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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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361.  今ひとたびの
いかにもこの時代を代表するような作品で、メッセージ先行、あまりリアリティのない人たちがすれ違うメロドラマ。なんて言ったらいいか、主人公たちがひどく抽象的な苦悩を苦悩しているという感じ。苦悩っつうのはもっと具体的な手応えのあるものなんじゃないか。誕生日でのブルジョワの会話だって「だからプロレタリアって嫌い」って言うだけじゃミもフタもない。もっと工夫した会話を練れなかったのは、つまり観念的な操作だけで物語が出来ちゃってるからなんだろう(というか、参考になる本物のブルジョワが映画人の周辺にはいなかったってことか?)。高峰さんが波砕ける岩場で男の名を、竜崎君がダムで女の名をそれぞれ呼ぶシーンは、やっぱ見てて照れちゃう。でもサナトリウムのシーンでは、隣に座ってた年配の方が泣いていた。あの戦争の時代を通過した人には、その世代だけが理解できる胸を絞るようなツボがあるのであって、軽々に笑ってはいけない、と思いました。高峰さんは女学生からバーのマダムまで演じて、当時おいくつだったのか。ギリギリ20代には引っかかってるか。
[映画館(邦画)] 6点(2011-05-10 12:20:38)
362.  或る夜の殿様 《ネタバレ》 
だいたい敗戦直後の邦画は民主主義啓蒙のメッセージ性が強くて、当時の雰囲気を知る面白さはあるものの、あんまり楽しくないのが普通なんだけど、これは違った。こんなシャレたコメディが、この混乱期に作られていたとは。ヨーロッパ的で、なにかタネ本でもあるのかな。山田五十鈴の存在がさらに膨らみをつけている。いいシーンとしては、長谷川一夫がわざとコップの水を飯田蝶子に引っ掛けるとこ。そのあとの女中の顔が実にいい。アリガトウゴザイマスと驚きとがうまくミックスされた感じ。階級的恥辱感とでも言うのか、ああいう細やかさが日本映画のいいところなんだよね。観てるほうでもスカッとするし。ニセモノを作った志村喬ら三人組のワルガキぶりもなかなか面白い。舞台から下がってから笑い合うあたり。画面の奥のほうでほかの人の表情を見せるのもうまい。吉川満子が渋面作ってたりする。三人組がバレそうになって慌てるあたり。長谷川がいちいちカワしていくおかしさ。「私は一介の浮浪児ごときものと申し上げたはずです」。そしてすべては額縁から始まって額縁に収まっていくという趣向。シャレてるなあ。
[映画館(邦画)] 8点(2011-05-09 09:56:31)
363.  あひるのうたがきこえてくるよ。
奥会津の風景がワイドスクリーンに広がる。桃源郷としての田舎。導入は爽やか。6時の時報に走る娘っ子から卒業式、柄本明からヒヨコへと、自然に話を広げている。アヒルを教育し卒業させることで回復していく主人公。ヤマナシ夫婦の回復。町おこしによる町の回復と、自然に包まれた世界はいいことづくめ。いや、別にいいんです。桃源郷をあくまで桃源郷として描くのは。でもそれならもっと地元の顔で埋めて、ゲスト出演を絞るべきじゃないかなあ。東京の垢が溜まったような顔をズラリ並べられると、桃源郷が痩せた都会人の妄想に見えてきちゃうのよ。小沢昭一は少しやりすぎに見えるが、「漢字自慢」という設定がおかしい。方角狂いの友人妻は、鬱陶しかった。
[映画館(邦画)] 5点(2011-05-08 09:47:42)
364.  乱れ雲 《ネタバレ》 
終盤、司葉子の心が乱れてからが凄い。それまで明晰な展開で持ってきてて、ここで画面を混乱の酩酊に一気に導く。加東大介の居どころを尋ね続ける森光子の電話、司の廊下の往復、じゃれ合っている新婚客のカットが飛び込み、時計のチクタク音が持続し、割れる茶碗、広い風景に変わって心中捜索の人々。危機感がスーッと滲みてくる。階段の上下で見つめ合い、車中の人となる。バックミラーから見つめてくる運転手の顔(雨のときの雨宿りの二人の男を思い出す)、長い長い通過貨車、そしてゆっくりくねっていくと現われる事故車、さらにくねって旅館に到着し、救急車も到着、担架の怪我人と泣く妻、ここで初めて司が「ごめんなさい」とセリフを吐く。なんかメロドラマの核心を満喫しましたなあ。世間が無表情に周囲を取り囲んでいくなかで、二人がおずおずと、時に緊張し時に馴れ馴れしさを装いながら、近づいていく。新婚旅行の回想では間に合わなかったバスが、この二人の雨のときは意識して去らせていく。そして武満の音楽が入り込んでくる的確さ。もっとこのコンビに作品を作っておいてもらいたかったなあ。
