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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 431
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 56歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  こわれゆく女
スリリングな映画。感情の揺れのままに場面が進み、拡散しながら、それが何処に到達するのか全く予測できない。特にピーター・フォークの過剰さ。それは不器用な優しさとプライドなのか、こわれていくジーナ・ローランズを見つめる眼差しも、焦点が合わないが故に、とても胸が詰まる。  確かに物語ではなく、瞬間のリアルだと言いたくなる気持ちは分かる。インプロヴィゼーション。それがジョン・カサヴェテスだと。でも、やはりそこに見え隠れする物語性、登場人物たちの過去と未来が思い浮かぶ。それが心に響く。
[インターネット(字幕)] 9点(2025-01-16 21:09:43)
2.  アバター:ウェイ・オブ・ウォーター 《ネタバレ》 
『アバター』は森、海、砂漠、山、極地と舞台を変えて続くらしい。『ウェイ・オブ・ウォーター』が期待以上に面白かったので、このサーガとても楽しみ。  『アバター』は既にストーリーテリングではなく、ストーリーの背後にある世界観の構築にこそ唯一無二性があると思う。世界観とは、スターウォーズやガンダム・シリーズに代表されるような、仮想世界としての独自の歴史や地理の詳細までが構築されるメタ的な世界のことを言う。そのプロットの意味性にこそ、世界観の本質がある。文化人類学的、反西洋主義、反人間主義的な思想において、『アバター』の世界観はエンタメの枠を超えて特筆すべきものであろう。元々『エイリアン』と対となる作品として『アバター』は製作されている。つまり、エイリアン側から見た人間による侵略の歴史。『駅馬車』の対となる『ダンス・ウィズ・ウルブズ』。イーストウッドで言えば『父親たちの星条旗』の対となる『硫黄島からの手紙』。  従来の人間主義/反人間主義という対の考え方から、ナヴィの家族を中心にした旧約的なサーガに世界観が移行しようとしている。森を出たアダムは家族を得て、生きるために罪を犯す。家族は一族となり、海から砂漠へ。原罪を抱えつつ、先の見えない世界、目的のない世界を見据えて、物語は駆動する。人間/反人間を一体何処に向かわせようとするのか? それは「精神」に向かうのか?その崩壊、歴史の終わり、最後の人間へと向かうのか? それとも、、、。新しい旧約としての大きな物語。そういえば、手塚治虫の『火の鳥』にもそういう話があった。こういう大きな物語は結局のところ巡りめぐるものか。
[3D(字幕)] 9点(2025-01-14 22:56:06)
3.  博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか 《ネタバレ》 
博士はストーリーに全く関係せず、原作にも登場しない。映画に居なくてもよい人物と思われるが、題名になっているくらいなのでそうとも言えない。キューブリックはほぼ同じプロットで同時期に制作されていた『未知への飛行』をかなり意識し訴訟まで起こしている。現実的にこのルメット作品との差別化が『博士〜』に大きな影響を与えていると考えられる。ホラー要素を排除し、徹底してブラックユーモア化する過程でピーター・セラーズの「博士」が現れたのだろう。新たな多重人格みたいなもので。  いずれにしろ原作に忠実でない所、キャラクター造形にこそ、この映画の独特な面白味がある。大統領、タカ派の将軍、ソ連大使、超反共准将、英軍大佐、「博士」、カウボーイの少佐パイロットなど、デフォルメされた人間劇の妙。それこそ、この作品がキューブリックの最高傑作と言われるまでになった理由だと思う。  水爆に跨った少佐もセラーズが演じる予定だったと言う。それも観たかった。
[インターネット(字幕)] 9点(2025-01-14 22:11:45)
4.  陪審員2番 《ネタバレ》 
ある事件の陪審員となったことで、偶発的とはいえ、自ら罪を犯していたことを知る主人公。事件の被告人は無実である。彼は事件の陪審員として自らの犯した罪を被る被告人に対峙する。彼の罪を知る者、知らぬ者。最終的に知る者。  「真実が正義とは限らない」 アメリカ、そして、アメリカ映画はこれまで「真実が正義とは限らない」という前提の中で、真実よりも正義を優先してきたように思う。特に法廷を描く映画『評決』などは正にそうだろう。そもそも真実はそれを捉える人間によって見方が変わるため、人々が集団生活の中で因って立つのは物事の真実ではなく、正義という観念になる。映画は、そういった「真実の不確かさ」をこれまでよく描いてきた。『羅生門』『怪物』然り。『真実の行方』然り。  映画のストーリーだけ見れば、イーストウッドは最後に「正義よりも真実を優先させた」と言いたくなる。検察官は全ての調和をかなぐり捨ててでも、ただ公正に真実をテイクする決断をしたと。でも、本当にそうだろうか? ここでイーストウッドが示したかったものは「正義よりも真実」などという次元の違うあやふやなものではなく、やはりストレートに正義の意義、イーストウッドの考える正義の位置付けだったのではないだろうか?  「正義とは何か?善とは何か?」 18世紀のイギリスの法哲学者ベンサムは、最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善と見做した。