Menu
 > レビュワー
 > なんのかんの さんの口コミ一覧。2ページ目
なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2336
性別

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順12345678
投稿日付順12345678
変更日付順12345678
>> カレンダー表示
>> 通常表示
21.  巴里祭 《ネタバレ》 
最初のころは、クレールはコメディがいいんじゃないかと思っていたが、だんだんとこういうのの良さも分かるようになってきた。キレよりもコク。これなんか、映画で物語を語ることの最良の成果なんじゃないでしょうか。ほとんどの出来事や脇の登場人物が反復され、あんまりそういうことがキッチリしていると息苦しくなりそうなのに、それを感じさせないようにフランス映画は洒落た感覚を洗練させてきたんだなあ。そういうことを堪能できる映画。スリ一味の場などさながら良質のコントで、しかし彼らもちゃんともう一度、悪役に出世して登場してくる。無駄がない。しかもその変貌には悪女が関係しているので、不自然でない。あるいは小道具としてのジュークボックスの使い方。あるいは窓ぎわのライティングのうまさ。堪能、堪能。
[映画館(字幕)] 8点(2009-01-04 12:13:19)
22.  春の夢(1960) 《ネタバレ》 
ちょっとまず物語の設定を聞いてください。「焼き芋屋の笠智衆が豪邸でイモ買ってもらったかわりに、女中の十朱幸代にソファを動かす手伝いをさせられ、そこで脳溢血で倒れる。応接間の真ん中で一週間絶対安静と医者の佐野周二は言う。おりしもこの宅の主、小沢栄太郎の毛はえ薬会社はストに突入し慌ただしく、禿げ頭の重役やガードマンのやくざが出入りし、外ではデモのシュプレヒコールが渦巻いている。一方、金を腹巻きに溜め込んでいるという噂の笠の看病をしようと彼の隣人の貧乏人たちが大挙押しかけ、家の娘岡田茉莉子は貧乏画家との駆け落ちの準備中、息子川津祐介は哲学青年でたえずブツブツ呟きながら半ズボンで家の中を徘徊している…」。どうです、面白そうでしょ。ほんと、この人のコメディはいいなあ。これだけ豪華なキャストで正月映画用の軽いコメディを製作できた黄金時代がうらやましい。久我美子にオールドミスの三枚目をやらせるなんて。舞台は豪邸内に限ってるけど、金持ちばかりを笑うのではなく、倒れたじいさんにたかる貧乏人も笑ってる。東山千栄子の部屋で笠智衆が倒れるなんて『東京物語』をひっくり返したパロディみたいだけど、たぶん話の骨格に「桜の園」を意識したので、東山の起用となったのでしょう。喜劇作家木下を代表できる一本だと思う。部屋の隅にポッとピンクや緑のライトが入るのは、次の『笛吹川』につながっていく試みか。
[映画館(邦画)] 8点(2008-09-06 12:20:09)
23.  バッド・インフルエンス/悪影響
ジェームズ・スペイダー君が、セーター着て普通のサラリーマンを好演。ちょっと小心なとこが、やっぱり彼なの。ちょっと屈辱的な場面で・世間に対してチクショーと思っている場面でロブ・ロウが登場するってのが、分身の登場のようでもあってなかなか意味深。主人公は「世間に対してたかをくくること」を教育されていく。感化されていく。「世間なんてこんなものよ」と結局スーパー強盗にまでなり、同僚を殴り(と思い込む)、で怖くなってくるのは、ロブ・ロウがいなくなってから。財布を取りかえして戻ってきた部屋でのビデオによる殺人の記録シーン。時間のずれが重なる。血のあととか。ここらへんうまいですな。世間が敵になる。兄がロブ・ロウの指紋をとろうとする怪しいバーのシーン。蛍光灯振り回して女が踊ってて。世間から集団で逃げてるような人々。主人公の分身であるというより、『エクソシスト』みたいな純粋な悪の抽出、ってことになるのか。
[映画館(字幕)] 7点(2014-02-11 09:52:42)
24.  バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3
