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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  羊の木
何の変哲もない寂れた港町を舞台に、主人公の心象にまとわりつくような「疑心」が、“六者六様”に姿を変えて終始渦巻く。 信じることは罪で、愚かなことなのか。拭い去れない疑心暗鬼の渦に放り込まれた平凡な主人公の平凡な“感覚”は、そのままストレートに我々観客の心象と重なり、彼と同様に疑心と恐れに押しつぶされそうになる。  観終わって振り返ったならば、非常に地味で表面的には色の薄いサスペンス映画だった。 だがしかし、その色の薄さはあくまでも表層的なものであり、薄皮一枚のすぐ奥には、様々な色が深く入り混じったような“黒”がべっとりと塗りたくられていた。  ただ、だからと言ってこの映画は暗く陰鬱なわけではまったくなく、むしろカラッと乾いていて、時にコメディさえも携えている。 それはこの映画がまさしく、おぞましくも滑稽な「人間」そのものの深淵を描いていることの証明であり、べっとりと塗りたくられた黒色は、よく見れば見るほど色々な「色」を垣間見せる。  吉田大八監督の映画話法は益々冴え渡っており、堂々と、おかしな映画世界を見せつけてくる。 「面白い映画」とはまさにそういうものであり、「流石」の一言に尽きる。  出演する俳優たちもみな素晴らしい。 “6人の元殺人犯”を演じた俳優たちは、見事に六様の“曲者”ぶりを放っていたが、中でも特筆すべきは、優香のエロさと、松田龍平の禍々しさだろう。 両者とも自らの内なる怪物のような欲望に抗いきれずに苦悩しつつも、ついには享受し、神か悪魔の如き達観した眼差しが印象的だった。 そういった曲者たちに対峙する凡庸な主人公を演じた錦戸亮は、アイドル俳優としてはある意味異質な“輝きの薄い存在感”が特徴的で、これはまた素晴らしかったと思う。  吉田大八監督作品らしい突き抜けた暴走ぶりは今作のラストにおいても顕在で、このリアリティラインに対してのアンチテーゼが、この映画のテーマを際立たせ、荒んだ現実社会に対して大きな疑問符を突きつけているようだった。  「信じることは罪か?」 今この世界で、その問いに完璧に答えられる人などいるのだろうか。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-11-02 15:30:15)
2.  The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ
何とも言えぬ後味。感情の深い部分にねっとりとへばりつくような余韻も残しつつ、潔さも感じる。 監督はソフィア・コッポラ。そう、彼女の映画はいつだって痛々しいほどに、潔い。  南北戦争の最中、負傷し南部の森の中を彷徨う北軍兵士の男が、自給自足の暮らしを営む女学院にたどり着く。女性の園に突如として現れた異分子(=男性)をめぐり、恐怖と、疑心と、抑えきれない欲望が渦巻く。 序盤から、ソフィア・コッポラらしい繊細かつ艶めかしい女性描写が際立っている。 森の中で鼻歌交じりに“キノコ”採取に勤しむ少女の描写からはじまり、溢れ出る欲情を抑え込みながら負傷兵の体を丹念に拭く校長(ニコール・キッドマン)、鬱積した人生からの解放を望む教師(キルスティン・ダンスト)、早熟で積極的な少女(エル・ファニング)、一人ひとりの女性の押し隠してきた感情が徐々に確実に露わになっていく様が、丁寧に描き出される。  この映画を「潔い」と感じたのは、まさにその女性たちの感情の変化に焦点を絞り、他の要素を極力排除していることだ。 舞台となる女学院の背景や、負傷兵の人物像については、敢えて表面的な表現に留め、不要なドラマ性を避けているように見えた。 そうすることで、女性たち個々人の人物像と感情が、シンプルに際立っていたのだと思う。  恐怖と疑心を経て、女性たちはときめき、欲情し、葛藤と嫉妬が次第に憎悪へと変遷していく。 その感情の流れのみに焦点をあて、没入していくことが、この映画で堪能すべき要素であり、この映画世界の魅力であろう。  今作は、1971年公開の「白い肌の異常な夜」のリメイクとのこと。同作が主演のクリント・イーストウッドが演じた負傷兵(男性)の目線で描き出されたのに対し、今作は女学院の面々の目線から描き出したことで、リメイクの価値、改変の価値を高めたのだと思う。 最初からソフィア・コッポラ自身が主導した企画だったのだと思うが、極めて的確なチョイスだったと思える。
