Menu
 > レビュワー
 > Qfwfq さんの口コミ一覧。2ページ目
Qfwfqさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 170
性別 男性
年齢 43歳
自己紹介

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順123
投稿日付順123
変更日付順123
>> カレンダー表示
>> 通常表示
21.  トカレフ(1994)
子供がゴミ袋の中で発見されるあたりから、この映画は物語をちゃんと進行させることを拒否し始める。この映画が歪んだ社会を描くつもりも、犯人との心理ゲーム(あるいはそこから生じる家族の絆)を描くつもりでもないことはすぐに分かった。いらない物をどんどん削ぎ落とし、最終的には銃に憑かれた2人の男と、そして女だけの世界にしてしまった大胆さ。三者三様の孤独感の中で、それでも力強く生きる決意を見せる西山由海の表情。何かの予感を察知しながらも踵を返さないで祭りへと向かう彼女の後ろ姿は、一種の安らぎすら漂わせていたように思う。それに対して、死へと突撃する大和武と佐藤浩市の二人はその憎悪の形を歪めていく。それは2つの銃がもたらしたものだったのだろうか。だが派手な銃声はそこには響かず、命が削れる音だけが聞こえたようだった。「ソナチネ」からは絶対に見えてこない(ソナチネはまず、死が前提になっている)、生ありきの死がこの映画のラストにはあったような気がした。風車小屋が燃え上がる田園風景を突っ切る真っ赤な消防車が忘れられない。
[DVD(字幕)] 9点(2005-09-26 15:09:10)(良:1票)
22.  驟雨
香川京子「『何だそれは、キュウリか?』って・・・」原節子「え?」香川京子「キュウリって言ったわよ!」ここで香川京子が泣きます。原節子は「まあ、それは失礼ねえ」とか言いながら可笑しいのを堪えています。もう、このシーンだけでも何度も見たい!(ちなみにキュウリとは、香川京子が描いた日本地図のことです・・・)成瀬の映画で庶民の日常そのものを描いている作品って、実は意外と少なく「驟雨」はその中の一つです。小気味よいテンポとささやかなピアノからなる、ほんとに小品といった感じのこの映画は、それでもいつものように全く手抜きがありません。商店街の雰囲気や、まだ道路の整備されていない住宅地の佇まい。たった一つの画面から様々な心情を映し出す撮影と照明の素晴らしさ。そして大げさにデフォルメされた人物たちのおかしさあふれる抜群な演出。幼稚園での会合のシーンなんて、例えば脚本を見ただけで、あれだけ連続性に富んだ映像を創造できる人はいないと思います。この年、成瀬監督は他に「妻の心」と「流れる」を上梓しています。しかも「驟雨」の前は「浮雲」!この事実を前にただ驚愕するしかないです。今ではもうそんなことはありえないから。
[映画館(字幕)] 9点(2005-09-24 01:52:46)(良:1票)
23.  妖怪大戦争(2005)
妖怪、神木君、太もも、豪華なゲスト・・・これのどれか一つでも心の琴線に触れてしまったら、もう三池マジックにやられてしまう(僕はもちろん神木君・・・じゃなくて太ももです)。子供の頃にこれ見たら軽いトラウマになってたかもしれない、濡れた太ももの。真っ黒な日焼けではなく、真っ白な嘘と真っ赤な嘘の使い分けを覚えてしまうというセンチメンタルな夏休みとして少年期を決別させる感覚は、「千と千尋」で同じく妖怪たちに接した千尋の少女感覚とは違い、これはこれで結構好き。主人公の成長以外は、そのほとんどがバカバカしい映画だが、子供が見ても、大人が見ても(家族でみたらどっちもばつが悪そう)盛り上がるに事欠かない理想の映画なんじゃないかと思う。はっきり言って突っ込み所(姉ちゃんの存在価値は!?)は満載なのだが、結局最後は爆発しちゃうし、まあいいかなと。「フェリーニのローマ」みたいな感じで、この映画も「三池崇史の妖怪大戦争」にしたほうがよかったかもしれない。それにしても、あの巨大なバケモノ工場がなくなった後の高層ビルだけが崩れた東京、あれがどうしてもアメリカの国際貿易センタービルに見えちゃうんだけど・・・三池監督って「なんでやねん!」と突っ込まれたい人なんだということか。面白かった。
