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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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241.  太陽とバラ 《ネタバレ》 
不良の中にも格差があるって話。金持ちの不良(石浜朗)と貧乏人の不良(中村賀津雄)の差を見詰めている。でも木下はその正体を突き詰めるという資質の作家ではなく、もっぱら母の愚痴に代表されるような詠嘆を真に迫って歌い上げる監督。「自分が怠けるのを棚に上げて、社会が悪いと言っている」って。でもこれは太陽族に対する木下の単なる感想でしょ。その感想を真に迫って描けてはいるが、もう一つ切り込んで欲しかった。この映画の場合、石浜朗の「嫌な奴」ぶりを突き詰めて欲しかった。単なる風俗として登場してるだけで、もったいない。なぜ彼が貧乏人の賀津雄にネチッコク関わっていこうとしたのか、そこらへんでもっと膨らませられたのではないか。ただの金持ちの坊ちゃんの気まぐれで終わってしまった。ヨットを持つような金持ちの太陽族の非行は、成人すれば自慢話になって知事にでもなれるが(このドラマのイシハマ君は裁きをつけられたが)、貧乏人にとっては身の破滅にまで至るって不平等、それが描かれても詠嘆どまりなんだ。
[映画館(邦画)] 6点(2012-05-31 09:48:16)
242.  セーラー服と機関銃 《ネタバレ》 
『スーパーマン』のM・ブランドはしっかり浮いていたが、そこいくと我らが三国連太郎はすごい。大奮闘。ちゃんとコミック的な世界に溶け込んでいる。ああいう敵の巣窟の映画ってのが懐かしく、また廊下での撃ちあいも懐かしく、なんかそんな懐かしさに一番こころ撃たれた。長回しもたしかに面白いが、芸術上の必然性より作者が楽しんでるみたいなとこが、この監督の特徴。躍動感をそのままフィルムに封じ込めるのに成功している。薬師丸ひろ子は、新宿の高層ビル群が似合う(『翔んだカップル』もそうだった)。生活臭のないところだろうか。でも彼女自身はそう都会的って方向ではなく、そこらへんのアンバランスが魅力だったんだ。「しっかり」にちょっと「けなげ」が混ざってる感じ。いろいろと迷ったりする役より、一直線的な役のほうが合う。けっこう古風な青春像に重なっている。
[映画館(邦画)] 6点(2012-05-23 09:57:57)
243.  ねらわれた学園(1981)
昔NHKで6時からやってた少年ドラマってのか、あれで面白かった記憶が濃厚だったので、かなりガックリした。あっちは連続ドラマだったんで、だんだんファッショになっていく怖さをやれたんだな。テレビも低予算だったんだろうが、頑張っていた。こっちも金は宣伝費に使って実質低予算だったんだろうな。ラストの対決シーンにその低予算の哀しみが漂った。あるいは新人俳優に演技指導する予算も、製作費の穴埋めに回して使ってたんだな。体育教師がこっち側につくんだけど、だいたい体育教師ってのはあっち側の人間が多いんじゃないの。って思うのは偏見か。でもこれ話の核心はいいんで、丁寧に作れば、しっかりした作品になれたんだがなあ。
[映画館(邦画)] 5点(2012-05-16 10:02:06)
244.  さらば愛しき大地 《ネタバレ》 
一度ヤクをやめようと思ったとき、家族が来て再び手を出してしまうとこ。周囲のものが「ちゃんとしてほしい」と実に控え目に望んでいるのだが、その控え目な期待が重荷になってしまう。ダンプというシェルターから出たとたん剥き出しになってしまう。ダンプがあの稲穂や森のざわめきから守ってくれていたのかも知れない(カメラの田村正毅は小川紳介作品で稲穂に熟練)。さらにヤクに溺れていく原因を消去法で詰めていくところ。子どもの死ではない、妻はしっかり生きている。家庭が悪いわけではない、弟はちゃんとやっている。性格の弱さではない、友人は溺れなかった(蟹江敬三が「みんなやってんだべ」「たいしたことないっぺ」とビクビクしながら言うとこが絶品)。最終的な結論は得られないが、この丹念な作業が、じわじわとネジを巻いていくように怖い。秋吉久美子の「何いじけてんのよ」って言葉も、煽ってくる。すべて被害妄想という一言で片づけられるものかもしれないが、ヤクとダンプに保護されずに生きていくということは、その剥き出しに放り出されることなんだ。家族とはダンプのシェルターなしで付き合わなければならない。日蝕の色調が素晴らしかった。蟹江家のびっことどもりは「金閣寺」のパロディなのかな。
