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《ネタバレ》 原作、コミックを読まずに視聴したところ、原作を読まずにはいられなくなった。もろもろ確認の意味で。
本当に、この映画で描かれていたようなセリフ回しやシーンが原作にあるのかという不信感でいっぱい。 羽生の「そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ」というセリフを聞いて、逆に、マロリーの「そこに山があるから」の言葉の素晴らしさを再認識した。 私自身はクライマーじゃないから偉そうな口を叩きたくはないけれど、 山に登るということは、自分が「文明をもった人間」ということを、あえて忘れなきゃいけないんじゃないかと思う。 クライマーは、装備も技術も経験もあるとはいえ、山に棲む鹿や熊、その他小動物などと同様、自然のサイクルに組み込まれた単なる一個の命にすぎない、という謙虚さと自覚を持つべきでは? 獣たちは、バクテリアも棲めない極寒の高さまで登って、決して分解されないフンをまき散らしてきたりはしない。 本来は、エベレストは、人が登るべき山ではないのでは、とさえ思う。 命のサイクルが行われないデスゾーンの高みまで登る。その衝動に駆られる情熱を「おれがここにいるからだ」で説明されてはたまらない。 山を、自然を克服してやろうという気はあっても、それらを少しも愛していないのに、山の神に嫌われている、などと捨て鉢なセリフが羽生の口から出る。もう本当に「はあ?」となった。 嫌われ、山から弾かれるのは、当たり前じゃないかと。 マロリーは、山で死んでも幸せだっただろう。「山がある」という言葉に、羽生とは違う深い愛を感じる。大好きな山の懐に抱かれて死んだ、というイメージだ。 でも、羽生の死は、登頂の栄誉や、相棒・恋人への贖罪や、生きている充実感なんてものを求めて山に入りそれに失敗、山の懐に抱かれることさえ拒む頑固者がのたれ死んだ、という残念なイメージしかない。 「死んだらゴミだ」と自覚しているのだから、自分の体はプラスチックごみであって、生態系の一部とは考えも及ばないらしい。 登頂が叶えば、それは最高の気分を味わえるだろうけど、「登頂してこそ」としか考えられない人は、逆に山に入るべきではないと、この映画で学ばせてもらった。 さらに許せないのは、キャンプ場で深町を待つヒロインが、 「一体何人の命を奪えば気がすむんです。何が悪いっていうんですか。何でこんな目に遭わなければならないんですか!」 とエベレストをにらみつけて愚痴るシーン。こんな恥ずかしいセリフは、逆立ちしたって共感できるわけがない。 彼女が怒るべき相手は、プロの登山家でもないのに、シェルパも酸素ボンベもなしに山に入った深町以外にはない。 しかも彼女のすぐ横には地元民が立っている。例えれば、日本人のすぐ隣で、チベット人が富士山を前にして悪態をついているようなもの。 外国人が地元民の聖山に暴言を吐くなど、相当な冒涜行為だ。 そして、強烈に恥ずかしかったのは、ラストの深町がよろよろと下山してくるシーン。 せっかくの加古さんの壮大な音楽が、こんなところで大げさに使われるなんて・・・。 『ホワイトアウト』のラストみたいにヒロインを抱っこしていない分だけましだけど、いかにも生還してきたヒーロー然としていて、正直「音楽だけでも止めて!」と言いたくなった。 見なければよかったとは思わないが、この映画では誰一人共感できるキャラが出てこなかった。そのモヤモヤ感が今でも気持ち悪い。 【tony】さん [インターネット(邦画)] 5点(2023-05-24 14:39:49)
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