ききった「未知なる飛行/フェイルセイフ(1964・米)」を彷彿とさせる。
両作とも、冷戦時代のアメリカで切実な危機感と共に製作された作品であり、傑作だった。
ソリッドに研ぎ澄まされたこれらの作品と比べると、今作は大味だし、稚拙なウェットさがあることは否めない。
ただし、冒頭に記したとおり、超大なスペクタクルを伴った映画的な圧力が、また別の魅力と価値を生み出していると思った。
地球全体を舞台にしたSF的なパニックと恐怖、それに伴う残酷と慈悲の釣瓶打ちが凄まじい。
それはやはり当時隆盛を極めた「角川映画」だからこそ仕掛けることができ、実現し得た映画企画であったろうし、監督を務めた深作欣二による絶対的な支配力がなし得た結果だと思う。
ロケーション、キャスティング、バジェット、そして映画人たちのエネルギー、映画製作におけるあらゆる規模が今現在の日本映画界の比ではなく、その“スケール感”に圧倒される。
更には、小松左京のSF小説を原作にしたストーリーテリングが、SFパニック映画としての物語性を深め、映画世界を芳醇にしている。
世界の人口が数百人になった時、それまでの人間社会の倫理観や価値観などは、一旦無に帰す。
そこには、“感情”を抑制し、生物として存続することの残酷な真意が明確に映し出されていたと思う。
「戦争」と「疫病」、それはいつの時代においても、人類の最大の“敵”であり、“弱点”そのものであろう。
むしろ人類史自体が、戦争と疫病の繰り返しによって形成されていると言っても過言ではないのかもしれない。
そうであるのならば、非力で愚かな人類には、打ち勝つすべも可能性もそもそも存在しないのではないか……。
燃え盛る巨大な落日を目の当たりにして、“男”は一人、立ち尽くす。
それでも……それでもだ。我々人類が最後の最後まで手繰るべきものは、「希望」であり、「愛」であるという帰着。
落日の絶望感に殆ど押し潰されながら、それでも男は歩み出す。
その様は、巨大な絶望に対してあまりにも無力で、脆弱に映るけれど、どこまでいってもその先に「明日」があるのだと、今この世界に生きる人類の一人として、信じたい。
「Life is wonderful (人生はいいものだ)」と言い続けることが、唯一にして最大の抗いなのかもしれない。