[映画館(字幕)] 6点(2005-09-16 18:27:37)
24.  按摩と女
山道を歩く二人の奇妙なさま。やがて彼らが盲目であるということがわかるのだが、なんというか、自分はそのことに奇妙さを感じたのではなくて、ハンディを持つ彼らに対してこの映画は何の気も使わずに奔放に振舞わせていることに、それを感じ取った。平等という言葉を履き違え、均一であろうとすることを良しとする世の中でこそ生じる、あの吐き気を催す差別がここにはまったくない。この映画には「いき」を感じる。それはもちろん高峰美枝子が匂わす媚態にも。66分で終わってしまうには、あまりにも惜しい。でも「結局何も起こらなかった」美しい雨のラストに何度も立ち寄りたくなることは間違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2005-09-13 01:28:57)(良:2票)
25.  乱れ雲
成瀬監督の作品群の中ではかなり暑苦しい部類に入る脚本だと思う。もうメロメロのメロドラマ。だから(?)なのか、成瀬監督らしさが伝わってくるのは会話のない部分だったりする。視線劇は相変わらず。司葉子が朝帰りした時の森光子のあのイヤラシイ視線は凄い。「この下世話な○○女がっ!」と心の中で叫びそうになるぐらい(ウソウソ)。前半は司葉子(ホント綺麗。話が進む度に綺麗になってくる。) の悲しさばかりが引き立つが、後半は加山雄三の哀しさ、特にラホールのくだりは笑ってはいけないと思いつつその惨状には思わず笑ってしまう。「僕はついてる人間なんです。」ってあなた。最後の津軽節も司葉子のためだけでなく、自分のためにもという部分はあるのだと思う。よって後半は完全に加山雄三サイド。この時点で成瀬演出にしてやられてしまったわけである。もっと素晴らしい作品はたくさんあるけど、「乱れ雲」はそういうのとは別の意味で好き。これが文芸座でやっていた時、ちょうど司葉子のトークショーがあった。そこで出た話で印象的だったのはラストの十和田湖のシーンでのこと。これを撮る前日、撮影も終盤という事で特別に酒が振舞われたのだが、司葉子は自分のシーンが残っているし明日の化粧にも影響が出てしまうからと遠慮したそうだ。そうしたら成瀬監督が「今日はかまわないよ」とお許しを出し、その時は監督の人柄にとても心を打たれたそうだが翌日、いつもより一生懸命化粧していた司葉子に監督から一言「今日は正面のショットはないよ」。それがあの十和田湖の美しいシーンの正体。うーん、なんて人だ。
[映画館(字幕)] 10点(2005-09-02 15:30:01)(良:2票)
26.  秀子の車掌さん
自分も[黒猫クロマティ]さんと同じようなことを考えてました(笑)それぐらいに高峰秀子の純粋っぷりが微笑ましいのですが、それにしても意地悪な終わり方ですねえ!そんな憶測もしてみたくなるというもんです。でも何も知らない高峰秀子と藤原釜足に対して、真相を知ってしまった観客側は彼女の一回きりのガイドを真剣に、そして悲しみをもって(大げさですが)聞くに違いなく、歌を歌い続ける女学生に苦笑するしかないのです。この、まるで監督との共犯関係みたいな状態に、それこそ恥ずかしいのですがラムネの甘酸っぱさを感じてしまいました。ラムネと氷ラムネと氷、ラムネと氷。この映画はまさにこれに尽きます。小品ながらも、イジワルジイサンこと成瀬巳喜男の面目躍如といった感じ、ここから成瀬=高峰の躍進が始まったのだと思うとワクワクします。
[映画館(字幕)] 10点(2005-08-29 02:13:22)
27.  運命じゃない人
