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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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21.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 
映画のはじまり近く、主人公がはじめてローラーガールズたちに出会い魅了される場面。ローラースケートでさっそうと現れるその姿を主人公が見つめる、そのまなざしひとつで映画(=物語)が動き出すことが予感され、その高揚感に思わず涙腺がゆるんでしまう。  そして間もなく、彼女はローラーゲーム・チームのオーディションを受けようと、ひとりバスに乗り込む。車窓からはバイト先の店が望め、働く親友の娘や、いつもからかって憂さ晴らしをしている新米店長の姿が見える。主人公は手を振るが、当然ながら気づかれない・・・。この場面の繊細な作り込み方に、今度は本気で泣かされてしまった次第。  田舎町で満たされない日々をおくっていた少女が、自分の進むべき道を見出して新たな世界へと旅だっていく。そんな「ありふれた物語」を監督デビュー作に選んだドリュー・バリモア。しかし主人公が、愛すべき荒くれ女たちとともにケチャップやパイまみれの大乱闘を繰りひろげ、誰もいない夜のプール内で恋人と戯れあい、ファイトむき出しのライバルチーム・キャプテンと渡り合うなかで、ついに母親と真に向かい合えたこと。たぶん、そこにドリューにとって本作を撮るべき“切実”なモチーフがあった。  監督としてのドリュー・バリモアが撮ろうとしたのは、ひとりの少女の成長物語であり、家族との葛藤と和解劇だった。主人公がチームと家族、この2つの「ファミリー」とのきずなを深めていく姿に、同じく名優一族の家と映画界という2つの「ファミリー」のなかで育ってきたドリュー自身を重ねても、あながち穿ちすぎじゃあるまい。むしろ不幸なものだった自身の10代を、この映画によってあらためて肯定的に「生き直す」こと・・・    けれども作品は、そんなメロドラマ的感傷とも無縁のまま、ある時は西部劇&スラップスティック喜劇のように、ある時はエスター・ウィリアムスの優雅な水中レビュー映画のように、ある時はハワード・ホークス監督の『レッドライン7000』のように、ある時は“スモール・タウンもの”と呼ばれる田舎町を舞台にした一連の映画のように、つまりは「アメリカ映画」そのものとして、あっけらかんと現前している。それを実現した監督ドリュー・バリモアの繊細さと大胆さ・・・。そう、これが本物の「才能」というものだ。
[映画館(字幕)] 10点(2010-08-24 16:30:50)(良:1票)
22.  血のバケツ 《ネタバレ》 
“壁の中の黒猫”にはじまって、死体を彫刻の材料にするという『肉の蝋人形』の趣向をひとひねりし、当時の流行だったビートニクの芸術家かぶれを皮肉るという、まさに安直というか、適当にデッチ上げられた感はまぬがれない(実際、使い回しのセットを用いて、しかも撮影期間はたったの5日!)。けれど、芸術家たちのたまり場となっているカフェの、さり気なく飾られた絵画やオブジェはシロウト眼にもそれっぽく、意外にも“良い趣味”をしているのだ。  プロデューサーとしてのロジャー・コーマンはとにかく“ケチ”で有名らしい。が、少なくとも自分の監督作においては、どんなに低予算であろうと美術や小道具だけは周到に作り込まれている。どうやら監督としてのコーマンは、どんなストーリーや演技よりも、その「背景」こそ重要なのだと考えている。後はそこに人物を置くだけで、ストーリーは勝手に動き出す・・・と。実際この映画でも、少し頭の弱い主人公がいかに芸術家にあこがれ、偶然の事故からとはいえ“殺人彫刻(!)”にのめり込んでいったかを、彼が働く前述のカフェと、住まいである貧しいアパートの部屋の2ヵ所のセットだけで、きわめて説得的に浮かび上がらせているのだ。  加えて、殺人現場では直接的な描写を避け、次の場面で“彫刻”という形で「死体」を見せるという絶妙のソフィスティケーション! しかもこれが、ブラックな笑いに結びつくあたりも心憎いじゃないか。主人公の異常さにではなく、むしろ人間らしい“弱さ”に注目するこのスリラー・コメディは、初期作品の頃からロジャー・コーマンが実はいかに優れた「演出家」であるかを雄弁に語るものだと思う。  ・・・しかし、すべての発端となった、あの“ナイフが刺さった猫”の彫刻。何だか妙にカワイイです(笑)
[DVD(字幕)] 9点(2010-05-26 17:52:48)(良:1票)
23.  ユニバーサル・ソルジャー ザ・リターン 《ネタバレ》 
ヴァン・ダムを愛することにかけては誰にも負けないつもりの小生ですが、この映画だけはずっと見逃したまま(というか、実は見るのが怖かった・・・笑)。しかし、某地方TV局で放映したものを録画し、とうとう見ることと相成ったわけです。  冒頭、ミシシッピーとおぼしき沼沢地での水上チェイスシーンで、何より銃撃であがる水柱が絵的に格好良く、さすがスタントやアクション場面の第二班監督として場数を踏んだミック・ロジャースだけのことはあるわい、とニンマリ。こういうディテールひとつで、アクションシーンはがぜん活きてくるんだよなぁ!   と思っていたものの、その後はまさに“陸に上がったカッパ”のごときヘナヘナと勢いを失い、「自我を持って暴走するスーパーコンピュータ」だの、圧倒的に強大な敵(演じるのは、せっかく主演した『スポーン』があの結果で“あぼーん”されたマイケル・ジェイ・ホワイトだ)を倒すのに超低温でナニしてどうこうだの、『ターミネーター』シリーズから安易に設定の数々をパクるに及んで、ああ、やっぱり・・・と、脱力。初期のヴァン・ダム作品も確かに相当チープだったけれど、それでも、“いかにヴァン・ダムのアクションを美しく見せ(=魅せ)るか”を考え、工夫する設定や演出が凝らされていた。けれどここでのヴァン・ダムは、ただ右往左往するだけのデクノボウでしかない。そしてその結果、他の方もおっしゃっているように、爆発シーンだけで予算も吹っ飛んだかのような、後は予算も才能もけた違いのメジャー大作を安っぽく模倣したイミテーションに堕してしまっている(せめてTVリポーター役のヒロインだけでも、もう少し魅力的であれば・・・)。  まあ、それでも、アメリカでも劇場未公開のDVDリリースのみといった最近のヴァン・ダム作品に比べたら、まだマシじゃんだって? とんでもない! たとえばリンゴ・ラムや、古くからの盟友シェルドン・ルティックなどの監督と組んだいくつかの作品は、かつてのヴァン・ダム作品の輝きが垣間見られたものだ(特に『レプリカント』!)。それだけに本作の志の低さこそが糾弾されてしまるべきだろう。  あの、『その男ヴァン・ダム』という自己言及的なメタ映画でひと皮むけた存在感を見せてくれた今こそ、真の復活を切に望んでいるのは小生だけではあるまい!(だけか?)。起て! ヴァン・ダム!! 
