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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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41.  星になった少年 Shining Boy and Little Randy
本作は紛れもなく柳楽優弥を見せるための映画である。舞台が都会から農村に移ろうと、自然児のイメージとあの独特の眼差しはまったく変わることがない。演技に関してはまだまだ未成熟で、勉強の余地は十分に残されているが、それでも彼ひとりで一本の映画が成立してしまうのだから、その存在感たるや大したもの。映画は彼の一挙手一投足を余すことなく描写し、存分に魅力を引き出せている。そういう意味では成功作の部類に入るかも知れない。しかし一本の映画として総合的に評価すると、やはり物足らなさが残る。まずドラマとしての構成力が問題に挙げられよう。タイでの修行の後、一人前となって土地を後にするまでが前半の山場。しかし、帰国してから彼が不慮の死を迎えるまでの、後半部分が前半に比べると余りにも弱い。それは、ドラマらしいドラマが無いことに起因する。 ハッキリ言って、タイのシークエンスだけで事実上この映画は既に終わっているのである。だから後はどうでもいいようなエピソードの羅列で、彼の死までを繋いでいるようにしか見えない。実話に基づいているとは言うものの、「こういう事がありました」と断片的に披露しているに過ぎず、ドラマの中でとりたてて深い意味を帯びてこないのだ。もっとも、タイでの各シーンにしても、後半を気にしたような作りとなっていて、少年たちの訓練のプロセスや心の交流などが端折りすぎで、描き込みが足りない。製作者側としては、このタイでのエピソードにもっと焦点を絞るべきではなかったか。その事によって、何故彼が象使いに憧れを抱いたかというテーマが、より鮮明に浮び上がったと思う。象を始めとする様々な動物が出演することで、夏休みの子供向け映画としては無難な作品とも言えるが、人間までもが意味も無く大挙出演するのは、邦画の悪い癖で、映画の印象を散漫にするだけである。
[映画館(字幕)] 7点(2005-08-19 18:19:00)
42.  亡国のイージス
戦後60年を経た今、諸外国の地域紛争やテロの恐怖など、世界情勢は相変わらずキナ臭い状況が続いている。そんな中、“平和ボケ”と揶揄されながらも、自ら戦争を行使することなく、とりあえず平和を堅持している日本に突如、クーデターが生じたら・・・というのがこのドラマの発想である。アメリカのような、伝統的に育んでいく為の土壌というものが無く、本来こう言ったポリティカル・サスペンスは日本映画が最も苦手とするジャンルである。確かに上映時間の都合もあり、原作をダイジェスト版のように端折って描いた事で、未読の者には意味不明な部分も少なくない。その為か人物描写の中途半端さが感情移入することを遮ってしまっている。しかしその一方では無駄なシーンも多く、バランスの悪さばかりが目立つ作品である。これがハリウッドで将来リメイクでもされたら、もっと上手く料理して、さぞかし面白い作品になるだろうに・・・と、つい考えてしまう。この作品の問題点の一つには、やはり監督の力量にあるように思う。もちろんこれだけのスケール感をともなった人間ドラマを演出できる監督など、そうザラにはいない。骨太の男っぽい作品という意味では、いかにも阪本順治らしさが出ているが、どちらかと言えばローバジェット作品を主体に活躍してきた事もあり初の大作映画に気負い過ぎたのか、ドラマもアクションもどこかぎこちない印象を受ける。過去の映画の良いとこどりをしている割に、アレンジが巧くいっていないのだ。庶民の日常生活という狭い範囲でのドラマに冴えを見せてきた人だけに、作品の資質に見合っていたかが疑問である。さらに著名な俳優が多く出演している事が作品の格でもあるまいが、顔ぶれそのものには新味は無く、むしろ何の為に出ているのかすらも分からない人が多い。佐藤浩市と吉田栄作の役や女性工作員ジョンヒなどがその最たるものだが、「原作にあるから・・・」という程度の理由なら、余りにも主体性が無さ過ぎる。彼らの存在は一見意味ありげだが、思わせ振りなだけで、ドラマの中でほとんど機能していないではないか。登場人物をどうせ生かせないなら、むしろそう言うところこそ割愛するべきなのではないだろうか。自衛隊の協力もあり実物の船が航行するシーンなどの撮影は素晴らしいが、船内の暗さと船外の明るさのコントラストをもっと明確にする事で映像にメリハリが生じ緊迫感もより高まったように思う。
[映画館(字幕)] 6点(2005-08-19 01:08:26)(良:1票)
43.  ヴェラ・ドレイク
