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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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601.  リンダ リンダ リンダ
素晴らしい。この人(監督)の映画を観るのは初めてだけれど、なんて奥ゆきのある映像、そして映画を紡ぎ出す監督だろうか。校舎の間から見える青空、誰もいない靴箱、何気ない学校の風景に、無限の広がりと感情を感じた。 その映画世界に息づく文字通り等身大の少女たち。決して「言い過ぎない」彼女たちの言動は、だからこそ素晴らしい“若さ”をリアルに表現している。 彼女たちは、「言葉」だけでコミュニケーションをしない。良くも悪くも、自らのあらゆる「感受性」をもって繋がっていくのだ。 この映画は、そういうことをさらりと、気持ち良く伝えてくれる。
[DVD(字幕)] 9点(2006-03-28 01:59:33)(良:1票)
602.  スリーデイズ
最後の最後まで言いようの無い緊張感が続く映画だった。 ただしそれは、脱獄によって夫と妻そして幼い息子が逃げおおせるかどうかという作品のイントロダクションに明示されたことに対してではなかった。 それでは、真犯人は誰なのか?というミステリーが描き出されるのかというと、それも無い。 もちろんそれらも上質なサスペンスフルな展開の中できちんと描き出される要素ではある。 しかし、終始もっとも緊張を強いられた焦点、それは、拭いされない「疑心」に対するものだった。  本当に妻は罪を犯していないのか。  心から妻を愛している夫は、あらゆる不利な証拠の中で彼女の無実を信じている。 だが同時に、明確にならない「真相」に対して一抹の不安を感じ続けていることも事実。 むしろ、万が一にも存在するかもしれない“望まない真相”が、導き出されてしまうことを避け続けている節も見え隠れする。 刑務所での面会時、妻の身を心から案じる一方で、少し異様な感じもするほど食い入るような目つきで彼女を見つめる夫の表情からは、無意識レベルで押し隠している疑心と、それに伴う彼の心の混乱と葛藤が絶妙に表れていた。  予告編やイントロダクションのテキストからは、脱獄と逃亡、そこからの真相究明が描かれる娯楽映画だと思っていたが、その想定は大いに覆された。 メインで描かれるだろうと思われていた脱獄シーンが、映画の最終盤にきてようやく始まることが如実に表しているように、この映画は単純な脱獄映画などではない。 脱獄を画策するに至った夫と、無実の罪で投獄された妻、彼らの息子、そしてこの家族と事件に関わる群像における濃密な人間ドラマだったのだ。  観客に対しては「真相」に対して断片的な答えは示されるものの、すべての決着には至らない。  ついにすべてを終えた夫は、果たして「真相」に辿り着けたのか。 映画は、ラッセル・クロウ演じる主人公の微妙な表情を映し出して終える。 そこには、満足感や達成感もあれば、混乱と葛藤がより深まっているようにも見える。 彼の心理の行方こそが、この映画が描き出す最大のサスペンスだったのだと、最後の最後まで続いた緊張感の末に思い知った。
[DVD(字幕)] 8点(2012-05-05 00:03:51)(良:1票)
603.  映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ
正真正銘の、子供のための、子供向け映画。  8歳の長女と5歳の長男は、共に“すみっコぐらし”が大好きで、家の中には文房具から衣服に至るまで同キャラクター商品で溢れている。 絵本やアニメを原作とするストーリーに帰属しないタイプのキャラクターなので、長編映画化と言われても当然ながらピンとこなくて、特に子どもたちを映画鑑賞に誘う気も起きなかったのだが、伝え聞く巷の評価が想定外に高く驚いた。 「おじさんでも泣ける」という類の寸評も見受けられ、流石に気になり、わが子たちも当然観たいと言うので、ドライブがてらわざわざ車で1時間の隣町まで観に行った。  映画は全編通して井ノ原快彦と本上まなみによるナレーションベースで展開し、キャラクターたちは一切セリフを発しない。 子供向けアニメーションとしてその話法はなかなか思い切っていると思うが、このキャラクターたちの性質を踏まえるととても賢明だったと思う。 “すみっコぐらし”は、この世界の片隅でひっそりとこっそりと佇む様そのものを愛でるキャラクターであり、下手にキャラクターにペラペラと喋らせて必要以上の「主張」をさせることは、貫くべきイメージを大いに損なうことに繋がったかもしれない。 落ち着いたナレーションで、過剰に盛り上げることなく、朴訥とストーリー展開させてみせたことが、このキャラクターたちの愛らしさを最大限保持していると思う。  ストーリー展開と言ったが、この映画に、大人向けの物語性があるわけではない。 展開されるのは、あくまでも、子供のための子供向けの物語だ。もちろん、子供向けの映画なのだから、それでいい。 彼らが愛してやまない愛くるしいキャラクターたちが、古今東西のおとぎ話をなぞり、ゆるーくストーリーを紡いでいく。 そして、只々“ほっこり”とした時間が流れすぎていく。 「大人が見ても泣ける」などという理屈なんて本来全く必要なくて、ただ純粋に子どもが観て、楽しむべき映画だろうと思う。  確かに「泣ける」ことは間違いない。わが子を横にしてラストシーンでは涙腺が緩みっぱなしだった。 ただ、大人がそういうふうに感動することは、この映画にとって二の次の価値であり、本当はどうでもいいことだと思う。 大人が感動しようがしまいが、その点においては、この映画の価値は揺るがない。