ディズニーランドに、開拓の国があるのが子どものころは不思議で、「おとぎ」と「冒険」と「未来」は並列できるが、「開拓」ってのはなんか違うジャンルの世界なのじゃないか、「ひとつ仲間外れが混ざっているのを選べ」という問題みたいだ、と思っていた。その後アメリカ映画を見るようになって、あの国にとって開拓時代ってのがほとんど神話なんだと納得するようになったが、本シリーズでも最後に開拓時代を置いているのは、そういう重石になるからなんだろう。ブラウン博士は歴史を変えてはいかんと言いながら、ストーリーではどんどん歴史を改変していくのがアメリカ精神の発露で、『素晴らしき哉、人生!』と同じ「未来は変えられる」という基本態度だ。ちゃんとダンスパーティも行なわれる。最後には20世紀末の映画っぽいスペクタクルが用意され、機関車の煙の色の変化で緊迫感を煽るのが、趣向。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-01-12 09:29:13)
25.  白昼の通り魔 《ネタバレ》 
コミューンが崩壊し、インテリは自殺し男は死刑になり、女シノだけが生き残り続ける構図。「見殺しにすること」というモチーフが次の『日本春歌考』につながっていったか。理想が空回りする小山明子、ニヒリズムに落ち、村会議員になって自殺する戸浦六宏。本作から『儀式』まで、60年代後半から70年代頭への大島が一番元気がいい時代の始まりであり、常連たちが大島ワールドとしか呼べないものの構成単位となって自在に演じだす。村と東京の対比があり、それは「村から東京」というベクトルかもしれない。60年代後半は学生運動の沸騰した時代だが、『日本の夜と霧』で熱くなった気負いはこれらの作品からは感じられない。そのひとつ冷めた自省が黄金期たらしめたのだろう。コミューンが崩壊した60年代と来たる70年安保闘争を、新幹線が繋ごうとしたようでいて、その繋げない距離の存在を予告したようでもある(いまだからそう思うのかもしれないが)。
[映画館(邦画)] 7点(2013-12-03 09:44:03)
26.  ハンガリアン
無表情の長回しで、じっくりじっくり進行する。ちょっと気分が「俺は何でこの人たちに付きあってるんだろう」と離れそうになってきたあたりで、ロシアの捕虜を殺せなかった兵士が草の中で射殺される場面になり、のめりこんじゃった。カメラが行きつ戻りつして、じかに現場に立ち会ってるようなあっけなさ。リアルだった。あるいはひと夏のよき日、上等なタバコを吸って草笛吹いてのスケッチ。自転車を買う海への旅もいい。みなが適度に散らばって海へ歩いていく厳粛さ(ハンガリーは海がない。忘れないうちに書いとくと、これ戦時下のドイツへ出稼ぎに来たハンガリー農民たちの話)。雨が降ってきて自転車を濡らさぬように小屋に逃げ込めば死体があり、そういう時代なの。ドイツの人々の描写もよく、地主が息子のおもかげを農民に見るあたり実に優しい。「ドイツもハンガリーなんかと組まなけりゃ良かったのに」なんて農民がぼやく。自虐的ってわけでもない。淡々と感想を呟くだけ。音のみによる空襲シーンも良かった。露出過剰による夢のシーン、さかんに“マジャール”とか言ってて「ハンガリーとは何ぞや」についての結論的エピソードらしかったが、白地に白の字幕でまったく読めなかった。かえって言葉によるマトメがなくてよかったかも。
[映画館(字幕)] 7点(2013-08-21 09:25:09)
27.  蝿の王 《ネタバレ》 
原作は「権力とは何ぞや」に迫る小説だが、これはただ「二年間の休暇(十五少年漂流記)」を引っくり返しただけにも思える。20世紀は文明が文明そのもので野蛮になった時代で、文明が非文明に退化して野蛮になったわけじゃない。人間の集団の根源を見せてくれる原作。19世紀の「二年間の休暇」の時代は、権力機構がちゃんと機能すれば秩序正しい2年が送れるという人間の組織性に対する素朴な信頼があったが、20世紀は人間の集団こそが人類の敵だとはっきり分かってきた時代。まるでレジャーを楽しむような青空、青い海。象徴性を持たされた子どもたち。それでも彼らは儀式を必要としだす。「春の祭典」に近い音楽で盛り上げていく。サイモン殺しも怖いけど、ピギー殺しの戯れのような雰囲気が怖い。ラストで兵士が「いったい君たちは何をしてるんだ」と言う。その理性的な言葉を兵士(20世紀の野蛮の代表)が言う皮肉。演出での面白味はあまり感じられなかったが、「手堅い」ってことかもしれない。
[映画館(字幕)] 7点(2013-08-11 09:33:33)
