13.《ネタバレ》 TVシリーズ含め、過去作からずーっと観て来て「凄い作品だなー」と思いながらも、同時に何度もガッカリして来たエヴァ。
庵野さんを脳髄と心に植え付けられたのは「トップをねらえ!」からで、あの能天気かつ「カッコイイと思ったものは全部入れちゃえ!」的な作風が好きだった。
岡田斗司夫さんによって明るく能天気に始まったシリーズだったけど、やっぱり4話以降の後半は(庵野監督の持ち味だろう)「ダークな終末」で終了した。
よく「後半は暗い」との談を聞く。
そして、「好きだったのは前半(の能天気部分)だ」とも。
能天気とは強烈なインパクトの塊だ。
けど、「芸人的なお笑い」もそうだが、能天気に広げたものを、テイよく収束させるのはメチャクチャ難しい。
そして、(ダークであれ)渾身の力で収束させたモノに「前半の明るさが良かったのに…」と、言うならば(ユーザーの批判なら仕方ないけども)プロとして代案を持たねばならないのに、それもないままなのが至極残念だ。
さて、ガイナックス(だった頃の)の、明るい岡田斗司夫とダークな庵野監督との関係。
「オネアミスの翼」、「トップをねらえ!」…そして「ナディア」を観てると、次第に岡田さんとの距離感も開き、庵野さんの独壇場となっている。
特に、エヴァンゲリオンは「庵野さんの好きにしていい」と始まった作品だから、本人の持ち味のひとつである「ダーク」さに、傾倒して進行した。
さて、「ダーク」とは「闇」……庵野さんはダークだ。
庵野監督は、幼児の頃から、ずーっと「好きなモノ」を追いかけつつも、ダークを受け入れて過ごしたのかも知れない。
女性や人間関係の面倒な部分はさておき…ウルトラマン、ゴジラ、仮面ライダー、ファイヤーマンなどのカッコいいモノを追いかけてきた庵野さん。
エヴァはTV版から旧劇場版は、間違いなくダーク。
そして、ファンからは、その暗さに「ナニコレ?」の判定を下された。
そして新劇場版シリーズの「序」は、作風の構成がストレートで「あれ?…庵野さん(いい意味で)変わっちゃった?」と思ったけど、「破」から…特に「Q」は…ダークだった。
この上ないダークを纏い、庵野監督はいったい、この話をどこに向かわせようとしてるんだろう?なんて考えた。
それ以前に「精神と身体、大丈夫かな?」と(勝手に)心配したまま、色々と新劇場版のストーリーを全体論で検証した。
そんな中…新劇場版を最初から見直して「Q」での渚カヲルの言葉に驚愕した。
そうか、この世界は何度も何度もやり直してるんだ、と。
過去のダークな世界も、庵野さんは受け入れて、やり直しの世界の一部にしたんだ、と。
――素晴らしい。
己を肯定して物語を進め、人生も進めている。
本当に素晴らしい。
自分を否定したくなる箇所は、人間なら誰でもあるだろう。
――それを隠すのも人。
――それを正そうとするのも人。
けど…
――それを受け入れて自分の武器にする。
クリエイターにとって、これは至難の業だと思う。
俺は、仲間によく言う。
「本物のクリエイターになったら、性癖から頭の内容、心の器量まで、喜怒哀楽、嘘すら全部ダダ洩れになるぞ。」と。
けど、エヴァという作品で己を晒し、ボロボロになりながらも、最後の大円団まで導いた庵野監督。
いま思えば……
碇シンジは、庵野さんの冒険体なのだろう。
ダークに過ごした自分を、あのシンジの身体で、ありのままにアニメーションの世界で闊歩させたかったのではないだろうか?
そして、碇ゲンドウは…素の庵野さんだろう。
あの「人を受け入れない姿勢」や、心を開かないダークなところも…そして、人の拒んででも通したい野望も含めて。
何故か、ラストのゲンドウとユイの抱き合ってるシーン…あの美しさが胸を突き、ただ感動が溢れた。
碇シンジと碇ゲンドウの親子関係。
過ちも後悔も…過去を全部認めた上で、共に未来へと進む。
それこそが、新世紀に続く道なのかもしれない。
冬月が言った…「マリは、イスカリオテのマリア」と。
なら、最後のシンジとマリが走ってゆくシーン。
マリがマリアならば…あの、シンジは「ヨゼフ」となるのだろう。
ならば、きっと結ばれるはずの2人なのだ。
きっと、シンジとマリから生まれるだろう約束の子は「イエス」…。
彼こそが本当の新世紀に進むと信じる。
最高のリスペクトと…そして、安堵の気持ちを持ったままエヴァを見送りたい。
全ての、やっと繋がったエヴァに…ただ、万感の思いを込めて…有難う。
庵野監督、本当にお疲れさまでした。