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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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141.  劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉
原作は全巻保有していたし、TVアニメシリーズも小中学生の頃に好んで観ていたオールドファンなので、久しぶりの「復活」の報には無論興味を惹かれたけれど、劇場まで足を運ぶつもりはなかった。 しかし、出張中の新宿で、観たかった大作映画のタイムスケジュールがどれもこれも合わず、ならばと思い立ち鑑賞。「コレを観るなら、“新宿”だろうよ」と。  ゴールデンタイムの新宿バルト9の館内は盛況で、「シティーハンター」というコンテンツ、そして「冴羽獠」というキャラクターの時代を越えた魅力を改めて感じた。 特に今作は、全編「新宿」が舞台で、最終決戦の地も「新宿御苑」をモデルとしており、まさに「ご当地映画」的な盛り上がりも多分にあったのだと思う。 映画館から出て徒歩数分で、映画の舞台となった歌舞伎町やゴールデン街に足を運ぶのも一興だろう。  というわけで、今回の映画化企画は、「新宿」という街そのもののイベント企画という趣向が思ったよりも強かった。 故に、普段から新宿を活動拠点としている人たちや、古くからこの街を愛する人たちにとっては、問答無用に愛着を持たざるを得ない仕上がりだったろうと思う。  その一方で、原作ファンを満足させる内容であったかと言うと、残念ながらそうではなかった。 北条司による原作漫画で、ハードボイルドな世界観、大人の色気と色香に痺れ、「格好良い」ということの意味を知ったファンとしては、あまりにチープなストーリー展開に鼻白んでしまったことは否めず、失笑と苦笑の連続だった。 作画やビジュアル的にもお世辞にもクオリティが高いとは言い難く、テレビスペシャルを見ているようであった。  原作・アニメのオールドファンや、新宿のオトナたちをメインターゲットにするのだから、ストーリー展開的に、もっとハードに振り切って良かったのではないかと思う。 裏社会No.1のスイーパー(始末屋)である冴羽獠に、ただの一度も明確な“殺し”をさせず、パチンコ玉での応戦や、ドローン相手のドンパチに終始させてしまう展開には意気消沈せずにいられなかった。  そして何と言っても最大の難点は、自主規制か何だか知らないけれど、最後の最後まで冴羽獠に“もっこり”をさせなかったことだ。 お慰みのように、主題歌の最後に神谷明に「もっこり」と言わせるが、そういうことじゃないんだよ。 「それが時代の流れ」と言ってしまえばそれまでだが、人を殺さず、“もっこり”もしない冴羽獠なんて「シティーハンター」じゃない。   だがしかし、クライマックスでの「SARA」、そしてエンディングの「Get Wild」が流れた瞬間に高揚感を抑え切れないのも、オールドファンの性。 実家に置きっぱなしの原作漫画全巻を近日中に取りに行くのは間違いない。
[映画館(邦画)] 2点(2019-02-23 23:57:54)(良:2票)
142.  search サーチ 《ネタバレ》 
公開時から話題で、劇場で観たかった映画の一つだったが、スクリーンで観られなかったことはむしろラッキーだったかもしれない。 多くの場合、この表現は映画が“面白くなかった”ことを意味するが、この映画は違う。 文句なしに“面白い!”映画だった。 その上で、これからこの映画を観る人は、ソフトを購入するにしてもレンタルするにしても、またはインターネットの配信サービスを利用するにしても、いずれにしても絶対に「PC」で観るべきだと断言したい。  僕自身、レンタルしてきたDVDをテレビで観始めたが、冒頭のシークエンスではたと気付き、「PC」での鑑賞に切り替えた。 この映画は、主人公である父親が行方不明になった娘を、PCの履歴やHDD、SNSの投稿や交友関係を追いながら見つけ出そうとする。その様が、終始一貫して彼が使用しているPCの画面上で映し出され、展開するわけだ。 即ち、鑑賞者は今作をPC(Macなら尚良)で鑑賞することで、あたかも主人公の主観でストーリー展開を追うことができる。 POV方式の主観ショットを全編通して駆使したアクション映画や、カメラを持つ撮影者の視点で映し出されるファウンド・フッテージ映画など、文字通り“視点”を変えた映画手法が広まって久しいが、この映画の“視点”はまた新しく、未経験の映画体験を得られることは間違いない。  勿論、決して“アイデア一発”だけの映画ではなく、しっかりと練られたストーリーテリングと、主人公を含め、登場人物の全員がどこか怪しく見える描写も絶妙だったと思う。  この“視点”のアイデアを生かしたプロローグ描写も「見事」の一言に尽きる。 PCの利用履歴や画面動作のみで主人公家族の営みや、思い出、そして失ったものを、効率よく効果的に映し出すことに成功している。 主人公と同じく娘を持つ父親の立場で映画鑑賞をしていると、プロローグのみで早々に涙腺が潤んでくる。  娘を愛する父親だからこその“惑い”や“妄信”が、事件の本質を時にぼやかし、時にミスリードに導いてしまう。しかし、最後の最後、すんでのところで事の解決を導き出したのも、父の愛情だった。 ストーリーとして上手いのは、「事件」を巡る攻防の表裏に存在したものが、共に「親の愛」であったという悲哀。 両者の感情は、人の親であれば誰しも理解し得ることであり、もしかしたら主人公の父親が“反対側”の立ち位置にいた可能性もあり得なくはないということ。  一人の親として、自分自身がそれぞれの立場に置かれたとき、果たしてどのように「行動」できるか。きっとパニックは避けられないだろうし、決して理屈的に明言できるものではないと思う。 そういった普遍的かつ、微妙な人間心理も踏まえた上で、極めて身近な恐怖を描き出した優れたサスペンス映画だった。  それにしても、警察の電話受付の女性が“おしゃべり”で本当に良かった。
[DVD(字幕)] 8点(2019-10-29 00:20:11)(良:2票)
143.  純喫茶磯辺
本当の意味で“強い繋がり”がある人間関係というものは、時にもろくて、あやふやで、とても不安定なものだと思う。それは、そもそも人間自体の完成度が不安定で然るべきものだからだ。  「純喫茶磯辺」というタイトル、主演は芸人の宮迫博之。いかにも“イロもの”的なニュアンスの強いコメディ映画だけれど、描き出される映画の空気感の根幹には、不器用な父娘同士の等身大の親子愛があった。  へらへらした子供のような駄目親父役に宮迫がハマることは容易に想像できたが、、芸人の中では随一の高い演技力に裏打ちされて、この上ない愛すべき駄目親父ぶりを発揮していた。 娘役の仲里依紗の魅力は、その“素っ気なさ”だと思う。気怠そうに歩いたり、高いびきをかいて眠ったり、自分の足の匂いをかいだり、というキャラクターのありのままの姿を、決して違和感なく表現できる女優然としない佇まいには、逆に今後かなりスゴイ女優になっていくんじゃないかという素養を感じずにはいられない。 その二人の父娘関係の間に割って入ってくる麻生久美子のキャラクターがまた秀逸で、気立ての良さの裏に隠し持った“サイテー女”ぶりを、いかんなく演じ切っている。  3人の配役の良さとそれぞれのパフォーマンスの高さが、この映画のレベルをぐいっと上げていると思う。  描かれる人間模様は、決して美しくはないのだけれど、それは人間の“そのまんま”のまっすぐな姿で、良い悪いということではなくて、なんだかほっとする。
[DVD(邦画)] 8点(2009-06-13 11:17:13)(良:2票)
144.  シャン・チー/テン・リングスの伝説
正直なところ、この映画に対するファーストインプレッションは“微妙”だった。 マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の中に突如登場した東洋人ヒーローには、同じ東洋人としても違和感というか、強引な印象を禁じ得なかったし、チャイニーズマーケットに対するあからさまな“目配せ”のようにも感じてしまい、素直に期待感を高めることができなかった。 カンフー映画も、チャイニーズアクションも幼少期から慣れ親しんでおり大好きだけれど、それがMCUの世界観の中でどう成立するものかと甚だ懐疑的だったことは否めない。  が、しかし、意外にもというか、案の定というか、蓋を開けてみれば、本作はMCUの娯楽映画としてしっかりと楽しく、きっちりと成立していた。勿論ちゃんとした“カンフー映画”として。 もはや何度目か分からないが、MCUというブランドに対して、「流石かよ」と感心せずにはいられない。  MCUが二十数作にも渡って築き上げてきたエンターテイメントの“フォーマット”にチャイニーズアクションを重ねただけと言ってしまえばそれまでだが、世界の映画ファンが見たいアジアンアクションの要素を盛り込み、「娯楽」を追求し、実現していることは映画製作において“正義”だ。  本作が、MCUのフェーズ1とかフェーズ2あたりに挟み込まれていたら、それは流石に作品として浮いてしまっていただろう。けれど、ユニバースを広げ続け、あらゆる価値観や宇宙観をも取り込んでいく「多様性」こそがシリーズ全体のテーマになっている現在のフェーズ4においては、本作が描き出す異文化と異次元のストーリーテリングは、まったくもって許容範囲であり、もはや必然的にすら感じる。 アメリカ社会におけるアジア人の境遇や職業面の描き方も、さり気なく問題意識が提示されていたと思う。  キャストにおいては、主人公シャン・チーを演じたシム・リウが、正真正銘の「無名」の状態からMCUという巨大な映画ブランドの“ニューヒーロー”として登場した経緯がメタ的な要素も含めて非常にエキサイティングだ。 ビジュアル的にも決して華やかさのないこの新人俳優を大抜擢し、ニューヒーローのキャラクター像を文字通り“ゼロ”から構築していく展開が、一映画ファンとしてとても熱かった。  そして脇には、トニー・レオン、ミショル・ヨーらアジアが誇るスーパースターを的確にキャスティングし、作品としての安定感と説得力を高めている。 特に、長らく数々の作品で、トニー・レオンという俳優の色香に酔ってきた映画ファンとしては、危うく、妖しく、脆く、秘められた慈愛が混濁した本作のキャラクター性は、彼の俳優としてのキャラクター性とキャリアに相応しい適役だったと思える。 トニー・レオンが演じたシュー・ウェンウーは、本作で絶命したが、“テン・リングス”の力によって1000年生きてきたことや、そもそも彼が“テン・リングス”を手に入れた経緯など、まだまだ描ききれていない要素は多々あるので、再演を望みたい。  兎にも角にも、カンフー映画を礎にし、“ワイヤーアクション”や“ドラゴンボール”までもフォローして、MCUは益々その世界観を広げていく。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-12-26 23:20:56)(良:2票)
145.  浅草キッド