いわゆる「最大多数の最大幸福」である。正義とは社会の公約数的な善、社会福祉として計量されるものだと考えられた。主人公(役名:Justin=Justice)が自らの罪を正当化する論拠、検察官が真実を知りながらそれをやり過ごそうとした時の正義とは、この「最大多数の最大幸福」であることが分かる。  20世紀のアメリカの政治哲学者ロールズは、ベンサムの正義に対して、「各個人は正義に基づく不可侵性を持ち、社会全体の福祉といえどもこれを侵すことはできない」と反論した。ある人々が自由を失い、他の人々がそれにより大きな善を受け取るならば、その自由の喪失は正当化されない。ここでの正義とは、個人の地位や過去に依らない、それらの属性に無知であることを前提にして、その上で理想的な公正社会を構築するものとして在るべきだと。いわゆる「無知のヴェール」である。正義は、全ての人々に平等にあり、社会全体の福祉に優先する。且つ、社会はそういった個人の正義に因って立つものだという考え方になる。  検察官(役名:Faith)が最後に決断の拠り所とした正義とは、この「平等公正な個人の正義=信念」である。正義論に関するこの辺りの映画的な意図はわりと明らかなものだと言えるだろう。しかし、クリント・イーストウッドの映画に込めた思いはさらにその先にあると私は感じる。善と悪、善人と悪人。この映画でも善人と悪人は、陪審員と被告人という立場で対比的にとても明確に描かれている。「善人だから、悪人だから」と劇中で何度も語られる。ここでの善人、悪人は、親鸞の「悪人正機」を基に定義できる。最後にそれが反芻されるように映画として仕組まれているのではないか。『硫黄島からの手紙』のイーストウッド監督ならば、その映画的意図はあながち間違っていないのではないか。  悪人 衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。  善人 「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。  因果 凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。  出典: ウィキペディア『悪人正機』  正義と善悪。そのエッセンスがこの映画には詰まっている。『陪審員2号』は、アメリカ的な正義論に留まらず、善悪の本質にまで思い至らせる真の意味で道徳的な映画だと私は思う。クリント・イーストウッドが94歳にして、何故『陪審員2番』という作品を撮ったのか? その深い洞察を感じざるを得ない。
[インターネット(字幕)] 9点(2025-01-14 22:08:10)
5.  サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時) 《ネタバレ》 
ニーナ・シモン、マヘリア・ジャクソン、ザ・ステイプル・シンガーズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、B.B.キング、フィフス・ディメンション、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、そして、若き日のスティーヴィー・ワンダー。この面子が出演するというだけで、映画『サマー・オブ・ソウル』を観ないわけにはいかなかった。  上映時間2時間では各々の演奏時間が限られる。予想はしていたけど、作品のドキュメンタリー色もあり、インタビューも多く挟まるので、そっちに時間を取られて演奏はカットされまくる。楽しみにしていたライブをフルコーラスで楽しむことはできない。残念だけど、ドキュメンタリー映画として、それは仕方ないこと。何十年もお蔵入りされていたサマー・オブ・ソウル=ハーレム・カルチュラル・フェスティバルの映像、それがそうならざるを得なかった経緯と共に世に送り出すことがこの作品の意義でもあるのだから。  キング牧師やマルコムXを失った当時のアメリカ黒人社会。1969年、ニューヨーク、ハーレムの黒人たちを30万人以上集めた黒人による黒人のための音楽フェスティバルが如何に革命的であったか?それを白人社会がどのように扱ったのか?ウッドストックに比べて全く知名度がない、歴史に埋もれたその祭典の経緯を明確にしたい演出の意図はよく理解できる。  確かに仕方ないこと。私はこの映画のサントラを買って、彼らのライブを純粋に堪能することにした。私の中でこのライブのクライマックスは、マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルズの共演になる。こんな貴重なデュエット、迫力あるシャウトの競演、その映像を観られただけで、この作品の価値は十分である。私は、これまでステイプル・シンガーズをラスト・ワルツでしか知らなかった。とんでもないこと。勿体ないこと。こんなに素晴らしいシンガーズのアルバムをまともに聴いてこなかったとは。それを認識しただけで、私にとって、この作品の価値は十二分にある。  しかし、サマー・オブ・ソウルの本当の価値、世界に向けたその意義は、映画の後半からラストを飾るスライ&ザ・ファミリー・ストーンとニーナ・シモンのステージにある。彼らは音楽家を超えたアジテーターであり、30万人の黒人たちを一体化させた彼らのステージこそがドキュメンタリーなのだから、これは明らかだろう。映画は特に、ニーナ・シモンの登場からのアジテーション、彼女の叫びと動きと聴衆とのやり取り、その音楽を克明に捉える。1969年当時、ハーレムのマウント・モリス・パークに押し込められ、世界に伝わることがなかった黒人たちの熱狂を見事に映す。50年間、忘れ去られたシーン、映像に焼き付けられたが、陽の目を観ることがなかったそれらのシーンが、その価値と意義と共に今よみがえる。  1970年、ニーナ・シモンは全てを捨ててアメリカを去り、リベリアで音楽と無縁の暮らしを送ることになる。音楽家であり、活動家としての彼女が最も輝いた人生の瞬間と喪失の未来。この映画は、ニーナ・シモンのドキュメンタリーでもあったのだと今更ながら思う。  コロナ禍の合間、日比谷シャンテで映画を観てから3年が経ち、もう一度、このドキュメンタリーを改めて観たいと思う。ニーナ・シモンの立ち姿を観たいと思う。ステージに立つ彼女から私たち人間の可能性、そして、それを信じた彼女の勇気を感じたい。そう思った。