親として何かと不憫だった娘に念願叶い、婚約にまで漕ぎつけた祝いの日。同席の弟夫婦にもやっと子供ができると言う二重の喜びに、戦前・戦後と片寄せあって生きてきたドレイク一家にとって、まさに至福のときを迎えたのだった。しかし人生とは皮肉なもの。警察が訪れたところからドラマの様相は一変する。妻のヴェラは、家政婦の仕事の傍ら、身寄りの無い老人や体の不自由な人の家を訪ねては、身の回りの世話をしてやっている。家族の前でも鼻歌まじりでいつも明るく振舞う彼女。この家族の生活感をリアルに捉えたM・リーの演出法は的確であり、後々のドラマに説得力をもたらしている。とりわけ冒頭からの一連のシークエンスは、ヴェラの性格や歩んできた人生までもが一瞬にして透けて見えるほどだ。だから「堕胎の手助けをした」という事実は「秘密」であっても、どこまでも「嘘」のない純粋な女性だという事が良く分かる。確かに軽率であるが悪気は無く、違法という後ろめたさはあっても罪の意識は薄い。警察に踏み込まれた時に見せる彼女の困惑顔がそれを物語っている。“なぜバレたの?”と。動揺を隠せない彼女が最も恐れていたのは「罪を犯した」事よりも「家族に知られる」事である。何かが音を立てて崩れていく。事情のまるで飲み込めない家族の戸惑い。粛々と職務を遂行する警察。三者三様の構図のスタンスを保ちながらドラマはにわかに緊迫感を帯びてくる。しかし映画は、当時の時代背景や貧困層に対する社会問題、そして「彼女たちの罪」といった事には深く立ち入ろうとはしない。それは「家族のあり方」と「人間の絆」を描きたかったに他ならないからである。ヴェラの優しさと有難さは家族以外の人々も十分認識していると信じたいし、多くを語らずとも息子を諌める父親の毅然とした態度には胸が熱くなる。こういう時にこそまさに人間性が問われるのである。本作は、ストーリーも然ることながら、巧みな構成力による緻密な日常描写、そして演技人たちの確かな演技力で稀に見る見事なドラマを構築している。とりわけI・スタウントンの迫真の演技は瞠目に値するほどの凄みを感じさるものであるが、一方、決して紋切り型でなく、終始冷静で人間的な温かみを感じさせてくれるウェブスター警部を演じたP・ワイトも忘れがたい。久し振りに本物の映画を観たという印象を受けた。それほどに実に見応えのある作品だ。
[映画館(字幕)] 10点(2005-08-12 00:52:43)
44.  ヒトラー 最期の12日間
第2次世界大戦末期に於ける、連合軍進攻によるベルリン陥落までの十数日間を描いた実録風戦争ドラマ。原題は「The Downfall(=陥落、崩壊)」であり、独裁者としてのヒトラーの知られざる側面を描きつつ、むしろ側近を含んだ彼の周囲の人間模様により焦点が充てられている作品だと言える。独裁者たるヒトラーを嘘・偽りの無い一人の人間として描く事や、陥落寸前のベルリンの悲惨な当時の状況を語る事は、何かとタブー視されて来ただけに、今回の映画化にあたっては、それ相当のリスクや軋轢があっただろう事は想像に難くない。しかしそれらを可能にしたのが彼の秘書であったユンゲの回顧録である。従って、映画はあくまでも彼女の視点から描かれていて、それがそのまま我々観客の視線ともなっている。映画である以上多少の誇張もあるだろうが、ここで描かれるヒトラーはおそらく最も真実に近い姿のような気がするし、今となっては彼女の回想を信じるしかないが、それでもユダヤ人団体から“人間的に描きすぎる”というクレームが来たそうだ。歴史上の人物を描くのが如何に難しいかという事だろうか。しかしながら、狂気と重厚さを併せ持った独裁者を演じるB・ガンツはそのソックリぶりで、名優ならではのヒトラー像を見事に体現してくれた。しかしその割にカリスマ性は然程感じられなかったのは残念だとしか言いようがない。それと言うのもやはり彼の側近たちの狼狽ぶりに力点が置かれている為であり、そう言う意味でヒトラーは言わば狂言回しではなかったろうか。組織の崩壊を目前にして素直に敗北を認める者と徹底抗戦する者、或いは国家を憂い将来を悲観して玉砕する者、それでもなお虚勢を装って退廃に耽る者など、国家や戦争への思い入れや立場の違いで、身の処し方も違ってくる。そんな悲惨な極限状況の中、追い詰められた者たちそれぞれの葛藤を、映画は極めて冷徹で淡々としたタッチで描出していく。壮絶で生々しい描写とは裏腹に、感情の無くなった兵士たちの表情がとりわけ印象的だ。本作は戦争が如何に狂気じみたものであるかという事とその戦争を終わらせるのは更に難しいという事を、強烈なメッセージとして世界に訴えかける。戦後60年を迎えた今、この映画を製作した意義は大きく、同じ敗戦国である日本人としては実に身につまされる作品である。
[映画館(字幕)] 9点(2005-08-09 00:52:42)(良:4票)
45.  アイランド(2005)
「ジュラシック・パーク」のクローン恐竜が襲ったのは“彼ら”を創り賜うた人間たちである事で、一種のパラドックス的な面白さを有した作品だったと言える。それに反し、その人間たちから逃げ回るのがクローン自身というのが本作の基本的なコンセプトである。主人公のリンカーンが甘美な夢から目覚めるという冒頭から見ても分かるように、“彼ら”も夢を見るのであり、ロボットやアンドロイド等とは一線を画すという、あくまでも人間の複製であるという事を端的に言い表している。そして人間の持つ根源的な「意思」や「感情」から、やがて「好奇心」や「疑問」が芽生える事によって、彼らは“自分は一体誰なのか?”“何の為に存在するのか?”といった、言わば生きる為の“自分探し”を、逃避行という形で行動に出るのが、大まかなストーリー・ライン。ロボットやクローンが主人公というのも、昨今の近未来を舞台にしたSF映画では珍しくもないが、前述した意味において本作はもう一つの「A.I.」と言えるものであり、スピルバーグ自身が映画化したがっていたのも頷ける。その彼から直接白羽の矢を立てられた以上、M・ベイも今回ばかりは下手な作品には出来ない。結果的には監督として少しは見直した作品となっているが、近い将来に起こり得るというリアリティさを巧みに脚本化した功績が大いにモノを言ったようだ。もっとも、人間の死生観を探究するといった哲学的なテーマよりも、ベイらしいアクション主体の娯楽作品であることに変わりは無く、映画の中盤で炸裂する大スペクタクル・ショーは、いかにも彼らしい躍動感に溢れたものであり、ダイナミックなエンターティンメントとして純粋に楽しめる出来だ。ラストの閉ざされた居留地から地上への脱出の構図は、まさに奴隷解放のイメージそのものであり、それを実現したのが“リンカーン”というのは、シャレだろうか。いや、きっと“ジョーダン”だ。
[映画館(字幕)] 8点(2005-08-04 18:29:25)(良:1票)
46.  バットマン ビギンズ
T・バートンにより創造された「バットマン」は、強烈な個性で鳴らす彼の世界観に見事なほどマッチしたものであり、ゴシック調のスタイリッシュなダークサイドを描いていながら、劇画的で遊び心が満載といったどこか安っぽいムードが、むしろ作品そのものの魅力だったと言える。しかし、本数を重ねるたびに劇画タッチが漫画チックに変貌していき、また飽きられてきたのもシリーズものの宿命である。行き詰まりを感じての軌道修正でもなかろうが、気分一新で臨んだのが今回の「新生バットマン」。それにしても、“誕生秘話”は今やハリウッドの流行りなのだろうか。同じ題材でありながら少しでも目先の変わったものを供給するという事に腐心しているように思えてならない。映画産業も安閑とはしていられないのだろう。しかし本作は、ストーリー、アクション、豪華なキャスティング等々、どれをとっても気合は十分感じとれる作品となっている。人間ドラマにかなりの比重を置かれて描かれているのが特徴であり、苦悩するヒーローといった構図などは、かなり「スパイダーマン」を意識しているように思う。しかし娯楽作品としては、やけに重々しくて理屈っぽくなり過ぎたきらいがあるのは否めず、また手強いはずの悪役そのものにさほど魅力がないのも残念だとしか言いようがない。余裕綽々の演技で脇を固めるベテランたちに混じって、C・ベールの演技はやはりどこか硬い印象を受けるのも宜なる哉。しかしながら、キレのあるアクションやスピード感はやはり本格派と言えるものであり、オリジナルとはまた違った趣向で魅力たっぷりに描かれている事や、リアリティ溢れるメカやセット・デザインなどから感じさせる本作に対する製作側の真摯な姿勢と意気込みは大いに買いたい。
[映画館(字幕)] 8点(2005-08-03 18:34:50)(良:1票)
47.  受取人不明
70年代末期の在韓米軍基地周辺を舞台に、三人の若者を中心に描いた群像劇。青春ドラマというには、余りにも痛ましく、かなりビターな味わいを残す作品だ。韓国の歴史には詳しくも無いが、朝鮮戦争が物語の発端となっている事だけは確かなようで、戦争に直接的な関わりを持たなくとも、後々において様々な影響を及ぼすという痛烈なメッセージが感じとれる。ここに登場する人物たちは、直接・間接を問わず、すべからく戦争の犠牲者であり、心に深く傷を抱えている。当時の閉塞感溢れる社会状況の中にあって、とりわけそれぞれに悩みを持つ若者たちが、その鬱積した気持ちの吐け口を探し求めようとする。それは彼ら韓国人のみならず、米軍基地に留まっている若き米兵の存在にも言える事だが、どこか戦後の日本の姿にも重なり合う部分が多い。しかし、心の拠りどころを求め続ける彼らの悲痛な叫びは誰も受け取ってはくれない。やがて若者たちは、忌まわしい過去を清算するかのように、それぞれが自己完結を図ろうとする。それはまるで連鎖するかのようであり、ドラマは一気に悲劇性を帯びてくる。物語に届かない手紙を暗喩として象徴的に引用しているように、戦争の後遺症とは、いつの時代でもどこの国にでも生じ得る普遍性のあるテーマでありとりわけ子供たちへの影響は計り知れないものがあるという事なのだろう。映画は個々に何らかの関わりを持っている主要人物の造形がとにかく見事で、複雑に絡み合いながら大きなうねりとなっていくドラマ構成も巧みで、十分見応えがある。具体的に画面では見せないものの、痛みを伴うギドクらしい作風はここでも存分に感じとれるが、モチーフでもある寓話色は意外と希薄で、美しい田園風景とは裏腹に濃密な人間ドラマには実感が込められ描かれた秀作である。
[映画館(字幕)] 9点(2005-07-26 18:30:28)
48.  HINOKIO ヒノキオ
物語は、母親を事故で亡くしたサトル少年が、自らも心と体に傷を負い、やがて自宅に引きこもったまま登校拒否を続ける。それを見かねた父親は、ロボットを息子の分身として登校させるようになる。これはまるで「鉄腕アトム」の世界そのものではないか。昔ならアニメで描かれた事が今ではCG技術の発達が実写を可能とした。ボディの一部に「檜」を使用していることもあって、機械(=マシーン)であるにも拘らず、どこか温かみを感じさせるデザインが秀逸で、細部に渡って実に精巧緻密に造形されている。そしてそれにも増して、その動きの滑らかなこと自然なこと。実写の人物たちと何の違和感もなく共存している見事さに思わず目を奪われてしまう。凡百のSF映画に登場する非現実的なクリーチャーたちと比較するまでもなく、リアリティを存分に感じとれるよう巧妙に作られていて、もぅそれだけで本作は十分に成功したといって言いぐらいだ。ロボットを介してサトルと心を通い合わせようとするジュンに大きな比重をかけて丁寧に描かれているが、演じる多部未華子の存在なくしては成立し得なかったのではないだろうか。それほどに彼女は眩しく光り輝いていた。初恋にも似た二人のピュアな関係が綴られていく一方で、父親とサトルとの描き方は最後まで曖昧なままで釈然としない。そもそも何故サトルがそれほどまでに父を恨んでいるのか、明確には描かれていないのが不満だ。またコンピューター・ゲームというバーチャルな世界と現実の世界との結びつきといった、ファンタジックな味付けも意味不明で、上手くいったとは言いがたい。しかしながら本作は、引きこもりや不登校といった現代社会の抱えるテーマに一石を投じた作品として、そして爽やかな青春ドラマの好編として評価しておきたい。
[映画館(字幕)] 8点(2005-07-22 16:00:20)
49.  香港国際警察/NEW POLICE STORY
長きに渡り多くのファンを魅了し続けてやまないジャッキーのアクションは、どんなに時代が移り変わろうとも、終始一貫変わることがない。子供騙しのようなCGには目もくれず、手作りという、あくまでも活劇映画本来の面白さを狙って生み出されたアイデアを、鍛え上げられた肉体が次々とものの見事に実践してしまう。そんな生身の体から発散される圧倒的な迫力に加え、観客に対する彼の旺盛なサービス精神に、我々は感動し拍手を惜しまないのである。それらの事がコミカルであろうとシリアスなものであろうと、ジャッキーの作品は筋金入りだと言われる所以でもある。しかし映画の中ではやはり時代が進むことにより、犯罪もより高度になり犯人像も複雑を極める。しかも対決するべき今回の相手は、警察の精鋭部隊がいとも簡単に血祭りに上げられてしまうほどの頭脳集団だ。ゲーム感覚で警察を手玉に取る、この序盤のシークエンスが映画的には最も面白く、凶悪犯が手強ければ手強いほど、映画としては面白いというお手本のようである。巧妙な罠にかかり警察官として挑発を受け、散々屈辱を味あわされたジャッキーが苦悩の挙句、酒浸りになってしまう哀れな姿は今まで見られなかったような役どころだが、後半、反撃に出る彼のアクションを際立たす重要なシチュエーションでもある。暗く重い前半から、ジャッキーの畳み掛けるようなアクション全開の後半は、一気に開放感溢れたものとなる。ジャッキーのアクションはアクションへの流れが自然であり、いわゆる見せ場の為のアクションではないと感じさせるところがこの人の凄いところだ。やがて一筋縄ではいかなかった筈の犯罪者グループの脆さが一気に噴出するのだが、中盤あたりまでがすこぶる快調だっただけに、彼らの失速ぶりが作劇としては惜しくもある。 また、ジャッキーの年齢を考えると、危険な目にあう婚約者といった設定にも、やはり無理がある。 それにしても、香港には超高層ビルの多いことを改めて感じさせられたことから、これからのジャッキーのアクションには、ますます好材料となるようだ。
[映画館(字幕)] 9点(2005-07-21 17:24:59)
50.  オープン・ウォーター
実際にあったコワ~イお話。こういう作品を制作する際に問題となるのが、災難に遭った当事者でもない限り、その場の状況は誰にも分からない訳で、同様の事故から生還した人のコメントを参考にする以外は、想像の域を出ないという事である。従って、ドラマチックな感動を呼ぶ娯楽作品に徹するか、あくまでもリアルさを追求したドキュメンタリー風の作品にするかは、製作者の狙いによって随分と違ってくる。こういった再現ドラマには以前公開された「運命を分けたザイル」という秀作もあるが、舞台が雪に閉ざされた山岳地帯という事もあって、ドラマを構築するには有利に働いたように思える。しかし本作は周囲360度が見渡す限りの海が舞台であり、そこにポツンと取り残された二人の男女の運命を描くには、画面的には単調にならざるを得ないのは自明の理。どう考えたって娯楽作にはなりようがない。 そこで、その不利な条件を逆手に取り、接写撮影に徹して、観客をも巻き込んだ同時体感ムービーにしたのは、正解だったと思う。いや、もはやその方法しかなかったとも言える。主人公たちを俯瞰で捉え、空間的な広がりを感じさせるショットも無くはないが、ここで問われるのは、あくまでも状況の迫真性である。彼らの足元に蠢くクラゲや鮫といった、海に生息するモノたちからの攻撃による恐怖も然ることながら、一方では、何も起こらない事の恐怖も同時に味あわされる。取り残されたという心細さが徐々に不安感に繋がり、やがて恐怖に変わっていくプロセスは、なかなか巧みだ。とりわけ、延々と波に揺られることで船酔い状態になり、嘔吐する生々しい描写や、感情が微妙にブレ続ける二人のセリフの遣りとりなど、真実味や臨場感からくる恐怖演出は十分に捻出されているし、さらに、無名の俳優たちの真に迫った演技も見逃せない。それにしても、単純なミスで災難を被る映画としては異色の本作だが、安手のリゾート・ツアーには気をつけようという、戒めが込められているようだ。
[映画館(字幕)] 8点(2005-07-14 12:29:53)(良:1票)
51.  ダニー・ザ・ドッグ
ピアニストの母を持つお坊ちゃま少年ダニーが、自分の生い立ちを何故覚えていないのか、そしてどのようにして、これ程までに強靭な肉体を有するファイターに成長できたのか。さらに飼い犬の如く借金取立ての強力な用心棒として彼を育て上げた親方の思惑や真意など、基本的な部分に何かと説明不足な作品だ。「所詮アクション映画なんだから、クドクドと説明するまでも無いだろう!」とベッソンは言うかも知れないが、物語の根幹に関わる事だけに、もっとじっくり脚本を練って欲しかった。ディテールをきっちり抑えていればこそ、ドラマにも説得力が生じるというものだろう。しかし、本作はそういった脚本の欠陥をL・レテリエのテンポのいい演出で補っているのが救いだ。アクションにおけるスピード感溢れる歯切れの良さは「トランスポーター」で立証済みだが、主役を引き立てながら見せ場を作る上手さでは無類の才人だと思う。彼には是非とも「007」の監督をやらせてみたい。ただ、あの世へ行っている筈のB・ホスキンスがゾンビのように生きているのはどう考えたって不自然で、その部分だけはアクションの過激さが裏目に出たようだ。さらに周囲の観客に囃し立てられて、已むを得ず闘鶏場のようなリングで死闘を繰り広げるといった、使い古されたパターンや、J・リーの女性にはウブでストイックという設定には、もぅそろそろ卒業したい。
[映画館(字幕)] 7点(2005-07-13 16:48:18)
52.  リチャード・ニクソン暗殺を企てた男
人間、生きていくからには嫌な事も山ほどあるが、普通はそこを何とかして乗り越えていくものである。しかし中には生きる事に不器用で、上手く世間を渡れない人間もいる。真面目で正直者が損をするのが世の中の風潮ならば、この物語の主人公などはまさにその典型例だと言える。事の発端は妻との別離で、それ以来何をやっても上手くいかない(と思い込んでいる)彼は、彼女とさえヨリを戻せば全てが上手くいくと考えているフシがある。なんと単純な男だろうか。上手くいかない本当の理由は彼女との結婚生活以前のハナシであり、何ごとにも真面目すぎる反面、ネガティブな考え方しか出来ない彼自身の性格がそうさせているのだ。彼には会社の上司や同僚、あるいは親しい友人、そして何かと救いの手を差しのべてくれる兄の存在があり、決して孤独ではないはずだ。しかし彼は自分の殻に閉じこもるばかりで誰にも心を開けようとはしない。妻もそんな彼にきっと嫌気がさしたのだろう。男は唯一気持ちの拠り所として心酔するレナード・バーンスタインに、遣り場のない心の叫びを聞かせる。この世の中で信じられるものは自分とバーンスタインであって、それ以外は憎むべき対象でしかないのである。そして処世術に長けた者に対するヒガミ根性が、やがて彼を行き着くところまで行かせてしまう。しかし、本来最も身近な憎むべき人物すら殺せない小心者の行く末は、押して知るべしである。確かにこの被害妄想の塊のような男に同情の余地は無く、むしろ不快を感じるほどだが、映画的に良く出来ている事とは別の次元の話。クライマックスへ至るまでの細かい描写の積み重ねは、主人公の人物像にリアリティと説得力を生み出し、人生に行き詰まった男を演ずるS・ペンは、デ・ニーロをも凌駕するほどの凄味を魅せる。 実話をベースにしているだけに、妙に納得してしまう作品だ。
[映画館(字幕)] 8点(2005-07-07 18:20:38)
53.  宇宙戦争(2005)
SF小説の古典である「宇宙戦争」の映画化にあたっては、B・ハスキン版の傑作オリジナルに加え、同じ様な題材を扱って成功を収めた「ID4」があるだけに、かなりのリスクを伴っていた筈である。しかしながらスピルバーグが映画化を決意するからには勝算があればこそで、少なくとも過去のSF映画をなぞるような事だけは間違ってもしない筈。それがスピルバーグ流というものである。言葉ではなく、常に映像で語り続けてきた彼独自の切り口による、この全く新しい「宇宙戦争」は、まさに天才の創った映像と呼ぶに相応しい作品だと言える。 それはまさに戦場に放り込まれたような阿鼻叫喚の世界で、人々が逃げ惑い攻撃を受ける描写には臨場感が溢れ、痛快さとは無縁の真実味のある恐怖が、たっぷりと描かれていく。平和な街の日常風景が急変するこの序盤のシークエンスは、現代社会に起こる様々な恐怖を暗喩として描き続けてきたスピルバーグらしく、それらの描写は言葉では表現できないほど凄まじく、容赦が無い。破壊されたホワイトハウスや自由の女神といった有名な建造物など一切出てこない事も、市民レベルの恐怖に更なる実感をもたせ、単なる絵空事ではないと感じさせるのである。彼の作品で常に驚かされるのが特撮における迫真性である。今回のそれは、実際の宇宙人に攻撃されている街へ、そのままロケ隊が撮影に来ているような錯覚に陥る程であり、見事と言う他ないのだ。“スーパーリアリズム”という細密画のジャンルがあるが、スピルバーグはまさに映像に於ける“スーパーリアリズム”を実現したのである。夕暮れの小高い丘の向こうに攻撃を加える軍隊、あるいは墜落した旅客機の残骸が散乱しているシーン等、明らかに直接的な描写を避けているシーンが多い。これは「ID4」とは全く違うスタンスであるという意思表明である同時に、前述の街の攻撃シーンやフェリー乗り場でのパニック・シーンをより際立たす為とも思われるが、信奉する黒澤明の影響がここにも表れているようだ。オープニングのバクテリアから想像する結末は、オリジナル版同様、原作に忠実であり、象を倒す蟻の如く、微小なものが巨大なものを倒すカタルシスは一見呆気無いようでいて、それこそが生命の神秘でありまた真理なのである。またトライポッドは原作の古典本のイラストをそのままデザイン化したもので、H・G・ウェルズへのオマージュともなっている。
[映画館(字幕)] 10点(2005-07-04 16:28:02)(良:8票)
54.  フォーガットン 《ネタバレ》 
自分のお腹を痛めてまで生み育てた子供が、実は最初から存在していなかったとしたら・・という発想から編み出された、「記憶」に纏わるサスペンス・ドラマ。これはもはや、記憶違いや物忘れなどのレベルの話ではないだけに、ヒロインの妄想すなわち、昨今流行の“あのパターン”の映画だろうと高をくくっていたが、同じ様なパターンの映画が通用するほど、ハリウッドもそう甘くはない。巧妙に仕掛けられた罠なのか、或いはやはり彼女の思い違いなのか・・・といったミステリアスな雰囲気は持続することなく、映画は中盤から様相が一変してしまう。当初、D・フィンチャーの「ゲーム」を連想していたのだが、謎の男が出現してからはかなり具体的に、しかも人知の及ばない“何か”の策略が蠢いていることが解かってくる。このあたりを「Xファイル」的だと指摘する声もあるが、私などはむしろ昔の米TVドラマ「ミステリー・ゾーン」のロッド・サーリングの世界そのものだと思っている。決して理屈ではなく、我々の日常周辺に生じる身近な出来事。奇異であり奇跡的であり、人知では計れない不可思議な現象を描いた本作は、小さな世界の話のようでいて、実に大きいスケール感を伴った映画だ。しかし謎の解明のプロセスが大雑把で、結論に至るまでが余りにも性急過ぎるのは、上映時間の問題だけではないように思う。とりわけ、信じ難い話にやたら物分りの良い女性警官や、何かを嗅ぎ回っていたフシのある連邦保安局員は、途中から登場しなくなったりと、何かにつけて不備が目立つ。要はせっかくのアイデアを上手く脚本化できなかった事が、本作の最大の欠陥とも言えるのだが、もう少しヒネリがあれば、もっと面白い作品になっていただけに、惜しい気がする。
[映画館(字幕)] 7点(2005-06-30 16:02:58)
55.  ニワトリはハダシだ
森崎東作品には、社会に対する反骨精神で貫かれている面が暫し見受けられるが、その姿勢は演出のみならず我々観客に対しても、決しておもねらない形で表れる。彼の言わんとする、あるいは描こうとする世界観は理解できるにしても、そのドラマツルギーは、一体いつの時代の話なのかと思うぐらい古臭く、表現方法は余りに稚拙である。これは演出レベルそのもを意味するものではなく、あくまでも彼独自の演出スタイルなのであるが、その散文的な演出法は、至って単純な物語を複雑で混沌とした物語へと変貌させていく。純真無垢な子供たちとカリカチュアされた悪い大人達、という単純な図式の割に、テーマが少しも見えてこないのである。だから捉えようによっては、焦点の定まらない印象の散漫な映画として見なされてしまう。いや、纏まりが無いのではなく、むしろ纏めようとしていないのだろう。人々の日常とはそういうものなのだと、ここでも彼の主張が聞こえてくるようだ。しかし達者な演技人があればこそ彼の映画の世界が構築できたとも言える。もともとは脚本家である彼の思想や哲学はプロであるが、それに見合う演出力は未だに備わっていないというのが、私の持論である。それにしても、これほど作風に変化の無い人も珍しいが、ベテランらしい演出の旨みやコクというものよりも、むしろ常に若々しい映像を提供してくれるのが、この人なりの魅力なのかも知れない。
[映画館(字幕)] 7点(2005-06-29 17:46:11)
56.  トニー滝谷
次々と繰り出される横移動のカメラによる平面的な映像は、どこか都会的でアンニュイな雰囲気を漂わせている。今の場面と次の場面との繋ぎの役割を果たしているのは柱や壁。それらの影から登場人物たちをそっと覗き見しているような感覚は、昨今のドマラ性のあるCMを観ているようで、CM界出身という市川準のセンスを存分に感じさせる映像表現である。すべてを忘れ捨て去ったときに初めて生涯で最も大切なものに気づくというテーマの本作は、しかしながらストーリーを語っていく作品ではなく、あくまでも映像で綴っていくタイプの作品だと言える。だからだろうか、研ぎ澄まされたセリフのひとつひとつには深い思いが込められ、少ないセリフだからこそ余計胸に突き刺さるのである。登場人物は基本的にイッセー尾形と宮沢りえの二人だけ。長年一人芝居でキャリアを積んできたイッセーの才能は、ここに於いて遺憾なく発揮され、彼にしか出せない味を体現してくれた。また「父と暮らせば」などで二人芝居づいている宮沢りえは、二役をさり気なくしかし絶妙に演じ分け、一段と演技力が増したように思う。演技力があればこその起用であろうし、二人とも見事それに応えている。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-27 18:35:01)
57.  サマリア
細かい状況設定を思い返すと、不可解さばかりが目立つ作品だ。例えば、援助交際の相手の連絡先を、一人残らず手帳に記していたという事。飛び降りて死んでしまったチェヨンの後日談には、さっぱり触れられていない事。しかも彼女の死顔の微笑みは謎を残したままだ。映画は彼女の死などまるで無かったかのような描き方をしているのは、チェヨンという少女がそもそも存在していなかったからではないだろうか。映画の中盤からは、主人公のヨジンとその父親のドラマへと収束されていく以上、チェヨンの存在理由はますます遠退くばかりだ。想像の域は出ないが、ヨジンは自らの心の空洞を埋める為に、もう一人の自分をチェヨンとして演じていたのではないだろうか。ヨジンにとっては理想の少女がチェヨンなのだ。思春期の少女の揺れ動く心は、シャワーを浴びるふたりの姿で表現される。それはまるで汚れを知らないかのような可憐で妖しい美しさ。男に体を売る自分と、それを外から見守る自分。分身である一方の自分が消滅すると現実に引き戻される自分がいる。映画はファンタジックな世界から、やがてリアリズムの世界へと変貌していく。後半、随所に出てくる生々しい暴力描写はギドクらしさに満ち溢れているが、父親の異常なまでの感情の爆発は明らかに常軌を逸している。彼の理解を超える行動は、娘のとった行為に苦悩していると言うよりも、まるでそれを正当化しているように見え、焦点がぼやけてしまった印象は拭えない。喧騒からやがて静寂の世界へと父と娘の癒しと懺悔の旅は続くが、父親がそうであるように、彼女のとるべき道も彼女自身すでに分かっている筈である。だから象徴的なラストは敢えて必要ではないとも思う。しかし現代人の抱えている問題を、どこまでも寓意に満ちた手法で描き切ったギドクにはやはり目が離せない。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-16 16:10:50)
58.  エレニの旅
アンゲロプロスの映像世界には、他の誰もが真似ることが出来ないこだわりとオリジナリティがある。今日に至るまで、死守され続けてきたこの人だけの映像スタイルは、黒澤とそして小津の影響が明々白々であり、その姿勢は愚直なほど一貫している。オープン・セットでは超望遠レンズを多用して映像に奥行きと重厚さを生み出し、室内シーンともなると固定キャメラで延々と芝居をさせる事などがその顕著な特徴である。本作はギリシア悲劇をベースに、繰り返される戦争の虚しさとそれに翻弄される民族、そして愛する者への慟哭を描いたものである。これはアンゲロプロスが作家として追い続けている永遠のテーマであり、また世界的に見ても唯一無二である事で、独自の地位を築き上げてきた人である。一大叙事詩とも謳われるその映像は、まるで能の舞台を観るかのような様式美で統一されていて、室内よりむしろオープン・セットにより彼らしさが表れている。それは彼の作品のモチーフでもある「河」に象徴的に描かれる。ときに国境として、あるいは祖国を分断するものとして、さらに民族の分裂から仲間や家族との別離といったシーンにより深い意味が込められ、今まで以上に大きな役割を担っていると言える。オープニングの難民たちに始まり、洪水に見舞われ水没する村々、あるいは多くの舟が整然と並び、漕がれる櫓が幾何学模様となって河を渡るシーンなど、それらはまるで静物画のような美しさで描かれる。また、木に逆さ吊りにされた無数の羊たちのショット、あるいは土手を挟んで二人の息子が再会する様子を、幻影として見つめる母親の姿を捉えた終盤のシーン等々、物言わぬ映像が多くの事を語りかけてくる。悲しくも美しい映像には枚挙の遑が無いほどだが、ひとつひとつのシーンはまさに芸術品であり、あたかも美術館を巡っているようである。細かなプロセスが省略されていても、個々のエピソードは十二分に理解でき得る。映像の持つ力とはそういうものなのである。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-15 18:32:14)(良:2票)