[映画館(邦画)] 6点(2019-12-01 21:36:20)(良:1票)
604.  レミーのおいしいレストラン
“動物もの”のファンタジー映画として不足はなく、ピクサーならではの映像完成度と娯楽性によって充分に楽しめる佳作に仕上がっていると思う。 しかし、この映画には致命的な難点があって、もうそれはこの物語の構成上致し方ないことだけれど、やはり最後までその部分が引っかかり続けてしまった。  それは詰まるところ、ネズミが料理を作るという不衛生さに対する拒否感だ。 この映画の製作陣やファンは、それを言っちゃあ元も子もないと言うのだろうけれど、どう取り繕ってもネズミがレストランの厨房に我が物顔でのさばり、自ら料理を作っちゃあいかんだろうと思ってしまった。 しかもこの映画の主人公でもあるネズミは、どんなに愛らしくキャラクター化していても"ドブネズミ”にカテゴライズされるタイプのネズミであり、綺麗事をいくら並べ立てたところで「不潔」であることは揺るぎようも無いのである。 主人公のネズミは、自身の不衛生を気にし申し訳程度に手を洗ったりはしているけれど、「いやいや、そういうレベルの問題じゃないから!」と突っ込まざるを得なかった。  個人的な話をすると、若い頃に地下街の飲食店でアルバイトを始めたことがあった。 しかし、閉店後の片付けの最中に巨大なネズミが走り回る現状を目の当たりにして、耐えきれず一週間で辞めてしまった。当然その後、その店には客としても決して行く気にはなれなかった。  これはもはや、ほぼすべての動物映画の根底にある博愛主義をいくら盾にしたところで、無意味な類いの問題であろう。 すべての生命と共存しようとすることは素晴らしいことだと思うし、決してネズミたちに罪はないけれど、世界中の飲食店の裏側に潜むネズミが病原菌を媒介してしまうことは現実であり、そういう部分をあまりにも無視してただファンタジックに仕上げてしまっているこの映画の在り方には疑問を禁じ得ない。  ただし、そういうことをすべて見て見ぬ振りしてしまえれば、楽しめる映画であることも事実。 単純に“動物”+“料理”のファンタジー映画として捉えれば良いのかなー……、でもやっぱり大量のネズミ(主人公ファミリー)が露呈するシーンにはユーモラスというよりも“おぞましさ”が先行してしまったな……。
[DVD(吹替)] 5点(2013-02-27 17:34:57)(良:1票)
605.  フロスト×ニクソン 《ネタバレ》 
この映画を観て、何よりも印象強く残ったものは、「音声」だった。 米国史上最悪の汚名を持つ元大統領と野心溢れるテレビ司会者。二人の男の織りなす会話が、高級ステレオから流れるジャズのように響いてくる。  リチャード・ニクソンという米国大統領についても、彼の転落の発端となったウォーターゲート事件についても、もちろんデビット・フロストという英国人のテレビ司会者のことも、ほとんど詳細を知らない。 キーワードとしての部分的な知識しか無かったので、イメージとして、汚職にまみれた元大統領を、野心家のインタビュアーが最終的に言い負かすというような映画なのだろうと思っていた。  が、実際はそうではなかった。  米国史上初の任期中での退任を余儀なくされ、ホワイトハウスを去りゆくニクソンの一寸の“表情”に瞬間的に惹き付けられ、インタビューを申し込むテレビ司会者。バラエティー番組専門の彼にとって、それはあまりに盲目的な挑戦であったと思う。  センセーショナルなインタビューを通じて、片方は政界への復帰を目論み、片方は名声の得ようと画策する。それはもちろん正直な両者の思惑だったのだろうが、それと同時に二人の男に生じていたものは、現実に対する自身への葛藤と、それを打ち砕くための好敵手の発見だったのではないか。 己の人生に対する自信と失望。「今」から脱却し、次のステージへ進むためには、人生そのものを壊してしまうくらいに強力な起爆剤が必要。 年齢も立場も何もかもが違う二人が、奇しくも同じ思いを互いに感じたのだろうと思う。  結果として、勝利はフロストへもたらされ、ニクソンの思惑は完全に閉ざされる。 しかし、この映画が描いたのは、その勝利にまつわる痛快感などではなく、敗北者であるリチャード・ニクソンという希代の米国大統領の本質的な姿だった。 感情を吐露し、人生を憂う姿に、人間として尽きない興味深さを感じた。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-01 00:24:47)(良:1票)
606.  映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険
