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<ネタバレ>2008年は戦後63年のため周年記念にはなっていないが、夏の公開であるから戦争回顧月間の催しという扱いかとは思う。撮影場所は海が淡路島、陸地も主に兵庫県内(どちらかというと播磨の方)のようである。
この物語に関して、要は戦争が全部悪いのだ、という単純な感想が得られにくいのは原作もアニメも同じだが、この映画ではわりと簡単に西宮の未亡人が悪いといって終わりにしたくなる。いきなり最初から人格低劣で厚顔無恥なところを見せつけるが、その後の行動を通じて印象が好転するわけでもなく、最後まで単に賤しい人物にしか思えない。この映画ほどあからさまに出て行けと言われてしまっては出て行かない方が変であり、アニメ版に関してよく言われるように、清太がもう少し我慢すべきだったとは言わせない作りになっている。
この映画の特徴点の一つは原作にない人物を出していることで、うち2階の男に関しては、厭戦気分の背徳的な人間が排除されて虐殺される姿を見せたかったらしい。また校長一家はいわゆる天皇制の犠牲者ということだろうが、あるいは物語的に、兄妹がこの一家を頼っていれば助かったかも知れないと思わせておいて、結局その道も閉ざされていたという失望感を出す意図があったようでもある。全体的にあまり戦争が前面に出ていないので、こういったエピソードで反戦色を増すことを考えたのかも知れないが、特に未亡人を含めて、国家というより民衆主体の排除と弾圧で犠牲になった人々を描こうとしたと思われる。
またこの映画で最大の特徴点は、題名の「火垂るの墓」について、失われた多くの生命の名を刻むものという意味づけをしたことと思われる。兄妹がやった連日のホタル祭りのせいでホタルの墓が大量にできていたが、わざわざ全部に名前を付けていたのは、その一つひとつがかけがえのない生命だったことの示唆になっている。特攻機の灯火をホタルに喩えたのは乗員が虫けらのように死んだことを思わせ、また空襲で死んだ少年の名札を読んでいたのはその生命を尊んで記憶しようとしたように見える。最後に節子の名前が墓標に記されたところで実質的にこの物語は終わり、そのため清太のその後は捨象されたのだと解される。当然ながら誠実に作られた映画であり、エンディングの音楽も心に残った。
キャストに関しては、子役は別として名の知れた役者も出ているが、当時実質的に目を引いていたのは松田聖子だったようで、舞台挨拶でこの人が登壇すると歓声が上がっていたのはさすがである。また校長一家の長女役の谷内里早という人は俳優の国広富之の娘ということで、顔はよく見えないが歌声は印象的だった。