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1.  水俣 患者さんとその世界
胎児性の患者さんがこちらを振り向くところからラストまでは、とりわけ凄い。私たちはいままで水俣病を知っているつもりになっていたけど、それはたとえば支援団体の膜越しだったりした。その膜を破って、じかに水俣病に触れ得たという実感がある。このドキュメンタリーだって「支援団体」とさして違わないはずなのに、距離感が違うのだろうか。患者にこちらの眼=カメラをいじるに任せているカット、やっと患者と触れ得たという感動がたしかにあった。漁民の生活を丹念に描いたことも大きい。味噌とバターでの餌づくり、蛸採りの美しい水中撮影。自然と一体となった生活があったのだ。それをずっと続けていけたと言うのは理想論すぎるけど、そういった生活への懐かしさや憧れは、やはり暮らしの方向を考える上で大事なのではないか。あるいは患者のためにオルガンやステレオなど家に似合わないハイカラな物が置かれている光景もジーンとさせる。親の贖罪の気持ちがそこに凝縮している。水銀を食べさせたのは親の責任ではないのに、その申し訳なさはこういう形でしか表せないのだ。スピーカーの振動を手で感じている耳の聞こえない弟。けっきょく優れたドキュメンタリーとは、当事者との距離を正確に知っているということだろう。患者とその家族との苦痛に触れられないということで、観客もチッソと同じ側についている。その認識が安易な同情や哀れみを禁じていて、知らず知らず観客はより積極的に患者の側に身を乗り出さざるを得なくなる。限りなく近づこうと想像力を使役させなければならなくなる。だからたとえば総会で支援団体の人が壇上に上がってきた行為などは浮わついて見えてきてしまうのだ。患者たちの御詠歌の迫力には、薄っぺらな行為は吹き飛んでしまう。伝染病かもしれないと思われて子どもを引き離されたエピソードや、町の発展を妨げるものとして排斥された動きなど、これまでに描かれてきた細かい棘の数々がここで裏返され、あの御詠歌になってごうごうと唸り立てているのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2012-01-28 12:40:09)(良:1票)
2.  宮本武蔵 一乗寺の決斗
どこかに仕えている侍の物語では忠義がテーマになるが、武蔵にはそれがない。それなら爽やかさを生みそうなものなのに、彼は忠の代わりに「剣の道」という精神主義に目覚めてしまい、人間としてはさらに始末が悪い。精神主義の剣豪の反対側には、家を背負う吉岡一門があり、本作のドラマ性は、その対比から生まれている。今までは対戦相手との了解済みの果し合いだったが(たとえば宝蔵院の阿巌を倒しても寺は恨まなかった)、家を背負った者はその家の安泰を願いだす。家の存続のためなら、あらゆる手段を可能とする。そういう方向へ歪んだ剣術の名門家と、精神主義で研がれすぎた剣の道と、二つの噛み合わない思想が一乗寺下がり松で激突し、少年を含む多くの命が失われていく。ただ立ち回りとして迫力があるのではなく、狂気の氾濫が凄まじいのだ。「寄るな!寄るな!」と叫びながら泥田の中を逃げ回る武蔵は、常に自分を批判的に見ていた唯一の正気保持者河原崎長一郎の目を斬る。主人公が勝つ活劇映画の頂点で、主人公がこんなにも追い詰められて描かれた作品があっただろうか。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2013-06-29 09:28:27)
3.  乱れ雲 《ネタバレ》 
終盤、司葉子の心が乱れてからが凄い。それまで明晰な展開で持ってきてて、ここで画面を混乱の酩酊に一気に導く。加東大介の居どころを尋ね続ける森光子の電話、司の廊下の往復、じゃれ合っている新婚客のカットが飛び込み、時計のチクタク音が持続し、割れる茶碗、広い風景に変わって心中捜索の人々。危機感がスーッと滲みてくる。階段の上下で見つめ合い、車中の人となる。バックミラーから見つめてくる運転手の顔(雨のときの雨宿りの二人の男を思い出す)、長い長い通過貨車、そしてゆっくりくねっていくと現われる事故車、さらにくねって旅館に到着し、救急車も到着、担架の怪我人と泣く妻、ここで初めて司が「ごめんなさい」とセリフを吐く。なんかメロドラマの核心を満喫しましたなあ。世間が無表情に周囲を取り囲んでいくなかで、二人がおずおずと、時に緊張し時に馴れ馴れしさを装いながら、近づいていく。新婚旅行の回想では間に合わなかったバスが、この二人の雨のときは意識して去らせていく。そして武満の音楽が入り込んでくる的確さ。もっとこのコンビに作品を作っておいてもらいたかったなあ。
