41. 17歳の風景 少年は何を見たのか
常に時代と真正面に対峙してきた孤高の映像作家・若松孝二が実話にヒントを得て、犯罪を犯した少年の心の軌跡に迫った作品である。冒頭からマウンテンバイクをひたすら漕ぎ続ける少年の姿が映し出される。どうやら彼は北へと向かっているらしいが、何故北なのか。そして何処へ行こうとしているのだろうか。やがて彼が母親を殺害したらしい事が暗示される。しかしそこへ至るまでの経緯や動機、あるいは家庭の事情などは一切語られる事が無い。映し出されるのは彼の勉強部屋であり、親に買って貰ったであろうマウンテンバイクが象徴的に示されるだけだ。おそらく何不自由のない生活を送ってきたはずの彼が、何故そのような行動に出たのか。17歳という年齢は、言わば少年から青年への過渡期であり、多感で繊細であり反抗期といった成長過程における難しい年頃であることも事実だ。そしてそれが人を殺すという行為にまで発展してしまう事こそが、まさしく現代社会の歪みであり、時代そのものを象徴している現象だと言える。しかし、映画は敢えてテーマを掘り下げようとはせず、ただ徹底して彼の姿を追い続けていく。次々と変化する周囲の風景。中でも豪雪地帯や荒波の海岸などの厳しい自然描写は、少年の心象風景ともとれるが、装備の整え方から見ても、決して発作的に家を飛び出して逃避しているようには見えない。また苦悶する表情は、あくまでもペダルを漕ぐ辛さからくるものなのだろうし、罪の意識を感じていながらも表情だけはどこまでも冷静であり続ける。そこが彼らの尋常ならざる心理であり、怖いところなのだ。結局、旅は何処まで行っても、もがき苦しむだけで答えは見つからない。最果ての地でマウンテンバイクを谷底へ投げ捨て、叫び声を挙げる少年の姿で映画は終わる。そのとき彼は何かが変わったのか、または何も変わらなかったのか、映画は何も教えてはくれない。本作は、ドラマらしいドラマも無く、単調でありながら多くの事を感じさせるという、映像表現の難しさに果敢に挑戦した気骨のある作品だと言える。それだけに、二人の老人との出会いのエピソードは単なる世の中の恨み節にしか聞こえず、皮肉にも語ることの無意味さを覚えた。 [映画館(字幕)] 7点(2005-08-31 18:41:49) |
42. 海を飛ぶ夢
人間の死生観に纏わる究極の問いかけをテーマにしている作品であるが故に、それぞれの生き方や考え方の違いから、観る人によって感じ方や捉え方などといった価値判断も違ってくる。テーマがテーマだけに明確な答えなどなく、作り手側もそんなことを求めてはいないのは明らかだ。様々な異なった意見はあって然るべきであり、それほどに考えさせられる作品だと言う事である。主人公のラモンは若い頃に遭遇した事故で四肢麻痺となり、終生ベッドに横たわるだけの生活を強いられているのだが、病魔に襲われていつ死が訪れるかも知れない病人とは違い、あくまでも身障者なのである。だからその気にさえなれば人生を全うする事も可能だった筈だ。しかしながら、彼は自ら人生にピリオドを打つ決断をしたのだ。映画はそんな彼のとった行動に対し“何故?”ではなく、あくまでも“どう思いますか?”と問いかけている。端的に言えば、身の回りの世話をし見守ってくれている人々に対する気遣いと、自分では何ひとつ出来ないという屈辱的な日々に耐えられなくなり、もはや生きていく事に意味を見出せなくなってしまったからだろう。要は彼のプライドが許さないのだ。人間とは様々な人々と関わり合い支え合いながら生きている。それは健常者であろうと身障者であろうと。そして身障者の多くは自らその苦境を乗り越えて生きているのも事実であり、だから28年もの間、支え続けてくれた家族や友人たちに対して、ラモンのとった行動は余りにも身勝手だという意見も良く分かる。しかも死ぬことすら人の手を借りなければならないとならば、尚更である。取りも直さず、ずっと見守ってくれ支えてきてくれた人々に対し、彼には生きる「責任」があり、人生を全うする事によって初めて、生きる「義務」を果たしたと言えないだろうか。それが延いては「感謝」や「礼儀」という事にも繋がってくる。しかし生ある限り強く生き抜いて欲しいという周囲の願いは、所詮「綺麗ごと」に過ぎないのかも知れない。映画はドラマ性を極力抑え、ラモンを取り巻く人たちの日常を冷静な眼差しで綴っていく。だからその味わいは意外なほど淡白だ。本作は表層的には魂の救済の物語のようだが、寧ろ人に愛され大切にされる事の意味を問いかけているように思う。 [映画館(字幕)] 7点(2005-08-25 17:26:09) |
43. チーム★アメリカ ワールドポリス
“面白ければ何でもやってしまえ”精神で満ち溢れた、久々のゲテモノ映画の登場である。全編ブラック・ジョークのオンパレードとは言え、冗談では済まされないほどの悪臭を放ち、まさにヤリたい放題・言いたい放題の内容。観客のウケもすこぶる良く、ストレス発散には持って来いの作品だ。しかし、評価が難しいのも事実で、0点か10点かのどちらかに偏ってしまいそうなタイプの作品である。それほど人を選ぶ映画であり、好き嫌いがはっきりするというのも大きな特徴ではないだろうか。日本ではかなり待たされた事もあって、その過激さ故に公開が危ぶまれていたが、いざ蓋を開けたら、然も有りなん。内容は「サンダー・バード」をパロディにしたマペット・ムービーだが、タイトルで象徴的に示されているように、世界の警察たるアメリカの剥き出しの本性がまんま映像化され、それをギャグとして徹底的に茶化したものである。スタッフたちは、少々ぎこちない人形の動きにはあまり関心はなく、むしろ破壊スペクタクルの緻密さ精巧さに心血を注いでいるように感じる。有名な歴史建造物を流れ弾(?)によって破壊の限りを尽くす、その徹底ぶりが大いに笑いを誘うものの、一方では世界転覆を狙う金正日に加担する者として、ハリウッドの主役級スターたちを実名で登場させるなど、人形劇とは言え、その描写は実に生々しい。人形にしか出来ない、いや人形だからこそ出来るエロ・グロも満載で、人形を隠れ蓑にしたゲリラ作戦が功を奏したと言える。中でも、金正日がひとりで歌う姿は、「チャップリンの独裁者」での風船の地球儀と戯れるシーンを彷彿させ、独裁者の寂しさや孤独を笑い飛ばした秀逸な場面となっている。いかにも好戦的な破壊ショー映画「パール・ハーバー」を徹底的にコケにしているのは、手作り映像に拘る製作者側のCG万能映画への対抗意識の表れとも取れるが、所詮目糞鼻糞である。むしろ自虐的な意味が込められているようであり、また社会を風刺するほどの反骨精神を有しているとも思えない。そう言った実に掴み所のない点が本作の魅力であり、世の中の善悪の価値観が揺らいでいる今こそ、全てをぶっ壊すことから始めようという、まさしく清濁併せ呑んだような印象を受ける作品だ。10点満点とも考えたが、我が“ジェイソン・ボーン”をからかった罪は重く、減点3とする。 [映画館(字幕)] 7点(2005-08-23 18:48:47)(笑:1票) |
44. 星になった少年 Shining Boy and Little Randy
本作は紛れもなく柳楽優弥を見せるための映画である。舞台が都会から農村に移ろうと、自然児のイメージとあの独特の眼差しはまったく変わることがない。演技に関してはまだまだ未成熟で、勉強の余地は十分に残されているが、それでも彼ひとりで一本の映画が成立してしまうのだから、その存在感たるや大したもの。映画は彼の一挙手一投足を余すことなく描写し、存分に魅力を引き出せている。そういう意味では成功作の部類に入るかも知れない。しかし一本の映画として総合的に評価すると、やはり物足らなさが残る。まずドラマとしての構成力が問題に挙げられよう。タイでの修行の後、一人前となって土地を後にするまでが前半の山場。しかし、帰国してから彼が不慮の死を迎えるまでの、後半部分が前半に比べると余りにも弱い。それは、ドラマらしいドラマが無いことに起因する。 ハッキリ言って、タイのシークエンスだけで事実上この映画は既に終わっているのである。だから後はどうでもいいようなエピソードの羅列で、彼の死までを繋いでいるようにしか見えない。実話に基づいているとは言うものの、「こういう事がありました」と断片的に披露しているに過ぎず、ドラマの中でとりたてて深い意味を帯びてこないのだ。もっとも、タイでの各シーンにしても、後半を気にしたような作りとなっていて、少年たちの訓練のプロセスや心の交流などが端折りすぎで、描き込みが足りない。製作者側としては、このタイでのエピソードにもっと焦点を絞るべきではなかったか。その事によって、何故彼が象使いに憧れを抱いたかというテーマが、より鮮明に浮び上がったと思う。象を始めとする様々な動物が出演することで、夏休みの子供向け映画としては無難な作品とも言えるが、人間までもが意味も無く大挙出演するのは、邦画の悪い癖で、映画の印象を散漫にするだけである。 [映画館(字幕)] 7点(2005-08-19 18:19:00) |
45. 亡国のイージス
戦後60年を経た今、諸外国の地域紛争やテロの恐怖など、世界情勢は相変わらずキナ臭い状況が続いている。そんな中、“平和ボケ”と揶揄されながらも、自ら戦争を行使することなく、とりあえず平和を堅持している日本に突如、クーデターが生じたら・・・というのがこのドラマの発想である。アメリカのような、伝統的に育んでいく為の土壌というものが無く、本来こう言ったポリティカル・サスペンスは日本映画が最も苦手とするジャンルである。確かに上映時間の都合もあり、原作をダイジェスト版のように端折って描いた事で、未読の者には意味不明な部分も少なくない。その為か人物描写の中途半端さが感情移入することを遮ってしまっている。しかしその一方では無駄なシーンも多く、バランスの悪さばかりが目立つ作品である。これがハリウッドで将来リメイクでもされたら、もっと上手く料理して、さぞかし面白い作品になるだろうに・・・と、つい考えてしまう。この作品の問題点の一つには、やはり監督の力量にあるように思う。もちろんこれだけのスケール感をともなった人間ドラマを演出できる監督など、そうザラにはいない。骨太の男っぽい作品という意味では、いかにも阪本順治らしさが出ているが、どちらかと言えばローバジェット作品を主体に活躍してきた事もあり初の大作映画に気負い過ぎたのか、ドラマもアクションもどこかぎこちない印象を受ける。過去の映画の良いとこどりをしている割に、アレンジが巧くいっていないのだ。庶民の日常生活という狭い範囲でのドラマに冴えを見せてきた人だけに、作品の資質に見合っていたかが疑問である。さらに著名な俳優が多く出演している事が作品の格でもあるまいが、顔ぶれそのものには新味は無く、むしろ何の為に出ているのかすらも分からない人が多い。佐藤浩市と吉田栄作の役や女性工作員ジョンヒなどがその最たるものだが、「原作にあるから・・・」という程度の理由なら、余りにも主体性が無さ過ぎる。彼らの存在は一見意味ありげだが、思わせ振りなだけで、ドラマの中でほとんど機能していないではないか。登場人物をどうせ生かせないなら、むしろそう言うところこそ割愛するべきなのではないだろうか。自衛隊の協力もあり実物の船が航行するシーンなどの撮影は素晴らしいが、船内の暗さと船外の明るさのコントラストをもっと明確にする事で映像にメリハリが生じ緊迫感もより高まったように思う。 [映画館(字幕)] 6点(2005-08-19 01:08:26)(良:1票) |
46. 世界大戦争
本作は昭和29年製作の「ゴジラ」以来、数々の特撮映画を生み出してきた本多・円谷コンビ作品とは味わいが異なるものであり、メガホンを撮った松林宗恵自身の戦争に対する深い思い入れで、「反戦」というテーマがより鮮明に打ちだされた作品だったと言える。まさしく次なる世界レベルでの全面戦争を描いたものであり、その終末イメージの強烈さは、公開されて40年以上経っても未だに脳裏に焼きついて離れない。市井の名もなき庶民の生活をホームドラマ風に描いた本編と、破滅へと向かう一連の破壊スペクタクルの特撮部分とのトーンが、明確に違うのが本作の特徴とも言えるが、それは勿論違和感があるという意味ではなく、ドラマも特撮も描き方がいずれも直截的であり、互いに拮抗するほど自己主張していることに他ならないからである。主人公のタクシー運転手を演ずるフランキー堺は、元々コミカルな持ち味で人気者となった人だが、同時期公開された「モスラ」の熱血漢溢れる新聞記者とはまた違った力演で、どちらかと言えば「私は貝になりたい」の主人公と重なるほどの性格俳優ぶりである。とりわけ終盤での物干し場から涙ながらに世界へ訴えかけるシーンは、「反戦」の代弁者としての熱演を見せてくれている。当時、典型的な「絶叫型反戦映画」と揶揄されたこともあったが、それでもなお、真実味のある血の通った生身の人間の素直な感情表現は、我々一人一人の心に十分伝わるものがあり、ストレートな感動を呼び起こす名場面となっている。またしっとりとしたラブストーリーでもある本作は、團伊玖磨の叙情的な旋律がより深い哀しみをもたらし涙を誘う。そういう意味でも、極めて日本的な反戦映画だったと言える。そして今回の「破壊」をテーマにした円谷特撮の素晴らしさは、国会議事堂やパリの凱旋門などの建造物のミニチュアを逆さ吊りにして、水爆のエネルギーで一瞬にして跡形も無く吹き飛んでしまうというイメージを具象化し、また溶鉱炉でドロドロに溶けた鉄などを使って焦土と化した東京を表現したりと、かつて無いほど画期的で大胆な発想を、そのまま実践に移すことの凄さにある。この「破壊の美学」とも言える、今や伝説となった彼ならではの奔放なイマジネーションには、CG万能の現代のクリエイターたちは足元にも及ばないだろう。 [映画館(字幕)] 10点(2005-08-15 17:20:39)(良:1票) |
47. ヴェラ・ドレイク
親として何かと不憫だった娘に念願叶い、婚約にまで漕ぎつけた祝いの日。同席の弟夫婦にもやっと子供ができると言う二重の喜びに、戦前・戦後と片寄せあって生きてきたドレイク一家にとって、まさに至福のときを迎えたのだった。しかし人生とは皮肉なもの。警察が訪れたところからドラマの様相は一変する。妻のヴェラは、家政婦の仕事の傍ら、身寄りの無い老人や体の不自由な人の家を訪ねては、身の回りの世話をしてやっている。家族の前でも鼻歌まじりでいつも明るく振舞う彼女。この家族の生活感をリアルに捉えたM・リーの演出法は的確であり、後々のドラマに説得力をもたらしている。とりわけ冒頭からの一連のシークエンスは、ヴェラの性格や歩んできた人生までもが一瞬にして透けて見えるほどだ。だから「堕胎の手助けをした」という事実は「秘密」であっても、どこまでも「嘘」のない純粋な女性だという事が良く分かる。確かに軽率であるが悪気は無く、違法という後ろめたさはあっても罪の意識は薄い。警察に踏み込まれた時に見せる彼女の困惑顔がそれを物語っている。“なぜバレたの?”と。動揺を隠せない彼女が最も恐れていたのは「罪を犯した」事よりも「家族に知られる」事である。何かが音を立てて崩れていく。事情のまるで飲み込めない家族の戸惑い。粛々と職務を遂行する警察。三者三様の構図のスタンスを保ちながらドラマはにわかに緊迫感を帯びてくる。しかし映画は、当時の時代背景や貧困層に対する社会問題、そして「彼女たちの罪」といった事には深く立ち入ろうとはしない。それは「家族のあり方」と「人間の絆」を描きたかったに他ならないからである。ヴェラの優しさと有難さは家族以外の人々も十分認識していると信じたいし、多くを語らずとも息子を諌める父親の毅然とした態度には胸が熱くなる。こういう時にこそまさに人間性が問われるのである。本作は、ストーリーも然ることながら、巧みな構成力による緻密な日常描写、そして演技人たちの確かな演技力で稀に見る見事なドラマを構築している。とりわけI・スタウントンの迫真の演技は瞠目に値するほどの凄みを感じさるものであるが、一方、決して紋切り型でなく、終始冷静で人間的な温かみを感じさせてくれるウェブスター警部を演じたP・ワイトも忘れがたい。久し振りに本物の映画を観たという印象を受けた。それほどに実に見応えのある作品だ。 [映画館(字幕)] 10点(2005-08-12 00:52:43) |
48. ヒトラー 最期の12日間
第2次世界大戦末期に於ける、連合軍進攻によるベルリン陥落までの十数日間を描いた実録風戦争ドラマ。原題は「The Downfall(=陥落、崩壊)」であり、独裁者としてのヒトラーの知られざる側面を描きつつ、むしろ側近を含んだ彼の周囲の人間模様により焦点が充てられている作品だと言える。独裁者たるヒトラーを嘘・偽りの無い一人の人間として描く事や、陥落寸前のベルリンの悲惨な当時の状況を語る事は、何かとタブー視されて来ただけに、今回の映画化にあたっては、それ相当のリスクや軋轢があっただろう事は想像に難くない。しかしそれらを可能にしたのが彼の秘書であったユンゲの回顧録である。従って、映画はあくまでも彼女の視点から描かれていて、それがそのまま我々観客の視線ともなっている。映画である以上多少の誇張もあるだろうが、ここで描かれるヒトラーはおそらく最も真実に近い姿のような気がするし、今となっては彼女の回想を信じるしかないが、それでもユダヤ人団体から“人間的に描きすぎる”というクレームが来たそうだ。歴史上の人物を描くのが如何に難しいかという事だろうか。しかしながら、狂気と重厚さを併せ持った独裁者を演じるB・ガンツはそのソックリぶりで、名優ならではのヒトラー像を見事に体現してくれた。しかしその割にカリスマ性は然程感じられなかったのは残念だとしか言いようがない。それと言うのもやはり彼の側近たちの狼狽ぶりに力点が置かれている為であり、そう言う意味でヒトラーは言わば狂言回しではなかったろうか。組織の崩壊を目前にして素直に敗北を認める者と徹底抗戦する者、或いは国家を憂い将来を悲観して玉砕する者、それでもなお虚勢を装って退廃に耽る者など、国家や戦争への思い入れや立場の違いで、身の処し方も違ってくる。そんな悲惨な極限状況の中、追い詰められた者たちそれぞれの葛藤を、映画は極めて冷徹で淡々としたタッチで描出していく。壮絶で生々しい描写とは裏腹に、感情の無くなった兵士たちの表情がとりわけ印象的だ。本作は戦争が如何に狂気じみたものであるかという事とその戦争を終わらせるのは更に難しいという事を、強烈なメッセージとして世界に訴えかける。戦後60年を迎えた今、この映画を製作した意義は大きく、同じ敗戦国である日本人としては実に身につまされる作品である。 [映画館(字幕)] 9点(2005-08-09 00:52:42)(良:4票) |
49. アイランド(2005)
「ジュラシック・パーク」のクローン恐竜が襲ったのは“彼ら”を創り賜うた人間たちである事で、一種のパラドックス的な面白さを有した作品だったと言える。それに反し、その人間たちから逃げ回るのがクローン自身というのが本作の基本的なコンセプトである。主人公のリンカーンが甘美な夢から目覚めるという冒頭から見ても分かるように、“彼ら”も夢を見るのであり、ロボットやアンドロイド等とは一線を画すという、あくまでも人間の複製であるという事を端的に言い表している。そして人間の持つ根源的な「意思」や「感情」から、やがて「好奇心」や「疑問」が芽生える事によって、彼らは“自分は一体誰なのか?”“何の為に存在するのか?”といった、言わば生きる為の“自分探し”を、逃避行という形で行動に出るのが、大まかなストーリー・ライン。ロボットやクローンが主人公というのも、昨今の近未来を舞台にしたSF映画では珍しくもないが、前述した意味において本作はもう一つの「A.I.」と言えるものであり、スピルバーグ自身が映画化したがっていたのも頷ける。その彼から直接白羽の矢を立てられた以上、M・ベイも今回ばかりは下手な作品には出来ない。結果的には監督として少しは見直した作品となっているが、近い将来に起こり得るというリアリティさを巧みに脚本化した功績が大いにモノを言ったようだ。もっとも、人間の死生観を探究するといった哲学的なテーマよりも、ベイらしいアクション主体の娯楽作品であることに変わりは無く、映画の中盤で炸裂する大スペクタクル・ショーは、いかにも彼らしい躍動感に溢れたものであり、ダイナミックなエンターティンメントとして純粋に楽しめる出来だ。ラストの閉ざされた居留地から地上への脱出の構図は、まさに奴隷解放のイメージそのものであり、それを実現したのが“リンカーン”というのは、シャレだろうか。いや、きっと“ジョーダン”だ。 [映画館(字幕)] 8点(2005-08-04 18:29:25)(良:1票) |
50. バットマン ビギンズ
T・バートンにより創造された「バットマン」は、強烈な個性で鳴らす彼の世界観に見事なほどマッチしたものであり、ゴシック調のスタイリッシュなダークサイドを描いていながら、劇画的で遊び心が満載といったどこか安っぽいムードが、むしろ作品そのものの魅力だったと言える。しかし、本数を重ねるたびに劇画タッチが漫画チックに変貌していき、また飽きられてきたのもシリーズものの宿命である。行き詰まりを感じての軌道修正でもなかろうが、気分一新で臨んだのが今回の「新生バットマン」。それにしても、“誕生秘話”は今やハリウッドの流行りなのだろうか。同じ題材でありながら少しでも目先の変わったものを供給するという事に腐心しているように思えてならない。映画産業も安閑とはしていられないのだろう。しかし本作は、ストーリー、アクション、豪華なキャスティング等々、どれをとっても気合は十分感じとれる作品となっている。人間ドラマにかなりの比重を置かれて描かれているのが特徴であり、苦悩するヒーローといった構図などは、かなり「スパイダーマン」を意識しているように思う。しかし娯楽作品としては、やけに重々しくて理屈っぽくなり過ぎたきらいがあるのは否めず、また手強いはずの悪役そのものにさほど魅力がないのも残念だとしか言いようがない。余裕綽々の演技で脇を固めるベテランたちに混じって、C・ベールの演技はやはりどこか硬い印象を受けるのも宜なる哉。しかしながら、キレのあるアクションやスピード感はやはり本格派と言えるものであり、オリジナルとはまた違った趣向で魅力たっぷりに描かれている事や、リアリティ溢れるメカやセット・デザインなどから感じさせる本作に対する製作側の真摯な姿勢と意気込みは大いに買いたい。 [映画館(字幕)] 8点(2005-08-03 18:34:50)(良:1票) |
51. 美女と液体人間
東宝特撮映画史の中でも、いわゆる「変身もの」というジャンルを確立した先駆的な作品として、是非とも記憶に留めておきたい逸品。「ゴジラ」がそうであったように、本作も核による放射能の計り知れない脅威と恐怖がテーマとなっている。放射能の影響で巨大化した怪物が暴れ回るという映画は、今までにも散々作られてきたが、しかし本作のような液体化した突然変異体が人間を襲い、瞬時に溶解して物質に同化してしまうという、異形の恐怖を扱った作品はほとんど例が無く、そういう意味においても極めて貴重な作品である。“彼ら”が実際に姿を見せるのが遭難船という設定は、現実の第五福竜丸事件を明らかにイメージしており、放射能の影響力に神経質になっている当時の社会状況を、映画として的確に反映させたものである。船を発見した船乗り仲間たちが、真っ暗闇の船室を巡る中、衣服だけが其処彼処に脱ぎ捨てられている事を目の当たりにする、これからの惨劇の始まりとなるこの一連のシチュエーションは、「ラドン」の序段の水没した坑道の恐怖感をそのまま増幅させたものであり、この手法は後年の「マタンゴ」にも引き継がれている。天井や壁や床を這いずり回り、どぶ川から壁面を伝って窓から雪崩れ込んでくる緑色の液体は、あたかも生き物のように全編に渡り描写される。そして音も無く忍び寄り、理由も無くまた相手も選ばず人間を溶かしてしまう恐怖感。 これらの視覚効果は、円谷特撮の腕の見せ所であり、試行錯誤を繰り返しながらも、見事な液体人間を創出してみせたのである。人間が服を着たまま萎んでいく様子を、細かいカット割りで繋ぐ編集の巧みさ。また、科学的裏付けの為、泡を噴きだして溶けていく蛙の実験を、微に入り細に穿ち描写することで、より説得力あるものにしている。中盤からクライマックスへ至る美女を襲う液体人間の構図は、スリラー映画の王道であり、スリリングな面白さと底知れない恐怖で、 SF映画史に独特の存在感を示している。余談ながら、白川由美は私にとって永遠のマドンナであり、また、幼い私がトラウマになってしまうほど恐怖を味あわされた本作に、どうして低い点数が付けられようか。 [映画館(字幕)] 10点(2005-07-28 18:06:17)(良:3票) |
52. 受取人不明
70年代末期の在韓米軍基地周辺を舞台に、三人の若者を中心に描いた群像劇。青春ドラマというには、余りにも痛ましく、かなりビターな味わいを残す作品だ。韓国の歴史には詳しくも無いが、朝鮮戦争が物語の発端となっている事だけは確かなようで、戦争に直接的な関わりを持たなくとも、後々において様々な影響を及ぼすという痛烈なメッセージが感じとれる。ここに登場する人物たちは、直接・間接を問わず、すべからく戦争の犠牲者であり、心に深く傷を抱えている。当時の閉塞感溢れる社会状況の中にあって、とりわけそれぞれに悩みを持つ若者たちが、その鬱積した気持ちの吐け口を探し求めようとする。それは彼ら韓国人のみならず、米軍基地に留まっている若き米兵の存在にも言える事だが、どこか戦後の日本の姿にも重なり合う部分が多い。しかし、心の拠りどころを求め続ける彼らの悲痛な叫びは誰も受け取ってはくれない。やがて若者たちは、忌まわしい過去を清算するかのように、それぞれが自己完結を図ろうとする。それはまるで連鎖するかのようであり、ドラマは一気に悲劇性を帯びてくる。物語に届かない手紙を暗喩として象徴的に引用しているように、戦争の後遺症とは、いつの時代でもどこの国にでも生じ得る普遍性のあるテーマでありとりわけ子供たちへの影響は計り知れないものがあるという事なのだろう。映画は個々に何らかの関わりを持っている主要人物の造形がとにかく見事で、複雑に絡み合いながら大きなうねりとなっていくドラマ構成も巧みで、十分見応えがある。具体的に画面では見せないものの、痛みを伴うギドクらしい作風はここでも存分に感じとれるが、モチーフでもある寓話色は意外と希薄で、美しい田園風景とは裏腹に濃密な人間ドラマには実感が込められ描かれた秀作である。 [映画館(字幕)] 9点(2005-07-26 18:30:28) |
53. HINOKIO ヒノキオ
物語は、母親を事故で亡くしたサトル少年が、自らも心と体に傷を負い、やがて自宅に引きこもったまま登校拒否を続ける。それを見かねた父親は、ロボットを息子の分身として登校させるようになる。これはまるで「鉄腕アトム」の世界そのものではないか。昔ならアニメで描かれた事が今ではCG技術の発達が実写を可能とした。ボディの一部に「檜」を使用していることもあって、機械(=マシーン)であるにも拘らず、どこか温かみを感じさせるデザインが秀逸で、細部に渡って実に精巧緻密に造形されている。そしてそれにも増して、その動きの滑らかなこと自然なこと。実写の人物たちと何の違和感もなく共存している見事さに思わず目を奪われてしまう。凡百のSF映画に登場する非現実的なクリーチャーたちと比較するまでもなく、リアリティを存分に感じとれるよう巧妙に作られていて、もぅそれだけで本作は十分に成功したといって言いぐらいだ。ロボットを介してサトルと心を通い合わせようとするジュンに大きな比重をかけて丁寧に描かれているが、演じる多部未華子の存在なくしては成立し得なかったのではないだろうか。それほどに彼女は眩しく光り輝いていた。初恋にも似た二人のピュアな関係が綴られていく一方で、父親とサトルとの描き方は最後まで曖昧なままで釈然としない。そもそも何故サトルがそれほどまでに父を恨んでいるのか、明確には描かれていないのが不満だ。またコンピューター・ゲームというバーチャルな世界と現実の世界との結びつきといった、ファンタジックな味付けも意味不明で、上手くいったとは言いがたい。しかしながら本作は、引きこもりや不登校といった現代社会の抱えるテーマに一石を投じた作品として、そして爽やかな青春ドラマの好編として評価しておきたい。 [映画館(字幕)] 8点(2005-07-22 16:00:20) |
54. 香港国際警察/NEW POLICE STORY
長きに渡り多くのファンを魅了し続けてやまないジャッキーのアクションは、どんなに時代が移り変わろうとも、終始一貫変わることがない。子供騙しのようなCGには目もくれず、手作りという、あくまでも活劇映画本来の面白さを狙って生み出されたアイデアを、鍛え上げられた肉体が次々とものの見事に実践してしまう。そんな生身の体から発散される圧倒的な迫力に加え、観客に対する彼の旺盛なサービス精神に、我々は感動し拍手を惜しまないのである。それらの事がコミカルであろうとシリアスなものであろうと、ジャッキーの作品は筋金入りだと言われる所以でもある。しかし映画の中ではやはり時代が進むことにより、犯罪もより高度になり犯人像も複雑を極める。しかも対決するべき今回の相手は、警察の精鋭部隊がいとも簡単に血祭りに上げられてしまうほどの頭脳集団だ。ゲーム感覚で警察を手玉に取る、この序盤のシークエンスが映画的には最も面白く、凶悪犯が手強ければ手強いほど、映画としては面白いというお手本のようである。巧妙な罠にかかり警察官として挑発を受け、散々屈辱を味あわされたジャッキーが苦悩の挙句、酒浸りになってしまう哀れな姿は今まで見られなかったような役どころだが、後半、反撃に出る彼のアクションを際立たす重要なシチュエーションでもある。暗く重い前半から、ジャッキーの畳み掛けるようなアクション全開の後半は、一気に開放感溢れたものとなる。ジャッキーのアクションはアクションへの流れが自然であり、いわゆる見せ場の為のアクションではないと感じさせるところがこの人の凄いところだ。やがて一筋縄ではいかなかった筈の犯罪者グループの脆さが一気に噴出するのだが、中盤あたりまでがすこぶる快調だっただけに、彼らの失速ぶりが作劇としては惜しくもある。 また、ジャッキーの年齢を考えると、危険な目にあう婚約者といった設定にも、やはり無理がある。 それにしても、香港には超高層ビルの多いことを改めて感じさせられたことから、これからのジャッキーのアクションには、ますます好材料となるようだ。 [映画館(字幕)] 9点(2005-07-21 17:24:59) |
55. オープン・ウォーター
実際にあったコワ~イお話。こういう作品を制作する際に問題となるのが、災難に遭った当事者でもない限り、その場の状況は誰にも分からない訳で、同様の事故から生還した人のコメントを参考にする以外は、想像の域を出ないという事である。従って、ドラマチックな感動を呼ぶ娯楽作品に徹するか、あくまでもリアルさを追求したドキュメンタリー風の作品にするかは、製作者の狙いによって随分と違ってくる。こういった再現ドラマには以前公開された「運命を分けたザイル」という秀作もあるが、舞台が雪に閉ざされた山岳地帯という事もあって、ドラマを構築するには有利に働いたように思える。しかし本作は周囲360度が見渡す限りの海が舞台であり、そこにポツンと取り残された二人の男女の運命を描くには、画面的には単調にならざるを得ないのは自明の理。どう考えたって娯楽作にはなりようがない。 そこで、その不利な条件を逆手に取り、接写撮影に徹して、観客をも巻き込んだ同時体感ムービーにしたのは、正解だったと思う。いや、もはやその方法しかなかったとも言える。主人公たちを俯瞰で捉え、空間的な広がりを感じさせるショットも無くはないが、ここで問われるのは、あくまでも状況の迫真性である。彼らの足元に蠢くクラゲや鮫といった、海に生息するモノたちからの攻撃による恐怖も然ることながら、一方では、何も起こらない事の恐怖も同時に味あわされる。取り残されたという心細さが徐々に不安感に繋がり、やがて恐怖に変わっていくプロセスは、なかなか巧みだ。とりわけ、延々と波に揺られることで船酔い状態になり、嘔吐する生々しい描写や、感情が微妙にブレ続ける二人のセリフの遣りとりなど、真実味や臨場感からくる恐怖演出は十分に捻出されているし、さらに、無名の俳優たちの真に迫った演技も見逃せない。それにしても、単純なミスで災難を被る映画としては異色の本作だが、安手のリゾート・ツアーには気をつけようという、戒めが込められているようだ。 [映画館(字幕)] 8点(2005-07-14 12:29:53)(良:1票) |
56. ダニー・ザ・ドッグ
ピアニストの母を持つお坊ちゃま少年ダニーが、自分の生い立ちを何故覚えていないのか、そしてどのようにして、これ程までに強靭な肉体を有するファイターに成長できたのか。さらに飼い犬の如く借金取立ての強力な用心棒として彼を育て上げた親方の思惑や真意など、基本的な部分に何かと説明不足な作品だ。「所詮アクション映画なんだから、クドクドと説明するまでも無いだろう!」とベッソンは言うかも知れないが、物語の根幹に関わる事だけに、もっとじっくり脚本を練って欲しかった。ディテールをきっちり抑えていればこそ、ドラマにも説得力が生じるというものだろう。しかし、本作はそういった脚本の欠陥をL・レテリエのテンポのいい演出で補っているのが救いだ。アクションにおけるスピード感溢れる歯切れの良さは「トランスポーター」で立証済みだが、主役を引き立てながら見せ場を作る上手さでは無類の才人だと思う。彼には是非とも「007」の監督をやらせてみたい。ただ、あの世へ行っている筈のB・ホスキンスがゾンビのように生きているのはどう考えたって不自然で、その部分だけはアクションの過激さが裏目に出たようだ。さらに周囲の観客に囃し立てられて、已むを得ず闘鶏場のようなリングで死闘を繰り広げるといった、使い古されたパターンや、J・リーの女性にはウブでストイックという設定には、もぅそろそろ卒業したい。 [映画館(字幕)] 7点(2005-07-13 16:48:18) |
57. リチャード・ニクソン暗殺を企てた男
人間、生きていくからには嫌な事も山ほどあるが、普通はそこを何とかして乗り越えていくものである。しかし中には生きる事に不器用で、上手く世間を渡れない人間もいる。真面目で正直者が損をするのが世の中の風潮ならば、この物語の主人公などはまさにその典型例だと言える。事の発端は妻との別離で、それ以来何をやっても上手くいかない(と思い込んでいる)彼は、彼女とさえヨリを戻せば全てが上手くいくと考えているフシがある。なんと単純な男だろうか。上手くいかない本当の理由は彼女との結婚生活以前のハナシであり、何ごとにも真面目すぎる反面、ネガティブな考え方しか出来ない彼自身の性格がそうさせているのだ。彼には会社の上司や同僚、あるいは親しい友人、そして何かと救いの手を差しのべてくれる兄の存在があり、決して孤独ではないはずだ。しかし彼は自分の殻に閉じこもるばかりで誰にも心を開けようとはしない。妻もそんな彼にきっと嫌気がさしたのだろう。男は唯一気持ちの拠り所として心酔するレナード・バーンスタインに、遣り場のない心の叫びを聞かせる。この世の中で信じられるものは自分とバーンスタインであって、それ以外は憎むべき対象でしかないのである。そして処世術に長けた者に対するヒガミ根性が、やがて彼を行き着くところまで行かせてしまう。しかし、本来最も身近な憎むべき人物すら殺せない小心者の行く末は、押して知るべしである。確かにこの被害妄想の塊のような男に同情の余地は無く、むしろ不快を感じるほどだが、映画的に良く出来ている事とは別の次元の話。クライマックスへ至るまでの細かい描写の積み重ねは、主人公の人物像にリアリティと説得力を生み出し、人生に行き詰まった男を演ずるS・ペンは、デ・ニーロをも凌駕するほどの凄味を魅せる。 実話をベースにしているだけに、妙に納得してしまう作品だ。 [映画館(字幕)] 8点(2005-07-07 18:20:38) |
58. 宇宙戦争(2005)
