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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  キングコング: 髑髏島の巨神
「怪獣がいっぱい出てきてたのしい!」  まるで幼稚園児並みの感想だけれど、実際この映画の素晴らしさを表現するにはこの一言で充分だと思う。 なぜならば、この映画の製作陣は、観客にそれ以外の感想を求めていないからだ。 むしろ、観客がどう思うかなんて二の次で、怪獣映画や特撮映画大好きでたまらない自分たち自身が、観たくて仕方がない怪獣映画を“オタク魂”全開で作りきったのだと思える。 「俺が観たいキングコングはこうだッ!!」 と、言わんばかりの振り切れた映画世界が、同じく怪獣映画ファンとして、もう堪らない。  当初この映画に対する自分の反応は正直薄かった。 2005年のピーター・ジャクソン監督によるリメイク版に対する記憶も新しく、“キングコング”という題材自体に、今更な思いが先行したこともその要因の一つだろう。 ピーター・ジャクソン版は決して悪い映画ではなく、あの監督ならではの膨大な映像的物量を楽しめたとは思うが、1933年のオリジナル版に対して良い意味でも悪い意味でも忠実だったことで、どうしても「時代錯誤」な印象が際立ち、現代の娯楽映画として熱く迫るものがなかった。 そもそも1933年のオリジナル版には、「黒人差別」に対するメタファーが含まれているとも言われ、そういう題材をそのままのテーマ性で描き出すというのは、やはり色々な観点から“無理”があったというものだ。  しかし、この新しい「キングコング」には、そういった幾つものリメイク版が孕んでいた時代錯誤感を一蹴する描写で満ち溢れていた。 過去作のように、コングが人間により“鎖”に縛られ屈服する姿などは一切描かれない。 彼は終始一貫して、神々しいほどに強大で、只々雄々しい。 唯一無二の島の巨神であり、絶大な尊敬と恐怖を等しく内包する「畏怖」の対象として尊厳を保ち続ける。 強敵(悪役怪獣)とのラストマッチの最中、絡まった巨大な鎖を引き千切って反撃する様は、まさにその過去作に対するアンチテーゼの象徴だった。  熱い。コングのドラミングに呼応するように血潮が湧き上がってくるようだった。  怪獣を圧倒的な「畏怖」の象徴として描き出すことこそが、「怪獣映画」の本懐だと僕は思う。 そのことを、正しい憧れと遊び心を持ってして追求したこの映画を否定する余地は微塵もない。   鑑賞後、友人が「5歳の息子を連れて観に行っていいか?」と聞いてきた。 僕は「PG12」指定もなんのその即座に“太鼓判”を押した。 どうやら存分に楽しめたようで、とてもとても羨ましい。僕もはやく我が息子と「怪獣映画」を観に行きたいものだ。  エンドロール後のシークエンスにもニヤつきが止まらなかったが、順調にいけば2020年に「あの対決」が実現するらしい。 その時、息子は6歳。叶うことなら今すぐにでも前売り券を買いに行きたい。
[映画館(字幕)] 10点(2017-03-26 22:04:28)(良:1票)
2.  キャロル(2015)
許されない恋に没入していく二人の女性が、強烈に惹かれ合い、惑い、激しく揺れ動く。 惹かれ合うほどに、喪失と決別を繰り返す二人がついに辿り着く真の「恍惚」。 ラスト、大女優の甘美な微笑は、この映画を彩る悦びも哀しみも、美しさも醜さすらも、その総てを呑み込み、支配するようだった。 エンドロールに画面が切り替わった瞬間、思わず「すごい」と、声が漏れた。  1950年代のNYを舞台にしたあまりにも堂々たる恋愛映画だった。 パトリシア・ハイスミスの原作は、1952年に“別名義”で出版され、1990年になって初めて実名義が公にされたらしい。2000年代に入ってようやく映画化の企画が進み始めたことからも、この物語がいかに「時代」に対する苦悩とともに生み出され、翻弄されてきたかが伝わってくる。  そして、紆余曲折を経て今この映画が完成に至ったことに、奇跡的な「運命」を感じずにはいられない。 「時代」そのものが、この映画を受け入れるに相応しい状態にようやく追いついたことは勿論だが、それよりも何よりも、この映画に相応しい「女優」が、この時代に存在したことに奇跡と運命を感じる。 言うまでもなく、“キャロル”を演じたケイト・ブランシェットが物凄いということ。  冒頭に記した通り、この大女優のラストの表情が無ければ、この映画は成立しなかっただろう。 もう一人の主人公“テレーズ”を演じたルーニー・マーラも本当に素晴らしかったが、彼女の存在だけでは今作は「傑作」止まりだっただろう。 ケイト・ブランシェットという現役最強最高の女優が存在したからこそ、この映画は「名作」と呼ぶに相応しい佇まいを得ている。 随分前から名女優ではあったのだけれど、この数年の彼女の女優としての存在感は、文字通り神々しく、他を圧倒している。  マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンら往年の大女優の存在感は、どれだけ時が経とうとも色褪せないが、将来その系譜に確実に名を連ねるであろう大女優の現在進行系のフィルモグラフィーをタイムリーに追えることに、改めて幸福感を覚える。   今作では、冒頭と終盤に同じシーンが視点を変えて繰り返される。 男から声をかけられる寸前のキャロルの唇の動き。冒頭シーンでは遠目に映し出されて何を発されているかは分からない。 逃れられない恍惚と共に、その言葉の“正体”に辿り着いたとき、テレーズと同様、総ての観客は、彼女の「虜」になっている。
[DVD(字幕)] 10点(2016-10-10 23:27:07)(良:2票)
3.  キング・オブ・コメディ(1982) 《ネタバレ》 
男がようやくたどり着いた“檜舞台”の直接的な描写を、この映画は一旦すっ飛ばす。 「え、ここを見せないのか」と一寸大いに不満に思ってしまったが、それも含めて巨匠と名優の手腕に踊らされていたようだ。 常軌を逸した行動を繰り広げる男が、コメディアンとして本当に成し遂げたかったことは何だったのか。 “ブラウン管”を通じてようやく映し出されたスタンダップコメディを目の当たりにして、彼の悲哀に溢れた「過去」と「真意」が見え隠れする。  想像の範疇を出ないけれど、何らかの「性質」を抱えて生まれた主人公は、早々に親からの教育を放棄され、学校では苛め抜かれ、それでも必死に自分自身の精神を守って生き抜いてきたのだろう。 そんな中で、唯一彼に優しく接してくれたのが、ヒロインの女性だったのかもしれない。  主人公のそういうあまりにもヘビーな青春時代の風景が、ラストのスタンダップコメディによって、映画の観客のみに投影される。そして、劇中の観客たちの「爆笑」が、その悲哀を更に深く、深く、増幅させる。  主人公の言動は終始一貫決して肯定できるものではない。“痛々しい”をとっくに通り越して、明確な犯罪行為の連続であるし、主人公も含め、あらゆる登場人物が「悲劇」を迎えていても何らおかしくない。 ただ、彼の必死さは火を見るよりも明らかに伝わってくる。そして、それが単なる虚栄心や功名心によるものではないことも。  果たして主人公は、このクソみたいな社会において、「自分」の存在が唯一“認識”される手段を強行し、成し遂げる。 そうして迎えたのは、個人的にはあまりにも想定外だったハッピーエンド。 しかし、ラストカットの彼の表情はどこか晴れない。そして、劇中でもっとも冷ややかで諦観的な視線を観客に向けている。 傍若無人のサクセスストリーの果てに、遂に“キング”と成った男は、何を得て、何を失ったのか。 マーティン・スコセッシと、ロバート・デ・ニーロは、「時代」を超えて、難しい問いを大衆に投げつける。脱帽。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-10-02 22:56:11)(良:1票)
4.  キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー
前作「ザ・ファースト・アベンジャー」は、当時公開間近だった超大作「アベンジャーズ」の布石であり前日譚である要素が強く、単体としては娯楽映画の魅力に欠けていたことは否めなかった。 ただし、「前日譚」と割り切っている以上、この映画のあり方はまったく問題なかったと今となっては思うし、「アベンジャーズ」でのキャプテンの存在感を目の当たりにした後では、この一連のマーベル作品シリーズの中でも極めて重要な作品だと思える。  そうして、再びマーベルの“大祭”第二弾を控え、満を持しての続編。前作と同様に布石、前振り的な要素は大いにある。 しかし、今作は前作と比較すると圧倒的に主人公キャプテン・アメリカのキャラクター性が完成している。  彼が“アベンジャーズ”の中で最も「地味」なキャラクターであることは言うまでもない。 純粋な戦闘能力としてのタイマンなら、ソーは勿論のこと、アイアンマンやハルクの足元にも及ばないだろう。 ただそれでもチームのリーダーは、“キャプテン”を置いて他にいない。 それは、彼の最大のストロングポイントが、決して人体実験で生み出された超人的パワーなどではないからだ。 キャプテン・アメリカとなる前の一兵卒スティーブ・ロジャーズ本人が持つ揺るがない「正義感」こそが、このスーパーヒーローの最大のストロングポイントであり唯一無二の武器なのだ。  そのキャラクター性は、あまりに理想主義的で、あまりに青臭い。 でも誰も彼のことを否定などできない。  エネルギー破など出せず、飛ぶことも出来ない。 けれども決してひるむことなく、ひたすらに走り、ひたすらに盾を投げつけ、ひたすらに投げた盾を拾い、ひたすらに敵を叩く。 その姿を見て、どのヒーローも本質的な部分において「彼には敵わない」と思うのだろう。  勿論、弱みを突かれてのピンチには事欠かない。 ただしいつも彼には強力な仲間がいる。 真面目さが仇になるとあらば、ブラック・ウィドウが世渡りと危険回避の巧みさでフォローするし(あとガールフレンドの斡旋も)、空が飛べないとあらば、新戦力ファルコンが翼を与える。  自らが勝利する必要はない。結果として正義が悪に打ち勝てばそれでいい。 それが、キャプテン・アメリカというヒーローなのだ。  そういうことを、きっちりと“生真面目”に映し出すこの映画が面白くないわけがない。     (2018.5.12 再鑑賞)  この「キャプテン・アメリカ」の第二弾が、MCUの本流ど真ん中を紡ぐ作品でありながら、映画単体として非常に高評価を得たのは、ポリティカルサスペンスとしてのテーマの鋭さに尽きる。  即ち、「正義」を司る組織として存在していた“S.H.I.E.L.D.”が、実のところその中核的なところから「悪」によって動かされていたという、あまりにも虚無的な事実。 もはや、何が「正義」で、何が「悪」なのか。その言葉の意味すら曖昧になり、濃く深い霧の中に入り込んでいくような感覚。 そしてそれが、荒唐無稽なフィクションである筈の映画世界を超えて、現実世界の実情とリンクしてくるという絶望感。  ただ、そんな混沌とした状況だからこそ、我らがキャプテンは最後の最後まで、「親友」を見捨てることが出来なかったのだとも思う。 その感情は、この無慈悲な世界において、あまりにも不確かで危ういことだけれど、人間に唯一残された希望のようにも思える。  それは、70年の時を経て、変わらぬ愚かな世界の混沌の中で、「正義」の意味を背負い続けるヒーローが語るに相応しいテーマ性だ。