[映画館(邦画)] 8点(2011-04-30 12:20:47)
4.  宮本武蔵 二刀流開眼 《ネタバレ》 
やたら偶然の出会いで話を進めていくのは、大衆小説では珍しくないし、おそらく新聞連載のときはそれほど目立たなかったかもしれないが、書物として続けて読むと、いささかゲンナリする。それをさらに映画では時間を圧縮しているわけで、たしかに「こう偶然出会い続けるのはいかがなものか」と思わぬとこがないでもないが、不思議と本で読むときよりは許せるんだ。とりわけ五条の橋の場なぞ(半分は必然だが)主要人物が勢ぞろいして壮観。まず試合の告の立て札に朝日が当たってくるカットがあり、まるで小太鼓のトレモロのような期待感が醸される。武蔵と朱実、般若面の小僧におつう、駕籠から見ている清十郎、当然のごとく小次郎もやってくる。彼は清十郎のとこに寄食しているし、清十郎は朱実の処女を奪った男で、朱実はいま小次郎と暮らす、という因縁もかぶさる。小次郎は、あんたは武蔵に負ける、と清十郎に予言する。そうそう、橋の下には気を失っているおばばもいる。こういう場面は、映画だといいのだ。本ほど理屈で読んでいるわけではないから、ざわざわと登場人物たちが橋に召喚されていく事態を、絡み合った紐を解きほぐしている気分で眺めていられる。本作で一番嬉しいシークエンス。あとは花の切り口で唸ったりする講談的味わいや、偽の小次郎となった又八が本物と出会い、さらに朱実が絡んだりするときの、背後で聞こえる町の賑わいや祭囃子の効果もいい。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2013-06-23 09:28:31)
5.  宮本武蔵 般若坂の決斗
城から出た武蔵は別人のようになっていたが、城の殿様は完全に別人になっていた(歌舞伎役者から新劇俳優に)。東映社内ではおつうも別人にしたら、という意見もあっただろうが、主要キャストは簡単には別人に出来ないのだった…。さて。ラストの般若坂より、宝蔵院での山本麟一との対決のほうが講談的な楽しさがある。まず呼ばれた剣客が小手調べを丹念にこなして臨み、にらみ合った後あっさり倒されてしまうリズム。音楽がないのもいい。そして武蔵が対戦し、麟一の阿巌がブルンブルン槍を振り回すのも大袈裟で嬉しい。その前の農作業していた月形龍之介の脇をハッと跳ぶ武蔵、現在では笑いと紙一重だが、講談的な愉しみだ。そういった語り物の味わいに満ちた一篇。おつうや又八などは、お荷物になってしまった。江戸時代に入ったとは言え、文化的背景はまだまだ中世で、時代考証の正確さは知らないが、襖の図案などは安土桃山ぶり、宿ったのが奈良の能楽師の家というのもあろうけれど、武蔵の物語にふさわしい。洗練された前時代の文化の中に、無骨な失業武士たちが溢れ、ラストでは散乱する死骸になる。まさにそういう転換期の物語なのだ。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2013-06-18 09:40:04)
6.  宮本武蔵(1961)
昭和36年は、もう戦後とも言えなくなってきたときだが、すごく戦後が重なって見える。敗れた者の望郷と、故郷の敷居の高さ、女たちの活力、その中でヤケになっているアプレ青年としてのタケゾーと、女と他国で生活を始める未帰還兵の又八、などなど。原作は間違いなく戦前のベストセラーで、千恵蔵がもうその時代に演じているのだが、映画化するにあたり、上映する時代にふさわしいピックアップがなされるのだろう(吉川英治は本シリーズ第2部完成前に亡くなった)。戦争終わって16年たっていても、人々の心には「戦いの後」のイメージがまだ濃く残されていて、シナリオを編むとき、どうしても背景に立ってきてしまうのだろう。冒頭武蔵が這い進むぬかるみは、昭和の戦争の戦場のぬかるみでもあり、また後の一乗寺の泥田にまで続くぬかるみだ。シリーズの一作目は、主要登場人物紹介を兼ね、それぞれの配置を観客の頭に刻みつける役割りもある。役者があちこちにスタンバイしていく開幕前の緊張のような、ドラマとは別種のワクワクがある。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2013-06-09 09:23:47)
7.  水のないプール