28.  バイオレント・サタデー
ジョン・ハートの気持ち悪さがいい。決して薄ら笑いでなく、ニコニコする微笑で不気味さを出せる人。ウィークエンド・パーティ、離れた部屋の画面に不意に映ってしゃべりだす不気味さ、しかも消えなくなっちゃって天気予報のまねをするギャグつき。プールでのささいな喧嘩、夜のテレビでのスイス風景、など緊迫は高まっていって、それを見ているJ・ハート。怪物だ、とか言うんだけど、そのときゆっさゆっさ体を動かして、おどけて怪物のまねをするんだよね、気持ち悪い。レーザーガンで食堂こなごなのスローモーションのペキンパー印。ビデオ見詰め続ける男の不気味さは、現代の不気味さ一般に通じるものがあります。
[映画館(字幕)] 7点(2013-08-01 09:34:15)(良:1票)
29.  バックドラフト
こういうオトコギの世界は単純なほうがいいな。犯罪がらみにしないで、父を殺した火に復讐するまでの神々しい物語にしてくれたほうが良かった。D・サザーランドはいいんだけど。賢兄愚弟もので、初仕事で救助したと思ったらマネキンだった、という恥ずかしさがトラウマとして残っている。消防士ってのはアイルランド系が多いのか? 火の表情は『タワーリング・インフェルノ』のころよりうまくなっている。這い寄って来る感じ、小さな竜巻を起こしてたり、生き物ってのよく分かる。化学工場の火災ではドラム缶がボンボン飛ぶ。手持ちのカメラシーンが多く、炎の中なんか上下が分かりづらく迫力を欠いた。あくまで男の子が消防士に憧れる気持ちを中心に持ってくるべきだった。
[映画館(字幕)] 7点(2013-06-15 09:22:45)(良:1票)
30.  ハドソン・ホーク
とりわけ前半がいい。「快盗」もの、っていうか。ニンテンドー? それは何? と塀の外とズレた男。最初の盗みがいいの。歌に合わせて時間を計るというアイデアが抜群で、ブルース・ウィリスとダニー・アイエロがほとんどミュージカルのノリで画面とシンクロさせてやってくれちゃう。監視ビデオの絡め方もよく、飛び降りたところで次のシーンに繋げちゃう荒業。高速道路を思わぬ車で疾走したりいろいろ楽しいが、イタリアに移ってからちょっと落ちるか。それとアンディ・マクダウェルってのがもひとつ面白味に欠ける女優さんで。なかなかいいコンビだったが、シリーズものにはならず、そのかわりラジー賞を獲得した。主人公がカプチーノにありつけるまでの話なわけ。
[映画館(字幕)] 7点(2013-04-16 09:29:03)
31.  パッション・ベアトリス 《ネタバレ》 
まだ食事でフォークを使わない、バリバリと肉を手づかみで食べる。そういう時代の、家を巡る悲劇。娘ベアトリスは、父が帰ってくるので初めて頬紅をつける。家長の役を降りて、ただの娘に戻れるという安堵感。しかし父は昔の父ならず、すさんじゃってるの。「わしより後まで食べるな!」 この食事のシーンは、カメラがあっちこっちと回って、父の変貌を観察してるよう。そして、この父は家長の器ではない、となる。高い理想に輝く完全無欠の「家長」のイメージが、この家を圧迫していく。ベアトリスの頬紅は落ちていく。一つの家に複数の家長。悲劇の設定が整った。そして物語の果てに家長はベアトリス一人になれるのだが、その家は何と荒涼とした場所になってしまったことか。マリア像に頬紅をつけるように、父の血をなすりつける。前作がジャズ映画『ラウンド・ミッドナイト』(デクスター・ゴードンのたたずまいが絶品)だった監督、本作では音楽がロン・カーターだが、印象に残っていない。ごめん。
[映画館(字幕)] 7点(2013-04-12 10:09:09)
32.  ハッカリの季節
ギュネイの『路』がカンヌでグランプリ獲ったり、本作がベルリンで銀熊賞獲ったり、トルコ映画に注目が集まっていた80年代初め、しかし私は、トルコってあんな雪山がある国なのか、と驚くぐらい認識不足だった。今から思うとどうもクルド人問題が絡んでいたようで、舞台は南東のイラクと近いあたり。イラク戦争前は注目もされない地域だった。そこへ赴任してきた先生の話。歩いてくる主人公から映画は始まる。細かなスケッチを描きつつ、笑いながらタバコをふかす子どもを中心にした村人たちの、ヨソモノへの悪意とまでは至らない距離感がじんわり滲んでくる優れた導入。先生は、流刑と言うほどではないが、何かの処罰か、何かの注意人物のような扱いがほの見える。