[映画館(字幕)] 9点(2014-04-28 00:01:37)(良:3票)
5.  キャビン
「面白かった」 映画を観た感想を表現する言葉は様々だろうが、もっとも単純で且つもっとも重要なことは、鑑賞直後にこの一言が頭に浮かぶかどうかだろうと思う。 観る者を、“恐怖”に直結した好奇心でまず掴み、数多の映画を観てきた者でさえ想像し難い“驚き”をもって揺さぶり、未体験の“高揚感”で包み込んで、爆発させる。 映画としての「粗」はありまくる。しかし、この映画の新しさは、そのすべてを一蹴し、「見事」の一言に尽きる。  「ホラー映画」の定石。そのお決まりのベタさに、そうでなければならない「理由」があったとしたら? そのアイデアを具現化し、問答無用の娯楽映画として貫き通した時点で、この映画の勝利は確定したと言っていい。  滅茶苦茶な映画ではあるけれど、ちゃんと真剣に滅茶苦茶なので完成度が高い。 この映画はそういう類いの作品で、どれくらい“本気”でこの「設定」を受け入れられるかどうかで、“是非”の判別は大きく揺れ動くことだろう。 “非”と判別する人も多いのかもしれないが、それは非常に不幸な事だと思わざるを得ない。 ストーリーの根底にある一つの「設定」を受け入れ、「そういうことならば仕方がない」と認識すれば、強引に思える数々の描写のすべてがきちんとまかり通るように出来ている。  極めて強引な映画ではあるけれど、強引な設定をしっかりと強引に引っ張り上げることで、ちゃんと整合性を付加していると思う。 例えば、一見するとあまりに非人道的でふざけすぎていると思えるある人間たちの描写も、諸々の設定と彼らが置かれている立場を冷静に鑑みれば、その心情と言動にも整合性が見えてくる。  そういう意味では、この映画は“アイデア一発”のように見えて、非常に練られたシノプスが魅力的な作品であることが分かる。  詰まるところ、要はノレるかノレないか。 そして、大概の場合、映画なんてものはノッたもん勝ち。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-24 16:41:11)(良:2票)
6.  キック・アス
数ヶ月前、某ニュースサイトのトピックスで、今作に主演した御年13歳の女優が注目の的に挙げらていた。 記事に掲載されていた本人画像を見て、「これ、ほんとに13歳か?」と、あまりに魅惑的な表情に唖然としてしまった。  それが、この映画の“スーパーヒロイン”を演じたクロエ・グレース・モレッツだ。  撮影当時は11歳の彼女が、放送禁止用語を連発しながら、悪党を次々に“虐殺”していく。 極端な娯楽映画であることは重々認識していながら、ほんとうに久しぶりに、「これは教育的によくない映画だなあ」心底思いながら、終止ほくそ笑み続けた映画だった。  アメコミのヒーロー映画は大好きで、散々観てきた。きっと、この映画の製作陣も、アメコミが大好きで、数多のヒーロー映画を心からリスペクトしているのだろうと思う。 そういうことを踏まえて、敢えて言いたい。  「サイコーに面白いヒーロー映画だ!」と。   冴えないオタク学生が、マスターベーション的ヒーローと成ることからストーリーは転じ始める。 実際、その“テイスト”だけでも充分にコメディ映画としては面白い。 “彼=キック・アス”を単独の主役として貫き通したとしても、娯楽映画として確実に評価に値する作品に仕上がっていたことだろう。  ただ、この映画が一筋縄ではいかないのは、前述の“11歳のスーパーヒロイン”の存在に他ならない。 主人公“キック・アス”の存在が、クロエ・モレッツが演じる”ヒット・ガール”と、ニコラス・ケイジ演じる“ビッグ・ダディ”のコンビを引き立たせるための“前フリ”となった時点で、映画は劇的に加速していく。    そして、最終的にはしっかりと“主人公”を活躍させてくれるという、分かりきった“くすぐり”が、問答無用にテンションを高揚させてくれて、深夜にも関わらず、馬鹿笑いが止まらなかった……。  「バットマン」をはじめとする“ヒーロー映画”のパロディに端を発している映画であることは間違いないが、その範疇をひょいっと越えた、唯一無二の娯楽性を携えたオリジナリティ溢れる“ヒーロー映画”の誕生だと思う。   P.S. そして、13歳の時に出演した「レオン」で一躍スターダムにのし上がったナタリー・ポートマンが、アカデミー賞主演女優賞を受賞したこのタイミングだからこそ、 クロエ・グレース・モレッツの、女優としての将来性には期待せずにはいられない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-03-20 01:23:50)(良:1票)