[映画館(邦画)] 8点(2012-05-15 10:07:05)
245.  女優(1947)
終戦直後の山田五十鈴と、新劇草創期の松井須磨子とが重なった。女性解放の爆発が日本中に起こっていた当時の山田が、ちょうどこう噴火している最中だった。デモーニッシュと言ってもいいほどの、女優のバイタリティが見もの。周りの人間が実に嫌に作られている。革新的であるべき人間の集団でさえ持っている陰湿な旧弊さ。ここに新劇草創期と終戦直後が二重写しに見えてくる。抱月が死んだ後の稽古のシーンが見応えあり。彼女も周囲に劣らず嫌な女だなあと思いつつ、讃仰してしまう。列車の光がモチーフになっていた。日光の旅行を回想するシーン、画面から人物だけがすっと抜けていく効果がこんなにも美しく決まったのは、あまりない。
[映画館(邦画)] 6点(2012-05-11 09:50:54)
246.  くもとちゅうりっぷ
極小のデリケートな世界に閉じ籠もり、その繊細さに心を合わせ続けることによって、心地よい緊張感が持続できるアニメ。雨やしずくや波紋など、水の描写が素晴らしい。戦争の暴威が荒れているなかで、必死にデリケートな狭い世界に閉じ籠もっている。この蜘蛛や嵐にいろんな象徴を当てはめてみることも可能だろうが(そしておそらく当局への製作理由には、それらしい意義が述べられたのだろうが)、これはおそらく現実逃避の作品だろう。戦意高揚がないのは当局への抵抗ではなく、作家の資質がこういう作品しか作れなかったのではないか。そういう状況が作家の世界をより純粋に煮詰めたということはあるかも知れない。アニメ一般としてみたとき、力作ではあるが、この繊細さは脆弱さにもつながり、もうちょっと生命力のようなものが欲しい気がする。少なくとも当時の子どもは、この狭いデリケートな世界より『桃太郎の海鷲』のほうを面白がっただろうな。
[映画館(邦画)] 7点(2012-05-09 09:34:22)
247.  秀子の車掌さん 《ネタバレ》 
これ初めて見たのが動労がやたらストをしていたころで、労働問題方面から眺めることになった。単純に資本家対労働者の図式でいくと、このころの国鉄のようにどうしようもない状態に追い込まれていっちゃうな、なんてことを思っていたときだったので、おこまさんがいろいろ工夫する楽しさを見いだしていくのが至って健全に見えた。でもけっきょく職場を能動的に楽しくするそういう工夫ってのが、最後は資本家を肥やすだけなのもこの映画のとおりなわけで、うむ、難しい問題だ、などと、詩情豊かな傑作をかなり特異な角度から眺めることになり、それはそれであとから思ってもユニークな体験だった。それだけ豊かな傑作だったということだろう。人物の描き方が一歩退いているのがよく、社長もどことなく愛嬌があり(この勝見庸太郎って、豊田四郎の『冬の宿』が記憶に残る名演だった)、作家もただの正義漢ってだけでなくヒョウヒョウとした味がある。ラスト、いざ案内をしようとするとコーラスが止まなかったり、美男の登山家がズラッとこちらを見てて照れてしまうなんてユーモアもいい。バスを停めて、下駄を履き替えに家に寄ったりするの。
[映画館(邦画)] 8点(2012-05-08 10:22:11)
248.  濹東綺譚(1992)
カツラってとこが新藤さんの解釈なんでしょうか。原作は、古風な世界にタイムスリップしたような気になるところを「綺譚」と表現したんで、断髪じゃ根本的に作品を組み替えていることになる(原作で確認しなかったけどそうだよね)。ラストの男も、ただ静かに去るんじゃなく、こっちでは嘘をつく。男と女の落差を、戦後篇で引っ繰り返していくところが、新藤さんの視点。沈潜していく男と元気になっていく女。荷風的な陰影なぞクソ食らえと、とにかく自分の世界に力業で持っていき、昭和史へ強引に引き伸ばしていく。自分の世界に持っていくのも映画作家としてアリだろうが、そこには原作との格闘があってほしい。これはただ原作の上に自分の絵の具を塗り重ねただけなんじゃないか。玉ノ井に導かれていくとこは、もっともっと時間を掛けてやってもらいたいのだが、つまりそういうところに味わいを求める映画じゃないのね。
[映画館(邦画)] 5点(2012-05-07 09:50:42)
249.  
