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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  スパイダーマン:ホームカミング
新しいスパイダーマン=MCU+学園モノ! 今作は、アベンジャーズの世界観に降り立った“15歳”の“新スパイディ”の立ち位置を、絶妙なバランス感覚で成立させている。 三度リブートされた新スパイディは、過去2シリーズのどのスパイディよりも若く、故に最も未成熟だ。 「ハイティーン」と言うよりも、きっぱりと「子供」と言ってしまっていいだろう。 だからこそ、軽快で、楽しい。  アイアンマンとキャプテンによる悲壮な“殴り合い”の裏側で、一人の少年が喜々として“見習いヒーロー”としての活躍を繰り広げていく様は、問答無用に楽しく、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のストーリーラインの「本流」対して、一服の清涼剤ともなる魅力的な「支流」を見事に生み出してみせたと言える。   この映画は、愉快な学園コメディであり、二つの疑似父子の関係性を通じて成長する少年の青春映画でもある。 父親がいない15歳のピーター・パーカー(スパイダーマン)にとって、全く相反する二人の大人、トニー・スターク(アイアンマン)とエイドリアン・トゥームス(バルチャー)の存在は、それぞれ異なる「父像」の投影だと言えるだろう。 それぞれの「父」と対峙し、反発し、学ぶことで、少年は大人への階段を一つ上がる。 最後の最後で傲慢な大人たちの思惑を超えて、小憎らしいくらいに「成長」して歩んでいく若きヒーローの姿がとても小気味いい。  個人的には、2000年代以降の2つのスパイダーマンシリーズ(サム・ライミ版&マーク・ウェブ版)には、それぞれ愛着を持っていた。 特にマーク・ウェブ版の第二弾「アメイジング・スパイダーマン2」は、ヒーロー映画としてはあまりに衝撃的なラストの顛末も含めて、アメコミヒーロー映画の一つの“エポックメイキング”とも言える傑作だと思っている。 興行成績が振るわなかったことで、「アメイジング〜」の第三弾の製作が頓挫したことは非常に残念だった。  故に、今回の再リブートについては、いくら待望の“スパイディMCU参戦”とはいえ、素直には喜べない部分も大きかった。 ただし、結果的には「流石はマーベル」と賞賛しないわけにはいかない仕上がりだったと思う。  アベンジャーズシリーズ全体の流れを踏まえた上で、“年代”や“社会的地位”といったカテゴリの相違によって生じる多角的な「価値観」と「主張」を物語構築の主軸に据えて描き出すことで、シリーズの世界観を更に多層的に深めてみせたと思う。 そして、燦然たるヒーロー映画であると同時に、学園映画としても、少年青春映画としても、純粋に魅力的な映画であった。   さあいよいよ「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」への助走も加速し始めている。 “戦友”との決別に傷つき、打ちひしがれていた“大人=アイアンマン”にとっても、本物のヒーローとして成長していく“子供=スパイダーマン”の姿は、ヒーローという生き方の本質を思い起こさせる“救い”となった筈だ。 そういうシリーズの流れの導き方も、悔しいくらいに巧い。   最後に、一つだけ。 付き合いはじめの彼女の父親と突如として狭い車内で二人っきりにされては、“彼ら”のような特別な関係性ではなくとも、ああいう空気になるさね……。
[映画館(字幕)] 8点(2017-08-22 12:49:58)(良:1票)
22.  スプリット
