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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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1.  アメリカン・スナイパー 《ネタバレ》 
この映画の謳い文句によると、主人公クリス・カイルは「アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー」とある。が、「狙撃兵(スナイパー)」ではないものの、ひとりの兵士として敵兵を最も多く射殺した者といえば間違いなくオーディ・マーフィーだろう。そしてかつてドン・シーゲル監督は、この第二次世界大戦の英雄で後に西部劇スターとなったマーフィーを、『ダーティハリー』の連続殺人鬼である「狙撃犯(スナイパー)」“サソリ”役に起用しようとしたらしい。「なぜなら、彼は本物の大量殺人者だから」と。  この『アメリカン・スナイパー』におけるクリス・カイルは、中東で紛争が起こるたびに志願して戦場へと出かける。それは義務や使命感という以上に、“仲間を助けるために敵を殺す”という、単純にして彼にとっては絶対的な「倫理観」ゆえだ。しかし、ミサイル砲を手にした少年に照準越しに「それを捨てろクソッタレ!」と毒づく時、彼は自分が少年を「殺したがっている」ことに気づいたのだ。「殺すこと」そのものが、自分のなかで目的化(!)したことに気づき、だから愕然としたのだ。だからその後、家族のもとに帰還したクリスがどこか“不穏”なあやうさを漂わせ、これが実話であることを忘れてぼくたち観客は、彼による決定的な「カタストロフィ(悲劇)」の予感(予兆?)におののきながら固唾をのんで見守ることになるのである。  もちろん、実際は帰還後のクリスが「殺人鬼」になることはない。むしろ彼は、同じ帰還兵の手によって不慮の死をとげる。だが、この映画を見てきた僕たちは、彼を殺すその帰還兵とはもはやクリス自身のアルターエゴ(別人格)というか“もうひとりの自分”に他ならないことを確信する。そしてその時、これがドン・シーゲル監督が『ダーティハリー』でひそかにもくろんでいた〈主題〉を、そこで主演俳優だったイーストウッドが今度は監督として継承し完成させたものであることを、ある感動とともに深く納得するのである。ーー狙撃犯の“サソリ”と、狙撃兵のクリス。つまり彼らは、ともに「アメリカン・スナイパー」に他ならなかった・・・。  こうしてぼくたちは、底知れない“闇(=病み)”を抱えたイーストウッド的主人公像を前に、またも震撼させられることになるのだ。
[映画館(字幕)] 10点(2016-03-29 13:38:19)(良:2票)
2.  アイランド(2005)
もはやとっくに見放したマイケル・ベイ監督の映画を、なぜわざわざカネ払ってまで見たのか? 1・ヒマだったから。2・ふと魔がさして。3・愛人が「どーしても見たい!」と言ったので(大嘘)。…まあ、そんなところです。でも、ちょっと興味がなかったワケでもない。それは、「ジェリー・ブラッカイマーのもとを離れてはじめて撮った本作で、ベイはどんな映画を撮ったのか…という、その一点において。  結果、ハッキリ言ってこれまでのベイ作品中では、最もまとまっている。それは素直に認めよう。ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンセンのふたりが施設を逃亡するまでの前半は、何の“芸”もないものの、逆に言えば余計な小細工なしに(ベイ作品におなじみの、意味なくカットを割ったり、凝った構図や移動撮影の氾濫もそこそこに)物語を描こうとしていることが好ましい。もっとも後半は、例によっての荒唐無稽な大破壊ショーに終始するんだが…。  かつてブラッカイマーから、「あいつはカットつなぎもお構いなしで撮影している」と揶揄されたベイ。なら、そんな監督を使うなよ! とも思うが、たぶん、そんなベイのセオリー無視(というか、「無知」ね)な映像こそが、ブラッカイマー流「スペクタクル(見せ物)」にふさわしい! ということだったんだろう。