かまくらやなまはげといった風物が織り込まれているってだけじゃなく、その扱いに詩情がある。落とし穴に落ちて雪を投げる子どもたちのシルエット、なまはげがくつろいで面を取ったのを盗み見て「インチキ」と呟くところなど、その扱いに懐かしさを含んだ詩情がある。仔を思う母馬が朝焼けのなかを駆け回る、高峰が病気の馬のために青草を探しに行く、弟を馬に乗って見送る、など、ここらへんのストーリーは常套的と言えば常套的なんだけど、それが繰り返し語られてきた物語を聞いているような、まるで時がたてばそのまま民話になってしまうようなファンタジーになっている。カメラが人物に近寄らないのも、民話の不特定の人物らしくなっている。顔のアップはラストの泣き顔だけだったんじゃないか。馬が仔を生んだときの家族のソワソワが一番いいシーン。小さな家族が一つの心配事を中心に寄り添っている光景のいとおしさ。詩情豊かではあるが、底には農家の貧困があり、馬を家族と見れば「離散もの」と言えるだろう。そして常に日本の少女は明るく健康でけなげなのであった。
[映画館(邦画)] 8点(2012-05-04 15:38:17)
250.  愛と希望の街(1959) 《ネタバレ》 
後半、観客を次第に苛立たせていくあたり、もう「大島」である。この苛立ちが社会に対する新しい発見なわけ。階級のどうしようもない差を、小さな犯罪を通して、またそれを巡る倫理観の違いを通して認識させてくれる。少年のほうも、鳩を逃がしたほうが悪いんだ、と自分に言い聞かせなけばならない疚しさを持っていた。渡辺文雄も疚しさを持っている。「親父の家でごろごろしているのが、今から考えるとおかしいんですが、何か罪悪のような気がしましてね」。この「今から考えると…」ってところが重要だろう。社会の構造に対する疑問は階級の差を越えて誰もが意識するときがある。がブルジョワに属しているものにとっては頭の中だけのことになりがちで、その構造の秩序に則った考えが「普段」になっていく。そしてわずかに残る疚しさが「今から考えると…」と言わせているのだ。どうして好意を素直に受け取れないのかしら、という少女の側の無邪気さも、けっして嫌味になっていない。それだからこそラストの鳩撃ちがいっそう悲痛なのだ。悪人らしき悪人が一人もいないのに、不幸や苦痛は充満しており、人々の間の相互理解は阻まれ続ける。お前はブルジョワじゃないのか、と問い返されて娘が「正義の味方月光仮面」と逃げて答えているのは、『少年』での宇宙人に対する願望を予告しているよう。ブルジョワの枠の中での正義は同情以上のものではありえない、そういう構造外の正義を、この月光仮面に期待しているのだろう。当時であれば、それは「革命」ってことで分かりやすい結論だったが、今現在はもっと深く問い詰めていかなければならないはずだ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-05-02 12:23:26)
251.  エノケンのちゃっきり金太
総集編でも残っていることを喜ぶべきなんだろうが、流れがおかしくなってしまっているのが、けっこうキズに感じる。中村是好との関係などギクシャク。なんか大筋のつなぎ合わせのほうを大事にして、ギャグとしての流れを犠牲にしたんじゃないか。滅んでいく幕府に同情的で、新興勢力の田舎ものをコケにするのが江戸っ子かたぎ。もちろん基本はこの時代の映画で親皇側を立ててはいるが、明治以降の大衆文化って、けっこう佐幕派的な心性がひっそりと生き続けている。エノケンのキャラクターは、卑屈としたたかさが同居したもので、チャップリンもそうだった。映画初期の庶民の理想像だったんだね、あんがい革命の時代ってことともどこかで通じていたか。スリのねえさんと一緒に旅していた、娘の父親探しはどうなったんだろうな。クシャミをすると是好が出てくるあの感じはよかった。
[映画館(邦画)] 6点(2012-04-30 09:35:22)
252.  ひかりごけ