冒頭、文字通りに“恐怖”と隣り合わせになった少女の一寸の逡巡。 あまりにも突然な危機との遭遇に対して硬直してしまっているようにも見えるが、どこか逃げ出すことをためらっているようにも見える。 孤独な少女は、逃げることが出来なかったのではなく、直感的に“恐怖”の正体に“何か”を感じ、一人抱え続けてきた地獄を切り裂いてくれる“何か”に期待したのではないか。 即ち、この映画は、主人公の少女が恐怖から逃げ切る物語ではなく、恐怖に対して向かい合うことで、自分自身が抱える恐れを曝け出す物語だったのだと思う。  ある意味予想通りではあるが、変な映画である。 M・ナイト・シャマランの最新作に対して“真っ当さ”を期待することがそもそもナンセンス。鬼才監督の思惑通りに、恐怖と奇妙なカタルシスに覆い尽くされる。  アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」を皮切りに、「多重人格」を描いたサスペンスは世界中の映画シーンで数多く製作されている。 今作も、そういった過去作のテイストを踏まえた類似点やオマージュは見受けられるが、本質的には、そのどの作品とも一線を画する映画に仕上がっていると思う。(好き嫌いは別にして……)  多重人格を描くにあたり、最もキーポイントになってくるのは、やはり演者の力量だろう。 今作で“多重人格者”にキャスティングされたジェームズ・マカヴォイがどうだったか、まあ圧倒的である。 いまやハリウッドきっての芸達者と言えるこのスター俳優が、流石に素晴らしいパフォーマンスを見せる。 そもそもが、人間の光と闇を同時に醸し出す雰囲気を持つ俳優なので、この映画での色々な意味で“新しい”多重人格者役は、まさにハマり役だったと言えよう。 終盤以降、複数の人格がワンカットの中で矢継ぎ早に現れては入れ替わる様は凄まじかった。   この映画は、異常な多重人格者に囚われた少女たちが、絶体絶命な危機的状況から逃げ出そうとする恐怖映画としてイントロダクションされている。 しかし、ある意味当然ながら、それはシャマラン監督による“ミスリード”である。 「恐怖」を描いた作品であることは間違いないが、主人公の少女が対峙する「恐怖」は、それを通じて自らが抱え続けてきた恐れと向き合うことで、強大な力に対しての崇拝のようなものも孕んだ「畏怖」へと変化していく。  その心理の変化は我々観客にも与えられる。 だんだんと、ジェームズ・マカヴォイ演じるこの“異常”な多重人格者が気になって仕方なくなる。恐怖を越えて、何か愛着めいたものすら覚えてくる。 「あれ?何かがおかしい」と心のそこでふと気づく。 主人公の少女の顛末よりも、この“超人的”な多重人格者のこの先が観たくなっている。  「え?どういうことだ」 と、思った瞬間に現れる最終カットのまさかのアイツ! 思わず吹き出し、溢れ出る笑みを抑えきれず「すげえ」と呟いてしまった。 シャマラン好きにはタマラン異常で反則的な展開力。 そして、“あのシャマラン映画”が大好きな者としては、殊更にタマラン結末だった。 いやあ、参った。
[映画館(字幕)] 8点(2017-06-14 23:03:03)(良:1票)
23.  スポットライト 世紀のスクープ
「カトリック教会神父の6%が子どもに性的いたずらをしている」という衝撃的な事実が作中で明らかになり、追求される。 その時点で、この映画が描く問題の本質は、一部の“糞神父”の存在を明らかにすることではなく、長い長い時間に渡ってそういった輩を生み出し続けてきた「教会」のシステムそのものの在り方であることを突きつけてくる。 問題の“根”はあまりにも深く蔓延り、果てしない。それ故に、「真実」の追求に果敢に挑んだ新聞記者たちの魂が、闇の中で輝いて見えた。  第88回アカデミー作品賞を掴み取った今作は、決して華美ではない地味な映画ではあったけれど、秋の夜長に腰を据えて観るに相応しい映画だった。 そして、他のどの作品よりも「強い」映画なのだろうと思えた。  この映画は、如何なる時も「真実」の追求には覚悟が必要だということ。そして、得られた「真実」にもまた別の側面があり、それを決して忘れてはならないということを、奮闘する新聞記者たちの様を通じて伝えている。 ある意味での「大帝国」であった「バチカン」の盤石を揺るがしたのが、地方紙のたった数人の記者たちだったということは、世界中に衝撃と勇気を与えたことだろう。 「ペンは剣よりも強し」という格言をこれ程までに事実として表した出来事も無かったのではないか。  新聞記者たちの功績は、勿論賞賛に値する。彼らの姿勢こそ、今世界中のメディアが見失っている「伝える者」としての在り方だと思う。 「情報」が、消費社会における思考停止の権化になり下げってしまっている現代社会の危うさは極まっている。 「伝える者」と「伝えられる者」の在り方を、真剣に見直さなければ、世界中の混沌は益々歯止めがかからなくなるだろう。  