[映画館(邦画)] 8点(2011-04-30 12:20:47)
365.  学校
やっぱり作品が生まれるにはタイミングってものが必要で、これはそれを逃しちゃったような気がする。一日の授業のストーリーにするより、順を追ったほうが良かったのでは。一日にするのなら、もっとディスカッションを中心に持ってきて、その中でそれぞれの背景を見せるという手もあったはず。前半あまり鮮度がないんだなあ。陳列しただけってとこがあって。いっそ、イノさんだけに絞ったら良かったんじゃないか。おずおずと尻込みしながら、学びたいという衝動が膨らんでくる。そのベクトルがこの作品のテーマでしょ。山形へ去っていくイノさんの目に映った東京、あそこがポイントなんだから1分ぐらい延々と彼の目を通した東京風景を映すべきところを、「イノさんの目にどう東京は映ったのでしょう」なんて無粋なナレーションが入ってしまう。教室では「幸福って何だろう」いうディスカッションになって、青年が「幸せだと思ってたのなら可哀想だ」と言うのは、「寅」でヒロシが母親の葬儀で言ったセリフのヴァリエーションだな。山田洋次における「可哀想」の原風景。
[映画館(邦画)] 6点(2011-04-29 10:02:09)
366.  めし
成瀬にとって本作は、49年の『不良少女』から組み始めたカメラの玉井正夫との最初の代表作であると同時に、上原謙と組んだ最初の作品でもあるんだよね(ザッと調べただけなんで間違ってないといいんだけど)。私は戦後の上原・とりわけ成瀬映画での彼はもっと評価されていいと思ってるもんで、そういう意味で意義深い作品。上原は戦前の二枚目から、戦後はどちらかというと「ダメな男」を積極的に演じた(私なんかは東宝特撮ものの白衣の科学者も忘れ難いな)。とりわけそういうダメ男の役で彼を使ったのが成瀬、妻や父を幻滅させる男を演じていく。そのスタートが本作だった。似たタイプの森雅之だと、ダメな男を演じても「やつれの色気」のようなものを漂わせ、演技者としてちゃんと観客を唸らせるが、こちらは「投げやりな衰え」とでも言うか、ただただ元二枚目が中年になったやつれだけが漂う。大阪に一人残されて来客にバタバタしているシーンなど、その個々の動作は滑稽味を出す意図的な演技なんだけど、その演技に上書きされるように、「愛すべきダメな男」が、演技者の意図を越えて画面に匂い立つ。映画俳優の演技って、こういうとこを生かすのが大事なんじゃないか。それでもまだ本作はいい役な方で、これからだんだん、よそに女を作ったり昔の女に金を無心したり、情けない役を好演していくんだ。彼、決して森雅之のような名優ではなかったかもしれないが、いい映画俳優だったんじゃないかな。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-04-27 09:48:32)
367.  人間失格 《ネタバレ》 
こういうスタイリッシュな画面を志向する監督は少なくなってきてるので、貴重な存在ではある。トンネルの中の小さな線香花火の落下から降りしきる落ち葉に移ったり、しだいに暮れていく窓外に大きな打上げ花火が咲いたり、ハッとさせてくれる楽しみはある(空豆を持った石原さとみの凄愴感には驚いた)。でもそれだけなんだよね。もちろんハッとさせてもくれない映画はいっぱいあるのだから、贅沢を言っちゃあいけないけど、清順はハッとさせるだけの安っぽさを自分の味わいにしてしまったが、こちらは全体暗めの画調で安っぽくさせまいとして、かえって手応えを模糊としたものにしてしまった感がある。並列されていく女性たちも、最後さえ三田佳子で押さえとけば、いくらでも短縮できるしいくらでも長くできるなあ、と思ってしまうと、なんか「空回り感」がある。
