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プロフィール
コメント数 3957
性別 男性
年齢 53歳

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1.  犯罪王リコ
禁酒法時代はギャングの時代、実世界で抗争が繰り返されれば、映画の世界にもギャング映画の時代となってくる。タイムリーなネタが描かれている訳で、いつの時代も皆さん、敏感というか、まあ、お好きですなあ。 であると同時に、トーキーの長編映画が登場し、広まっていった時代。トーキー初期の作品、と言ってよいと思うのですが、この作品を見ていると、いかにもトーキーならでは、と言った感じで、意識的に「オフの音声」が取り入れらているようです。「画面外からの音声」だけではなく、例えば会話シーンで、語り手は向こうを向いていて口元が画面に映っておらず、聞き手の方の表情が画面に捉えられていたりして。音があってこそ可能となる、同時並行の表現。新技術が登場すれば早速、それを駆使した新しい世界の探索が始まり、またさまざまな形で繰り返されていく、っちゅうことでしょうか。 一方で、影を用いた間接的な描写など、画面上の多重性みたいなものもあって、サイレント時代の残り香のようなものも感じさせたり。 物語はと言うと、チンピラ風情の主人公がギャングの一味に加わり、暴走気味の行動で頭角を現していくけれど、その先には破滅が待ち受けている、という、ベタと言えばベタなお話で、それを80分で駆け抜ける。主演のエドワード・G・ロビンソンが、見るからにワルそう、と言っても狡猾タイプではなく、「ちょっと(かなり?)勘違いしてるヤツ」といった風情で、役にマッチしています。たぶん、こういうヤツが実際の世界でも少なからず、いたんだろうなあ、と。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-11-24 07:54:36)《新規》
2.  ザッツ・エンタテインメントPART2
まー出るわ出るわ、ミュージカル映画の名シーンの箱詰め第2弾。すみません不勉強なもので、見たことも聞いたこともない映画も少なからずあり、気のせいか第1作よりもマニアック度が上がったような? それは気のせいかもしれませんが、いやはやとにかく奥が深い、この世界。ジャッキー・チェンあたりを嚆矢とする(源流まで遡ればサイレントのコメディ映画だろうけど)、俳優本人が人間離れをしたアクションを演じる映画、かつてはそれに相当するものがミュージカル映画だったのだろう、と思わせるくらい、超絶的なダンスが展開されていて、いやむしろ今のアクション映画の方こそがミュージカル映画の末裔なのかも。 と言ってもこの第2弾ではミュージカル以外も取り扱っていて、いや、ネタ切れなんて言っちゃいけませんよ、往年の映画、名シーン集。 その映像が、時にはかなり断片化され、「〇〇繋がり」みたいな感じで紡がれていく。それってまるで、ヤコペッティのモンド映画みたいな編集? いえいえ、ニューシネマパラダイスみたいだ、と言っておきましょう。 あと、今回の見どころは何と言っても、フレッド・アステアとジーン・ケリーが、歌って踊る! 全然衰えてない、とはもちろん言いませんが、そもそも全盛期がスゴ過ぎたのであって、衰え云々ではなく、比較するようなものでもなく、あの頃があって今がある、その味わい深さ。少なくとも痛々しさなどは微塵も感じさせず、充分にその上手さでもって「エンタテインメント」を体現し、堪能させてくれます。貴重な二人の共演、その物腰や佇まいから、人柄まで感じさせるようで。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-11-23 07:03:43)《新規》
3.  LOOPER/ルーパー 《ネタバレ》 
そうそう、そうなのよね。ターミネーター1作目のT-800の部品がこの世から消滅したら、未来は書き換えられたのだから、その消滅の瞬間をもってターミネーター2のT-800の姿もかき消えちゃうべきなのかどうか、という問題。 それはともかくとして。 この作品、いかにも「小説を映画化しました」っぽい雰囲気があるんですが、実際はオリジナル脚本らしく、「まず小説にしたら面白くなりそうな題材を、映画のためだけに準備してくるなんて、すばらしい! やればできるじゃないか!」 ってことで、いいんだろうか。なんかちょっと、ダメな気が。 映画用に脚本を書くのはそれを「映画」にしたいからであって、あるいは原作小説を映画用に改変するのもまたそれを「映画」にしたいからであって。しかるに、原作も無いのに「原作小説の映画化」っぽく感じてしまうというのは、言葉を変えると、アイデア先行でそれを必ずしも「映画」に昇華しきれていない印象。アイデアと、出来上がった作品との、分離感。まあ、実際に原作のある映画だって、うまくやればこんなことは感じずに済むのですが。 いや、この作品、いい雰囲気は、あるんですけどね。のどかな景色、音楽も抑え気味にして、静かな雰囲気での統一感。 ただ、登場人物の描き方までが静的というか淡泊、彼らの抱えるバックグラウンドなども、もう一つ心に響いてこない。ストーリーの都合で配置されただけのキャラ・・・少なくともブルース・ウィリスは、そんな感じ。 今の自分と未来の自分が対立する。両者の間には(それなりに「取返しのつかない」)時間と経験の差分があるはず。その差分の描写が、この程度でいいんだろうか。というより、どちらも「自分」なんだし、相手にもうちょっと関心を持たないものなのかしらん。 そういう要素が作品に不要なら、別に省いてもいいと思うけど、この作品には必要だったんじゃないかなあ。  古典的なSFの発想だと、「過去の自分が消えれば未来の自分も消滅する」となるけど、それを逆順にしてみせた(未来の自分が消えることで今の自分が消える)のが、この作品の最大の功績ですかね。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-23 05:50:18)《新規》
4.  スプライス 《ネタバレ》 
観ているとどうしても、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督と同じくカナダ出身の先輩監督の名前が浮かんでくる。ああ、これって、デヴィッド・クローネンバーグだなあ、と。 例えばあの『ザ・フライ』なんてのは妙な作品で、映画が始まったら殆ど前置きも何もなく、いきなりジェフ・ゴールドブラムが「オレって凄い研究してるんだぜ」みたいなことをジーナ・デイヴィスに吹聴している。そんでもって物語はとっとと禁断の実験へとなだれ込み、あとはひたすら、主人公の体に生じた異常が描かれていきます。登場人物がごく限られた、割と「内輪」のお話でして、これらの人物はそれぞれ、どこかイヤな部分があり倫理的な問題を抱えているにせよ、誰も悪人という程の人はおらず、なのにメチャクチャ悲惨なお話が、その特異な映像でもってこれでもか綴られていって。 ただただそこにあるのは、決して引き返すことのできない、残酷な変化。 この『スプライス』でもまるでこの『ザ・フライ』を踏襲するかのように、エイドリアン・ブロディとサラ・ポーリーはあれよあれよという間に異常な実験へと突き進んでいって、あとは、その実験がもたらした奇妙な日々が描かれます。