カンヌでいくつかの賞を獲ったらしい。カンヌがナンボのもんじゃい!とタカをくくっていたが、これが予想以上に面白い。計算され尽くしたコメディ、とまではいかないがそこに迫る勢いがある。人物がまるでマンガのようにデフォルメされていて、しかも有名な俳優を使っていない分、嫌味が全然なく映画に入り込めるだけでなく、時間軸をゴッチャにするというある意味で使い古された手法も本当にうまく使われている。おそらく脚本段階で相当に練られていたのだろう。いわゆる「まず話ありき」の映画。ちょっと綺麗にまとめ過ぎているからか、何か物足りなさを感じるが主人公の不可思議なガッツポーズは必見(二度目は特に!)だから、オススメの映画と断言したい。「電話番号をなめんなよ!」に身をつまされた・・・
[映画館(字幕)] 7点(2005-08-17 21:37:17)(良:1票)
28.  リンダ リンダ リンダ
「ブルーハーツ!?熱いねえ・・・」ってしゃべるダブりの女子高生最高。屋上にマンガ喫茶経営するお前の方が熱い。「素晴らしい日々」歌っちゃってるし。遅刻の埋め合わせのために登場した彼女のギター演奏と、怪我でバンドに参加できなかった子の信じられない美声によってギャラリーが段々と体育館に群がる。大雨の体育館の中でのこの前座パフォーマンスはいまだに心の中に不思議な余韻を残している。あとぺ・ドゥナが徹夜練習の抑えきれない高揚(?)によって一人で校舎に飛び出すところ。これは本当にいいシーンだと思う。この終盤に来るまでは、笑いを狙いすぎたり山下ワールドを出そうとする過剰さに、煩わしさを少なからず感じたが終わってみれば満足(実はぺ・ドゥナとビラ配りを絡ませてくれただけで満足だったりするが)。先生が彼女達を見つめる視線にしんみり、ぺ・ドゥナがメンバーに振り向く視線にニッコリ。成瀬とは比べようもないけど、結構な視線の使い手かな?と思う。まあ、青春がテーマでもあくまでカーブを放る山下監督は、やっぱり推したい。
[映画館(字幕)] 7点(2005-08-15 21:52:06)(良:1票)
29.  乱れる
過ごしている時間の速度が全然違うな、と思った。東北まで1日以上かかる電車に二人で揺られたから高峰秀子は途中の温泉街で下車する決断を下せたのだと思う。「はやて」ではこの映画は成り立たないのである。電車のシーンからラストまでの展開は本当に息を呑むシーンの連続で、最後のクローズアップは呼吸が止まる。それにしても加山雄三よかったなー。今まで「サライ」とか若大将的なイメージしかもってなかったのだけど。加山雄三が飯をいっぱい食うだけで楽しかった。そして「ぼかぁ義姉さんが好きだ!」と言わせるほどの高峰秀子のけなげな後家ぶりに胸が痛くなる。あのシーンの時だけ茶の間の雰囲気はガラリと変わり、そこから物語は一気に転調する。だがこの映画、それまではドタバタ劇のような語りが進行する。スーパーの宣伝カーをまるで死神の襲来のように見つめる商店の人々のまなざしには思わず笑ってしまう。彼らにしてみれば笑えない事態なんだけど、笑えない事を笑いにする事にかけて、成瀬監督のセンスはとにかく冴え渡る。喜劇とか悲劇とかいう枠組みを越えて、人間の滑稽さ・あわれさや戦後の家族のあり方を背景におきながら、映画的興奮を常に喚起させるその圧倒的な才能。この映画は成瀬の映画の中でも飛びぬけてお気に入りです。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-21 14:41:43)(良:1票)
30.  緋牡丹博徒 お命戴きます
説明不能の面白さ。この映画がどうして面白いのかわからない。カッコよすぎる鶴田浩二が殺されて組の者たちが泣き伏している中、藤純子以外の照明が落ち、独白を始める。ここから先、この映画は奇妙な方向へと向かう。それまでは仁侠の世界と明治時代という背景がバランスよく進行していくのだが。この進行を一本の大きな幹とするなら、前述したシーン以降、ブワッとその幹が枝分かれする。陸軍大臣をブン投げるあたりからその枝分かれは一気に加速し、また絡みつきながら向かうべき終末であるチャンバラで再び一本の幹に収束する。こうやってダラダラ書いていっても何故面白いのかまでたどり着きそうにない。逆に言葉で説明するほど遠くなる。とりあえずわかったのは映画に思想も哲学も物語もいらないということ。映像美だって本来いらないものかもしれない。いや、ウソ。やっぱりこれらは必要なものである。ただ、私が言いたかったのは、そういうものがなくても映画を作れちゃう選ばれた人間はごく僅かに存在している/していた、ということだ。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-18 23:41:33)