昭和56年生まれの僕は、ビートたけしが“漫才師”だった時代を知らない。 僕自身、物心がつくかつかないかの頃、テレビで活躍していた彼の姿は“タケちゃんマン”だった。 分別がつき始めた頃には彼は毒舌家のパーソナリティとして既に芸能界のトップに君臨していたし、映画鑑賞が趣味となった頃には“北野武”という押しも押されもせぬ日本を代表する映画監督になっていた。  もちろん、古い映像でツービートの漫才を見たことはあったし、無名時代にストリップショーの幕間コントに出演していたということは知っていたけれど、僕らの世代にとってそれらはもはや「伝説」の類だった。 (「ちびまる子ちゃん」でお笑い好きのキャラクター“野口さん”がフランス座の前で無名のたけしにサインをもらうエピソードが印象深い)  そういうわけで、この映画は、この国の芸能界の“生きる伝説”ビートたけしの「誕生秘話」として極めて興味深く、青春映画として、そして伝記映画として紛れもなく傑作だったとまず言いたい。 正直、劇団ひとり監督をなめていた。 彼の芸人としての趣味趣向ど真ん中の題材とはいえ、これほどまで骨格のしっかりした良質な作品を作り上げるとは、只々脱帽だ。  浅草のストリップ劇場「フランス座」を舞台にした人間模様、そして芸人師弟の物語は、決して奇をてらうことなく王道的だった。 そこには、この国の誰もが知る芸能におけるスーパースターの誕生を描くことに対する気概と敬意が表れていたと思える。 「伝説」を映画として描き出すに当たって、余計な創作やデフォルメは不要であり、ありのままの“ビートたけし”をそこに存在させることができたならば、面白くなるに決まっている。 それが、ひとり監督の信念であり、勝算だったのではないか。  そして、その思惑は見事に結実している。 決して大袈裟なストーリーテリングをするわけでもなく、未読だが、おそらくは小説「浅草キッド」に沿った物語展開の中で、若き見習い芸人“タケ”が、“ビートたけし”へと成り上がっていく。  この映画を成立させているのは、やはり“ビートたけし”を文字通り体現した柳楽優弥だと思う。 松村邦洋からかなり綿密な指導を受けたようだが、当然ながら俳優としてモノマネという領域を超越し、“憑依”という言葉が相応しい圧巻の演技を見せてくれた。 前述の通り、僕自身は若い頃のビートたけしを見たことはないが、「ああ、これはたけしだ」と驚くほどに腹に落ちた。  W主演としてビートたけしの師匠・深見千三郎を演じた大泉洋も、もはや名優という冠を疑わせない安定感と存在感を見せている。 門脇麦、鈴木保奈美ら女優陣が表現した“生き様”もとてもドラマティックで素晴らしかった。 また、触れないわけにはいかないのが、ビートきよしを演じたナイツ土屋伸之の名演+名漫才。現役世代トップの漫才師としての技量と自然な佇まいが見事だった。  そしてそれら芸達者な演者たちの能力をちゃんと引き出し、王道的な映画世界の中に着実に落とし込んでみせた劇団ひとり監督の手腕は、やはり本物だと思うのだ。
[インターネット(邦画)] 9点(2021-12-15 22:14:30)(良:2票)
146.  ステキな金縛り ONCE IN A BLUE MOON
三谷幸喜。この小心者の人気脚本家は、与えられた潤沢な製作費と大衆の反応を気にするあまり、“コメディ”の面白さそのものを見失っているように思えてならない。  まずはっきり言ってしまうと、この映画に稀代のコメディ作家が織りなす“ストーリー”の面白味として特筆すべきものは何もない。 三谷幸喜が、その役割を果たせた要素は、無意味に豪華なキャストを揃えたことくらいだ。彼の実績が、単独で映画の主演を務められる俳優たちを幾人も集め、別に彼らにその役を演じさせる必要の無い端役を演じさせている。 豪華なカメオ出演に彩られて、ストーリーが面白いのであればもちろん問題はない。でも、そうではないので、やはり問題視せざるを得ない。  殺人事件裁判の証人に落ち武者の幽霊を立たせるという荒唐無稽な設定自体に文句が言いたいのではない。 そこから始まるストーリーテリングが、あまりに論理性に欠け、陳腐だ。 “下らない”要素を論理的に積み重ね、物語に面白味に長けた説得力を持たせることが、三谷幸喜という脚本家の魅力だったはずだ。 舞台設定の雰囲気と、キャストの豪華さのみに頼り、ストーリーそのものの面白さが無かったことが残念でならない。  と、つらつらと酷評を綴ったが、それでもこの映画は観客をスクリーンに惹き付ける“要素”を持っている。 それは、主演女優の愛らしさだ。深津絵里が魅力的で仕方が無い。 昨年の「悪人」で見せた薄幸のささくれた表現からひっくり返ったような可愛らしいパフォーマンスに対して、頬のゆるみを止められなかった。  主演女優の存在感が、ぎりぎりのところでこの映画の娯楽性を繋ぎ止め、盛り上げていた。そんな気がする。
[映画館(邦画)] 5点(2011-11-06 20:10:52)(良:2票)
147.  SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム
12年前か13年前、高校の文化祭で12人の友人たちと体育館のステージの上で歌って踊った。 ふいにその時の写真を見てみると、思わず苦笑いをしてしまうけれど、どうしたって忘れられるわけがない思い出だ。 あの過ぎ去った時間は、やはり自分にとって大切な“輝き”なのだと思う。  前作「SR サイタマノラッパー」とストーリーのプロット自体は殆ど同じで、主人公の性別を男から女に変えただけの“二番煎じ”と言えなくはない。 しかし、僕はこの続編に一作目には無かった抑えきれないエモーションを感じずにはいられなかった。  この映画で描かれた主人公たちの過ぎ去った“輝き”と自分自身のそれとがオーバーラップしたことは、その大きな要因だろう。 けれど、決してそれだけではなかったと思う。  借金返済、失恋、堕胎、傷心、喪失……20代後半の彼女たちが抱える問題は様々で、この映画の中でそれらの問題が総て解決されるわけではない。 むしろ、殆どの問題を丸々それぞれが抱えたまま、映画は幕を閉じる。  しかし、少なくとも彼女たちは、如何なる時も自分たちが“何か”を決断し、実行しなければ、この先を生きていくことが出来ないということをよく知っている。 そのそれぞれの姿は、決して美しくも格好良くもないけれど、根本的に幼稚な「男」に対して圧倒的に“オトナ”で、故にとても凛々しく見えた。   ほころびは非常に多く、決して完璧な映画ではない。故に鑑賞直後の評価は“充分満足”した上で8点とした。 しかし、気がつくと「シュッ、シュッ、シュッ~♪」と口ずさみ、YouTubeで「B-hack」のPVを繰り返し観ていた。 「ああ、これはやはり“特別”だ」と自ら思い知り、点数をつけ直した。   エンドロール、主人公はリリック書き直した曲をヘッドフォンで聞きながら、母校をはさむ川沿いを歩いていく。 その姿には、かつて確かにあった“輝き”を懐かしみつつも、経てきた時間の距離を認め、“今の自分”を認める強さを感じた。  “ハートのロイヤルストレートフラッシュ”が出揃うハズがないことを彼女たちはとうに知っている。 でもだからと言って立ち止まっていい理由にはならないし、立ち止まってなどいられない。 本編のラストカットに映し出されるままに、傷つき、小さく輝き、彼女たちは“何でもない道”を少し胸を張って歩いていく。
[DVD(邦画)] 10点(2012-05-09 15:29:03)(良:2票)
148.  ノウイング 《ネタバレ》 
極めて「微妙」な映画だった。酷い映画ということはないが、決して面白くはない。が、独特の味わいはある。そういう映画。  ミステリアスに彩られた50年前の「予言」が、人類の災厄を次々に当てていく。そして、最終的な予言は、世界の終末を示していた。 と、よくあるような題材ではあるが、その描き方は一定のセンスをもって緻密に表現され、物語の「真相」と「顛末」に向けて、観客を惹き付けることに成功している。映像のクオリティーも非常に高かったと言える。  ただ残念なことに、導き出される「真相」と「顛末」には、一切の“捻り”がない。 それはそれで、真っ当なストーリーテリングだとも言えるし、ドストレートな展開が逆に”新鮮”と言えなくもない。 しかし、タイトルも含めて、そこかしこにそれなりの伏線をめぐらせている風に見せて、結局紡ぎ出された顛末がアレでは、やはり充足感には程遠い。  もはやこれは、個々人の趣向の問題になってくるかもしれないが、大エンターテイメントを醸し出しつつ、想像以上に「間口」の狭い作風には、良い意味でも悪い意味でも、面食らってしまった。
[映画館(字幕)] 6点(2009-07-27 22:03:21)(良:2票)
149.  エノーラ・ホームズの事件簿
秋の夜長、赤ワインを傍らに、ある意味において“現代版”の「シャーロック・ホームズ」を鑑賞。 “現代版”と言っても、ベネディクト・カンバーバッチの「SHERLOCK」のように現代のロンドンを舞台にしているわけではなく、コナン・ドイルが描いた19世紀後半のシャーロック・ホームズがそのまま登場する。 異なるのは、シャーロック・ホームズ本人が主人公ではなく、彼の“妹”が主人公であり、彼の“母親”がキーパーソンであるということ。  シャーロック・ホームズに“妹”がいたなんて話は聞いたことがないけれど、彼だって人の子、いくら架空のキャラクターであろうとなんだろうと、当然“母親”は存在する。もしかしたら“妹”もいたのかもしれない。 ただ、もしそういう家族構成だったとしても、原作小説の中で、“母親”や“妹”のキャラクター描写がピックアップされただろうか。 おそらくは、ただ一文節で紹介される程度だったのではなかろうか。 少なくとも、シャーロック本人にも勝るとも劣らない頭脳明晰なキャラクターとしては描かれることはなかっただろう。と、思う。   なぜそう思うのか? それは、“そういう時代”だったからだ。   今この時代に、シャーロック・ホームズ本人を脇に追いやって、彼の“妹”と“母親”を「女性」の代表として、映画世界の中で雄弁に語らせる意義。 それもまた、“そういう時代”だからこそようやく成立し得たテーマだったと思う。 だからこそ、原作同様に19世紀後半のロンドンを描いたこの作品が、“現代版シャーロック・ホームズ”と思えたのだ。  重要なのは、登場人物たちを現代人として描き直すのではなく、あくまでも当時の時代設定のままで、当時の社会の中で生きる人間として描いていることだ。 それは、女性蔑視や性格差に対する問題意識や発言や行動が、何も現代社会に限って巻き起こっているものではないというメッセージに他ならない。 100年前から、いやもっと前から、女性たちは、与えられるべき正当な権利と、認められるべき自由な生き方を主張し続けているのだ。  聡明な母は、「ひどい未来を残すのは耐えられなかった」と、愛する娘が16歳になったタイミングで姿を消す。 それはまさに、過去から現代に至るまで、世界中の女性たちが胸に秘め続ける思いではないか。   この意欲的で独創的な映画もまた「Netflix」映画である。 Netflixで独占配信される作品には、社会的、思想的、政治的なメッセージをダイレクトに強くぶつけてくる作品が多い。 映画作品としては、その主張の強さが時にアンバランスに感じる時もあるけれど、それも、“この時代”が必要とせざるを得ない表現方法であり、手段の一つなのではないかと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 00:27:50)(良:2票)
150.  恋は五・七・五!
