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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  セトウツミ
今年になって原作漫画をLINEマンガで読んで、二人の高校生が醸し出す独特な空気感が癖になった。 絶妙な間と台詞回しによって織りなされる「会話」は、関西弁であることも手伝って「漫才」そのものの可笑しさと巧さに溢れている。  とはいえ、「映画化」というトピックスを見たときには目を疑った。この「会話」のみの漫画をどう映画として成立させるというのか。 予告編を観た段階では、キャスティングされた池松壮亮と菅田将暉はハマっているように見えたし、面白く仕上がっているようには感じた。  だがしかし、結論からすると、やはり「なぜ映画にしたのか」という出来栄えだった。 結局、この題材を長尺の映像作品にするには無理がある。 “帰宅部の男子高校生の暇つぶしの会話”という極めてミニマムな題材を各話20ページ程度の“小話”として連載しているからこそ、この原作漫画は面白いのだ。 映画にするには、その小話を連ねて尺を補うしか無く、必然的に冗長に感じてしまい、可笑しさが持続しなかった。  予告編の段階では、各話のシークエンスが断片的に公開されていて、それを観る限りでは笑えたし、映像化による臨場感も加わっていた。 詰まるところ、映画ではなく、もっと短いコンテンツとして製作されるべきだったのだと思う。 深夜ドラマ枠なんかで5分きっかりの尺で連続ドラマ化したならば、原作の空気感がもっと忠実に醸し出されたんじゃないかと思える。  75分という映画としては短いと言える尺を、非常に長く感じながら、“神妙な面持ち”にならざるを得なかった。
[DVD(邦画)] 3点(2016-12-10 16:24:14)
2.  セッション
汗、涙、血、身体中からありとあらゆる水分を撒き散らして、音を奏でる…いや音を殴りつける。 それは音楽学校を舞台にした“スポ根”だなんて生やさしいものではなく、狂気と狂気のせめぎ合いだった。 常識的な価値観のその先に突っ走っていく二つの狂気。 ついに“一線”を越えてしまった愛する息子を、舞台裏の扉の隙間から遠く眺める父親の眼差しが哀しい。  “偉大”なドラマーになることのみに固執する主人公は、自らを取り巻くあらゆるものを妄信的に確信的に排除していく。 友人を排除し、恋人を排除し、ついには誰よりも自分を愛してくれている父親をも排除する。 不意に訪れた「事故」は、彼にとっては最後の“救い”だったはず。 けれど、彼はその救済までも排除して、自分の中に巣食う狂気を唯一認めてくれる存在の元へと舞い戻る。 音楽に対する理想を共有する二人だが、彼らは最後まで憎み合っている。 二つの狂気は、憎しみ合ったまま、ついに求める音楽を奏でる。 憎悪の中で恍惚となる二人。 その異様な契りは、まさに、悪魔との契約に相違ない。  彼らはきっとこの先も「幸福」なんてものとは無縁の人生を送ることだろう。 常に他者を憎み、自身に怒り続ける日々を送り、精神をすり減らし果てていくことだろう。 ただし、それすらも彼らが望んだことであり、もはや他人の価値観が入り込める隙間など微塵もない。  ほとばしる狂気を目の当たりにして、真っ当な価値観を持つ凡人たちは、ただただ呆然と見守るしかないのだと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2015-11-19 23:37:24)(良:3票)
3.  セッションズ
“性行為”に対しての葛藤。それは人間として、いや生物として、誰しもが通る通過儀礼。 勿論それは、身体障害者にとっても同様なことなのだけれど、臆病な社会は、そういうことからついつい目を背けがちだ。  この映画は、「障害者と性」という、浅はかな固定観念を持っていては踏み込みづらく、表現しづらい「題材」に対して、真摯に向き合い、ドラマとユーモアとエロティシズムを絶妙なバランス感覚で表現してみせた“傑作”と言えると思う。  この映画が素晴らしいところは、身体障害者である主人公の境遇に対して、必要以上に“同情”を誘っていないことだ。 主人公のマークは、幼少時からポリオによって全身麻痺となってしまった障害者である。呼吸補助のため、一日の大半を“鉄の肺”と呼ばれる呼吸器の中で過ごさなければならない。 けれど、彼の生き様には決して“悲しみ”が表れていない。自分の境遇を受け入れ、自立し、常に自分の人生を自分自身で歩もうとしている。 そんな彼の人生観が、そもそも勇気に溢れていて、観客は映画の冒頭から主人公の魅力に引き込まれる。  主人公の魅力が序盤からしっかり描かれるからこそ、この難しい「題材」の映画は、ある意味とても普遍的な「童貞喪失映画」に仕上がっていて、とても眩く、とても楽しい。 主人公の身体的特徴を度外視して、特に男の観客は、彼の“童貞喪失”の顛末に対して、己の事のように一喜一憂するだろう。  