[DVD(邦画)] 6点(2011-04-26 10:07:23)
368.  純情二重奏(1939) 《ネタバレ》 
高峰三枝子‐万城目正コンビの記念すべき第一作、らしい。つまんなかったね。戦後の高峰の歌謡メロドラマと比べてもつまんない。レコード会社を舞台にしているとこなんか同じ筋で、ああいうのの原型はこれか、という得心を得られるのだけが意義。ストーリーとしての大筋は「親の心子知らず」から和解へ、というものだけど、つまりはレコードを売る目的の映画。ラストで三番まで歌ったのを二回繰り返したのにはまいったね。とにかく映画の観客の脳に歌を刷り込んで帰りにレコード買わせよう、という魂胆がアリアリ。それまでにも湖畔などで主題歌は十分聞かされてるのよ。でもまあ、ラストということで一回は許されるよね。丸メガネの霧島昇もいいしさ。でも終わったとこでアンコールって言う奴がいて(坂本武だったか)、人々の合唱も加わり、「あたしも歌わせていただくわ」という令嬢もはいり、斎藤達雄のくさい表情もあるし、客が順々に立ち上がる感動シーン極めつけの演出もあるから、まいいか。ここで指揮していた斎藤君が、うっと胸を押さえると、すぐ墓のカットになるのは、笑いを通り越してただただ唖然。
[映画館(邦画)] 5点(2011-04-21 09:54:38)
369.  人生は琴の弦のように
これはまず「地形」の映画である。盲目の主人公が見ることの出来ない遠景から、足もとの斜面に至るまで、作者の慎重な選択が感じられる。監督はかつてテレビのインタビューで、パゾリーニが好きだと言っていたが、その影響もあるかもしれない。しかし黄河のほとりのうどん屋シーンの不思議な緊張感はオリジナルなものだ。怒涛渦巻く背景を生かした地形の中で、セリフの少ないドラマが演じられる。地形が観客に与えるインパクトは強烈で、非日常の世界に・それも東洋的な光沢を持った神話の世界に一気に連れ去ってしまう。シートウが恋人の顔を地形になぞらえて手で探っていくシーンがある。盲人が視線の代わりに手でもって恋人の顔の上を放浪し、触覚が視線になって未知に向かい合ったわけだ。またこれは「音楽」を巡る映画である。『黄色い大地』からすでに、彼の映画では音楽が重要な役割りを演じてきたが、本作で前面に押し出された。人々に和をもたらす彼の琴、最後は自分のために弾き切ろうとする。が、主人公は芸術に裏切られる。人のためでも自分のためでもなく、芸術はそれ自身のために存在するという無慈悲さが剥き出しになる。芸術に魅せられるとはどういうことなのか。それでも音を掻き鳴らさないではいられない人間の可憐さのようなものが感じられても来るのだ。さらにこれは「放浪と定着」の映画でもある。村人は二人の盲人を神として歓迎するが、定着は許さない。おそらく定住したらただの乞食になってしまうのだろう。民俗学的なテーマでもあろうが、芸術=非日常のありように関する問題でもある。大きな争乱を一気に鎮めてしまう力は偉大であると同時に恐ろしくもある。そのようなものには居座ってもらっては困る、時々訪れて去っていくのが一番いい。芸術とはそういうきわどい存在なのだろう。謎のようなうどん屋の女将の歌に「誰だって自分の家にはいたくない」というリフレインがあった。女=妻というものがそもそも定住の象徴なのに、その女が放浪へ導く歌を暗示している。彼女はけっこう重要な存在で、芸術に関わってしまった人間の皮肉な運命そのものを操っているミューズなのだろうか。ああ、なんかとても多層的に観られる映画であった。
[映画館(字幕)] 8点(2011-04-20 12:27:19)
370.  サザエさん(1956) 《ネタバレ》 
