35.《ネタバレ》 昨今の、安っぽい ハッタリを利かせたホラー物とは、明らかに一線を画す怪作です。
恐怖を暴力的に振り回すのではなく、小泉八雲の「怪談」の世界を「超アナログなSF」として捉え、非現実世界を舞台に、真剣に「耽美・妖美」に向き合った映画なのです。
水の中に落とされる黒、赤のインクの不穏で不吉な美しいオープニングから圧倒されました。
特にオムニバス形式の1話と2話は仰天モノです。
第1話の「黒髪」は非物理的なものと肉体的なものの対比がおもしろかった。
心や精神(この場合は執着、怨念)という非物理的なものは残存し、時間の経過の前には肉体(そして家屋)という物理的なものは脆くも朽ち果ててしまった というお話。
ラストは妻の肉体の崩壊が発覚するとともに家屋の老朽も露呈。
その家屋を次なる崩壊へと促進するのが、とりもなおさず妻を死に追いやった主人公なのだ。
恐怖から逃れるためにバリバリと家屋を壊しながら自らも老朽していく恐怖は 凄まじい。
妻の肉体崩壊の発覚を期に家屋崩壊と自らの肉体崩壊がリンクしていくのです。
「執着の残存」と「家屋や肉体の老朽と崩壊」この図式を際立たせる為に、あの不必要なほどでかいセットが必要だったのですね。
しかもメロディを廃した、精神的キシミ、肉体的・物的キシミをデフォルメしたあの音楽!(60年代の大島渚のあの凄まじい作品群は 美術・音楽ともにこの映画の存在が大きいことを今さらながら発見しました。)
第2話の「雪女」は悲しい母性の物語であり、悲しい恋の物語と感じました。
目的は監視だったのでしょう。ホリゾントに浮かぶ眼がそれを示していると思います。
それが男と姑の人間性に触れて結婚。子供まで設けてしまう。
ささやかな幸せの毎日。しかしそれも永遠ではなかったわけです。
とうてい男を殺せるわけもなく、子供を案じながら家を出ていく彼女の姿が、哀れで、いとおしく感じてしまいました。
男がソッと置いたわらじも雪の中、フッと消えていきました。
きっと、ささやかながら、穏やかだった幸せの証として、感謝しながら持って行った。と私は思いたい。