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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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21.  ロスト・ハイウェイ
内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の「マルホランド・ドライブ」に譲るが、本作「ロスト・ハイウェイ」は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。「ロスト・ハイウェイ」という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。
9点(2004-08-21 00:00:24)
22.  パリ、テキサス
茫漠と広がる砂漠のような虚無感。彼が旅したのは自らの心象風景の中だったか。しかし、失われたものを快復するために彼は目指す。自意識に根ざす心象風景は常に止め処ないが、そこに一筋の光を見出すことは不可能ではない。砂漠にも静かな雨が降ることがあるだろう。優しさという名の愛情が彼に希望をもたらすが、それはもう遅すぎたか? でも終わりは始まりともいう。大切なのは彼の心の在り様であり、快復であろう。柔らかに降り注ぐ雨は静かに地下へと水を湛え、やがて彼の人の水脈にも連なっていくだろう。彼に必要なのはその為の時間だけである。それが自然というものだろう。
9点(2004-08-13 13:30:36)(良:1票)
23.  シティ・オブ・ゴッド
ブラジル版の「仁義なき戦い」というのは当たっているかな。でも、確かに深作やタランティーノのテイストを十分に感じるけど、登場人物の大半が子供だということはかなり異様である。「バトルロワイヤル」のような完全なる虚構性が前提であれば、純粋に娯楽として楽しめるが、この作品のもつリアルな歴史性は、そのスタイリッシュな娯楽的展開から乖離して、僕らの胸をストレートに突き刺すのである。子供たちが殺し合うということの捩れた純粋さがとても心重く、とても恐ろしいのだ。しかし、僕はこうも考える。この作品が捩れた純粋さと殺人に対する原初的な麻痺の恐怖を描いているとすれば、一体全体、「バトルロワイヤル」的な虚構性とは何なのだろうか、それを描くことのリアリティとは何なのだろうか、と。それはゲーム的虚構性であり、ゲーム的リアリティであるとしか僕には思えない。本来、作品とはそういうものを超えたところで創られるものだろう。歴史性がなければ、人の心は掴めない。というか、人々の心の有り様こそが今描くべき歴史性だ。今、この瞬間にも歴史は創られているということを僕らは認識すべきなのではないか。話はそれてしまったが、この作品が傑作であることに全く異存はない。
9点(2004-06-27 01:44:29)
24.  戦場のピアニスト
不条理下における芸術性のあり方については、これまで否定的な考え方を幾つも目にしてきた。戦争による芸術の無力化。芸術的抵抗の挫折。しかし、そもそも芸術とは抵抗する力をもつものなのだろうか。戦争が個人のもつあらゆる社会性を崩壊させた時、己を生かしめているものは狂気より他ない。闘争は正義をも崩壊させるのだ。この映画は、主人公のピアニストが戦争によって社会的自我や人道的正義を喪失していく様を克明に描いていく。では彼の芸術的内面はどうだったのだろうか。絶望的飢餓状態の中で狂気を彷徨う主人公にピアノの旋律は聴こえていたのだろうか。その答えが瓦礫の廃屋でピアノを弾く主人公の姿なのである。実はポランスキーがこの映画に込めたメッセージとは、この一点に集約されているのではないか。間違ってはならないのは、芸術的内面というのが決してヒューマンなものではないということだ。それは人が全てを失った地平においても、生きていく狂気とともにあり続けるものであり、誰からも(己からも)アンタッチャブルなものとして個人を吸い込んでいく領域なのである。そもそも芸術的内面とは、哀しみによって熟成していくものではなく、哀しみそのもの(をのみ込んだもの)なのだ。瓦礫の廃屋で主人公を助けるドイツ軍将校は、自らの持つ民族的国家的正義に支えられながらも芸術への理解を示す人物像として描かれている。彼にとって芸術への理解とは、一人の優秀なピアニストを守るということによって自らの正義へと直結している。その彼が捕虜となり、逆に主人公に助けを求める姿は、その個人的な正義すら、狂気により脆くも崩壊してしまうという現実を見事に描いていると言えよう。戦争と芸術、この映画は、二つの喪失の狂気を対比させながら、正義なき、神なき時代の絶対的根源的な魂のあり方を描いている。それは芸術的内面の崇高性を描いていると言えるかもしれないが、ある意味でそれは絶望に変わりない。そして、芸術的内面という喪失感すら喪失している僕らにとってそれは悲劇の極致なのである。
9点(2004-03-27 23:24:14)
25.  グッドモーニング・バビロン!
