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六本木ソルジャーさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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コメント数 823
性別 男性

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1.  ゾンビランド 《ネタバレ》 
ゾンビ映画に対してはそれほど思い入れもないものの、新しいタイプの「ゾンビ映画」を楽しめるのではないかと期待していたが、自分向きではなかったようだ。「ショーン・オブ・ザ・デッド」もそれほど評価していない自分には無理だったようだ。 ゾンビ映画とコメディ映画のフュージョンにより、普通の倍楽しめる人もいるかもしれないが、自分にはどっちつかずの中途半端な作品と映ってしまった。もうちょっとどちらかに寄せてもよかったか。 劇場内もそれほど盛り上がっていなかったような気がする。自分はほとんど笑えなかった上に、周囲からも数回乾いたような笑いが聞こえる程度だ。 「ピエロが怖いっていったい何の話だ、スティーヴン・キングのITか」 「トゥインキーなんて知らねぇ、うまい棒みたいなもんか」 このように元ネタを知らないこともあってか、ノリ切れなかった。 (トゥインキーを調べると、何年も腐ることがない、核戦争後でも残るといわれている具合に意外とネタにされており、タラハシーの「賞味期限があるんだぜ」というセリフは笑いどころだったようだ) 最大の見せ場であるビル・マーレイも、予想可能なお約束のオチであり、それほど楽しめることができなかった。ノリが良いのか悪いのかよく分からないビル・マーレイもやや微妙。『何か心残りはあるか?』の問いに対する答えは、モノを見ていないのでよく分からなかったのに、何故か笑えたが。 新しいタイプの映画ではあるのは間違いないが、ゾンビ映画というよりも、オタク青年が美女をゲットするという、アメリカの映画によくありがちな設定の映画でもあり、新しいというよりも使い古された作品ということもできる。 「生き残るための32のルール」もそれほど効果的でもない。いくつかのルールを効果的に紹介しつつ、ルールをかたくなに守る主人公と、タラハシーたちの自由さとのギャップを描くことにより、そのルールが全く役に立たないことを“笑い”へ変えながら、ゾンビランドやリアルな世の中で生きるためには、ルールなど必要ないというようなオチでもよさそうだ。「ヒーローになるな」を否定するくらいではやや弱いような気がする。 ゾンビ映画なのだから難しくする必要はないが、もうちょっと爽快感が欲しいところ。 タラハシーの終盤の大活躍、美女とのキス(一塁)など見せ場はあるが、個人的にはそれほどハマらなかった。
[映画館(字幕)] 4点(2010-08-07 12:33:40)
2.  ソウ6 《ネタバレ》 
デキは意外と悪くはなく、合格ラインは突破しているのではないか。驚くようなトリックはないものの、ゲーム自体はなかなか凝ったものとなっている。また、ホフマン刑事にカリスマ性がないことが欠点だったが、そういう欠点を長所に変えるところがこのシリーズの良さでもある(Ⅲでも使った手法)。直接殺人を犯すという暴挙に出た彼に後継者失格の烙印を押して、今後のシリーズ展開を膨らまそうという狙いもみられる。 気に入らないところは、保険会社の担当者を殺す必要があったのかというところだ。彼のゲームのプレイを見ている限りでは、それほど悪い奴ではない。自分だけが生き残ることや自分が痛みを感じないことを第一に考えているわけではない。計算や数字で判断するのではなくて、純粋に仲間を助けたい、家族や子どもがいるかどうか、というような点で判断している人間的な一面が垣間見られる。 彼がどういうプレイをするかを母子が判断するという“ゲーム”があるとすれば、彼のプレイは間違っているようには思えず、母子の“ゲーム”はミスではないか。彼を殺さないことによって、今後は更生して何人もの命が彼の保険によって救われる可能性も出てくる。 彼をたとえ殺すとしても、もうちょっとタメが必要だったと思われる。母親がいったんは殺そうと決意するもののやはり最後には殺せないと嘆いて、観客に対して安堵感を与えておきながら、最後の最後に息子がもう一撃食らわせるということが必要だったのではないか。