人間に似ているけれども、人間に非ざるもの。それが、社会とどう関わるか、どう排斥されるか、などといったことはまるで描かれず、そこにあるのはただ、この3人による「内輪」のお話。ただしその中で展開される変化というものは、我々の予想を超える速度で、我々の予想ができないような方向に進んでいく。いや、マジでついていけん。と言いつつ、心のどこかに「ああ、やっぱりそうなるのか・・・」という思いもあって。こういう不条理感がまた、クローネンバーグ作品を思い起こさせます。 この「ドレン」なる生命体の描き方、幼少時の姿が登場した際は違和感ありまくりでギョッとさせられ、何だか映画が間違った方向に向かっているんじゃないか、と心配になりますが、成長すれば違和感も無くなり・・・ということは勿論無くって、違和感はずっと消えないし「間違った方向」感も消えないんですけれども、一方で、別の危うさも、何となく感じさせる・・・つまりそれが、「ああ、やっぱりそうなるのか・・・」に繋がる訳で、結局のところ映画が向かうのは、我々が予想できない方向というよりも、我々が予想したくなかった方向。 という訳で、ヒジョーに残念ではあるのだけど、「ドレン」の描写は結果的に、上手かった、ということになります。 全体的には、クローネンバーグ作品を思い起こさせること自体は悪くないとしても、その亜流止まりであるように感じさせるのは、少し残念でした。ラストもぶった切るように終わってしまう『ザ・フライ』と比べると、こちらの方がナンボがオチをつけようとはしてますが、言tっていることは同じという(笑)。変な続編が作られちゃっても知らないよ。いや、もうそれは無さそうか? それにしても、やはりというか何と言うか、エイドリアン・ブロディは役に立たんヤツを演じるとピカイチですな。演技かどうか知らんけど。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-17 06:10:15)
5.  美女と野獣(1991) 《ネタバレ》 
ディズニーアニメの復活を象徴づける一本で、実写映画に交じってアカデミー作品賞にもノミネートされ、毎年のように「ディズニー新作」が良くも悪くも話題となる時代でした。が、今、振り返ると、この後にはCGアニメの時代の到来があり、「ディズニー手描きアニメ大作時代末期の一本」、という印象もあります(この頃の一連の作品、2000年代に入ってもディズニープリンセスの括りで女の子には人気を保っていたけど、男の子の興味は早々にCGアニメの方に向かっていたような・・・)。 いずれにしても、この頃のディズニーとしては、社運を賭けるような想いで新作を作ってたんだろうなあ、と。 手描きとは言え、CGの援用が目を引きます。ただ単にCG描写を混ぜ込むと、そのメカニックな動きが浮いてしまったりしかねないのですが、そこは、実写人物をトレースした『白雪姫』以来の立体的な動きに事欠かないディズニーアニメの伝統、手描き部分にもCGに負けない立体感があって、両者がそれなりにうまく溶け込んでいるように思います(いや、違和感ゼロとまでは言わんけどさ)。 まずは作品開始早々の、登場人物の紹介を兼ねたような一連のシーケンス。画面上ではあらゆるものが動き、そこに、ヒロインとガストン君との重唱、さらには合唱がオペラ的に被さる。映像と音楽が織りなす、見事なアンサンブル。もう、このシーンだけでお腹いっぱい。 オペラ的と言えば、ガストン君の吹き替え版の声はオペラ歌手の方がやってて(オリジナルの声も?)、えらく迫力ありますが、ガストン君、やっぱり最後は死んじゃったんですかね。あんなに張り切って朗々と歌ってたのに、可哀想ですねえ(笑)。しかしまたそこがオペラっぽいところでして。 子供も見るアニメなので、ガストン君の死体は見せたくない。けれど死んだことは何らかの形で暗示したい。ということで、落下するガストン君の目に一瞬、ドクロマークが浮かぶのですが、私の乏しい動体視力では「あれ、今の何?」という程度にしか見えず、再生を一時停止するという反則行為に及んでようやく視認可能。こういうサブリミナルっぽい演出って、大丈夫なんですかねえ。サブリミナル効果、否定肯定含めて諸説あり。
[地上波(吹替)] 7点(2024-11-16 06:12:46)
6.  バンブルビー
これは、子供向けの映画・・・という言い方をすると、映画のことも子供のこともバカにしているように聞こえるので、「子供の目線を持った映画」とでも言えばいいのかな。 主人公の女の子には、「父親を亡くした」という設定が与えられ、鬱屈したような日々を送っているのだけど、メチャメチャ不幸っていう描かれ方でもなくって。母親が付き合い始めたのはヘラヘラしたイヤな男、だけどヘラヘラしているだけで別に悪い人という訳でもなさそう。主人公の弟もなんだかイケ好かないけれど、まあ、きょうだいなんて多かれ少なかれそんなもんでしょう。誰が悪いってこともなく、再婚に向けて動き始めた家族の中で、何となく溶け込めない、居心地の悪さ。 はたまた、バイト先でも失敗をやらかし、自分をバカにしたような周囲の視線。イヤなヤツばかり。 不幸は不幸なんだけど、あくまで日常感に裏打ちされていて、そういった辺りが、「子供の目線」を感じるところ。誕生日だからとボロ車くれる知り合いのオッサンがいたり、声かけてくれる男の子がいたり、実は結構恵まれてるんじゃないの、とも思えるけれど、それらを主人公から取り上げるほど残酷な設定は、この映画では採用しません。あくまで日常レベルの、誰もが多かれ少なかれ感じているような、鬱屈の日々。しかしオッサン、車一台タダであげるのは気前良すぎで、せめて便所掃除くらいさせりゃいいのに。 便所掃除は免除とは言え、ボロ車ゆえメンテは大仕事、その一生懸命さが分身の術(?)でコミカルに表現されますが、このボロ車が実は宇宙からきたロボット生命体(という表現で良いのか?)バンブルビーであって、少女との交流が描かれる、、、というのが物語のメイン。 映画を見ていくと、母親の彼氏も主人公の弟も結構いいところがあったりして、基本的に「悪い人間」は登場しません。そりゃまあ、ヤな奴ってのはいますけど、極悪なのはあくまで人間ではなく敵のロボット。バンブルビーを捕まえようとする軍人も、悪人ではなくひたすら杓子定規な人。杓子定規であるがゆえに主人公たちを圧迫する、子供から見た学校の先生のイメージですかね。 この映画の魅力はやっぱり、バンブルビーの細かい仕草。これも子供っぽさがあって、愛嬌を感じさせます。最初に地球で姿を現した際の、木漏れ日の中のその姿、存在感にはちょいとドキリとさせられますが、軍に追われ、追い詰められた坑道前でさらに敵のロボットの襲撃を受け、目まぐるしく舞台を変えての戦いの中で発声装置を破壊されてしまう。そのおかげと言うべきか、以降話せなくなったバンブルビーはその愛嬌ある仕草でもって、我々を魅了してくれます。一部、ラジオ放送で流れる歌の歌詞で意思表示するギャグのおまけつき。 この冒頭の戦闘でも、舞い上がり、転げ落ち、結局元の坑道前で決着がつくのですが、一連の成り行きを軍人(ジョン・シナ)は目撃しているはずなのに、その後もバンブルビーを追い続けるのが、やっぱり大人の融通の利かなさ。ただし、その想いは別のところにあるのかも知れない、という含みも持たせています。 「子供の目線」ということで言うと、主人公の女の子と、彼女を支える男の子との関係。