シロホンがラドレミラレシドと湧き出ずる水のような音律を奏で、そこにフルートがかぶさってくるという、松村禎三節。で内容。前半はちょっとしんどかった。奥田君が「船長に食われるぐらいなら、フカに食われたほうがマシだ」って言うと「そんな意地の悪いこと言うもんでねえ」なんてあたりのおかしさ、ああいう感じがもっと映画の最初からほしかった。本当にそう思ってる優しさみたいのがあって。初めて食べるときのまん前向いた表情もいい。まさに「食べてる」だけの表情。食欲を満たすために肉を食べるって自然なことでしょ、っていうか。そこから自然と「生きることの切なさ」が見えてくる。「がまん」ということを裁判で強調してたけど、それが「切なさ」ともっと絡み合えば、ものを食べて生きていく人間を巡る広いテーマに至ったかもしれない。天皇への言及は、かえって自由な読み取りを狭めてしまったような気がした。悪とは何ぞや、裁くとは何ぞや、って広がるテーマですから。原作がそもそも偽戯曲という特異な形態をとっているんだから、映画として自由に練り変えるべきだったろう。ましてこのころはフランスでの人食いで佐川一政君がマスコミでもてはやされていて、人を食って裁かれる話に、現在は人を食って人気者になってしまう、なんて視点を挿入することも出来たんじゃないか。
[映画館(邦画)] 6点(2012-04-28 10:05:58)
253.  妻よ薔薇のやうに
原作ものではあるが、登場人物がみな弱さを持っていて、それを肯定していくという成瀬の匂いの強い話。正妻は長野から送られてきた金で衣装をあつらえるような鈍感さを持っていながら、短歌の世界では一応名を成している歌人。外で見かけた幸福そうな一家もそれをそのまま感動できず、一度短歌に凍結してしまわないとならない性分。旦那は旦那で、もういい年なのに夢追い人。金鉱探しで一生を棒に振ってしまいそうな感じ、しかもそれをうすうす予感しているようなところもある。妾は妾でそれを見抜いていて、そっと溜め息ついたりしている(この時代、妾というものはただただ可哀想な弱者か、女狐のような悪者として描かれがちだったと思うんだけど、この英百合子はちゃんと一人の女性として立体感を持って存在していた、どちらかと言えば「可哀想」サイドだけど)。みんな不幸へ不幸へと傾いていてそれを自覚しながら引きずり込まれていく。成瀬の世界をひとことで言えば「ずるずる」。流されていく弱さを個々に見ていくとどうしようもないんだけど、しかしその弱さの総体をどこか肯定している。それが明るい印象を残している。こんな世界観ってあんまりないんじゃないか。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-26 10:09:43)
254.  バーチャル・ウォーズ
映像作家はいろんな分野を開拓し、たとえばスピード感・あるいは恐怖感・神々しさ、などなど言語に頼らず映像だけで表現できる世界を広げてきた。そういう中で目立たないが(苦労してもあまり褒めてもらえないが)「生理的な気色悪さ」ってのを追求しようとした人たちもいたのではないか。古くなってひび割れ剥がれかけたペンキの塗り跡とか、小さな穴がぽつぽつとあいてる表面とか、意味に還元される以前にじかにゾワッと鳥肌が立つ画面、ああいうものを意識してしっかり創造してやろう、と決意した人たちもいたのではないか。本作の人体ピンポン玉分解にそれを感じた。よく熱についての教育番組なんかで分子の運動が活発になるイメージのアニメってあるでしょ。あるいはダリの絵とか。人体がああいうふうに、無数のピンポン玉みたいのに分裂し、活発に運動して四散しちゃうの。ハッキリ言ってそこのとこしか見どころのない映画でしたが、けっこうそれは生理的にじかに来る気色悪さで、気に入った。あとの現場であのピンポン玉みたいのが転がっているとこを想像するとなお気持ち悪い。あちらではこういうSF的な世界を描くと、だいたい一方に神を持ってきてオモシにする。
[映画館(字幕)] 5点(2012-04-25 12:28:12)
255.  東京五人男
その後の復興なった歴史を知っている者から見ると、焼け跡の風景に爽やかな解放を感じられるが、当時まだ前途真暗だっただろうから、ここに描かれる未来への希望は必死なものだったんだろう。それをコメディとして提示したとこに、庶民の底力への信頼が感じられる。中心になっているのは、不正を憎む素朴な正義感ね。ちょっと前まで異常な正義の時代が続いていて、「正義」に対する拒否反応や疑心暗鬼があってもおかしくないのに、とても健全に「正義」を信じている。というか、あの狂った正義の時代を越えて、最後にこういう素朴な正義があらゆる倫理の基礎になるべきだ、という考えに至ったんでしょうなあ。満員と行列に代表される世相描写も、同時代ゆえの手応えがある。強欲農家のシーンなどシュールな味わい。部屋の間の壁がひっくり返るようなドタバタもある。私の場合、戦後のイメージはもっぱら黒澤映画のギラギラとした世界で形作られてきたが、こういう爽やかな戦後風景もいっぱいあったんだなあと、新鮮だった。