いくらこの手の“異種スポ根系青春コメディ”が流行ってるからって“俳句甲子園”は無いでしょう~というのが当初の印象だった。舞台となる愛媛県松山市で育ち俳句甲子園のことをある程度認識している者がそうなのだから、その存在自体知らない人たちにとっては殊更であると思う。しかーし、実はこの映画、なかなかイケる。そう、劇中で宣言されるように、俳句は爺婆の戯れではない。俳句は“ポップ”なのだ。今や世の中は、右を向いても左を向いても“省略化”の時代である。名作文学の粗筋をまとめた本が売れ、何を伝えるにもメールで済ましてしまう時代である。そんな中において、たった17文字で表現される俳句は、とても現代的感覚に富んだ文化なのだと思う。 とは言っても競われるのは、言葉と言葉の掛け合い。そこにシンクロやジャズ、ロボコンなどのような映画的盛り上がりがあるかというと、正直弱さは目立つ。でもだからこそ感受性豊かに伝わる高校生たちの“一夏の想い”。それこそ今作の魅力であろう。「俳句なんて…」と思っている人こそ、面白味が深まる作品かもしれない。
[映画館(字幕)] 7点(2005-04-02 10:09:57)(良:2票)
151.  007は二度死ぬ
ショーン・コネリーが亡くなった。 何世代にも渡って世界中の映画ファンを魅了した偉大な名優を偲び、“007”が日本に降り立った今作を初鑑賞。 やはり、日本人としては特に忘れ難き“娯楽”に満ち溢れた快作だった。 もう50年以上も前の映画ではあるが、そのエンターテイメントは色褪せない。いや、50年という年月を経ているからこそ、娯楽性は幾重にも層を重ねて芳醇になっているようにも思える。  外国の娯楽映画が「日本」を舞台にした場合、その映画は大抵の場合“トンデモ映画”になる。 日本の文化や風俗に対する誤解や偏ったイメージが、現実とは程遠い「日本」を映し出す。 今作もその例にもれず、“トンデモ映画”の一つであることは間違いないだろう。 姫路城を本拠地にした忍者軍団、日本人の漁夫に扮装するショーン・コネリーなど、失笑ポイントは確かにある。  ただし、それ以上に、日本とその文化に対する憧れやリスペクト、そして「愛」をきちんと感じる映画だった。 トンデモ映画ではあるかもしれないけれど、日本人として決して見てられない描写は無かった。 それは、この映画が、日本に対するイメージをただ想像のままに映し出しているのではなく、ちゃんと日本の各地でロケーションを行い、ちゃんと日本人の俳優たちを起用していることが大きい。  現実的にはありえない数々のシーンも、本物の日本の街や自然の中で撮影されているからこそ“つくりもの”には見えないし、丹波哲郎をはじめとした日本人俳優がメインキャラクターとして演技しているからこそ映画世界の中での説得力が保たれていると思う。  若林映子と浜美枝が演じた二人のボンドガールもそれぞれ魅力的で美しいし、トヨタ2000GTのボンドカーも流麗でひたすらに格好いい。  そして、公開から50年以上も経った今となっては、映画の中で映し出される日本の情景や風俗そのものが、日本人にとっても非常にフレッシュに映り、その中で大活躍を見せるジェームズ・ボンドの活劇には、殊更に高揚感が高まる。     コロナ禍の影響で延期を余儀なくされているが、ダニエル・クレイグ版の最終作となる「007」最新作の公開も待ち遠しい今日このごろ。 稀代の英国人俳優の逝去はとても悲しいけれど、その他未見の「007」シリーズ作品や、「アンタッチャブル」や「ザ・ロック」など彼が残した足跡も改めて鑑賞し直したいと思う。  ジェームズ・ボンドがそうであるように、ショーン・コネリーも映画世界の中で何度でも僕たちの前に甦る。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-02 11:40:51)(良:2票)
152.  百円の恋
「最高」だ。何が?って、「安藤サクラ」に決まってる。  “どん底”が住処の女。ヤケクソで始めた一人暮らしから、悲惨な処女喪失と失恋が更に追い打ちをかける。 鬱積という鬱積に呑み込まれそうになったとき、彼女はそれを振り払うように、ひたすらに拳を振るい始める。 振るう拳の速度が上がるほどに、彼女は生気を取り戻し、美しくなっていくようだった。  見紛うことなき“サイテー”の状態からの、ささやかだけれど格好良すぎる“ワンス・アゲイン”。 こんな「女性像」を体現出来るのは、いまやこの女優をおいて他にいるわけがない!と、心底納得させられる。  2年前に「愛のむきだし」と「サイタマノラッパー2」を観て以来、安藤サクラという女優の“本物感”はひしひしと感じていたけれど、どうやらここにきてこの女優はとんでもない領域に達してきているようだ。 爆笑問題の太田光が激賞していたように、「バケモノ」という表現が相応しい。  “汚れる”ことが出来る良い女優は他にも沢山いる。 でも、醜いまでに汚れると同時に、可笑しさと、愛くるしさと、格好良さ、さらにはエロティシズムまでも孕ませることが出来る女優は唯一無二だ。 今作ではその上に、驚愕の身体能力まで見せつけてくる。その存在感は他のどの女優にも当てはまらない。まさに「バケモノ」だ。  この映画は、キャッチコピーの通りに呆れる程に痛い恋愛映画であり、遅すぎる青春映画であり、過去最高級のボクシング映画である。 ただ、それらを全部ひっくるめて、最高の“安藤サクラ映画”と表すのが最も相応しかろう。
[映画館(邦画)] 9点(2015-01-17 21:38:46)(良:2票)
153.  イコライザー