いや、さすがにそこまで子供というような年齢でもないとは思うんですけど、あくまで「ほっぺにチュー」くらいまで。このウブな感じ、むずがゆさ。これで、いいんだと思う。美男美女とはちょっと違うけれどそれでも二人、イイ顔してるなあ、と。 この二人がベタベタしてない一方で、機械であるバンブルビーとのスキンシップみたいなものは描かれていて、頭を撫でられたり、ラストでは顔に手をあてる、抱擁しあう。 壁にレーガン大統領の写真が掲げられている?と思ったら、どうも舞台は80年代らしく、でもそれが押しつけがましい表現にはなっていない(懐古趣味に陥っていない)のが、基本的には好感持てます。でももうあと少しだけ、80年代らしさが織り込まれていてもよかったかも? 思わんでもないけど、「子供の目線」からは、そんなことはどうでもいいのかも知れませぬ。ところどころ、実物は見たこと無いけど知ってるよ、という80年代らしいアイテム(ビデオテープとか)が登場。『遊星からの物体X』のポスターは、果たして80年代を代表するアイテムなのか否か? クライマックスのロボット対決も、派手に繰り広げてはいるけれどあくまで少数同士の戦いに留め、インフレを起こすことなく丁寧に描いているのが、これも好感持てます。インフレでも別にいいんですけど、真のクライマックスをエモーショナルなラストシーンへ持ってこようと思えば、これは賢明な描き方と言えるのでは。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-11-04 10:24:29)
7.  楽聖ショパン
何年か前に「ピアノ協奏曲の誕生」(著・小岩信治)という本を読んで(図書館で借りたもんで今、手元に無いのですが)、妙に納得した記憶があります。ショパンのピアノ協奏曲に対して何となく感じていた違和感というか距離感というか。高校生くらいの頃は好んで聴いていたはずなのに、そして嫌いになった訳でも飽きた訳でもないのに、だんだん、CDへ手を伸ばそうという気が起こらなくなってきて。 特に第1番は、先に書かれた第2番に対してさらに長大化して40分前後に及ぶ大曲、若書きとは言え、さすがはピアノの詩人・ショパン!となりそうなところ、なんですが。 何かが妙。大曲であってピアニズムも充実、なのに、それに見合うスケール感が無い? ということなのかどうなのか、自分でもよくわからなかったんですが。ちなみに、ほぼ同時期生まれのメンデルスゾーン、リストのピアノ協奏曲は緊縮化に向かっており、シューマンも30分ほどの、いわば「普通サイズ」(1810年前後生まれの有名作曲家って、多いんです)。後のブラームスとか、ブゾーニとか(全5楽章、合唱付)とかは、別次元のオハナシ。 要は、ショパンのピアノ協奏曲は、ワルシャワ時代に書かれたものであるが故に、ヨーロッパの最先端の音楽からはちょっと遅れた、古い形態のもの、ということなんだそうな。確かに、オーケストラは序奏、伴奏、間奏に徹している面があって、なるほど、入れ物は古典派チックなのに、そこに斬新なショパンのピアノが入れられているせいで、何やらこの曲がバリバリのロマン派音楽であるような思い込みが私にあって、だんだん距離感を感じるようになったらしい。・・・というくらい、ショパンの独自性、先進性が高かった、ということで。  何の話だっけ。すみません、この映画にピアノ協奏曲は出てこないのに。 ショパンの少年時代から始まって、パリでの社交界デビュー、リストやサンドとの出会い、その死までが描かれます。なので一見、伝記映画の体裁ですが、脚色も多々あり(大半、と言った方がよいかも)。パリではカルクブレンナーなるちょっとイヤな人物とも少し接点を持ち、映画ではえらく扱いの悪い描かれ方ですが、どちらかというと少なくとも一時期は、ショパンの方がカルクブレンナーを称賛しており、彼への弟子入りも考えていたのを周囲が止めた、という話だったはず(上述のピアノ協奏曲第1番をショパンはカルクブレンナーに献呈している)。もうちょっとこの二人の関係を掘り下げたら映画に幅が出て良かったかも、、、などと思うのは、この映画の中心がショパンだと思うからであって、むしろこれは、ショパンとその師・エルスナーの友情の物語、見ようによってはエルスナーの方が主人公とも言えます。カルクブレンナーには憎まれ役をお願いする必要あり。ちなみにショパン少年の才能を見抜き音楽理論の指導をした実際のエルスナーは、ワルシャワ音楽院の院長であって、こんなしがない田舎教師としてショパンのパリ生活に付き合った訳でもないし、そもそもショパンの目的地が最初からパリだった訳でもなし。ってなことはどうでもよくって、この映画における「エルスナー先生」の、何とも言えぬ味わい深さ。これが、映画を支えています。 ショパンを演じたコーネル・ワイルド、劇中で流れる音楽を本当に自分で演奏している訳ではないでしょうし、指のクローズアップは代役でしょうが、明らかに本人が指の動きを見せるシーンも少なからずあり、雰囲気を壊すことはありません(音符と指の動きとが合致しないシーンもありますが、この辺りは迫力重視、といったところでしょうか)。 この映画の残念なところは、スタジオ撮影の多用があまりいい方向に向かっていない点でしょうか。はるばるマヨルカ島へやってきたとて、どうも映像的に変わりばえがせず、いささか面白味に欠けます。地中海らしい光景や空気感もなく、ただ行ってただ帰ったみたいな。 ショパンの病気についても作品中ではもう一つうまく描かれず、演奏中の汗や喀血(?)でそれが示されるとは言え、やたら顔色いいし。さすがに最後の死の床では顔色悪いですけども。なんか、唐突な印象。ついでに、祖国への想いも劇中で描かれはするけれど、やや表面的か。 という訳で、やっぱりこれ、主人公はエルスナーだと思う。ショパンは、脇役。 編曲・原曲を含め、劇中でショパンの音楽が再三取り入れられて、歌は無くともこれは一種のミュージカル。その点では飽きさせない作品となっています。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-03 12:24:33)
8.  見知らぬ乗客 《ネタバレ》 
原作P・ハイスミス、脚本R・チャンドラー、そして監督はA・ヒッチコック。豪華な顔ぶれというより、面子が濃すぎて空中崩壊しそうですが、実際、チャンドラーとヒッチコックはかなり折り合いが悪かったそうな。原作がどのように脚本化され、脚本がどのように最終的な作品に採用されたか、すみません全然把握してないんですけれども、この作品でも随所で見られる、いかにも「ヒッチコックあるある」なデフォルメされた演出シーン(「やり過ぎ」とも言う)が、何だかチャンドラーへの当てつけみたいに思えてきて。もちろんそんな訳無いのだけど、でも何だか嬉しくなってくるではないですか。そんな妄想を抱かせるのがまた、ヒッチコック映画のポテンシャルの一つなのではないかと。 冒頭、白い靴の男と黒い靴の男がそれぞれ車から降りて、駅に向かう。で、たまたま同じ列車に乗り合わせ、たまたま向かいの席に座り、一方の男がもう一方に馴れ馴れしく話しかけてくる。やがて男の話は恐るべき交換殺人の提案となり、当然のごとく断るものの、提案した男は勝手にそれを実行してしまう。提案された男にはアリバイが無く、追い詰められていき・・・というコワイ話。 二人の出会いは偶然でしかあり得ないはずなのに(まさにタイトル通り)、相手はなぜか自分のことを異常なほど知っており、自分を追い詰めていく、というのは、ちょっとドッペルゲンガーネタの変形のようにも思えてきます。実際、二人の男は、顔立ちは明らかに異なっているのだけど、背格好は何だかよく似ております。これで顔まで似てたら映画を見る側が混乱しかねないので、そういったことすべてを考慮したキャスティングなのかも知れません。いずれにしても、近くからあるいは遠くから、影のようにつきまとう男。テニスプレイヤーである主人公の試合で、観客たちがボールを追って顔を左右に動かす中、男だけがじっとこちらを見ている。だからそういうのが「やり過ぎ」演出だっての。面白いからいいけど。 男が主人公の妻を殺害する場面、地面に落ちた彼女のメガネに、歪んだ男の姿が映る。主の無いメガネだけがそれを目撃し、そのメガネを通じて我々がそれを目撃する。こういう演出の発想自体、歪んでますよね~。 夜、主人公と男が門扉を挟んで対峙するシーンがありますが、そこにパトカーが到着すると、主人公はつい、そこから隠れるように男のいる側へと回ってしまう。なぜ主人公が警察にすべてをぶちまけないのか、男のペースに巻き込まれるかというと、このシーンがあるから。男の側に立った、男の共犯者となったことを象徴するシーンだから。もう、逃げられない。 犯人は必ず犯行現場に戻る、という格言の通り(ほんまかいな)、クライマックスの舞台は、妻の殺害された遊園地へ。同じ舞台、同じシチュエーションが、作中で二度登場する。一種の変奏曲。今回は一体、何が起こるのか。 ここで、とってつけたように、大暴走するメリーゴーランド。はい、また「やり過ぎ」一丁いただきました。もう、絶対あり得ない状況の上、暴走メリーゴーランド上の格闘シーンが、やたら長くって、これ、このシーンにずーっと劇伴音楽つけろって、言われても、さすがに音楽が持たないでしょ、作曲家が困るのでは、と思っちゃうのですが、、、ちゃんとテンションが途切れない音楽がこの長いシーンに被せられています。ティオムキン自身が頑張ったのかアシスタントが頑張ったのか知りませんけど、いやほんと、作曲家って、エラいですね。 それにしてもこの暴走シーン、もはやメチャクチャなんですけれど、いやそれだけに、そのもたらす興奮たるや、無類のものがあります。まさに怪作にして快作。「やり過ぎ」大歓迎です。
[インターネット(字幕)] 10点(2024-11-02 07:18:40)
9.  サスペリア・テルザ 最後の魔女
魔女三部作の最終作、なんだそうで、そう言われると『サスペリア』風味があるような無いような。『インフェルノ』風味はもう少しありそうですかね。3人の「母」。 んなこと言い出すと、『デモンズ3』あたりの風味もあるんじゃないの、とか(監督は違うけど)。そういやあの美少女が、こうやって親父の映画で脱ぐような歳になったんだねえ。 三部作とか言ったって、いや、さすがに第2作から間が空き過ぎでしょう。作らなかったせいで賞味期限切れになったのやら、賞味期限切れだから作りそびれてきたのか。え、ワーグナーだって「ニーベルンクの指輪」を完結させるまでに26年かかっただろ、って? いや、ああいうコト、出来ちゃう方がおかしいんです。 この最終作、作られたのがだいぶ後、ということで、特殊効果にはCGも使われているような感じですが、容赦なく挿入される残酷シーンは、なかなかにアナログな味わいがあります。目を背けるような残酷さ、というのではなくて、ああ、派手にやってるなあ、と。そういう意味じゃ、結構、ヒドいことやってますよねー。血は出る、腸は出る。目は突き刺す。アルジェントですから。 ただ、残酷シーンの多彩さの割に、物語はやや単調。と言っても、これもいかにもアルジェントらしく、どうにも要領を得なくって。「何を言ってるのかわからない」と「何が言いたいのかわからない」との微妙な違い。何が言いたいんでしょうね、私も。 とりあえず、ウド・キアがとっとと殺されたのは、良かった(笑)。いや、何の恨みもないんですけど、ウド・キアはこうでなくては。 残酷シーンとエロチックなシーンで画面を彩りつつ、いよいよ最終作ということでローマの街全体を異変が襲い、あともう少しパニックめいたシーンに気合を入れてくれたら、なお良し、かと。いずれにせよ、アルジェントはやっぱり、「夜」の監督、ですなあ。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-10-20 20:05:13)
10.  ライブ・ワイヤー 《ネタバレ》 
おそらくはご予算控えめの作品、尺も1時間半に満たない小品ですが、これが意外に面白いのです。 爆弾テロに立ち向かう捜査官をボンド役就任前のピアース・ブロスナンが演じていて、やや線が細い印象。男前ではあっても、特徴が薄い・・・と思いきや、大胆なようでいてホントは弱い男を、好演。これは、彼の功績というより、短い尺の中で省略するところは省略しつつ、主人公像を端的に描いてみせた脚本と演出の上手さ(割り切り、と言ってもよいかもしれないけれど)にあるのでは。時に軽いノリを見せたりしつつも、過去の個人的な事件が彼の人生に暗い影を落としていること、それゆえ、妻との関係も破綻しつつあることが、最短の一筆書きで、しかししっかりと、描かれます。 爆弾事件が題材なもんで、爆破シーンは再三盛り込まれますが、こういう安いアクション映画の中盤を支えるであろうカーチェイスや銃撃戦といった要素が無く、スペクタクルも散発的になりがち。その意味では、物語のスピード感にはやや欠けるかもしれません。しかし爆破シーンにおけるスタントマンの活用などは間違いなく、見どころ。一部、どう見ても人形、なシーンもありますが、まあ、そこは、安全第一、ということで。爆薬も無いのになぜか発生する爆破事件の謎。とある液体を飲まされることでに人間が爆弾と化す、という突飛なアイデアもナイスですが、爆発前に目が充血して真っ赤になっていく、などという描写も緊迫感を煽り、陳腐なカウントダウンより余程、面白いじゃないですか。 中盤に無かった銃撃戦も、クライマックスではしっかり展開され、その辺りはサービス満点。 ねちっこい濡れ場なんかもあったりしますが、これはサービスと言ってよいのかどうか、どうなんでしょうね、ちょっと何とも言えず。。。 映画の中では他にも色々工夫が凝らされていて、例えば、脅す者と脅される者が電話で会話している場面、片や窓の外は暗く、雨が降りしきっている。もう一方は、明るい昼間、なんですが、会話の終わりに開いた窓から強風は吹き込んできて、やがて雨となってきます。こういうのを見てると、脅迫者の影が忍び寄ってきたような凶兆を感じさせたりもするのですが、そういうメタファー的な捉え方に限定されることなく、単に「脅迫者は外国にいるのかと思ったけど、案外、近くにアジトがあるんじゃないか」という現実的な予感も、感じさせます。 あるいは、向かい合う二人の男の後ろに、それぞれ鏡があるシーン。鏡自体も向かいあっているので、彼らの無数の姿がそこに映っている。カメラはそのうち一方の人物の斜め後ろからその姿を捉えていて、カメラマンの姿は鏡に映ってないんですが、角度からすると、そりゃそうかな、と。ただ、気になるのは、鏡に映る二人の登場人物を見ていると、鏡は彼らのすぐ後ろにあるらしい。とすると、あれ、カメラを設置するスペースが無いのでは・・・? とか考えると、なんだか楽しくなってくるではないですか。 クライマックスでは主人公が爆弾処理の達人らしく、迫りくる敵に対し、さまざまなトラップを仕掛けて、ちょっと『F/X 引き裂かれたトリック』などを思いこしたり。こういう場面でも、「何をやってるのか」という質問に対し、ただ「保険に入ってるのか?」と返すのが、シャレていて。説明はしないけど、少なくともロクはことは、いたしません、ってな感じ。 はたまた、『真夜中の処刑ゲーム』みたいに即席の武器を作ろうとする主人公。天井からパイプをひっぺがすと、そこから裏金の札束がこぼれてくる。憎き男と今は共闘しているけど、そうそう、コイツ嫌なヤツだったんだよな、と再確認させてくれる、演出の妙。 すべてのエピソードにケリをつけ、過去の不幸から主人公が立ち直るであろうことが示唆されるラスト。それをあくまで軽いノリでやっちゃう小気味よさ、いや、まいりました。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-10-14 10:00:59)
11.  ファミリービジネス 《ネタバレ》 
よく、男女の「三角関係」、なんて言われますが、いやそれ、“三角形”ではないでしょ、と。その関係に、三角形と言えるような対称性は無いので、むしろ「Ⅴ字関係」なり「T字関係」なり、この非対称性をうまく表す言い方って、無いもんだろうか? そこにくると、この作品。親子三代、泥棒一家のオハナシ。爺さん、父、息子、こちらの方が余程、「三角関係」なんじゃなかろうか? それぞれがそれぞれに対し、微妙な関係を保ち、三角形を形成。瞬時瞬時を見れば対称ではなくとも、総じてみれば、どこか似たり寄ったり、この親にしてこの子あり、この孫あり。 で、この3人を演じるのが、80年代後半から役の幅を広げ活き活きし始めたショーン・コネリー、2度目のオスカーを受賞したダスティン・ホフマン、当時の若手の中で目立っているという程でもないけどまあそれなりに注目株のマシュー・ブロデリック(彼ぐらいの範囲までブラット・パックの一人に数えてちゃってよいものなんだろうか?)。なかなかに贅沢な布陣で、人気俳優をただ集めりゃいいってもんじゃないでしょ、とは、誰しも思うところ。お互い全然似てないしなあ、とも、誰しも思うところ。 しかし、お互い似てない、ってのは、この作品ではOK、というよりむしろ、狙い通り、なのかも知れませぬ。似てない3人の自己主張ゆえ、浮かび上がる三角形の関係性。爺さんのS・コネリーばかりがやたら背が高いのも一見奇妙だけど、M・ブロデリックとD・ホフマンが向かい合い、その向こうに正面向いてS・コネリーが立っていると、ちゃんと3人の顔の位置が三角形をなしている。 実際、この映画、この3人の配置をどうカメラに収めるか、ということに、やたら拘っているような。あるいは、それを楽しんで撮っているような。 前半、3人がバーで揃って会話するシーン。ここは、言い合うS・コネリーとD・ホフマンの姿が一人ずつ横から撮影されたものが繋ぎ合わされ、映像的にはその会話はブチブチと切られています。しかしこの場面、実際にどのように撮影されたのかは知りませんが、雰囲気的にははまるで、一気に演じられた二人の会話を複数カメラで実況風にとらえたような、勢いがあります。この段階ではまだ、二人は「線」の関係。それが、映画が進むに従い、時に対立を交えつつも何だか3人それぞれが互いに補完するような、「三角形」の関係が浮かび上がってきます。 いったん完成したような3角形が、後半、事件をきっかけにまたイビツになっていくのですが、この転機となる事件におけるM・ブロデリックの無能ぶりたるや、もう一体何やってんだか、ため息を通り越して笑っちゃうほど。笑いごとでは済まないけど。でも、爺さんから見た孫、父から見た息子、の姿ってのは、やっぱり、こんなもんでしょ。どうしてあそこまでドン臭いのか信じられぬ、と思っちゃうけど、その事実は受け入れねばならぬ。父もまた若い頃には爺さんの目にそう映ったのかもしれないし、爺さんだって若い頃には。 親子3人、困ったヒトたちではありますが、一方で、彼らを取り巻く移民社会みたいなものも描かれていて、血の濃さ、というものを感じさせます。泥棒稼業ってのは極端にしても、受け継がれていく何かが、そこにはある。自分自身は消えていっても、何かがそこに残っていく。 オープニングでニューヨークの高層建築を遠方に捉えたカメラが、視線を下に向けていくとそこには古びた街並みがあり、さらに視線が手元に迫るとそこには、何やら粉のようなものが撒かれていて。映画のラストでその正体が明らかになり、やがてカメラは視線を遠くへ移して映画冒頭のアングルに戻って、幕を閉じます。この大きな街の片隅では、こういう無数の物語が紡がれているんですよ、とでも言うような。 この作品、あまり評判がよろしくないようで、でも私は好きですねえ。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2024-10-13 07:25:57)
12.  エスター ファースト・キル 《ネタバレ》 
1作目で提示された未知の「驚き」が、2作目となると既知の「前提」となってしまう。その点で、続編ってのはそもそも不利、何なら、なんでわざわざ続編なんか作るんだよ、ということになっちゃう。 では、なぜわざわざ続編を作るかというと、わざわざ続編を見たがる我々がいるからですね。すみません。 しかし単にそれだけではなく、この「エスター」なる人物を、前作をほぼ完全に踏襲しつつも、少し違う角度から描いて見せたのが、この『ファースト・キル』のモチベーションであるように思われます。 それにしても。 当人がまだ若かった頃にはちっとも面白いと思えなかった漫才師が、その後芸風を変えた訳でもなさそうなのに、今見るとえらく面白かったりして、そこにはいろいろな理由はがあると思うんですが、やはり「芸に年齢が追い付いてきた」ってのも、大きいのではないかと。若い頃にやっても難しいネタ、ってのは、やっぱりあると思います。もちろん、その逆もあるだろうけど。 それとこれとを一緒にするな、と言われそうですが(ははは・・・)、今回も「エスター」を演じるイザベル・ファーマン、ようやく、役に実年齢が追い付いてきたような。って言っても、前作は前作で、別の意味での「役≒実年齢」が物語の意外性に一役買っていた訳ですが、今作は絶妙な特殊効果の助けもあり、全編を通じて不思議な雰囲気をもたらしています。「エスター」という人物が持つ、体格と表情との間のアンバランス。違和感があるのかないのかよくわからない、という違和感。とでも言いましょうか。 正直言うと、シーンによって「エスター」の身長が違うんじゃないの?とか思っちゃったりもするのですが、そんなのは些細なことだとも思えてきて。微妙な違和感は、作品を貫く不安感へと昇華されていきます。 後半の展開は、賛否両論あるところだとは思いますが、ゴジラだって2作目からは怪獣対決ですから、まあ、アリなのでは。前半でいかにも伏線ですよ、とチラ見せしたアイテムを、終盤あわてて再投入する伏線回収も、ご愛敬。 全体的に、表現としては抑制されていて、引いたカメラがかえって邪悪さをあぶりだすような効果を上げています。ただ、「階段」とか「屋根の上」といった平衡感覚を狂わせるシーンをやや無造作に挿入するのが、不安を誘うというよりは視覚的な混乱に繋がっているようで、ちょっと残念な気がしました。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-10-06 06:26:12)