“彼が助かった”と感じさせないと息子の一撃が活きてこない。 “ゲーム”の趣旨を考えると、殺すこと自体賛成できないうえに殺し方も面白みに欠けるので、この点がマイナス評価となる。一応、“生への実感”“生に対する感謝”が本作のテーマでもあるわけなので、なんでもかんでも殺せばよいという問題ではない。父親を見殺しにされたから“むかついたので殺します”では、復讐や暴力を是認する残酷なだけのものであり、映画としての“深み”もなくなってしまう。 彼を殺すか殺さないかというのも製作者に対する一つの“ゲーム”だったような気もする。化学薬品を使った面白い殺人方法を思いついたから、実現させてみようぜというノリではないか。ハロウィーンシーズンに楽しむサスペンスホラーなので仕方がないとはいえ、製作者自身が“ゲーム”に負けているような気がする。
[映画館(字幕)] 6点(2009-11-09 00:34:00)(良:2票)
3.  それでも恋するバルセロナ 《ネタバレ》 
かつてはニューヨークを舞台とした映画を得意としていたウディ・アレン監督だが、ヨーロッパとの出会いを果たし、今回はスペインとの出会いにより、監督の新たな一面が引き出されている。 ニューヨーク時代のシャープで冷淡な雰囲気とはまるで異なり、スペインの陽気な雰囲気がそうさせているのだろうか、全体的に丸みが感じられる。 また、ストーリーがどんどんと予期しない方向に進みながらも、完全な調和が保たれている点が素晴らしい。 本作を見るまでは、アレン監督の衰えを感じていたが、ベテランの円熟した手腕を発揮したばかりか、新たな境地を模索している点は驚かされる。 まだまだ彼は終わっていないようだ。 アントニ・ガウディの作品、スペインのギター、写真などを利用することにより、芸術的な雰囲気に溢れている点も見逃せない。 さらに、ウディ・アレンらしさは失われてはいなかった点も評価したいところ。 各キャラクターは結局、同じところをぐるぐると回っているだけだろうか。 レベッカ・ホールは婚約者を愛しておきながら、人生の不満を抑えられずにいるものの、スペインで世話になった奥さんと同様に現状を維持しようとする。 スカーレット・ヨハンソンは何かを得たとしても、現状に納得できずに自分探しを延々と続けている。 ハベエル・バルデムとペネロペ・クロスはお互いを傷つけながら、別れたり、戻ったりを繰り返している。 人間というものは、悩んだり、苦しんだりしながら、結局スタート地点から進められずにいるものなのかもしれないというようなことを、本作を見て感じた。 人間というものは変われるようで変われないのだろうか。 エンディングについては、特にオチもなく、投げっぱなしにしたことは、本作のテーマや趣旨を考えれば、ベターな選択だろう。 確かに、何らかの結論を付ける類の作品ではない。 ただ、シニカル的な味付けをもうちょっと工夫すると、一般の観客には分かりやすい作品になったかもしれない。 アカデミー賞を受賞したペネロペは、(役柄の違いがあるにせよ)スカーレット・ヨハンソンを圧倒する存在感をみせている。 彼女の登場により、空気感が明らかに変わるという面白い効果が出ている。 それまでもカオスな状態だったのに、さらに異次元のカオスに突入しているが、ウディ・アレン監督がそれを上手くまとめ上げている。
[映画館(字幕)] 7点(2009-07-12 14:32:28)
4.  ソウ5 《ネタバレ》 
本シリーズのもともとの脚本家リー・ワネルが脚本を手掛けていないⅣから本シリーズの質がだいぶ落ちてきたという印象を持つ。 Ⅳもイマイチだったが、Ⅴも何をしたかったのかがさっぱり分からないものとなっている。 「ホフマン刑事VSストラムFBI捜査官の対決」「後継者誕生の瞬間」「5人の男女によるゲーム」がメインとなっているが、どれもこれも中途半端な仕上がりだ。 「ホフマン刑事VSストラムFBI捜査官の対決」に関しては、盛り上がりなど、何も描かれていない。 こういうものは、犯人が追いつめられてこそ、盛り上がるものではないか。 追いつめているようで、逆に追いつめられている。 追いつめられているようで、逆に追いつめている。 このようなハイレベルのバトルを期待するのは無理だった。 携帯一つと写真だけでFBIがワナに嵌まり、ミエミエの策略に引っかかるFBI捜査官には呆れ果てるだけだ。 驚きも何も感じられない決着であり、あれがオチといえるのだろうか。 「後継者誕生の瞬間」に関しても、杜撰な内容といえる。 犯人が釈放後に殺された際に、この映画の世界では家族が疑われないらしい。 