今作でも垣間見えるように、「真実」には、あらゆる意味で危険がつきまとう。 しかし、その危険を回避するばかりで、安直で軽薄な情報ばかりが蔓延し、あたかもそれらが「真実」であるかのごとく消費し、垂れ流すこの社会は、危険そのものだ。  「教会神父の6%が小児性愛者である」という事実は、限りなく真実に近いのかもしれない。 しかし、それまで無知だった人間が、この映画を観たからと言って、それをそのまま鵜呑みにすることも、それはまたあまりにも危険で、愚かなことだと思う。 重要なことは、ある情報を伝えられ、それが正しいのか間違っているのか、伝えられた側の一人ひとりが真剣に考え、更なる情報を追求していく姿勢だと思う。  この映画の「強さ」は、まさにその姿勢を貫くために必要なものだ。 そしてそれは、情報と消費の大波にただただ流されている我々一人一人に必要なものだと思う。  キレるマーク・ラファロが、いつ例の緑の男に変貌しないかと戦々恐々としつつ、そういうことを噛み締めた。
[DVD(字幕)] 8点(2016-10-09 00:15:12)
24.  スーパー・チューズデー ~正義を売った日~
ジョージ・クルーニーという映画人は、相変わらずプライベートはフラフラしているくせに、それに反するかのように、地に足着いた骨太な映画を生み出しやがるな。と、思った。  アメリカの大統領選の「裏側」で確実に巻き起こっているだろう“現実”を、真正面から切り取った佳作だった。  自らの政治に対しての「理想」が、甘く幼稚な「幻想」に過ぎないということを目の当たりにして、打ちひしがれる主人公。 絶望的な現実に対して、彼がついに“売った”正義とは何だったのか。 安直なヒロイズムに走らず、物語の結論そのものが、政治における現実に対しての痛烈な皮肉である着地点が面白い。  すべてを悟った主人公が、黒い瞳でテレビカメラに向かう印象的なラストカットは、彼の心情における闇と、この先も歩み続けるだろう過酷な運命を如実に表しているようで、意味深長だ。  舞台劇を礎にしているだけに、焦点が絞られた登場人物のそれぞれのキャスティングが素晴らしかった。 若き選挙参謀を演じるライアン・ゴズリングは、自身が売り出し中の俳優としてノリに乗っているということもあり、心揺れ動く理想主義で野心的な主人公を見事に演じ切っていた。 主人公の上司役でベテランのキャンペーン・マネージャーを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンも、本音と建前を巧みに使い分ける役柄を抜群の説得力をもって表現していた。 そして、カリスマ性を備えた大統領候補の政治家を演じたジョージ・クルーニーは、決してオイシくはない役柄において、絶対的な存在感をもって体現し、まさに実在しそうな政治家像を自らの演出によって巧みに導き出していた。  過剰な派手さがないことが、現実社会におけるリアルな不穏さに直結している。 いまアメリカでは、今年11月の大統領選を目の前にして、まったく同じようなことが水面下で繰り広げられていることだろう。 この作品はもちろん娯楽だが、それがそのまま現実に起きているということを想像すると、禍々しいおぞましさに包まれる。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-16 00:48:17)
25.  スリーデイズ
最後の最後まで言いようの無い緊張感が続く映画だった。 ただしそれは、脱獄によって夫と妻そして幼い息子が逃げおおせるかどうかという作品のイントロダクションに明示されたことに対してではなかった。 それでは、真犯人は誰なのか?というミステリーが描き出されるのかというと、それも無い。 もちろんそれらも上質なサスペンスフルな展開の中できちんと描き出される要素ではある。 しかし、終始もっとも緊張を強いられた焦点、それは、拭いされない「疑心」に対するものだった。  本当に妻は罪を犯していないのか。  心から妻を愛している夫は、あらゆる不利な証拠の中で彼女の無実を信じている。 だが同時に、明確にならない「真相」に対して一抹の不安を感じ続けていることも事実。 むしろ、万が一にも存在するかもしれない“望まない真相”が、導き出されてしまうことを避け続けている節も見え隠れする。 