[地上波(吹替)] 4点(2009-09-04 17:17:17)
24.  地獄の女スーパーコップ<OV> 《ネタバレ》 
先ほど、『小さな恋のメロディ』のコメントを書いてたら、この映画のことを思い出した(理由は・・・問わないでください・笑)。正直なところ、確かに見事なくらいツマラナイ映画なんだけれど、同じトレーシー・ローズ主演=チャールズ・T・カンガニス監督のコンビによる『クライム・To・ダイ』なんかも見るにつけ、ちょっとした興趣をそそられなくもない。というのも、本作にしろ『クライム~』にしろ、とにかく“男”がどこまでも貶められ、唾棄され、挙げ句の果てに惨めな最期を迎えることで共通しているのだ。  この映画では、ローズ嬢が演じるタフな女刑事(には全然見えないけれど、おちょぼ口をトンがらせて精いっぱいタフぶってます。愛おしいです)をめぐって男ふたりがさやあてを繰り広げるのだけれど、いずれもが終盤あっさりと殺されてしまう! その唐突さは、ドラマの意外性を狙ったというより、どこか“男性憎悪(!)”めいた異様さを感じさせるんである(そのあたりは、もう1本の『クライム・To・ダイ』でさらに過激かつ徹底して表面化している)。そこに、元ハードコア・ポルノ女優であるローズ嬢と、同じくポルノ映画監督だったカンガニスにおける一種の“意趣返し”を見てとることはできないだろうか。  女性を商品(=モノ)化し「消費」することで成立するハードコア・ポルノ出身の女優と監督のコンビが、今度は男どもを単なる「消耗品」扱いする映画を撮る。そのことに、彼らは間違いなく自覚的だ。それはまるで、ご立派ぶっているものの、ひと皮むけば同じような“女性嫌い[ミソジニー]”な社会的伝統を暗に通底させた「アメリカ映画」への、最底辺からの皮肉であり批判であり嘲笑とすら思えなくもない。オマエらの撮る映画にしても、オレたちと結局同じじゃないか、と。そう考える時、この単なるC級アクション映画は、過激な「フェミニズム的」作品とも、メジャー作品への痛烈なアンチテーゼとも見えてくるだろう。  ・・・と、かつてトレーシー・ローズを愛した者としては、無理やりでも理屈をこねまわして、本作を前に感涙にむせぶのであります(笑)。   (点数はあくまでも個人的な思い入れゆえのものです。念の為。)  《追記》 とは言え、やはり「8」はないかな・・・と1日たって反省&自粛し、泣く泣く「5」ということで。スミマセン!
[ビデオ(字幕)] 5点(2009-09-01 16:35:22)
25.  HACHI/約束の犬 《ネタバレ》 
映画の冒頭、秋田県? らしき日本の風景が映し出され、子犬のハチが今まさにアメリカへと送り届けられようとしている。つまりここで、ハチが純然たる“日本の犬”であることが強調されているわけだ。当初は「?」なこの場面だけれど、見ていくうちにナルホドと納得させられるだろう。そうか、これはハチを通して「日本」を見つめようとする映画でもあったんだ、と。  投げたボールを取りにいかなかったり(あのスヌーピーですら条件反射的に追いかけるというのに!)、このリメイク版では、オリジナルの『ハチ公物語』にはない秋田犬ならではの性格が強調されている。こうした、“西洋人の眼から見た日本の犬”のストイックさと、しかし主人を全身全霊で慕うさまを、映画は、リチャード・ギア演じる大学教授と同じ驚きと愛情に満ちた眼差しで追い続けるのだ。そして、教授が文字通り「帰らぬ人」になった後、ハチがそれでも毎日駅に教授を迎えに行く。その忠誠心や忠義の徹底ぶりとは、まさに「無償の愛」そのものだ。そんなハチは、映画の作り手たちにとってたぶん、「サムライ」そのものだった・・・。  武士の心得を説いた書『葉隠』は、主君に仕える者(=侍)の関係を「黙って死ぬまでつき従う」ことの「究極の愛」としている。この定義ほどハチにふさわしいものはない(だからこそ戦前の日本で「忠君愛国」のイデオロギーにハチも取り込まれ、プロパガンダに利用されたのだった・・・)。それはしかし、主人が死んだからそれに殉じるというのでは断じてない。主人の死後もずっと慕い待ち続けるその「無私の愛」によって、洋の東西を問わず普遍的な感動を呼ぶのだと思う。本作の作り手はそこに、死の美学化ではない「武士道」の真髄を重ねているのだ。  それを、西洋人の単なる「日本幻想(オリエンタリズム)」というのはたやすい。でもこれは、アメリカから「日本(犬)」に贈り届けられた、慎ましくも美しい一編の“ラブレター”に他ならない。そして、そういった彼らの視点からこの忠犬物語を見直す時、ぼくたちはあらためて「ハチ」の生きざまを、純粋に愛おしむことが可能になるのだ。  HACHIィ~!