あまり細かい部分に突っ込んでも仕方がないので、この部分は目をつぶれるとしても、後継者があまりにも知的ではなく、カリスマ性がないのは気になるところだ。 もっと華のある後継者が登場しないと、本シリーズが続かなくなってしまう。 「殺人」と「更生」の違いを強調しておきながら、ストラムを(ゲーム性はあるものの)殺そうとしているので、ジグソウの意志は引き継がれていないようだ。 後継者を何人も誕生させておきながら、その後継者には資格がないとの理由を付けて、どんどんと後継者を殺すことによって、本シリーズを続けさせるつもりだろうか。 「5人の男女によるゲーム」は、それぞれが分担することによって、それぞれが責任を持たない放火殺人を行ったことに対するゲームのようだ。 だからこそ、協力して生き残ることを試していると思われる。 最後のゲーム以外は協力しないでおきながら、全ゲームをクリアできる途があるというのは理解に苦しむ。 最後は少なくとも三人以上いないとクリアできないようなゲームにしないともはやゲームとはいえない。 単なるショッキングシーンを描きたいだけの映画となってしまい、テーマも哲学もメッセージも何もかも見失いつつあるような気がする。
[映画館(字幕)] 3点(2008-11-30 12:38:13)(良:1票)
5.  ソウ4 《ネタバレ》 
Ⅰ~Ⅲまでは是非はともかくとして、そのアイディアには毎度唸らされてきたが、Ⅳははっきりいってすっきりしない。ラストのオチが分かっても、「それで・・・?」という感想しか出てこない。新たな後継者の謎や動機を明かさないままで終わるというのは、続編で描くという魂胆がミエミエであり、あまり好ましい手法とは思えない。 また、ジグソウの哲学やゲームもどこかへ消えてしまっているようにも思われる。 マシューズ刑事は一度ゲームに失敗しているが、自己の脚を犠牲にして部屋から抜け出しており、ジグソウの理念に則れば、ゲームにクリアした者ではないのか。 ゲームをクリアしたのに、再びゲームを手伝う弁護士など、単なるゲームの駒にされており、私怨的な面が多数描かれているのが残念だ。おかしな方向に複雑化してしまい、Ⅰのような面白いアイディア一つで乗り切った勢いが吹っ飛んでしまっている。悪い意味で洗練されてしまった感がある。 本作で製作者が狙った仕掛けとしては、①時間軸のズラシ方(前作Ⅲと同時進行している)、②黒人SWATに課せられた「助けようとしなければ助かる」というゲームだと思うが、この二点はどちらもⅡで似たようなものが描いており、焼き直し的に感じる。 冒頭にジグソウの解剖を念入りに行い、「ジグソウは死んでいる」と観客をミスリードさせるという製作者の狙いは評価できるが、上手くそれを活用できていない。 ⅣがⅢと同時進行的に起きているというネタの効果が薄かったのではないか。 ネタが分かっても、それほど衝撃がなかったように思われる。どうせ時間軸が異なるのであれば、生きたジグソウを黒幕として再び登場させた方がまだオチとしては面白かった。 黒人SWATに課せられた「助けようとしなければ助かる」というゲームについても、ゲームをさせることの趣旨、効果が薄い気がする。 黒人SWATにゲームを経験させて、ジグソウと同じ考え方を身につけさせ、後継者に仕立てるという目論見などが感じられず、中途半端な仕上がりとなっている。 「刑事としては人を救えない(裁けない)」が「ジグソウとしては人を救える(裁ける)」というメッセージをもっと込めてもよかった。 Ⅲまでが一つの区切りであり、Ⅳはもっと大胆に変更を加えるべきではなかったか。 新たなゲームやルールを描いてもよかった。同じ人間が何度も出てくるのは、世界観が狭すぎる。
[映画館(字幕)] 4点(2008-11-30 02:29:32)(良:2票)
6.  ソウ3 《ネタバレ》 
本作の鑑賞の前に是非ⅠとⅡの予習をしてから観て欲しい。自分は予習をしたので、とても楽しく充実して本作を鑑賞することができた。 Ⅱで感じた自分の疑問点などに対してきちんと回答が用意されているのが嬉しい。Ⅱの成功を受けて、Ⅲの製作が決まったということから、Ⅲを前提にしてⅡは創られていないのである。穴というか矛盾が多かったⅡを逆に利用するところが製作者の頭がキレルところだ。演出力も前作よりも格段とパワーアップしている。 本作のゲームの構造は、①ジェフが息子の死に責任がある者を赦せるかというゲーム、②リンがジグソウをゲーム終了まで生かせるかというゲーム、③ジグソウとアマンダのジグソウとしての資格を問うゲーム、④ジグソウとジョン(ジグソウ)のゲームという4つのゲームで成り立っている。 ③のゲームはⅡの疑問点を受けている。生き残るための道は残されるべきというゲームのルールを守れるのかをアマンダに説いた。ジグソウのゲームと単なる快楽殺人とは全く違うということを明確に示している。本作の冒頭の二件のゲームも前作同様に答えも逃げ道も用意されていないのが特徴になっている。 特に、④のゲームが興味深い。ジグソウは「ゲームを通して人を変えることができるのか」、「ゲームによって人の生き方を改めることができるのか」というゲームを自分に課したのである。自分が行ってきた数々のゲームは「生」の喜びを享受しない人々に対して果たして意味があったのか、ということを自分に問うたのである。アマンダは確かに生まれ変わったようにもみえたが、本当に彼女の生き方を変えることができたのか、逆に間違った方向に導いてしまったのではないかということをジグソウは自問したのではなかったか。 この問いに対する答えは明確なものだった。「人は変わらない」ということだ。一時の感情に支配され、愚かしいまでに過ちを繰り返すことが「人間の本質」ということをしっかりと描かれている。本作を鑑賞し終わった後は、我々はジグソウに向かって心の中でつぶやくだろう。「ゲームオーバー」と。 彼もこの答えは知っていたに違いない。「保険のために用意していた」というテープが流れるが、テープを用意するということは、このゲームに自分が勝てないと知っていたからではないか。 このシリーズはこれでもう完結させた方がこのシリーズのためにも良いような気がしたが、どうだろうか。
[映画館(字幕)] 8点(2006-11-20 20:43:20)(良:4票)
7.  ソウ2 《ネタバレ》 
「あなた(エリック)はわたし(アマンダ)の最初の被験者なのよ」という言葉で締めくくられていたと思うが、この言葉が意味するところは、本作は「アマンダとエリック」のゲームでしかなかったのだということである。つまり、ジグソウも含めて、息子や閉じ込められた者たちはすべてアマンダのゲームの駒にすぎなかったのである。息子を含めた7人(アマンダを除く)は実はゲームのプレイヤーではなかった。アマンダの役割は息子を暴漢やトラップ(針山のトラップにアマンダが落とされたのは、息子の身代わりに落とされたとした方がよかったと思う)から保護するための守護者の役割である(ゲームの賞品に傷がついたらエリックとのゲームが成り立たなくなってしまう)。だから、彼らにはほとんど生き残る手段が与えられていないのである。誰よりも「生」への執着を示し自らの身体を犠牲にした者(本来のジグソウのゲームでは勝利者になれる)ですら、殺してしまっているのはこれがジグソウのゲームではないからだ。 確かに、前作のジグソウにしても、ゲームのためにプレイヤー以外の者が犠牲になることはあった(前作でアマンダが生き残れたのは、麻酔で身動きが取れなくなった生きた人間の胃の中から鍵を取り出せたというもの、そしてゴードン医師の家族など)が、本作に至っては、「生」の喜びを享受しない者への戒めという趣旨よりも、単なる「復讐」という趣旨に変わってしまっていることが分かる。「復讐」のためならば、他の人間の命を犠牲にしてもよいという考えは、初代ジグソウの理念とはだいぶかけ離れたものだ。「命」を粗末に扱っているのは、誰であろうアマンダということにはならないか。 このように、ややアマンダの哲学には賛同しにくい部分がある。「永遠に生きるためには人々の記憶に残ること」といったよく分からない理屈を持ち出しているのもあまりいただけない。 また、前作に引き続き、ゲームのプレイヤーが適していたかどうかが不明瞭だ。ゴードン医師やエリック刑事といった、人々を守るべき立場の者をハメル必要性があまり感じられない。確かにでっち上げや暴力によって逮捕していたかもしれないが、アマンダのような小娘ひとりをでっち上げで逮捕するメリットは正直あるとは思えず、普通に考えれば何らかの理由があったからではないか。「悪いことはなんでもやったがクスリはやっていない」というのは説明不足すぎる。
[映画館(字幕)] 6点(2006-11-19 00:24:07)(良:1票)
8.  ソウ 《ネタバレ》 