7.  キング・コング(1933)
70年以上前に作られたこの大スペクタクル映画を、70年後の現在も容易に見られるということになんだか感慨深さを覚える。後に作られたリメイク作と違い、あくまで空想冒険映画というスタンスを貫き通し、意図せずに人間のエゴイズムを表現してしまっていることに、良い意味でも悪い意味でも“時代”を感じる。しかしその部分こそ、この映画が秀逸な特撮技術という魅力を超越して魅せるパワーであり、映画史における“価値”なのかもしれない。
9点(2005-02-02 17:55:08)(良:1票)
8.  キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
200分を超えた物語の終着点で、主人公のアーネスト・バークハートは、劇中最も情けなく、そして力ない表情で、傍らにいたFBI捜査官の方を振り向く。気丈な捜査官も、思わず目を背けてしまうくらいに、主人公のその様とそれに至った妻に対する「回答」は、愚かすぎて目も当てられない。 この映画は、米国史上における確固たる「闇」と、その中で蠢いた人間たちの悍ましさ、そして罪を犯し続けた一人の男のひたすらな愚かさを容赦なく描きつけている。  主演のレオナルド・ディカプリオが本作で演じたアーネスト・バークハートという男は、おそらく彼のフィルモグラフィーの中で最も愚かで救いのない人間だったに違いない。 それ故に、本作の製作に当たって当初は事件を究明するFBI捜査官の方を演じる予定だったところを、自らの判断でこの愚男に配役を変え、演じきったディカプリオは、すっかり骨太な映画人だなと思う。  マーティン・スコセッシ監督の最新作に、彼が長年に渡ってタッグを組み続けたロバート・デ・ニーロとレオナルド・ディカプリオが揃い踏みするという事実は、世界中の映画ファンにとってやはりスペシャルなことであり、むしろそれこそが「事件」と言えよう。 それが206分という異様な上映時間であったとしても映画館に足を運ばずにはいられなかった。  1920年代のオクラホマ州で起きた先住民族“オーセージ族”を対象にした連続殺人事件の真相と顛末を描いた実録犯罪映画。 206分という上映時間には流石に構えてしまったが、実際に鑑賞が始まると、そこはやはり大巨匠の独壇場、プロローグシーンから一気に映画世界に引き込まれる。 オクラホマの荒野に追いやられた先住民族が、油田の発掘により一転して莫大な富を得て、そのオイルマネーに群がる白人たちの操作と支配、陰謀によって運命を狂わされていく様が、努めて淡々と描き出される。 実話ベースのストーリーテリング故に、そこには大仰な映画的な派手さや、劇的な顛末は存在しない。ただだからこそ、一人ひとりの人間の本質が、丁寧に、生々しくあぶり出されていくようだった。  前述の愚男を演じたレオナルド・ディカプリオ、そして、人間の悪意をそのものを演じきるロバート・デ・ニーロの競演からは、人間が孕む闇と腐臭が匂い立ってくるようだった。終盤、それに群がるかのように飛び回る蝿の羽音が不快感を助長していた。  また、両者の間で身も心も侵食されるオーセージ族の一人であり、主人公の妻を演じたリリー・グラッドストーンの存在感も抜群だった。 只々、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶように、沈黙を守り、最後の最後まで愚かな夫への“赦し”を与えようとするその姿は、とても美しく、神々しい。 劇中、白人は神の存在を都合よく語り、オーセージ族も自分たちの信仰を貫く、がしかし、本当の「神」とは、一人ひとりの人間の中にこそ生まれ存在するものなのではないか。というようなことを、主人公の妻モリーの生き様から感じた。  時代や場所、価値観や常識を超えて、迫害や侵害を念頭に置いた理不尽な暴力は、この世界のあちらこちらで今なお繰り広げられ続けている。 本作で綴られたことは、決して「物語」ではなく、無情で端的な事実であるということを、映画の最後、自ら登場したマーティン・スコセッシは、強く強く伝える。
[映画館(字幕)] 8点(2023-11-11 00:47:33)
9.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2019-03-23 13:18:42)(良:1票)
10.  キャプテン・フィリップス
あらゆる側面において、真っ当な映画だったと思う。  実話を元に描いているとはいえ、これほどまでに徹底的に描くべきことをきちんと描ける映画はそれ程多くない。    先ずはこの映画の主演にトム・ハンクスをキャスティングした真っ当さ。  ヒーロー役が似合う華やかなスター俳優などを起用してしまったならば、分かりやすい娯楽性は高まるだろうが、この映画が求めるべきリアリティは著しく損なわれてしまったことだろう。 (勿論、この名優に華がないというわけではない) 絶体絶命の危機の中で、この主人公が見せるリーダーシップと勇気と智恵、そして執拗に突きつけられる恐怖感、そういったものを決して大袈裟すぎない絶妙なバランスで表現できる俳優は、やはりトム・ハンクスを置いて他にいなかったろうと思う。    次にソマリア海賊を演じた無名俳優たちのリアリティを追求した真っ当さ。  本当にソマリア出身の人材を見出し、主要キャストに配したことは、この映画の類い稀な説得力と成り得ている。  特に海賊側のリーダーを演じたバーカッド・アブディの存在感は抜群だった。