実際、見せ場となると様々なアングルから撮られた膨大なカットを嬉々として編集する彼の作品は、もはや「映画」とは別の、ただ観客に刺激や興奮をもたらし続ける「映像=音響アトラクション」以外の何物でもないだろう。そこでは、「物語(ドラマ)」ですら映像=音響のための“口実(エクスキューズ)”なのだ。そういう意味で、彼は『男と女』あたりのクロード・ルルーシュと、実は同類(!)なのである。  しかし、この新作におけるマイケル・ベイは、確かに「物語」への志向をうかがわせる。見る者のアドレナリン流出に精をだすことばかりじゃなく、彼なりに人物や世界の「背景」を描こうとしている。それは、映画ファンのひとりとして素直に祝福したいと思う。  …まぁ、「だから、いつもよりツマンナイのよっ!」とおっしゃる向きもあるでしょうケドね。
[映画館(字幕)] 6点(2005-08-05 16:14:00)
3.  アビエイター 《ネタバレ》 
確かに「失敗作」と呼ばれても仕方のなかった(けれど、ぼくは大好きです)スコセッシ監督の前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』に比べる時、いかにも楽しんで撮っている高揚感が伝わってくるぶん、楽しく見ることができた。言うなればこの映画、往年のジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『イブの総て』や『裸足の伯爵夫人』を想わせる人間ドラマと娯楽性のバランスにおいて、最近のアメリカ映画じゃ最も「上質」な部類の大作だとは思う。けれど…  冒頭に置かれた、幼いハワード・ヒューズとその母親の奇妙なエピソード。それは、後年のヒューズが悩まされた激烈な強迫神経症の「原因」を暗示(というより、むしろ“明示”)するものだ。と同時に、彼の映画と飛行機と女性遍歴をめぐる冒険への度を越したのめり込みを、すべて母親である彼女の影響下によるものだと「分析」するものとしてあった。そのシーンがラストにもう一度登場する時、この映画が、「映像と航空機とセックスの世紀」である20世紀の象徴的人物を精神分析し、その<臨床例>をめざしたものであることをぼくたちは了解するのだ。言い換えるならこれは、ヒューズという人物の「伝記」というより以上に、彼を通じて「20世紀」という時代を“診断(!)”することをめざされたものに他ならない。  ただ、ハワード・ヒューズを単なる“マザコンの卑小な神経症患者”に過ぎない…というのが言い過ぎなら、彼をあまりにも「現代」の戯画(カリカチュア)として描くことは、一方で作品そのものを“矮小化”することにつながらないだろうか? つまり「心理」や「内面」を分析し説明しすぎてしまうことは、映画を、ひいては芸術というものをただの「人間主義的なスケール」に陥れることになりかねない…。  思えば、映画の冒頭に母親を持ってくる点をはじめ、この映画は『市民ケーン』をほうふつさせるところがある。けれど、あそこでウェルズは、主人公の新聞王と母親の関係を決して分析したりしなかった。そして映画の最後に、あの名高い「バラのつぼみ」として明かしてみせたのだった。…そういうハッタリこそが、この映画には、というかスコセッシ監督には決定的に欠けている。  同じハワード・ヒューズを描くものなら、たぶん『ロケッティア』というほとんど忘れ去られたSF冒険映画の方が、はるかに「神話的」かつ「映画的」だとぼくは思う。…
[映画館(字幕)] 7点(2005-05-23 20:49:18)(良:1票)
4.  アレキサンダー 《ネタバレ》 
何なんだ、この“居心地の悪さ”は…。  まるで「新派悲劇(!)」のように大仰な役者たちの演技。「引き(ロングショット)」も「寄り(クローズアップ)」もほとんど考えてないかのような、一本調子のキャメラ。10何年という遠征の長さをまるで感じさせず、さらにはアレキサンダーの父王暗殺シーンの“場当たり的”な挿入や、ラストの、アンソニー・ホプキンス扮するプトレマイオスに語らせた言わずもがなの“仰天発言”などなど、一種ア然とさせられるストーリーテリングの朴訥さ。…その他、まるで「映画がやってはいけないこと」を、あえてと言うか、わざとやっているかのような感じなんですよね。  確かに戦闘シーンなど、予算をかけただけのことはある壮麗さだと認めつつ、みなさんご指摘の通り『ロード・オブ・ザ・リング』や『トロイ』などの後だと、やはり二番煎じの感はまぬがれない。