本作の凄さはゴードンが脚を切ることではなく、ゴードンに脚を切らせたことではないか。ジグソウは、ここに至るまでにほぼ完全にゴードンの思考能力を奪い、精神を錯乱するまでに追い込んでいる。ラストの混乱で携帯は手の届かないところに放り出されてしまうが、携帯は鳴り続けている。この時点で、この着信音はゴードンにとってはただの着信音ではなく、家族の「悲鳴」や助けを求める「声」にしか聞こえなかったはずだ。本来の精神状態ならば自分のシャツやノコギリを使えば余裕で携帯を手にすることができたはずである(序盤にアダムにシャツを使えとアドバイスを送れたのは精神状態がまだノーマルだったため)が、ノコギリを手渡され、家族を助かるためには自分の脚を切らなければいけないという「刷り込み」をされ、精神的に追い込めば、周囲の状況を冷静に分析することができず、そういう行動を取ってしまうという心理をジグソウは利用したのではないか。ジグソウのゲームには一応助かるための「鍵」のようなものが用意されている。冷静でいられないから、この「鍵」を失ってしまうのだろう(アダムにもちゃんと鍵を渡している)。あのとき、携帯が取れそうで取れない位置(何かを使えば取れる位置)に製作者が置いたのは演出家のミスではなく、「作為」だったと思う。 ただ、どうしても引っかかってしなうのは、何故ゴードンとアダム(ゼップも含む)がこのゲームに参加しなくてはならなかったかが不明瞭だ。彼らの罪は、不倫や覗き等であって、「命」を粗末に扱ったり、「生」の喜びを享受していないわけでない。娘を心から愛し、不倫にも躊躇してしまうゴードン医師がなぜジグソウのゲームの対象となり得るのか。ジグソウの動機や理屈とは合わないような気がする。ゴードンの無実の家族をゼップに殺させようとしたが、あの家族にも「命」を粗末にするという「非」はないはずである。例えば、医者の場合には不倫をしたために緊急の患者の命を救えなかったとか、覗きによる強迫で誰かを自殺に追い込んだというようなエピソードがあってもよかったのではないか。ただ、製作者サイドとしては、ジグソウという人物を本当のヒューマニストではなくて、末期状態のために善悪の見境がなくなった狂信者として描きたかったかもしれない(観客がジグソウに過度に同情させないために、論理的に矛盾した行動をとらせたとも考えられる)。
[映画館(字幕)] 7点(2006-11-15 22:54:15)(良:1票)
9.  ソラリス
タル版は以前ねむけまなこで観た記憶がある程度なので、ここではあえて比較はしないことにする。 ソダ版はアメリカでの散々な評価、大コケぶりや皆さんの点数のグラフの分布からも分かるようにほぼ駄作と決まりつつあるが、自分はこの幻想的でありまた神秘的(特に音楽が良い)であり、哲学性、倫理性を含みつつも愛した人を忘れられない未練たっぷりで、自分の犯した過ちのために前に進めなくなっている男を描いた本作の雰囲気はとても好きである。 それぞれの乗客にとってソラリスは別の意味があるのかもしれないが、ケルヴィンにとってソラリスとは一言でいえば「自分の過ちを償うチャンスが得られる」場所ではなかったか。 一緒に暮らしていても心を少ししか開いてくれない妻の性格等を理解できなく、お互い愛し合っていても理解しあえず、結局死に追いやってしまったその責任や過ちから解放されて前に進むことが出来る場所がソラリスではないか。 しかし、その過ちを償うことができても地球で二人で昔のように暮らすことはもはや出来ない、 そしてこの狭い宇宙船にもそのような場所はない。 詩が語っていた「愛は死なずに死の支配がない」ような世界、愛の中で永遠に生きる事が許された世界がまさにソラリスなのではないかと感じた。 その世界では二人が犯した過ちが全て許される、そして全く今までとは違う新しい生き方ができる場所なのだろう。 ケルヴィンが選択した二人が暮らしているラストの世界がそのような世界だと思う。 ケルヴィンをソラリスに導いたジバリアンは恐らく精神科医として彼を招いたのではなく、彼が再び前を向いて歩けるようにするため友人として彼をこの世界に導いたのではないかとも思う。 倫理的にも面白い部分はあると感じた。 実際の本人とは違う自己の記憶のみで構成された相手。その自分の記憶が正しかろうが誤ってようが関係なく本人に投影される。 そのため、誤った記憶のなかに自分の不存在を感じ、自己崩壊が生じる姿は面白いと感じた。 スノーのように自分を人間だと思う姿もこれまた面白い。 そして何者であれ、本人ではないと分かっていながら姿、形が同じであれば結局愛することしか出来ない人間の哀しさも描かれていると思う。
8点(2004-12-25 20:38:09)(良:1票)
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