SF小説の古典である「宇宙戦争」の映画化にあたっては、B・ハスキン版の傑作オリジナルに加え、同じ様な題材を扱って成功を収めた「ID4」があるだけに、かなりのリスクを伴っていた筈である。しかしながらスピルバーグが映画化を決意するからには勝算があればこそで、少なくとも過去のSF映画をなぞるような事だけは間違ってもしない筈。それがスピルバーグ流というものである。言葉ではなく、常に映像で語り続けてきた彼独自の切り口による、この全く新しい「宇宙戦争」は、まさに天才の創った映像と呼ぶに相応しい作品だと言える。 それはまさに戦場に放り込まれたような阿鼻叫喚の世界で、人々が逃げ惑い攻撃を受ける描写には臨場感が溢れ、痛快さとは無縁の真実味のある恐怖が、たっぷりと描かれていく。平和な街の日常風景が急変するこの序盤のシークエンスは、現代社会に起こる様々な恐怖を暗喩として描き続けてきたスピルバーグらしく、それらの描写は言葉では表現できないほど凄まじく、容赦が無い。破壊されたホワイトハウスや自由の女神といった有名な建造物など一切出てこない事も、市民レベルの恐怖に更なる実感をもたせ、単なる絵空事ではないと感じさせるのである。彼の作品で常に驚かされるのが特撮における迫真性である。今回のそれは、実際の宇宙人に攻撃されている街へ、そのままロケ隊が撮影に来ているような錯覚に陥る程であり、見事と言う他ないのだ。“スーパーリアリズム”という細密画のジャンルがあるが、スピルバーグはまさに映像に於ける“スーパーリアリズム”を実現したのである。夕暮れの小高い丘の向こうに攻撃を加える軍隊、あるいは墜落した旅客機の残骸が散乱しているシーン等、明らかに直接的な描写を避けているシーンが多い。これは「ID4」とは全く違うスタンスであるという意思表明である同時に、前述の街の攻撃シーンやフェリー乗り場でのパニック・シーンをより際立たす為とも思われるが、信奉する黒澤明の影響がここにも表れているようだ。オープニングのバクテリアから想像する結末は、オリジナル版同様、原作に忠実であり、象を倒す蟻の如く、微小なものが巨大なものを倒すカタルシスは一見呆気無いようでいて、それこそが生命の神秘でありまた真理なのである。またトライポッドは原作の古典本のイラストをそのままデザイン化したもので、H・G・ウェルズへのオマージュともなっている。 [映画館(字幕)] 10点(2005-07-04 16:28:02)(良:8票) |
59. フォーガットン
《ネタバレ》 自分のお腹を痛めてまで生み育てた子供が、実は最初から存在していなかったとしたら・・という発想から編み出された、「記憶」に纏わるサスペンス・ドラマ。これはもはや、記憶違いや物忘れなどのレベルの話ではないだけに、ヒロインの妄想すなわち、昨今流行の“あのパターン”の映画だろうと高をくくっていたが、同じ様なパターンの映画が通用するほど、ハリウッドもそう甘くはない。巧妙に仕掛けられた罠なのか、或いはやはり彼女の思い違いなのか・・・といったミステリアスな雰囲気は持続することなく、映画は中盤から様相が一変してしまう。当初、D・フィンチャーの「ゲーム」を連想していたのだが、謎の男が出現してからはかなり具体的に、しかも人知の及ばない“何か”の策略が蠢いていることが解かってくる。このあたりを「Xファイル」的だと指摘する声もあるが、私などはむしろ昔の米TVドラマ「ミステリー・ゾーン」のロッド・サーリングの世界そのものだと思っている。決して理屈ではなく、我々の日常周辺に生じる身近な出来事。奇異であり奇跡的であり、人知では計れない不可思議な現象を描いた本作は、小さな世界の話のようでいて、実に大きいスケール感を伴った映画だ。しかし謎の解明のプロセスが大雑把で、結論に至るまでが余りにも性急過ぎるのは、上映時間の問題だけではないように思う。とりわけ、信じ難い話にやたら物分りの良い女性警官や、何かを嗅ぎ回っていたフシのある連邦保安局員は、途中から登場しなくなったりと、何かにつけて不備が目立つ。要はせっかくのアイデアを上手く脚本化できなかった事が、本作の最大の欠陥とも言えるのだが、もう少しヒネリがあれば、もっと面白い作品になっていただけに、惜しい気がする。 [映画館(字幕)] 7点(2005-06-30 16:02:58) |
60. ニワトリはハダシだ
森崎東作品には、社会に対する反骨精神で貫かれている面が暫し見受けられるが、その姿勢は演出のみならず我々観客に対しても、決しておもねらない形で表れる。彼の言わんとする、あるいは描こうとする世界観は理解できるにしても、そのドラマツルギーは、一体いつの時代の話なのかと思うぐらい古臭く、表現方法は余りに稚拙である。これは演出レベルそのもを意味するものではなく、あくまでも彼独自の演出スタイルなのであるが、その散文的な演出法は、至って単純な物語を複雑で混沌とした物語へと変貌させていく。純真無垢な子供たちとカリカチュアされた悪い大人達、という単純な図式の割に、テーマが少しも見えてこないのである。だから捉えようによっては、焦点の定まらない印象の散漫な映画として見なされてしまう。いや、纏まりが無いのではなく、むしろ纏めようとしていないのだろう。人々の日常とはそういうものなのだと、ここでも彼の主張が聞こえてくるようだ。しかし達者な演技人があればこそ彼の映画の世界が構築できたとも言える。もともとは脚本家である彼の思想や哲学はプロであるが、それに見合う演出力は未だに備わっていないというのが、私の持論である。それにしても、これほど作風に変化の無い人も珍しいが、ベテランらしい演出の旨みやコクというものよりも、むしろ常に若々しい映像を提供してくれるのが、この人なりの魅力なのかも知れない。 [映画館(字幕)] 7点(2005-06-29 17:46:11) |