江利チエミのオテンバぶりがやたら懐かしかった。オテンバやって何かしくじって、脚の片方を後ろに曲げて、頭をてのひらで叩いて舌を出す、というような感じ。「おきゃん」ほどではないが「おてんば」も死語になりつつあるなあ。「気立てのいい娘」とか「おてんば娘」とかは、近隣の噂話の中から生まれてくる評判で、そういう近所付き合いの枠組みがなくなってきたことで、それらの言葉もなくなりつつあるんだろう。これまだマスオさんと結婚する前なので、大家族というほどではないが、下宿人としてノリスケさん(仲代達矢だぜ!)がいたりして、現在の一般家庭よりは大人数。この昭和31年でこの構成員数が平均以上なのか以下なのかはっきりとは分からないが、核家族化へ向かう過渡期のころで、ある人たちにとっては自分たちの家族のように親しめ、また都会生活する若夫婦にとっては、失われた懐かしい家庭風景に見られたんだろう(サザエさんちは成城だった)。家族会議のシーンには、戦後十年たった民主主義に対する照れくささみたいなものを感じた。ビルの脇の自転車留めが懐かしかった。アチャコとのデパート内での不条理なオッカケ、金語楼の「耳が遠いのは家内です」いうギャグ、森川信の女装する探偵所長など、喜劇人がゲスト出演で賑やかにする。ラスト、ダークダックスの御用聞きも上がり込んできて、みんなが手をつないでジングルベルを歌いながらぐるぐる回りだしたときは、なんだかわからないけど、胸がいっぱいになっちゃった(ルネ・クレールかフェリーニか)。さてこれは、フィルムセンターの「亡き映画人をしのんで」の時、江利チエミ追悼で上映されたんだけど、最初に清川虹子が江利チエミのお父さんとちょっと挨拶があってシミジミした気分で観始めたの。で、映画が終わったとき場内で一緒に観賞していた清川虹子を見たら、もう号泣しちゃってて満足に歩けず、お父さんに支えられて出ていった。なんかコメディを観賞するにはすごくシミジミし過ぎる状況だった。
[映画館(邦画)] 6点(2011-04-17 12:09:29)
371.  東京物語
老夫婦が子どもに会うために東へ行き、子どもたちが親を送るために西へ行く、というシンプルな二つの移動の物語で、しかしその移動はほとんど描かれず、ただ西から東へ帰る紀子(原節子)の姿のみが最後に置かれる。描かれているのは人の世のむごさだが、しかしそのむごさは改めたり正したり出来る「あやまち」といった類いのものではなく、「そういうふうになってるもの」として提示されているがゆえにより沁みる。以前は、最後の京子(香川京子)の憤懣がちょっと剥き出しで、この繊細きわまる傑作の唯一のほころびかと思ったときもあったが、あれはただ本質を見つめられない「若さ」を客観的に描いていたのかもしれない。紀子によってフォローされているのだし。その紀子と京子が時計を介して照らし合わされ、移動する車中の紀子で閉じられていくことは、ここで初めて西と東が連続しようとしているようにも思われた。おそらく京子はここを通って東に行くだろう。しかし老父の葬儀までもうここを西に行く家族はいまい、という幕を引くための移動のようにも思われてくるのだ。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-04-15 09:43:53)
372.  二十四の瞳(1954)
木下恵介は、ちょっと離れて平行移動する二人を描くととてもよく(『野菊の如き君なりき』など)、それの絶唱とも言うべき最高の成果が、本作の修学旅行の場。食堂で働く松っちゃんを大石先生が訪ね、嬉しさと恥ずかしさが混ざったような松江が距離を置いてもじもじしている。大石先生が去るとたまらず飛び出したものの、旧友たちが先生へ走り寄ってくるのを見てサッと身を隠す。たまらないシーン。そして次にとぼとぼ歩く松江と、旧友たち・先生を乗せた船とが平行移動していく名場面になる。心象風景がそのまま抒情の極致となり、画としての構図もピタリと決まった。またチョイ役ながら、食堂の女将、蝿叩きを持った浪花千栄子が絶品なんだ。この映画の長さは、唱歌が流れるシーンで歌をたっぷり入れているので膨らんでいるところがあり、欠点と言えば欠点なんだけど、作品ごとに趣向を凝らす監督が本作では、唱歌が軍歌に勝利する歌合戦っていうような試みをしたと思われ、ロングを生かした画面もあいまって、そこにじっくりひたれる世界を作り上げている。木下恵介はコメディで最も才能を生かした監督だと思っているが、本作は抒情の作家としての代表作になった。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-04-12 09:46:14)(良:1票)
373.  恋文(1985)