[映画館(字幕)] 8点(2024-10-22 00:15:36)
6.  ノーカントリー 《ネタバレ》 
不条理は国が老年期だから蔓延る訳ではない。昔から文学の世界では、常に不条理に苛まれる個人こそが主題として描かれている。  この世の不条理。「この世の中の不幸、幼い子供が虐待によって何の罪もなく死んでいくという現実。それでも神を信じるのか?」という命題は『カラマーゾフの兄弟』のイワンの語りとして現れる。それは、人々にとって突然、何の脈絡もなく訪れる不幸、死という受難として、『ノーカントリー』("No Country for Old Men")の主題にもなっている。  ハビエル・バルデムは純粋な悪、絶対的な不条理そのものとして描かれる。実体として可視化された純粋悪。現実において、それは自然災害や交通事故、テロルとして否応なく現れる可能性として在りえる。純粋悪は、普段の私たちの生活や世の中から不可視なものであり、彼はその仮想的存在として設定されている。実体化した純粋悪は、私という凡庸な悪を簡単に駆逐する。それは私たちを恐怖に陥れると同時に私自身の存在を根底から揺さぶるものとして在る。  純粋な悪、不条理的な存在は、ホラー映画の常套であり、別に珍しいものではないが、この映画のハビエル・バルデムは、ジェイソンやフレディとは違うリアリティある恐怖として認識されることで、私たちはこの作品により一層の戦慄を覚えるのである。悪に内側から支配される可能性、その諦念の残渣として。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-10-05 21:17:52)
7.  八月の鯨 《ネタバレ》 
「人生の半分はトラブルで、あと半分はそれを乗り越えるためにある」。この映画の名言としてよく取り上げられる台詞である。しかし、この台詞を吐くのは主人公の二人ではなく、二人の幼馴染みである老婦人ティシャ。彼女が会話の中でサラッと言うので、名言と知られているわりに、正直、あまり印象に残らない。ティシャと共に饒舌なのは、老紳士ミスター・マラノフ。彼も人生訓のような台詞を沢山吐くが、こちらも同様にその饒舌さ故にあまり印象に残らない。  リリアン・ギッシュ。当時、御年93歳。彼女は、姉役のベティ・デイヴィス(当時、御年79歳)から常にBusy、Busyと揶揄される。生真面目で、働き者で、常に忙しく動き回っていて、教訓めいた言葉、人生を悟ったような言葉を一切吐かない。盲目で気難しい姉に寄り添い、彼女の世話をする。死んだ伴侶との46回目の結婚記念日を静かに一人祝う。隣人たちに気を遣い、彼らの話をよく聞いてあげる。姉は妹の気丈な思いを感じて言葉に出来ない感謝を抱く。サマーハウスに新しい大きな窓を付ける決断をする。そして、八月の鯨を只管に待つ。  実は、そんな彼女達の心の有り様こそ、語られない、語られ得ない、この映画の名言ならぬ非言語故の生の勁さ(つよさ)なのである。歴史に刻まれた其々の心の重み、それは一般化できない。それは言葉で紡がれる世界ではなく、彼女達自身の静謐な生の佇まいの中にこそある。カメラはそんな彼女達が連れ立ってゆっくりと歩く、その握り合う手、歩調を合わせる足元を映す。エンディングの音楽の中、彼女達が岬に佇むラストシーンの美しさ、その老齢な生の奥深さを感じ、心が震えた。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-06-19 00:36:07)
8.  オッペンハイマー 《ネタバレ》 
『オッペンハイマー』は知性についての物語でもある。  オッペンハイマーは高い学識を持った科学者である。量子力学を学び、早くからブラックホールの存在を思考し、その生成条件を理論化、中性子星の質量限界についての計算式を発見する。その功績から、マンハッタン計画の責任者に抜擢され、グループを率いて原子爆弾の製作を実現する。計画の中で多くの人々と社会的関係を築き、複数の女性を愛し、家族を得る。ユダヤ人として、科学者として、彼は彼の正義に基づきロス・アラモスに帝国を築く。しかし、彼は優しく、弱い人間でもあった。詩人にして、文学的、芸術的思考の持ち主でもあった。そういう視線で捉えれば、帝国の内実も見えてくる。戦後、原子爆弾が広島、長崎に投下されたことについて、彼は何を見ていたか、さらに赤狩りの嵐にどう立ち向かったか?  オッペンハイマーの視点、そしてサリエリ(『アマデウス』)的なスクローズの視点。科学者(知性)と元靴売りの政治家(反知性)の対比。知性は「物自体」を正しく把握し、大衆を正しい道に導く。それが西洋的な形而上学の考え方。オッペンハイマー、アインシュタインもスピノザ的な神の信奉者であり、科学こそが知性であり、その手段であると信じていた。