13.  宇宙からのツタンカーメン 《ネタバレ》 
これ、昔、日曜洋画劇場で放送された時は「宇宙から来たツタンカーメン」ってタイトルでしたよねえ、確か。 しかし随分古い話なもんで、相当ヒドイ映画だった(あの日曜洋画のラインナップの中ですら際立ってヒドかった)という事自体は忘れるべくもないとは言え、細かい部分は記憶も薄れており、「たしかこんなシーンがあったはず」という記憶の中には、今回見てみたら存在しなかったものもあって、どうやら私の中で一部、ヒドい映画の記憶が混線している模様。やっぱり、歳かなあ。 それよりも、日曜洋画で放映された際の話で言うと、これも自分の記憶にやや自信が持てないのだけど、番組最後の解説であの淀川さんが(つまらない映画の放送の回は、作品と関係ない話をする、と本人も言ってたあの淀川さんが)、何に興奮したのか、視聴者に向かって「アンタ、何と、宇宙人だったんですよ!」と熱く語っていたような記憶があります。というかむしろ当時、私の姉が「視聴者に“アンタ”って呼びかけるなんて、そんなこと有るか?」と驚いていたのが印象的で。しかし、私はともかくとして、姉までもがこのヒドい映画の放送を見てた、というのが今となっては最大の謎。 とにかく、ヒドいんです。これ。 古代エジプトのミイラが、現代のアメリカで蘇り、人々に襲い掛かる、というオハナシ。まずミイラがアメリカに運ばれてきて、ツカミはOK。ただし、貴重なミイラにしては扱いがやや粗末な気がしてきますが、その辺りの描写は作品の予算と密接に関わる部分でもあるので、致し方なし。でもって、扱いが粗末であれば、蘇るミイラの方もそれなりに粗末なものとなり、「人々に襲い掛かる」と言ってもまるで迫力が無い。いや、好きで襲ってる訳じゃなくって、遺跡から持ち出された宝石を取り戻そうとしているらしい。エレベータの床をバリバリ破ってくるあたりはちょっと頼もしいけれど、基本的には凶暴ではなく、ヌルい攻撃に終始します。 ミイラの一人称目線のカメラ、などでそれなりに緊迫感を出そう、とはしていますが、まるで盛り上がりを欠いたまま、まるで見どころもないまま、終盤、ついにミイラの正体が明かされる! と言ってもおおよそ予想通りの展開、さらには邦題に書いている通り。はい、宇宙人でした、と。 この宇宙人のフォルムが、もう、いやはや、何ともかんとも。頼むから、何度も映さないで欲しい。目のやり場に困ります。 ラストには「To be continued」との表示(これは、すみません、日曜洋画の時にもあったのかどうか、まるで記憶なし)。こんなのでまさかまさか続編作るつもりだったのか、それとも投げ出すようなラストにこのクレジットでオチを付ける一種のギャグなのか。 とにかくヒドいんですが、個人的には、過去の記憶が多少、整理できて、その点は良かったです。 淀川さんの心境だけは、いまだによくわからない・・・。
[インターネット(字幕)] 2点(2024-09-23 08:21:55)
14.  アオラレ 《ネタバレ》 
この作品にはいくつかの疑問点を感じますが、最大の疑問点は、おそらく皆さんと同じく「ラッセル・クロウはどうしてこんなに太っちゃったんだろう」と。この疑問に比べれば、他の疑問点なんておよそ、些細なもんです。 むしろ、疑問点が少なすぎることこそが、問題なのかも知れませぬ。青信号で動かない前のクルマに対しクラクションを鳴らしたら、そのクルマの運転手にひたすらつけ狙われる、という、基本的には、理不尽で不条理なサスペンス。『激突!』を思い出したりもすれば、『ヒッチャー(1986年)』を思い出したりもするのですが、これらと同じような映画をまた作るモノマネには陥るまい、ということなのか、違う趣向でアプローチしてきています。で、その一環として、不条理さも極力、排除する。もともと土台が不条理な世界なのに、何とかそれを理屈で補おうとする。 どう考えてもこの題材で映画が面白くならない訳がない、と思っちゃうし、現に、それなりに面白くそれなりに楽しめるんですけど、しかし、この不条理さを何とか糊塗しようとする理屈、「説明」めいたものが、やや映画を失速させてしまいます。 まず冒頭から、くだんの男が凶暴でアブナイヤツであること、が示され、これ自体は必ずしも悪くないと思います。で、寝坊した上に渋滞に巻き込まれイライラした主人公が、前のクルマに対し盛大にクラクションを鳴らしてしまう。もちろん運転席には例の男、我々は「ああ、やっちまったな」と思う。こちらのクルマの窓が不調で閉まらなかったり、男を見るなと言われても主人公の息子がつい相手を見たり、という我々のイライラ感を誘う演出にも事欠かず、この辺りもいいと思う。 ですけど、主人公がスマホにロックをかけていない、などという設定を持ち出すあたりは、これ、いかにも「伏線でございます」といった感じ。この伏線を突破口に、例の男は奇蹟のごとき聡明さをもって先回りし、主人公を追い詰める。狡猾、ってのとも違いますね。聡明と言って悪ければ、奇跡のような勘の良さ。こんな冴えないオッサンがここまでする訳ないでしょ、という不条理感はどうやったって避けられず、この作品の「説明」の部分との間が、チグハグで中途半端なものになってしまいます。 男が主人公を追い詰める手段の「説明」はこれで何とかできたとして、次の問題は、どうやって主人公が警察に駆け込むことを物語の上で阻止するか。警察に保護されてしまっては、物語が終わってしまいかねない訳で、これも何かと手を打ってきますが、何よりもまず、主人公にそのヒマを与えないくらい速く、物語を動かすこと。この辺りは、この作品、微妙なバランスを保ちつつ突っ走って行って、割と成功しているような。 派手なクラッシュシーンを挿入して見せるのなども、そういうバランスに一役買っています。 ただ、主人公とその息子が何やら作戦めいた会話を始めると、ああまた「説明」が始まったな、と、失速してしまい、どうもいただけない。さらに、クライマックスこそサスペンスの見せ場、追い詰められた挙句に男と格闘する母子と、駆けつけるパトカーの姿とを交互に描いて盛り上げるのですが、女性と少年がこの大男にこれだけコテンパンに叩きのめされて無事である訳がなく、それでも男に遮二無二向かって行く様は、勇敢とか何とか言うより、単なる意匠に過ぎない暴力を形だけ見せられているような気がしてきて。 と、まあ、「面白くないはずがない」という作品なもんで、気になる部分にはついケチも付けたくなるのですが、「それでも結構、楽しんでたくせに、そりゃ無いでしょ」という気が自分でもしてきたので、点は甘めに。これはいつものことか。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-23 07:08:06)
15.  エイリアン:ロムルス