風貌から喋り方に至るまで、映画におけるその支配力は時に名優トム・ハンクスをも凌駕していたと思う。    そして、ポール・グリーンダグラス監督による演出の真っ当さ。  元々、抑制の利いたリアルな描写が巧い監督ではあるが、今作でもその演出力は際立っている。  もっとエンターテイメントに走ったり、船長と海賊両者のバッググラウンドをドラマティックに描き出すことも容易だった筈だ。  しかしそれをせず、ひたすらに実際に起こったであろう描写のみを連ねた構成は、映画として極めて潔く、特筆すべき緊迫感を終始観る者に与え続ける。    その潔さは、今この瞬間も起こり得ている事実を描いているということへの責任と覚悟の表れだと思える。  無政府状態のソマリア、世界中の人々に荒らされた漁場、行き場を失った漁民たち……。  劣悪な環境の中で叩き起こされ、“彼ら”は海賊行為に駆り出される。  最初から彼らに「後退」という選択肢は無かったのだろう。  勿論、海賊行為を続ける彼らに対して肯定も同情もするつもりはない。    ただ、米国海軍の圧倒的な兵力の前に、完全敗北を喫した海賊のリーダーからは、茫然自失の中に一寸の安堵感が垣間見えた気がした。 
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2014-03-21 01:39:03)(良:1票)
11.  キャリー(1976)
無類の“ホラー映画嫌い”なので、映画史上に残る超有名作品でありながら、ずうっと敬遠してきた作品の一つだった。 ただ、三十路を越えていい大人の映画ファンが、「怖い」からといって問答無用に毛嫌いするのもいかがなものかと思い始めていた。 そんな折、劇場で間もなく公開されるリメイク版の予告を観て、ちょっと気になったので、今作のジャケットを“初めて”手に取った。 「あー主演はシシー・スペイセクなんだ」とか「え、デ・パルマ監督作なの!?」と、おおよそ映画ファンらしくない無知ぶりを露呈しつつ、初鑑賞に至った。  率直な感想としてまず感じたことは、「これはホラー映画なのか?」という疑問。 恐ろしい部分は確かに恐ろしいけれど、それよりも哀しい少女の哀しい青春映画ということに対してのインパクトの方がずっと大きかった。  ただ普通でいたかった少女が、あらゆる不遇の中でもがき苦しみ、ほんの一瞬垣間見た光の眩い美しさと、即座に閉ざされる果てしない悲劇。 「恐怖」によるインパクトはあくまで装飾的なものであり、主人公の少女のめくるめく悲哀に胸が締め付けられたことは、本当に想定外のことだった。  その映画世界にはやはり巨匠ブライアン・デ・パルマ監督の多彩なカメラワークによる映画術が光る。 おぞましい場面はどこまでもおぞましく、一転して美しい場面はどこまでも美しい。 その映像的なギャップは、少女の心象風景そのものをまさに映し出していて、「流石」の一言に尽きる。  そして何と言っても主人公“キャリー”を演じたシシー・スペイセクが素晴らしい。 不遇の鬱積にまみれた序盤の姿では、大衆から拒絶されるにある意味相応しい“歪さ”をこの上なく体現し、一転、光を追い求め彼女の人生における最高の「舞台」に駆け上がる姿は、目を疑う美しさに溢れている。 そしてクライマックスにおける“悲劇的大解放”に伴う怒りと憎しみと豚の血にまみれたあの姿!  映画としては、展開的に唐突で説明不足な部分は多々あるのだけれど、この主演女優の奇跡的な表現力が、そのすべてを打ち消しているとさえ思えた。  どの映画も突き詰めればそうなのだろうけれど、この映画は特にどういう「解釈」をするかどうかで賛否は大いに分かれる作品だと思う。 また数多の知識を踏まえて繰り返し観る程に、その解釈に深みが生まれ、味わい深くなる作品だとも思う。
[DVD(字幕)] 8点(2013-10-27 01:17:15)
12.  キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー
「アイアンマン」以降、ここ数年間のマーベル作品は、いよいよ公開間近の超大作「アベンジャーズ」の贅沢な「布石」としての立ち位置のものが多く、“祭り”開催前のカウントダウン的な高揚感を持てるかどうかで単体映画としての楽しめ方は大いに変わってくる。 そういう意味で、「アベンジャーズ」公開前の最後の布石となった今作は、特に“前日譚”的なニュアンスが色濃く、もし「アベンジャーズ」に対して大した期待を持っていないのならば、酷くありきたりで退屈な映画に見えても仕方ない仕上がりになっていると思う。  敢えてマイナス要素から挙げるならば、アメコミ映画の最大の見所であるべきアクションシーンがつまらない。世界大戦当時が舞台となっているとはいえ、繰り返されるアクションのシークエンスがことごとく古臭く見え、テンションが上がってこなかった。 ひたすら“盾”を投げつけて敵を倒していくキャプテン・アメリカの闘い方そのものに工夫が無く極めて地味だったと言わざるを得ない。  ヒューゴ・ウィービングが演じる悪役も、「本性」を見せる前まではウィービング独特の雰囲気が功を奏し独特の禍々しさを携えていて好感が持てたものの、“レッドスカル”としての姿を露にした途端、悪い方向に“マンガ的”に映ってしまい、それまであった存在感がトーンダウンしてしまっていると思う。 この悪役の存在感の弱さが、スーパーヒーローの地味さに直結してしまっていることは明らかで、スーパーヒーロー映画において悪役の存在性が重要であることを皮肉にも表してしまっている。  