彼らにとっての知性こそ、社会性の基盤であった。  しかし、現代は、知性受難の時代。西洋的な形而上学は、相対主義の中でその価値と歴史を見失う。ゲーデルの不完全性定理は数学の、ハイゼンベルクの不確定性原理は科学のインテグリティを根本のところで否定する。現代において、科学は純粋に科学として取り扱われず、反知性、政治家や大衆は、科学者を奈落へと突き落とす。知性は彼を救わない。  私は、映画を観ている間、オッペンハイマーと共に、その時制の揺れと共に、ずっと揺れ、揺さぶられた。映画とは、新たな視点による歴史の追体験でもある。知性を揺さぶる文学的視線である。それにより、私自身を直視させられ、そして私は揺れるのである。社会は揺れるのである。  『オッペンハイマー』は素晴らしい文芸映画である。それは「私」に落下するが故に、私的な解釈を許す。そう、文芸作品とはそういう視線のものであると私は思っています。
[映画館(字幕)] 9点(2024-04-29 11:44:57)
9.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
IMAX3D字幕版で鑑賞。正に最新の映像と音響スペースを堪能した。映画と同一空間、同一時間を体感できる、驚くべき体験だった。やはり字幕版で見るべき。僕らは主人公と同じようにジョージ・クルーニーの声に励まされ、生かされていると感じる。  彼は主人公が掴んだ命の綱を自ら手放す。確かに均衡した力学的作用からすれば、彼はカラビナを外す必要はなかったのかもしれない。しかし、彼は外した。彼女をひとり生かす為に。この映画は「生きる」ということが継承であり、究極的に個闘だということを主張しているように思える。  自らを犠牲にして彼女を生かす。時に彼女を優しく叱責し、力強く励ます彼の声は、可能性という名の希望。天の声であり、心の声である。外部からの声である。  生きる意味とは何? 彼は主人公に問いかける。そこまでして生きる意味、生に執着する価値とは? その問いこそがシンプル故に心に響いた。  人は、というか、生命とは、そもそも犠牲により成り立ち、綿々と受け継がれてきた。限りがあることにより伝承され、死に生まれる。壮大な宇宙空間だからこそ、そういった生命の成り立ちがくっきりと見えてくる。宇宙で生まれ、地球に受け継がれたものとして、生命は在る。  ちなみに地球での生活が破綻していたからこそ、彼は宇宙を漂う生の充実と終焉を選んだとも言える。海の底のグラン・ブルーと同じ。それって男のロマンだよね。そんなものが2010年代に生き続けていたとは。。。それも「宇宙」だからこそ? とても胸が痛くなった。
[映画館(字幕)] 10点(2013-12-26 08:38:53)(良:1票)
10.  アルゴ 《ネタバレ》 
手に汗握る展開。臨場感溢れる画面。文句なくの傑作である。また、事実をベースとした映画として、その事件映像を忠実に再現する拘りが素晴らしい。(それが最後に分かるのも心憎い演出である)  イラン革命の後、イスラム法学校の学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠する。外交官や警護の海兵隊、その家族等52人のアメリカ人が人質に捕られるが、占拠前に6人が大使館から脱出する。CIAは、架空のSF映画『アルゴ』のロケハンをイランに設定し、人質を撮影スタッフと偽って、彼らの救出を図ろうとする。そんな奇想天外な作戦が実際にあったとは。。。  イランの子供達がシュレッダーでちりぢりになった大使館員の肖像写真を繋ぎあわせていく様子も、ニュース映像そのものであれば、今でこそ冷静に、エンターテイメントとして面白く観られる。結局、全員無事に国外脱出できたことが、この映画をエンターテイメントとして成り立たせている重要な要素だろう。イランアメリカ大使館人質事件そのものやその政治的背景を題材として扱えば、なかなかそうはいかない。  ところでアルゴって何? "Ah, go fuck yourself!!" それ誰が言ったっけ? "Marx" "Groucho said that?"  最高です。
[映画館(字幕)] 10点(2013-01-29 20:08:49)
11.  ロック・オブ・エイジズ 《ネタバレ》 
めちゃめちゃ面白かった。頭空っぽで楽しめる。  この映画で扱われるロックとは、所謂、80年代に興った産業ロックとか、大衆ハードロック、ヘアメタル(LAメタル)と呼ばれるものである。それは60年代後半から70年代前半のハードロックやマニア限定のスラッシュメタルとは違う。大衆に広く浸透した誰もが歌えるみんなのロックなのである。 産業ロックの代表格は、ジャーニー、フォリナー、REOスピードワゴン、そのハードロック系は、デフ・レパード、クワイエット・ライオット、ナイト・レンジャー、ボン・ジョヴィなど、80年代以降のヴァン・ヘイレンやエアロスミスも含めていいだろう。ヘアメタルからは、ポイズンとトゥイステッド・シスター。本当は、ラットこそ代表格なのだと思うけど、如何せん曲がない。。。(女性シンガーはパット・ベネターとジョーン・ジェット。。。ハートじゃないのか?)  映画の中で歌われるロック。実は、これって主人公のシェリーが持っていたアルバムに沿っていて、彼女が崇め奉るロックバンド達の曲である。産業ロック。60年代後半に変革を叫び、夢破れたロックは、70年代以降に大衆へと向かい、個的な愛や夢を語る装置として幻想化する。多くの人々がそれを共有化することで、商業的にも成功するのだ。 ただ僕はこの映画の80年代ロックを卑下するつもりは全くなく、逆に賞賛したいのである。