実に15年ぶりのドラえもん映画の劇場鑑賞であった。 15年前に観た作品は「のび太のロボット王国」。既に藤子・F・不二雄先生のオリジナル原作ではなく、ストーリーの陳腐さに大きく落胆したことを覚えている。それ以来、新たなドラえもん映画を観ることはなかった。  そして、時は移ろい、時代は変わる。  声優陣は一新され、アニメーションの作画も変わり、時折目にするテレビアニメでは、新しいドラえもんが息づいていた。 旧アニメ版と原作コミックで育ってきた世代の者として、その変容には寂しさを感じはしたけれど、同時に、新しい世代に向けて新しいドラえもんが生き続けてくれることの喜びが勝っていた。 より原作の世界観に近いアニメーション表現とキャラクター描写は、原作ファンとしては非常に好印象だったけれど、既に大人になっていた僕は、新しいドラえもんに親しむことを避けるように十数年を過ごしてきた。  ただし、僕自身の人生と環境も変わる。  ドラえもんから離れたこの十数年の間に、就職し、結婚し、子どもを二人授かった。 当然のごとく、子どもたちはドラえもんが大好きになり、5歳になる長女がついに「ドラえもん映画を観に行きたい」と言ってくれるようになった。 新しいドラえもんから離れ、大人ぶってあまり興味のないふりをしてきたけれど、僕はずうっとこの機会を待っていたように思う。 子どもたちと一緒にテレビアニメも再び観るようになった。  そして、満を持して、この最新作を娘とともに劇場鑑賞した。 そこには、僕が愛してやまないドラえもんがいた。僕以上にF先生の原作を愛してやまないのであろう新しい世代のアニメーターたちが、より一層原作に近いキャラクターと世界観を、最新の技術で表現し続けてくれていた。  ストーリーのロジックにおいて、F先生ならでは科学的考察と小気味よさに溢れた“巧さ”は無かったけれど、題材と顛末には「ドラえもん」というSF作品の真髄を追求しようとする姿勢と気概が見受けられた。 「10万年前の南極」を舞台とし、「氷」という自然現象が持つ要素を生かし、「時間」の超越とそれに伴うドラマとタイムパラドックスまでを描き出す試みは、F先生が描き続けたS・F(すこし・ふしぎ)性に通ずるものであり、とてもロマンティックで、壮大だったと思う。 あとほんの少しのストーリーテリングの巧さと、F先生の原作が持ち合わせていた毒気があれば最高だったと思う。(ニセドラえもんのくだりなどはとても惜しかったけれど)  ともかく、作品そのものに対する満足感というよりも、僕の人生において、改めて「ドラえもん」に触れる機会を得られたことが、何よりも嬉しく、満足感に溢れている。 来年以降も、子どもたちと一緒に映画館に足を運びたいし、この空白の十数年の間のドラえもん映画も今一度観ていきたいと思う。
[映画館(邦画)] 6点(2017-03-19 22:13:14)(良:1票)
607.  座頭市(1989)
勝新太郎の「座頭市」として今作だけを観たのであれば、存分に満足できる時代活劇であっただろう。しかし、第一作「座頭市物語」で誕生した“座頭市”というキャラクター、その初期作群の“彼”と比べると、どこかキャラクターとしてのキレがないように感じた。分かりやすく言い換えると、今作の座頭市は貫禄がありすぎるという印象だ。それはもちろん十数年ぶりにこのキャラクターを演じた勝新太郎自身の変貌による影響が大きいのだと思う。この時の勝新太郎の演技や風貌が悪いということではなく、当初の座頭市とのギャップが大きいということだ。厳つい巨漢の盲目の按摩師が凄まじい居合い抜きを見せる様は非常に迫力がある。ただ「座頭市物語」にあった洗練された一瞬の静寂さ、その瞬間の殺気は、感じることができなかった。
4点(2004-09-19 03:41:07)(良:1票)
608.  アイアン・ジャイアント
謎の巨大ロボットと少年との心の交流を描いたどストレートなアニメ映画だった。 新鮮味はなく、ありきたりと言ってしまえばその通りだけれど、王道的な映画世界を堂々と描き切った“巧い”映画だと思った。  ありふれたお話だが、まずストーリーの転じさせ方が巧い。序盤の何気ない描写がしっかりとクライマックスやラストの伏線となり、ちゃんと惹き付けてくれる。 時代背景が冷戦構造のまっただ中だったり、主人公の少年の父親はおそらく戦死していたりと、テーマである「暴力反対」が決して押し付けがましくなく、心温まるストーリーの中ですんなりと入ってくる。  監督は現在公開中の「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」のブラッド・バード。 他にも「Mr.インクレディブル」も監督しており、とても「娯楽」を描くことに秀でた人だと思う。 娯楽映画こそ、作り手の才能が大いに影響されるジャンルだということを改めて感じた。  映画は、アニメ映画らしく心地よいラストで締められる。素直に「ああ、良かった」と思った。
[DVD(字幕)] 8点(2011-12-30 14:26:20)(良:1票)
609.  リップヴァンウィンクルの花嫁