中学生の息子に見に行くか訊くと「行く」とのこと、しかしシリーズを一本も見てないはずなので、とりあえず前日に1作目だけ見て予習する。私は私で復習(?)しながら「やっぱり、この映画、好きだわー」などと思って見ており、何しろ、映画の良し悪しなどではなくただ「好きだわー」ということなので、1作目とこの「ロムルス」を比べる気にもならない。いや、そうは言っても結局は、比べちゃうんだけど。 いや~、この「ロムルス」、面白かったですよ。楽しませていただきました。息子はというと、これまでもさんざんエゲツない映画を見てきたはずだけど、よほど集中していてよほどコワかったのか、中盤以降ずっと、両手を口にあてたまま凍り付いており、どんだけ楽しんでんだよ、と羨ましくなったりもしつつ。 1作目って、「エイリアンが宇宙船の中で暴れる話」と思わせて、しかし実は、そこに至るまでの描写が結構長い。謎めいたモノ、不可思議な現象を次々に画面に登場させ、我々をぐいぐい引っ張っていく。後半、エイリアンが宇宙船内に解き放たれてからも、意外な展開が待ち受け、我々の意識の的を一点に絞らせない。 今さらまたこれと全く同じことはできないので、「ロムルス」ではエイリアンの襲撃、エイリアンとの戦いに、だいぶ比重が置かれてます(さらにちょっと、『悪魔の受胎』テイストもあったりして?)。1作目の、どこかにエイリアンが潜んでいるのではないかという緊迫感、あれって、部屋にゴキちゃんが出て「キャー」とか言いつつも今のうちになんとかやっつけなきゃいけない、と部屋の隅々に目をやりながら殺虫剤片手にウロウロする心境に繋がるものがありますが、今回はモロにゴキちゃん退治のノリ。冷凍タイプの殺虫スプレーです。 1作目以降、映画に登場する大抵の施設には自爆装置が備えられてクライマックスではカウントダウンが始まるようになりましたが、今回も、カウントダウンは踏襲しつつ、土星のわっかみたいなヤツ(1作目の空に浮かんでた天体か?)にぶつかるまでのタイムリミットが描かれる。この、迫ってくるわっかが、宇宙船の窓から見えるシーンの、見事さ。美しく、不気味で、怖い。 今回も1作目の「アッシュ」が登場。いや、「アッシュ」は文字通りashと化してしまったので、そっくりさんですね。イアン・ホルムはすでに他界しているはずですが、それでもなぜか登場します。シュワ型ターミネーター同様、量産型なんですねー。シュワ型同様、どうしてこいうい顔を量産しようと思ったんですかねー。 のみならず、今回はアンディというアンドロイドが登場します。コイツが、いつも困ったような顔をしている。アンドロイドだから別に何も考えていないのかもしれないけれど、とにかくこの困り顔が、何を考えているのかわからない雰囲気を漂わせています。普通なら、「無表情」でそういう雰囲気を出すところでしょうが、この困り顔が、彼の独特の存在感に繋がってます。 最初にも書いたけど、1作目と比較しての良し悪しは言いたくない。んだけど、一点だけ言ってしまう。限られた登場人物たちが繰り広げるサバイバル、なんとかもう少し、彼らのそれぞれの顔をしっかり画面に、印象付けてあげることはできなかったものかと。1作目の7人は、ぞれぞれ個性的な顔立ちで、映画はそれをしっかり印象付けていましたと思います。今回は6人ですが、ちょっと印象が弱い。冒頭の舞台が闇に閉ざされた星、ということもあって暗めのシーンが多く、それゆえ宇宙空間に出て光が差し込んでくるシーンが一つの見せ場にもなっているのですが、全体を通して見ると、もう少し彼らの顔をしっかり映し、描き分けてあげる場面があってもよかったんじゃないかなあ、と。五分刈りのアジア系の女性はさすがに目を引くけど、イマイチ目立たないまま死んでいくヤツもいて。ヒロインを演じたケイリー・スピーニーは、あの高身長のシガニー・ウィーバーと対照的で、多かれ少なかれ似たようなシチュエーションに置かれるヒロインを演じつつも、新たな魅力を開拓していたと思います。が、例えばあの、ストロボ光の中、怯えた表情のシガニー・ウィーバー。何かこれに匹敵するような印象的なシーンを用意してもらえたならば。 とか何とか言いつつも、この、どこまでも続くサバイバルと、「画面の奥に蠢くエイリアン」等の、必ずしも残酷描写に頼らない緊迫感(PG12止まり)。面白かったです。満足。
[映画館(字幕)] 8点(2024-09-22 06:32:26)(良:1票)
16.  マーキュリー・ライジング 《ネタバレ》 
『ペット・セメタリー(1989年)』では、えらく小さい子にえらくエゲツない役を演じさせてて、ホントに大丈夫かよ、と思ったのですが、この『マーキュリー・ライジング』を見る限り、その後も立派に活躍されているようで。ただし、今、何をやってるのかは知りませんけどね。 一方、ブルース・ウィリスはというと、これはもうテレビシリーズの『こちらブルームーン探偵社』のヒトであって、だからアクションと全くの無縁ではないとは言え、やっぱりアクション・ヒーローとは異なるタイプ。だからこそ『ダイ・ハード』のマクレーン役にもピッタリだったタイプ。なのに、ダイ・ハードのシリーズ化とともに、アクション俳優としてもてはやされてしまい、ホントに大丈夫かよ、と思ってたら案の定、1990年代は迷走気味。次々にアクション映画で主演をこなすも、これぞというものがなく、シリーズ化すりゃいいってもんじゃないとは言え、結局、「ブルース・ウィリス単独主演」と言える映画でダイ・ハード以外にシリーズ化されるほどの広い人気を得たものは、見当たらず。で、今の彼はというと、皆さんご存知の通りで。唯一無二の映画人生を歩んでこられた、とは思います。 で、この『マーキュリー・ライジング』も、迷走していた90年代の主演作の中に埋もれた一本、ということになり、唯一目立つ点があるとすれば、ラジー賞を獲っちゃった、という程度ですが、いくら何でも『アルマゲドン』とセットでの受賞、って、そりゃ無いんでは。 役どころは、自閉症の少年を守るFBI捜査官。少年はその特異な能力ゆえ、命を狙われ、彼の両親を殺害されてしまっている。自らの孤独な身の上を少年が認識しているのかどうかわからないのがまた、哀れを誘います。 が、主人公が少年を守ろうとする理由はそれだけではなく、彼自身、かつて潜入捜査官だったときに、犯人グループにいた少年がFBIに射殺されるのを防げなかった過去があって。単なる同情ではなく、善悪すらも関係なく、ただ、今度こそ目の前の少年を守らなければいけない、という意志。 自閉症という少年のそのキャラクターゆえ、通常の意味で二人の間のコミュニケーションは成立せず、そこに、主人公の不器用さ、みたいなものが浮かび上がってきます。アクション映画と言ってもアクションシーンはやや控えめ。むしろ、次に何をするかわからない少年の言動が、アクションシーン以上に、物語に起伏を与える原動力となっています。 描かれるのはもちろん主人公と少年だけではなく、たまたまカフェで知り合った女性を物語に絡ませるのも、いいですね。「いや、この女性も敵の一味だったりしないか?」などという疑問を我々が持って意識が逸れてしまわないよう、彼女の独り言を挿入して、善意の第三者であることが映画の中で確認されます。そもそも一般市民である彼女が、どこまでこの困難な事態に対しに協力してくれるのか、ということ自体が、充分なサスペンスを孕んでいる訳で。実際、彼女の物語への絡みは、深入りし過ぎず、しかし充分なインパクトを残します。 さらには、主人公には数少ないながらも協力者がいたりするのですが、それはFBI内部だけではなく敵方の組織の人間でもあったりして、これらの人物の妻なりガールフレンドなり、といった人たちも登場します。これらの人たちの存在は、物語の中では決して大きなものではないとはいえ、この作品の幅を広げるのに何と貢献していることか。 ラストシーンは、ちょっと甘いとは言え、ホッとさせるものがあります。 充実した映画、だと思うのですが、どうでしょうか。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2024-09-15 06:56:53)
17.  プリティ・リーグ 《ネタバレ》 
かつて存在した女性選手によるプロ野球リーグのオハナシ。ですが、登場人物のモデルとなった実在の人物が映画の中で紹介される訳でもなく、基本はフィクション、ということなんでしょう。そういう割り切りは、それはそれで潔く、ヘンな「実話縛り」も無くって、悪くないと思います。 ただ、コメディタッチとは言え、何とかギャグを盛り込もうと、ちょっと悪ノリが過ぎるような気もしつつ。 野球の腕前よりも、「女性らしさ」みたいなものが優先されてしまう理不尽、しかし最後のワールドシリーズでは息詰まるような熱戦でもって観客を魅了してみせる。無論、彼女たちは大きな制約の中でこの女性リーグをやっているんですが、映画は、その矛盾をこそ描けど、野球自体の描き方としては、充分だったかどうか。観客を熱狂させるにはそれだけの「陰の努力」もあったはず、だけど、必死のトレーニングが描かれるでもなし、これじゃ本人たちもまるでお遊びでやってるみたいで、イマイチ重みが無い。 トレーニングの描写の代わりなのか何なのか、主人公の顔はいつも、土ぼこりで汚れている。野球の場面だけではなく、牛の世話をしている時も。こうも汚れてばかりだと、演出として工夫が無い気もしてきます。 トム・ハンクス「以外の」男性の脇役陣は、なかなかいい味出してますね。あのちょっとヤな感じのスカウトマンとか。主人公たちが汽車に飛び乗るシーン、なんてのが結構、印象的な見せ場になってます。かつてどうしようもなかったクソガキが、面影を残しつつも立派なオジサンになってて、過ぎ去った年月を感じさせる、などというのもちょっと心憎い。 悪ノリが過ぎるような、とは言っても、その全部がハズしてる訳では、ないんです。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2024-09-08 07:53:31)
18.  ドリームキャッチャー
いろいろ盛り込みて過ぎて一見グチャグチャな作品なんですけれども、これ、一言で言えば「ウンコが襲ってくるオハナシ」ということで、いいんじゃないですかねー。 一応、何やら宇宙生物らしきもの、グレイ型なのにやたらデカい宇宙人風のヤツ、なども出てきますが、まあ、どれもこれもウンコみたいなもんです。便器から出てこようとするウンコ、これが一番コワい。 ウンコ騒動が、しまいには軍人の暴走にまで発展する。スティーヴン・キングの本質って、きっと、そんなもんなのでは。いや、キング小説はほとんど読んだことないから知らんけど。 デ・パルマ、キューブリック、クローネンバーグ、カーペンター。特に初期において、錚々たる監督が次々にキング作品を映画の題材に取り上げ、かつ、一度しか取り上げなかったのは(後には何本か撮ってしまう人も現れるけど)、一回やればもう充分、ということなのか。 そしてかのローレンス・カスダンがまた、こうやってキング作品を映画化するのだけど、使い古したネタのオンパレード、といった感じで、それをことさら隠すわけでもなく、ホレ、これを一本見たらもう充分でしょ、と。 キングがこの映画をホメた、という話をどこまで真に受けていいのかわからんけど、何となくありそうな気がする・・・。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-01 19:10:40)
19.  クレオパトラ(1934) 《ネタバレ》 
クレオパトラが誘拐されるいきなりの冒頭から、絨毯簀巻きの彼女とカエサルとの出会い、カエサル暗殺、アントニウスの敗戦と彼女の自死までを2時間弱に収めた、セシル・B・デミル版クレオパトラ映画。クローデット・コルベールが演じるクレオパトラは、ゴージャスという感じではなく、コケティッシュなイメージ。男どもが彼女になびいていくというより、彼女の方が男どもをたぶらかしているように見えちゃうのですが、これは偏見ですかね?  おそらくはセットや衣装に莫大な費用を投じているのでしょうが、人物中心に映画が描かれる分、ややそのスペクタクル感が伝わりにくい部分もあります。とは言えエジプト王室の贅沢三昧ぶり、みたいなものはしっかり描写されていて、世界の中心たるローマ帝国(当時は帝政ではなく共和政だけど)から来ているアントニーが、すっかり「おのぼりさん」に見えてきてしまいます。 そういう、王室のゴージャスさ。リアル竜宮城。しかしあの、オネーさんたちのあのキャットファイトみたいなヤツは、ありゃ何なんでしょうね? 終盤の戦闘シーン、こういう部分はスペクタクル史劇として期待してしまう部分でして、それが、断片的な映像のパッチワーク風に描かれます。戦闘の激しさと混乱を描いた、技巧的な演出、ではあるのですが、やっぱりここはもう少し、しっかりとした戦闘シーンを見たかったところ。映像が細切れなら、挿入される音楽(チャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」)も細切れで、ここまでくるとグチャグチャのカオス状態。せっかくのスペクタクル描写が、物足りないし、いささか勿体ない気もしてきます。 でラスト、クレオパトラは毒蛇に自らを咬ませて死を選ぶ訳ですが・・・ヘビなんだかミミズなんだか、毒蛇まで小さくって迫力が無い(笑)。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-09-01 07:53:56)
20.  硝子の塔 《ネタバレ》 
「屋根裏の散歩者」を現代に置き換えると、もはや屋根裏を散歩するまでもなく、高層建築自体がスケスケの“ガラスの塔”となってしまう。というオハナシ。 そのビルでは、シャロン・ストーン演じる主人公が引越してくる前に、彼女によく似た女性が謎の死を遂げている。さらにその後も続く怪死事件。 では犯人は誰なのか、事件の裏には何があるのか、普通であればそういう展開になるのだけど、この作品では、「覗く・覗かれる」のヘンタイ的な描写が続き、どちらが物語の中心なのか、この物語において殺人事件はどの程度重要な要素なのか(あるいは単なる見せ球で、実はどうでもよいのか?)すらも、わからなくなってくる。こりゃ、一段上のナゾ、です。 思えば江戸川乱歩だって、ナゾとその解明が主でヘンタイ描写が従なのか、それともヘンタイ描写を描きたいがためにしょうがなくナゾと解明を付け足しているのか、よくわからん場合があって。いや、トボけちゃいけませんね、後者に決まってます。 いやいや、そうじゃなくて、両者は不可分。どちらも必要、どちらもあってこそ、両者が深め合う。 主人公の前に現れる二人の男。片やトム・ベレンジャー、片やウィリアム・ボールドウィン。どちらもそれぞれ異なるタイプのヘンタイなので、またまた怪しさ満点。さて、物語はどういう展開を見せるか。 望遠鏡での覗きから始まって、誰しも、なーんか「覗き」ということに興味深々、なんだけど、やっぱりそれはグロテスクな事なのよ、ということ。無数に並ぶ盗撮モニターの異様さ。クライマックスにおけるモニターの破壊が、そのグロテスクさを戯画化していて、いやはや、ヘンタイ道もここに極まれり。もしも乱歩が生きててこの映画を見てたら、結構、気に入ってもらえたんじゃなかろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-08-25 18:40:02)
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