いっそ肺病にして、大正ロマンに時代移してやれば面白味が出たかもしれない。度を越して「優しい男」を感動させるのに現代で来られると、ただのバカに見えちゃうとこもある。部分的にはいいとこもあるのよ。人の流れに逆らって歩く二人の長いシーンとか、「別れてくれ」言われるところの倍賞さんの堂々とした顔とか、離婚の相談所へ電話するときのチャリンチャリンの音もいいね。ブラインドを指でカチャカチャやるような、なんとない仕種をさせると、この監督はうまい。だけど男が二人の女に愛されるほどの魅力に乏しかったな。ラストは靴音遠ざかったとこで切っちゃったほうが良かった。
[映画館(邦画)] 6点(2011-04-04 09:55:04)
374.  花いちもんめ
公平なふりをして結論を回避した、って感じもある。こういう問題に結論は不要なわけだが、独自の意見というか、どうしたらいいんだろう、って方向でもう少し作者の姿勢ってのが見えてもいいんじゃないか。ボケ老人を抱えたことで崩壊しかけていた家が立ち直った、ってだけじゃ、ちょっとノーテンキすぎる。おそらくボケ老人を抱えたために家が崩壊したケースのほうが多いんだろうから。施設の描き方が悪者すぎて、そこらへんの整理の仕方が問題の扱いを単純にしていた。「だんだん悪くなっていく」ってところはやはりスリリングで、数字を反対に言わせるとこで、不意に年号がほとばしるあたりおかしい。こういうところ、笑っちゃいけないのかな、とちょっと緊張するが、人間の不可思議さということで、笑っていいんだろうな。
[映画館(邦画)] 6点(2011-04-01 10:03:37)
375.  水のないプール
この人が出てくると、監督の映画じゃなくて、内田裕也の映画になっちゃうとこがある。それだけ強烈な魅力があるっていうこと。たとえばこの役を、石橋蓮司がやってるとこを想像してみた。このころこういう役なら彼でも達者にやったはず(大ファンでした、いや今でも)。でも風呂掃除しているおかしさは、内田以上には出せなかったんじゃないかと思った。石橋だと意識してスネて社会に背を向けてるってなっただろうけど、内田はもう根本のところから曲がっちゃってて、本人はまっすぐに生きてるつもりで、こうなっちゃうんだよね。ひねくれてないの。社会なんかに関係なく、ただ風呂を綺麗にすることだけで頭がいっぱいになってる。その純情・真面目がたまらなくおかしい。テーブルにすわらせてパーティごっこをしたり。無理に政治に絡めようとした部分は邪魔だった。最初の侵入の長い長いセリフなしの緊張。
[映画館(邦画)] 7点(2011-03-29 09:55:06)
376.  十階のモスキート
内田裕也の魅力のひとつに、声を張り上げると上ずっちゃって軽くなり、ドスが効かなくなる、ってところがある。悪役専門だったら致命的な欠点なはずなんだけど、この人の場合、それを独特の滑稽味として持ち味にしてしまった。彼自身も意識してるんだと思う。絶対に普通の人じゃないという目つき・顔つきと、おどおどした感じを含む卑小な声とのアンバランスによるおかしみ、それがいつも気を張って生きている現代人にとって、けっこう普遍的な共感を呼ぶことになったわけだ。ラストの強盗シーンで、そのアンバランスは十分活用された。話は、しだいに借金地獄になってくとこにリアリティ。競艇で一発で決めてしまいたいと思う心理なんか、分かるもんなあ。十階へ階段を使って常に上っていくのがタイトルの意味。
[映画館(邦画)] 6点(2011-03-26 09:57:36)
377.  薄化粧 《ネタバレ》 
川谷拓三も、取り調べられる側から取り調べる側になったんだなあ。で、この犯人像、いかにも緒形拳的で、もひとつ驚きがない。そういう自分専用の像を作ってしまったってことは、役者としてすごいことではある。蛇のような男と近所で言われて・補償金ぶとりで・女の喧嘩にはオロオロし・すぐカッとなり・長いトンネルを掘って脱獄し・女好きで(「ね、しよ、しよ」)・石に子どもの名前を書き付け・竹中直人にはいい人であり・小娘には馬鹿にされ・少女に化粧してやり…、といったキャラクター。緒形拳が演じてしまうことで、こっちがそういう型に分類して見てしまってるのかも知れないが。最初のうちは時代がよく分からなかったが、しだいに歌謡曲で絞られていった。昭和24年。ラジオの時代。駅の便所で化粧する緒形と、あと追ってくことを決めて化粧する藤真利子とがカッとバックされるあたりに、短編小説の佳篇的味わい。