実は“殺人マシーン”だった主人公が、憎き悪党と真向かい、直接的に、淡々と、「宣戦布告」する。 それを演じるデンゼル・ワシントンの“目”がヤバい。“ヤバい”とはいかにもチープな表現だが、本当にヤバいのだから仕方がない。 正義の鉄槌を振るうことを心に決めた主人公のその“目”は、完全に異常者のそれであり、主演俳優のその表情を観ることこそが、この映画を観る価値だと断じてしまっても過言ではない。  何かしらの過去を背負いつつ、平穏に暮らす主人公が、突如として復讐鬼と化すというこの手のジャンルムービーは昨今目立つように思う。 いわゆるビジランテ(=自警団)ものが流行らざるを得ないのは、真っ当な正義が存在しないこの社会の病理性の表れだろうか。 誰も守ってくれない。誰も裁いてくれない。誰も怒ってくれない。 ならば自ら鉄槌を振るうほかないではないか。 という悲鳴がそこかしこから聞こえてくるようだ。  と、まあ、そんな悲観的な考察は抜きにして、流行りのジャンルムービーの中でもこの映画のクオリティーの高さは確かなものだと思う。  やはり魅力的なのは、デンゼル・ワシントン演じる主人公のキャラクター性だろう。 日々眠れぬ夜を近所のダイナーで過ごす主人公、観客としては当然ながら彼の正体がいかなるものかということを大体知っているわけだが、それでも物静かなこの男が、文字通りの殺人マシーンへと変貌する様は娯楽性に溢れている。 それは、この映画のストーリー自体がこの先どう転じていくのかという娯楽性とも合致し、楽しい。  過去に捨て去ったはずの血塗られた仕事を再開することで、自分の生きる価値を改めて見出し、みるみる活き活きとしていく主人公の様は、実は笑えない。  ただ、そういう役を演じるデンゼル・ワシントンはいつも大体「最高」である。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-09-22 22:46:11)(良:2票)
154.  エクスペンダブルズ3 ワールドミッション
行ってまいりました三度目の“MATSURI!(祭り!)”へ。 いやあ……凄い。素晴らしい。  前作の時点で思い知ったことだが、もはやこのシリーズに対して「難癖」なんてものはつけられない。 “普通”の映画であれば、卑下の対象になるであろう粗という粗を通り越して、この“普通じゃない”映画の後に残るものは、「感謝」そして「感動」である。  三度、シルベスター・スタローンという“映画人”に惜しみない感謝を捧げなければならない。 この人の映画人としての見地の確かさと、アクションスターとしての生き様を全うする格好良さには、改めて脱帽。そして心の震えが止まらない。  スタローン、シュワルツェネッガー、ステイサム、ラングレンらレギュラーメンバーに、今作新たにキャスティングされたは、ウェズリー・スナイプス!アントニオ・バンデラス!ハリソン・フォード!そして、メル・ギブソン!! こうやって自分で彼らの名前をタイピングしていくだけでも高揚感が半端ないのに、そんな大スターたちが、見紛うこと無くスクリーン上でぶつかり合っているのだ。80年代から90年代にかけてのアクション映画で育ってきた映画ファンにとって、こんな幸福なことはない。  まずもって、あの映画ポスターは何だ!最高すぎるだろうよ! 出演者たちが勢揃いで会心の笑顔を見せているアレだ。 スタローンをはじめとするエクスペンダブルズの仲間たちが笑顔を見せているのはまだ分かる。しかしそこには今回完全なる悪役であるはずのメル・ギブソンまでも、彼らしい素敵すぎる笑顔を見せて並んでいる。 そこには、確実に一世を風靡したスターたちが、それぞれの栄光と挫折、紆余曲折を経て、この場に会せることに対する心からの喜びがほとばしっているようだ。 映画内の敵味方なんてどうでもいい!俺達は嬉しいんだ!!と。    スター俳優として人気が高まれば高まるほど、その後の凋落は決して避けられないものなのかもしれない。 スタローンが集めたすべてのスター俳優たちは、その辛酸を特に舐め続けてきたことだろう。 ただ、そんな彼らが、今一度アクションスターとしてスクリーンに戻り、嬉々として立ちまわっている。 その姿は、もはや涙なしでは見られない。(バンデラス!やったぜ!)   さあ!隊長!もうどこまでも着いていきます! 次の敵は満を持しての“沈黙の無敵男”ですかね!?
[映画館(字幕)] 8点(2014-11-09 23:28:53)(良:2票)
155.  アウトレイジ 最終章
「全員悪人」と銘打たれた第一作目から7年。渾身の最終章。  許されざる者たちの鬩ぎ合いの様は、恐ろしさを遥かに通り過ぎ、愚かさを通り過ぎ、滑稽さをも通り過ぎ、もはや「悲哀」に溢れている。 どんなに息巻き、意地と欲望渦巻く勢力争いを繰り広げたとて、彼らが辿り着く先はただ一つ。 生きるも地獄、死ぬも地獄。そんな真理を知ってか知らずか、この映画に登場する悪人たちの眼には、諦観にも似た虚無感が漂っていた。  この映画で描き出される“outrage=暴虐”の世界に生きるすべての人間たちが、自らの生き方に疲弊しきっているように見える。 血管を浮かび上がらせ、怒号と暴力を浴びせつつも、同時に「何故こんなことになったのか?」と己の生き様自体に疑問と虚しさを抱えているようだった。  故に、今作は、前二作と比較すると明らかに地味で、枯れているように見えるだろう。 当然である。描かれるキャラクターたちの血気そのものが薄まり、あらゆる意味で衰退の一途を辿っているのだから。 しかしそれは、前二作と比べて今作の映画的魅力が落ち込んでいるということでは決して無い。 娯楽映画としての分かりやすい迫力は抑えられているが、その分、前二作を礎にした映画作品としての芳醇さに満ちている。  前二作のハードな暴虐性が反動となり、この「最終章」のある種静的な境地へと辿り着いている。 そこに見えたものは、「動」と「静」。別の言い方をするならば、「フリ」と「オチ」。 それはまさに北野武という映画監督の真髄であり、芸人、役者、監督、あらゆる意味での「表現者」としての矜持だと思えた。   シリーズ三作通じて共通することだが、「悪人」としての“雁首”揃えられたキャスト陣は皆素晴らしい。 特に今作においては、塩見三省が凄まじかった。実際に重病を患い、その後遺症が残る中での迫真の存在感。 