この人が出てくると、監督の映画じゃなくて、内田裕也の映画になっちゃうとこがある。それだけ強烈な魅力があるっていうこと。たとえばこの役を、石橋蓮司がやってるとこを想像してみた。このころこういう役なら彼でも達者にやったはず(大ファンでした、いや今でも)。でも風呂掃除しているおかしさは、内田以上には出せなかったんじゃないかと思った。石橋だと意識してスネて社会に背を向けてるってなっただろうけど、内田はもう根本のところから曲がっちゃってて、本人はまっすぐに生きてるつもりで、こうなっちゃうんだよね。ひねくれてないの。社会なんかに関係なく、ただ風呂を綺麗にすることだけで頭がいっぱいになってる。その純情・真面目がたまらなくおかしい。テーブルにすわらせてパーティごっこをしたり。無理に政治に絡めようとした部分は邪魔だった。最初の侵入の長い長いセリフなしの緊張。
[映画館(邦画)] 7点(2011-03-29 09:55:06)
8.  ミンボーの女
伊丹監督の情報映画というか、手口紹介映画というか、“現場主義”がよく表われた作品。こう複雑になった社会では、背景を分析していってはキリがなくなってしまう。そこで何事かが起こっている現場だけに好奇心を絞り込んでいく。現場のレベルでナマなものだけが、現代では確実な手応えを与えてくれるもので、そこに固執しよう、と割り切った姿勢が感じられる。暴力団と警察と企業、それらの関係を構造として見、解剖していくのではなく、それらが接触する面だけを剥がしてスクリーンに広げていく。暴力団と警察の背後にある政界での癒着などには思いを馳せず、このホテルのロビーだけの限られた中での正義を描く。もちろんこれは大きな弱点で、社会を捉える映画として最も重要である批評性を捨ててしまう訳である。でも、この世の中を大局的に分かったように扱うよりは、まず確実な部分だけでつかんでみたい、という作者の姿勢も尊重してみたいのだ。大局的な論は、突き詰めると抽象性の幕によって時代との間に境が作られてしまっているような感覚が残る。この幕に対するいらだちを監督は強く意識していたのではないか。日本の社会派映画の、とかく大局の論に走りがちな欠点を、もしかすると乗り越える役割りを担うのではないか、とこのころの伊丹監督には期待してたんです。手口の陳列として面白かったし、いつもながらの過剰なサービス精神にはゲンナリさせられるところもあるが、「暴力団は他人に屈辱を与えるから嫌だ」ということはあまり日本の映画ではちゃんと描かれてこなかったことで、そこを買います。仁侠映画好きな私が(フィクションと割り切って楽しんでるんですが)時々思う後ろめたさを贖罪する意も込めて。
[映画館(邦画)] 7点(2009-12-23 12:08:42)(良:1票)
9.  宮本武蔵 巌流島の決斗
片岡千恵蔵が特別出演しているのは、戦後の大友柳太朗の『丹下左膳』に大河内伝次郎がゲスト出演していたようなもので、戦前の武蔵役者に対する敬意の表明だろう。うるわしい。本作を一本の映画として見ると、いささか散らかっていて弱いが、あくまで大長編の結末として見るのが礼儀(歌舞伎で「仮名手本忠臣蔵」の通しを上演するとき、芝居として見どころがないのは分かっていても最後に討ち入りの幕を入れないと落ち着かないようなものか)。第三部で五条の大橋に主要人物たちが集まってくるのにはけっこうワクワクさせられたものだが、今回おばば・又八・朱実・おつうらが、都合よく出会うのは、さすがにもうワクワクとはいかなかった。解散の前に全員集合させられている遠足の児童のよう。ドラマ決着の前に厄介払いしているようで、これまで全国をあちこち回らされていた彼らが可哀想。そもそも彼らが必要だったのは序盤だけで、すぐに厄介ものにされてしまっていた。新聞連載小説の原作ものの難しいところだろう。石仏を刻んでいた盲目の河原崎長一郎だけ、筋を通してもらえた。武蔵の精神主義に疑問を呈するエンディングになっているのが、吐夢さんの筋を通したところ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2013-07-07 08:48:55)(良:1票)
10.  水で書かれた物語
世の中に奇妙な組み合わせは多々あるが、吉田喜重と石坂洋次郎ってのはかなりのものだ。たってこの原作読んだわけじゃなく、「青い山脈」とか「石中先生行状記」とかで作られた印象で言ってるんだけど、陰気と明朗、水と油。どんな監督が撮っても明朗な石坂調になるのに、この監督はならなかった。もしかして原作そのものがこう非石坂調の特殊なものなのかも知れないが、それにしてもイメージとあまりにも違いすぎる。あるいは40年代と60年代の違いか。弱いものの意地と反逆、いうとこに焦点を当てて、自分の世界に完全にしている。その世界はあんまり好きじゃないけど、この監督の作家魂は立派です。光と陰のコントラスト、俯瞰で人を押しつぶすような構図、日傘への偏愛。シャッターが降りてくる、ってのも好きみたい。ただ2時間観てるとキザに見えちゃう気がしないでもない。夢のシーンなんかよかった。看護婦たちが舞うように動くスローモーション。