[映画館(字幕)] 7点(2009-08-21 14:33:12)(良:1票)
26.  ターミネーター4 《ネタバレ》 
まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。  それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。  そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。  それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。  結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票)
27.  死霊の盆踊り 《ネタバレ》 
・・・たぶん作り手たちの主眼は、まだ当時メジャーの作品では御法度だった女性のハダカを、これでもかこれでもかとスクリーンに映し出すこと、それに尽きるものだったはずだ。その点では、堂々10名ものダンサーを次々と“競艶”させる大サービスぶりこそ、彼らが考える本作の「商品的価値」だった。つまりこれは、あくまで「プレイボーイ」誌なんかの映像版、“動くヌード・グラビア”のはずだった。  ただこの映画は、単なるストリップショーのライブをフィルムにおさめるのではなく、あくまで“劇映画”としての体裁をとってしまう。それゆえ「ハダカを見せる」だけ以上の付加(負加?)価値を求められることになり、そっち方面でのあまりの低レベルぶりが、本作を「史上最低の駄作」ということで、良くも悪くもカルト化させてしまったのだった。しかし、どうしてただのストリップ映画が「ホラー」(と、言えるならだが・・・)であらねばならなかったのか? そこにぼくは、原作・脚本・共同製作エド・ウッドの映画への“愛”を見たく思うのだ。  映画の冒頭近く、三流小説家の男が婚約者に「他は全然ダメだけど、ホラー小説だけは売れるんだ」と自嘲気味(にしては、ちょっと得意気)に語る。あきらかにあれは、ウッド自身の投影であり、彼の心の声だろう。そしてウッド映画のお馴染みクリスウェルが口にする大仰でバカバカしい(だが、いたって大真面目な)与太からもまた、ウッドの「ホラー」ジャンルへの自負やら思い入れが伝わってくるじゃないか。ここに欠けているのは、そういう「(ホラー)映画への愛」を表現するための演出であり、スタッフであり、役者たちであるだろう。逆に言うなら、ここには「愛」(と、女のハダカ)だけがあって他には何もないのである・・・。  それでもぼくは、ここでのブーイングと失笑の嵐(と、一部の“倒錯”した絶賛)にもかかわらず、この作品の徹底した「無意味さ」と、それゆえ透けて見える「エド・ウッド魂(!)」に、ひそかなエールをおくることにしよう。【はちーご=】さんも書かれていたと思うけれど、あの政治的・社会的に混沌とした1960年代半ばにあって、ここまで「無意味」に徹しきれることもひとつのラディカルさに他ならないのだし。だから、点数は「0」でも、個人的には「10」です。あしからず。
[ビデオ(字幕)] 0点(2009-05-25 16:38:00)(良:5票)
28.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 
イーストウッドが、玄関ポーチにすっくと立っている。それだけで、そこに“荒野”が出現するのだ。イーストウッドが、街の不良どもに凄みをきかせる。その時そこにいるのは、まぎれもなく“ダーティハリー”その人だ。イーストウッド自身が最後の出演作というこの映画は、彼これまで演じてきたアンチ・ヒーローな「ヒーロー像」の集大成であり、それへのオトシマエに他ならない。  この映画から様々な政治的・社会的な寓意やら見解を見出すことは容易だろう(そこから、アメリカにおけるマイノリティの問題を皮相的に扱ったとか、不良少年たちの側の「問題」の背景を見ずに単なる悪役として描いている・・・等の批判も出てくるわけだ)。が、そんなこと以上に、『許されざる者』が「最後の西部劇」だったようにこれは「最後のイーストウッド映画」なのである。「監督」としてのイーストウッドは、「役者」としてのイーストウッドのキャリアをここに完結させ、“封印”してみせた。ジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』が、まさにそうだったように。  クライマックスの、両手を広げて地面に横たわる主人公は、ほとんどキリスト(!)のようだ。ここでもまた観客は、この“聖人画(イコン)”から様々な解釈やら印象を語ることができるのかもしれない。しかしそれが、「最高の死に場所」を得た主人公を映画が“祝福”するものであること、そして「役者」イーストウッドの最後の勇姿への“餞(はなむけ)”であること、ただそれだけのことだとぼくは信じて疑わない。本作の主人公であるとともに「役者」イーストウッドそのものである彼は、ここで映画に、そして「監督」イーストウッドによって召された。それをこういう形で目撃できたぼくたち観客は、何と幸福なことだろう・・・   そう、何よりもこれは「幸福」な映画なのである。だからぼくたちも、心からの祝福と“歓喜の涙”で応えてあげようじゃないか。
[映画館(字幕)] 10点(2009-04-27 16:45:40)(良:7票)
29.  紀元前1万年 《ネタバレ》 