“夢現(ゆめうつつ)”。  映画が終わった劇場の座席でしばしぼんやりとしながら、その言葉が頭に浮かんだ。 “ひとり”では、決して、抱えきれない痛みと、抱えきれない愛おしさ。 どこまでも切なくて、どこまでも残酷な映画だった。  白昼夢のようでもあり、悪夢のようでもあるこの歪な映画世界は、まさに現代社会の“ひずみ”を映しだした“リアルな寓話”だ。 社会の片隅でひっそりと肩を寄せあって眠る彼女たちの生きる様は、とても悲しくて、とても美しい。 二匹のランブルフィッシュのように、やがて彼女たちのまわりに余計なものは何も無くなって、二人だけの唯一無二の世界を構築していく。  束の間の、いや、ほんの一瞬の、幸福。 辛苦に溢れた世界の只中で、苦しみ、悲しみ、それでも、「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」と謳い上げたこの映画の、彼女たちの強さを讃えたい。  この奇跡のような映画を彩ったのは、“彼女たち”の存在感に他ならない。 主人公を演じた黒木華とCoccoが、この映画の中で息づくことで生まれたアンサンブルが、あやうく、愛おしい。  黒木華が岩井俊二作品の中で自然に息づくことはある意味容易に想像できていたが、Coccoがこれ程までに、岩井俊二の映画にフィットし、そしていきいきと支配していくとは思っていなかった。 そして、10代の頃から、この映画監督と、稀代の歌姫を信奉し続けてきた者にとって、それはあまりに感慨深い特別な映画体験だった。   彼女は、「この涙のためなら、わたし何だって捨てられるよ。命だって捨てられるよ」と、歌うように愛を伝える。 彼女は、新しい景色の風に吹かれながら、空っぽの左手の薬指を愛おしそうに眺める。  嗚呼、この世界の、ほんとうの価値が見えてくるようだ。 一ヶ月の期間をあけて二回この映画を観て、その直後に原作小説も読み終えた。けれど、まだこの物語のすべてを整理しきれてはいない。 きっと、一生、付き合っていかなければならない映画なのだと思う。  人は、強く、儚い。 そしてそのどちらも美しい。 今はただそう思う。
[映画館(字幕)] 10点(2016-04-15 00:11:48)(良:1票)
610.  ジョーカー
少し日にちを空けて、2度劇場鑑賞した。或る疑心を解消するためだ。 即ちそれは、この映画の主人公が放った“ジョーク”の真意とは何だったのかということ。 何が真実で、何が虚構なのか。そもそも真実と虚構の境界など存在しなかったのか。 初回鑑賞後、姿かたちさえも曖昧なその疑いが、日を追うごとに輪郭のみくっきりと浮かび上がってくるようだった。  そうして2度目の鑑賞を終え、“疑心”はむしろ益々深まり、同時に、「悪意」に対する恍惚も益々深まっていることに気付いた。圧倒的な充足感。映し出されるすべてが、禍々しくて、美しい。いや参った。  DCコミックスが生み出した稀代のヴィランのビギニングを描き出すにあたり、ビジュアル、ストーリーテリング、パフォーマンス、そして映画としてあるべき性質と時代性において、この映画の完成度の高さはもはや「異常」だ。  何をおいても、ホアキン・フェニックスが演じる“ジョーカー”が凄まじい。 ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレッド・レト、名だたる俳優たちがこのヴィラン役に挑み、それぞれが見事なジョーカー像を形作り、体現してきた。 しかし、その全てが本作のホアキン・フェニックスによるジョーカーのためにあったのではないかと思えるくらい、圧倒的だった。 その笑い方、走り方、表情と骨格、もっと言えば、皺の一つ一つ、筋の一本一本に至るまでに、彼が表現する「異常」と「狂気」が絡みつくように纏われていた。 その様は、異質ではあるが、あまりにも自然に見え、彼が劇中で言う通り、本当に狂っているのが一体どちらなのか分からなくなってくる。  奇しくも現実の世界では、この映画の公開と同時進行で、仮面を被った民衆が不満と怒りを突き上げている。 映画の中のピエロの仮面が嘲笑うかのように、我々観客は、虚実の境目を見失いそうになる。 そして無意識のうちに、現実社会の問題に対する答えを、虚構のヴィランに求めようとする。 しかし、“ジョーカー”は、そんな我々の淡く無責任な願望すらも見越して、ヒャーハハハと笑い、蔑む。 「馬鹿か、お前たちは。そんなこと俺に関係あるものか」と。  荒んだ世界と、傷ついた心が何を生み出すのか。 これは決して“ジョーク”ではない。
[映画館(字幕)] 10点(2019-10-06 18:07:36)(良:1票)
611.  サウンド・オブ・ノイズ
“音楽犯罪映画”というアイデアは間違いなく新しく、映画ならではの娯楽性を秘めていると思う。 一方通行な芸術の過剰な追求は、時に“テロ”にすらなり得るというアプローチは、「音楽」という芸術の奥深さを表すと同時に、それに傾倒する人間、それに振り回される人間、両者を含めた社会や文化の滑稽さを導き出していた。  スウェーデンから届いたこの映画的な“新しさ”だけで、一定の評価はされるべき作品だとは思う。 ただし、その一方で登場人物たちの人物像が希薄だとも思えた。  主人公である敏腕刑事のキャラクターは立っていたと思う。 一流の音楽家系に生まれながら、生来の音痴、更には音楽を聴くと気分が悪くなるという体質を持つというキャラクターは、この題材の映画の相応しいユニークさを持っており、そんな彼が奇想天外な音楽犯罪に対峙するとうい構図は、映画的にも巧かったと思える。  しかし、その主人公以上に重要な“音楽犯罪一味”の描写が思ったよりも深まらなかった。 