しかもインドの密林におけるそれなど、まったく『プラトーン』のベトナム戦争と同じ撮り方(画面が真っ赤になるソラリゼーション処理は『ドアーズ』か…)で、斬新であるよりも、オリバー・ストーン監督の才能の「枯渇ぶり」を印象付けるんじゃあるまいか…。いったい、これが本当に「ストーン監督の生涯の企画」だったのかと疑いたくなったのは、ぼくだけ?  が、もはや「失敗作」ですらないこの映画を茫然と見続けながら、その画面の向こうに、ただ途方に暮れているオリバー・ストーンの姿がありありと浮かんでくる。何が「原因」かは分からない。けれど、とにかく本作におけるストーンは、『JFK』などのようなふてぶてしいまでの自信や強引さ(そして、それゆえの嫌らしさ)を、ほとんど微塵も感じさせない。彼らしいこれみよがしなあざとさを喪失したこの“脆弱”な超大作は、だからこそぼくのような「ストーン嫌い」な観客にとって、逆に不思議な「感銘」を与えるのも確かなのだ。…そう、一抹の悲哀とともに。  と、書いて、これと同じ気持ちを前にも抱いたことがあったことを思い出した。そう、これは、マイケル・チミノ監督の『天国の門』を見た時と同じだ…
[映画館(字幕)] 5点(2005-02-16 14:40:26)(良:1票)
5.  アルマゲドン(1998)
これをリブ・タイラー出演シーン中心にまとめ直し、あのムサイ男優たちのクサイ熱演ぶりを極力削って、無理矢理にでも感動させよう&カッチョイイ映像で決めようとしていることがそもそも救いがたくダサイ演出部分を編集でカットしたなら、文句なく10点を献上いたしましょう。  それくらい、本作のタイラー嬢は美しい。あのほんのりと赤みのさした頬(しかもテレビじゃよく分からないけれど、映画館で見た時は、まだ桃のごとく産毛が残っているそのみずみずしさに陶然としたものだ…)も、じっと真直ぐ見据えられた意志的て大きな瞳も、すらりと長い手足をもてあますかのような立ち姿も、何よりあの、アンジェリーナ・ジョリーのごとき時にエゲツない“攻撃性”とは対極にある、無防備なまでに優しく柔らかなくちびるも、この映画においてひときわ魅力的に思えたのだった。それは、たぶん、きっと、それなりに迫力があるものの所詮はそらぞらしい「絵空事」のCGによるカタストロフィ場面を含め、映画自体があまりにもぼくという観客にとって「どうでもいい」程度の代物でしかなかったからだろう。他に見るべき部分が何にもないものだから、逆にリブ・タイラーだけを心置きなく愛で、慈しむことができたという…  それにしても、男ならなんでリブ・タイラーを残して、ブルース・ウィリスはじめあの汗臭いオヤジどもと宇宙なんぞに行けるものか!(あの女性飛行士は、ちょいとソソッたけど・笑) ぼくなら間違いなく彼女と抱き合いながら「アルマゲドン(終末の時)」を迎えるぞ! それこそが男の“本望”ってもんだろっ、ベン・アフレック! こんなに魅力的な女優を出演させといて、「つまらん“男気(「ヒロイズム」ともいう)”なんか、糞食らえ!」という映画を作れないところが、まあ、ブラッカイマーという御仁の“限界”なんでありましょう。  もう一度言っておこう。この映画のリブ・タイラー(だけ)は、何度も何度も見るに値する。というワケで、前言を撤回して(彼女のためだけに)満点献上!!!    《追記》一夜明けて冷静(?)に考えたなら、やはり「10」はあまりにもあまりですかね。イイカゲンですみません m(_ _)m
3点(2005-02-09 16:45:38)(笑:2票)
6.  アイ,ロボット 《ネタバレ》 
ウ~ン…。  今どきのSFアクション・スリラーとしての“ノリ”も、ウィル・スミスのスター性も十分な、純然たるエンタ-テインメント作品だし。その上で、豊かな「寓意」を持った、かなりインテリジェントな作品だとは思うんだけど…。すんません、ぼくの中でこの映画って、どういうワケか手塚治虫の初期コミック『メトロポリス』と、“猿の惑星”シリーズの最終作『最後の猿の惑星』とダブッてしまうんです。それがこの映画の“すべて”って感じなんですよね。  つまり、1940・50年代に想像された「流線型とピカピカの21世紀像」を踏襲したビジュアルと、もはや古典的な「人類VSロボット」の階級闘争劇は、ほとんど『メトロポリス』に通じるものがある。