イスタンブールの放送が聞けるか、とラジオをめぐる会話があるのも、単に文化的生活への憧れなのか、あちらの人にとってはピンと来る政治的な何かがあるのか(地理的にはイスタンブールと正反対の地域だ)。映画が優れているのは、とにかくまず村人の生き方を記録しよう、という姿勢が見られること。なにしろここは「山が、自分を見てくれるものがいないと神に孤独を訴えた」という土地なのだ。自然と協調した生活、などというノンキなものではない。遊牧民が冬だけ過ごす定住地なのらしい。そこで孤独な山と孤独な村が、ひっそりと見詰め合っている図が、ひどく神々しい。こういう映画だと、教師が文明の伝道者となってやがて開けていくだろう、という方向へ持っていくか、共同体側に立って、どうだ厳しい環境での我々の生きざまを見よ、と自慢するか、そのどっちかだったが、「こういう土地がある」という厳とした現実を突きつけることに映画は集中する。おそらくそれが正しい。問題意識とは、その後に生まれてくるのを待つべきなんだろう。主人公がランプを弱めるとそれに見合って室内が暗くなる。その当たり前の記録性が、臨場感を高める。ランプが弱まったことをよく見せるために室内を明るくしといてはいけないんだ。エルデン・キラル監督。
[映画館(字幕)] 7点(2013-04-08 09:44:26)
33.  母と子(1938)
後半になって俄然イキイキしてきた。積極的な悪役がいるわけではないのに、男の振舞いのなかに悪が出てきてしまう世界。不人情を、男社会に原因を求めているようで、溝口を初め、こういう視点は当時ずいぶんモダンだったんじゃないか。そういうモダンな視点にさらされるのが、吉川満子のおっとり妾。この描かれ方がうまいんだ。そろそろ邪魔になってきたので追い出されるのを、わざわざ別荘買ってもらってと喜んでいる。それに苛つくのが娘の田中絹代なわけ。女二人が新旧二つのタイプを演じるのは、二年前に『祇園の姉妹』あり、翌年に『暖流』ありで、このころの流行りだったよう。とりわけ『暖流』とは役者がだいぶ重なっている。佐分利信、水戸光子、徳大寺伸。本作のほうが視線が冷たいと感じるのは、監督が渋谷実と思って見ているからか。佐分利はただ野心家というだけでなく、母的なものに憧れてるってしたので、厚みが出た。「オールドブラックジョー」のメロディは二年前の『一人息子』でも使われてたが、昭和初期には何か特殊な意味があったのかな。人物が外に出たのは田中絹代が海岸を散歩しただけという実に内に籠もった作品でした。
[映画館(邦画)] 7点(2013-01-14 10:36:19)
34.  バートン・フィンク 《ネタバレ》 
ハリウッドにも庶民にも受け入れられなかったよそ者の話。彼本人は庶民の理解者のつもりだった。でも彼のイメージする純粋な庶民ってのにはついに出会えない。あるいはレスリング映画の観客としてイメージするきっかけはあったものの、彼はラッシュ見ただけでウンザリしてしまう。そういった庶民の反対側に、酒びたりのハリウッドがあるんだろう。唯一の庶民と思っていた隣人は、最後に「俺の場所に踏み込んできてうるさいだと!」と怒る。庶民というより「他人」と広げてもいいかもしれない。でもこのホテルではチャーリー以外他人は姿を見せない。気配は靴音以外にもたくさんあるんだけど。このホテルの雰囲気を味わうのが本作の中心で、廊下にはブィーンという低音が響いているし、暑さで壁紙は剥がれていくし、唯一外界のイメージは海岸の女性の絵で、屋内に立ち込めていた暑さは、ラストで火に凝集していく。社長の部屋は『シャイニング』を思い出させ、そういえば廊下もそうだな。あちらが「恐怖の寒さ」だったのに対し、こちらは「不安の暑さ」か。そういう映画。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-11 10:37:37)
35.  パリの恋人