31.  オペレッタ狸御殿
小沢「冷たいのどごしと ほのかに残る甘い香り あなたなしで生き てゆけない」 井戸田「あまーい!甘すぎるよ小沢さん!」(Byスピードワゴン)  っていうぐらいに甘い。ただしセイジュンの突発にまともに付き合ったら眠ってしまうんじゃないかとも思う。だからそれよりもこの映画を包む和菓子と洋菓子と中華菓子がミックスしたような甘ったるさに浸れば、反対にこんな幸福感はない。チャン・ツィイーは「初恋のきた道」の時と比べて60倍は良かった。アジアンビューティーたるもの、やっぱりイモ(失礼)ではダメ。白い背中をチラと見せる、艶やか、そして滑り落ちる衣服と足元。オダギリジョーだってチャン・ツィイーに引けをとらない。雨千代はこの世で一番美しくなければならないわけで。セイジュンとは花鳥風月であり娯楽活劇である。オペレッタ狸御殿を観るという事は、映画の申し子セイジュンによる日本的娯楽の一つに立ち会うという事です(大げさ?)。翁曰く、「安土桃山大好き人間である」ああ、やっぱり。 奇しくも、もう一つの巨大な本格である「ミリオンダラーベイビー」との同時期公開(東京ではそうだった)で、映画の豊かさをダブルで味わえた事にもまた感謝。それでも注目は薄かったように思う。こういう映画が敬遠されてしまう映画界の悲劇的現状に井戸田さん、どうぞ。「認めない、あたし認めないよ!」
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-14 19:19:10)(良:1票)
32.  プラットホーム
「私たちはいつも何かを期待し、何かを探し求め、そしてどこかに落ち着き先を見つけるのです(ジャ・ジャンクー)」この映画をずっと共有できたら、と思った。しかし160分という短い時間の共有はスクリーンの向こうでは10年以上の時間だった。別に彼らは「映画のような」生き方をしたわけではない。中国の広大な国土と大自然は悠久の時の流れを思わせるが、人間の世の中はむしろ加速を続けていて、時代の大きな転換点のなかをタンポポの綿毛のように浮遊している彼らはそれでも確かにそこにいて・・・観た後に感じる茫漠とした圧倒的な感動でしばらく動けなかった。意識的に非生産的でいられる時期なんて若い時ぐらいしかなく、その間にも加速していく時間の中である者はそれにしがみつき、ある者は腰を落ち着ける。こういうことはどの時代でも起きていたのかもしれないが、この監督はその舞台を中国がどんどんと自由な国に向かおうとしている時代を選んだ。それが一番印象として現れてくるのは時が進むと共に変わっていく音楽だろう。題名の「プラットホーム」とは80年代を通して中国で大ヒットしたロック音楽で、こういった新しい音楽が古い音楽では伝えきれなくなった彼らの感情を、代弁者になり爆発させる。この映画は結構クサい場面が多い。かなり露骨に狙っている。でもそれがいい。さらに言えばこれが中国大陸をまたいだ青春映画でありそのスケールが素晴らしい。
[映画館(字幕)] 10点(2005-05-18 00:53:15)
33.  回路