そして、「主人(人間)と奴隷(ロボット)の関係の逆転と、戦いの末に共存をはかる」という構造において、これは『最後の猿の惑星』とほぼ同じ物語を踏襲している…。  そしてそれゆえ、この映画は決定的に「古い」のだと思う。本作における作り手のセンス(感覚)が、ほとんど過去の映画や小説、コミックなどで育まれ、培われていったことは間違いない。そこでは、実のところ「現実」などまるで意に介されていないんである。たとえどんなに現実離れしたものであろうと、映画とは、あくまでこの「現実」の延長にあるものだとぼくは思っている。だからこそぼくたちははるか宇宙の果ての物語であろうと、未だ見ぬ未来社会を舞台としたスリラーであろうと、その世界を「実感」でき、「共感」を抱ける。けれど、この『アイ、ロボット』のように、すべて過去の映画や小説やコミックなどに依拠し、その中に“自閉”したかのような作品は、たとえどんなにビジュアル面やストーリーテリングにおいて傑出したセンス(才気)を見せようとも、やっぱりどこかムナシイ。何故なら、あらゆる場面、あらゆる展開が、すでにいつか見たものであるに過ぎないから。近未来SFでありながら、映画は「古い」物語を反復しているだけに過ぎないからだ…。  ところで、この映画のパート2が出来るとしたら、あのラストシーンを見る限り間違いなく「サニーVSウィル・スミス」という設定だよね。今度はサニーが人類に叛旗を翻すに違いないっすよね! …って、そりゃあ『猿の惑星/征服』と同じじゃん。
7点(2004-10-04 19:54:49)(良:1票)
7.  暁の用心棒
アメリカから渡ってきた売れない役者のトニー・アンソニーは、イタリア西部劇ブームの恩恵で何とか主役の座を得る。が、それは、スペインの僻地で細々と撮られた低予算のBマイナス・ランクの代物。彼自身の弁によれば、クライマックスなど単なるビルか何かの工事現場で、ブルドーザーをどけて撮影されたものだったという。 しかし、アメリカ政府がメキシコに貸与するドル金貨を巡り、盗賊一味と流れ者ガンマンが渡り合う映画は、マカロニ特有のサディズムだけではない、ある奇妙な「詩情(!)」を漂わせることとなった。…もちろん、それは“狙った”ものじゃあるまい。けれど、どんなに安っぽいものであろうと、その「詩」は、間違いなく作品を忘れ難いものにした。   …この映画には、科白が極端に少ない。主人公はほとんど喋らないし、誰かが何かしゃべっても、それだけで終わってしまう。つまり、「会話」がないのだ。 代わりに、拳銃やライフルの発射音、馬のいななきや蹄の音、鞭が風を切り肉を裂く音…など、ここには殺伐とした「音」が満ち満ちている。特にクライマックスの、ガトリング銃(ほら、『ラスト サムライ』で政府軍が撃ってた機関銃っす)を乱射する盗賊のボスと、トロッコで弾をかわしつつショットガンでボスを追いつめるガンマンの対決など、廃虚内に響きわたるガトリング銃とトロッコの軋む音の二重奏がほとんど「官能的」ですらあるだろう。この、沈黙と音の〈異化効果〉が、観客を「超現実的(!)」な世界へといざなっていく…。  そして、低予算ゆえにエキストラを雇えずほとんど人間のいない町や、貧相なセットが、逆にやはりシュールな異様さを画面に与えることになったということもある。人物の極端なクローズアップが多いマカロニものにしては、引き(ロング)の画の多いことも、超現実感をより強調していることも指摘しておきたい。例えるなら、それはパゾリーニの『奇蹟の丘』と同じ効果を作品にもたらしている…  いったいこれは、監督の才能ゆえなんだろうか。それとも、単なる偶然? …いずれにしろ、「酷い・汚い・どうでもいい」代物がほとんどのマカロニ・ウエスタンにあって、これはそのすべてにあてはまりつつジャンルを超越するに至ったものだと、少なくとも小生は信じている。  この名もない1本は、ささやかだけれど、「奇蹟」を実現した映画だ。
8点(2004-10-01 17:16:02)(良:1票)
8.  ALI アリ
マイケル・マン監督の映画に出てくる「男たち」は、常に寡黙でありながら雄弁で、饒舌でありながら静謐だ。何ものかに挑む時、彼らは黙々と行動する。ただ黙って闘い、殺し、愛し、勝利し、敗北し、死んでいくのだ。命を賭けるものがあるなら、「男たち」は迷うことなく“死”へと突き進む。安っぽいヒロイズムや、無鉄砲さとはあくまで無縁の、「運命に挑み、その結果を受け入れる者」としての孤高と諦観を漂わせて。  アリもまた、そんな“マイケル・マン的「男たち」”のひとりとして、マンの世界(マン・ダム!)に召還された。この、蝶のように舞い蜂のように刺す天才ボクサーは、一方で「ほら吹きクレイ」と呼ばれるほど挑発的な言動を繰り返す。試合前のインタビューで、試合中も相手ボクサーに対して、“暴言”を吐き続けるアリ。そこに、黒人である彼の、アメリカの白人社会へのレジスタンスが込められていることは、間違いない(そんなアリの最大の理解者が、白人のスポーツキャスターであったこと。それもまた、アメリカの一面であることを示すあたりの心憎さ!)。が、この映画は、そんな「社会派」風の、あるいは「ヒューマン・ドラマ」風の側面以上に、アリというひたすら饒舌な男のなかにある“寡黙さ”を、ほとんどそれだけを映し出そうとした。ボクシングと言葉によって「アメリカ」に闘いを挑み続けた男の、内なるストイシズム。そこにこそ彼の、真の偉大さがあったのだと。  だからこの映画が、ボクシングを描きながらどこまでも「静か」なのは当然だろう。これはボクサーたちの闘いを通じて、さらには、ひとりの黒人青年によるアメリカへの闘いを通じて、自らの「運命」と対峙し続けた偉大な魂の記録なのだから。そして、偉大な魂とは、常に孤独で、寡黙で、静謐なものなのだ。  繰り返そう。マイケル・マンの映画の「男たち」は、たとえどんなに“反社会的(アウトサイダー)”であろうとも、孤高を生きる者たちだ。本作もまた、そんなマンならではの世界観が昇華された、偉大な映画だとぼくは信じて疑わない。…皆さんの評価があまりにも低いこともあるので、あえて満点を献上する次第です。
10点(2004-09-15 13:27:53)(良:1票)
9.  悪霊喰
ホラーというよりは、カトリック異端史というか、バチカン陰謀ものというか…。教会から「破門」された者の魂を救う“罪食い”の存在をめぐる、むしろ「薔薇の名前」に近い、一種の形而上学的ミステリーといったところか。「恐怖」度は↓の方がおっしゃっている通りほとんどないし、カトリックの教理だとかに縁のないぼくたちにとって、「いったい何がオモロイねん?」てな声も聞かれそうだ。が、宗教的な部分を超えて、これを「主人公が、愛する者のために、自ら異端の刻印を受ける(ケガレ)存在となるまで」のドラマとして見ることも可能じゃあるまいか。そして、そうすることで、この映画は、ひとつの「(アンチ・)スーパー・ヒーロー誕生譚」であり、何より「宿命」の残酷さ悲しさを隠喩としたミステリーとして、極めて知的かつ興味深い作品たり得ていると思う。映像的にも、廃虚然とした教会内部の1階と2階をひとつの画面で捉えた構図など、かなり面白いことをやっています。消してすべてに成功している映画ではないけれど、ぼくは高く買いたい。
8点(2004-03-27 13:00:36)
10.  足ながおじさん
相変わらず優雅な、あまりにも優雅なフレッド・アステアの踊りと、『リリー』に続いて“孤児”を演じるレスリー・キャロン、うぶで、でもはつらつと舞うレスリー・キャロンのバレエとが、画面のなかでひとつになる時、ぼくたちは間違いなく「この世で最も高貴なもの」を目撃することになる。あの抽象画めいたシンプルなセット(思えば、20世紀フォックス社のミュージカル映画は、常にミュージカルナンバーのセットが奇妙に「モダン」で、それが面白かったり、物足りなくあったりするんだけど…)をふたりが踊る、舞う、ひとつになる。もう、それだけで、ぼくにとってこの映画は永遠です。傑作であるとか、駄作であるとか、もうそんなことを超越したところで、ぼくはこの映画を愛する。アステアとレスリー・キャロンの存在ゆえに、この先何度でも見て、陶然としたいと思う。…そりゃ、確かに2時間以上あるってのは長過ぎるかもしれない。ドラマ部分が、今や淡白すぎてタイクツする向きもあるだろう(けれど、ニューヨークのホテルのペントハウスにおける朝食のシーンなど、『プリティウーマン』に引用されていたことをぼくはうれしく思い出す)。しかし、ぼくが映画において本当に見たいのは、もはや作り手の才能や思惑を超えたところに、何かの間違いのように時として実現してしまう「奇蹟的瞬間」なんです。そして、この映画の場合(もちろん全編すべてに、とは言わないけれど…)ふたりの偉大なダンサーがそういった「奇蹟」をぼくたちに見せてくれる。当然の満点です。