刑務所での面会時、妻の身を心から案じる一方で、少し異様な感じもするほど食い入るような目つきで彼女を見つめる夫の表情からは、無意識レベルで押し隠している疑心と、それに伴う彼の心の混乱と葛藤が絶妙に表れていた。  予告編やイントロダクションのテキストからは、脱獄と逃亡、そこからの真相究明が描かれる娯楽映画だと思っていたが、その想定は大いに覆された。 メインで描かれるだろうと思われていた脱獄シーンが、映画の最終盤にきてようやく始まることが如実に表しているように、この映画は単純な脱獄映画などではない。 脱獄を画策するに至った夫と、無実の罪で投獄された妻、彼らの息子、そしてこの家族と事件に関わる群像における濃密な人間ドラマだったのだ。  観客に対しては「真相」に対して断片的な答えは示されるものの、すべての決着には至らない。  ついにすべてを終えた夫は、果たして「真相」に辿り着けたのか。 映画は、ラッセル・クロウ演じる主人公の微妙な表情を映し出して終える。 そこには、満足感や達成感もあれば、混乱と葛藤がより深まっているようにも見える。 彼の心理の行方こそが、この映画が描き出す最大のサスペンスだったのだと、最後の最後まで続いた緊張感の末に思い知った。
[DVD(字幕)] 8点(2012-05-05 00:03:51)(良:1票)
26.  スルース(2007) 《ネタバレ》 
尊大な作家と作家の妻の愛人、奇妙な大邸宅内で繰り広げられる男と男の“淫靡”な闘い。  この奇抜な会話劇を織りなす上で、ジュード・ロウ×マイケル・ケインという二人の英国俳優は、それぞれに妖しさと美しさを秘めていてこれ以上ないほど適役だったと思う。  ケネス・ブラナー監督らしい「文体」を意識した映像世界の演出も冴え渡り、会話が頭に流れ込むように展開され、登場人物らの攻防を同じ部屋で目の当たりにしているような感覚を覚えた。  二人の男が発するそれぞれの言動に対し、何が真意なのか、何が虚偽なのか、というまとわりつく“靄”のような雰囲気に終始やきもきしながら、たっぷりに余韻を残すその映画世界を存分に楽しめた。  久しぶりに、ジュード・ロウの変質的な演技を見れたことも満足。
[DVD(字幕)] 8点(2008-09-27 09:57:23)
27.  スーパーマン リターンズ
おおよそ20年の沈黙を経て、ついに“スーパーヒーロー”の祖とも言える男が還ってきた。 その名は「スーパーマン」。 その工夫も変哲もないストレートすぎるほどのネーミングを堂々と掲げられるヒーローは、やはりこの男しかいなかった。 弾丸よりも早く飛び、大陸さえも持ち上げる、圧倒的な“ザ・パワー”。強引なまでの存在感のみで人々を魅了できるヒーローが“スーパーマン”以外にいるだろうか。  そう問答無用に褒めちぎれるほどに、20年ぶり(劇中では5年ぶりという設定)の帰還を果たした“新”スーパーマンは素晴らしかったと思う。  故クリストファー・リーブは、スーパーマンになるために生まれてきたと言っていい俳優だった。「彼なしにスーパーマンは有り得ない」というのは、とても真っ当な正論だったと思う。 しかし、新スーパーマンを演じきったブランドン・ラウスという新人俳優は、その高すぎるハードルを見事に越えて見せたと思う。 それはクリストファー・リーブのスーパーマンを越えたという意味ではなく、ラウスもリーブと同様、“スーパーマンになるために生まれてきた俳優”だということだ。いや、彼の場合は“スーパーマンを復活させるために”と言い換えるべきかもしれない。  まるで作られたようなスタイルとルックス、コミックヒーローの“根源”であるキャラクターに成るためのその重要な要素を、この新人俳優も見事に兼ね備えている。少しクラシカルな美貌も、新聞記者が仮の姿という原作コミックが生まれた当時の時代背景にふさわしい。  冒頭、早速ピンチに陥ったヒロインを助けるために、沈黙を破ったヒーローがロケットよりも早く飛び立っていく。 途端、言葉にならない高揚感に包まれた。それは“ヒーローの帰還”という圧倒的な希望を無意識レベルに感じた瞬間だった。シンプルだけれどとても大きなその感情を、理屈なしに抱かすそのキャラクターの存在は、もう絶対的ですらある。  近年のアメコミブームは、数多くのスーパーヒーローを登場&復活させてきた。 それは、もしかするとただ一人のヒーローの復活を望むムーヴメントであったのではないかとすら思う。 そしてようやく、最も愛され、最も待ち望まれたスーパーヒーローの帰還に成功したのだと。 