ホラー映画のオチは、たいてい不遇の死を遂げた人間の怨念が原因となっている。怨念は閉じられた場所でそれに関わった人間や時には全く関係のない者に危害を与え、用が済めば消えるか、あるいはその場にとどまり続ける。これが起こっている世界はそれゆえ非常に狭い。何というか都市伝説的だ。と、確信するほどにホラー関係に詳しいわけではないのだが、これが世界の崩壊に導くほどの範囲を描いたものに「リング」がある。伝染という発想がこれを可能にした。ただ、「リング」ははっきり言って発想だけ。映画として(小説でも)世界の崩壊を描けたかというとはなはだ疑問で、それは多分主人公達が恐怖の発信源に近すぎるからなのだと思う。で、黒沢の「回路」。ここまでホラーの話で引っ張ってみたが「回路」はホラー映画ではないかもしれない。ただ恐怖という原点は同じなので強引に進めると、この映画は個人の怨念に恐怖のもとはない。「死」というルール(法則)そのものからあの映像を具現化させている。魂というものがあるならば死後の世界にもルールがあるということだ。そのルールの崩壊が同時に世界の終末の始まりとなる。この映画がうまかったのはそういう死の永遠の孤独と、ネットという開かれているようで実は閉じられた世界を違和感なく変換できたことだろう。この変換の媒介となったものこそ「開かずの間」で、それはこの世に一個ではなく個人が一つずつ持っている。つまり中心がない。中心がないということはどこでも起こりうるということでもある。地上からどんどん人が減っていく感覚。黒沢監督はアンゲロプロスのようにロケは曇天にこだわり、時にはデジタル処理を施して崩壊のプロセスを展開した。システムは一度動き出すと、それが複雑であるほど止められなくなる。それはこの映画で見た未来の方向性とどこか似ている。
[DVD(字幕)] 9点(2005-05-15 16:25:03)(良:1票)
34.  神田川淫乱戦争
「ココロ、オドル」という短編を見たことがある。山中に住む遊牧民らしき人々のところに浅野忠信がやってきて、そこで争いや理解が繰り広げられるという話だ。って、書いてて全然具体性がない。それぐらいに不思議な映画だったのだが、なんか忘れられない。この棘が引っかかったまま黒沢作品はその後見てなかった。で、これ見てみたんだけどその棘はさらに奥深くに入ってしまった。え、これピンク映画でしょ?なんでゴダールなの?あの浪人生の部屋なんてモロにゴダールっぽい。それ以前に全員キャラクターがぶち壊れてる。しかし、これで不思議なのは映画としてこの淫乱戦争が完全に成り立っているということ。ピンク映画だから当然カラミもあるが、この映画には性欲を発散させるものはこれっぽっちもない。むしろ発散するのは感性といっていいかもしれない。虚構とか破綻といったものが全部味方になっているように感じた。最後の格闘シーンなんて、これが意図して作られた絵だと考えると恐ろしい。何一つ無駄なカットも無かったし、違和感のある構図もなかった。あのテンションをカメラが追いかけているにもかかわらず、である。
[DVD(字幕)] 8点(2005-05-08 01:44:06)
35.  老人Z
バブル期の香りが作品全体から漂う。扇を振ってる女が出てるわけでもないし、バブルに便乗した金まみれ男が出てるわけでもない。なんか知らないがとにかくそう感じる。独り暮らしをする寝たきり老人の家で、アンナミラーズの制服を着た女の子が洗濯物を干すシーンに代表される無節操なサービス精神に、あるいはそのことが含まれているかもしれない。そんな時代を謳歌する江口寿史のキャラクターがどことなく哀しく映る。とかいいつつ、はっきり言ってバカバカしい映画だ。楽しけりゃいいじゃん、な終末的なノリが凄くいい。そして大友克洋にかかれば、老人だって「ネオ」にしてしまうということがよくわかる映画でもあった。工場のおびただしいパイプやコンクリート、大友の作品ではこういう無機質のものが主役になる。「あのね、未来ってみんなツルツルに書くでしょ。ぼくはああいうのは嫌いなんです。もっとザラついて錆びていて、油もギトギトしている。だから世界はそこにしかないというか、どこにもないっていうか」。「AKIRA」の背景はこの言葉が全てを物語っている。そして「老人Z」はマンガ「童夢」のチョーさんの皺から始まっている(笑)老人とメカ。プリンに醤油をかけたらウニの味がするようなもんだ。もう、この映画はメカデザインを担当して介護用ベッドにブラックジョークを詰め込みまくった大友の道楽に違いない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2005-04-29 11:02:00)
36.  MEMORIES
前半の2話は、まあいわゆる限界状況サスペンスの典型みたいな話であり、娯楽性にも富んでいて楽しませるがこれらは別に大友でなくとも作れるレベルの作品だと思う。問題は3つ目。大友の作品にはその背景に必ず国家がある。この国家はかなり曖昧だ。全体がみえてこない。ただ、何らかのシステムによって支配されているということはわかる。そして、それは人間による人間の為のシステムであるに違いないが、大友の場合このシステムが突然自己生成を始める。それらは例えばAKIRAであり、暴走した介護用ベッドであったり感情の振幅によって殺戮能力の変化する人体兵器だったりする。これらのシステムは最終的に国家に対して復讐を行うわけだが、この辺が大友作品の痛快な部分なんだと思う。この「大砲の街」はわずか20分ほどの短編であるが、国民が総動員で大砲作りに従事している街の一日という恐ろしい寓話となっている。ここでもやはり彼らは何のために、そもそも誰に対して大砲を打ち込んでいるのか分からない。で、やはり大砲を作るという「システム」に対しては徹底的な描写(それは蒸気の噴射や計器の振れに至るまで!ここを見ないと大友を何も見ていないのと同じ)をこなしている。この短編ではシステムの描写のみで話が終わるが、人々は完全にシステムに組み込まれ、彼らを統治しているであろう王様を疑うことすらしない。しかし実のところこの大砲を発射する王様が本当に支配者なのかも定かではない。彼でさえシステムの中に組み込まれた一要素だと言える。そんな機械のような人間たちと対照的に、生き物のように敵国に向けて砲弾を飛ばす大砲。この終末観は、アナログへの偏愛ともいえるほどの執着でもってただのメルヘン世界で終わらせない鋭さを纏っている。街への爆破を予感させるラストのサーチライトとともに。点数は1話7点、2話7点、3話10点という配分を平均したもの。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2005-04-27 15:54:29)(良:1票)
37.  ヴィタール
カルト映画を作る人は痛みというものの概念に独創性を持っているような気がする。心の痛みとかそういうのでもなくて、精神と肉体つまり精肉(by武田泰淳)がごっちゃなのか或いは等価なのか。痛みの境目が曖昧でありそこになんとなく惹かれてしまうような、一味違う感動を与えてくれるようだ。それは壊れやすさといってもいいかもしれない(異形とはそもそも欠落なわけで)。ホドロフスキーの映画にもそういう部分で感動する。で、「ヴィタール」だが、所々に映画全体を暗示するようなイメージの挿入がなされる展開に目を丸めてしまうが、よくよく見ると凄く単純なストーリーだとわかる。そう、これはメロドラマだ。愛する女を失ったことをいつまでも引きずる男と、なんとかこっち側へ引き戻そうとする独占欲の強い女、そして時々姿を見せる死んだ男の恋人の幻影が織り成す三角関係(ま、強引だけど)。ただし話を包む世界観があまりにも独特だ。小さい頃は心というものが体のどこにあるのかと不思議に思いながら、その疑問を保留にして生きてきた自分にとって、こういう魂と肉体の解釈には新鮮なものを感じた。浅野忠信の恋人役は、生気に溢れた魂としての死者を大胆に演じていたと思う。反対に浅野忠信はミスキャストのような気がした。彼のミステリアスな風貌は必ずしもこの映画の方向と一致してない。だってこれ、コテコテのメロドラマだし。浅野じゃなければできないというよりも、とりあえず浅野、みたいな感じだ。この映画は「鉄男」を撮った監督としては、なんというか安易な印象を受ける。それは才能だけで撮ったという意味でもある。解剖手術を痛みの感覚的表現にしたとしても、あまり伝わってこなかった。何よりも、登場していた研修生達が医学生に見えない。まるで美大生のようだった。都市と人間の関わりというテーマのための「方法」が今作では中途半端だったように思う。コンクリートの湿った質感だけが塚本の異能を保っているようだった。