なぜなら、僕自身がこの時代のポップ化したロックを聴いて育った世代だから。ある時期、それを否定して時代を遡ったけど、25年経った今、やっぱりその音楽が心に沁みるから。50年代に生まれたロックが反逆や反体制というイメージを覆し、大衆化、ポップ化していく過程を思うと、僕は自分自身や時代と重ねあわせて、ロックそのものをとても愛おしく感じる。ロック・オブ・エイジズを観ているとロックって素直にいいなぁって思う。観ているだけで、僕の涙腺は自然にゆるむのだ。  我が青春の楽曲たち。スクリーンで弾けるその映像は、まさしくベストヒットUSAやMTVで観た洋楽PVそのものである。キラ星の如きロックスターたち。僕らが洋楽に憧れたイメージ、幻想としての物語、その映像化。  主人公2人のデュエットが素晴らしかった。最後の”Don’t Stop Believin’” トム・クルーズもカッコよくて、無様で、とても痺れたよ。それとREOのTシャツを着て歌う年老いたケビン・クローニン。最高に泣けたなぁ。
[映画館(字幕)] 10点(2012-11-03 11:53:27)(良:2票)
12.  ニール・ヤング/ハート・オブ・ゴールド ~孤独の旅路~
ニール・ヤングのライブ・ドキュメンタリー映画である。  場所がカントリーの聖地、ナッシュビルのライマン・オーディトリアムということで、ニール・ヤングのカントリー作品を中心にした曲構成となっている。音響が素晴らしく、温かみのある演奏がよく響く。彼にとってはナッシュビルに所縁のある"Harvest"、"Comes a Time"、"Harvest Moon"の3枚の傑作アルバムからの選曲が中心となっているのもいい。(ステージ後半)  本作の監督はジョナサン・デミである。ジョナサン・デミと言えば、彼の出世作、Talking Headsのライブ・ドキュメンタリー映画"Stop Making Sense"が有名である。これは、舞台演出をライブに取り入れた楽しい作品で、演劇的要素あり、アコースティックあり、ダンスあり、ポップアートあり、映像としてもライブ盤としてもエンターテイメント溢れる傑作だった。そもそも"Stop Making Sense"にはライブで盛り上がっているはずの観客が殆ど映らない。ライブ映像というよりも映像作品そのもの、音楽エンターテイメント映像作品である。  本作"Heart of Gold"も観客を一切映すことなく、ステージ上で演奏するニールや共演者たちの所作をひとつひとつ丁寧に映す。その絵がとても綺麗。ニールが歌う表情のアップ。ギターを爪弾く指の動き。ハーモニカを吹く時の口元。共演者たちとの距離感。彼の奥さんでもあるペギー・ヤングを含め、ギタープレイヤーたちが総勢で一列に並ぶ"Comes a Time"と"Four Strong Winds"。まるでスタジオ映像のように、演者たちのひとりひとりをじっくりと映し出す。観ている僕らはライブの観客の一員ではなく、まるでバンドの一員になったような錯覚に陥る。  アットホームなステージ。その中心に孤高として高音の声を響かせるニール・ヤングの立ち姿、その表情。彼は歌う。目をつぶり、そして、遠くを見つめる。彼が見ているもの。ロックの魂。60年代後半から70年代にかけて、人々を虜にし、消えていったロックの魂たち。すっかりold manとなりながらも威光に満ちたニールの表情を通して、「それ」を映し、捉えたことによって、本作は、スコセッシの"The Last Waltz"と並び、音楽ドキュメンタリー/ライブ映画の傑作になったと思う。
[DVD(字幕)] 9点(2012-07-23 08:13:20)(良:1票)
13.  再会の時 《ネタバレ》 
原題を"The Big Chill"という。ロスマクならば"The Chill"。ハードボイルド的には「大いなるさむけ」とでも言うべきなのだろうけど、その意味は、「死や臨死、或いは死にたい程に悲惨な体験」ということらしい。(answerbag調べ)  日本では団塊の世代。アメリカではBaby Boomerという。戦後生まれで人数が多く、68年の大学闘争を経験した世代である。物語はそれから15年後の1983年、自殺した仲間の葬儀にかつての学友、男女7人が集まったことから始まる。  日本で言えば、柴田翔の『十年の後』の世界だろうか。それとも80年代中期の『男女7人夏物語』だろうか? 学生の頃に反体制を叫んでいたケヴィン・クラインも今では会社の経営者となっている。他のメンバーも雑誌記者、俳優、医者に弁護士と、それぞれが社会の中で確固たる地位を築いているわけだ。その中でウィリアム・ハートだけが定職も持たず、コカイン中毒で、いまだにベトナム体験を引きずっている。(身体的にも戦争によって生殖機能を損傷したからか) 彼らが久しぶりに一同に会して週末を過ごす。友人の死、彼は何故死んだのか? そして友情の行方、今の生活について、彼らの語らいはとてもライトである。最終日の夜にはいくつかのセックスまで行われる。15年越しの告白であり、共助の精神であり、再出発へのふれあいである。  能天気と言えば、そうかもしれない。確かにそれは80年代という時代の軽チャーを象徴しているように思える。しかし、それは"The Big Chill"でもある。1968年の熱狂とその後の挫折との対比として、それはある。彼らの世代が80年代のポップカルチャーを作った。そして僕はその80年代に青春時代を過ごした。だから分かる。この作品があってこそ、『男女7人夏物語』があり、『セント・エルモス・ファイアー』や『愛という名のもとに』が作られたことを。時代がその根底に"The Big Chill"を抱いていたことを。
[DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:40:29)
14.  きみに読む物語 《ネタバレ》 
胸がじーんとなった。 ジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナーの2人が良かった。そして、もちろん若い2人、レイチェルとライアンも最高にハマっていたね。 ストーリーは最初からミエミエ(あっちの2人がこっちの2人に重なれば、そりゃそうなるよね)なのだけど、それでも感動した。僕って、こういうベタなラブストーリーにめちゃめちゃ弱いのです。  レイチェル・マクアダムスがとにかく可愛かった。特別に美人!って感じではないんだけど、表情が豊かで、素直に感情が迸るところなど、すごく愛嬌があって、思わず抱きしめたくなる感じ。 ライアン・ゴズリングも生真面目で一途な感じがよく出ていた。少し憂いがある目元もいい。彼の言葉、"I want all of you, forever, you and me, every day!"... しびれました。 ジーナ・ローランズ。『グロリア』の彼女もすっかりおばあちゃんになってしまったけど、最後に見せた笑顔がとても可愛くて、救いがあったよ。 そして、ジェームズ・ガーナー。『大脱走』カッコよかったなぁ。あの精悍なアメリカの調達屋がすっかり好々爺になっていて。。。でも、ラストシーンにはとてもグッときた。昔の写真の2人もキマっていたよ。(敢えてこっちの2人の写真にしたところが僕はよかったと思う)
[DVD(字幕)] 9点(2012-07-02 22:36:46)
15.  マイレージ、マイライフ 《ネタバレ》 
これは面白かった。主人公に共感できるところが多くあり、身につまされるというか。。。映画の評価って、そういうところが大きいよね。  主人公の生き方。孤独を愛し、同時に人を愛する。矛盾しているように感じるかもしれないけど、生活という拘束、結婚という制度を否定すれば、それは達成可能である。マイレージ(1000万マイル!)を生き甲斐とする考えは、ある意味で意地のようなもの。確かにアメリカの航空会社のマイレージって有効期限もなく、格付けによる利便性が高いので、それを自らのステータス、生活スタイルの象徴としてしまう心情も分からなくはない。但し、彼自身もそのこと、それが意地にすぎないことは分かっていて、だからこそ、最後にそれをあっさり否定してみせる。  アフリカを舞台にした30年前のレッドフォードとメリル・ストリープの映画を思い出した。人は恋愛によって変わる。恋愛はこれまで貫いてきた彼の「自由」な生活、孤独という名の自己愛と自然愛を脅かし、献身は自己の不安を呼び起こすが、それでも彼、彼女は否応なく惹かれ合う。彼らは、「恋愛」を知っている。故に、それに纏わる喜びや哀しみを繰り返し受け入れられる余地を持っている。いつでも、いつまでも。。。それなのに、何故、結婚しようとする? 人の重荷まで一緒に受け入れる必要がある?   結婚を否定する考えは反社会的、反倫理的で間違っている、という意見は正しい。なぜなら、人は老いる。結婚こそは人を老いの恐怖から救う制度、短い生涯を有効に生きる、人類社会の英知でもあるから。レッドフォードは若くして都合よく人生を終えてしまうけど、本作の主人公の人生は、これからもずっと続く。  現代的な現実としても考えさせられるけど、それ以上に胸にぐっとくるものがあった。それがいいのか、悪いのか、境遇が近いと、感想も書きづらいなぁ。人生万歳。。。
[DVD(字幕)] 9点(2012-07-02 22:34:45)
16.  幸せへのキセキ 《ネタバレ》 
テーマを超えて、全編に溢れるロックテイストが心地よい映画だった。 音楽も60年代後半から80年代の名曲たち。ボブ・ディラン、トム・ペティ、ランディ・ニューマンにニール・ヤング。"Cinnamon Girl"が流れた時はなんかすごく嬉しくなった。  キャメロン・クロウと言えば、僕の中ではやっぱり『初体験/リッジモント・ハイ』(” Fast Times at Ridgemont High”:キャメロン原作・脚本作)である。言わずと知れた80年代ロック全開のハチャメチャ青春映画。(決してエロ映画ではない。ポロリはあるけど) ジャクソン・ブラウン、ドン・ヘンリー、Go-Go’sなど、80年代のロック&ポップに彩られた楽曲たち。そして、初監督作『セイ・エニシング』。カセットデッキから流れるのは、ナンシー・ウィルソンの”All For Love”。  ナンシー・ウィルソンは80年代に流行ったロックバンド、ハートの中心人物、ウィルソン姉妹の妹の方。綺麗でスタイルがよくて、ムチムチした衣装でギターを掻き鳴らす姿がすごくセクシーだった。彼女がキャメロン・クロウと結婚したのが86年頃だから、ちょうどハートの絶頂期。ナンシーが82年のリッジモン卜・ハイに「車を運転する美女」で出演したのはどういう経緯だったのだろう? 当時、新進気鋭の若手ライターだったキャメロンとロック界のミューズ、ナンシー。  キャメロンとナンシーは2010年に離婚しているんだけど、僕にはどうしても、この映画の最後のシーン、カフェでの「20秒の勇気」のところは、キャメロンとナンシーの現実の出会いを思い起こさせる。年上の美女に勇気の告白。”Why not?” ナンシーならきっとそう言っただろうな。あんなに仲の良い二人だったのに。別れがあって出会いがある。スカーレットみたいな女の子との出会いだったら、それもまた良しか。人生万歳!