古典的なハリウッドミュージカルは『バンド・ワゴン』を最後の輝きとして終わり、『略奪された七人の花嫁』以後は模索時代と思っているので、これなんか、そのあの手この手を試している感じを楽しめた。もうタップのプロの技能を観客が堪能してはくれない。「オードリーのファッション映画」の一変種としてミュージカルの型を借りたって感じ。ミュージカルとしてのツボは、役者の動きよりもカメラの技法にゆだねられる。カラフルな世界で、スローモーション、ストップモーション、画面分割などなんでも試み、主人公をカメラマンにしてビジュアル効果狙いを自然にしている(赤一色の暗室がほかの場面のカラフルさを引き立てた)。物語のヒロインのイメージでパリの名所を撮影しながら巡っていく趣向も楽しい。オードリーのモダンダンスも一生懸命。一方、プロの芸も残しときたく、アステアと女性編集長が、怪しい集会(やがて来る60年代を予告するような雰囲気)で二階へ上がろうとするナンバーなんかちゃんとしている。アステアの個人芸では、オードリーの部屋の前の広場でのダンスがある(傘の遠投は仕掛けなしか?)。と「あれこれなんでもやってみている」楽しさが味わえる映画だ。なのに枠としてのドラマが旧態依然で、これがちょっと無理があったな。画づらのほうでの模索と拮抗するぐらいの模索を、ストーリーのほうでもやってもらいたかった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-07-29 09:24:31)(良:1票)
36.  ハワイ・マレー沖海戦
前半の訓練風景が圧巻。繰り返される精神主義と気合い。体操の秩序正しさ、清らかな白い歯。おそらくそこに蔓延していただろう陰湿な面をきれいに拭い去って、純粋な結晶体を見せてくれる。その時代の理想が目の前に現われてくる。これはもう優れた「記録映画」と見ていいでしょう。もちろん映画がその時代の狂気を形作っていった罪は断罪されなければならないが、同時に後世にその精神風土を正確に(狂ったまま)記録した作業も評価したい。動じない国の母、弱気になったときに力を吹き込んでくれる先輩、厳しいが面倒見のよい諸先生。すべてそのなかでは「善し」とされるものが、集まり寄って一つの大きな狂気を形成していった。なぜアメリカと戦わねばならないのか、についての具体的な説得がまったくなく、そんなことを考えること自体気合いが入っていない証明になってしまい、この「麗しい共同体」から弾き出されてしまう恐怖があったんだろう。
[映画館(邦画)] 7点(2012-06-10 10:00:25)(良:2票)
37.  バビロンの陽光 《ネタバレ》 
風土は変われど敗戦国の映画は似たトーンになる。敗戦というものの普遍がここにあるんだろう。満員のバス、家族を探す人々、物売りする子ども、イタリアや日本で描かれてきた光景が砂漠の国でも繰り返された。ただこちらはやたら広い。生活空間でなくロードムービーってこともあるだろうが、このだだっ広さは、これからの復興生活より、神とか運命とかに思いを走らせる。映像では出てこない牢獄の狭さが、おそらくこの広い風景の中にしまわれていたのだろうし、風景の底には集団墓地の遺体を放り込まれただろう狭い穴が想像される(子どもがお父さんのではない名前を読み上げていくところが胸に迫った)。登場するのがお婆さんと子どもで、生活感より民話的な雰囲気を醸しており、それだけいくさの本質が剥き出しで現われた。イラクならではの特徴は、クルド人虐殺に加担したという男が登場してくること。あの国では、まず和解のテーマが必要なのだ。言葉で語られるところより、子どもが大のおとなに笛の教授をしようとするシーンがいい。こんなふうに両者がつきあえたらいいな、と思わせる。映画のラストも笛を吹こうとしている少年の姿だった。
[DVD(字幕)] 7点(2012-04-22 10:16:27)
38.  ハーヴェイ 《ネタバレ》 
この手の話では最後に幻覚が消えていって、その別離の切なさ・健康な未来が開ける希望の輝き、ってなとこで締めるのが常道だったと思うんだけど、これの凄いのは、治らないの。せめて酒をやめるぐらいは示唆するかと思うと、それもない。それどころか幻覚が精神病院の院長に「感染」してしまうんだから凄い。日常に疲れきっていた院長に、大ウサギの幻覚が移っていく。徹底して「変わり者」の側から現実を眺める。ま、あくまでコメディで、けっして現実への批評として徹底させてるわけではないんだけど(酒場の裏手でハーヴェイとの出会いを語る場が一番現実批評になってたか。あそこいいシーン)、アメリカのホラ話の伝統と重ねて、実際に妖精かも知れないという含みを残している。ファンタジーに逃げてしまったな、という気もちょっとするが、ま、こういうのはアメリカにしか作れないコメディだ。