特にリーダー格で、映画におけるヒロインとも言えるキャラクターに今ひとつ深みが無い。 彼女が何故にこのような“音楽テロ”を巻き起こすのか、その発端となる動機が曖昧だったと思う。  「芸術の追求」と言ってしまえばそれまでだが、彼女の行為そのものが映画の主軸である以上、その理由は明確になるべきだったろうし、そんな彼女がラストの顛末を受け入れていく様もなんだか腑に落ちない。  題材が奇抜で面白いだけに、ストーリーテリングの薄さによって、それがただの“パフォーマンス”で終始してしまっているのは勿体ないと思う。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-10-13 15:23:19)(良:1票)
612.  バンテージ・ポイント 《ネタバレ》 
白昼、大衆の面前で起こった“大統領暗殺”。 その場に居合わせた9人の視点から、導き出される”コトの真相”を描く。  正味数十分間の出来事を、9つの視点から描き出すことによって文字通り多面的に描き出した趣向は、緊迫感に溢れ、辿り着くべき"真相”に向かって非常にスリリングだったと思う。 同じ時間軸を繰り返す描くという一つ間違えば単調になってしまうストリー展開を、卓越したカメラワークで、飽きさせずにテンポ良く映像化しているとも思う。  娯楽映画として滞り無く観れる映画であることは間違いない。 ただ、あと一歩二歩ストーリーに深みと説得力がない。 9人にキャラクターの描写がそれぞれ微妙に軽薄なのことが、その最たる要因ではないかと思う。 デニス・クエイド演じる主人公のシークレットサービスは、心に抱える傷の本質が見えてこないまま、終盤はほとんどアクションヒーロー化してしまう。 アカデミー賞俳優フォレスト・ウィッテカー演じる黒人の観光客は、家族と離れていることに苦悩を感じているのだろうが、それがどれほど深いものなのかイマイチ伝わってこないまま、なんとなく解決してしまう。 ウィリアム・ハート演じる大統領は、思慮深い人格者を醸し出しているが、そもそも彼が行った政策というものが曖昧なので、なぜ彼が賞賛と報復を受けるのかも曖昧なままに終始する。 暗殺の実行犯グループについても、それぞれ人格と目的についてのディティールが弱いので、言動に真実味が出てこない。 テレビクルーのディレクターを演じたシガニー・ウィーバーは、モニターの前で衝撃と疑問を受けたまま放っておかれてしまい、結局報道車から出ることすら許されない始末。  全体的に興味深げな体裁は整えられているのだが、結局のところそこまで勿体ぶる必要はないのではないかという「真相」に辿り着いてしまう。 決して面白くないということはないのだけれど、仰々しいわりには残るものはあまりないということは否めない。
[映画館(字幕)] 5点(2008-03-12 00:14:59)(良:1票)
613.  ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ
盛夏が過ぎて一気に秋めいてきた夜半、“ヒッチコックライク”なサスペンススリラーに興じる。 例によってコロナ禍の影響で劇場公開中止を余儀なくされた結果、Netflix配信となった今作は、中々掘り出し物的な良作だった。少なくとも秋の夜長のひとときを充分に満たしてくれる作品だったと思う。  前述の通り、サスペンス映画の帝王アルフレッド・ヒッチコックの幾つかの名作(「裏窓」「めまい」「サイコ」...etc)を統合して、現代版にリメイクしたような映画だった。 舞台となるマンハッタンのしなびた高級住宅街の雰囲気も相まって、現代の設定ではありつつも、時に「怪奇映画」や「恐怖映画」と敢えて呼称したくなるようなクラシカルかつアバンギャルドな映画世界が個人的には好みで、秀逸だったと思う。  極めて古典的で懐古的な映画手法やストーリーテリングを全面的に押し出しつつも、随所に斬新で挑発的なカットも挟み込んでおり、そういう映画づくりにおける意欲的な部分も含めて“ヒッチコックライク”だと言えよう。  主演のエイミー・アダムスは大好きな女優の一人だが、明らかに虚ろな瞳や、見るからに不健康でくたびれた体つきも含めて、“病める女性”を内外含めた全方向的に体現して見せており、実力派女優としてのレベルの高さを遺憾なく発揮している。 少ない登場シーンながら、物語のキーとなる女性を演じたジュリアン・ムーアの存在感も言わずもがな抜群だった。 (“別人”として登場する女優の絶妙な不気味さも最高だった) 「女優」という要素が、映画を彩る娯楽の中心にあることもまたヒッチコック映画を彷彿とさせる点だろう。  今作では、作為的に、映し出されるシーンの「時間帯」が即座に判別できないように演出されている。 物語全体が一週間の出来事として曜日のテロップは都度入るものの、主人公が薬と酒の影響で終始微睡んでいるような状態も重なって、「今」が一体いつなのかわけが分からなくなる。 その不安定さと曖昧さにより、主人公の精神状態同様に観客の意識もグラグラと揺らぎ、まさしく本来の意味通りの“サスペンス”を生み出していたと思える。  おそらく、気づいていない描写においても、様々な“仕掛け”が散りばめられているのであろう。 巧みなミスリードや数多くの伏線回収も含めて、良い意味で“混濁”した見応えのあるサスペンス・スリラーだった。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-26 22:39:12)(良:1票)