一方で、主人公の生い立ちそのものとスーパーヒーローに成っていくプロセスには、他のスーパーヒーローにはない哀愁があり惹き付けられた。 脆弱な“チビ”そのものの主人公が溢れる正義感を抑えきれず、自らの身体と人生を捧げていく様には、どうしたって応援したくなる魅力があり、このキャラクターが愛される理由がよく分かる。 その主人公のそもそもの人間性に裏打ちさせたこの映画のクライマックスの顛末にも、ありきたりではあるけれど素直に感動させられてしまったと言える。  そうしてお決まりのように付加されている「アベンジャーズ」へのエピローグ。むしろこのエピローグこそが最大の高揚ポイントであることは、この映画単体としては非常に問題だが、いやが上にも“アガッて”しまうことは否定出来ない。   (2018.5.8再鑑賞) 「キャプテン・アメリカ」シリーズは、マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群の連なりの中でも、ある意味「アイアンマン」以上にストーリーラインの根幹を成すものだ。 その理由は明確で、主人公であるキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース自身が、70年の年月を経て蘇った“アベンジャーズ”の「歴史」そのものだからだ。  ただ、この映画の初見時は、“マーベル・コミック”や“アベンジャーズ”に対して全くの門外漢だったため、“キャップ”の存在性と活躍ぶりに対して表面的な古臭さばかりを見てしまい、終始それ程の高揚感を得られなかった。 ストーリー上に登場する様々なキーワードや固有名詞も、この映画の公開時点では、正直何のことだか分かっていなかった。 ヴィランの“レッドスカル”の「退場」シーンなんて、この時点では殆ど“意味不明”レベルじゃないか。  が、しかしだ。「インフィニティ・ウォー」に至るまでMCUの全作品を経てきた今、この「キャプテン・アメリカ」第一作を再鑑賞し、「こんなに良い映画だったのか!」と、目から鱗と涙が落ちまくった。  先ず、MCUの根幹的作品であるという存在価値以前に、第二次世界大戦を舞台にした「戦争映画」として、そして超人戦士の誕生と葛藤を描いた「科学映画」として申し分なく面白い。 冒頭の“ゴミ箱の蓋”を掲げるひ弱だけれども誰よりも正義感に溢れるスティーブの姿から、図らずも70年の時を超えてしまい「ただちょっと、デートの約束が……」と途方に暮れるキャップの姿に至るまで、あらゆる場面が映画的な娯楽性の醍醐味に溢れている。  そして今やだれもが認める“リーダー”であるキャプテン・アメリカの強さの本質を描く今作は、「ヒーロー」という存在の意味そのものを強く語りかけてくる。  レッドスカルの存在感も、「インフィニティ・ウォー」で明らかにされた顛末を踏まえると、殊更に際立つ。
[DVD(字幕)] 8点(2012-02-28 18:40:13)
13.  きみがぼくを見つけた日 《ネタバレ》 
自制できないタイムトラベラー能力に苦しみながら生きる男。そんな男を愛してしまった女。切なく美しい愛の物語。 というプロットは、少しばかり安直過ぎて、映画をよく見る人ならばやや敬遠してしまうだろう。  実際、ストーリーの完成度は決して高いとは言えず、設定も強引で整合性に欠ける。 つまりは、良く出来た映画ではない。  ただし、僕の中では「好きな映画」として記憶されると思う。   ハネムーンでオーストラリアに行った。その帰国便の機内でこの映画を観た。 夢のような日々から日常への帰路、映画を観ることで、ささやかな現実逃避を図りたかったのかもしれない。隣ではそうなったばかりの“妻”が眠っている。 そんな状況で選んだ久しぶりの恋愛映画だった。  先にも言った通り、そもそもの設定にやや無理はある。 いつ何時”タイムリープ”してしまう男と恋に落ち、結婚してしまうなんて、そんなこと普通の理屈では有り得ない。  でも、これは「映画」であり、人が人を愛するということに「理屈」は関係ない。 綺麗ごとであるが、それは圧倒的に正しい。  切ない運命によって別れを「覚悟」する夫婦のキスを見たとき、胸が締め付けられ、涙が溢れた。 何がどうであれ、感情を揺さぶられ涙が出る。 映画を観るということにおいて、それ以上に必要なことなんて実際無い。  そしてそれは、観る人の状態や環境によって大いにうつろう。 それで良いと思う。それが良いと思う。  P.S. ただこの邦題は最悪だと思う。原題「The Time Traveler's Wife」の方がよっぽど機知に富んでいて良いと思う。というか、これでは主眼の捉え方が変わってしまう……。 
[地上波(字幕)] 8点(2009-11-24 23:21:34)
14.  キャットウーマン
“女+猫+ヒーロー=キャットウーマン”この構図は映画の素材として非常にユニークで巧いと思う。 男のヒーロー映画が蔓延している中、「女のヒーロー映画を作ろう!」というのはとても正当な論理であろう。  しかし、そのヒーローをひたすらに正義に没頭させては何の意味もない。 言わせてもらえば、脇目もふらずに正義を貫けるのは、無邪気で幼稚な“男”しかできない発想であろう。 ムカつくヤツは叩きのめし(猫パンチ)、恋もすれば、泣きもする、 そして何よりも“自由”を求める。女がヒーローになるというのはそういうことだ。 この映画はその真理を徹底して表現している。  そして、艶かしいボディを惜し気もなく見せつけるアカデミー賞女優のヒーローっぷり。なんだか大げさだけど、この単純な娯楽映画の中に、荒れ狂う厳しい世の中を己の体ひとつでのし上がっていく強い女の現代像を見た気がする。
