<ネタバレ>映像が美的で歌も印象的だが、わけのわからない映画である。
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<ネタバレ>映像が美的で歌も印象的だが、わけのわからない映画である。
監督はジョージア人とのことで、撮影場所も劇中地図や文字からしてジョージア国内に見える。時代としては、主人公の自宅の雰囲気などは前近代のようだが、町の様子や自動車の普及、谷間の工事か何かを見ると現代のことらしい。兄の言っていた「祖国」がソビエト連邦からの独立後とすれば90年代以降ということになる。
主人公の家系は「聖なる泉」の「守り人」として代々続いて来たらしい。泉の水は怪我や病気を癒すものとして村人に頼られてきたが、現代では科学的な医療も普及しており、村人にとって必須とまではいえないものになっていたと思われる。その上に、谷間の工事か何かのせいで水が枯れてしまい、泉の伝統もここで途絶えることになったらしい。
主人公の父親にも引退の時期が来ていたようで、松明の点火に失敗したのはそういう意味かと思われる。そうすると泉が枯れたのも、それに先立ち息子がそれぞれの道に進んでいたのも、いわばタイミングよく事が進んでいたように取れる。しかし一人だけ割を食わされたのが主人公であって、泉が枯れて自由になるどころか存在理由まで失ったように、最後は自分で人としての実体をなくしていったかに見えた(皿は残った)。
これを何らかの社会批判と捉えようとすると安っぽい話にしかならないが、世界が変わっていくこと自体は仕方ないのであって、昔あったが今は消えてなくなったものは数多い。これから生きて前に進む者なら忘れていれば済むが、その忘れられたものを若い女性の姿にしたことで、消えていくことの悲哀を感じさせる意図があったのかも知れない。自分がいま住んでいるこの場所にも、過去には別の人々の暮らしや人間関係や感情や思いが存在していたはずが、誰も記憶しないまま消失したのは空恐ろしいといえなくもない。
そのように一応は思うところはあったが、しかし見ている自分との接点が少ないので、正直あまり深入りして考える気にならない映画だった。
以下雑談として、主人公は体型的に細身の人で、男と対面した場面で横から見ると胸が平たい人だと思ったが、実際どうなのかは直後の入浴場面で見せていた。また村の祝い事か何かの場面で、画面の右端にいた鶏と入れ替えに主人公が現れたように見えたのは、意図したかどうかは別として印象的だった(多分どうでもいいことだが)。