[映画館(字幕)] 8点(2006-09-02 00:46:55)
28.  スター・ウォーズ/クローン大戦 <TVM>
アメリカのアニメ番組枠で放映された今作。第一印象の「わー、いかにもアメコミっぽい感じのチープな画だなー」という不信感に反して、かなり×2よくできている。 物語の設定としては、エピソード2と3の間の話ということなので、本当はエピソード3を観る前に観たかった。実際観てなおさらそう思った。 なにしろ、アクション性がスゴイ。もちろんアニメーションなので、実写とは比較できないけど、描かれるシーンの娯楽性がとても高い。何がそう感じさせるかというと、それは一にも二にも、“ジェダイマスターたちの活躍”に他ならない。 メイス・ウィンドゥをはじめとする、本編ではほとんど目立たないマスターたちの縦横無尽の活躍とその強さが、熱い。特にウィンドゥは強すぎるのなんのって、あの強さを本編でやられると、アナキンもオビ=ワンも霞んでしまうだろう。 ストーリー的にも意外としっかりしていて。アナキンの精神面での闘いなども描かれており、なんなら、コレを“エピソード2”にしちゃって良かったんじゃないかと、思わなくもない。
[地上波(字幕)] 8点(2005-08-04 22:34:56)(良:1票)
29.  スター・ウォーズ/ジェダイの復讐<特別篇> 《ネタバレ》 
時に凶暴なまでに純粋な愛を持っていたために、アナキン・スカイウォーカーは暗黒面に堕ちてしまった。 パドメの死が決定的な要因となったことは間違いないけれど、同時に生み落とされた“希望”の存在をもっと早くに知っていれば、もしかしたら彼はこんなにも長く苦しみ続ける必要はなかったのではないか。 創造の世界に対して“たられば”を言っても仕方ないけれど、ヨーダをはじめとする偉大なジェダイマスターたちの選択と決断は、ことごとく裏目に出ているように思えてならない。 愛に生き、愛に殺され、愛に救われた悲しい一人の男の叙事詩に打ち震える。
[DVD(吹替)] 8点(2005-05-24 19:23:50)
30.  スター・ウォーズ<特別篇>
「A long time ago in a galaxy far far away….(遠い昔、遥か彼方の銀河系で…)」から始まるあまりに有名過ぎるオープニングクレジット。 それを牽引するように示される「Episode IV」というタイトル。  この映画史に燦然と輝く壮大なスペースオペラを、敢えて「Ⅳ」から描き出したジョージ・ルーカスの成功の確信は一体どこから生まれたのかと、改めて思う。 彼はこの第一作製作時に、製作会社からの監督料の上乗せを拒否し、代わりに「スターウォーズ」に関する商品化の権利を要求し莫大な利益を得たと聞く。 「スター・ウォーズ」公開時、ジョージ・ルーカスは33歳。今現在の自分自身とほぼ同い年の男の先見性の凄さに愕然としてしまう。  「映画」は、人類の偉大な発明の一つだ。そして、「SW」を生み出したジョージ・ルーカスも、偉大な発明家の一人と言えよう。
[DVD(字幕)] 8点(2005-05-23 15:35:48)
31.  スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー
これはSFではなく、“空想科学活劇”だ!と冒頭から叫びたくなった。映画とは元来、映像を創り出すことであり、極論すればそこにリアリティなんてものは端から無いのかもしれない。この映画世界は、そういうリアリティという言葉に縛られない、「世界を創る」という映画作りそもそもの“楽しさ”に溢れている。問答無用に大挙する巨大ロボット集団、それを一斉に指さす群集、ヒーローパイロットに美しいヒロイン、美人女将校、怪獣、ロケット、etc……そういうものを詰め込めば、面白い娯楽映画が出来るに決まっている!という強引な創作哲学に感動すら覚える。だが実際、純然たる娯楽が生まれているわけだから、“形に出来る者”にとってそれは普遍的な真理なのだ。
8点(2004-12-01 17:16:00)
32.  スパイダーマン(2002)
巨大ビルディングの林を滑空するあの爽快感、それだけでこのエンターテイメント映画の価値は計り知れず、満足感というものはその瞬間に満たされる。躊躇のないアメコミの実写化に感服せずにはいられない。見事、サム・ライミ。
[映画館(字幕)] 8点(2004-01-13 16:01:15)
33.  スパイ・ゲーム(2001)
大雑把なアクション大作とは一線を画した、心理戦に優れたストーリー展開が非常に興味深く見応えも大きかった。ロバート・レッドフォードが挑むゲーム盤上の闘いのような手触りは、タイトルにふさわしく新感覚の緊迫感が楽しめる。映像的にも趣向が凝らされ集中が途切れない。完全に「殴られ役」に徹したブラッド・ピットの頑張りも評価したい。
8点(2003-12-24 01:07:21)
34.  スナッチ
衝撃性と珍妙さを併せ持つバイオレンスフルな展開による群像劇はとてもツボにくるものがあり楽しかった。軽快でスタイリッシュな映像感覚もクオリティ高く引き込まれる。ガイ・リッチー監督にはこれからも「笑えて、カッコイイ、バイオレンス映画」を作ってほしいと思う。
8点(2003-12-16 19:16:15)
35.  スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス
 スター・ウォーズ旧三部作を一応は観ていても、あまりこのシリーズ自体に魅力を感じていなかった者にとっては、初見ではそれほどの面白味を感じることができない。だが、今回また見直してみると、作り込まれたエンターテイメント性は流石のクオリティを見せ、物語自体の深みも増して見えた。希望に満ち溢れて見えるアナキン坊やがふいに見せる一寸の“不安”や続編への伏線となる“懸念”もしっかりと描かれており、映画としての完成度の高さをうかがうことができた。
[DVD(吹替)] 8点(2003-11-25 14:55:34)(良:1票)
36.  スピード(1994)
初見時はキアヌ・リーブスのアクション演技は別に悪く思わなかったけど、「マトリックス」を観てからはやはり若干のキレの無さは否めない。それに対してサンドラ・ブロックの魅力はこの映画がピークと言いたくなるほど躍動的で美しい。彼女は「スピード2」でコケてからなんとなく上のレベルに登れなかったね……。映画自体はタイトル通りスピード感に溢れ、秀逸なアクション映画に仕上がっている。
8点(2003-10-06 01:19:17)
37.  スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース
アニメーション作品であることの必然性と可能性を、文字通り「無限」に広げて、多元宇宙のありとあらゆるスパイディたちが織りなすマルチバースの世界を自由闊達に表現してみせた“スパイダーバース”シリーズの第二弾。 他のスパイダーマン映画と同じく、“続編”であることの優位性を活かしたアバンタイトルのシークエンスは、情報量が極めて多く、42歳の中年男性の脳内は早々にメモリ切れを起こしそうになり、情報処理能力が鈍化していたことは否めない。  前作が生み出した「革新」を更に突き詰め、その映画的な力量がパワーアップしていたことは間違いない。 めくるめくアイデアとイマジネーションの“渦”は、エンターテインメントを超えて、もはや芸術的ですらあった。  スパイダーマンとなり、大いなる力と大いなる責任を与えられ、同時に多大な喪失を経た10代の主人公マイルズ・モラレスは、多元宇宙のスパイディたちと共闘し、「一人ではない」という勇気を得る一方で、孤独を深めている。 そのキャラクター描写は、極めて特異な境遇でありつつも、多くのハイティーンの若者が抱える普遍的で“青臭い”心象を表現しており、とても興味深く、自分自身もそういう時期を経てきたことを思うと感慨深くもある。  マルチバースの更に深淵に引き込まれた主人公は、そこですべてのスパイダーマンに課された“宿命”を突きつけられる。 だがしかし、若きスパイダーマンは、“青臭い”からこそ、それに対して全力で抗い、多元宇宙を股にかけて逃走する。 それは、この現実世界の“大人”たちが知らず知らずのうちに手放し、許容し、諦観してしまっている「可能性」に対するアンチテーゼのようでもあった。   