[映画館(邦画)] 6点(2011-03-24 12:20:18)
378.  女の中にいる他人
降り続く雨で、湿っぽいトーンが決定される。室内の陰影の味わいは横からの光が主になっているのだが、全体がモワーンとなにやらタレコメてる感じ。つまり湿っぽいのだ。フェイドアウトの多用も、その湿度上昇に関与してるか。あと顔が二つ以上、向きを変えて画面を埋める構図。妻と小林君。焼き場で草笛光子と小林君が何となく気になりあうシーンなど、いわゆるサスペンスの興奮とは微妙に違うような、でもやはりサスペンスの一種なのか、いい。停電の最中に告白しちゃうシーンもあったな。顔を合わせたがらない人々。まず観客はこの男と事件の関係をいろいろ想像するサスペンスがあり、次にそれがバレるかどうかというサスペンスがある。このつながり具合が、も一つうまくいってなかったようにも思う。それに題名がちょっと喋りすぎてる。輪郭線がにじむような画像処理など珍しいこともやっており、花火の夜の風景はストレートに美しかった。花火の音の効果もよろしい。次の『ひき逃げ』とともにこれは珍しいサスペンスものだが、気の弱い男としっかり女、という基本線は成瀬の本道だったわけだ。
[映画館(邦画)] 7点(2011-03-21 10:09:01)
379.  社長漫遊記 《ネタバレ》 
オリンピックの前年いうことで、社長のアメリカかぶれはもっと生々しい皮肉になってたのかも知れない。役者のちょっとした仕種なんかにくすぐられるところが多い。これ小林桂樹のトーク付きで観たんだけど(成瀬巳喜男の『女のなかの他人』と、筧正典の『新しい背広』ってほのぼの小品と、小林桂樹が出てるという以外共通点を見つけづらい風変わりな三本立てだった)、かなりアドリブ的に入れたところがあると言ってた。一番光ってたのはやはり三木のり平で、ときにすごく残忍な表情を浮かべながら、それを全体の喜劇トーンにうまく溶かし込んでいる。社長と刺々しくやりあったり、ちょっとした独のあるセリフを付け加えたりするのが、わさび的に絶妙。森繁も、無理にフォークでそばを食べるとこなんか、わざとらしさの極致なんだけど、笑ってしまう。尊大さと、ふっとした卑小さとをくるくる交換するおかしさ。フランキー堺の三世(?)言葉のおかしさ、こんな程度のことで笑ってはいけないと思いつつ、これも笑ってしまう。チームワークの良さで、場そのものが生き生きしてるってことなんだろう。池内淳子の消防芸者ってのは、火事があると野次馬で見に走り出してしまうっての。
[映画館(邦画)] 6点(2011-03-15 12:28:23)
380.  日本の夜と霧
50年代の共産党分裂騒ぎで傷ついた男と、60年安保闘争で挫折した女の結婚式、いう設定。その「儀式」の設定は、言葉の空疎さで生きてくる。結婚式スピーチの空疎さが、しばしば中山が語る党の公式見解の空疎さに通じ、そのままラストの「演説」の空疎に雪崩れ込む。真摯な問いかけは硬直した言葉で返され、その果てについに問いを遮断する演説に至る。言葉が溢れ返っている映画だが、その言葉たちは互いの理解に向かうのではなく、壁や塀として臆病に建て回されていく。言葉を封じるための言葉の氾濫。これは日本共産党批判の映画ではあるが、日本の政治風土全般の空疎を射抜いているだろう。上の指令で方針がコロコロ転換し、火炎瓶闘争は歌声運動に代わられる。それに疑問を持たない中山ら「良き前衛」に対する苛立たしさ。しかしもっと苦いことは、ここで批判者として登場する新左翼の若者たちも、60年代後半にはさらに空疎な演説言葉に振り回されていくその後の歴史をも私たちが知ってしまっていることだ。ワンシーンワンカットで、ちょっとしたセリフの詰まりぐらいは無視してずんずん進んでいくカメラ。安保闘争後急速に冷めていく時代に抵抗するような、「これでいいのか」という苛立ちの熱気の高温の中だけで生まれることが出来た、特殊金属のような強度を持つ奇跡の映画だろう。「突き詰める」という一番日本映画が、というか日本人が苦手としていることを、やり通そうとした爽快感がある。
[DVD(邦画)] 8点(2011-03-02 12:28:22)(良:1票)
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