[映画館(字幕)] 6点(2005-04-25 13:51:02)
38.  ツィゴイネルワイゼン
どこかの映画館で「ツィゴイネルワイゼン」と「陽炎座」の2本立てという魅力的な企画があって、清順を未見のままにしていた甲斐があった!ということで飛びついた。が、その日は上映開始からすでに眠かった。これはちょっと無理かな、と睡眠モードに入ろうとしたが、映像がすでに夢うつつ。しかも強烈な切り絵を連続したような不可解な繋ぎと意味不明な登場人物たちに吸い寄せられてしまい、夢を見ながらギリギリ覚醒しているような状態で4時間を過ごした。そのおかげで、いまだにどっちがどの映画なのかよくわからない。言ってみれば「ツィゴイネル座」なのだ。ここのレビューなどを見て何とか分離させようとしたがやっぱりダメ。花束から綺麗に花びらが散ったかと思えば山奥へ原田芳雄の夫妻を訪ねるシーンが出てくるし、まつげを舌でなめられたのは松田優作だったような気がするし・・・でも、これでいいような気がしてきた。だってセイジュンだし。事実、「ツィゴイネル座」は私にとって最強の幻想映画なわけで。
[映画館(字幕)] 9点(2005-04-07 17:03:20)(笑:2票)
39.  カナリア
過剰な言葉。ハンディカメラを多用して疾走する子どもを追う。現実には口に出さないような弁論的な言葉を発し続ける人物たちが現実とは違うもう一つの世界へと連れて行く。それはどこなのか、と聞かれたら「別の世界」と言うしかない。もう少し具体的に言うなら、「もっともらしい場所で、もっともらしいことを喋り、もっともらしい行動を取る世界」つまり非現実の世界だろう。映画が虚構であるという事実は、ここまでしないともはや伝えることができないのかもしれない。塩田監督が創り出した世界はラストの向井秀徳の自問自答に至るまで素晴らしかった。それは新興宗教に顕著にみられる組織と教条とを、国家の相似形として表現した世界だ。宗教集団の白のイメージやとめどない緑色の流出といった色彩感覚がその世界をさらに極端にする。徹底してフィクションを作ることに努めた彼の方向性こそ大正解だと思いたい。過剰な言葉の森を抜けるのに必要なものは言葉にはならない「何か」だろう。この「何か」は、「繋がれた手」と「疾走」が全てを表している。主人公の光一がバットで車を壊す。由希が男に手錠をかけて車から出る。二人は殴りあう。後ろからクラクションが聞こえたと同時に二人は手をつなぎ走って画面から消える。このシーンこそ「カナリア」をよく象徴している。手が繋がれた瞬間だけ、異様でグロテスクな教義に包まれた世界は消失する。それでもまた離れて・・・・でも最後は繋がる。あらゆる悲しみを受け入れて劇的な変化をした少年を前に、もはや言葉も言葉をなくす。全ては「生きてく」に辿りつく為。
[映画館(字幕)] 8点(2005-04-03 02:32:45)(良:1票)
40.  誰も知らない(2004)
ものすごーく出鱈目な事が書いてあったので書き直します。社会派という自負がこの人にはあるのだろう。映画が社会に対するご意見番になりうると信じているのだろうか。映画はどんなに人気があってもやがてスクリーンから姿を消す。だから歴史に残る映画でさえ、何が(フィルム?壁に映る光?ビデオ?)残っていることで歴史性を誇示しているのかよくわからないのだから映画って儚いと思う。儚いものが社会と対峙してもいい結果は得られなさそうなのに、この映画は社会を語るためのただの媒介になってしまったように思う。暖めていた企画ということで執念はあったと思う。でもその執念は本当の映画を作ることだったかどうか。
[映画館(字幕)] 4点(2005-03-09 12:57:00)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS