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《ネタバレ》 CG映画が、ポリゴンの塊であることは、誰もが知っている。そもそも映画とは、暗い部屋に投影される光と音にすぎない。そもそも小説は文字の順列にすぎない。ミッキーマウスは労働者の着ぐるみ。人間とは血と骨と臓器のうまい具合の絡まりにすぎない。そんなことは言われなくてもわかっている。みんな知っている。なにもかも虚構であり、物理で記述可能なのだ。そんなことはもうとっくのとうに『新世紀エバンゲリオン』で味わっている(特に、世界の中心でアイを叫んだけもの)。だから「それがどうした。」なのである。そして、こういうメタ認知構造を突き付けてくる作品は、僕は嫌いじゃない。
だいだいだなあ笑い男よ、僕たちはね、ぼうけんのしょが消えるという、我が実存そのものを全消去されるショックを耐え抜いて今を生きているのだ。なぜって、勇者だからさ。 僕たち人間のスゲエところは、上記のような「現象」でしかないものに「価値」を見出すことができるということ。そしてその「価値」は、いかなるものからも傷一つつけられることはない。そう、あのラスボスであってもだ。(ぼうけんのしょが消えたときはかなり傷ついた) ここは意見が分かれるところだと思うが、僕は、あのラスボスは何も破壊できていないと思っている。だってミルドラースのバグですよ、そりゃ弱いでしょ。 しかもこの映画、ちゃんと笑い男に打ち勝ってるではないか。そのときの武器がアレなのも大いに共感できる。てんくうのつるぎは、僕(=ゲームの主人公)には装備できなかった。でもアレは、僕にも装備できる。なぜって、勇者だからさ。そしてエンディングが「そして伝説へ」。 それに中盤、ところどころにラスボスシーンの必然性(ピンクの聖水のトリップ反応、クエストというセリフ、設定というセリフ、雑な端折り)が仕込まれていたので、丁寧な仕上がりとなっていると言える。轢かれた猫のような衝撃はそれなりに緩衝できるように作られている。 でもさすがにラスボスに負けていたら、今頃ボロカスに書いていただろう。 ガキの頃ドラクエと出会い、ドラクエで言葉や計算を学び、ドラクエで人付き合いが増えた。20歳くらいになるとDSとかプレステとかでリメイクされ、ドラクエと再会した。最近ではユーテューブでプレイ動画(ありえねえ裏技があってびっくり!)見る。そして今、CGで映画としてよみがえりしドラクエだが、僕にとってのドラクエは最初から今まで一貫して変わらぬ存在。これが「価値」だ。しょせんゲームで、しょせんドラクエだ。「時間の無駄」と言われれば何も言い返せない。それでも、今でも僕が僕であるための支えの一つである。これはきっと多くの元少年も思いを同じにするところだろう。 要するに、つうこんのいちげきと捉える人が多いけれど、僕にとってはかいしんのいちげきな映画だった。僕は支持する。感動した。ありがとうドラクエ。 【no_the_war】さん [映画館(邦画)] 8点(2020-03-27 14:39:13)
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