10点(2004-03-09 12:42:05)(良:1票)
11.  アイアン・ジャイアント
何の予備知識もなく、「どうせアメリカのおたくが日本のアニメの影響を受けて作った、巨大ロボットものなんだろ」とタカをくくっていたものだから、作品の冒頭、人類初の人工衛星スプートニクが登場するところで思わず虚を突かれる。ああ、これって米ソの「冷戦」を背景にした、1950年代SF映画へのオマージュであり、ノスタルジーなんだ。つまり、まさに“アメリカン・オリジナル”なんだと。だから、あの執拗に巨大ロボットを追う捜査官にも、当時の狂信的な「赤狩り」的風潮を読み取れるし、主人公の父親がおそらく朝鮮戦争で戦死したことをさり気なく写真一枚で語らせるあたりの見事な演出も、1957年という時代設定だからこその巧みさ。そしてそれゆえ、宇宙から飛来した巨大ロボットに《ハート》があり、地球の少年と心通わせるという『E.T』あたりのスピルバ-グ風展開にも、よりいっそう豊かな陰影を与え得たというべきだろう。これは、真に「知的」な映画、本物の映画です。間違っても“アニメ”だからと馬鹿にしてはいけない。これだけ豊かな映画的センスと、それ以上に「歴史意識」をもった作品など、ただアドレナリン湧出の量だけを競うかのような、今の幼児化した「痴的」なほとんどのアメリカ映画において、きわめて稀れなのだから。…ウチの息子にとっても、本作のDVDはまたとない「財産」になってくれそうです。
10点(2004-02-16 16:10:40)(良:5票)
12.  暗黒街の弾痕(1937)
ようやく国境にたどり着こうとした逃亡者の主人公ふたりに、追手のライフルが照準を合わせる。スコープ越しに捉えられた男と女の後ろ姿には、狙いを定める十字が(十字架…)。運命は残酷。←しつこくて、ゴメンナサイ(笑)。素晴らしい映画だけど、ぼく的には、同じストーリーの『夜の人々』の方こそが好きだな。[追記]STING大好きさんに乗せられて(?)、ついイッチョカミしてしまいました。…反省。でも、本当に「運命は残酷」ってフレーズはこの映画のみならずフリッツ・ラングという作家にとっての決定的なモチーフ ではありますまいか。でしょ、なるせたろうさん?
8点(2003-11-14 19:04:06)(笑:1票)
13.  愛に迷った時
他しかラッセ・ハルストレム監督のアメリカ進出2作目だっけ? やっぱり、ちょっとまだ環境になじんでいないというか…。『やかまし村』シリーズとか、こういう田園風景のなかの群像ドラマは得意なはずなんだが、やはり、子どもたちがメインでないと調子がでないのだろうなあ。豪華配役も今いちパッとせず、でも見捨てきれないのは、この監督ならではのリリシズムがそれでも画面から滲んでいるせいだね。
5点(2003-10-07 14:26:45)
14.  愛と青春の旅だち
「軍隊しか俺の居場所はないんだあーっ!」という男と、「何が何でも士官候補生とくっついて、洗濯女から這い上がってやるわっ!」という女。…”ブルーカラー”の本音を、ここまであからさまにした「ラブストーリー」もなかったのでは? 『アメリカン・ジゴロ』など、この頃のリチャード・ギアはファンクな土くささがあって良かったなあ。全体的に暑苦しい映画だねえと、若かりし当時はバカにしていたけど、今はちょっと評価が上がったかな。
7点(2003-10-07 12:21:46)(笑:1票)
15.  アイズ ワイド シャット
あの~、いくらキューブリックの遺作だからって、この程度のえいがを絶賛するのは、過去のキューブリック作品に対する裏切りというか、冒涜になりませんかねえ…。そう、確かに決してキューブリックを評価する者ではないぼくも、それなりに本作を面白く見たけど、それは彼の映像スタイルが、1950年代の映画のそれに回帰しているってことにだった。ああ、やっぱりこの御仁も50年代作家だったんだという、お里の知れ方こそが興味深かったワケで。ただ、それが一種の『神曲』(ダンテの地獄巡り!)をめざした本作に、古典的というよりは単なる古めかしいという印象を与えてしまったことも事実。たぶん、キューブリック自身がそうなると分かっていたからこそ、トム・クルーズとニコール・キッドマンという現代的なスター夫妻の「肉体」を欲したんじゃないか。が、それでも、ここでキューブリックはあきらかに「失敗」していると思う。たとえそれが魅力的な「失敗」であったとしても、やはりそのことはキチンと表明しておきたい。
6点(2003-10-07 11:52:44)
16.  愛情物語(1956)
正直言って、いわゆる「メロドラマ」は苦手なんですが、これは『グレン・ミラー物語』がそうだったように、何より「音楽映画」として、例外的に好きです。特にタイロン・パワーの華やかな存在感と、意外にも洗練された演技派ぶりに好感度大。ラスト、死を宣告された主人公が、弾いていたピアノから立ち去り、それとともに画面からも去って(消えて)いく一連のモンタージュに、ハリウッド映画の洗練の極致を見る思いです。奥さん役のキム・ノヴァクも美しい。決して「傑作」とかいう作品じゃないのかも知れないけど、忘れ難い1本。
8点(2003-10-07 11:28:29)(良:1票)
17.  哀愁
昔の映画って、やはりセットや照明などの技術面がしっかりしているから、例えばこんなくだらない・安っぽい・ご都合主義的なストーリーでも一応「名作」っぽく見せてしまうんですなあ。確かにヴィヴィアン・リーは美しいけど、彼女が出ていなきゃ、とっくに風と共に忘れ去ってしまわれていたでしょうね。この映画を翻案したとおぼしい溝口健二の映画もあったけど何だっけ? あれも溝口にしちゃ正直ヒドイ出来だったなあ… 《追記》うわあぁああっ! 何だこのヒドイ文章は!! 自分で書いたなんて、未だしんじられましぇ~ん(泣)。たぶんあれだな、カミさんとケンカしたか、仕事でトラブッたか、ひそかに好意を寄せていたコが結婚しちゃったか…いずれにしろ、“八つ当たり”以外の何物でもありません。もう、見てから20年近くたってるはずだけど、その時は特に前半のヴィヴィアン・リーの完璧な美しさにア然ボー膳としていたっけ。それだけでも、高評価に値するでありましょう。もうひとつ、溝口の『夜の女たち』も今見直せば、きっと自分の不明を恥じ入って、自殺したくなるに違いない…。削除も考えましたが、点数だけ変更しておのれのスットコドッコイさ加減をさらしておくことにします。この映画を正当に評価されておられる皆さん、本当に申し訳ありませんでしたっ!
8点(2003-10-07 11:14:07)
18.  愛がこわれるとき
ううむ、そうですか…評判悪かったんだ。後半の単なる凶悪ストーカーと化した元ダンナとジュリア・ロバーツの”攻防戦”はいかにもな展開ではあったけど、前半はそれなりに異常な潔癖性のダンナ、その異変におびえる妻、彼女の新しい恋人の出現…と、それぞれの人物の絡みが手際良く処理されていたのでは。特にジュリアが、次々と衣装を変えていくとってもプリティ・ウーマンなシーンは、はは~ん、この監督ジュリアに惚れて撮ってんなと思わせるに十分でした。そのへんで、才能がなくはないジョセフ・ルーベンの演出を乱させたのかも。…とは、やはり好意的解釈にすぎますかね。
5点(2003-10-07 10:53:20)
19.  アパッチ砦・ブロンクス
うん、これはいい。冒頭、あのパム・グリア姐さんが頭のイカれた娼婦になって警官をいきなりブチ殺すシーンから、しがない制服警官の悲哀や心意気などが点描される中、当時のアメリカ社会の荒みっぷりがひしひしと伝わってきます。80年代以降のポール・ニューマンじゃ、『評決』とかよりもこの作品が最も好きだな。がんばれ、公僕!
8点(2003-10-06 15:44:29)
20.  アリゲーター(1980)
当時流行した「巨大生物パニックもの」の1本。とは言え、そんな中でもピカイチの面白さでしょう。捨てられたペットのワニが下水道で巨大化した…とは代表的な”都市伝説”のひとつ。それを、一見ストレートに見えて、小技の効いたウィットとユーモアで「現代の大ボラ話」にしたジョン・セイルズの脚本と、ルイス・ティーグ監督のセンスの良さが光ります。『ジャッキー・ブラウン』に通じる、ロバート・フォスターのオフビート感もナイス! …ただ、巨大ワニの造型には、あまり期待しないように(笑)
8点(2003-10-06 13:57:09)
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