59.  ウィスキー
下町で古びた靴下工場を細々と経営する初老の主人ハコボの元へ、疎遠になっていた弟のエルマンが訪ねてくる。ハコボは事もあろうに、従業員のマルタに偽装夫婦になる事を頼み込み、三人での束の間の奇妙な共同生活が始まるというのが、大雑把なストーリー・ライン。何故、ハコボは結婚していなかったのか、或いは偽装結婚を何故する必要があったのか、などと言った素朴な疑問には殆んど触れられないまま、ドラマは進行していく。勿論、それらには然したる意味はなく、何の変化もない同じ事の繰り返しで明け暮れしている所へ、一石を投じた事によりドラマが生まれ、やがて人間の本性が炙り出される面白さ。様々なエピソードを積み重ねる事でそれらは的確に描出されていく。静かな語り口だが演出は実に巧みで、ドラマらしいドラマがなくとも、多くの事を語りかけてくる作品だ。もう若くもなく、同じスタイルに固執し変化を望まない一組の男と女。仕事以外のことには無気力・無関心で、自分の殻に閉じこもって人生を楽しもうとしないハコボ。今までどのような人生を送ってきたのだろうか。しかし羽振りのいい弟には弱みを見せたくないという、兄としてのプライドだけは持っていて、その頑なな姿勢はどこまでも崩さない男だ。年配の従業員マルタも寡黙で仕事には従順な女性として描かれるが、利己的で単純なハコボと違い様々な表情を垣間見せる。彼女は一人では生きていけない事を自覚し、そして何かに期待を抱きながら生きてきた女性なのである。偽装夫婦を頼まれた時に快く応じたのもやはりその何かを期待したからで、たまたま年恰好が同じという程度の理由で、マルタを選んだハコボとは大違いだ。だからラストのしっぺ返しも当然の成行きとも言える。表向きは例え同じ方向を向いているようでいても、生き方や考え方というものはやはり人それぞれ違うという、至極当然のことを映画は改めて教えてくれる。“チーズ”と“ウィスキー”の違いはあっても、人生を笑顔で過ごしたいのは何処の国の人も同じだと、作者は言いたげだ。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-09 16:21:21)(良:3票)
60.  ミリオンダラー・ベイビー
「ミリオンダラー・ベイビー」はそのタイトルからくるイメージとは程遠い、実に重みのある作品だった。もちろん途中までは、確かにアメリカン・ドリームを実現しようと奮闘する、いわゆるウエルメイドな痛快篇であることには違いないが、人生、好事魔多しで、奈落の底へ叩き落とされた途端、ドラマは後半急速に深刻さを帯びてくる。実の娘あるいは家族への想いが届かないもどかしさに、人生のほろ苦さを味わうフランキーとマギーは実の父娘以上の、まさに運命共同体である。そんな戦友とも言える二人が見た束の間の夢は、残酷な形で跳ね返ってくる。それはたまらなく悲惨で、ひたすら重苦しく、ほんの僅かな望みさえ奪われてしまう二人の無念さが、胸に迫ってくる。本作で表現される光と闇は他で類を見ないほど巧みであり、暗い情念の世界がスポットライトを浴びているファイトシーンとの対比で、悲惨さをより際立たせるには実に効果的だったと思う。そしてフランキーが応急処置のスペシャリストでもあることが、図らずも皮肉な形となって表れるのが終盤のシークエンス。その一部始終を暗闇から見届ける親友のスクラップの眼差し。神に背いて究極の選択をするフランキーに対し、スクラップのその眼差しは、まるで沈黙する神のようである。自らの運命を宿命として受け入れるスクラップの生き方に対し、見るに見兼ねてひたすら行動に移すフランキーのイメージは、「許されざる者」のマニーの姿とだぶる。そして、生きることに絶望した人間に一縷の望みを叶えてやるという魂の救済の物語としては、「ひとりぼっちの青春」のM・サラザンとJ・フォンダの関係に重なり合う。まさしくフランキーは“廃馬を撃った”のであるが、マギーの微笑と一滴の涙がすべてを物語るように、彼自身の魂をも救済されたと思いたい。これが本作が究極の愛の物語と言われる所以であろう。人間とは哀しく生きることは苦しいという使い古されたテーマが、これほど切実に心に響く作品も滅多にお目にはかかれない。どうやらアカデミー会員は最良の選択をしたようだ。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-08 18:36:39)(良:3票)
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