614.  エド・ウッド
エド・ウッド、ベラ・ルゴシ…彼らは哀れだったのだろうか?ティム・バートン独特のオブラートに包まれて描き出される彼らの生き様はとても愉快であると同時に、悲痛なまでに厳しく切ない。きっと実際にはもっと悲惨な現実があったに違いないと思う。でも、ユーモラスな映画の中に溢れる締めつけられる想いは、決して彼らのあらゆる意味での“不遇さ”に対してではない。環境はすこぶる劣悪だ。しかしそれでも映画を作り、夢を撮る。そしてそこに自らが生きる喜びを見出す。その不器用なまでに頑なで直向な姿に胸がこみ上げるのだ。分かりきったことであろうが、そこに“優秀な者”はいなかった。誕生したものも優れたものではない。しかし、傾きながらも寄り添い、合わさって生み出した彼ら自身の人生は、何よりも価値があるものに違いない。
10点(2003-10-31 12:56:12)(良:1票)
615.  ホビット/竜に奪われた王国
三部作の最終作公開のタイミングを知り、一年前の公開時にスルーしたままになっていたこの第二作目をようやく鑑賞。 「ロード・オブ・ザ・リング」(以下LOTR)は全作を劇場にて高揚感たっぷりに観たタイプなので、同様に繰り広げられる大ファンタジーの壮大な世界観には、やはりアガる。 ただし、生じた高揚感の矛先は、この“前日譚”を通り越して、やはり「LOTR」に向いていることは否めない。  前日譚であることの宿命とはいえ、「LOTR」と比べてしまうと物語規模の圧倒的な小ささを感じてしまう。そして、ストーリーテリングの推進力も、圧倒的に弱い。 「LOTR」は、常に別の道程を辿る各パーティーの冒険が並行して描かれ、それがストーリーテリングに厚みを持たせていたが、今作は基本的に主体であるドワーフ一行の冒険のみが延々と続くので、どうしても飽きてしまう。それぞれのキャラクターに華がないことも痛い。 最終作を観ていないので明言はできないが、無理に三部作などにする必要はなく、単作で纏め上げたほうが良かったと思う。  大スクリーンで観てナンボの作品であることは間違いないので、自宅の小さなテレビで観たことは大いにマイナス要因だっとは思うけれど、現状の期待値では最終作を観るために劇場に足を運ぶことは正直難しい。  英BBCの「SHERLOCK」の大ファンなので、マーティン・フリーマン(ホビット)とベネディクト・カンバーバッチ(スマウグ)の「対峙」は、ちょっと胸熱だったけれどね。  最後にこれだけは言いたい。 前作では敢えて突っ込まなかったが、“ずんぐりむっくり”が身体的特徴のはずのドワーフなのに、“王”や“恋愛担当”は結局細身のイケメンであることが、なんだか納得いかない。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-12-08 16:58:13)(良:1票)
616.  七人のおたく cult seven
なんともう26年も前の映画であるということに、少々引いてしまう。 滅茶苦茶にご都合主義で、バブル臭を引きずったテレビ屋が作ったのであろうテレビ局映画だけれど、好きなんだから仕方がない。 個性派揃いのチームものは大好きな娯楽ジャンルのの一つだが、その趣向の発端となったのは、この映画だと思う。 26年前の映画なので何せ皆さん若い!山口智子色っぽい! 実は全然“おたく”ではない山口智子演じるりさが、一番体を張っているのも面白い。あのグライダーはどうやって降りたのか?危険すぎるやろ。 バブルガムブラザーズの主題歌によるエンディングが、満足感と高揚感に拍車をかける。
[インターネット(邦画)] 10点(2003-09-29 11:39:39)(良:1票)
617.  ブラック・ウィドウ
兎にも角にも、まずは、「おかえり、ナターシャ」と心の中で唱えずにはいられない。 コロナ禍の影響も重なり、実に2年ぶりのMCU映画の劇場鑑賞。 スクリーンに映し出される「MARVEL」のお決まりのオープニングクレジットを目の当たりにした瞬間、高揚感が一気に高まり、思っていた以上に自分がMCUの新作映画を“欲していたこと”を痛感した。 正直なところ、その高揚感を感じつつ、MCU“フェーズ4”の幕開けを迎えられただけで、一定の満足感は得られたことは否定できない。  このブラック・ウィドウ単独主役作品を、ドラマシリーズとしてではなく単体映画作品として製作し、コロナ禍により数々の映画作品が劇場公開を諦めネット配信に切り替わっていく中においても、何とか劇場公開(+プレミア配信)にこぎつけたのは、何と言ってもブラック・ウィドウ(a.k.a ナターシャ・ロマノフ)というキャラクターのMCUシリーズを通じた貢献度の高さと、演じたスカーレット・ヨハンソンに対するリスペクト故だろう。  MCUシリーズ作の中で都度垣間見えたブラック・ウィドウの過去を踏まえると、彼女を主役にした単独映画が、シリアスな女性スパイ映画になるであろうことは想像に難くなかった。 壮絶かつ残酷な生い立ちや、スパイとしての成長描写を踏みつつ、スタイリッシュなスパイ・アクションを期待していた。 結果的に、その想像と期待は、半分当たり、半分外れたと言える。  まず意外だったのは、思ったよりもコメディ演出が多かったことだ。 主人公のナターシャも、フローレンス・ピュー演じる“妹”のエレーナも、そのあまりにも非人道的な生い立ちに反比例するかのように、自らの半生をシニカルに半笑いで語る。 そして、こちらも壮絶な人生観と業を孕んでいるはずの、“父”と“母”のキャラクター性も、どこか間が抜けていて、思わず吹き出してしまうシーンが多々あった。  その映画的テイストは、近年各国の映画作品で表現されている女性スパイ映画の悲愴や苛烈さというよりも、ずばりスパイ映画の王道である「007」シリーズの系譜だった。 MCUの中で描き出される女性スパイ映画として、そのバランス感は結果的に適していたと思う。 スパイ映画としての娯楽の本流を貫きつつも、現代的な問題意識を根底に敷き詰めたストーリーテリングに対しては、「流石MCU」の一言に尽きる。  ただし、だ。 今作を、MCUの大河の中で、アベンジャーズの面々の中でも常に中心に存在し続けたナターシャ・ロナマノフ(=ブラック・ウィドウ)の映画であることを捉えると、どうしても腑に落ちない要素も大きい。 最も納得できないのは、「インフィニティ・ウォー」の後、「エンドゲーム」冒頭の彼女の孤独感についてだ。  サノスに敗れ去り、完全に崩壊したアベンジャーズが、彼女にとっての“唯一の家族”だとナターシャは孤独感に苛まれつつも、光の見えない可能性を模索していた。 でも、今作の結末を踏まえると、彼女には“もう一つの家族”が確実に存在していたことになり、「エンドゲーム」の冒頭で描かれていた孤独感が揺らいでしまう。 サノスの“指パッチン”により、実は存在していた「家族」たちも同時に失ったという風にも捉えられるかもしれないが、どうしても後付感が拭えない。  要は、今作の結末が、ちょっと“ハッピーエンド”過ぎるのではないかと思うのだ。 今作は、主人公が過去に失った「疑似家族」と再び巡り合うと同時に、そこの孕む罪と罰と向き合い、贖罪を誓う物語であるはずだ。 であるならば、その業を背負った“家族”全員が結果的に無事に存在し続けるというのは、少々都合が良すぎるのではないかと思えてしまう。 特に、“父”と“母”は、どう取り繕ったとしても“悪”の根幹を担っていたことは否定できない事実であり、何かしらの「禊」が描き出されて然るべきだったのではないか。  今作の結末で、その然るべき“悲しみ”を背負っていたのならば、ナターシャの「インフィニティ・ウォー」に臨む悲壮感も、「エンドゲーム」おける孤独感も、もっと説得力のあるものとして高まったと思う。 とはいえ、冒頭にも記したとおり、ブラック・ウィドウの最後の勇姿をしっかりとスクリーンで堪能できたことは満足だ。 どうやらこれで完全にスカーレット・ヨハンソンはMCU卒業ということのようなので、トニー・スターク同様に、ナターシャ・ロマノフにもこの言葉を捧げたい。  Thank you Natasha,3000
[映画館(字幕)] 6点(2021-07-15 23:49:13)(良:1票)
618.  俺たちに明日はない
人間としての“何か”が明らかに欠損している情緒不安定な男と女が、出会い、滅茶苦茶に共に生き、そして共に死んでいく物語。 二人の主人公に対して、微塵も共感できない映画だった。「面白い」と感じられたかどうかも微妙だ。 でも、何だろうこの観終えた途端に生じた「興味」が尽きない感覚は……。  “ボニー&クライド”という強盗カップルの名称自体は知っていたが、この有名な映画が彼らが主人公の映画であるということを観る直前になって初めて知った。 原題(「BONNIE AND CLYDE」)知っていれば、そんなことは明らかだったろうが、「俺たちに明日はない」という邦題からは、西部劇の印象に近い古風なアクション映画のイメージを勝手に持ってしまっていて、そのことが長らく今作を敬遠してきた大きな理由だった。  だが、ある評論を読んでその認識があまりに大きな間違いだということを知った。 そして初鑑賞に至り、この作品が、現在の映画という娯楽を構築する紛れもない主軸である「暴力」というエンターテイメント性の“礎”となった映画であるということを思い知った。  もちろん、現代人である自分にとっては、この作品で映し出される“暴力性”に斬新さや革新的なものを直接感じることはなかった。 しかし、この映画が持つ“意気込み”みたいなものの異様さは、ひしひしと感じた。 フェイ・ダナウェイの淫靡な唇の大写しから始まり、踊り狂っているかのように無数の銃弾を受け続ける主人公らのラストシーンまで、映画の全編に渡り、公開当時に今作を目の当たりにした人々のあらゆる「動揺」が時空を超えて間接的に伝わってくるようだった。  貧困、抑圧、戦争、格差……あらゆる鬱積を抱えた1967年という時代において、この映画が与えた影響力はいかなるものだったのか。その本質は、その時代に生き、本当の意味で“観たことがない映画”としてこの映画を観た人々にしか分かるまい。 そういうことを味わうことが出来ないのは、非常に悔しい。  ただし、現在もまた幾重にも折り重なった鬱積を世界中が抱えている時代である。 現在における「俺たちに明日がない」が新たに生まれ出ることを渇望せずにはいられない。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-06-10 17:38:18)(良:1票)
619.  6アンダーグラウンド
“セミプロ版”スパイ大作戦(大暴走)!!by マイケル・ベイ  「007」にしても、「ミッション:インポッシブル」にしても、主人公のスーパー諜報員の超人的活躍が目立つが、その裏ではやっぱり「組織力」が彼らの諜報活動の精度を上げているんだなということを痛感させられる。 それくらい、この映画の主人公(大富豪)が“自警団”的にはじめたスパイチームの暗躍は、綻びだらけで、世界にとっては甚だしく大迷惑だ。  ただし、この映画の大暴走+大迷惑ぶりは完全に確信犯であり、映画作品としての是非以前に、終始一貫して“マイケル・ベイ節”が全開である。 ファーストシーンのカーチェイスから、“ギア”の入れ方が常軌を逸している、というよりも、あるべき“ギア”自体がどこかへ飛んでいってしまっているようだった。 ストーリーテリングなど端から放棄していて、ただただ問答無用の盛々のアクションシーンと、過剰に露悪的なゴア描写が繰り返される。 マイケル・ベイ監督は、「トランスフォーマー」シリーズの後半から既に“開き直っていた節”があったが、「Netflix」というある種の無法地帯に降臨し、益々暴走が止まらなくなっている(ギリギリ褒めている)。  えーと、結局ライアン・レイノルズ演じる主人公がその人間性も含めて何者で、何が“真意”なのかまったく分からないけれど、そんなストーリーの粗なんて突っ込むことすら馬鹿馬鹿しいし、実際どうでもいい。 色々な意味で「非常識」な物量のアクションシーンをあんぐりと口を開けて堪能しつつ、エンドロールが始まった瞬間に何も記憶に残さずに鑑賞を終える。それが今作に対する正しいスタンスだろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-01-10 23:30:22)(良:1票)
620.  ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 《ネタバレ》 
鑑賞後、自宅に帰り着き、とっときの日本酒を開けた。そして、今作に登場したすべての“名も無き者たち”のために献杯を捧げた。  「スター・ウォーズ」の正史から離れた「番外編」として、最高の映画だったと思う。 「スター・ウォーズ」とは詰まるところ、“ジェダイ”という選ばれし者を描いた映画であり、ひいてはその中でも更に選ばれし血統である“スカイウォーカー一族”を描いた映画であったと言えよう。 しかし、それと同時にこの壮大なスペースオペラには、当然ながらおびただしい数の名も無き者たちの命が瞬いていたということを、この映画は熱く物語る。 善玉、悪玉問わず、持たざる者たち、名も無き者たちの意地と矜持に心が揺さぶられっぱなしだった。 そして、最強兵器による“絶望の炎”を“希望の光”に転じさせてみせた「英雄」たちの最期に涙が溢れた。   エピソード4のオープニングロールの映画化という報を聞いた時は、SWファンとして多大な興味を得た反面、番外編とはいえ果たしてSWシリーズの最新作として成立するのかという疑問符を拭えなかった。 オープニングロールで記された内容の映画化ということは、とどのつまり世界中総てのファンは“事の顛末”を知っているわけで、それはエンターテイメントとして非常に高い障壁になると思われた。 またSWの正史に登場するような大人物は描けないことも明らかで、必然的に地味な作品に仕上がることは避けられないのではないかと想像していた。  しかし、それは大きな見誤りだった。 “ジェダイ”がただの一人も登場しない今作が、こんなにも娯楽と感動に溢れ、しっかりと「スター・ウォーズ」として成立しているとは。 SWというスペースオペラの根幹を成すものは、“ジェダイ”でもなければ、“スカイウォーカー一族”でもなかったのだ。 ひたすらに「希望」という言葉を掲げ、勝利を信じ、広大な宇宙で瞬いた命の一つ一つこそが、SWをSWたらしめるものだったのだと思い知った。 そういう意味では、この映画こそが、最も「スター・ウォーズ」というタイトルに相応しい作品であるようにさえ思える。   この映画で主人公たちが得たものは、「勝利」ではない。 「きっと誰かに伝わったはずだ」という、本当に微かな、だけれども何よりも重く重要な「希望」だった。 かろうじて繋ぎとめたその「希望」を胸にして、彼らは“光”に包まれる。 あまりにも悲しく無慈悲なシーンである。 でも、彼らが成したことの「意味」を既に知っている我々は、そこにシリーズ最高のエモーショナルを感じずにはいられない。  「希望」は、持たざる者たち、名も無き者たちによって、文字通り一人ひとり継がれていった。 そして、無双そのものの“絶望の権化”による追従をすんでのところで何とかかわし、ついに「新たな希望」へと辿り着く。  そりゃあ、泣くしかないじゃないか。
[映画館(字幕)] 9点(2016-12-18 00:42:13)(良:1票)

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