15.梅雨明けした週末、それに合わせるように封切りされていた本作を観に行く。
正直なところ“期待”は半々といったところだった。
新海誠監督の前作「君の名は。」はちょっと異常なレベルの社会的大ヒットとなり、これを受けての次作は、否が応でも注目を集めることは必至で、それは「独善的」なこのアニメーション監督の作風にいい意味でも悪い意味でも影響を与えるだろうと思えた。
案の定、公開前からちょっと節操がないくらいの企業タイアップの乱れ打ちが目立ち、注目度と製作資金の潤沢さを感じる反面、あらゆるしがらみに覆われた相当に自由の利かない映画製作になったのではないかと危惧していた。
酷評も辞さない構えで鑑賞に至ったのだけれど、その危惧は全くの杞憂だった。
善し悪しはまず別としても、そこで繰り広げられたのは、前作以上、いや過去作のどれよりも“独善的”で“独りよがり”な新海誠監督の「セカイ観」全開の映画世界だった。
危惧された不自由さはむしろ皆無だったと言っていい。美しすぎる精巧なアニメーションは無論健在だが、その美しさと表裏一体の生々しくリアルな描写が観る者の心情をじわじわと抉ってくる。
現実の具体的な企業名や商品名が作中の至るところで映し出され、「現実感」を効果的に演出していた。そう、節操なく思われた企業タイアップだったが、監督と製作陣はそれを最大限に活かし、アニメ世界の重要なファクターとして表現してみせている。
タイトル「天気の子」が表すとおり、この国のあらゆる「天気」を表現したアニメーションはあまりにも美しく、それだけでこの映画の価値は揺るがないとすら思える。
しかし、この映画で表された美しさは、いびつで残酷だ。
主人公の少年少女たちは、この美しい世界の“底”で、文字通りに生命をすり減らしながら、喜びと希望を見出そうと奔走する。
それは決して安直な綺麗事ではなく、心身ともに追い詰めされた彼らがギリギリのところで保とうとした生きる「意味」だった。
この映画が描き出したストーリーテリング、そして主人公たちの帰着に対して、受け入れられない人は多いだろう。
彼らの「選択」は極めて破滅的な行為であることは間違いなく、想像よりもずっとカオスで狂気的な映画である。
セカイの“しくみ”も“理り”も関係ない。
彼らは、あまりにも無責任に、あまりにも独善的に、そして「確信」をもって、「大丈夫だ」と言い切る。
ならば、それがすべてだ。
世紀の“わがまま”を押し通す、若い生命の猛々しさと瑞々しさ、最高密度の「青臭さ」に、少なくとも僕は、涙が止まらなかった。
梅雨明けのタイミングで観に行って、なんと“梅雨明けしない”顛末には面食らったが、今、この国の夏に観なければ、あまりに勿体ない映画だ。