普遍的でありながらもとても深いテーマを物語の核心に孕んだエキサイティングな続編だったと感じる一方で、やはり作劇においてありとあらゆるものを詰め込みすぎている印象は強く残った。 それが自分自身の情報処理能力の低さ故と言われれば反論できないけれど、もう少しスマートにストーリー展開の“交通整理”をすることは可能だったのではないかとは思う。 思いついたアイデアやイマジネーションのすべてをビジュアル表現せずとも、観客である人間は空白を想像力で補えるわけで、その想像の余地を残すことが、もっと広い世界を創造する要素だとも思う。  そういう意味で、やはり本作は溢れ出るクリエイティビティが、ストーリー展開にそのまま呼応するように氾濫気味で、うまく収拾できていない。 でも、本作が次作最終章へのブリッジであるということを踏まえると、その氾濫に伴う混沌こそが布石なのかもなとも思える。 つまるところ、本作の正当な評価は、次作での物語の結実次第なのだろう。   果たして主人公マイルズ・モラレスは、逃走先の“世界”で、別の“可能性”の自分自身と衝撃的な対面を迎え、本作は終幕する。 とても宙ぶらりんな結末だけれど、別次元ではスパイダーグウェンが、“バンド仲間”を集結させて、我々の高揚感を煽る。 「可能性」の大渦に自分自身の思考がフリーズしないように、せっせとメモリ増設して次作を待つとしよう。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-19 01:20:18)
38.  スター・トレック/BEYOND
「亡き友へ」 と、死んでいったクルーたちを悼み、カーク艦長が献杯をする。 このラストシーンのシークエンスは、一体どの段階でシナリオに組み込まれていたのだろうか。 劇中、襲撃されたエンタープライズ号の多くのクルーたちが命を落としてしまう展開はあるので、最初から用意されていたシーンなのかもしれないが、このシーンの持つ「意味」が悲運にも深まってしまったことに、映画ファンとして泣くしかなかった。 往年のTVシリーズからスポックを演じ続けたレナード・ニモイの死、そして、不慮の自動車事故で今作の撮影直後に亡くなってしまったチェコフ役のアントン・イェルチンの死に、惜別の思いばかりが募った。  二人の俳優の死が重なってしまったことも多分に影響しているのかもしれないが、リブート版第三弾となる今作には、全編通して「死」そのものと、それに伴うそこはかとない“別れ”の悲しさが漂っている。 「宇宙」というあまりに壮大で果てしない空間の中で突如として生じる空虚感と望郷の念も、冒頭のカーク艦長の心情描写に端を発して随所に表されており、表面的な大エンターテイメントのすぐ裏に垣間見える「宇宙」そのものの“深淵”が興味深い仕上がりだった。  僕自身は、この新しいリブート版シリーズからのファンで、残念ながらTVシリーズは観られていないのだが、その宇宙に対する深淵なる哲学性こそが、「スター・トレック」の本質的な魅力なのだろうと思える。 そして、いつの日か“人類”が宇宙で生命を紡ぎ蔓延ることに想像をめぐらし、そうなった時に、我々人類が辿り着く「境地」までもを創造したことが、このシリーズの凄さなのだろう。  J・J・エイブラムスから引き継ぎ新監督を務めたジャスティン・リンは、想定以上にそつなくシリーズ3作目を纏め上げたと思う。 「ワイルド・スピード」シリーズで磨き抜かれたチェイスシーンの安定感は言わずもがなの出来栄え。 また、アジア系キャラの“ヒカル・スールー”の見せ場を増やし、彼のキャラクターにゲイという要素を加味したことなどは、新鮮だったし、そのキャラクター像の広げ方は、長きに渡り“多様性”をテーマとして謳ってきた同シリーズにとって相応しいものだったと思う。  英語を理解しない日本人として少々残念だったのは、今作から脚本にも参加しているサイモン・ペッグが繰り広げているのであろう台詞回しの妙が、字幕では今ひとつ伝わらなかったことだ。きっと随所で意味深で愉快な言い回しがあったに違いない。  喪失し、破壊され、それでもエンタープライズ号は旅を続ける。 引き続き、最新作を心待ちにはしたい。 しかしながら、もうそこにはチェコフ君がいないことを思うと、やはり寂しくて仕方がない。