神話や伝説なんかに接する時、往々にしてその「語り」の飛躍ぶりやご都合主義、デタラメさに驚かされる。そこでは人と動物が対等にコトバを交わし、何年もの時間がひと言で片付けられたりする。そして語り手(とは、その神話なり伝説を産んだ「集団的(無)意識」の具現化した存在=声に他ならないんだけれど)の思惑や気分(!)により、平気で展開や細部が変更・改変されることも常のことだ。でも、だからこそその「語り」は現代のような、緻密さと物語の整合性、テーマに汲々とした「神経症」的な息苦しさから解放された、あるすがすがしさや味わいがあるのだと思う。  オマー・シャリフの「語り」で物語が進行する『紀元前1万年』は、何よりも先ず、そうした「神話的・伝説的」な叙述[ナラティヴ]を映像化する試みとしてぼくは見た。というかこれは、最新のCG技術やらテクノロジーを駆使しつつ、しかし徹底して「現代的」な物語の叙述から身を離そうとする映画以外の何物でもないのじゃないか。だからこそ登場人物の「内面」やら心理的葛藤なんぞは、あっさりとナレーションで語られる程度なのだし(・・・例えばペーターゼン監督の『トロイ』は、登場人物たちの内面に寄りすぎたその「現代的」な演出ゆえに魅力を欠いたのだ、とすら言ってしまいたい)、死んだヒロインの“蘇生”場面にしても、あくまでそういった「語り」の要請に忠実だったゆえなのだ。すべてに成功している映画だとは思わないけれど(人々を支配する神のごとき存在がWASP風の「白人」だったというオチの、いささか安易な寓意性はむしろ不要だろう・・・)、その“大胆さ”こそ本作を真に興味深い作品にしているのではあるまいか。  そう、エメリッヒ監督の映画は、これまでもそのどこか反=時代的な「語り」のおおらかさこそが魅力なのだった(まあ、それを「バカバカしさ」ととる向きもあるんだが)。本作は、そういった「語り」そのものに監督自身がのめりこんでいるかのようだ。それゆえ、彼の映画としてはあまりに“作家性(!)”がオモテに出すぎた感がなくもない。が、「神経症」めいた映画にどこかイヤ気をさしていた観客にとって、これほど映画ごころを慰撫され、ホッとできる作品もないだろう。  エメリッヒ、やはり断固支持!
[映画館(字幕)] 8点(2008-06-03 16:03:59)(良:2票)
30.  火星探検 《ネタバレ》 
冒頭、月着陸を計画した博士や宇宙飛行士たちの記者会見の模様が延々と続き、これがやたら長い。いいかげん観客が焦れてくる頃、ようやくアタフタと出発(笑)。しかし航行中、燃料の計算ミスで推進力が低下したとかで、今度は紙に鉛筆(!)で受験生みたく延々と計算し直す場面が続くんである。その挙げ句、突然の加速(またも計算間違いで?)宇宙船は軌道をはずれ、失神した乗組員とともに月ではなく火星に到達。ううむ、いったい彼らはどれだけの時間気を失っていたんだ? ・・・まったく、隕石群の飛来とか、核戦争の末に退化したらしい火星人の襲撃などといった見せ場より、この映画はそういった地味な(そしていささかおマヌケな)場面にこそ焦点を当てているかのようだ。  1950年代のアメリカ映画にあって、特にこの手の「B級」(とはいえ本作、赤狩りの当事者ゆえノン・クレジットだが脚本にダルトン・トランボ! 撮影監督や音楽にも驚くべき名前がクレジットされている)SFは、宇宙人や怪物たち(とは、冷戦と「共産主義者」の暗喩的存在だ)とのヒロイックな戦いを描き、無邪気なまでに「自由主義」礼賛を謳いあげたものだった。けれど一見「おバカ映画」な本作は、そういったプリミティヴな「思想的偏向」ではなく、実のところ極めて屈折したかたちで「愛」を描こうとする。というかこれは、オザ・マッセン演じる女性科学者こそを主人公とした「女性映画」、一種の『ニノチカ』の変奏(!)として見るべき作品なのだと思う。  ロイド・ブリッジスの好意にも冷ややかだった“科学がすべて”である彼女が、いかにして「女性」としての自己を取り戻し、「愛」の言葉を口にするかーー。それを、ルビッチ作品のような諧謔とフモール(ユーモア)ではなく、これも「ドイツ的」といえなくもない生真面目さとともに、「宇宙冒険もの」というカテゴリーにしのび込ませる。しかも、彼女が「愛することの歓び」に目覚めると同時に悲劇が訪れるという、驚くべき〈運命愛〉的な結末・・・。  おいおい冗談だろ、と申すなかれ。この名もないドイツ出身監督による低予算SF映画は、間違いなくもうひとつの「別の物語」を語っている。それが「ルビッチ」という“偉大なドイツ出身監督”の作品を想起させてくれただけでも、少なくともぼくにとって、実に刺激的な映画体験をもたらしてくれたのだった。 
[DVD(字幕)] 7点(2008-05-19 11:56:59)(良:1票)
31.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
『硫黄島からの手紙』のなかで、負傷して日本軍の捕虜になったアメリカ兵の青年が登場する。彼は手厚い看護を受けたものの、結局息を引き取る。けれど、彼が持っていた母親からの手紙の内容に、今までアメリカ人を“鬼畜”だと信じ込んできた日本兵たちは、「彼らも俺たちと同じじゃないか…」と愕然とするんである。  この場面は、本作のなかでもとりわけ感動的で、美しい。その時、日本兵たちは、目の前のアメリカ人青年をただ殺すべき〈敵〉ではなく、はじめて〈人間〉として認識した。と同時に、ぼくたち観客もまた気づかされるのだ。この映画そのものが、『父親たちの星条旗』にあってまったく「顔」を与えられなかった日本兵たちを、ふたたび個々の〈人間〉として見出すものであったこと。そのために、どしてもこれが「二部作」であらねばならなかったことを。  『星条旗』が、「憎悪と敵意」「政治」という「戦争の本質」こそを描くものだったとするなら、本作は、常にそういった「戦争」のなかで見失われてしまう〈人間〉を回復する試みである、といって良いかもしれない。