前作で見せた方幅の広い関西ヤクザの恐ろし過ぎる迫力は消え去り、かわりにフィクションの境界を超えて人生そのものを焼き付けるような老ヤクザの気迫が凄い。 痩せ細り、足が不自由な様子で、呂律も回っていない。それは、前作の風貌と比較すると非常にショッキングな変貌だった。 しかし、以前実際のヤクザ組織の実態を追った或るドキュメンタリーを観たことがあるが、ああいう老いさらばえたヤクザは現実に沢山いる。 時代が変わり、社会が変わり、ヤクザなんて生き方がまかり通らなくなった昨今においては、塩見三省が演じた老ヤクザの醸し出す雰囲気こそが、むしろ限りなくリアルに近いのではないかと思う。   繰り返しになるが、「アウトレイジ」シリーズは、北野武による壮大な「フリ」と「オチ」だったのだと思う。 椎名桔平が演じた格好良い武闘派ヤクザや、加瀬亮が演じた分かりやすいインテリヤクザの描写は、“非現実的”だった。だからこそ「フリ」として、ジャンル映画の娯楽性の中で派手に殺される。 一方で、西田敏行や塩見三省が演じた知略と謀略の限りを尽くす無様で姑息な老ヤクザの描写は、“現実的”だった。彼らがヤクザとして最後まで醜くしがみつき、生き残る様こそが、北野武が用意した「オチ」だったのだろう。   映画は、食べさせる相手がもういない“釣り”の哀しさを映し出して終幕する。 全編通して、「これぞ北野武の映画」だと痛感する見事な一作だ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-10-18 16:00:23)(良:2票)
156.  ソルト 《ネタバレ》 
アンジェリーナ・ジョリーというハリウッド女優の魅力は、その美貌であり、その体躯の曲線美である。  それは彼女が、「17歳のカルテ」でアカデミー助演女優賞を受賞したれっきとしたアカデミー女優だということを踏まえても、揺るがない。 どんなにシリアスな映画に出演しようとも、そこで好演しようとも、彼女は“演技派”などではなく、唯一無二の“セクシー女優”だ。間違いない。  そんな女優が、コスチュームを目まぐるしく替えつつ、ハードアクションを繰り広げる女スパイを演じた時点で、この映画に致命的な失敗は生じるわけがない。 事実、面白い映画だったと思う。  年始早々からこの作品のトレーラーを見続けてきた限りでは、二重スパイ容疑をかけられた主人公が自身の疑いを晴らすために奔走するというような「北北西に進路を取れ」的な展開が繰り広げられるのだろうと想像していたのだが、結構序盤から”想定外”な展開に突入し、驚くというよりも面食らってしまった。  正直なところ、ストーリー的には粗は目立つし、整合性には欠けている。少しネタばれになってしまうが、キーマンとなるキャラクターの隠された存在性も容易に想像がついてしまう。  ストーリー的にも、映像的にも期待に対して凡庸という印象は拭えない。  ただし、繰り返しになるが、これがアンジェリーナ・ジョリーの映画である時点でハズレはない。  当初この映画はトム・クルーズ主演で企画が進行していたらしい。金銭面で折り合いがつかず、アンジーへと脚本共々キャラクターの性転換を行ったそうだ。 たらればになるが、そのままトム・クルーズで映画が完成していたなら、「ミッション:インポッシブルの二番煎じ」と酷評されていたことは、恐らく間違いない。  たぶんシリーズ化は既定路線だろう。次回作は主演女優のパフォーマンスだけに頼らなくて済むようなクオリーティーの高いスパイ映画を期待したい。  (水面下ではトム・クルーズ&ベン・アフレック出演による“イヴリン・ソルト×イーサン・ハント×ジャック・ライアン”という企画もあるとかないとか……実現するのであれば、それぞれこれ以上歳を食う前にやったほうが良いと、一映画ファンとして思う……) 
[映画館(字幕)] 7点(2010-08-07 10:48:44)(良:2票)
157.  ソウ 《ネタバレ》 
とにかく、痛々しすぎる密室における緊張感は一見の価値はある(と言うか痛々し過ぎて2度、3度と見ようとは思わない)。全編に張り巡らされた伏線と、“密室”という設定を存分に生かしたアイデアも見事だったと思う。 終盤、クライマックスにおいて、それまでの雰囲気を無視してやけにバタバタとし始めて、正直「なんだよこの終わり方は~(lll ̄■ ̄;llllllΣ)」と思いかけたところで、真の結末を見せる顛末には、まんまと衝撃を受けた。ああいう終わり方は、この種類の映画にふさわしく、この「SAW」という映画の結末に合致していると思う。すなわち、“SAW”とは、重要な小道具であるノコギリを示すと同時に、「見ていた」という要素をあらわすものなのではないか。 ただしかし、犯人の正体を筆頭に色々と腑に落ちない点も多い。冷静に考えると強引すぎるようにも思う。それが描かれなかった「謎」なのかは疑問だが、良い意味でも、悪い意味でも、全然眼中になかった続編「SAW2」に対する好奇心は膨らんだことは確かだ。
[DVD(字幕)] 8点(2005-10-29 21:40:58)(良:2票)
158.  トランスポーター2