[映画館(字幕)] 8点(2004-11-05 00:03:53)(良:3票)
15.  キル・ビル Vol.2
この映画に対してこの言葉はあまりに似つかわしくないが、エンドクレジットが終わると同時に受けた率直な感想としての言葉は「安堵感」であった。そう、それは鬼才クエンティン・タランティーノのタランティーノらしさに対する安堵感だと思う。いささか暴走気味であった前作を引き継ぎ、「キル・ビル」という一本の作品をまとめ上げる続編としてVol.2は非常に完成されていた。何と言っても、タランティーノ節と言える会話の中の緊張感に圧倒される。長い沈黙を経てタランティーノが打ち出したこの映画世界は、様々な映画に対するオマージュでありパクリだと言われる。しかしそこにあったのはそれらすべてを超越した凄まじいまでのオリジナルだったと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2004-04-28 18:51:13)(良:2票)
16.  ギルバート・グレイプ
特にストーリーが感動的なわけではない。しかし、人々の生き方、生き様を極めて真摯に描き出すことによって生まれる感動は、強くシンプルに胸に突き刺さる。そういう映画をさらりと(実際は容易なことではないだろうが)見せてくるこの監督の力量は計り知れない。レオナルド・ディカプリオは好きではないが、その実力は認めている。それは限りなく最高点まで実力を引き出されたこの映画を観ているからだ。
8点(2003-11-08 01:46:00)
17.  逆転のトライアングル
とどのつまり、人間社会というものは、「格差」とそれに伴う「階層」を取り払うことなんてできない、ということを本作の終着点における虚無感は物語っている。  現代社会において、全世界的に“格差の是正”が問題提起されていたり、幅広い要素での“ポリティカル・コレクトネス”がともすれば病的なまでに声高に叫ばれている昨今ではあるけれど、果たしてそこに本質的な理解と実行力が伴っているのか。 結局、聞こえの良い言葉を一種のトレンドや、免罪符のように振り回して、個々人の立場を正当化しているだけではないのか。 この映画の痛烈な批評性と、度を超えたブラックユーモアは、そういう現代社会の実態を痛々しく丸裸にしている。  俗世の象徴とも言える豪華客船に乗船した様々な“階層”に人々。彼らの中に、真に中立的で、公正な人間は存在しない。 本作の舞台となる豪華客船や無人島がこの世界の縮図を表している以上、それはすなわちこの世界に中立公正な人間は存在しないということの証明であろう。 したがって、本作を鑑賞したすべての“社会人”は、それぞれの信条や立場において、ものすごく居心地の悪さを感じることだろう。  ヨーロッパの映画(スウェーデン・フランス・イギリス・ドイツ合作)らしく、多様性に富んでいると同時に、ものすごく振り切ったブラックユーモアの連続がときに痛すぎる程に痛快で無慈悲なコメディ映画だった。 船が難破して無人島でのサバイバルが始まらなくとも、人間社会のヒエラルキーなんてものは、時代や価値観の変化によって突如として逆転するものだ。 その逆転が生じたとき、人間は己の中に確実に存在する“闇”を目の当たりにする。 それは、皆等しく業の深い人間には避けられないことなのかもしれない。   映画作品として意欲的すぎるシニカルさを称賛する反面、全体の構成としてはややバランス感に欠けている印象も拭えない。 主人公のカップルのみに焦点を当てたプロローグ的な一章目の描き方や、ヒエラルキーのあらゆる階層が“同乗”する豪華客船上を描いた二章目の作りは興味深かった。が、無人島が舞台となる三章目は、テーマに対する回答と帰着を描いているわりにはやや冗長に感じてしまい、よくあるシチュエーションでもあるので新鮮味が薄れてしまった。 ラストのオチを踏まえると、無人島パートはもっとスマートに、端的な愚かな人間たちの有様を描いてよかったように思う。  他の文化圏でリメイクされたならば、同じストリーテリングであったとしても、また別のどす黒いユーモアが新たな“闇”を浮かび上がらせるだろう。 虚しく、愚かしいことだけれど、それはそれで観てみたいなと、業深い人間に一人として思ってしまう。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-08-15 00:29:36)
18.  キック・アス ジャスティス・フォーエバー