[映画館(字幕)] 9点(2012-06-17 22:55:49)
17.  ミッドナイト・イン・パリ 《ネタバレ》 
前作『人生万歳』に続くウディ・アレンの傑作映画。  夜12時の鐘と共に現れる幻想のパリ。タイムスリップ? 死者たちの徘徊? それとも壮大な夢オチ? まぁ、そんなことはどうでもいいか。旧き良きロマンをこよなく愛する主人公が迷い込むのは1920年代のパリ。当時のパリは狂騒の街と呼ばれ、禁酒法のアメリカから多くの異邦人がやってきて、毎夜のどんちゃん騒ぎが繰り広げられていたという。芸術家達が集うカフェで生まれる新しい時代の潮流。シュール・レアリズムからアール・デコ。そして、エコール・ド・パリ。その舞台に登場するのは、フィッツジェラルド夫妻、パパ・ヘミングウェイ、ピカソ、ダリ、ルイス・ブニュエルといった著名な若き芸術家達。主人公は、そんな魅惑の世界の中、芸術家達に愛されるファム・ファタール的な美女アドリアナに恋をする。恋する2人のタイムトラベルはさらに時代を下り、ベル・エポックのパリへ。伝説のマキシムに集うのは、ロートレック、ゴーギャンにドガ。彼らはそこで古き良きルネサンスの時代を語り始める。  主人公は悟る。古き良き時代への憧憬はどの時代にもあるファッションのようなものだと。そして、彼は現代のパリを生きていく決心をする。ロマンだけはしっかりと胸に携えて。。。(主人公が古い時代を生きられない理由がウディ・アレンらしくて笑ってしまった)  なんだかんだ言いつつ、主人公は3人の女性に恋をする。レイチェル・マクアダムス、マリオン・コティヤール、そして、レア・セドゥー。それぞれに魅力溢れる女性たち。いやはや、人生万歳。何でもアリだ。最後に主人公は、レアとアレクサンドル三世橋の上で再会し、雨が降り始める中、傘もささずに2人して歩き出す。別れがあって、出会いがある。切なくも希望に満ちた、とても素敵なシーンだった。  ウディ・アレンは、ニューヨークの街とそこに住む人々の風景を撮り続けてきた人。最近はNYを飛び出して、すっかり世界のアド街ック、街の観光案内的な映画を撮り続けているのだけど、街そのものが主役ならば、それもまた良し。次回作はロンドン。次々回はローマとのこと。これらも楽しみ。
[映画館(字幕)] 10点(2012-06-16 23:51:24)(良:1票)
18.  ヤング≒アダルト 《ネタバレ》 
この手のキャラクターや設定って、今や普通にリアリティがあるから、単純にそれを描くだけなら映画としての面白みにならないと思う。『ブルー・バレンタイン』もそうだったけど、同じようなことは僕らのまわりにありふれていて、その状況に対する作品としての批評が弱ければオチの付きようがない。本作も物語としての驚きや発見がなく、コメディなのに設定を相対化できずに笑えない。結局のところ、メイビスというキャラクター(大人になりきれない大人)をどうしたいのか僕にはよく分からなかった。そこが大事なんじゃないかと思うのだけど。。。(そもそも彼女を勝ち/負けで括れるようなキャラだとは全く思わないし)  キャラクターや設定がリアルなわりに単純すぎるのだ。特にメイビスを強調する為にまわりの人間を平板にしすぎている。実際は、ママさんグループにもメイビス的な要素はあるだろうし、もちろんその逆もしかり。普通、メイビスのような美人に言い寄られたら、最後までいくかどうかは別にして、男はあんなにあっさりと断らないよ。元カレなら特に。人間って、もっと、多面的で、自己中心的故に、いろいろと躊躇ったり、悩んだりして行動するはず。子供っぽい主人公と対比する為に周囲の同世代の人間を大人にしすぎだと思う。大人にも大人なりの茶目っ気があるでしょう。  この映画、作品自体がキャラ解説に走りすぎでいて、あまりに子供っぽい。そこがすごくヤング・アダルト。邦題『ヤング≒アダルト』というのも一面的すぎる。そもそもヤング・アダルトって成人期前期のことで、それを「大人になりきれない大人」という意味に拡大しているのだと思うけど、そういう意味で、僕の中でヤング・アダルト的なイメージと言えば、『男はつらいよ』の寅さんなので、単なるキャラクター映画を超えた奥深さを期待しちゃうのだ。