[DVD(字幕)] 8点(2018-11-29 23:27:56)
3.  響 HIBIKI
今年、36歳にして初めて“アイドル”にハマってしまった。 アイドルという存在そのものに対しては、軽んじているつもりはなく、むしろ広義の意味の“エンターテイメント”としてリスペクトしている。 ただ、“モーニング娘。”も、“AKB48”も、興味がなかったわけではないけれど、没頭するなんてことはなかった。 が、今現在、「欅坂46」には絶賛没頭中である。このアイドルグループが表現するエンターテイメント性は、少なくとも僕の中では、エポックメイキングなものとなっている。  その特異なアイドルグループの中でも、特に異彩を放ち続けている存在が、「平手友梨奈」である。 つまるところ、今作は、個人的にはジャストなタイミングでの、平手友梨奈の初主演映画というわけである。  結論から言うと、この映画は、れっきとした“アイドル映画”として仕上がっている。と、思う。  前述の通り、アイドルはもちろん、アイドル映画というジャンルについても揶揄するつもりは毛頭ない。 往年の、薬師丸ひろ子、原田知世、宮沢りえらの主演映画はもちろん、現在に至るまでアイドル映画の忘れ難き名作は山のようにある。 今作も、その系譜の中に確実に記されるであろう。平手友梨奈というアイドルの“現在地点”を切り取った作品であり、その「価値」は大きい。  主人公「響」の強烈なキャラクター性と、平手友梨奈のアイドルとしての特異性も、奇妙なまでに合致していたと思う。 ただそこに存在しているだけで醸し出される“異彩”と、故に生じる周囲の人間関係と社会における“不協和音”的な存在性は、この二人の少女の間で発生したシンクロニシティのようにも感じた。 17歳の平手友梨奈が、「響」を演じたことはまさに必然的なことだったろうと思える。  欅坂46のファンとして、そして平手友梨奈のファンとして、この映画のバランスは極めて絶妙で、満足に足るものだったことは間違いない。 が、しかし、映画ファンとしてはどうだったろうかと、本編が終了した瞬間にふと立ち返った。 面白い映画だったとは思った。ただし、もっと“凄い”映画にもなり得たのでないかと思わざるを得なかった。  サイレントな世界である「文学」という舞台に降り立ったバイオレントな「天才」という題材と、主人公のある種の悪魔的なヒーロー感は、アンビバレントな価値観と独自性に溢れている。 その天才のエキセントリックな言動の周囲で右往左往せざるを得ない我々凡人の生き様にこそ芳醇なドラマが生まれたのではないかと思う。 そういったドラマ性の片鱗は確かにあった。 芥川賞候補止まりの売れない作家も、傲慢な新人作家も、天才小説家の娘も、越えられない壁(=才能)を目の当たりにし、失望と絶望を超えて、己の生き方を見つめ直す風な描写は少なからずある。 ただそれらは、あまりに表面的で、残念ながら深いドラマ性を生むまでは至っていない。  「天才」の強烈な個性と、不協和音としての彼女の存在が巻き起こす社会風刺と人間模様の混沌。 それが、この映画が到達すべきポイントだったのではないかと思う。もしそれが成されていたならば、この映画自体がエポックメイキング的なエンターテイメント映画になり得た可能性は大いに感じるし、監督の狙いもそういうところだったのであろうことは垣間見える。  でも、出来なかった。その要因もまた「平手友梨奈」に尽きる。 17歳のアイドルの稀有な存在感に、監督の演出も、映画全体の在り方も、引っ張られている。 必然的に、このアイドルがそもそも放っている表現力の範疇を出ることなく、「平手友梨奈のアイドル映画」として仕上がっている、のだと思う。 それこそ、もっと天才的で破滅的な映画監督が、この作品を撮っていたならば、既存のエンターテイメントの枠を超越したとんでもない映画になっていたのではないかと、映画ファンとしての妄想は膨らむ。 しかし、もしそうなった場合、平手友梨奈自身も、現時点のアイドルとしてのガラスを割られ、表現者としての次のステージに進まざるを得なくなっただろう。 無論、それはそう遠くない将来に確実に迎えざるを得ない場面だろうけれど、それが今でなくて良かったと思う。 好意的な見方をするならば、月川翔監督も、現時点のアイドルとしての平手友梨奈の価値を鑑み、彼女の自然な在り方を優先すべきと判断したのかもしれない。  というようなことを巡らせながら、エンドロールを見始めた。 すると、この9ヶ月間聴き馴染んだ「声」がこれまたエモーショナルな歌詞を発している。主演アイドルが未公開の主題歌を歌っているということを知らなかった僕は、途端にいつもの“一言”に埋め尽くされた。 ああ、なんて“エモい”んだ。
[映画館(字幕)] 7点(2018-09-15 17:17:08)(良:1票)
4.  ヒットマンズ・ボディガード
“ニック・フューリー×デッドプール”のコンビによる殺しまくり、喋りまくりの暴走ロードムービーとくりゃ、そりゃあエキサイティングに決まっている。  ライアン・レイノルズとサミュエル・L・ジャクソンの主演コンビが、それぞれ世界屈指のボディガードとヒットマンに扮し、激しすぎる珍道中を繰り広げる。 職業柄の積もり積もった因縁を抱えた二人が、運命を共にするというプロットはありがちなネタではあるけれど、ノリに乗っているこの二人のスター俳優が躍動することで、押しも押されもせぬ王道的なコメディアクションに仕上がっている。  「マザー○ァッカー!」の連呼や、“デッドプール風”の一人語りなど、両俳優お決まりのメタ要素も随所に散りばめられ、細部の小笑いから大迫力のアクションシーンに至るまで、この種のエンターテイメントとしてのバランスも非常に良い。 監督を務めているのは、「エクスペンダブルズ3」の監督に抜擢され、シルヴェスター・スタローン、メル・ギブソンらハリウッドきっての豪傑共を纏め上げたパトリック・ヒューズ。あの濃くて熱苦しい映画の後だけあって、今作では極めて手際よく求められた仕事をこなしている。  久しぶりに完全なる悪役としてキャスティングされているゲイリー・オールドマンの極悪ぶりも、映画ファンとしては嬉しいポイントだった。  こんなドル箱企画を、全米公開から間髪入れずに全世界ネット配信でリリースするNetflixの存在性は、いよいよ映画業界の根本的な在り方を一変させてしまいそうだ。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-09-10 00:57:12)(良:1票)
5.  ビフォア・ミッドナイト
今年、35歳、結婚7年目、二児の父親。  紛れも無い「18年」という時間の中で、奇跡のように美しい“出会い”と“再会”を経て、ともに人生を歩んできた男女の様を描いた本作を観て、言うまでもなく、身につまされ、“辛辣な時間”を耐え忍んだことは確かだ。 きっと「夫婦」という生き方を経験している殆どすべての男女が、多かれ少なかれ同じような時間を経てきていると思う。 それは、世界中で、日々繰り返されている、あまりにありふれた男女の「現実」だ。  同じ監督が、同じ俳優二人と、物語内と同じ時間経過の中で映し出してきた稀有な映画シリーズの第三作目。 「ウィーンの夜明け」と「パリの夕暮れ」を経て、ついに結ばれた二人の「9年後」。 この奇跡的な三部作を観終えた人の多くは、“時の残酷さ”をひしひしと、いやひりひりと感じることだろう。 それは間違ってはいない。時間はいつだって残酷だ。 主演俳優の顔に刻まれた皺の数と、主演女優の少し垂れた乳房は、そのことをあまりに雄弁に物語っている。  ロマンティックな“夜明け”と“夕暮れ”で結ばれた二人も、時が経ち、子どもが生まれ、世界中のどこにでもいる“普通”の夫婦となった。 そこに映し出されていたのは、見紛うことなき「倦怠期」。 そして、日常の中で密かに孕み、着実に育み続けてきた双方の鬱積が、休暇中のギリシャの地で不意に弾け、二人を失望で埋め尽くしていく。  ああ、あんなにもロマンティックな時間を経てきた二人でも、こういう夫婦像にたどり着いてしまうのか……。  彼らの18年間を追ってきた観客は、彼らと同様に失望に苛まれるかもしれない。 