ロードショーで観たのは、高校生の頃でしたね。その当時、グリフィスもイントレランスも知らず、ただ黎明期のハリウッドを描いた青春映画との印象を受けました。彼ら<主人公の2人の兄弟>は、夢を描いてハリウッドを目指し、兄弟同士の葛藤やら、恋愛やらを経験しながら、成功を手にし、自らの行く末を一歩一歩固めていきます。しかし、戦争という不条理が2人の運命を決定的に狂わせて。。。あー、僕らは夢もなければ、不条理もない。。。なんて、哀しい感想を当時の僕が残したかどうかは不明ですが、映画としては、当時のキネマ旬報ベストワン作品だけあって、わりと観応えがありました。
9点(2003-10-13 17:59:54)
26.  仕立て屋の恋
「髪結いの亭主」に並ぶ、ルコントの偏狂的恋愛映画。片思いは究極の恋だって言うけど、それはまったくその通りです。だって「恋」とは自己意識そのものなんだから。「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛関係はすでにまったく終わっているのである。」これはキルケゴールの言葉だけど、まさに恋愛の本質をついているよね。 この映画もそういった恋愛の本質にかなり肉薄しているように思う。良い作品っていうのは、観終わった後に自分に対して問いかけができるもの。ある批評家が、作品とは社会構造の「結果」というよりも、何かを論じたいという気持ちの「原因」であることが重要だと言っているが、僕にとっても映画とは、技術論よりも方法論が優先するべきもののように感じる。この映画の狂おしさは、方法論的に僕の情念を切迫し、語りえない恋愛の本質について、僕に語らせようとするのだ。まぁそこまで強迫的になる必要はないけれど、僕らの情念に響いたことを如何に味わうことができるか、そしてそこからPersonal Issueを超えて、如何に想いを馳せることができるか、本来的な意味において、それこそが作品の価値というものだと思うのである。
9点(2003-10-13 15:37:57)
27.  小さな泥棒
若きシャルロット・ゲンズブールの魅力が全開の映画です。この頃の彼女のブータレた魅力はたまりませんね。確かにストーリーはどこか類型的で中途半端かもしれないけど、彼女が登場するだけである種の痛々しさが画面に迸ります。それは、彼女特有の影のある表情、雰囲気から溢れ出る「自意識」の仄か(ほのか)とでもいいましょうか。少女から大人へ、まさに「青春」そのものだったのが当時のシャルロットなのです。彼女は決して<ジェーンのように>派手な顔つきじゃないけど、ナチュラルで純粋な美しさがあります。そんな彼女の魅力が十分に伝わってくる、そんな映画なのです。
9点(2003-10-12 23:55:54)(良:1票)
28.  コックと泥棒、その妻と愛人
なんでしょうね。この世界は。なんか全編通してものすごい緊張感があるんですよね。圧倒的な暴力と恋愛、そして黒い高級料理。共通しているのはある種の欲望、死の恐怖を克服するところのエロチシズムかなぁ。なんてバタイユみたいだ。まぁそれにしても、異界の大厨房で妙に物々しいおっさんたちがゴリゴリ、ガリガリとつくりあげる料理って、いったいどんなもんなんでしょうねぇ。腐った食材が錬金術的魔法によって美食に変化する~みたいな。
9点(2002-04-12 00:07:55)
29.  落下の解剖学 《ネタバレ》 
この映画は「おとなのけんか」である(ポランスキーにそういう映画があったが)。夫婦が喧嘩するだけでなく、裁判での検察官と被告、証人、弁護人とのやり取りも口喧嘩のようなもの。言葉尻を捉える子供じみたソレである。そういえば、冒頭にキャストの子供の頃の写真が出ていたなと。 被疑者の女はドイツ人で、転落死した夫はフランス人。裁判ではフランス語の質問に英語で答える。言葉の壁に子供っぽい心理が加わり、共通のコードを持たないコミュニケーション不全が前提であれば、それは言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン!)となる。  言語ゲームとは、言葉と意志が通わないところに起こる本来的な他者との邂逅。結局のところ、彼らの子どもで、おとなになろうとする盲目のダニエルにこそ全能性が宿るラストが象徴的であった。 転落死した男は自殺か他殺か? 彼は落下する。私には、それもダニエルに見透かされたように、言葉を失いながら、言葉を紡ぐしかない作家の子供っぽさ所以の自作自演の典型のように思えた。  『ある言葉の根拠を示そうとして、いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。自分自身で決めたルールのなかで、自分自身を正しいとしているのだから、つまるところ「論理」というものは、すべて「自作自演」となる』 飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」より
[映画館(字幕)] 8点(2024-03-05 19:21:31)(良:1票)
30.  おとなのけんか 《ネタバレ》 
メチャメチャ笑えた。4人の関係が徐々に険悪化していき、エゴ剥きだしで体裁も何もなく、ハチャメチャになっていくのに、笑いは止まらない。但し、ポランスキーにしては珍しく、ただそれだけのコメディ作品とも思える。。。いや、この監督だからこその、ある意味で現代人の本質を醜悪に捉えた秀逸なブラック・コメディか。  題材的には、三谷幸喜あたりの舞台劇にもなりそうだが、日本ならば、喧嘩両成敗で、最後は全て水に流して、丸く収まるというのが落としどころで、あんな収拾がつかない終わり方にはしないだろう。さらに現実には、日本のこども同士の関係性って、おとなの世界の縮図だから、こどもの方がおとなを差し置いて先に仲直りしているということもないだろう。  おとながこどもみたいに自分や自分の周りだけを優先して自己保身と責任追及(転嫁)に執心する世の中で、こどもはそんなおとなに倣うわけだから、いつまでたっても日本に「いじめ」なんかなくならないよ。  ※日本でも『大人は、かく戦えり』のタイトルで2011年に舞台上演されているようです。大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実出演。。。
[DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:41:52)(良:1票)
31.  赤い砂漠
モニカ・ヴィッティの存在、彼女が放つ美の重力が世界を歪ませるのだろうか。それは、美と孤独の関係を思い起こさせる。美が必然的に引き寄せる孤独と美に惹きつけられる孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛は人を何処にも連れて行かないが、その圧倒的な力に人は逆らうことができない。重力に身を任せながら、男は回転儀のようにバランスしつつ、美の周りを廻り続けるしかない。そして女も。彼女自身の美しさ故に、その外部の力が彼女の心のバランスを崩していく。  美は永遠でない。世界は移ろい、絶対的な信などない。発電プラントのコンクリートやラックの鉄骨、配管の硬質性、排蒸気の規則性のみが単純で線形的、重厚長大な存在感を残す。登場人物達が醸し出す不安感、非線形性とのコントラストが美の在り方を浮き彫りにし、映像としてフィルム(物質)に焼き付けられる。こうして美は、その在り方と共に永遠となるべきなのだと言わんばかりに。  同時に、男が信じることとして挙げた「人間性」「正義」「進歩」「社会主義」、それらの線形的なイデーが脆く崩れ去っていくのを僕らはこの映画の裏側に観ているのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2012-07-08 22:35:30)
32.  TOKYO! 《ネタバレ》 
池袋の新文芸坐で『トウキョウソナタ』(こっちが本命!)との2本立てで鑑賞。東京シリーズか。。 『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー、『ポンヌフの恋人』のレオス・カラックス、『グエムル/漢江の怪物』のポン・ジュノ。3人の作家が描くオムニバス形式のTOKYOの物語である。 人々の想像の裏側から描く東京というファンタジー。椅子女。下水道の怪人。ボタン少女。ある種の「東京奇譚集」だろうか。 予備知識がなかった分、それぞれに意外な展開が面白かった。唐突に椅子に変身し、そのことに充足し依存していく女の仄かな孤独。都市への安住を否定する存在、下水道の怪人メルド(糞)という潜在的恐怖とその捩れた存在の奇怪さへの戸惑いと怒り。そして、恋と地震によって揺りだされる引きこもり達の生への欲求と畏れ。 新しい東京物語は、現代的な心情が紡ぐ都市伝説とでも言うべきものだろうか。そこには悲壮感がそこはかとなく漂うのみで、全体的にアカルイ映像が印象的だった。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:38:21)
33.  死刑台のエレベーター(1958)
特別な映画である。当時、マイルスデイビスは、マラソンセッション等で名を馳せたクインテットでハードバップを確立させ、独自のミュート奏法にも神懸り的な磨きかけて、ジャズクリエイターとしても、プレーヤーとしても、最高の時期であったといえる。しかし、そのクインテットも57年には解散し、この映画へ実際に演奏を付けたのは、フランスツアーを共に回ったとはいえ、現地の人間と組んだ新規のクインテットである。まぁオリジナルクインテットにこれ以上の傑作アルバムを求める気持ちは全くないので、フランスという異国の地で、映画のラッシュを観ながら<ジャンヌモローの姿を観ながら>、即演するという新たな方法を見事に具現化してみせ、緊張感の中にも伸びやかなミュートを効かせまくるマイルスの演奏にはかなり満足している。というか、ジャズアルバムとしてもこれはものすごい傑作である。いくつかのメロディの断片を事前に用意していたとは言え、映画を観ながら、クインテットのメンバーと即興で音楽を作り上げていく、、、それがマイルスであるということも合わせて考えれば、ある意味でこの作品は驚愕すべきものだといえよう。 さて、映画もそんなマイルスの演奏と共に観ていけば、あまり細部に気が回らなくなる。いくつかの印象的なカットに合わせた隙のない演奏、ジャンヌモローの可憐かつ端正な立ち姿と共に、マイルスから彼女に対する愛の囁きの如きミュートが画面から立ちのぼる、そんな映画である。
8点(2004-07-17 23:58:30)
34.  華氏451
ブラッドベリの名作SF小説の映画化。小説の冒頭に物語のイメージを決定付ける挿絵がある。火焔に包まれた家とその中で本を片手に叫ぶ女性。取り囲む群衆と無残に踏み捨てられた本の数々。一人の焚書官の背中が大写しとなっている。ファッショナブルな防護服とモヒカン様のヘルメット。背中には何やら火炎発生器のような四角い装置を背負って、そこから伸びるトカゲの尻尾のようなホースを手に持っている。小説の内容以上に印象に残る絵だ。トリュフォーがこの近未来小説のビジュアルイメージ化を焦点にしてこの映画を製作したことは想像に難くない。焚書官の制服は挿絵や小説の記述イメージそのままだし、部屋の一面を使った巨大なテレビや自動扉付の家もこの近未来小説に沿って造形されている。しかし、小説で描かれるその他の自動機械の映像化は全く無視されており、現代の僕らから観て、あまりにも牧歌的な装置の数々にはちょっと落胆するものがある。大体がブラッドベリ自身、4,5世紀先として描いた自動化イメージが今現在あっさりと凌駕されてしまっているというのも二重の悲劇だ。この映画をSFと呼ぶのが躊躇われるのも致し方ないかもしれない。にもかかわらず、この映画に僕らを惹きつける魅力があると感じるのは何故だろう。小説の中にこういう記述がある。「二十世紀の初期になって、映画が出現した。つづいてラジオ、テレビ、こういった新発明が大衆の心をつかんだ。そして大衆の心をつかむことは、必然的に単純化につながざるをえない。」元々、ブラッドベリは本と対立するものとしてイメージを規定する装置である映画やテレビを想定しているのだ。トリュフォーはそれにどう答えたか。それがこの映画の中にある。徹底的に簡素化された登場人物たちの演技や印象的な音楽、想像力を喚起するイメージ映像。トリュフォーが敢えてこの小説を映画化した意味を強く感じるのだ。
8点(2004-03-01 00:18:01)(良:1票)
35.  タンデム
ラジオのクイズ番組司会者と助手兼運転手の友情を描いたロードムービー。かつての栄光と現在の凋落、そのことに一番自覚的なのは、おそらく主人公のミシェルだったのだろう。村上春樹の名作「ダンス・ダンス・ダンス」の一節を思い出す。「踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。」踊り続けることが辛くなった時に、初めて僕らはその意味の不毛さに辿り着くのだろうか。だけど、意味の不毛さなんて最初から知っていたんじゃないのか。ただそれを見ようとしてこなかっただけで。僕らに必要なのは踊り続けるためにネジを巻くこと。 その行為自体がささやかながら大切な場合もあるのだから。。。そんな声が聞こえてくる。
8点(2003-10-13 15:56:38)
36.  伴奏者
ロマーヌ・ボーランジュの出演映画として、「野性の夜に」と続けて観ました。<もう10年前かぁ。。。> 映画そのものとしては、「野性の夜に」がかなり強烈だったので、ちょっと引いた印象でしょうか。でも、あくまで伴奏者として、華のない自分に対する卑屈さや諦め、そして秘めたる思いをその切ない表情でロマーヌは見事に演じていると思います。<ちょっとシャーロットにかぶるけど> 憧れ、期待、転じて憎しみ、そして後悔。ただ、そのドラマでは自分が傍観者でしかないこと。ナイーブな心情にちょっとぐっときます。
8点(2003-09-28 22:23:05)
37.  なまいきシャルロット
シャルロットは確かにブータレているけど、これがなかなかいい味を出してるのだ。少女から大人へ。まだ13歳の彼女の瑞々しい魅力がとっても伝わってきて、切なくも爽やかな印象を残します。個人的には、さらにオトナになったシャルロットが堕ちるところまで堕ちてしまう「小さな泥棒」も好きですが。こっちはさらに痛々しい。
8点(2003-09-21 16:39:46)
38.  ドアーズ
結構観れると思いますよ。ヴァルキルマーもわりと雰囲気があったし。ちなみに僕はドアーズ好きです。ロックファンなら1,2枚目とラストアルバムは必聴でしょう。ドアーズの音楽は30年以上経った今でも十分聴ける、普遍性のあるロックだと思いますけど。つまり本物ってこと。ボーカルのインパクトにも増して、演奏が素晴らしいし、曲もGoodです。まぁドアーズを知らないとか嫌いだとか言っている人は、この映画を観てもしょうがないのかもしれない。ただ60年代後半~70年代前半のロックが好きな人なら見て損はない。
8点(2003-09-07 23:26:18)
39.  1900年
いや長いね。ここまで長い映画を一気に観せるっていうのもどうかと思うが。(まぁ映画館では途中で休憩があったけど) とりあえず観ている最中、背中は痛くなるわ、首は痺れるわで結構大変でした。もちろんデニーロはかっこいいし、ドミニクサンダは綺麗だし、サザーランドもいい味だしてます。でもストーリー的にいまいちのめり込めなかったところがあったし、特に赤旗が延々となびくラストはやっぱりきつかったなぁ。尻もきつかったし。
8点(2003-09-06 23:27:10)
40.  パフューム/ある人殺しの物語 《ネタバレ》 
この物語、副題には『ある人殺しの物語』とあるが、実はそこに「物語」がない。主人公は匂いをもたない人間であり、それは同時に自己が希薄で「こころ」がないことを示す。故に、彼には自分のための物語、自己と他者を繋ぐ物語が一切ない。映画は、主人公が次々と殺人を犯していくのと同時に、13人目の被害者となる女性の日常をも映し、その接点ともいうべき二人の邂逅の過程をドラマチックに描いていくが、その邂逅自体のドラマ性をあっさりと否定してみせる。  では、彼は何を目指していたのだろうか?彼は世界を動かしてみせる。その現実性うんぬんは別にして、非物語的で即物的な「パフューム」によって人心を把握する(「愛情」ともいうべき)幻想を顕現してみせるのである。 彼は「パフューム」によって世界を動かすが、最終的にそれを受け入れることができない自分を発見するに至る。それこそがこの映画の救いなのであろうか。しかし、主人公が群集を前にして流す「涙」に僕は全くと言っていいほどリアリティを感じなかった。僕らの世は無知にあえぐ18世紀のパリではない。情報過多の21世紀の日本である。同じような非物語で貫かれた世界でありながら、そのバックグラウンドとなるべき現実感には決定的な違いがあるような気がした。 主人公が流す涙のリアリティをそれを誰もが理解しないという現代性に通じる現実によって否定してみせる。もし、そうであれば、僕はこの映画のすごさを感じるが、その辺りの意図はよく分からない。いずれにしろ、そういった構造分析的な意匠では僕らの「こころ」を響かすことができないことだけは確かである。  最近、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』という本を読んで、同じように「どんより」とした気持ちになったが、彼が提唱する「物語の死」とか「物語の衰退」と呼ばれるポストモダン的な状況やデータベース化した環境下での新しいコミュニケーション社会とそれを前提とせざるを得ない新しい批評体系というのはとても理解できるが、そこには全くと言っていいほど、「こころ」に響くものがない。 この「どんより」感はもう自明であり、仕方のないものなのかもしれないが、僕らはいつかその「どんより」感の中でもゲーム的リアリズムによって「こころ」をふるわせる日がくるのであろうか。そういうことを想起すると、また「どんより」としてくる。。。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-04-20 22:55:10)
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