185.《ネタバレ》 この映画がアカデミー賞に値するかという意見については「当然」と主張したい。
なぜならほら、よく思い出してほしい。
戦争という背景、そして夫のいるヒロイン・・・夫とは燃えるような愛情ではなく情の延長線上にあるような関係、ヒロインに恋するアウトサイダーな香りのする男・・・
そう、あのハリウッドの不倫映画の名作「カサブランカ」臭がするのだから。
カサブランカの舞台は北アフリカのモロッコ。
そしてそのモロッコは、マレーネ・ディートリッヒ主演の不倫要素も含んでいたハリウッドのレジェンド的作品「モロッコ」の舞台でもある。
今やアカデミー会員の中身も、多様性を主張する声に押されて女性や有色人種の割合も増え、新しい価値観の風が吹き荒れている。
しかしちょっと前までは、大多数派である高齢の白人の男たちが牛耳る、高齢の白人の男たちのお祭りであった。
となれば、今から20年以上も前のこの「イングリッシュペイシェント」という往年の名作の香りを漂わせる不倫映画が、不倫のひとつやふたつはしてそうな昔のアカデミー会員のオジサマ&オジイサマ達に
「なんて懐かしい世界観!ワンダホー!」
…と思わせ、彼らの心にロックオンしても何の不思議もない。
アカデミーでこのような古典的な香りのする不倫映画がオスカーを受賞できたのは、まさに当時の”時代がそうさせた”ともいえよう。
そして「不倫なんてけがらわしい!作品にするなんてありえない!」と頭ごなしに否定しそうな、厄介すぎるフェミニストの人数が増えた現代のアカデミーにおいては、もう二度とオスカーを受賞することはないであろう(ゆえに、作ろうとする監督やプロデューサーもいないであろう)、貴重な類(不倫)の作品でもある。
劇中でアルマシー伯爵は、ひとりの女性を愛したことで、結果的には仲間をピストル自殺においこみ、あるいは飛行機での無理心中においこみ、さらに無関係だった人間でさえ敵軍にとらえられ指をはねられる運命へと引きずり込んでしまう。
「彼女以外の事はどうでもよかった」と、関係者だろうと無関係者だろうと彼らが死のうが体の一部を失おうが、彼女のもとに行くための飛行機とガソリンを手に入れるためだけに敵国に味方の地図を渡すアルマシー伯爵。
そこまでしても彼女を死なせてしまい、一番の目的であった彼女を手に入れることはできなかったアルマシー伯爵。
彼女に指輪を贈りたくても、彼女の左薬指にはすでに別の男の指輪。
でもシンブルなら贈っても夫の目に不自然ではない。
バザールでボッたくられながら買って彼女にプレゼントした、それはとても何気ないものだったけれど、彼女にとっては指輪以上の意味を持っていたのだろう。
アルマシー伯爵が瀕死の彼女の胸にペンダントにして身に付けられたシンブルを見つけて、初めて堰をきったように泣き崩れた場面では胸がどうしてもしめつけられた。
洞窟で死んでしまった彼女の、彼が好きだったという首の付け根(アルマシー海峡)に、そのシンブルの中にあるサフランの粉をこぼし、それで彼女の顔に化粧をほどこして、彼女を白い布で覆いお姫様だっこで洞窟から現れた彼は、まるで教会の中から花嫁を抱いて出てきた花婿のように錯覚した。
しかし彼女は死んでいて、彼女を飛行機に乗せて死に場所を求めてふたり旅立つ光景は、未来のない新婚旅行に見えてやるせなくなった。
どんなに愛しても、結婚して祝福されることのない関係・・・。
不倫は、愛情の深度と現実に起きる出来事とのギャップが 通常恋愛よりも大きいからこそ、見るものに、人間のやるせなさや、もどかしさ、やりきれなさ、どうにもならい閉塞感と悲壮な感情をこれでもかというほどに、かきたてる。
そういう意味で、けして映画のテーマとして否定してはならない、外せないカテゴリーであることは間違いないと思う。
(エロシーンばかり売りにした安っぽい不倫映画はダメだけど)
アルマシー伯爵の不倫からの安楽死という悲しい結末(闇)の後に、”私と関わった人は必ず死ぬ”というジンクスを破ったインド人彼氏との未来に希望を抱くジュリエット・ビノシュや、
積年の恨みを手離し恋人との未来に心弾ませるウィレム・デフォーというサイドエピソード(光)を描くことで、
「闇のあとには光が現れる」「闇夜の後には必ず夜明けが訪れる」
というイメージが、往年の名作のオマージュに感じられるこの北アフリカの自然と溶け合い、これだけアルマシー伯爵を起点に大勢のひとたちが悲しい運命をたどったというのに、最後はなぜかすがすがしい気持ちにさせる・・・
不倫のように複雑な味わいのある映画であった。