衝撃の問題作でありながら、その類い稀なエンターテイメント性を世界中が“スルー不可避”だった前作「キック・アス」。 その待ちに待った続編に対しては、当然誰しもが、4年前の衝撃の再熱を期待しただろう。  前作で一躍若手女優のトップスターとなったクロエ嬢をはじめ、主要キャストをきちんと再結集させ、ジム・キャリー、ジョン・レグイザモら魅力的な新キャストを揃え、体制は万全だったと言える。 おそらく、前作の“二番煎じ”をすれば、大多数の観客は分かりやすく再び熱狂しただろう。  が、前作監督のマシュー・ボーンの後を引き継いだジェフ・ワドロウなる無名監督は、果敢にもその「既定路線」をハズしにかかった。 もしかすると、この続編に対して、前作ファンの多くは「愚かな」と否定するのかもしれない。自分自身、呆気にとられた感は否めない。  けれど、結果として大多数に受け入れられるか否かは別にして、この無名監督の挑戦(暴挙)は正しかったと思う。 別の言い方をすると、この「キック・アス」という映画素材において、「既定路線」と辿ることこそが愚かなことであり、どんな形であれ観客の思惑をハズしてなんぼということなのだと思えてならない。  前作の奇跡的な娯楽性に対してこの続編が遠く及ばないことは否定しない。 ただし、前作があってこそ描き出された今作であり、この映画世界が抱える本質的な魂みたいなものは決してハズレていない。ならば「続編」としてこれほど相応しい作品もないのではないかと思える。  詰めれば詰めるほど粗だらけの映画であることは間違いないし、そもそもこの映画の製作陣は“真っ当”に作ろうとなんて端からしていない。完全に独りよがりだったとしても、ただただ自分たちが作りたい(見たい)モノの構築に没頭している。  ならば観客は、前作の余韻を引きずりながら、前作にも増して歪な映画世界の中で再度クロエ・グレース・モレッツの「支配力」にただひたすらにうつつを抜かす。 それがこの映画の正しい鑑賞のしかただ。   ただし!ジム・キャリーの使い方はあまりに勿体なかった……。
[映画館(字幕)] 7点(2014-03-10 00:00:16)
19.  銀河ヒッチハイク・ガイド(2005)
「天地創造」の真理に何の変哲も無い“一般ピープル”が触れるという物語の設定は、藤子・F・不二雄のSF短編漫画を彷彿とさせる。 惑星の崩壊と再生という大スペクタクルが、SF的観点と哲学的思想を巡り巡って、一人の男の言動に集約されるという顛末は、個人的に非常に興味をそそられる題材で、知らず知らずに異様な映画世界に引き込まれていた。  レンタルショップをぶらりと巡って、タイトルを聞いたことも無かった今作を、製作年も誰が出演しているかも確かめぬまま、“衝動借り”した。 「ロスト・イン・スペース」的なスペース・コメディものだという認識で観始めて、概ねその想定は外れてはいなかったが、想像以上にシュールな展開には少々面食らった。 馴染み難い異質なコメディが怒濤の如く羅列されるため、序盤から中盤に至るまで、映画の世界観に入りきれなかった部分があることは否めない。 ノリ自体は嫌いではないが、この映画が伝える“真理”が掴みきれず、戸惑ってしまったというのが正直なところだろう。  しかし、壮大な宇宙哲学的な要素を踏まえて、ストーリーが想定に反して次第にディープに深まってくいくのを目の当たりにして、この映画の存在性そのものに対して興味が深まってきた。 何がどう導き出されるのかということにようやく焦点が定まり、「結論」に至るまで映画世界を堪能することが出来た。  大いなる宇宙意思の中であまりに小さい生命体が無数に存在していて、すべての生命体の行く末はその宇宙意思に委ねられているように見える。けれど、突き詰めてみれば、結局は或る一つの生命体の意思によって宇宙意思そのものの行方が変わっていくという無限のロジック。 即ち、その「問い」に「答え」などは存在せず、「問い」と「答え」のどちらが先かも定かにはならない。 ただ、だからこそどんなに小さな生命体であっても生存していく“意味”があって、その事実こそが最も素晴らしいことだという…………。  多分に独りよがりな要素や、“テキトー”で“チープ”な部分も多い映画だった。 でも、そういう永遠に答えが出ないことをつらつらと頭の片隅で考えつつ、生きていく事自体がほんの少し楽しくなるという、へんてこりんな映画であることは間違いないと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-05-15 00:11:18)(良:2票)
20.  キング・コング(2005)
この映画は紛れもなく1933年の「キング・コング」のリメイクなわけだが、実のところ肝心な部分が大いに違う。それは、劇中の登場人物、そして映画を観る観客の“コング”に対する感情の相違だ。1933年版には、コングに対する“情”はほとんどない。終始「空想冒険活劇」が貫かれ、それが結果として製作者らも含めた人間の素のエゴイズムを表現している。 逆に今作には、コングに対する情が溢れている。いやむしろそれメインに描いていると言っていいだろう。そのこと自体は別に良いと思う。現代の時代性を考えても、コングをただの“怪物”として描くことは、良識的に不可能であろう。 ただしかし、あれほどまでにコングが、動物的な愛らしさを携えているのはどうなのだろう?あそこまで感情豊かに描かれては、そりゃどうやったって感情移入するし、悲劇を迎えればジワリと涙腺はゆるむ……。 果たしてそれでいいのか?やはりもう少し、“キング・コング”という“怪物”に何故か生まれてくる“情”を巧く描き出してほしかったように思う。 まあそれでも、これだけの容量で大スペクタクルを見せられては、娯楽映画として満足するしかない。ただ、ある種仕方のないことかもしれないが、全体的に“大味”な感が残ってしまったことは否めないだろう。
[映画館(字幕)] 7点(2005-12-22 19:05:10)
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