[映画館(邦画)] 7点(2012-04-23 10:24:49)
256.  男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 《ネタバレ》 
夢から覚める場がない、タイトルバックが江戸川土手でない、マドンナがとらやの座敷に上がらない、などの変化あり。室内の暗さが今回は目立ち、京都の伝統を出す意識的なものもあろうが、マドンナ(かがり)の暗い情念とも通じていたよう。今回の趣向は、寅がマドンナに追いかけられる、という点。今までもホンワカムードになったのはあるけど、一途に思いつめられて付け文をそっと渡されたりまでする。その前に丹後でかがりの家に泊まることになっちゃうのが予備段階の緊張。かがりの母が近所の手伝いに出てしまい居心地の悪くなる寅の晩餐、自分からお酒を求めるかがり、狸寝入りしている寅、そっと部屋に上がってきて寅の横にしばらく座るかがり(娘のランドセルを取りに来た、という理由はある)。その心理のだんまり芝居を見ているようなせめぎ合いが見事。かがりは失恋の痛手に、加納の「人に気を使うな」という叱責の言葉が重なりズタボロで、ゆきずりの・下駄をくれただけの下駄顔の男に弱った心が一気に傾く。翌朝の別れのとき想いが溢れ、ずっと船を見送り続けているかがりのカットの積み重ね。なんか蛇体となった清姫のような凄味さえ感じられてくる。山田洋次は、臆病になってはならぬといつも言いながら、そうい臆病になる人たちをいとおしんでもいる。寅も含めて。ここらへんシリーズ通してのテーマ。あともう一つシリーズの重要なモチーフとして、かがりは外での寅と内での寅の違いを江の島で指摘した。外で会ったときは優しいのに、家に帰ると違った人になっちゃったみたい、って。本作では恒例のとらやでマドンナがもてなされる場がない。今までの寅は、とらや一家の暖かさの代表としてマドンナに気に入られていた面があったが、本作で個人として自立した(!)、ってことか。あじさい寺に寅が満男を連れてきたのを見て、かがりはちらっと表情を翳らせる。ここには「寅は寅の所属する家の人なんだわ」という嫉妬と落胆がある。寅は旅先ではけっこう大人として振舞えていた。濃い人間関係が生まれそうになったら、無名の旅人としてその場を去れる状況では強い。しかし名を持った個人として剥き出しで女性に対さなければならなくなると、たちまち恐怖に囚われてしまう。そしてシェルターとしての家の代理人を誰か、さくらがだめなら満男でもいい、必要になるのだ。デリカシーのある男はつらいよ、って寅は言うだろうが。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-21 10:12:12)(良:2票)
257.  南無一病息災 《ネタバレ》 
木の木目を生かしているのは、なんとなく絵馬のイメージにつながり、「願掛け」→「願い」といった話の設定を補強する。病んでいる少女に「心配しなくていいんだよ」と慰めている、という枠があるのがミソ。民話のような話を語る設定として、いい趣向だ。ホラあそこのお堂の絵馬を見てご覧、昔からそういうことになってるんだよ、という語りかけの調子が出る。青鬼が住み着いたほうは長生きし、赤鬼に急に飛び込まれた元気者のほうは血へど吐いて死んじゃうの。妻も子も。というギラリとしたものを含んだお話。民話ってのは、こういう無慈悲なギラリが平気で入っているから怖い。紙人形のような動きが面白い。ただフォークソング調の歌は、ちょっと違うんじゃないの。
[映画館(邦画)] 7点(2012-04-19 10:10:18)
258.  おろしや国酔夢譚