“B級”というテイストが、これほど主人公そのもののキャラクターに反映されている映画も珍しい。 ジェイソン・ステイサム演じる主人公は、これ見よがしに男気に溢れたヒーロー然としているが、何を置いても彼自身に“粗”があり過ぎる! 前作に引き続き、己に課した“ルール”をおおよそプロフェッショナルとは思えないほど容易に覆し、それがまんまとピンチに繋がっている。 ただし、その主人公の隙だらけのスタンスこそが、2作目にしてこの映画シリーズの確固たる“味わい”となっている。だから問題なし。  前作同様、ストーリーや諸々の設定の粗探しをしたって始まらない。何故なら、“粗”しかないんだから粗探しにならない。 奇しくも、あるウィルスパニックを描いた映画を観た後に今作を観たので、登場する細菌兵器の設定の浅はかさが問答無用に際立った。 しかし、この映画にとってそんなディティールへの配慮はすぐに意味をなさなくなる。 この映画は観客に対して、ひたすらに繰り広げられる“大馬鹿アクション”に乗れないのなら、潔く下車して頂こうという気概に溢れている。  その「乗車基準」を持ち合わせていたならば、ジェイソン・ステイサムが織りなす香港アクションを彷彿とさせる格闘シーンを楽しみ、ミラ・ジョボヴィッチ風のキレた女殺し屋のエロさを堪能し、まったく科学者に見えないジェイソン・フレミングのチンピラぶりに突っ込みを入れながら、秀逸なB級アクションの世界に浸れるだろう。  爆弾が仕掛けられた愛車から飛び降りるのではなく、ジャンプした車体を捻らせて空中のフックで爆弾を削り落とすという「判断」を受け入れられるかどうか。 この映画の“敷居”は意外と高いかもしれない……。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-02-15 16:42:40)(笑:1票) (良:1票)
159.  ヘルタースケルター(2012)
決して完成度の高い映画ではない。稚拙な演出も目につくし、無駄に長いし、全体的にチープだ。 だが、立ち去ろうとする足首を掴んで離れないような独特の禍々しさがへばりつくように残る。 故に「傑作」と言い切ることも、「駄作」と断ずることも、僕にはその勇気がない。 これはそういうちょっと変わった映画体験を半ば強制的に観客に与える類いの映画だと思う。  まず相変わらずイロイロと騒がしい人ではあるが、沢尻エリカという女優は、やはりちょっと「特別」だと思う。敢えてチープな言い方をするならば、「ガッツ」があるのだと思う。 それは何も映画の冒頭から惜しげもなく乳房を露にしているというような分かりやすいことではない。 自業自得な部分もあろうが、マスコミによってあのようなスキャンダルな立ち位置に半ば強制的に追いやられているにも関わらず、まさにその「現実」とピッタリと重なるような今作のキャラクターに挑み、遠慮なく演じ切ってみせるその豪快さにそう感じる。  「はまり役」と言えばまさにそうだろうが、これほどまで自己投影された役柄をこの若さで演じられる女優は、実際なかなかいない。 好き嫌いは別にして、私生活も含めて、その「女優」としての在り方はやはり間違っていないと思う。  “そういう女優”を大胆にも起用し、えげつないストーリーの上で、えげつない演出を真正面から敢行した蜷川実花というこの女流監督のDNAは、まさしく“父親譲り”だなと感じた。 主演女優に対してはもちろんだが、寺島しのぶら脇役に対しても、なかなか“酷い”(褒めている)演出を行っていたと思う。  その一方で、イメージした映画世界の「理想」に対してそれを具現化するには、明らかに映画監督しての力量が及んでいなかったことも事実。 究極的に描き出したかった世界観は伝わってきたが、高みに達せず、節々で陳腐さが露呈してしまっていることは否めない。 長編映画二作目の監督が挑むには、ややハードルが高過ぎたと思わざるを得ない。  ただそれでも、この映画が「異質」であることは確かなことで、イロイロな意味で「見たいものを見せてくれる」映画であることは間違いないと思う。  もしも、監督があと20年早く生まれているか、もしくは主演女優があと20年遅く生まれていたならば、はるかにとんでもない映画に仕上がっていたかもしれない。
[映画館(邦画)] 7点(2012-07-23 12:21:01)(良:2票)
160.  ゴジラ(1954)
改めて観ると、やっぱりいろいろ凄い。 60年前の特撮映像そのもにフレッシュな驚きは勿論無いが、60年前にこの映画をリアルタイムで観た日本人はの恐怖と興奮は容易に想像でき、その「驚愕」が大変羨ましい。  ゴジラ映画の本質であるこのオリジナル作品の根底にあるものは、やはり「畏怖」だと思う。 未知なる巨大生物への畏怖、それにより生活が人生が文字通り崩壊される畏怖、そしてその発端は我々人類の所業そのものにあり、この悲劇自体が何ものかによる戒めであろうという畏怖。  この60年前の特撮映画が、ただの娯楽映画として存在したわけではなく、日本国内はもとより世界中において尊敬の念をこめて愛され続けたのは、まさにその神々しいまでの恐怖感によると思う。   一方で、改めてこの映画を鑑賞しなおしてみると、当時の日本の風俗や人々の価値観が如実に表れていてそれはそれで興味深い。  “オキシジェンデストロイヤー”を開発した芹沢博士は、実は時代に翻弄された悲恋をまとった人物で、映画的に捉えるならば本来もっと自暴自棄になってもいいはずなのに、最終的にはあくまで人道的に己の命を捧げる様は、悲しくて仕方がない。  名優・志村喬が演じる山根博士も、いかにも人格者的な古生物学者として振る舞ってはいるが、一人ゴジラの生態究明に固執する様は少々異様ですらあり、その目は時に狂気じみていた。  細かい所だと、菅井きんが演じていた婦人代議士の国会での熱弁の様だったり、死を覚悟して最後の放送を続けるテレビ塔のアナウンサーの様だったり、時代を感じる人間性やキャラクター設定が、60年後の今だからこその味わい深さになっていると思える。  また随所に散りばめられている戦争の傷跡と、反戦・反核へ警鐘も、決して仰々しいわけではないが実に切実に生々しく描かれている。 通勤電車での「また疎開はいやだなあ」という会話だったり、「もうすぐお父ちゃまのところへ行けるのよ」という母親の言葉だったり、ゴジラ急襲後に放射能反応を示される子どもたちの姿だったり……。  前代未聞の娯楽性の中に、この国が背負った明確な傷跡と、自らを含めそれを起こした人類への怒りを刻み込んだからこそ、この特撮映画は「特別」なものになったのだろうと思う。 
[CS・衛星(邦画)] 10点(2003-09-29 12:12:36)(良:2票)

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