病院内で本来噛み合わないはずの会話が噛み合ってしまうおかしさが絶妙。ハーヴェイを紹介しようとする主人公のセリフが、いちいちさえぎられてしまう。肖像画をアップで強調しないでじっくり笑わせる(実際どうやってあの絵を描かせられたのだろう。実は人に見えないことを承知しているダウド氏が構図を画家に説明したのか、それとも芸術家には妖精が見えるのか)。演出としては、病院内で座って医者と話すとき、ダウド氏の隣の我々には見えないハーヴェイの座っている椅子も、ちゃんとフレームに収めているのがいい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-03-24 10:03:42)
39.  遥かなる大地へ
病んだアメリカになる前の爽快なアメリカ。上下二巻本の長編小説を読んでいるようなロマン。アイルランド時代のちょっとはぐらかし気味のユーモア感覚がよかった。ジョセフとシャノン二人にとって「フリーの国アメリカ」の意味が違うの。女にとっては因習のないモダンの国ということであり、男にとっては自分の土地がフリーで手に入る国ということ。渡ってから幻滅も快哉もあるけど、それぞれのフリーランドを手にしていく。西部劇への敬意も随所に感じられ、フォードの『三悪人』のランド・レースが、カラーのトーキーで再現される。モヤモヤ解消のために、ワーッと乗り込んでいって一発殴っちゃうあたりのリズム感が面白い。オクラホマの再会なんかかなり強引なんだけど、蹄鉄一個で納得させちゃう。シャノンのお母さんが洗濯してるのも正しい。指でつまんでグルグル回すやつ。どうしようもない暴れ馬に乗るのも正しい。喧嘩は嫌いだといって殴る(三度)のも正しい。一つ一つはどうってことないけど、丁寧な印象を与えている。
[映画館(字幕)] 7点(2012-03-17 10:14:03)
40.  ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録
創造するということ自体がホラーなんだ。関わる人間が作品に取り込まれていってしまう。未知の領域に入り、得体の知れないものが膨らんでくる。そして現実が映画の中に吸い取られていってしまう。コッポラはカーツに、マーチン・シーンはウィラードに、限りなく近づいていく。ドロドロになってるマーチンのシーンなぞ、映画の場面を越えてもろにベトナム戦争がダブってくる。本物の虎(一週間エサやってないんだ)をけしかけられたフレデリック・フォレスト。実際のゲリラ討滅に帰っていってしまうヘリコプター。デブデブになって撮影現場にやってくるマーロン・ブランド。収拾のつけようがなくなっていくエンディング。M・ブランドをデニス・ホッパーと対決させようか、いやいやそれこそどうしようもなくなってしまう、などと、何とか結論めいた方向を探るも、作品自体がそれを拒んでしまう(たぶん物語としてだけなら、ウィラードがカーツを殺して新しい王になる、ってのが一番納まりがいいように思うが、その納まりのよさを作品自体が承認してくれないんだ)。つまりこれは小説なら「未完」となって初めて落ち着く作品だったのだな。ときどき映画では、本来未完となるべき、とめどなく膨らんで収拾がつかなくなってしまう怪作が誕生し、ガンスの『ナポレオン』とかシュトロハイムの『愚なる妻』とか、不気味に映画史の中で輝いている。『地獄の黙示録』もそれに連なる赤色巨星となった一本なんだろう。没になったフランス植民地シーンに興味をそそられたが、それは後に完全版によって目にすることが出来た。コッポラが何度も何度も「俺の金で作ってる」って言うのは、あの国ではプロデューサーの力が強いんでしょうな。面白いのはこの『ハート・オブ・ダークネス』という映画、監督が妻を退屈させないぐらいのつもりで始めさせたのが、だんだんと夫の狂気を記録する姿勢に腰が入ってきてしまうところ。こっそり録音までして。まったくフィルムというやつは、関わる全員を狂わせていく。
[映画館(字幕)] 7点(2012-03-16 10:13:55)
000.00%
100.00%
200.00%
320.09%
4331.41%
52279.72%
691439.13%
773931.64%
834314.68%
9682.91%
10100.43%

全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS