421. ナイスガイズ!
ライアン・ゴズリング&ラッセル・クロウの主演コンビのキャラクター性はユニーク。 ライアン・ゴズリングのクソ野郎ぶり、ラッセル・クロウの無頼漢ぶり、それぞれがこれまでの数多の主演映画で見せてこなかった“顔”を喜々として演じており、愛すべきキャラクター像を表現している。 そして、彼らのキャラクターとしての立ち位置も、過去の“バディもの”映画にはないスタンスで、絶妙なバランスを見せてくれている。 バディものとして世の好事家たちから好評を得た要素は理解できる。 けれど、ノワール調のストーリーテリングがとっ散らかっており、語り口があまり巧くない。 加えて、主演コンビが結束するに至るプロセスも今ひとつ曖昧で、軽妙な掛け合いに乗り切れなかったというのが、正直なところ。 結果彼らは“チーム”となるわけだが、次回作製作に向けての期待感や高揚感が、個人的に殆ど得られなかったことは、この手の娯楽映画として痛い。 オーストラリア出身の若手女優アンガーリー・ライス演じる娘ちゃんは大変キュートだったけれど。 主人公コンビは勿論、敵役、脇役含めて登場人物たちのキャラクター性は総じて魅力的だっただけに、映画全体のチグハグ感がつくづく残念な仕上がりだった。 [インターネット(字幕)] 5点(2018-01-08 15:02:55)(良:1票) |
422. 女囚701号 さそり
「梶芽衣子全曲集」というアルバムを持っている。 クエンティン・タランティーノの「キル・ビル」公開当時に、劇中とエンディングで使用された「修羅の花」と「怨み節」に聞き惚れて即刻入手したものだ。 「修羅の花」が主題歌の梶芽衣子主演映画「修羅雪姫(1973)」は、「キル・ビル」公開直後に観ていたのだけれど、「怨み節」が主題歌の今作は今まで観られていなかった。 “オリジナル”映画での「怨み節」をようやく聴けて、そのことが先ず感慨深い。 「修羅雪姫」を観た時の衝撃も物凄いものだったが、ほとばしる女の情念そのものにおいては、今作もまたとんでもない。 殆ど主演女優「梶芽衣子」の眼力だけで押し通す見紛うことなきトンデモ映画ぶりに呆然とするしかない。 徹頭徹尾ためらいも遠慮もなければモラルも何もあったもんじゃない。コレが人気映画としてシリーズ化されるわけだから、当時の“ニッポン”はどうかしている。 改めて、クエンティン・タランティーノが惚れ込むわけだと思い知った。 あらゆる意味で、このカルト映画の「再現」は不可能だろう。 その理由は、現代社会のモラルや常識が今作のあらゆる表現を許容しないこともあるが、それよりも何よりも、この時代の「梶芽衣子」という存在が唯一無二だからということに他ならない。 [インターネット(邦画)] 6点(2018-01-06 01:20:08) |
423. LUPIN THE IIIRD 血煙の石川五ェ門
「峰不二子という女」、「次元大介の墓標」に続く「Lupin the Third」シリーズ第三弾。 「血煙の石川五エ門」というタイトルの通り殺陣場面の血生臭さは、一般的なアニメとしては度を超えている。「新しいルパン三世」を魅せようとするこの製作チームの“気概”は相変わらずだ。 だがしかし、「峰不二子~」の常軌を逸したインモラルに狂わされ、「次元大介~」の極上のハードボイルドに陶酔し、骨の髄までこのシリーズの大ファンとなっている者としては、正直、この血生臭さ加減のみでは物足りなかった。 1時間に満たない尺の長さではストーリー的な物足りなさが生じてしまうことは致し方ない。 前作「次元大介~」もストーリー性自体は極めてコンパクトだった。ただそれでも、ラストの一騎打ち“一発”で、次元大介というキャラクターのダンディズムを最大限に表現して魅せたことが素晴らしかった。 今作においてもファンとして求めていたことはまさにそれだった。 このタイトルを掲げる以上は、次元大介と人気を二分する“石川五ェ門”というキャラクターが持つ本質的な魅力を、どこまで振り切って描き出してくれるのかということ。 前述の通り、“斬鉄剣”が敵を切り裂く描写は、過去の映画シリーズにおけるマンガ的な表現とは一線を画し、壮絶に血生臭い。 ただし、目新しさはそれだけだったとも言える。 今作の石川五ェ門は文字通り致命的な迄に痛めつけられ瀕死の状態に陥りながら、極限の状態で敵を射止めるけれど、その描写がどこか俯瞰的なままに見えて、痛みが痛みとして伝わってこない。 それは詰まるところ、「峰不二子」や「次元大介」と比べて、「石川五ェ門」というキャラクターの魅力が引き出しきれていないことに他ならない。 「開眼」する前のもっとギラついていて、危うくて、脆い「侍」が、痛みと悟りを経て「石川五ェ門」と成る姿が観たかった。 あと“ついで”に苦言を呈するならば、このシリーズならではのエロティシズムが皆無だったことも至極残念。 それは即ち峰不二子の「露出不足」が甚だしいということ。 折角、日本のヤクザ文化と時代劇文化が全面に出ている作品世界なのだから、さらしを巻いた女賭博師なり、淫靡な遊女なり、破廉恥な春画なり、前作に登場した「“変態”機械仕掛け人形」並みの和風アバンギャルド描写はいくらでも用意できた筈だ。 せめて、檜風呂での入浴シーンくらいは見せろよ!とついつい声を荒げてしまう。 まあでもね、このシリーズに対する期待感は変わらない。暗躍する“あの方”と再び相見まえる「ルパン三世」長編劇場版の「リメイク」を心待ちにしている。 [インターネット(邦画)] 5点(2018-01-03 23:43:05) |
424. カーズ
ずうっと前に某有料BSチャンネルで放送されたものを録画していて、自分の子どもたちと一緒に観ようと、今まで何度も「再生」はしてみたのだけれど、現時点では彼らの好みに合っていないらしく、最後まで観通せないまま頓挫する日々が続いていた。 今年の正月三が日の最終日の午後、休み疲れが最高潮の中での子守の傍ら幾度目かの再生をして、ようやく最後まで見終えることができた。 ストーリーは、「王道」と言えばその通りだが、ベタ中のベタ。何度も途中まで観ていたことも影響し、ストーリーの顛末はほぼ寸分の狂い無く想定通りだった。 己の能力に過信し調子こいている“青い”主人公が、ふとした出会いにより、物事の真価を知り、成長を遂げる。 古今東西のあらゆる青春映画、スポーツ映画で見てきたあまりにありふれたプロットである。 だがしかし、主人公が真の「勝利」を得るクライマックスのレースシーンでは当たり前の様に高揚させられ、当たり前の様に涙が出た。 「王道」をベタベタに映し出して、それでも泣かせるエンターテイメント力がすごい。 当然ながらPIXAR映画の“恐ろしい”までのクオリティーの高さは熟知しているし、この「カーズ」シリーズ以外の作品はほぼすべて観ている。そしてその殆どの映画の大ファンだ。 それなのに、なぜこの作品だけ積極的に観ようとせず、HDDの中に録りっぱなしになっていたのか。 その要因は、今作のキャラクター造形に尽きる。 あの“クルマくん”的ないかにも子供だまし風な造形を長年受け入れられなかったのだ。 勿論、PIXARが単なる子供だましなものを創り出すわけがないことは分かってはいたのだが、公開当時の「何だコレ(嘲笑)」という第一印象がしつこく残り続けていた。 今回、改めてじっくりと鑑賞してみて、10年以上前のアニメーション技術に舌を巻いた。 主人公をはじめとする「車体」の光沢の美しさとメタリック感がまず凄い。 そして、その金属体を愛らしいキャラクター(=生物)として息づかせるという「矛盾」に溢れた所業はまさに「神業」の一言に尽き、それをさも当たり前の様に映し出していることが殊更に凄すぎる。 更には、車体そのものをキャラクターとすることで、この作品が伝えるべきテーマ性と娯楽性がよりダイレクトに伝わるようにもなっている。 分かっちゃいた。分かっちゃいたけど、子供だまし風に見せて全然子供だましじゃない作品クオリティの高さが、やっぱり恐ろしい。 [CS・衛星(吹替)] 8点(2018-01-03 23:36:25) |
425. トリプルX 再起動
2002年(15年前!)の第一作目は、低迷していたアクションスター型アクション映画に一石を投じる文字通りの快作だった。 その成功の要因は、やはり主演のヴィン・ディーゼルという俳優の特異性にあったと思う。 「ワイルド・スピード」シリーズが世界的大ヒットコンテンツとなった今となっては、もはや彼の特異性には「愛着」しかないけれど、当時はまさに売り出し中、モロに悪役面で豪腕を振り回すヴィン・ディーゼルのアンチ・ヒーローぶりは、新鮮で、エキサイティングだった。 そのヴィン・ディーゼルが降板し、代わりにアイス・キューブが主演を務めたシリーズ第二作目は未見だが、最大の見どころであった主演俳優が交代してしまっては、その苦戦ぶりは想像に難くない。 そしてその第二作からも12年の月日が過ぎ去った上でのまさかのシリーズ最新作には、当然ながら“今更感”は拭い去れない。 けれど、もはやアクションスターとしての絶対的な地位を確立したヴィン・ディーゼルが、「xXx」として復帰している以上、相応の娯楽性自体が復活していることは言うまでもない。 そして何と言ってもこの「再起動」は、競演陣が豪華だ。 サミュエル・L・ジャクソンが相変わらずのノリの良さで唯一シリーズ皆勤賞の指揮官役を喜々として怪演する。その傍らにはネイマール! アジアからは、絶好調ドニー・イェンとトニー・ジャーが参戦し、圧倒的な説得力を備えた体技の数々で、娯楽性に華を添えてくれる。 それに、コケた前作の屈辱を呑み込んだ上で再登場したアイス・キューブは、なんていいヤツなんだ!と思わずを得ない。 ストーリーテリングの目論見自体は、「ワイルド・スピード」シリーズの成功の二番煎じ狙いであることは明らかだし、サミュエル・L・ジャクソン演じる指揮官ギボンズのキャラクター性にも、“ニック・フューリー”の焼き直し感は否めない。 決して志の高い映画ではないことは間違いないが、そんなこと誰も求めていないこともまた然り。 そういう意味で、この映画を観ようとするファンが「観たいもの」をしっかりと観せてくれる作品だと思う。 [インターネット(字幕)] 6点(2017-12-24 01:22:47) |
426. スター・ウォーズ/最後のジェダイ
「型破り」だ。 これまでの「スター・ウォーズ」が培ってきた物語性、キャラクター性をはじめとするあらゆる「定型」をきっちりと踏襲するように見せて、そのすべてをぶっ壊している。 「この先はこうなるのだろうな」と、多くのSWファンが無意識レベルで認識していた予定調和を尽く覆す。 SWのヒーローはこういうものだ。SWの悪役はこういうものだ。 永い永い時間の中で培われてきた「型」を匂わせておいて、清々するほどの豪胆さで反転させるストーリーテリングには、当初困惑を禁じ得なかった。 しかし、ひたすらに展開される予定調和からの脱却を目の当たりにして、次第に「全く新しいSWを観ている!」という充足感に満たされてくる。 繰り返される光と闇の争い。その根幹に存在する“或る真理”が朧げながらも見えてくる。 それは、“スカイウォーカー”の名と血を巡る「英雄譚」であった旧シリーズでは踏み込みきれていなかった領域だ。 自分が「何者」であるかを追い求める物語性から、「何者」でもない者が果たすべきことの意味と価値を追い求める物語への転換。 “合わせ鏡”の中に映し出された存在が何だったのか? お前が現時点で「何者」であるかなど関係ない。お前はお前であり、それ以上でも以下でもない。重要なのは、今この瞬間から何を成すのかということ。 そういうことを、「最後のジェダイ」のレッスンは強く訴え、物語っている。 臆病者の心優しき脱走兵は、恐怖に対峙する勇気を持つ。 向こう見ずなエースパイロットは、軍を率いるための冷静さを得る。 出自の孤独に苛まれ、盲信的に自分自身の存在性を見失っていた主人公は、遂に本来あるべきアイデンティティを見出す。 そして、光と対するように闇に包み込まれた者もまた然り。 まるで「オズの魔法使い」のような様相も覚えつつ、新シリーズの魅力的な主要キャラクターたちの「変容」を描き出すと同時に、彼らと、この「新章」の到達点がうっすらと見えてきたように感じる。 SWのオールドファンにとって、この最新作の在り方は、あまりにショッキングで「邪道」だと拒否感を感じずにはいられないものかもしれない。 だがしかし、SWがこれからも世界のエンターテイメントの中心で“継がれていく”ことが確定した時点で、「定型」を打破することは避けては通れない必然的なプロセスだったのだと思う。 ジョージ・ルーカスという創造主が生み出したSWは、彼個人の鬱積したインサイドの結晶だったとも言え、壮大なスペースオペラの世界観とは相反して極めてパーソナルな作品だった。 だからこそ、この映画シリーズは、個々人のカルト的な憎愛も含めて、世界中の映画ファンに対して強烈な存在感を放ち続けているのだろう。 その創造主の手から離れて、新たな物語が紡ぎ出される以上、定型とインサイドの壁を打ち破り、新たな価値観を示すことこそが、この新シリーズの「意義」となる。 このハードルが高すぎるプロジェクトに挑む製作陣は、誰よりもSWを愛し、リスペクトするからこそ、「新章」を継ぎ、「意義」を生み出すことの価値を信じて疑わない。 そして、この型破りな映画が貫き、継いだことは、圧倒的に正しかったと思える。 ルーク・スカイウォーカーとレイア・オーガナに最大級の敬意を表しつつ、新しい時代(=ジェダイ)の行く先を心待ちにしたい。 [映画館(字幕)] 9点(2017-12-18 00:07:56)(良:1票) |
427. ライフ(2017)
《ネタバレ》 宇宙探索という人類の英知を集めた冒険において、地球外生命体との邂逅は未だ果たせぬ悲願と言えよう。 地球上で、数多の「課題」に困窮し、混迷する人類にとって、まだ見ぬ「生命」を見つけ出すことは、盲信的な希望として、世界中の人々がうちに秘めているのかもしれない。 常識や概念を超越した“何か”によって、「80億の馬鹿」が巣食うこの星は救われるのではないか。 そんなあまりに不確かなことに対するロマンを拭い去れない人類の滑稽で、愚かな様が、このSF映画には満ち溢れている。 ジェイク・ギレンホール、レベッカ・ファーガソン、ライアン・レイノルズ、今をときめくハリウッドスターの雁首を揃え、まさに“SF超大作!”の風体で仁王立ちするようなイントロダクションの今作。 ところが、いざ蓋を開けてみたならば、そこには粗と綻びだらけのストーリー展開が序盤から待ち受けていた。 念願の地球外生命体を発見し、喜び勇んだのも束の間、予定調和のように「最悪」の展開を突き進んでいく“お馬鹿”クルーたちのお粗末ぶりに、終始突っ込みどころは満載である。 想定していた映画世界との乖離に対し、困惑し、失望しかけるまでにそれほど時間はかからない。けれど、「ああ、なんだ」と思い直すのにも時間はかからない。 この映画の、“SF超大作!”のような風体がそもそもミスリードだったのだ。豪華なスター俳優を揃えて、“真っ当なB級SFホラー”をこの映画は貫き通している。 冒頭の船外活動を描いた“疑似”ロングテイクから、ラストの“着陸シーン”に至るまで、まるで「ゼロ・グラビティ」の“パクり”のように見せて、完全に作為的なパロディであることは明らかだ。 観終わった瞬間、その悪戯な試みに思わずほくそ笑んでしまう。 日本人としては、きっちりと存在感を放つ真田広之の立ち位置も嬉しい。 彼単独のシーンではちゃんと日本語の台詞も多く用意されていて、彼がハリウッドにおける日本人俳優としての地位を確立し、一定のリスペクトを得られていることがよく分かる。 こういう豪華過ぎるB級映画はそもそも嫌いじゃないどころか、大好物である。やっぱりスクリーンで観るべきだったと今更ながら悔やまれる。 粗と綻びだらけのストーリー展開だったが、この「着地」を見せられては、「SF」としても、「ホラー」としても最終的に「良し!」断言するしかないじゃないか。 [インターネット(字幕)] 7点(2017-12-16 01:44:16) |
428. ゲット・アウト
1967年の名作「招かれざる客」の“合わせ鏡”のような映画だった。設定や展開が似通っているように見えて、実のところその本質は“真逆”を向いている。 それはただ“ホラー映画”になっているということだけではなくて、鏡に映り込んでいる虚像の真裏に全く別の価値観と思惑が蠢いていて、それらが“フラッシュ”の瞬きと共に思いもよらぬ方向へ乱反射しているようだ。 極めて低予算の映画であることは明らかであるけれど、ありふれた「描写」を忌まわしく、恐ろしく描き出すことに長けた映画だった。 ただ男がこちらに走ってくる描写だったり、女が笑みを携えながら涙を流す描写に、今までに味わったことのない「恐怖」を植え付けている。 決して手間の掛からない“アイデア”と“視点”で「恐怖」という娯楽を紡ぎ出してみせたこの映画の在り方は率直に“凄い”。 そういう観点からは、M.ナイト・シャマランの近年の快作「ヴィジット」や「スプリット」も彷彿とさせる。と、思ったら製作者(ジェイソン・ブラム)が同一なのか。納得。 ただ、この作品の特性上、致し方ないことかもしれないが、オチを知った後にストーリーを振り返ってみたならば、強引だったり整合性に欠けている箇所が無くはない。 “白人家族”が、最終的にあんな感じで開き直るのであれば、あのように主人公を用意周到な“ハニートラップ”で誘い込む必要なんてなかったんじゃないか。実際、強引に拉致された被害者もいるわけだしね。 この手のショッキングスリラーのプロモーションは難しいところだが、予告編で重要なシーンを露わにし過ぎだったとも思う。何度か予告編を観てしまうと、真っ当な映画ファンはどうしても想像を膨らましてしまい、その分、ハードルは高まる。 欲を言えば、クライマックスにおいてもう一つ想定を超えた顛末があれば、文句なしに傑作だったと思う。 とはいえ、レイシスト(差別主義者)の愚かさを描き出すような構図に見せかけてミスリードし、実はレイシストとは全く「別物」の恐怖とおぞましさを描き出しつつ、最終的にはやはりレイシストを強烈に糾弾するこの映画のストーリーテリングはフレッシュで斬新だ。 アイデアと野心に溢れ、驚きに満ちた映画であることは間違いない。 おぞましい悪夢のような恐怖と嫌悪感が混濁し暴走する。 その前では現実世界のあからさまなレイシストさえも可愛く見えてくる。 [映画館(字幕)] 7点(2017-12-14 08:02:40) |
429. パーティで女の子に話しかけるには
もっと若い頃にこの映画が公開されていたなら、人生の何かしらを変えられてしまったかもしれない。 この作品は、そういう類いの映画だ。 勿論、年齢に関係なく、“ボーイ・ミーツ・ガール”の新たな傑作として溢れるエモーションを堪能できる映画だと思う。 ただ、この映画世界の中で、儚くも美しい短い時間を過ごす登場人物たちと歳感覚が近ければ近いほど、そのエモーションは殊更に特別なものとなり、燦然と記憶に刻まれるのではないかと思えてならない。 僕自身は、決して音楽そのものに明るくなく、当然ながら「パンク」なんて概念にも傾倒があるわけではないけれど、それでもこの映画の中の若者たちが、その“表現方法”を通じて自らのアイデンティティを確立させようとする思いはよく理解できる。 そして、性別も、種族も、環境も、常識も、文化も、死生観すらも超えて、心から愛した人と奇跡的な「共鳴」を果たしたことによるほとばしる「恍惚」が、スクリーンから溢れ出んばかりの“光”と“音”で脳に直接突き刺さる。 それはまさに、「映画」というありとあらゆる表現が入り混じった「不完全な性行為」による“オーガズム”の瞬間だった。 あらゆる意味で、“変わった映画”であることは間違いない。極めて倒錯的だし、不完全で歪だ。 しかし、それは、まだ「何者」でもない少年と少女の純粋な混濁を描き出す上で、真っ当な映画の在り方だったと思う。 そういった「言葉」のみでは到底表しきれない彼らの姿を映し出したジョン・キャメロン・ミッチェル監督の才気に感服する。 そして、主人公の二人を演じたエル・ファニング、アレックス・シャープの若い俳優たちが本当に素晴らしい。 若い二人が出会い、瞬間的に恋に落ち、束の間の逢瀬に戯れる。 その様は、エル・ファニング演じるザンの台詞の通り、美しくもカラフルでもないけれど、あまりにも愛おしい。 脇を固めるニコール・キッドマンがかつてないエキセントリックなキャラクターで存在感を放ちサイコーすぎる件など、随所で様々な味わいと快感に満ちた作品でもある。 繰り返しになるが、今この映画を“大人”になる前に観ることができ、その「快感」を初体験できる若者たちがとても羨ましい。 というわけで、今年アラフォーに突入したばかりの36歳には、映し出される世界観が美しく眩い程に、ある意味つらい映画だった。 何と言っても、エル・ファニングが文字通りに“宇宙レベル”で可愛くてつらい。 宇宙広しと言えども、キスの最中にゲロを吐かれて許せちゃうのは、エル・ファニングくらいではなかろうか。と、思う。 [映画館(字幕)] 8点(2017-12-13 08:01:23)(良:2票) |
430. ジャスティス・リーグ(2017)
「王道」というベタで愚直な「大正義」。 この映画には、「アメコミ」という文化そのものを創り上げたDCコミックスの「意地」が貫かれている。 アメコミヒーローの「元祖」たちが、“チーム”となり、悪を叩く。ただそれだけ。はっきり言って、それ以外のことは何も描かれない。 むしろ、「アメコミ映画においてコレ以上に何が要るんだ?」と、分かったように安直な批判を浴びせようとする輩を蹴散らさんばかりに問うてくる。 結集するヒーローたちは、存在そのものにおいて、“綻び”だらけである。 中年のバットマンは色んな意味で満身創痍で老体に鞭打ちやっとこさ超人たちを率いる。ルーキーのフラッシュは自称“逃げ足が速いだけ”の青二才。隠れ王族のアクアマンは酒飲みの無頼漢。悩めるサイボーグは制御不能の人間デジタルデバイス。美しきワンダーウーマンは只々格好良すぎる豪腕姐さん。そして、「鋼鉄の男」はあまりに“寝起き”が悪すぎる。 彼らの佇まいは、揃いも揃ってバタ臭くて、現代的ではない。 ただし、言わずもがなその綻びや時代錯誤感を含めて、このヒーローたちを愛さずにはいられない。 詰まるところ、このDCコミックスが誇るヒーローたちを一つの画面の中で揃い踏みさせ、愛すべき「チーム感」を成立させた時点で、このエンターテイメント映画の価値は揺るがないと思える。 この映画世界を撮り上げたザック・スナイダーがプライベートの不幸により途中降板を余儀なくされ、その後を“ライバル”である「アベンジャーズ」を成功させたジョス・ウェドンが引き継いだことは、幸運だったと言える。 恐らくは膨大な物量だったであろうザック・スナイダーによる“撮れ高”を、ジョス・ウェドンは流石の手際の良さで纏め上げたと思う。この職人監督が大幅なカットを含めて最終的な仕上げをしたからこそ、この映画は単純明快で王道的なアメコミ映画として成立しているのだと思う。 一方で、ストーリーテリングが唐突で散文的になっていることは否めない。一説によると編集により60分近くもカットされたと言うから当然といえば当然だろう。 その編集力があったからこそ相応しいテンポ感も生まれたのだろうから決して否定は出来ない。 またその唐突さも、“アメコミ”が元来持つ味わいと言えなくはない。限られたページ数、コマ数の中で描き出されるヒーローたちの大活躍を、行間もとい“コマ間”の読み取りも含めて楽しむことがアメコミの醍醐味と言えよう。 即ち、ヒーローたちのバックグラウンドや、チーム感を構築するに至る細かいプロセスを、与えられたピースから“想像”で繋ぎ合わせていくことは、この映画において楽しむべき要素なのだと思う。 けれど、結果論として、この“チーム”に対して絶大なる愛着が生まれた今となっては、ザック・スナイダーによる「全長版」も是非観てみたいものだ。 様々な紆余曲折はあったろうが、結果として、この映画の存在感は圧倒的に“強い”。 綻びも、雑多さも、唐突さも、自虐的な自己批評性も、ブラックユーモアも、そして、力強い“決め画”による絶大な高揚感も、すべてが「アメコミ」という文化そのものの「映画化」であることを堂々と貫き通したことの証明だと思う。 映画としての「完成度」が高いとは到底言えない。けれど、そういう類型的な価値観を越えて、満足させる存在感の強さ。 それこそが、アメコミ文化の祖としてDCエクステンデッド・ユニバースが導き出した誇り高き「娯楽性」なのだろう。それは、“MCU”には無いものだ。 惜しむらくは、エンドロール後のお決まりのシークエンス。 ジェシー・アイゼンバーグ版レックス・ルーサーの再登場は嬉しい限りだったが、彼が邂逅する相手があの“マッドピエロカップル”だったなら、鑑賞後のテンションは問答無用に更に振り切っていたことだろう。 [3D(字幕)] 8点(2017-11-29 23:35:57) |
431. マイティ・ソー/バトルロイヤル
詰まるところ、「マイティ・ソー」シリーズは、神々たちの壮大な「家庭崩壊劇」だったわけで。 ただ、古今東西、「神話」と名がつくものは、大概、親子同士だったり、兄弟同士だったりの諍いを表したものが大半である。そういう意味でこのシリーズのストーリーラインは、ベタと言えばベタに違いないが、まさしく王道的だったと言えよう。 そして、どんなにベタでありきたりな話運びであったとしても、この最新作くらい「馬鹿」に振り切ってくれれば、否が応でも楽しめるというもの。 もはや大フランチャイズと化したマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の作品群の中においても、この「マイティ・ソー」シリーズは最初から「異質」だった。 その理由は明らかだ。主人公が「神」であることに他ならない。 “ソー”という圧倒的に異次元の存在感を放つスーパーヒーローのキャラクター性が、アイアンマン、キャプテン・アメリカらその他の“地球在住”ヒーローとは、元来一線を画している。 逆に言えば、この特異なヒーローの立ち位置をしっかりと確立し、“アベンジャーズ”の一員としてすんなりとまかり通したことが、MCU全体の大成功の大きな要因の一つであることは間違いない。 そういう意味では、決して輝かしいヒット作となったわけではなかったけれど、ケネス・ブラナーが監督したシリーズ第一作が残した功績は実は大きいと、今となっては確信する。 前述の通り、主人公のキャラクター性の異質さを踏まえると、そもそもリスキーな企画であったことは容易に想像できる。 にも関わらず、ヒロイン役にアカデミー賞を獲ったばかりのナタリー・ポートマンを呼び寄せ、アンソニー・ホプキンス、レネ・ルッソら大御所をキャスティング出来たことは、映画人ケネス・ブラナーの人脈の確かさが大いに影響しているに違いない。 そして、今やれっきとしたハリウッドスターとして輝きを放っている主演のクリス・ヘムズワース、更にはその弟役として“兄”以上の成功を遂げたと言っていいトム・ヒドルストンを抜擢したことこそが、第一作「マイティ・ソー」の最大の功績だろう。 (勿論、日本人映画ファンとしては、日本人俳優唯一のMCU参戦となっている浅野忠信のキャスティングも嬉しかった) シリーズとしては「最終作」と銘打たれているこの第三弾は、前二作とは完全にテイストを違えた最新作として仕上がっている。 前二作は、神々たちの戦いという神話的な世界観が先行するあまり、良く言えば厳かだが、悪く言えば古臭くて鈍重な雰囲気が、今ひとつ乗り切れない要因だったとも言える。 しかし、テイストが刷新された今作では、神々たちの戦いにおける文字通りの神々しさを際立たさせつつも、もはやしっかりと周知された主人公の“脳筋キャラ”を全面に押し出した愛すべき馬鹿っぷりが、そのまま愛すべき映画世界を構築している。 その指揮官に、殆ど目立った監督実績のないタイカ・ワイティティなる人物を大抜擢しちゃうMCUの豪胆さと先見の明の確かさには、毎度のことながら感服する。 “ゲストスター”として降臨したハルクは、問答無用にエンターテイメント性を高めてくれている。ハルクの暴れっぷりに“トラウマ”で顔面蒼白となるロキの様なんてMCUファンとしては最高である。 ソーと「別れた」らしいナタリー・ポートマンのヒロイン降板は残念に思うが、そのかわりに女王・ケイト・ブランシェットを“最凶の姉”として召喚するとは、まったくもってあまりに抜け目がない。 華々しい馬鹿馬鹿しさと神々しさに満ち溢れた映画世界ではあるが、最終的に紡がれたストーリーは実は極めて暗く重い。 偉大な親父は最後の最後で闇の遺産を残して死に、骨肉の争いの果てに、母星は木っ端微塵に消え去る。 ヒーロー自身、髪の毛と片目を失う。 だがしかし、その救いの無い顛末を「何とかなるさ」とニカッと笑ってやり過ごし、流浪する“脳筋ヒーロー”。 あらゆる意味で「異質」なヒーローに対する愛着が益々深まるシリーズ最終作だった。 [映画館(字幕)] 8点(2017-11-23 17:46:35)(良:1票) |
432. サンセット大通り
「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる 私は食べかすだ」 とは、映画「エド・ウッド」におけるベラ・ルゴシ役のマーティン・ランドーの台詞。 奇しくも、今作の劇中、ウィリアム・ホールデン演じる売れない脚本家が、噛んでいたガムを吐き捨てるシーンがあった。当の本人に促されたとはいえ、朽ち果てたかつての大女優の目の前でのその行為は、かの台詞を如実に表しているようで心中穏やかでなかった。 新旧のスターが入れ替わり立ち替わり、次々に映画が生み出されてはその大半が時の流れと共に忘却の彼方に消えていくハリウッドの儚さが全編に溢れる。 ショービズの世界において栄枯盛衰は宿命である。特に時代がサイレントからトーキーに移り変わる映画史上の過渡期においてはそれは殊更に顕著なことだっただろう。 時代に取り残された者の苦悩と狂気が溢れんばかりに映し出された人間描写は見事だが、それをリアルに同じ境遇のサイレント時代の大女優に演じさせるとは。 演じる方も、演じさせる方も、「映画人」としての矜持が素晴らしい。 サイレント時代の大女優ノーマ・デズモンドを演じるのは、実際のサイレント時代の大女優グロリア・スワンソン。 まさに自分自身を投影した役どころを圧倒的な存在感と鬼気迫る表現力で演じきっている。 “大階段”を降り立ちカメラに迫っていくラストシーンでは、現実と創造の境界を越えた崇高なまでのナルシズムに支配された。 光り輝く世界の裏側に確実に存在する闇と人間の脆さを、ビリー・ワイルダーが卓越した映画術で映し出したこの映画の佇まいは「名作」の呼称に相応しい。 [インターネット(字幕)] 8点(2017-11-21 11:21:35) |
433. 劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
頭からつま先まで全身がこそばゆくて、気恥ずかしい。 その世界観を臆面もなく貫き通したことは、作品として評価に値するけれど、拭い去れないストーリーテリングの稚拙さはいかがなものか。 ストーリーにもっと巧さや閃きがあれば、このアニメの世界観とそこに息づく「彼ら」のことをもっと好きになれたかもしれない。 ふとしたきっかけで、テレビアニメシリーズを今年観たばかりだったので、せっかくなのでこの「劇場版」も観てみることにした。 この手の「劇場版」の多くの例に漏れずテレビアニメ版の総集編的な意味合いは強く、メインストーリーとなった1年前の出来事を振り返りつつのストーリー展開は、良い意味でも悪い意味でも“ファン向け”の仕様であろう。 決してテレビアニメシリーズが楽しめなかったわけではない。 むしろ、普段殆どテレビアニメ作品を観ない自分が最初から最後まで一気に鑑賞し得たのだから、世間での評価の通り、万人向けのよく出来たアニメーションと言えるのだろう。 実際、アニメーションのクオリティは極めて高いと感じたし、登場するキャラクターたちもその多様性も含めて魅力的に描けていたとは思う。 ただあまりにもストーリーに「発見」がない。 純然たるノスタルジーと言ってしまえばその通りなのだけれど、もう少し何か新しいアイデアは無かったものかと思う。 せめて“めんま”が再び現れた「理由」を明確にするストーリー上の説得力が欲しい。その部分が結局のところ安直に美化されたまま曖昧にぼかされているため、ストーリーが只々凡庸に感じるのだと思う。 思わせぶりなタイトルや、諸々の設定に注力しすぎるあまりに、肝心の物語の力が軽薄に感じて仕方なかった。 テレビシリーズの最終回も決して感動しなかったわけではないけれど、そういったストーリーの上っ面感が残り続けるため、キャラクターたちの一連の台詞が、酷く空々しく聞こえてしまった。 映画化にあたり、そのあたりの物語性の深掘りが少しでも出来ていたならば、テレビアニメ版も含めて価値ある「劇場版」となっただろうけれど。 [インターネット(邦画)] 4点(2017-11-20 21:43:17) |
434. 苦役列車
面白い“青春映画”だったと思う。 夢も希望もなければ、友もなく、女もなく、当然金もない、社会の底辺で生きざるを得ない男の束の間の青春を、取り繕いなく切り取ったユニークな映画だった。 日雇いの人足仕事でその日暮らしをしている主人公・北町貫多は、19歳にして既に人生を諦めかけている。 稼いだ僅かな金は、酒と風俗に費やし、家賃滞納を続けているアパートからはいつ追い出されるかも分からぬ日々。 そんな男に、ふと同い年の「友達」が出来たことで、ほんの少しだけ人生に「色」がつき始める。 ただし、わずかに19歳らしい色めきが立ったところで、この男に長年に渡って染み付いた下卑た根性が一掃されるわけではなく、次第にまた人は離れていく。親しくなった友も、焦がれた女も。 という一連のこの主人公の青春模様、人生模様が、愚かしくも、可笑しい。 彼が得た顛末は総てにおいて「自業自得」の一言に尽き、擁護のしようもないのだけれど、彼と一度は友達になった二人と同様に、この北町貫多という男のことが気になって仕方なくなる。 主人公・北町貫多を演じる森山未來が、流石の表現力を見せつけてくれる。 このキャラクターが持つ生活環境によって染み付いた下品さと屈折した性格を見事に表し、「誰にも愛されない主人公」をほぼ完璧に体現している。 また主人公の友達となる高良健吾、前田敦子の役柄と佇まいもそれぞれ良かった。 彼ら3人が、立入禁止の海辺で戯れる場面は、あからさまな青春感がどこか非現実的な雰囲気も醸し出しており、この作品に相応しい名シーンだと思える。 ただ一方で、原作「苦役列車」で書き連ねられたものは、もっと暗くて笑えない悲観そのものだったのではないかとも予測できる。 原作は未読なのだが、今作で芥川賞を受賞した西村賢太が描きつけた世界観に、この映画で示されたようなポジティブさは微塵もないのだろう。 自分自身の人生を象った私小説だからこそ、この映画作品の佇まいに対して憤りを感じたことも充分に理解できる。「俺には“何もない”がある」なんてキャッチコピーには、虫唾が走ったに違いない。 必ずしも原作通りに映画を作ることが正解だとは思わない。特に私小説をそのまま映画化することは独善的になりがちだし、あまりにリスキーだと思う。 しかし、実際、この映画作品の主人公・北町貫多が背負っている苦悩は、劇中で露わになっている以上に深く救い難いものだろう。 その主人公の苦悩をもう少しだけきちんと根底に描きつけることが出来ていたなら、“束の間の青春”がもっと特別な時間として映り、この映画はもっと確固たる名作になり得たかも知れない。 そして、この監督と演者たちにはそれが出来たと思う。 [インターネット(邦画)] 7点(2017-11-20 17:08:57) |
435. もらとりあむタマ子
タマ子と同じ年の頃、僕も、学生と社会人の狭間でモラトリアムな日々を、実家で過ごしたことがある。 それは、決して褒められたことではないし、家族からしてみれば迷惑なことだっただろうけれど、あの「猶予期間」があったからこそ、自分は何とかマシな人生を送れるように至ったと思う。 誰にも迷惑をかけずに、トントン拍子で人生を歩んでいけたならそれに越したことはないんだろうが、そういうわけにもいかんのが「人生」だ。 何が起こるわけでもなく、一見すればただ自堕落なヒロインの一年間の「生活」を切り取っただけの映画である。 でもそこから不思議な愛おしさと、可笑しみがじわじわと滲み出てくる。 この手合のミニマムな味わい深さは、山下敦弘監督お手の物といったところだろう。 市井の人々の何気ない言動を細やかに描き出し、ドラマを紡ぎ出す手腕にこの監督は本当に長けている。 そして、その山下敦弘監督の映画世界の中で、主人公・タマ子を演じる前田敦子が見事に息づいている、いや“居座っている”。 前田敦子というアイドルが持つ「オモテ」と「ウラ」その両面を集約させて、曝け出して、タマ子という主人公像を創り上げている。 AKB48卒業直後の主演映画に相応しく、“アイドル”というレッテルの境界を越えた存在感を放っていたと思う。 また父親役の康すおんも、朴訥とした父親像を味わい深く体現しており、とても印象的だった。 この父親は、劇中から察するに、娘二人が成人した途端に妻に逃げられた駄目な男なのだろう。 だけれども、黙々と自営業に励み、きちんと料理をして洗濯をする様は、何とも健気で好感が持てたし、出戻ってきた娘を黙って受け入れ面倒を見る様子からは、娘に対する心配や憤りと同時に、嬉しさも伝わってきて、同じく娘を持つ父親としてとても微笑ましかった。 何よりも、ああやって往く宛が無くなった次女は頼って帰ってきて、嫁いだ長女も大晦日まで忙しい旦那を連れて帰省してくるのだから、この父親が根本的な部分で娘たちはもちろん、人から愛される人間であることは明らかだ。 一人の人間として「大人」になっていく以上、自立していかなければならないことは当然のことだ。 でもそれは、親をはじめとする家族を頼ってはならないとうことではない。 頼れるのであれば頼ればいいし、甘えられるのであれば甘えたっていいと思う。 大切なことは、その前提として、頼り頼られる「家族」という人間関係をちゃんと構築できているかどうかということだと思う。 恐らくは家族に受け入れて貰えなかったのであろう旧友の姿を遠目に見送り、感謝を心に刻むタマ子の後ろ姿に共感した。 そして、「渡辺ペコ」と「ねむようこ」の漫画を愛読するタマ子に、性別を超えて自分自身を重ねずにはいられなかった。 [インターネット(邦画)] 7点(2017-11-20 17:07:58) |
436. アシュラ(2016)
冒頭の主人公自身のモノローグにもあるように、この映画の主人公は、権力者に尻尾を振る「犬」だ。 主人公だけではない、登場する主要人物の全員が、欲望と狂気に塗れた「犬畜生」だ。 何のためらいもなく全ての人間が私利私欲を追い求め、薄汚れた街、血塗られた人間関係の中で、凄惨な“サバイバル”を繰り広げる。 骨太の韓国映画らしく、その描き出し方に、躊躇や遠慮はまったくない。 だからこそ、胸糞悪い描写の連続でカタルシスなど生まれるわけもないはずなのに、最終的には妙な清々しさすら覚えた。 架空の都市アンナム市を舞台にして、汚職刑事、悪徳市長、傲慢検事らが欲望の渦の中で入り乱れ、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる。 その血みどろの人間模様を表現している韓国映画の俳優たちが、相も変わらず、みな「素晴らしい」の一言に尽きる。 架空都市を舞台にしていることからも明らかなように、今作は決して現実世界に対してリアルな映画世界を追求しているわけではない。 だがしかし、そこで息づく人間たちの有様は実在感に溢れ、あまりに生々しい。 彼らが辿り着く“阿鼻叫喚”は、明らかにフィクショナルなはずなのに、我々が巣食うこの世界と地続きであると感じさせ、殊更に背筋が凍る。 見事な韓国人俳優たちの中でも特に圧倒的だったのは、「映画史上最凶の“市長”」と言って過言ではない悪徳市長・パク・ソンベを演じたファン・ジョンミン。個人的には、2013年の韓国ノワールの傑作「新しき世界」でのチョン・チョン役も記憶に新しい。この実力派俳優の映画全体における「支配力」があったからこそ、この映画は特別なものになり得ていると思う。全く見事だった。 また中盤における、まさしく「縦横無尽」のカメラワークを見せるカーチェイスシーンをはじめ、随所に挟み込まれるアクションシーンもすべてがハイクオリティーでフレッシュ。 改めて韓国映画の芳醇さを感じずにはいられなかった。 バイオレンス映画としての高い娯楽性を携えつつ、味わいの深さと絶妙な軽妙さをも併せ持つ佇まいは、マーティン・スコセッシの映画世界をも彷彿とさせる。 御大本人によるリメイクも十分あり得るんじゃなかろうか。 [インターネット(字幕)] 8点(2017-11-20 17:05:45) |
437. ハクソー・リッジ
「戦争」と「信仰」、人間が生み出したその二つの価値観は、まさしく人間という混沌の象徴だ。 本来、相容れぬはずの価値観を、同時に、「正義」だと掲げ続け、混乱と争乱を引き起こし続けてきたのが人類の歴史だろう。 その二つの価値観に板挟みにされた一人の人間における選択肢は、普通二つしかない。 ひたすらに「戦う」か、ひたすらに「避ける」かだ。 だがしかし、この映画の主人公は、そのどちらも選ばなかった。 「戦争」に対する覚悟と、「信仰」に対する揺るがない信念を貫き通し、ただひたすらに「救う」ことを選択した。 そう言葉で表すといかにも聖人君子的な綺麗事のように思える。 ただそれを実際の戦場で「実現」したということが、一体どれほど熾烈で残酷だったか、この映画は一点の曇りもない映像表現で描きつけている。 古今東西様々な戦争映画を観てきたけれど、この戦争映画の激しさと描き出されるテーマ性は、他のどの戦争映画とも異なっている。 それは、この映画が、一人の男の生い立ちとそれに伴う信念を深掘り、結果として彼が戦場でどのように闘い抜いたかを描き抜いたからだろう。 激しい戦争描写は、戦争映画史上においても屈指のものであったことは間違いない。だがそれ以上に、人間という生き物がそもそも孕む混沌と混乱の中で苦悩しつつ、傷つきつつ、それでも屈すること無く、自らが生きる意味を貫き通した不器用な人間の崇高な姿に衝撃を受けた。 アンドリュー・ガーフィールドが、良心的兵役拒否者としてアメリカ史上初の名誉勲章受賞者となった今作の主人公デズモンド・ドスを見事に演じきっている。 あの青瓢箪のような俳優が、あのメル・ギブソンの戦争映画に主演という情報を聞いた時は「大丈夫なのか?」と甚だ懐疑的だったけれど、鑑賞後には彼以外の適役は居なかったろうと思える。 ハンサムではあるがハリウッド俳優としては個性的な風貌の彼が、次々に大役をものにし、一躍トップスターへと上り詰めた要因は、類まれな演技力は勿論、彼自身が己の「個性」を貫き通してきたことに伴う魅力が、付加価値として備わっているからだと思う。 そして、監督メル・ギブソン。 彼自身の私生活における数々の醜聞やそれによって映画界から追放されかかっていたことについては、擁護する余地はないけれど、世評の通り映画監督としての力量が「本物」であることをまざまざと感じた。 アルコールに溺れ、暴力と暴言に走り、後悔と贖罪を繰り返す日々、そんなメル・ギブソン自身の人生模様は、今作のキーパーソンとなる主人公の父親像に表れている。 光と闇、暴力と救済が等しく混在する圧倒的な戦争映画。これはメル・ギブソンにしか描けまい。 [インターネット(字幕)] 9点(2017-11-18 18:45:31) |