・・・戦場にあって、ただお互いを殺し・殺されるだけの兵士たち。「憎悪と敵意」の対象でしかなかった〈敵〉同士を、イーストウッドの本作は、あらためて〈人間〉として描こうとする。それこそが、戦争の“消耗品”として歴史に埋もれ、顧みられることのない彼らを、あくまで一個の人間として追悼することになるからだ。だから、「戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在だ」というイーストウッド自身の言葉は、決して彼の「右翼的」な信条=心情から出たものではあるまい。むしろ彼は、現在に至るまで時の為政者(ブッシュ!)たちが「自分たちは正義の側で、悪と戦う」と唱え、戦争を肯定することへの断固としたアンチテーゼとして、兵士たちを1人1人〈個人〉として「戦争」から“帰還”させようとしているのだから。  この、全編のほとんどを日本人の役者ばかりが登場する「日本(語)映画」を、アメリカのジャーナリズムが高く評価するのも、おそらくその一点においてであるだろう。・・・これが、監督イーストウッドの最高傑作かどうかは分からない(し、どうでもいい)。けれど、戦争の「本質」を描き、兵士たちをふたたび〈人間〉の側に取り戻そうとする「硫黄島二部作」は、現代最高の「(戦争)映画」であること。それだけは間違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 18:31:23)(良:4票)
32.  父親たちの星条旗
18世紀プロシアの軍人クラウゼヴィッツは、その古典的著書『戦争論』で言っている。戦争の「本領」とは、「憎悪と敵意」を伴って遂行される暴力行為だ、と。  戦場において国民(=兵士)たちは、ただこの「憎悪と敵意」を増幅することだけを課せられ、そのエスカレーションとともに相手国民(=兵士)を殺し・殺される。そして、そんな「憎悪と敵意」をむけるべき〈敵〉としてのみ、本作の日本兵たちは描かれるのだ。だから、彼らは「顔」がない。徹底して得体のしれない“脅威”としてのみ、アメリカ兵たちの前に現れる。その時『父親たちの星条旗』は、これ以上なく端的に戦争の「本領」をぼくたち観客に見せつけているのである・・・。  一方クラウゼヴィッツは、「戦争とは異なる手段をもってする政治の継続である」とも言っている。「憎悪と敵意」をぶつけ合う戦場とは別に、国家にとって戦争とはあくまで政治的な「外交(!)」の手段なのだ、ということか。事実、映画のなかで政治家たちは戦争を継続するために、何とか戦場から生還した兵士たちを、国民が国債を買うための“道具”として利用する。兵士たちは、否応なくもうひとつの戦争の「本領」に巻き込まれてしまう。いわば、彼らは「憎悪と敵意」と「政治」という二重の「戦争」を戦うハメになったのだ。  そう、これまで常に〈体制〉からハミ出した「個人(アウトサイダー)」を演じ・描き続けてきたイーストウッドは、そんな「個」を単なる“道具=消耗品”としてしか扱わない戦争そのものの〈本質〉、ただそれだけをこの映画のなかで表出しようとした。声高に「反戦」を叫んだり、賛美・正当化する「反動」に走ったりするのではなく、いかに戦争が〈個人〉をないがしろにすることで遂行=継続されるものであるかを、ある痛み(と、悼み)とともに観客へと伝えようとしたのだと思う。同時にその時、本作が、ジョン・フォード監督の『コレヒドール戦記』(原題は、「They Were Expendable(彼らは消耗品)」だ…)に呼応し共鳴しあうものであることも、ぼくは深い感動とともに確信する。   その上で、『硫黄島からの手紙』を撮ることによって、あらためて「兵士たち」を人間として、〈個人〉として追悼しようとしたイーストウッド・・・。この「硫黄島二部作」において、彼はジョン・フォードをすら“超えた。この2作品と「今」出会えたことを、ぼくはただただ幸福に思う。
[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 15:43:55)(良:2票)
33.  16ブロック
ニューヨーク市警の刑事で、どうやら離婚経験者である主人公。それを演じるのがブルース・ウィリスとくれば、誰だって『ダイ・ハード』シリーズを思い浮かべるだろう。事実この映画には、今は酒におぼれる自暴自棄な日々を送るジョン・マクレーン刑事の“後日談”めいた雰囲気がある。これを、シリアスに撮られた『ダイ・ハード4』だとすら言っていいかもしれない。  しかしあのシリーズが、<刑事もの>というジャンルを超えて、どんどん「見せ物(スペクタクル)性」をエスカレートさせていったのに対し、『16ブロック』は、あくまで<刑事もの>というジャンルにとどまり続ける。警察内部の腐敗や、護送中に心の絆がうまれる犯人と主人公の刑事といった、この手の映画の約束事というか定石を律儀なまでに踏襲していくのである。  それゆえこの映画は、一見すると地味で派手さに欠けた「普通」の映画、ひと昔もふた昔も前によくあった感じのありふれた映画にすぎないようにも思える。けれど、けれどそれは、作り手であるドナー監督自身によって意図的に選びとられたスタイルであり“戦略”に他ならない。わざと色調をおさえたトーンの荒い画面にしても、まさしく1970年代の映画のようなテイストをめざされたものであるだろう。ドナー監督は、あえて<ジャンル>に忠実というか自覚的な映画を撮ろうとした。何故か? たぶん<ジャンル>こそが、“映画が「映画」として成立する規範”であると、彼は信じているからだ。  CGの登場、あるいはルーカス=スピルバーグの登場によって、映画は<ジャンル>を逸脱することによる新たな「見せ物性(スペクタクル)」を開拓してきた。しかし一方でそれが、なんでもありの、「今まで見たことのない映像」を競うことの自堕落な増長を招いたことも確かだろう。だからドナーは、CGによる見せ場も、非現実的なアクションも禁欲(あの『リーサル・ウェポン』の監督が、だ)することで、あえて<ジャンル>への意識に満ち満ちた本作を撮った。映画そのものを、「アメリカ映画(!)」を“とりもどす”ために。そのことが、かろうじて「1970年代の(アメリカ)映画」にふれることができた年代の観客にとって、何より感動的なことなのだった。  そう、映画なんて、たとえば小道具に“小型ボイスレコーダー”ひとつあれば、充分なのだ・・・   