殆ど顔の動きのみの演技で主人公マークを演じきり、彼の人間的な魅力と、その人生の喜びと悲しみを余すこと無く表現してみせたジョン・ホークスの演技は素晴らしかった。  そして、こういうセンシティブな映画だからこそ、敢えてこう特筆したい。 “ヘレン・ハントのおっぱいが美しい”と。 主人公の相手役となるセックス・セラピストを演じたヘレン・ハントもまた素晴らしかった。 撮影当時49歳らしいが、このアカデミー賞女優の堂々たる脱ぎっぷりと、年齢を重ねても変わらない彼女独特の愛らしさがあったからこそ、この映画は成功していると強く思う。  勇気と慈愛、人間の営みにまつわる輝きに溢れた幸福な映画だ。   BS(WOWOW)放送だったからか必要以上に“ぼかし”が大きかったことは、演者たちの心意気を妨害しているようで、とても残念だったけれど。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-02-14 00:28:52)(良:1票)
4.  世界にひとつのプレイブック
想像以上に愛らしい映画だった。 年の瀬、描かれる映画世界の時候的にも、本質的なテーマ的にも、この頃合いに観るに相応しい映画であったことを幸運に思う。  人は人により傷つく。ならば人との関わりなんて持ちたくないと思いがちだけれども、その傷を癒すのも、また人との関わり合いだ。 面倒で、大変なことだけれど、その繰り返しがなければ、生きてはいけない。 その人間ならではの弱さと脆さ、愛すべき滑稽さを雄弁に語る映画だったと思う。  物語はそれぞれに心に傷を負い、精神をこじらせた男と女を軸に描き出される。 この映画が巧いのは、“こじらせている”のは決してこの主人公たちばかりではないということ。 彼らを取り巻く家族や友人、街の人々も、それぞれが心に何らかの問題を抱え、時にそれを仕舞い込み、時にそれを吐き出しつつ、生きている。 それは即ち、決して主人公の二人が特異なわけではなく、世の中全体が抱える普遍的な病理性なのだ。  ほんの少し切り口を変えたなら、容易にもっと悲劇的なお話にもなるだろう。 しかし、この映画は、その社会全体が抱える心の闇を豪快に笑い飛ばしている。 それはとても勇敢で、幸福なアプローチであると思う。  アカデミー賞の俳優部門のすべてにノミネートされるに相応しく、俳優たちの演技はそれぞれ素晴らしい。 その中でもやはり特筆すべきは、主演女優賞を勝ち取ったジェニファー・ローレンスだろう。 この若い女優の存在感には、この映画が持つ愛らしさと繊細さと勇敢さのすべてが満ち溢れていて、あまりに魅力的だった。 彼女がこの先さらにどのようなキャリアを辿っていくのか、映画ファンとして楽しみでならない。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-30 14:20:35)
5.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
ついに進退窮まった最後の局面において、主人公は「これは誰のせいでもない」と達観する。 それはすべてをやり尽くした上での諦めの境地のようにも見えるが、やはり、彼女がようやく辿り着いた“生きる”ということに対しての強い覚悟の表れだったと思える。  子を亡くし人生に打ちひしがれた主人公は、自分に与えられた仕事にひたすらに没頭し、その結果気がつくと「宇宙空間」に居たのだと思う。 それは彼女にとっては逃避に近い行動だったのだろう。  そこに訪れた文字通りに絶体絶命の危機。  無重力の怖さ、無音の怖さ、無酸素の怖さ、どこまでも広がる「無限」の怖さ、宇宙空間の虚無的なリアリティとそれに伴う絶対的な恐怖を描き抜いたこの映画は、一人の人間の弱さと脆さ、そして「生」に対しての神々しいまでの「執着」を導き出していく。  「宇宙」というものに少しでも興味を持った人ならば誰しも、あの「空間」に放り出されることを想像し、その恐怖に総毛立ったことがあるはず。 この映画の発端は、まさにその誰しもが覚えた恐怖感であり、紡ぎ出されるストーリーも極めてシンプルだと言える。 しかし、シンプルだからこそ、その徹底された無重力世界の描き込みの総てにおいて驚嘆せずにはいられなかった。  登場するキャラクターはほぼ2人きり。しかも映画の大部分は、サンドラ・ブロックによる“孤独感”のみで描かれる。 余計な人物描写や回想なんて完全に排して、今その瞬間の「現実」と、それにさらされた主人公の等身大の姿のみで描き切ったこの91分の映画の潔さが素晴らしい。  「結末」は誰しも容易に想像できる。 それでも、繰り広げられるスペクタクルの一つ一つに例外なく息を呑み、終始主人公と同様に息苦しさすら覚え続けた。 そして無重力下で球体化する彼女の涙を見て、こちらも涙がこぼれた。  果てに、彼女は地上に降り立ち、地球の地面に屈服する。 紛れもない重力に喜びを感じ思わず笑みを浮かべる。 赤土を握りしめ、彼女は再び立ち上がる。 映画全編に渡るあらゆる比喩は、彼女が「再誕」したことを如実に表現している。  凄い。本当に凄い映画だ。