けれど、それと同時に、18年というリアルな時間経てきたからこその「人間味」と、それに伴う人生の「価値」を感じることが出来る。 彼らの大いなる“失望”は、出会って18年、共に人生を歩み始めて9年という「時間」があったからこそ、“辿り着いた”ものだということに気づく。  泥沼の夫婦喧嘩の果てに、彼らはお互いに対して心底失望する。 じゃあ聞くが、9年前に恋が成就しなければ幸せだったのか?そもそも18年前に出会わなければ幸せだったのか?  いや、違う。  はるか昔のときめきも、結ばれ子を授かった多幸感も、セックスの恍惚も物足りなさも、互いに対しての尊敬も失望も、ぜんぶひっくるめて、もはや二人の人生であり、愛の形なのだと思える。 そして、その事実は、たとえもしこの先二人が離別してしまったとて消え去りはしない。  前二作と同様に、本作のラストシーンでも「結論」は映し出されない。 二人の間に生じた問題は何も解決されておらず、溝は最大限に広がったまま、夜は更けていく。 けれど、不思議とそこには“眩さ”を感じることができる。 その眩さの正体が一体何なのか。35歳の僕には明確に説明することができない。 ただ、この二人の18年分を見てきたけれど、この夜更け前の二人が一番好きだ。ということは断言できる。   主演のイーサン・ホークとジュリー・デルピー、そして監督のリチャード・リンクレイターの三者によって織りなされる「会話」が、益々素晴らしい。 前二作と変わらず、他愛なく自然な会話シーンのみによって映画は構成されている。 ただし、リアルな時の重なりとともに、一つ一つのやり取りが、より自然な味わい深さを携えている。 それは時に滑稽で、時に愚かしく、時に恐ろしい。  会話が互いを傷つけ、会話が溝を深めていく。 けれど、遠ざかっていく彼らをつなぎ留めたのもまた会話だった。 これが「台詞」であることが、まったくもって信じられない。   また「9年後」があるのだろうか。 物凄く気になるし、物凄く観たいけれど、いよいよこの先を見ることが怖すぎる気もする。 彼らの心持ちが幸福であれ不幸であれ、そこには“悲しみ”の予感がつきまとうように思う。 それが「時間」というものの宿命だと思うから。 その様を心して観られるように、自分自身が人間として成熟していかなければならないとも思う。   “タイムマシン”でやってきたジェシーが読んだ手紙の通りに、南ペロポネソスの夜が“最高の夜”になるであろうことは、喧嘩とセックスを繰り返す世界中の夫婦が、深く納得するところだろう。 何だかんだで、そういうことが分かるようになる人生は、やっぱり悪くない。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2016-06-26 22:21:44)
6.  ヒーローマニア -生活-
原作は福満しげゆきの数少ないストーリー漫画の一つ「生活」。 さすがにそのままのタイトルでは、プロモーションにおいての危惧があったのだろうけれど、“ヒーローマニア”という合っているようで実は本質を履き違えたタイトル改変をしてしまっていることが、この映画化のマイナス要因の大部分を占めているように思う。  原作が漫画にしろ、小説にしろ、映画化に際しての改変はつきものだけれど、数多くの映画化作品と同様に、今作についても改変箇所の多くは、尽く失敗していると言わざるをえない。 ただし、映画の製作側が改変をしたくなる気持ちも、今作の場合は理解できる。 僕自身原作の大ファンだけれども、それでもこの原作のストーリーテリングが“雑”であることは否定出来ない。 勿論、その独特の雑さによる荒涼感と無気力感こそが、福満しげゆきの漫画の魅力なわけだが、結構な豪華キャストを揃えた商業映画として製作する以上は、諸々の設定やストーリーを補正することは避けられなかったのだろうと思う。(それが成功しているか否かは別にして)   キャスティングは、ほぼ完璧だった。 キャラクター各々の適性的にも、ヒーロー映画としての見栄え的にも、商業映画としての集客力的にも、極めてバランスは良く、原作ファンとしても満足に足るものだった。 特に良かったのは、原作者自身を投影したキャラクターでもある“土志田”役の窪田正孝と、ヒロイン役の小松菜奈。 両者とも、原作に通じる小市民の内に秘めた怒りと闇をキャラクターとして表現できていたと思う。 小松菜奈のキャラクター設定は、原作とは大いに乖離していたけれど、相変わらず“悪魔的”にカワイイので許すほかない。  一方で、このストーリーのキモとなるべき“アクション描写”も、あまりにも稚拙だった。 せめてアクションシーンに、この漫画らしい馬鹿馬鹿しさとフレッシュさを再現できていれば、ストーリー展開のお粗末さは充分にカバーできていたと思う。   原作漫画を数年前に初めて読んだ瞬間から、映画化を夢想したファンとしては、トータル的には不満足な映画に仕上がっていた。 けれども、だ。 この映画化の企画そのものに対しての感謝は尽きない。そして、予想外に豪華で的確なキャスティングからも、失敗しているとはいえ明確な意図をもった改変からも、真剣にこの映画を作ろうという気概だけは感じることができた。  原作漫画のキャラクターが登場するエンドロールを見せられては、一方的に怒るわけにはいかなかった。
[映画館(邦画)] 5点(2016-05-16 23:06:17)
7.  ビッグ・アイズ
あまり気持ちのいい映画ではなかった。というのが正直な感想。 「実話」だからこその、決して避けられない登場人物たちの人生における“短絡さ”が、何だか無性に居心地の悪さを感じさせる映画だった。  「創作」に携わる者のジレンマによる闇の深さは、当事者にしか分からない。 しかし、その闇を抱えるのは、必ずしも“真の作り手”だけのものではないということ。 何も生み出すことが出来ない者が犯した愚かな罪。 “夫”は間違いなくロクデナシで、同情の余地はないけれど、彼がもたらした「功罪」により、“ビッグ・アイズ”という芸術が世に広まったことも事実。  彼の「悪意」が一体どの段階から存在していたのか、それは実際のところ誰にもわからない。 どこかのタイミングで何かが間違っていなければ、この夫婦は、もっと幸福な道を共に歩めたのかもしれないし、そうではないかもしれない。  子どもの大きな瞳で見据えられ続けた苦悩の日々は、観ている側としても苦しいものがあった。  そのリアルな苦しさを抱えた人間の無様さこそが、ティム・バートンが珍しく実話を題材にしたこの映画で描きたかったことだろうし、そういう意味ではしっかりとティム・バートンらしい映画に仕上がっていると言えるのだとは思う。 でも、この監督の一ファンとしては、これまでの作品群においてどんなにダークな世界観を描いたとしてもあり続けた小気味よさが無かった今作が、映画として単純に楽しくなかった。
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2015-11-13 07:30:58)
8.  百円の恋
「最高」だ。何が?って、「安藤サクラ」に決まってる。  “どん底”が住処の女。ヤケクソで始めた一人暮らしから、悲惨な処女喪失と失恋が更に追い打ちをかける。 鬱積という鬱積に呑み込まれそうになったとき、彼女はそれを振り払うように、ひたすらに拳を振るい始める。 振るう拳の速度が上がるほどに、彼女は生気を取り戻し、美しくなっていくようだった。  見紛うことなき“サイテー”の状態からの、ささやかだけれど格好良すぎる“ワンス・アゲイン”。 こんな「女性像」を体現出来るのは、いまやこの女優をおいて他にいるわけがない!と、心底納得させられる。  2年前に「愛のむきだし」と「サイタマノラッパー2」を観て以来、安藤サクラという女優の“本物感”はひしひしと感じていたけれど、どうやらここにきてこの女優はとんでもない領域に達してきているようだ。 爆笑問題の太田光が激賞していたように、「バケモノ」という表現が相応しい。  “汚れる”ことが出来る良い女優は他にも沢山いる。 でも、醜いまでに汚れると同時に、可笑しさと、愛くるしさと、格好良さ、さらにはエロティシズムまでも孕ませることが出来る女優は唯一無二だ。 今作ではその上に、驚愕の身体能力まで見せつけてくる。その存在感は他のどの女優にも当てはまらない。まさに「バケモノ」だ。  この映画は、キャッチコピーの通りに呆れる程に痛い恋愛映画であり、遅すぎる青春映画であり、過去最高級のボクシング映画である。 ただ、それらを全部ひっくるめて、最高の“安藤サクラ映画”と表すのが最も相応しかろう。
[映画館(邦画)] 9点(2015-01-17 21:38:46)(良:2票)
9.  ピラニア リターンズ 《ネタバレ》 
馬鹿馬鹿しいほどに悪趣味なB級モンスター映画であることは明らかなのに、想定外のクオリティーを見せ、世の好事家たちを興奮のるつぼに叩き込んだ前作はサイコーだった。 続編の製作が早々に決まったということで期待はあるにはあったが、前作とは監督が変わってしまった時点で、この続編がB級以下の映画に成り下がってしまうことはある程度予想できた。 そもそもが“お下劣上等!”のスタンスで臨んでいる映画なのだから、間違っても真っ当な娯楽映画的なクオリティーを求めるべきではないのだ。  そうやってハードルを十二分に下げ切って、ある意味開き直って鑑賞に至れれば、まだまだ楽しめる映画だとは思う。 前作に対してピラニアの恐ろしさも、被害の規模も明らかに縮小してしまっているが、その分というかなんというか、エロさと、ナンセンスなユーモアは、過剰な程に増幅している。 前作よりもユーモアとしての程度は遥かに低く、映画としての良さには全く繋がっていないが、馬鹿馬鹿しさと悪趣味さは、より突っ切っている。  「ナイトライダー」のデヴィッド・ハッセルホフが本人役の自虐的キャラクターとして登場するくだりや、彼と絡む“坊や”の顛末などは、無意味さと悪趣味さが脇目も振らずに突っ走っているようで、それに対して悪態をつく方が馬鹿らしく思え、逆に印象深い。  “悪役”と言えるキャラクターが二人登場するが、両者とも“ピラニア”に襲われるのではないのに誰よりも痛々しい死に方をするのが、この映画世界のブラック性を象徴しているようで良かった。  間違いなくクソ映画だけれど、鼻糞でもほじりながら無意味に馬鹿馬鹿しいというか、はっきり「バカ」な展開と、“おっぱい”を楽しめば、それで充分だろう。 個人的には、前作に続きクリストファー・ロイドの健在ぶりを確認出来ただけで良し。
[DVD(字幕)] 5点(2013-03-09 00:50:23)
10.  ヒューゴの不思議な発明
映画の冒頭、主人公の少年を追ったカメラが縦横無尽に動き回りながら、パリの中心の巨大なターミナル内のめくるめくような舞台の“裏表”が映し出される。 この映像そのものが精密な機械仕掛けを表現しているようで、見ているだけで楽しく、「どうやって撮っているんだろう」とただただ惚れ惚れしてしまった。 「HUGO」というタイトルが映し出されるまでのその冒頭数分間の映像世界が、この映画の立ち位置と価値を如実に表していると思った。  その価値とは即ち、“夢を形にする”という「映画」が元来持ち続けた役割そのものだと思う。 この映画における最大の“映像的”な見せ場が、少年の夢だったという構成も、そのことを端的に表している要素だろう。  今年のアカデミー賞において本命争いを繰り広げた作品ではあるが、映画として“面白味”が大きいとは言えないと思う。 “子供向け”と言える程の娯楽性があるわけでもなければ、“大人向け”と言える程のドラマ性や人間描写の深みがあるわけでもない。 時に過剰に思える程に懐古主義的だし、その割に核となるテーマの描かれ方は中途半端に思えた。  ただし、世界中の多くの人たちと同様に映画が好きで好きでたまらない以上、僕にこの映画を無下に否定することなんてできるわけがなく、結局愛おしく思わずにはいられない。   この映画は、描かれる人物の物語をスクリーンに対して客観的に観て同調し感動するものではないのだと思う。 冒頭のシーンに誘われるままに、主人公の少年と共にあのターミナルの場所に立ち、彼らとともにこの映画の世界に存在するべき映画なのだと思った。  つまりは、結果的に面白く思おうが思わなかろうが、映画館の大スクリーンで観なければ意味がない映画で、全編に渡ってその効果があることが疑わしくとも、3Dで"体感”すべき映画だったのだろう。 この映画の存在を知った時から懐疑的だったマーティン・スコセッシが3Dで映画を撮らなければならなかった意味がようやく分かった気がする。  映画の内容にそぐわない邦題には、毎度のことながらほとほと呆れる。 ただこの映画が、「映画」という世にも不思議な発明を描いた作品であることは間違いなく、「面白い!」とは決して断言できないけれど、映画ファンとしては可愛らしくて思えて仕方なく、愛着を持たずにはいられない。 そういう不思議な映画だと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2012-03-17 16:44:51)(良:1票)