[DVD(吹替)] 7点(2012-05-16 00:27:47)
19.  しあわせの隠れ場所 《ネタバレ》 
邦題以外はとても好感のもてる作品。アメリカ南部、メンフィスの白人富裕層、プロテスタント、共和党員、ライフル協会会員。絵に描いたような保守系白人の金持ち一家に、スポーツは優秀だが、身寄りのないスラム地区の1人の黒人少年が関わる。家族の一員となり、その支えによって、生活の目的を得た黒人少年はアメフトで成功し、多くの優秀な大学からスカウトを受けるまでになる。。。この作品は、実話の映画化であり、それが本作の大きなポイントだと僕は思う。  実話の映画化故に、この物語は、格差の問題をあくまで個人の善意にしか還元せず、アメリカ(特に南部)の社会構造に到達させることはない。実際のところ、この家族のような善意と勇気をもった人々はアメリカにも多くいて、また、貧しくても優秀な黒人少年も多くいるだろう。ただ、その接点がないのである。本作は偶然に偶然が重なって実ったひとつの美談でしかない。しかし、この事実/映画が多くの人々の心にフォローアーとしての小さな意識を植え付ける可能性はある。それが社会構造を変える可能性だってある。(アメリカ的な個人主義に留まる可能性ももちろんある)  アメリカ南部の格差社会の現実は、僕らが思う以上に今も厳しい。格差や差別の問題であれば、ある意味で日本も同じ。僕らだって当事者になり、それを引き受ける立場になるかもしれない。その場合の正義と善意の行方に想いを馳せる、そういう可能性の映画だと考えることができるのではないか。
[DVD(吹替)] 8点(2012-05-16 00:26:52)(良:3票)
20.  イントレランス 《ネタバレ》 
本作品は、当時、フランス戦線が始まっていた第一次世界大戦を想定した反戦映画として位置づけられる。その意図はラストシーンで挿入される現代の戦争シーンでも分かるだろう。バビロン陥落とサン・バルテルミの虐殺劇は、それぞれ、大量虐殺の象徴としての戦争の実態を表している。そして、各々の戦争の経緯と共に、ある女性と青年に焦点を当てた悲恋のストーリーが同時に語られるのであるが、彼女らは戦争という歴史の犠牲者として、最後には殺戮されてしまう。(バビロンでは、山ガールと詩人、フランスでは、ブラウンアイズと傭兵がそれに当たる)  新約から引用されるイエスのシーンは、本作を構成する物語というよりも、「不寛容」の象徴としてある。イエスこそは、人間に対する「不寛容」を一身に背負って磔刑となったキリストなのだと。  3つの歴史の物語が「不寛容」な結末を迎え、現代篇が最後に残る。青年は無実にも関わらず裁判で死刑の判決を受ける。彼の可愛い妻は彼を助けようと懸命に奔走する。目まぐるしく入れ替わる展開はスピード感に溢れ、僕らは手に汗を握り、画面にくぎ付けとなる。(ラストの列車追跡シーンは本当に素晴らしい) そして、青年の運命は如何に。。。その伏線がバビロンとフランスの2つ悲恋物語にある。  162分に及ぶ長大で矮小な物語。それは僕らに「不在の神」という概念を思い起こさせる。「不寛容」とは、創世の後、自ら退いた神の人間に対する基本的な態度であり、イエスが自らの死と引き換えに人間に託した教え、「キリスト教」が人々に必要とされる由来でもある。イエスの教えとは、人の人に対する「寛容」であり、隣人愛なのだから。  中世のキリスト教より、サン・バルテルミの虐殺に繋がる宗教戦争という歴史の悲劇。しかし、グリフィスは、そこに男女の矮小な純愛を対峙させることで、全くの個人を出発点とした「寛容」を説いてみせる。そのバックグランドには、バビロンの山ガールと詩人、フランスのブラウンアイズと傭兵、彼らの愛と死があって、そして、イエスがいる。この物語はそういう物語としてあるのだと僕は思う。  いろいろな意味で映画の可能性を問うた作品であり、壮大なる反戦映画。その意義が映画史に燦然と輝く、と同時に、僕らのイマジネーションを掻き立てる素晴らしい映像世界であった。
[DVD(字幕)] 10点(2012-05-16 00:23:46)(笑:1票)
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