[映画館(字幕)] 10点(2006-12-01 16:05:39)(良:3票)
34.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 
シャマランの映画におけるモチーフは、どれもあまりに単純というか、馬鹿馬鹿しいくらい「幼稚(プリミティブ)」なものばかりだ。「幽霊」、「不死身のヒーロー」、「宇宙人」、「都市伝説」、そしてこの最新作における「妖精」・・・。世の常識的(!)な大人たちにとってそれらは、せいぜい子供だましのギミックか、浮世離れしたファンタジーの口実(エクスキューズ)にしかならないだろう。  しかしシャマランの映画は、そんなあ然とするようなモチーフを、どこまでも大真面目に物語っていく。だから観客は、「これには何か、アッと驚く“仕掛け”があるに違いない」と思う。大のオトナが、幽霊や妖精などを「本気(シリアス)」に語るはずがないのだから。実際、シャマランの映画はこれまで、その“仕掛け”において(のみ)評価されてきた。  でもシャマランの映画が描こうとしたのは、やはり幽霊や妖精の方だったのだと思う。なぜなら、それらこそ「物語」の“根源的(プリミティブ)”なものに他ならないからだ。ヒトが「人」としての歴史を歩み出して以来、人間は常に「物語」を求め続けてきた。なぜだろう? たぶん他の生き物たちと違って、人間は、この過酷な世界=現実をそのまま受け入れることに、耐えられないからではないか。だから「物語」を通じてのみ、人は世界や現実を見出すことができた。恐怖や不安、苦痛から目をそらすのではなく(なぜならそれは、“現実逃避”という別の「悪しき物語」だから)、それを受け入れるためにこそ、人は「物語」を求めた・・・。  シャマランの映画は、そういった「物語」あるいは「物語ること」の根源にあるものを、あらためてぼくたちに教えてくれるものだ。この最新作で、ポール・ジアマッティ扮する主人公は水の精(その名も「ストーリー」!)を癒すと同時に、自分も「ストーリー」によって耐え難い過去の不幸な記憶から癒される。そして観客であるぼくたちはその主人公の姿に、「物語(ストーリー)」こそが人間にとって(たぶん唯一の)“救い”であることを深い感動とともに見出すのだ。  だからシャマランの映画は、プリミティブであるからこそ美しい。そう、何て美しく、愛しいんだろう・・・   (以上の文は↓の皆さん、特に【あにやん】さん、【すぺるま】さん、【のはら】さんのレビューから示唆されたものです。ありがとうございました!)
[映画館(字幕)] 10点(2006-10-04 17:24:22)(良:2票)
35.  マイアミ・バイス
マイケル・マンの映画は、文字通り「男(マン)」を描いたものだと、よく言われる。が、実はそれ以上に「プロフェッショナル」たちの姿、ただそれだけを描こうとしたものなのだと思う。刑事であろうと犯罪者であろうと、彼らは、自らの成すべき「仕事」をただ果たそうとする。「仕事」のためなら、彼らは臆することなく死地へと向かう。プロである彼らにとって「よく生きる」ことは、「よく死ぬ」ことと同義なのだ(唐突だが、武士もまた「仕える者(=プロ)」であるなら、『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見附たり」とは、何とマイケル・マン的な定義であることだろう!)。  映画は、そんなプロたちが「プロ」たるゆえんを凝視する。銃や武器の鮮やかな扱い方、車の転がし方、あるいは敵地へと潜入する時の物腰、表情・・・。そして主人公たちが一撃(ワンショット)で相手をしとめるように、マンの映像(ショット)は、そのひとつひとつの〈所作〉を、恐ろしいほど的確(クール!)に捉えていく。それ自体がプロフェッショナルな〈所作(=演出)〉によって、マンは、“巨大麻薬組織に挑む潜入捜査官たち”という「物語」とは別の次元で「映画」を成立させるのである。すなわち、プロたちが自分たちの「仕事」を遂行する姿、その〈所作〉だけによって。  一方でマイケル・マンの映画が男と女ののっぴきならない“関係”を描くのは、彼らもまた一介の男であり女であることを示すためだろう。その時この、「プロ」であることと「人間(マン)」であることの葛藤もまた、いかにもマイケル・マン的な主題であるだろう。が、しかしあくまでも主人公たちにとって、「仕事」を完遂することが最優先される。“情”は、常に「その次」なのだ(・・・ただ、たぶんこの『マイアミ・バイス』に唯一“瑕疵”があるとしたら、コリン・ファレルとコン・リーの刹那的な恋愛部分がいささか端折られ過ぎている、ということだろう。たぶん、再編集の段階によるカットで?)。  確かに、トニー・スコットやマイケル・ベイあたりの映画のように新奇(珍奇?)なスペクタクルもなく、「劇(ドラマ)」的な面白味に配慮のない無愛想(!)な映画かもしれない。けれど〈所作〉の英語訳が「アクション」なら、この映画は、言葉の真の意味において完全無欠の「アクション」映画に違いない。COOL!
