50.《ネタバレ》 久々に純粋に面白いと思える作品だった。
主人公ルーを演じるために12キロの減量をし、昼夜逆転の不摂生な生活をあえて送り、独特の不健康さと狂気を身につけて本作に臨んだジェイク・ジレンホール。彼の役者としての勘の良さ、器の大きさ、その余りある才能を改めて感じさせられる作品である。
本作はサイコパスの話だと聞いてはいたが、彼は本当にサイコパス(異常者)だろうか?
確かにサイコパスかもしれない。
だが、彼が持つ一面は、誰しもが持ちうる面ではなかろうか?
事故や火事などの現場で、興奮を隠せず(いや、隠しもせずが正しいだろう)カメラを高く掲げ、センセーショナルな場面をひたすら撮り続ける。
一般人にもよく見られる行動ではなかろうか?
カメラかスマホかの違いだけである。
ルーは言う。
「人が破滅する瞬間に僕は顔を出す」と。まるで死神だ。
他人の不幸を飯の種にする彼の生き方は、文字通り死神めいている。
しかしそれ以上に、現場でカメラを手にする彼は恐ろしいほど活き活きとしている。獲物を捉えた目は見開き、不敵な笑みで口元を歪ませるその様は、まさに狂気。
さながら不幸や生気を吸い取る死神である。
自らの天職(居場所)を見つけてしまった彼は、もう元には戻れない。
しかしながら、彼の持つ異常性は、果たして本当に先天的なものなのか?私は、彼の生い立ちにも異常性を呼び起こす要因があったのではないかと思えてならない。
作中で彼が家族や友人などの人間関係について言及するのは、ほんの3~4回だ。
最初は、鉄屑工場の社長に自分を売り込む時に「宝くじを当てるにもお金がないと始まらないと母は言っていた」と話す。
次に、ニーナと食事をしている時に「故郷に帰っても誰もいない」と話す。
さらに、ニーナに友達として夜の誘いをかけ、その矛盾をつかれたときに「友達は自分自身へ対する贈り物だろ?」と返す。
また「学生時代は自尊心が高すぎて妥協ができなかった」とも回顧している。
これらの発言から私は以下のように想像する。
彼は家族とは疎遠、もしくは既に家族は他界している。
恐らく彼の母親は厳格で、教育にも熱心だったと思われる。それは彼の発言には品と教養が感じ取れるからである。
彼が関わる人々(取材する住人でさえ)のほとんどは、「Fuck」や「Damn」などの汚い言葉を日常的に連呼している。
しかし彼はほとんど口にしない。
それどころか、彼は助手に対してでさえも「Please」や「Can I~?」を使い一定の尊重の念を表している。
そういった点からも、彼の教養の高さ、知性の高さが窺える。
恐らく、こういった行儀の良さがニーナや上役たちに気に入られる点でもあるのだろう。
しかし、彼は母親の期待に反して学業面では頭角を現さなかった。
故に学歴がない。基本的知能は高いだけに、それが彼にとって大きな挫折と劣等感となったのは想像に難くない。
理想と現実の乖離を認めることができなかった彼は、自尊心を高くして妥協しないでいることで、かろうじて自我を保っていたのかもしれない。
だから友達が出来ない。
知能の高さゆえ人を見下す癖のある彼は、周囲と折り合いをつけられず、友達の作り方が本当に解らなかったのだろう。
それを彼は、自身の努力不足、能力不足だと解釈してしまう。
自分の価値を高めて相手より上に立つことができれば、相手が自分を認め、崇めてくれて、友達になることができると考えたのだ。
その結果が「友達は自分自身(の努力や自己研磨)へのご褒美」という発言につながるのだろう。
彼の孤独は生活感や発言から窺えるものの、その奥に潜むのは、周囲(特に母親)に認められなかった劣等感と、彼を見下してきた周囲に対する復讐心のように感じられる。
ニーナほど年上の女性を好むのも、彼女に母親の姿を投影しているからかもしれない。
彼女に認められるために法を犯しても尽力する姿は、まるで母親に認められたい子どものよう。
反して、自分の要求に対して無条件降伏を彼女に促すのは、厳格な母親に向けたある種の復讐のようにも思える。
哀しい人間である。
これらはあくまで私の想像でしかないが、そういった視点で考えると、私はルーの非情で冷酷で下劣な品性を揶揄する気にはなれない。
本作は、ルーを通じて報道側の人間と視聴者に対する強烈なアンチテーゼなのかもしれない。
私たちは、いつだってルーになり得る。
ともすれば、いつだってルーのような人間を作り出してしまうのかもしれない。
それを肝に銘じなければならないと、私は思った。