[映画館(字幕)] 7点(2016-10-29 23:27:11)(良:1票)
39.  300 <スリーハンドレッド> ~帝国の進撃~
“インパクト”のみで勝負し、娯楽映画として見事に勝利してみせた「300<スリーハンドレッド>」から早8年。 8年越しの続編は、物語の時間軸的にはほぼ同時進行の「番外編」という立ち位置だった。 スパルタ王レオニダスの死闘の裏では、また別の死闘が繰り広げられていた!という話。  前作自体が好き嫌い大別される作品だっただけに、もはやこの第二作目においては“好きな人以外立入禁止”にすべきだろう。 まず最初に断言させて貰いたいのは、「セックスより上手ね」と、最後の死闘の最中に敵役の最強最悪の女傑に言い放たせた、この「番外編」の在り方は正しい!ということだ。  前作でスパルタ王を演じたジェラルド・バトラーが、あまりに熱苦しく、あまりに豪傑だっただけに、今作の主人公テミストクレスを演じたサリヴァン・ステイプルトンなる俳優の存在感が希薄だったことは明らかだ。 彼が率いるアテナイ軍も、豪傑揃いの精鋭300人だったスパルタ軍と比較してしまうと、当然ながら脆弱に映ってしまい、映画に添えるべきインパクトに欠けていたと思う。  しかし、その希薄さや脆弱さは、ある意味必然的なことだ。続編であり番外編である今作が、物語の本筋である前作に対して“同様”のインパクトで勝てるワケがないし、勝つべきではない。  その代わりに今作は、また別のインパクトをちゃんと用意出来ていた。 それこそが、前述の「台詞」を放つペルシャ帝国海軍指揮官アルテミシアなる最恐の悪女であり、それを演じたエヴァ・グリーンに他ならない。 彼女一人で、主人公率いるアテナイ軍はおろかペルシャ王すらも凌駕する存在感を放っている。 最近数作では印象的な悪女ばかりを演じているエヴァ・グリーンだが、彼女が現役最恐の“悪女女優”であることは間違いない。  彼女と主人公の「一戦」が、今作の最大のハイライトであることは言うまでもないだろう(ニヤリ)。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-17 22:56:52)
40.  スター・トレック(1979) 《ネタバレ》 
クライマックス、宇宙の果てで邂逅した機械生命体と人間が眩い光の中で「結合」する。  比喩でも揶揄でもなく、それは機械と人間との“セックス”だ。 字面だけを捉えれば、とても突飛でぶっとんだ表現だけれども、これこそがこのSF映画史に残るエンターテイメントシリーズの揺るぎない真髄であろうと思える。 必ずしも見栄えのいい娯楽性には流れず、宇宙そのものの姿と、その神秘を追い求める人間の姿を描き出していったからこそ、このシリーズは世界中のファンに深く愛され続けているのだろう。  J・J・エイブラムスによるリブート版で初めて「スター・トレック」の世界観に触れ、熱狂し、今回ようやく1979年の劇場版を観ることができた。 1966年〜1969年のテレビシリーズを経てからの劇場版なので、本当はそのテレビシリーズも観ることがベストなのだろうけれど、さすがに3シーズン79話もの映像作品を観る余裕はなかった。 主要キャラクター同士の関係性など、テレビシリーズを観ていればもっと楽しめたのだろうけれど……。  そういった世界観への馴染み難さも手伝って、特に序盤は非常にかったるい。 全体的にテンポも悪く、ストーリーテリングも上手いとは言い難いので、正直なところ映画の8割方はかったるいと言わざるを得なかった。  明確な徒労感を感じつつ映画は終盤に差し掛かる。 「退屈」の一言での酷評を心に決めかけたラスト20分、映画は突如として宇宙の神秘性に突き進む。 その展開自体はあまりに唐突で、やはり上手い映画だとは言い難いが、ラストの顛末はSFならではの衝撃性に溢れていて、それだけで印象的だった。  “創造主”の追求という宗教的な哲学性も加味しつつ、新しい進化の誕生を描いた顛末そのものは、SF映画史に残り得るものだったと思う。  この後の映画シリーズ、そして前段のテレビシリーズもやっぱり観たくなる。
[CS・衛星(吹替)] 7点(2014-12-11 17:06:29)(良:1票)
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