まじめに作られた映画で感動してやりたい気持ちはあるのだが、シナリオ術の低下は無視できない。映画のシナリオを作る伝統が、どこかでプツリと途絶えてしまっている不安を感じた。邦画のこの手の大作って、ストーリーのダイジェストになっちゃうのね。映画として楽しませようという気持ちがない。はたして観客はあの手の、通り一片の暴風シーンなんか見たいと思ってるだろうか。どうせスペクタクルで見入らせる金はないんだから、漂流しているとこから始めて、シナリオのなかにうまく粋に経過を織り込めばいいじゃないか。そういうとこで金を使わずにシナリオを構成するのが邦画の伝統だったはずだ。そんなとこより、河の氷が溶けるシーンなんかのほうが映画として十分盛り上げられそうなのに、西田敏行が岸辺にたどり着くまでを描かない。河が動き出す感動を映画は捉えない。西田の顔に河がオーバーラップするの。変に説明的なとこがあるかと思うと、彼らの進行を分からせてくれる地図を出さない。そういう「別の感動」への手助けとなる説明は、はしょらなくてもいいのに。小さな個人と大きな国家、小さな漂流と大きな歴史、そんな対比が芯の話と見た。海に向かって波に逆らって吹く風がすさまじかった。主人公が世界を知っていく感動や、望郷の願いやらは、も一つ焦点が定まらなかったみたい。
[映画館(邦画)] 5点(2012-04-10 09:59:31)
259.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 
山田洋次の陰影のあるメロドラマとして異色。でも心理の細やかさが間違いなく山田さんのもの。たとえばハナ肇に襲われかけたシーン、「どうして助けてくれなかったの?」「…親しい方かと思ったもので」なんてあたりで、「外部の人」として振舞わなければならない高倉健の位置を確認している。それが「もう他人と思ってないわ」に至るまでの細かい揺れが、メロドラマの醍醐味でしょう。最後の晩に健さんがドアを叩き、開けた倍賞のやっと時が来たという表情、ところが女心の分からぬ健さんに「牛の様子がおかしいんです」と言われて若干の自嘲と諦めを浮かべ、そして酪農家の顔になって作業着に着替えるあたり、ここらへん味わいの頂点です。男にとっての逃げ場所が、女が根付こうとしている場所だった、そのズレが最後まで重ならなかったというメロドラマ。二人とも二年前に連れあいを亡くしているという共通点も遠くから響いている。ハナ肇の使い方がすごく丁寧。まず「悪役」として登場させ、しかしそれだけでは退場させず、かつての馬鹿シリーズを思わせる「気のいい男」になり、そしてラストでは「取り持ち」として現われるなど、おいしい役どころだった。メロドラマとしての希望を描いたラストで、酪農業のほうは廃屋になっており、現実の厳しさを一つ打ち込んでいる。女手一つでは難しいと言う以前に、もう日本の小規模酪農業自体が困難になっていた。健さんはかつても「時代遅れ」の任侠一家をしばしば背負っていたが、ここでも時代遅れの滅んでいく側に加担したわけだ。一人で酪農を続けていた倍賞は、仁侠映画に出てくるイイモンの一家の老親分をほうふつとさせる。時代に乗っていたのは、たとえば健さんの妻を死に追い込んだ金貸し。裁判で出たその名前は「松野八郎」。当時はすぐにロッキード事件がらみの松野頼三、海部八郎の名前を思い浮かべられたものだった。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-08 10:04:37)
260.  鉄男II BODY HAMMER
想像力の狭苦しさに、ある意味で日本の現状を素直に映している気はする。あるいはせわしなさ・目まぐるしさの氾濫。現代日本を論じる素材としてなら価値はあろうが、どうもこの世界は苦手と言うしかない。「ごっこ」を感じさせる映画は4点と決めているのでそうするが、でも「ごっこ」の映画でも、なんか「いとおしくて弁護したくなる4点」と「別に弁護したくならない4点」とあるんだよな。その違いが自分でもよく分からないんだけど、これは弁護なし(馬鹿馬鹿しさの笑いの広場にまで突破してくれてると許せるのか)。主人公はワーッと叫んでヒクヒクやってるだけ。幼年期の記憶が呼び戻されたりして、かろうじて筋らしきものは読み取れる。でもどのカットとっても作者のオリジナルなひらめきは感じられなかった。
[映画館(邦画)] 4点(2012-04-02 10:18:54)
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