438. ノクターナル・アニマルズ
《ネタバレ》 エイミー・アダムスの美しいグリーンの瞳になにか不吉な予感がよぎる。 あのラストカットが暗示したものは何だったのだろうか。鑑賞から数日が経つが、明確な結論が出ない。 鑑賞直後は、待ち合わせ場所に現れないことが、主人公に対する元夫の復讐の終着点なのだろうと思った。 紛うことなき深い愛ゆえに生まれた深淵な復讐心を「小説」という形で具現化した上で、本当に愛すべき人を失うという残酷を改めて彼女に知らしめることで、元夫は復讐を果たしたのだと。 ただ、段々と、別の真相が見え隠れしてきた。 そもそも、富と名声を得ながらも満たされない鬱々とした日々を送る主人公が居て、彼女がたまたま昔のことを思い返していたタイミングで、都合よく元夫から出版前の小説が届くなんてことが、あり得るだろうか。 また、夫婦関係だったといっても、20年前の学生時分の頃である。 確かに、深くて重い“裏切り”はあったけれど、20年にも渡って執拗に憎愛を抱き続けるだろうか。そして、わざわざその思いを小説に書き連ねて、相手に送りつけるなんてことをするだろうか。 確かにジェイク・ギレンホール演じる元夫は、耐え難い裏切りを受けたけれど、彼がそれ程まで怨みに執着する人間には見えなかったし、客観的に見れば、彼らの夫婦関係崩壊のあらましは普遍的なことであり、「よくあること」と言ってしまえばそれまででもある。 元夫が「小説」を送ってきたということ自体が、不自然に思えてならなくなってきた。 では、あの「小説」は何なのか?誰が生み出し、誰が送ってきたものなのか? 「小説」は確かに送られてきた。 ただしそれは、主人公が自らに宛てて送りつけたものだったのではないだろうか。 そう考えると、劇中劇で描かれる「小説」の内容もより一層理解が深まる。 妻子を殺された男の復讐劇ではなく、男から妻子を奪った自分自身に対しての懺悔の物語だったのだ。 「罰を受けずに逃すものか」 「小説」の中で主人公の男はそう言い放ち、妻子を殺害した犯人を追い詰める。 その台詞は、堕胎し、不倫し、男の元を去った自らに対する「自戒」だったのだと思う。 自らの中で生まれた生命を打ち消した後悔と、何も生み出せない自分への苦悩、それらが入り交じった自らに対する憎しみが20年という年月の中で膨らみ、形となったものが、あの「小説」だったのではないか。 とはいえ、明確な答えなどはないし、つくり手としても唯一つの答えを導き出してほしいわけではないだろう。 単純に、元夫にすっぽかされただけかもしれないし、巨漢の半裸女たちが踊り戯れるあの“悪夢”のような展覧会からその先すべてが、主人公の妄想なのかもしれない。 ただ一つ言い切れることは、夜行動物(ノクターナル・アニマルズ)は、これからも眠れぬ夜を迎え続けるだろうということだ。 [映画館(字幕)] 8点(2017-11-16 08:06:05)(良:2票) |
439. ブレードランナー ブラックアウト2022
「ブレードランナー2049」の公開に先立ててWeb公開された短編3作品の内の一作。 リドリー・スコットの息子ルーク・スコットが監督した他2本は、あくまでも本編に入り切らなかったシーンの補足といったところだったが、このアニメーション短編のクオリティと立ち位置は全く別物。 15分の短い尺の中で、日本人のアニメクリエイターが渾身の「ブレードランナー」を表現している。 本編でも重要なキーワードとして度々登場した「大停電」を描いた今作は、充分に一本の長編になり得るプロットとキャラクター設定を備えている。 この短編をパイロット版とした、長編アニメーション映画の製作を期待。 [インターネット(字幕)] 6点(2017-11-14 15:49:59) |
440. 映画 キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと!想い出のミルフィーユ!
愛娘はもう6歳。 当時3歳だった彼女と初めて観に行った映画も「プリキュア」だったわけだが、あれから3年、通算5度目のプリキュア映画鑑賞となった。 今回は3歳になったばかりの息子も連れての鑑賞。彼にとっては、初の映画館での映画鑑賞だ。 3年前に初めて娘と鑑賞した際にも記したけれど、映画ファンにとって、自分の子どもたちと映画館に赴くという行為は、ことのほか大切なイベントになり得る。 「映画館」という行き慣れた領域(テリトリー)の中に、我が子を招き入れるという感覚も加味され、彼らにとって少しでも良い時間を過ごしてもらいたいと、無意識の内に思う。 滞りなく映画を観終えて、6歳の娘は一丁前に「今までよりも感動が少なかった」などと感想を述べていた。 3歳の息子は少しもぐずることもなく大画面に映されたアニメーションを終始真剣に観ていた。 同じ行為とそれに伴う時間を共有することで、子の成長を感じることもまた映画ファンの醍醐味だ。 小学校入学を来春に控える娘は、プリキュアの普段のテレビ放映はあまり見なくなった。 彼女と行くプリキュア映画も今回が最後かもしれない。 それはそれで少し寂しくもあるけれど、基本的に映画は一人でしか観ない自分に、新しい映画体験をもたらしてくれた「プリキュア」には感謝している。 映画自体は、今シーズンのプリキュアが“パティシエ”くくりだということもあり、「ミスター味っ子」みたいで鑑賞した過去作の中で一番笑えた。 娘の言うとおり、「感動」は少なかったな。 [映画館(邦画)] 5点(2017-11-14 15:49:08)(良:1票) |