[映画館(字幕)] 10点(2006-09-08 20:07:03)(良:2票)
36.  若き日のリンカン
思うところあって、ある時から、いわゆる古典的な「名画」とよばれる作品にはなるべくレビューを書かないつもりでした。が、この映画に関しては、最近DVDではじめて見ることができ(売っていたのが某100円ショップで、値段は「315円」…。嬉しいというより、ちょっと悲しかった)、どうしても書いておきたいことがあったので、自戒を解く(?)次第です。  この映画は、題名の通り、後の「黒人奴隷解放の父」リンカーン大統領が、まだ若く、無名で、貧しい弁護士時代に、保安官助手殺しの被告となった兄弟の、弁護を務めることになったエピソードを描くものです。そしてもちろん、窮地におちいった兄弟とその一家を、リンカーンが裁判の場で見事に救うことでめでたしめでたし。ではあるのですが、見終わった時の余韻というか「感動」は、若きリンカーンの聡明さや善良さ、素朴な“田舎者”としての愛すべきヒーローぶりとは別のところにあるように思いました。  映画は、留置場や裁判中のシーンで、被告の兄弟にほとんど言葉をしゃべらせません。町民が私刑(リンチ)で彼らを木に吊そうとしたり、裁判で何を言われようと、とまどいと、少しの怯えを含んだまなざしで、じっと事の推移をうかがっている。そして兄弟の家族たちも、留置場を訪れて、一緒に歌うことしかできない・・・。  その時、彼らは白人たちであるものの、映画は明らかにこの兄弟や一家を「黒人」として描いている。リンカーンの時代から、この映画が制作された1939年当時ですら変わらず差別され迫害されてきた黒人たちの受難を、この映画はまちがいなくこの兄弟とその一家に託して語り、告発しているのだと、ぼくは思います。監督のジョン・フォードは、黒人がひとりも登場しないこのリンカーンの「伝記」映画にあって、ひそかに、しかしはっきりと、虐げられてきた「黒人たち」のための物語を語っているのです。  フォード監督は、晩年近くに、今度は本当に黒人を被告とした裁判劇『バッファロー大隊』を撮ります。あまり評価されない、しかしあの美しい映画が、実はこの『若き日のリンカン』とはるかに“共鳴”するものであったことを、ぼくは今、ある深い感慨とともに確信しています。
[DVD(字幕)] 10点(2006-05-26 12:50:07)(良:2票)
37.  キング・コング(2005)
ピーター・ジャクソンが、どれだけオリジナルの『キング・コング』とそのキャラクターを愛しているかを、ぼくもまた決して疑うものじゃない。それはこのリメイク作品においても、全編から、ディテールの隅々から伝わってくる。例えば、コングの住む断崖に散らばる巨大な骨や頭蓋骨。それを画面にさりげなく見せることで、コングが、家族や仲間の死に耐えたまったくの“独りぼっち”であることを観客に示す。それゆえ、彼がアンという「相手」を得たことの喜びを、何があっても彼女を守ろうとすることを、ぼくたちは素直に納得できるのだ。  しかし、人間であるアンもまたこの巨大な「怪物」に“愛”を、そういって言い過ぎならば“愛しさ”を抱く時、この映画はオリジナル版の〈美女と野獣〉の寓話性を失ってしまい、単なる「メロドラマ」に陥ってしまったのではないか。コングが、彼女の前ですねたり強がったりする表情やしぐさは、確かに素晴らしくチャーミングだ。ぼくもまたそんなコングを愛さずにはいられない。しかし、コングがそうやって「人間的」に描かれれば描かれるほど、これは“異形の者の悲恋もの”に過ぎなくなってしまう(…クライマックスで、エンパイアステートビルにアンとともに逃げ登る本作のコングは、まるでエスメラルダを伴ってノートルダム寺院の尖塔に登るカジモドのようだ。そう、これはむしろ『ノートルダム・ド・パリ』のリメイクといった方がふさわしいのではあるまいか…)  もちろん、メロドラマだから悪いと言ってるんじゃない。でも、決して相容れない美女(=人間)であるからこそ、彼女に魅せられ身を滅ぼす野獣(=コング)の物語は、「神話」へと昇華されたのではなかっただろうか。だのに今回のコングは、たとえ死ぬとはいえ十分に愛され、何と幸せ者かと思ってしまう。しかもその“愛”が、自分に忠実で無償の愛情を注いでくれる「ペット(!)」に向けられたものではないと、誰に断言できるだろう…。  オリジナルで、最後まで恐怖の悲鳴をあげ続けたフェイ・レイのヒロイン。コングを決して「人間」とも「ペット」とも思わなかった彼女の方が、どれだけ“誠実”だったことかとぼくは思う。もちろん、そんなのは不当なイチャモンだと言われればそれまでだ。しかしなぜかこの映画には、そんな文句を投げかけたくなってしまう。…ごめんよ、ピーター・ジャクソン。
[映画館(字幕)] 6点(2006-02-03 16:37:58)(良:3票)
38.  エコーズ 《ネタバレ》 
催眠術にかけられたことがきっかけで、それまで5歳の息子にしか見えていなかった少女霊が見えるようになった主人公。はじめは混乱し恐怖するものの、やがてそれは、幽霊の訴えようとしていることを解き明かすべく、自分に課せられた「使命」なのだと思うようになる。そして、仕事や家庭もかえりみず、霊のメッセージの解明にのめり込んでいく…。  この展開は、ぼくたちにある別の作品を思い起こさせないだろうか? そう、これは、UFOを目撃して以来「何かに導かれている」という想念が頭から離れず、遂には妻子に去られる男を主人公にした『未知との遭遇』と似ている。というか、これは「同じ物語」じゃないか! それはこの『エコーズ』の中で、ケヴィン・ベーコンの主人公が庭中に穴を掘り、奥さんが怒って息子とともに車で去っていく場面によって、ほとんどぼくにとって“確信”となったのだった。  そう、『エコーズ』も『未知との遭遇』も、かたや“霊”こなた“UFO”に憑かれた「オブセッション」をめぐるドラマに他ならない。ひとつの〈想念=妄執〉に憑かれ、そのことだけに突っ走っていくこと。これは『激突!』から『JAWS』、『未知との遭遇』までの“初期スピルバーグ映画”のドラマツルギーの根幹を成すものだ(そしてそれは、先の『宇宙戦争』によって突然甦った…)。それを『エコーズ』の監督・脚本家デヴィッド・コープは、このミステリー仕立ての心霊映画で忠実に「踏襲」してみせる。『ジュラシックパーク』や『宇宙戦争』の脚本家でもあるコープは、実のところスピルバーグにとっての「アルターエゴ(!)」なのではあるまいか。  正直、ホラーとしてもミステリーとしてもいささか中途半端な印象が拭えない『エコーズ』だけれど、コープとスピルバーグの「関係=関連」を考える上で、これは実に貴重で興味深い作品であるに違いない。
[映画館(字幕)] 7点(2005-11-22 15:53:06)(良:1票)
39.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 
他のレビュワーの方がトム扮する主人公を「電波男」と評しておられたけれど、実は小生もそう思いました。そう、これは実のところ、あるひとつの「目的(=我執)」にとり憑かれた男の物語に他ならないと。では、その「目的」とは何か? 言うまでもなく、子供たちを母親のいるボストンまで何があっても連れていくということ。この、「何があっても連れていく」ことが、この映画における主人公の<すべて>だ。そしてそれは、決して「家族愛」だの「父親の復権」だのといったものじゃなく、まさしく“電波系”そのもののオブセッション(=強迫観念)として…。  だから主人公は、その「目的」を達するためなら手段を選ばない。車を盗み、他人を蹴散らし、知り合いすらも見殺しにする。そして、自分たちを助けてくれた男すら殺すことさえ厭わないのだ。  ゆえにあの終盤も、原作に忠実であるというより、この映画の「物語」上の“必然”だったと考えるべきだろう。何故なら、主人公が娘とともにボストンに到着した時点で、映画は実質的に「終わっていた」のだから。これは『インデペンデンス・デイ』のような地球的危機を描く「シリアス(!)」な作品じゃなく、徹頭徹尾トム扮する主人公のオブセッショナルな視点に一体化しつつ、その逃避行を描いた映画なのだ。彼が「目的」を果たした時、もはや宇宙人たちはその「目的」を阻む<脅威>としての意味を失って死んでいき、家族は一同に会する。もちろん、それらは決してご都合主義なのではなく、この映画にあっては(あるいは、この主人公にとっては)至極「当然」のことなのである。   …思えば、ある時期までのスピルバーグ作品とは、常にそういった、何らかのオブセッションをめぐるものではなかったろうか? 巨大タンクローリーも、人食い鮫も、UFOも、すべて主人公(たち)の「我執」あるいは「強迫観念」の実体化としてあったのではないか…。そう思い至る時、実のところ『未知との遭遇』までの映画こそを高く評価する者として、この最新作をやはり思いがけない興奮と歓喜の拍手とともに迎えねばならないだろう。そう、スピルバ-グは「狂っている」からこそ面白かったのだ。そしてこの映画は、本当に久々に、「狂っている」。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-12 20:01:07)(笑:1票) (良:5票)
40.  シンデレラマン
どんなに食うに困っても、子供が食べ物を盗んだら叱ってそれを返しにいく。妻や子供との約束は、たとえ物乞いをしてでも守り抜こうとする。妻子のため、それ以上に親友であるプロモーターのために、命がけの試合に臨もうとする…。  ロン・ハワードの映画は、いつでも〈道徳的〉だ。どんなに混乱し、汚辱にまみれた社会や世界にあろうとも、彼の映画の登場人物たちは、自分のため、愛する者たちのため、信じることのため、懸命にひたむきに生きよう、生き続けようとする。そしてその生きざまは、最後には必ず「報われる」のだ。それを、キレイごとに過ぎるだの、甘いだの、だから面白くないだのと批判したり嘲笑するのはたやすいだろう。けれど、父親が「約束する。決してお前たちをよそにはやらない」と言ったとき、それまで心の奥底に“捨てられる”不安を隠していた子供が父の腕に顔を埋めて泣くシーンの美しさは、常に〈道徳的〉であろうとする者たちだからこそではないか。その美しさをにすら何も感じず、あざ笑う向きがあるのなら、ぼくはその狭量さこそを不幸に思う。…「キレイごと」を信じなくなったときから、この世の中はこんなにも生き難いものになってしまったのではなかったか?   そしてロン・ハワードは、決して登場人物の内面や感情を大げさに、分かりやすく描こうとはしない。彼はきっと映画というものが、ひとつの微笑、ひと粒の涙、まなざし、沈黙、…そういったほんのちょっとしたしぐさや表情をていねいにすくい取ることだと信じている。もちろん迫力あるボクシングシーンなどの見せ場(スペクタクル)も用意しつつ、どのように撮れば人物たちの心の機微が映し出せるのかに全力を尽くす(だから、彼の映画に出演する役者たちは誰もがあれほど魅力的なのだ)。カメラの位置も、照明も、美術も、すべてがその一点において最も的確であるように“演出”されているのだ。それが、ハワードにとって、映画を撮る〈倫理〉だ。彼は決して映像の「詩人」ではないだろう。けれど間違いなく、ドラマにおける最良の「演出家」である。  物語における〈道徳〉と、映画における〈倫理〉を決して見失わないこと。そこからうまれた本作が現代にあって「最高の映画」であることを、ぼくは確信している。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-05 13:25:19)(良:2票)
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