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アンゲロプロスの最近の映画はセレモニー中継みたいになってるな、という不満を持ったことがある。そのときちょっと思い出したのがこのヤンチョーで、セレモニーのような世界でもとても魅力的に撮る監督はいたぞ、と。ヤンチョーで見られたのは二本だけで、それもそれぞれ一回きりの観賞なので、とにかくもう一度確認したい作家の最右翼だ。広い野で、ハンガリー民族史が展開する(いちおう第一次世界大戦の時代の物語があるらしいが理解不能)。展開してるのはあくまでセレモニーの「ような」世界であって、オリンピックの開会式の退屈な出し物とは根本的に違っていたと思う。だからもう一度見てみたい。歴史を、因果を通した山あり谷ありのドラマにはせず、ギリギリの瞬間の連続として、過去の結果でも未来へ向けての伏線でもない、その時その時の連続として構成させてたのではないか(抽象的な言い方になってしまうけど)。やたら広い野に整列した人々、馬、なぜか裸の女性たち(『密告の砦』でも出てきた)、それらの中をカメラが長回しで漂っていく。アンゲロプロスだと、カメラは何を見るか確固とした意志を持っているのに対し、こちらはうろうろ眺め回してる感じ。そのかわり、すべてが「この見える範囲内で起こっている」。“悪い奴は見えないところにいて、その一握りの悪のためにこの民族は不幸になったんだ”という、よく邦画で見られるような逃げを封じてしまっている。野にいるすべての人物が平等に歴史に加担し責任を負っている、そんな印象を持った。だいたい自国の民族史を描くとなると可憐な被害者の視点になるものだ。まして常に強大国に翻弄されてきたあの民族なら、その資格は十分あるのに、逃げない厳しい視線が感じられた。もう一度確認したい。
【なんのかんの】さん [映画館(字幕)] 8点(2013-04-29 10:03:18)
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