11.  ヒックとドラゴン
“ドラゴン”がメインで登場するファンタジー映画にあまり良作は無い。というのが、個人的な見解だったこともあり、この映画が劇場公開されていた際も、頻繁にTVCMは見ていた気がするが、完全にスルーしていた。 ドラゴンと少年が出会い、親交を深め、感動を紡ぎ出す……そういうストーリーが容易に想像でき、そこに目新しさなどあるわけがないと思った。  実際映し出されるストーリーの大筋は、あくまで王道的でベタだった。正直、斬新な展開などないのだけれど、そこには映画としての絶対的な“巧さ”が溢れている。 どこかで観たことがある物語であることは確かだが、その圧倒的な巧さが問答無用に感動を生み、観たことの無い物語に初めて触れたような錯覚さえ生んでいる。  落ちこぼれのバイキングの少年がドラゴンとの交流により、精神的に成長し、自分たちが進むべき道筋を見出していく。その様は表面的にはとても分かりやすく、世界中の子供たちが楽しめる物語を構築している。 ただ、それと同時に、時に非常に辛辣な現実描写もきっちりと備えている。  そもそも、一族の中で「不適合者」と烙印を押されている主人公は、リーダーの息子でありながらメインストリートとは明らかに区別されたポジションに追いやられている。 それは、どれほど意欲があろうとも最終的には能力に秀でたものが優遇されるという現実社会の「常識」を表していると思う。 また、決死の覚悟で臨んだ勇気ある行為においては、そのリスキーさに対してしっかりと「代償」が主人公に与えられる。 その「代償」は子供向けのアニメ映画としては驚くくらいに悲劇的なことだけれど、それを映画世界の基本設定とバイキングというキャラクター設定を生かして、ある意味英雄的活躍に対する「勲章」という側面を併せ持たせており、そういう部分も非常に巧いと思った。  とにもかくにも、少年とドラゴンが互いに信頼を築き、少年を背に乗せたドラゴンが空高く飛翔する様に身震いし、涙が溢れた時点で、この映画の価値は揺るがないと思った。  基本的には子供向けの映画であることは間違いないし、出来るだけ多くの子供たちに観てほしい映画だと思う。 そして、その子供たちが大人になって観ても隅から隅まで楽しめる映画であることも、また間違いない。
[ブルーレイ(吹替)] 8点(2012-02-16 23:57:08)(良:2票)
12.  ピラニア 3D
ラストシーン、いや“ラストカット”を目にした瞬間、この映画は絶対的に低俗で馬鹿馬鹿しい“愛すべきB級モンスター映画”の一つとして、僕の脳裏に住みつくことと相成った。  今さら「ピラニア」なんてタイトルのモンスターパニック映画のパッケージを見たところで、普通なら食指は伸びない。 ジャケットのイラストの仰々しさだけに注力したC級以下映画だろうとスルーすることが定石である。 しかし、某ラジオ番組のPodcastでやけに評価が高かったことで記憶に残り、陳列されていたパッケージを手に取った。   湖で繰り広げられるフェスタで浮かれまくり、乳と尻を振りまくる若者たちの“大群”が、古生代の凶暴過ぎるピラニアの“大群”に問答無用で襲撃され、お色気満載のボディがおびただしい“肉塊”へと無惨に変貌してしまうという、詰まるところ悪趣味極まりない映画である。  でも、エロくて面白いんだからしょうがない。   ビッグネームとしては、クリストファー•ロイドとリチャード•ドレイファスがキャスティングされいる。 両者ともちょい役だけれど、その配役にも映画ファンとしては実に軽妙なセンスを感じ堪らなかった。
[DVD(字幕)] 8点(2011-12-27 01:01:07)(良:2票)
13.  127時間 《ネタバレ》 
映画を観終わり、映画館の外に出たとき、いつもと同じ風景が少し違って見えることがある。 歩く感触や呼吸の感覚までもが、映画を観る前と後では何か違うと感じる。 「映画を観る」ということは、人生における一つの“経験”であり、新たな経験を得たことで、自分自身の世界観に影響を及ぼす。 それが、良い映画を観れたことの最大の価値だと思う。  今日観た映画は、まさにその「価値」を与えてくれる作品だったと思う。  自身に対する少々過剰な自信から周囲の人間との関わりに執着してこなかった主人公。何もかもがウマくいくと信じて疑わなかった人生が一転、文字通りに奈落に落ち込んでいく。 突如としておとずれた人生の局面で、はじめて“自分”という人間を省みた主人公が辿り着いた心境。  この映画で描かれているものは、決して劇的なストーリーや人間模様ではない。 稀有な人生の局面に立たされた主人公に限らず、世界中のどの人間にとっても不可欠なことだったと思う。  人間として生きている自分自身の営みを客観視したとき、果たしてどれほどの人間が、その本質に揺らぎを覚えずにいられるか。 そういうことを、巧みな映画術でまっすぐに問いかけてくる。  題材自体はシンプルだ。冒険好きの男が絶体絶命の危機に陥り、奇蹟的に生還するという話だ。 重要なのは、その出来事自体に焦点を当てるのではなく、その危機の中で“生きる”人間の様々な感情を真っ正面から描き切っていることだ。 一つ間違えば極めて単調になってしまう映画世界を、監督は最高の映画術でつむぎ出し、主演俳優はその中で見事に息づいてみせた。   命を削り、大変な損失をして、「最悪」から抜け出した主人公が口にした言葉は、「Thank you…」という一言だった。  自分に巻き起こった全てのことが、自分に与えられるべき運命であったということを認め、ただひたすらに生き抜いた人間の脆さと強さに感動した。
[映画館(字幕)] 9点(2011-09-04 22:48:40)(良:3票)
14.  白夜行 《ネタバレ》 
東野圭吾の原作を読んだのは、2年前になる。ハードカバーの単行本は、ページが2段組み構成の500ページを越える長い長い小説だった。 純粋なミステリーというよりは、二人の男女の過酷な運命と、隠された真相に彩られた、壮大な「悲劇」だった。  数年前に放映されたテレビドラマは、まったく観ていなかったが、再び映像化するのならば、「映画」として、潔く過剰なまでに色濃く創り上げて欲しいと思っていた。  少し地味目なキャストと、新鋭の監督の起用に対して、いささか不安はあった。  しかし、導入部を観た時点で、不安は期待に転じた。  殺人事件を発見し逃げ惑う子供たちの“ぶさいくさ”、その表情をタイトルバックにする潔さ。 刑事や容疑者たちのどこかうらぶれた表情を画面いっぱいに映し出し、殺人事件そのものよりも、事件が起きた環境とその人間模様の異様さを表す演出には、期待した“色濃さ”があった。  地味目なキャスティングも、この物語の本質である“人間の不確かさ”を表現するための必要な手段だったのだろうと思った。  とても満足感を伴う映画だったと思うのだが、最後の最後、物語の締め方には不満が残る。  主人公の二人、雪穂と亮司の隠し続けられてきた心と心の“つながり”を、もっとしっかり描くべきだったと思う。 最後の最後まで亮司との関わりを否定し貫き通す雪穂の「決意」は、絶対に描くべき要素だが、映画ではそれのみが描かれるため、最終的に雪穂が亮司を“切り捨てた”という印象が強く残ってしまった。  亮司が最後に船越英一郎演じる笹垣と対峙し、自らの積み重ねた行為に対して”悔恨”を垣間見せる様も描くべきではなかった。  そして、最後の最後に船越に語らせすぎた。(サスペンスの帝王の“顔”を覗かせてしまった……)  20年に及ぶ悲劇の中で、彼らが繰り広げた罪と罰、そこには常軌を逸した「覚悟」と 揺るぎない「愛」があったはずだ。 原作の空気感を踏襲した上質な切り口をみせてくれた映画だっただけに、もっとも肝となるべきその「覚悟」と「愛」が描き切れなかったことは、残念。 
[映画館(邦画)] 6点(2011-02-13 11:22:43)(良:1票)
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