[映画館(字幕)] 10点(2013-12-21 00:40:40)(良:6票)
6.  ゼロ・ダーク・サーティ
すべてを終えて、帰国の途につくヒロインが、飛行機の操縦士に「どこに行く?」と聞かれる。 他愛もない問いかけの筈だが、彼女は茫然としたまま何も答えられず、一筋の涙を流し、映画は終焉する。  私は何をしたかったのだろう?私は何故こんなところまで来てしまったのだろう?  彼女が抱えたその「虚無感」こそが、この映画が辿り着いた真理だろうと思う。  アメリカによる「ビン・ラディン殺害」を実録的に描き出した今作において最も重要なことは、この映画が、実際に報じられた「ビン・ラディン殺害」から一年余りの極めて短かい期間の中で製作され公開に至っているという事実だ。 それは、この映画で映し出されるものが、リアルタイムの「世界」の姿であることに他ならない。  勿論、この映画の内容が、そのまま総て真実だと認識すべきではないだろうとは思う。 が、あの「9.11」から現在に至るまでの10年余りの時間の中で、アメリカが辿った「混迷」と、それに伴う世界の「混沌」の様は、ありのままに表現されていたと思う。  主演したジェシカ・チャスティンの演技は素晴らしかった。 恐らく意図的であることは間違いないと思うが、彼女が演じたキャラクターは、主人公であるにも関わらずバックグラウンドが殆ど描かれない。 どうして彼女がこの任務にアサインされたのか、どうして彼女はこれほどまで任務に固執したのか。当然生じる疑問に対して敢えて真意を描かず、時に淡々と時に妄信的に職務を遂行する主人公の姿のみが描かれる。 そういった明確なキャラクター性が見え辛い主人公を、この主演女優は絶大な説得力を持って演じていた。  ラストシーン、茫然自失としたヒロインの姿には、世界中を渦巻く「憎しみの螺旋」の中心に、自分が知らないうちに引きずりこまれていたことに初めて気づいた「絶望」が滲み出ていたように見えた。  そして、その「絶望」は決して彼女だけに与えられたものではないと思う。 この世界においてその愚かな“螺旋”が続く以上、世界中のすべての人々が、渦の中心にじわりじわりと引き込まれているということを、この映画は静かに重く訴えかけてくる。  主人公のバックグラウンドが描かれなかった理由は、彼女が「特別」な存在なのではなく、この世界に生きる人々を象徴する存在として描き出すためだったのだと思えた。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-12-18 22:38:40)
7.  世界侵略:ロサンゼルス決戦
もう一年近く前になると思うが、この映画のタイトルを観たときは、「なんてダサくて面白くなさそうなタイトルだろう」と思った。 エイリアンの侵略ものだということは一目瞭然だったが、どれくらい“まとも”に作られた映画なのかととても訝しく思った。  2011年の年明け頃になってようやく映画の情報を少しずつ知り、アーロン・エッカートが主演でミシェル・ロドリゲスが出ているということが分かり、地味ながらも好感を持てるキャスティングも手伝って気になり始めた。 そして同じ頃に初めてトレーラーを観て、侵略の様を“現場目線”で切り取ったシーンの迫力に一瞬で圧倒された。  日本公開は4月1日、一転して公開日が待ち遠しい作品となっていた。  しかし、4月1日にこの映画を観ることは出来なかった。 3月11日に発生した大震災の影響を受け、大幅な公開延期が決まったからだった。  果たして「公開延期」という措置が正しいことだったのかどうかは、個人的には懐疑的に思う。 が、実際に被災地の現状を目の当たりにした人々にとっては、この映画に映し出されたロサンゼルスの壊滅した様は、様々な感情に心労を伴うものだったかもしれない。  前フリが長々しくなってしまったが、この映画において言いたいことはシンプルだ。  突如として襲いくるエイリアン、圧倒的な兵力を向こうにまわし勇敢に対峙する海兵隊。 圧倒的な兵力差があるにも関わらず、決死の覚悟で奮闘し侵略者の牙城を突き崩す。 ご都合主義の米国至上主義、アメリカ万歳!海兵隊万歳! ベタで王道的なハリウッドのエンターテイメント……。  人によっては卑下する要素は無限にあるのだろう。ただし、この映画の在り方は、圧倒的に正しい。  あらゆる物事が理にかなってなかろうが何だろうが、わけも分からぬまま侵略者の大軍に立ち向かう兵士たちの立ち位置のみで描かれる映画世界に、絶大な興奮を覚えたということ。 それだけでこの映画の価値は揺るがないと思う。  そして、この映画のタイトルは、本当に“それ”のみしか描いていないことに対する潔い態度の表れだったということに気づいた。  P.S.“女性ソルジャー”という役柄において、ロドリゲス嬢の右に出る者はやっぱり居ないと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2011-09-21 11:26:53)(良:1票)
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