[映画館(邦画)] 6点(2010-09-19 10:02:56)
11.  MISTY(1997)
承知して手掛けた再映画化なのだろうから、黒澤と比較しては気の毒などと言ってはいけなかろう。と思っても、やっぱりテレビっぽいんだなあ。アップの多用で、たとえば手なら手に意味が集中しているような画面とか、おそらくテレビの話法としては充分生きるとこなんだろうけど、スクリーンだとスカスカになってしまう。あと音楽(監督のお兄さん)がかなりうるさかったこと。この原作はどうも自分なりの解決篇を付けたくなるらしく、今回は因果ものめいた出来事を絡ませていた。三つの証言にそれぞれ雨・風・雷三様の背景を持たせる趣向、死んでいく夫の前で繰り返される「あなた…」の声の調子が多様に変わっていく趣向、ラスト森の中でくねくね動き回ったカメラが樹を這うトカゲを捉える趣向、などは面白かった。で比較するが、黒澤の森のほうが深かったね。
[映画館(邦画)] 6点(2009-04-27 12:02:17)
12.  緑の大地
青島の運河建設をモチーフにした国策映画。大運河であり、大計画であり、大目標である、と藤田進はさかんに「大」を連発する。その「大」の前では、原節子の入江たか子への嫉妬など些細なこととなる。日常の煩雑さが、すべて「大」の前で消滅し、人生も世界も単純明快なものとなる。戦時下とは、そういう「大」の時代なのだ。「大」に関わる人物像も単純に磊落で、この監督の『隣りの八重ちゃん』の繊細なスケッチを愛する者としては、つらい。それとあと一つ、この時代の国策映画でよく見られる「親切を分かってもらえない」というパターン。『支那の夜』で典型的に見られたこのパターンは、反日運動の存在は否定できないので、「真意が伝わっていない」という形で納得しようとしてるわけだ。悪役をしっかりこしらえておいて、日本の汚点はそこに集中させておく。でもこの「誤解されてる」って言い訳は今でも政治家が失言問題起こしたときなんかによく使われ、もはや日本の伝統文化と言ってもいいだろう。よその土地に勝手に神社をこさえるのも、ここでは「善政」なのであり、それに反発されるのは「真意が伝わっていない」からなのである。
[映画館(邦画)] 6点(2009-04-16 12:08:10)
13.  未来の想い出 Last Christmas
登場人物の生活に実感がない、というのは別に現代を描く場合悪口とは限らないが、ふわふわしながら繰り返される「生」も実感がないとなると、とらえどころがなくなり過ぎて。ついに現代は「死」まで実感を失ったということなのか。生も退屈な繰り返しでしかない、とか。この映画を材料にして現代を語ることは出来るかもしれないが、この映画そのものは何も語っていなかった。時代は音楽で表現するのが一番だけど、かつて無音楽映画の傑作を作った人と思って見ると、うるさい。けっきょくこの人の映画のうつろさは、意識的なものじゃなくて、単に作家の反映だった面が強いのかもしれない。恋人役のデビット伊東ってのが、ちょっといい横顔をしている。
[映画館(邦画)] 5点(2012-01-24 09:54:16)
14.  水の旅人 侍KIDS
この監督は破綻するときは、いつも同じ傾向の破綻の仕方をする。ある種の大袈裟さ、テーマを扱う手つきに異様に力がはいってしまう(ダムに捨てられる空き缶)、コミカルを狙うのがハシャギになって、制御が利かなくなってしまう、パトカーを盗むあたりの演出。どこか「しっとり」とか「しんみり」があって、うまく釣り合いが取れるといいんだけど。合成も昔と比べりゃいいのかもしれないけど、なんせ『ジュラシック・パーク』観た後だと、金も時間もヒトケタ違う仕事って感じ。カラスの動きなんかもうちょっと何とかならなんだか。家庭の日常シーンは細かいカット割りでせかせかさせる(これを徹底させたのが次の『女ざかり』なんだろう)。この人のテーマとしての「時間」がやはり絡んできて、流水に「年をとること」や「若返ること」が重なる。カメラ・レコード・講談社の絵本、などの古物趣味を展開されると、何も昔ばかりがいいわけではない、とも思いたくなる。そして「水」は人間が保護するばかりのヒヨワなものではないことを、日本は最近また痛いほど知らされたわけで。
[映画館(邦画)] 5点(2011-06-03 10:08:46)
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