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プロフィール
コメント数 2626
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ゴジラ FINAL WARS 《ネタバレ》 
“愚の骨頂”あらゆる意味でこの映画にこの言葉はふさわしい。  はっきり言って「くだらない」と一蹴してしまうことを戸惑う作品ではない。間違いなく「くだらない」。  でもこれほどまでに、東宝特撮映画が自らに対する記念碑的映画としてふさわしい出来栄えもないかもしれない。 “とにかく、あらゆる東宝ネタを詰め込もう!!”という根本のコンセプトは間違っていないと思う。 海底軍艦の出撃に、妖星ゴラスの襲来、謎のX星人……ある種のオールスター的要素を心から喜ぶ人達はとても多いだろう。 ほとんど支離滅裂に登場する怪獣たちの存在も充分に楽しめる要素である。 ある種のチープさは、東宝特撮映画の良い意味での伝統であり、それこそ黄金時代を象徴する娯楽性だったと思う。  しかし、それでも、やはりこの映画は冒頭の言葉に終始する。  その原因はただ一つだ。 そう、このゴジラ最終作の監督に北村龍平という人間を起用したことに尽きる。  一辺倒の格闘シーンしか紡ぐことの出来ないこの監督は、自分に与えられた仕事の意味と責任を何も分かっていなかった。 製作発表の段階で、誰もが抱いた最大の不安は、見事に的中した。  近年のゴジラ映画には希望の光が見えていただけに、製作会社のこの“大見誤り”は「残念」では済まされない。  長いゴジラ映画の歴史の中で、ひとつの区切りとしてこういう映画があるのはべつに良いと思う。 しかし、これで“終わり”では、日本映画最大のヒーローがあまりに可哀想だ。  この映画にハリウッド版「GODZILLA」を愚弄する資格などどこにもない。
[映画館(邦画)] 0点(2004-12-07 00:10:15)(良:8票)
2.  パシフィック・リム
上映前に買った飲み物をカバンに入れたまますっかり忘れてしまっていて、上映後興奮してカラカラに渇いた喉に一気に流し込んだ。 映画は常に没頭して観ているつもりだけれど、それでもこれほど“無我夢中”になった映画はあまりない。 そして、これほど監督をはじめとする製作スタッフに「感謝」を捧げたくなる映画も珍しい。  冒頭、いきなり異次元から“怪獣”が問答無用に襲撃し、人類側の最後の砦である“巨大ロボット”が、文字通りの肉弾戦を繰り広げる。 実際、ひたすらにそれの繰り返しの映画である。ストーリーなんて明らかに後付けで、突っ込みどころ満載。 しかし、その“ほつれ具合”こそ日本人が生み出し、愛した「怪獣映画」「ロボットアニメ」の真髄であろう。  もはや巨大な鋼鉄の“建造物”であるロボットが大勢の技術者によって“起動”し、パイロットによって“駆動”する様の一つ一つに対して、高揚感が治まらず、思わず座席から身を乗り出して終始ニヤニヤしてしまっていた。 怪獣の襲撃シーンで用いられている音楽は明らかに“伊福部昭オマージュ”に溢れており、怪獣の重量感による地響きと共に響く旋律に涙が溢れそうになった。  そして繰り広げられる大攻防戦。「これぞ大スペクタクルだ!」と古風な言い方を敢えてしたくなる。 日本の本多猪四郎、米国のレイ・ハリーハウゼン、映画史に名を残す“怪獣映画の父”たちにこの映画を捧げたギレルモ・デル・トロ監督の意志は紛れもなく崇高で、日本人映画ファンとして感謝の念が尽きない。   普段は絶対に字幕版しか観ない主義だが、「これは米日合作映画だ!」と一方的に現実逃避を決めて、今回は敢えてIMAX3Dの日本語吹替え版で鑑賞した。 製作スタッフの、日本のアニメ文化への崇高な尊敬の念に対して呼応するように揃えた豪華声優陣が功を奏して、素晴らしい吹替え版に仕上がっていると思う。 何よりも、この映画に限っては、怪獣映画、ロボットアニメに純粋に興奮した「あの頃」に完全に立ち返って鑑賞すべきであり、字幕を追うなんて無粋なことを避けることもまた一興だろう。  兎にも角にも超最高!ありがとう!ギレルモ・デル・トロ! 続編、スピンオフ、ロン・パールマン並みのしぶとさで期待しております。
[映画館(吹替)] 10点(2013-08-20 16:58:40)(良:7票)
3.  デビルマン 《ネタバレ》 
まったく……。一番目のレビューとして申し訳ないが、言わせてもらいます。  これほどまでに“胸糞が悪い”映画は観たことがない。 日本映画でヒーローものの娯楽映画だから“くだらない”だけならまだ許せるだろうが、娯楽映画としてこれほどの醜悪さはまさに憎むべきものだ。 もう何が悪いどこが悪いと指摘するのも虚しい。まともな神経で作ったとは思えないし、観る側もまともな神経では耐えられないものだ。  上映前の暗がりの中、一人の老人がおぼつかない足で劇場に入ってきた。 そして彼は、クライマックス前もっとも下劣なシーンのところでさらに足元をふらつかせながら途中退席していった。 もちろんぼくはこの映画に何の関係もないが、何だかその老人に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。  まあ、とにかく、映画としてのあらゆる罪を犯した今作を許すことはできない。 そして、もし「この映画は庇護るにたるべき存在か」と聞かれれば…そんな愚問には答える気にもならない。
[映画館(邦画)] 0点(2004-10-12 18:49:52)(良:7票)
4.  スワロウテイル
この映画を初めて観たのはいつの頃だったろうか。 おそらく、中学校の3年生、「映画」を自分の“趣味”として一人で観始め、アプローチしやすいハリウッドの娯楽大作から少しその視界を広げ始めた頃に観たような記憶がある。 もうすぐに高校生になる。自分自身が「大人」になっていくということをようやく意識し始めた時期だったとも思う。  「こんな映画があるのか」と思った。  まだまだ子供で、知識も見聞も無かった僕は、この映画が描き出す「異世界」に戸惑った。 “戸惑い”は同時に“魅惑”となり、初めて観た世界に引き込まれた。 「岩井俊二」という固有名詞を知ったのも、この時だったと思う。 以来僕は、この映像作家が生み出す映画世界の虜になり、ひたすら憧れた。  幾度も観直しているとは思うが、また数年ぶりに観直して、初見時と同じくらいのインパクトを携えたままこの映画を観終えた。「感動」したと言って良い。  ある種の“説得力”さえあれば、どんな世界でも創り出すことが出来るのが「映画」という表現だと思う。 あざとく特異な世界を創り出すということではなくて、世の中の殆どの映画がフィクションを描いている以上、殆どの映画監督が「異世界」を創り出そうとしていることは間違いないことだろう。 その独自の世界観を、揺るがない価値観と、飛躍的な独創性で創り出すという点において、岩井俊二という人は優れ、その顕著な結果が「円都」という異世界であった。  娼婦のグリコが唄い、流氓王のリョウ・リャンキが暗躍するその世界は、明らかに「非現実(ファンタジー)」であるが、観客はその境界線を見失う。
[ビデオ(邦画)] 10点(2003-10-23 17:21:57)(良:7票)
5.  風立ちぬ(2013)
「狂おしい」  ストーリーそのものは、とても古風でオーソドックスに見えるけれど、過去の宮崎駿作品のどれよりも、もっとも“狂おしい”までの感情に埋め尽くされた映画だと思った。   映画世界に対峙し、己の理屈においては明確な拒否感を感じている筈なのに、涙が溢れて止まらない。こんな映画は初めてかもしれない。  その“拒否感”の大部分は、「主人公」に向けられたものだったと思う。 この映画の主人公は、善人で、優秀な好青年である。 ただし、同時に「変人」であることも揺るがない事実だ。 堀越二郎と堀辰雄、実在した二人の人間に「敬意を込めて」と謳っているが、この映画で描かれる主人公の姿は、明らかに宮崎駿自身の投影であり、その「変人」ぶりにそのすべてが表れていると思う。 そういう意味では、この映画が過去作のどれよりも宮崎駿にとってパーソナルな作品であることも確かであり、それ故の“狂おしさ”なのだとも思える。  主人公の言動を理解し難い面は多く、主人公は世の中のすべての人から非難されてもおかしくはない。 しかし、主人公自身が自分を呪ったとしても、彼が愛したヒロインだけはどこまでも彼を守り愛し抜くだろう。 ならばそれがすべてだ。  余命幾ばくも無い病床の妻を囲い仕事に没頭する主人公も、養生を放棄し命を縮めても夫のもとで過ごしたヒロインも、その姿には、少し狂気じみたものを感じる。  彼らは二人の間に確実にあるはずの“障壁”なんて何もないように、繰り返しキスをして、そして愛を営む。 この「幸福」は二人だけのもの、そしてこの「悲哀」も二人だけのもの。 そこには、“観客”も含めて、周囲の他人が入り込む余地は全くなかった。 その二人の姿は、あまりに独善的で、歯がゆいけれど、何よりも美しく、涙が溢れた。  そう、この映画の主人公、そして宮崎駿自身が追い求めたのは、“美しさ”以外の何ものでもない。 誰に理解されなくとも、自分自身にとっての「美」を最後の最後まで追い求める。 この映画は、そういう“彼ら”の生き方における「覚悟」を描いた作品だと思った。   「ほかの人にはわからない あまりにも若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ」  あまりにもはまり過ぎている荒井由美の「ひこうき雲」が延々と頭の中をめぐる。   映画館を出た。真夏の太陽が眩しかった。 空の青は、少し、“狂気的”に見えた。
[映画館(邦画)] 10点(2013-07-20 19:33:13)(良:7票)
6.  カメラを止めるな!
昔、映画学校の学生時分、脚本家志望だった僕は、「サバ缶」というシナリオを書いた。 またカリキュラムの中で、短編作品の撮影もどこかしらの民家を一泊借りて行った。 もう随分と遠い昔の思い出となってしまったけれど、その時の記憶がありありと思い出される。 そして、月日は経って、地元に帰り、結婚をして、娘が生まれ、父親になった。  何が言いたいかというと、そんな僕が、この「映画」を愛さないわけがないということだ。 いや、参った。これは、日本映画史上待望の「ゾンビ映画」の傑作だ。  巷で話題沸騰となっていたことは知っていたけれど、あまり精力的な情報収集をせぬまま、地元の級友たちとの飲み会前の空き時間にフラリと観に行った。「情報」を最小限に留めたまま鑑賞に至れたことが、極めてラッキーだったと思う。 古今東西「ゾンビ映画」というものは、生み出された実社会の閉塞感や鬱積を、血と狂気の混沌の中で描き出してきた。 したがって、そのジャンルは、もちろん「恐怖映画(ホラー)」ではあるのだが、同時に「風刺映画(コメディ)」でもあると思う。 今作は、そのホラーとコメディというアンビバレントな要素を絶妙なバランスで混ぜ合わせ、驚くべきアイデアで纏め上げて見せている。  ただし、一言で「風刺」と言っても、この映画で描き出されるテーマ性は極めてミニマムだ。 核家族における父性のあり方、あらゆるしがらみにがんじがらめの働き方、そして、一個人レベルに至るまで蔓延する虚構と実像の葛藤。 この映画は、現代のこの国の社会の中で、あまりにも普遍的なそれらの鬱積を根底に敷き詰め、呆れて笑うしかない「暴走」と共に、爆発させ、解放させている。  一つ一つの描写はとてもくだらなくて、チープだけれど、それをあまりのもチャレンジングな試みの中で、「本気」になって叩きつけているからこそ、今作はとてつもない“面白味”と“感動”を生み出しているのだと思う。  映画館で、あんなにも臆面もなく手を叩いて笑った記憶はない。 観客のその反応を誘い出し、エンターテイメントとして成立させたアイデアとチャレンジに脱帽する。 散々笑わせといて、最後の最後でホロリとさせるなんて、ズルい。
[映画館(邦画)] 10点(2018-08-13 08:06:53)(良:6票)
7.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
ついに進退窮まった最後の局面において、主人公は「これは誰のせいでもない」と達観する。 それはすべてをやり尽くした上での諦めの境地のようにも見えるが、やはり、彼女がようやく辿り着いた“生きる”ということに対しての強い覚悟の表れだったと思える。  子を亡くし人生に打ちひしがれた主人公は、自分に与えられた仕事にひたすらに没頭し、その結果気がつくと「宇宙空間」に居たのだと思う。 それは彼女にとっては逃避に近い行動だったのだろう。  そこに訪れた文字通りに絶体絶命の危機。  無重力の怖さ、無音の怖さ、無酸素の怖さ、どこまでも広がる「無限」の怖さ、宇宙空間の虚無的なリアリティとそれに伴う絶対的な恐怖を描き抜いたこの映画は、一人の人間の弱さと脆さ、そして「生」に対しての神々しいまでの「執着」を導き出していく。  「宇宙」というものに少しでも興味を持った人ならば誰しも、あの「空間」に放り出されることを想像し、その恐怖に総毛立ったことがあるはず。 この映画の発端は、まさにその誰しもが覚えた恐怖感であり、紡ぎ出されるストーリーも極めてシンプルだと言える。 しかし、シンプルだからこそ、その徹底された無重力世界の描き込みの総てにおいて驚嘆せずにはいられなかった。  登場するキャラクターはほぼ2人きり。しかも映画の大部分は、サンドラ・ブロックによる“孤独感”のみで描かれる。 余計な人物描写や回想なんて完全に排して、今その瞬間の「現実」と、それにさらされた主人公の等身大の姿のみで描き切ったこの91分の映画の潔さが素晴らしい。  「結末」は誰しも容易に想像できる。 それでも、繰り広げられるスペクタクルの一つ一つに例外なく息を呑み、終始主人公と同様に息苦しさすら覚え続けた。 そして無重力下で球体化する彼女の涙を見て、こちらも涙がこぼれた。  果てに、彼女は地上に降り立ち、地球の地面に屈服する。 紛れもない重力に喜びを感じ思わず笑みを浮かべる。 赤土を握りしめ、彼女は再び立ち上がる。 映画全編に渡るあらゆる比喩は、彼女が「再誕」したことを如実に表現している。  凄い。本当に凄い映画だ。
[映画館(字幕)] 10点(2013-12-14 15:16:04)(良:6票)
8.  華氏911
この世界に生きる人間にとっての最大の恐怖は「無知」なんだと思う。  当たり前であるが、この世界は様々な人間の様々な感情や思惑に溢れているわけで、そのすべてを知り得るということは間違いなく不可能である。 しかしそれでも、知らなければならないことは物凄く沢山あり、そしてその一部は少数の明確な意思によって誤魔化されている。  そういう多くの事実を「知らない」で生きていくことは、非常に恐ろしい。  この映画自体、マイケル・ムーアという一人のアメリカ人の意思で作られている以上、これのみをもって単純に鵜呑みにすることは至極危険であろう。 それは製作者であるムーア自身がもっとも良く分かっていることであり、決して彼はこの映画の意思を大衆に押し付けようとはしていない。  しかし、事実による彼の明確な意思は理解できるし、ベースとなるこの現実を世界の人々は知らなければならない。  人間として「恐怖」におののくことは実に自然なことだ。 必要なのは、今自分を取り巻く恐怖の真意を知ることだ。
[DVD(字幕)] 9点(2004-08-23 18:01:35)(良:6票)
9.  フィッシュストーリー
“fish story”とは、「ほら話」という意味だということを、この映画で知った。 釣り人の手柄話から意味を成しているらしい。  細かく見れば決して完成度が高いとは言い難い映画であることは間違いないが、僕はこの映画が好きだ。この“お話”がたまらなく好きなのだと思う。  何十年も前の売れないパンクバンドの最後の一曲が、数十年後の世界を救う。  「風が吹けば桶屋が儲かる」や「バタフライ・エフェクト」など、些細なアクションが別の些細なアクションへと徐々に連なり、時間も場所も超えた世界の大きな事象に繋がるという現象は、世界中で古くから語られてきたことであり、この物語のストーリーそのものには目新しさはないのかもしれない。  けれど、このストーリーの本当の魅力はまた別のところにあって、爽快感でもあり、瑞々しさでもある“それ”は、それこそが、この鬱積ばかりが溜まる世界への“救い”のように思える。  昔々の名も無い若者たちがふいに生み出した「無音」が、「運命の出会い」と、「正義の味方」と、「世界の救世主」を生む。  もしそれが「ほら話」だったとしても、その“荒唐無稽”を信じられた方が、きっと人生は楽しいし、この世界はもっと素晴らしいものになるように思う。
[映画館(邦画)] 9点(2009-06-11 16:47:17)(良:6票)
10.  ALWAYS 三丁目の夕日
真っ当な“映画好き”であるならば、VFXをふんだんに盛り込んだ邦画の大作映画には、問答無用に“疑心暗鬼”になってしまうと思う。 もう4年も前になるが、今作の公開時にもその例に違うことは決してなかった。 どうせ、ハリウッド映画に対して遥かに稚拙なVFXで再現された数十年前の東京の様をこれ見よがしに見せるだけの映画だろうと思っていた。  そもそも、予告編を観ただけで、粗筋は読め、感動させたいポイントも丸分かりの映画に、興味は無かった。  だが、観もせずに「面白くない」などと決めつけることほど、愚かなことはない。 面白くない映画を観て、「面白くない」と言うことが、本当の映画好きだと思う。  そうして、4年越しの初鑑賞となったわけ。  ん、……なるほどね。  「面白いね」   本当に面白くない映画に対して、これほど好評が続くわけはなく、自分の思いとは反面予想していたことではあったのだけれど。  ストーリー展開も、感動するべきポイントも、すべてが「予定調和」の中で成り立つ。 目新しさなんて、何も無い。 ただそれこそが、この作品の魅力であり、価値なのだろうと思う。  詰まるところ、「面白い」というよりは、日本人として感動しないわけにはいかない映画なのだと思う。  すべてはラストの夕日に象徴されることだと思う。 一日の終わり、すべてを赤く染める夕日が暮れていく。その美しい光景を見て、感動しない人間なんていない。  その絶対的な普遍さの中にいつもある“感動”を、ただただ真っ直ぐに描き、映し出した映画である。 そこに、映画の試みとしての巧さなんてなく、不器用もいいところだと思う。  ただし、その不器用な試みは、圧倒的に正しい。 
[DVD(邦画)] 8点(2009-04-13 17:10:50)(良:6票)
11.  マン・オブ・スティール 《ネタバレ》 
プロローグ、“父親役”のアカデミー賞俳優が、ドラゴンにまたがり、過剰なまでのスペクタクルシーンを画面いっぱいに目の当たりにした時点で、“一抹の不安”は生じていた。 以降、「あれ?なんだかノリキレナイ?」という感覚が確実に蓄積し、結局そのままエンドロールを迎えてしまった。  ザック・スナイダーが描き出したビジュアルは流石に凝りに凝られている。 タイトルからもストーリーテリングからも“スーパーマン”という名詞を極力排した新しい世界観に対して、期待感と高揚感が溢れた。  “ノリキレナイ”この映画に足り得なかったことは単純。それはずばり「娯楽性」だと思う。  「ウォッチマン」の監督と「ダークナイト」の監督とが組んで生み出されたヒーロー映画において、分かりやすい娯楽性が強調されないであろうことは必然であり、観客としてもダークで新しい世界観を期待した部分は大いにある。  実際、映画は、主人公の「出自」と「能力」、そして「運命」を軸にして、「どう生きるべきか?」ということに延々と焦点を当て続ける。引き込まれる要素は多分にあったし、概ね製作者の意図通りの映画に仕上がっているのだろうとも思える。  しかし、圧倒的に物足りない。 結論として辿り着いたことは、他のヒーローならいざ知らず、「スーパーマン」にだけは突き抜けた「娯楽性」が必要不可欠だったのではないかということだ。  過去作に対して、まったく異なる設定やストーリー展開を見せるのであれば、センシティブでリアリティ重視な表現に対してもう少し納得が出来たかもしれない。 しかし、何だか込み入った描き方はしているが、根本的な描写は、1978年のオリジナルと結局のところ同じであり、それであれば過剰な現実主義は、ただまどろこしく感じるばかりである。   ヒロインをはじめとする市井の人々が絶体絶命のピンチに陥る。 そこに弾丸よりも速く強いスーパーヒーローが颯爽と現れて問答無用に彼らを助ける。 「スーパーマン」は、彼だけは、それでいいのだと思った。   最後にもう一つだけ。 冒頭から大立ち回りをするスーパーマンの実父役のラッセル・クロウだが、こんなに露出が多いのなら、むしろ、彼を悪役に配した方が良かったように思う。 久々に見たケビン・コスナーが育ての親役を好演していただけに、わざわざ新旧スター俳優同士で“父性対決”を見せる必要はなかったと思う。
[映画館(字幕)] 5点(2013-09-18 00:03:17)(良:5票)
12.  チーム・バチスタの栄光 《ネタバレ》 
正直、「愚作」という言葉を否定することができない。 昨年原作を読んで、現役医師によるライブ感とリアリティのある描写による秀逸な医療サスペンスに感嘆し、映画化が楽しみな小説の一つだったのだけれど、ものの見事に“医療ミス”が起こってしまっている。  そもそも、主人公の田口医師の設定を女性にしたのはどういうわけか? 大学病院の出世コースから遠く離れたある種のアウトロー性を持った落ちこぼれ講師が、病院の花形である“チーム・バチスタ”の内部調査をしていくという不相応さが、先ずこの物語の面白味であったはずだ。それなのに、主人公をただ単にのほほんとした柔和な神経内科女医としてしまったことで、物語自体が非常に“ゆるい”感じになってしまっている。  もう一人の主人公である厚生労働省の変人役人白鳥の設定もおかしい。 元々、特異なキャラクター設定であることには違いないが、そこに必要なのはあくまでもリアリティであり、「もしかしたらこんなエキセントリックな役人もいるかもしれない」という現実味のある面白さがなければ、現実的な医療現場を舞台にしている以上、ストーリーとして破綻してしまう。 原作では白鳥は「厚生労働省大臣官房秘書課付技官・医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室室長」という馬鹿みたいに長々しい肩書きを披露するのだが、彼のキャラクター性のユニークさはそういう部分で、突如ソフトボールの試合に現れて大ホームランを打つなどという安いインパクトは必要なかった(そもそも主人公がソフトボールに興じているという設定が意味不明だ)。  高階院長以下その他のキャラクターについても原作に対して人間描写が薄すぎて、物語の核心であるチーム・バチスタ内の人間関係や医療現場の問題性がほとんど伝わってこない。 主人公の田口医師、そして“ロジカルモンスター”白鳥が、チーム・バチスタに対して行う“ヒアリング”によってそれぞれの人間性が見えてくるくだりこそ、この物語の“キモ”であり、面白味であるのに、その描写が軽薄では話にならない。  考えれば考える程に「粗」が見えてきて仕方がない。映画化においてどういうイメージをもって製作が進んだのか知る由もないが、監督の抜擢から脚色、キャスティングまでもう少しまともなセンスを保てなかったものか。 売れた原作をただただ安直に映画化しただけの出来映えが残念でならない。 
[映画館(邦画)] 1点(2008-02-10 16:31:30)(良:5票)
13.  Love Letter(1995)
数年ぶりに「Love Letter」を観て、映画の中の登場人物たちと同様に、記憶が揺り動かされながら、幾度目かの感動に包み込まれた。  中山美穂が一人二役を演じるこの映画は、彼女が演じる二人の女性、渡辺博子と藤井樹が主人公である。 数年ぶりの鑑賞で、この二人の主人公の存在感と、ストーリーにおけるバランスが奇跡的なまでに絶妙であることを改めて感じ入った。  「拝啓、藤井樹様。お元気ですか? 私は元気です。」  という主人公(渡辺博子)が亡き婚約者に送った手紙の一節は、そのままクライマックス(トヨエツが言うところの“いっちゃんええとこ”)におけるエモーショナルな感情表現として使用される。 彼女は、届くはずのなかった手紙のやりとりを通じ、それをきっかけとして、ようやく塞ぎ込まれていた自らの感情を吐露し、解放することができたのだ。  そのクライマックスまでの大筋だけを表面的に捉えると、この映画の主人公は渡辺博子に見えるだろう。 だが、そこに藤井樹というもうひとりの女性の人生と記憶が重なってくることで、この映画はまさに奇跡的な物語を紡ぎ出す。  わけの分からぬ手紙を受け取ったことから、主人公(藤井樹)は、遠い記憶の中の或る男子の眼差しと、自らの人生における「死」にまつわる思い出に再会する。 徐々に蘇っていく記憶は、光となり、熱となり、痛みとなり、彼女を覆い尽くす。  失った大切な人物の記憶を辿る物語から、失ったことすら気付いていなかった記憶を取り戻す物語が、連なり、並走する妙。 普遍的な「死」と、奇跡的な「邂逅」が織りなすその物語は、25年という年月を越えて変わらず僕を包み込んだ。  今の時代に、このストーリーを紡ぎ直そうとも、成立しない要素は多い。 卒業アルバムの住所録も、図書室の貸出カードも、インスタントカメラも、あるいは「手紙」すらも、過ぎ去りし時代に取り残されたエッセンスだろう。 ただ、だからこそ、この映画が描き出しているものはもはや永遠なのだろうと思う。  時の流れの中で埋もれていた記憶は、ふいに顔を出し、感情を揺さぶり、光り輝く。 僕にとってこの映画は、そういう「記憶」そのものだ。
[ビデオ(邦画)] 10点(2003-11-18 14:23:45)(良:5票)
14.  ロッキー
映画鑑賞が趣味だと言って、何千本の映画を観ていたとしても、当然ながらその全てを観られるはずも無く、絶対的な名作にも関わらず、未鑑賞の作品が多々ある。 「ロッキー」もまさにそういう作品群の中の1本だった。(ちなみに「ロッキー4」は観ている……)  「圧巻」だった。 有名すぎる映画なので、未鑑賞であってもラストの顛末に至るまで大体のストーリーは知っていた。 驚くべきは、それにも関わらず、まったく予想外のドラマを見せつけられたことだ。  もっと分かりやすい主人公のアメリカンドリームを描いた映画だと思い込んでいた。 が、実際に描きつけられていたのは、不遇な環境と自分自身に対するコンプレックスからの脱却に対する飾り気の無い「願望」だった。 そこには、大義名分もなければ綺麗ごともない。ただ幸運に恵まれたチャンスを生かし、現状から抜け出したい。 もっとあざとくいえば、降ってわいたラッキーをものにして、名声を得て、幸福を掴みたい。  ひたすらにその思いしかない。だから凄い。 ストーリーをもっと盛り上げようと思えば、いくらでも感動的な要素を加えられたはずである。だが、敢えてそういう安直な“創作”を加えず、無骨に鍛え上げられた肉体のように、物語が研ぎすまされている。  これはまさに、シルヴェスター・スタローンという映画人のドキュメントなのだと思う。 オーディションに落ち続け、日銭をかせぐ毎日だったスタローンが脚本・主演を務め、一躍スターダムにのし上がった様は、まさしくロッキー・バルボアそのものである。  「自分の夢で名声を得たい」というロッキーとスタローンの思い。 そこにあるものは、決して綺麗ごとだけでは済まされてない野心に溢れた強かさだ。 だからこそ、この映画は長年色褪せることのないリアルなエネルギーに満ち溢れている。  だから知っていたラストシーンを初めて観て、涙が溢れた。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2009-12-28 15:58:24)(良:5票)
15.  桐島、部活やめるってよ
上映が終わり手洗いに行った。鏡にうつる自分の顔をまじまじと見て、「老けたな」と思った。 そりゃそうだ。三十路を越え、結婚をし子供までいるんだから、ついさっきまでスクリーンいっぱいに映し出されていた高校生たちの“若さ”が、今の自分にあるわけはない。 あるわけないのだけれど、入り乱れる彼らの思いは、もはやうすぼんやりとし始めている記憶の甦りと共に、自分の感情の中に入り込み身につまされた。  きっと誰しもが、この映画に映り込む高校生たちの“誰か”と同じ“立ち位置”で、生活をしていたはずだ。 それが誰であったかなんて事は重要ではない。重要なことは、誰しもが「高校」という奇妙な「階級社会」においていつの間にか与えられた立ち位置で、もがきながら生きたということであろう。  高校生は大変だ。時に過酷なまでに。 それに対して一部の大人は、「実社会の荒波の厳しさ」を安直に強調するのかもしれない。 しかし、そんなものは比較の対象にはならない。 限られた経験値、限られた世界の中で、盲目的に自己を顕示し、また抑え込む。それをひたすらに繰り返し、葛藤を繰り返す。 それは先が見えない暗がりを、時に孤独に、時に手を取り合い歩んでいくようでもある。  でも、だからこそそこには、何にも代え難い輝きが存在する。 葛藤の果てに、「こいつら全部食い殺せ!」と高らかに言い放った映画オタクの主人公は、結果として何かを得たわけではない。 しかし、何も選び取れずフラフラと自分の成すべきことを定めきれずにいた幽霊野球部員は、逆光を背にした映画オタクが眩しくて直視できなかった。  それは、高校特有の歪なヒエラルキーが生み出した「光」だったのか「影」だったのか。  人それぞれ、誰に感情を移入するかで、この青春映画の「感触」は大いに異なるのだろうと思う。 面白いと思えるかどうかも、実際人それぞれだろうし、それでいいと思う。 ただ、きっと多くの人が、この映画を観て、自らのあの“限られた世界”で過ごした日々のことを思うだろう。 それだけで、この作品は青春映画として明らかな傑作と言える。
[映画館(邦画)] 10点(2012-08-26 00:37:16)(良:5票)
16.  インシテミル 7日間のデス・ゲーム
“くだらなくて面白くない映画”であることは、容易に想像できた。そして、想像通りに“くだらなくて面白くない映画”だった。 「観る価値もない」というのは映画ファンとしての全うな意見だろうが、観ていないのに「面白くない」と断ずるのも、映画ファンとして違うように思う。なので観た。  何でも良いので「予想外」のものを見せてくれないかということが、一抹の望みだった。 しかし、ストーリー展開と顛末、俳優の演技、映像、音響、編集……、映画を象るすべての要素において、「予想外」と表せるものは何一つ無かった。残念ながら。  予想された舞台設定に、予想されたストーリー展開が繰り広げられ、俳優たちは予想通りの演技をしていた。 むしろ、予想よりも遥かにストーリー性に深みは無く、「強引」とも言えない整合性の無さに呆れる程だった。 登場人物たちの描かれ方があまりにチープで、すべての言動に説得力が無く、故に恐怖シーンにも恐ろしさを覚えない。  面白くないことを予想していた映画に対してくどくどと酷評をしてもしかたない。 けれど、もう一つだけ言いたいことは、“美術”の酷さだ。 こういった突飛な世界観を描いた日本の低レベルな娯楽映画にはよく見られることだが、舞台となる建物の造形やポイントとなる様々な小物のクオリティーが、なぜこうも低いのだろうと思う。 あんな“ハリボテ”感満載のセットを見せられて、緊張感を持てというのはそもそも無理な話だ。  大手芸能プロダクションが、所属する俳優たちを寄せ集めて安直な「企画」を繰り広げただけにしか見えない映画だ。
[地上波(邦画)] 0点(2011-11-04 15:39:29)(良:5票)
17.  アウトレイジ(2010)
タランティーノばりに馬鹿馬鹿しい映画だなと思った。勿論褒めている。 ヤクザが雁首付き合って罵り合い、殺し合い、血みどろになる。ただそれだけの映画だと言って良い。 それだけで面白いのだから良いのだと、映画作品そのものが堂々と居直っているように見えた。  “タランティーノばり”と言ったが、この映画が彼の映画を模倣しているという意味ではもちろんない。 それはむしろ逆で、映画オタクであるクエンティン・タランティーノが愛し憧れた日本映画の姿が、この映画に久方ぶりに現れたと言った方が正しい。 つまりは、世界中の映画ファンが“観たい日本映画”とは、体裁ばかりに無駄に大金を投じて中身がスカスカの恋愛映画やSF映画などではなく、“切った張った”の血みどろ映画であるということに他ならない。 この映画は、「ヤクザ映画」というかつて日本の娯楽映画のメインストリームに確かに存在し、日本が世界に対して、アニメ映画と怪獣映画以外で勝負し得た確固たるエンターテイメントの“再構築”だと思う。  「全員悪人」というか、「全員愚か者」と断言できるキャラクターを、そうそうたる俳優陣がそれぞれ抜群の存在感をもって演じている。 彼らのパフォーマンスは皆過剰なまでに仰々しく、決して今の時代において「リアル」なんてことは言えない。 ただその演出は間違いなく正しく、非現実感も含めこれこそが「ヤクザ映画」におけるエンターテイメントだということを高らかに宣言しているようだった。 そういう明確な意志を持って、総愚か者を演じたキャスト全員が素晴らしかったと思う。 また鈴木慶一によるスタイリッシュだがどこか冷酷なまでの軽薄さを感じる音楽も良かった。  それらすべてを導き出した北野武という映画監督は、やはり映画に愛されているのだなと感じた。昨今、ありとあらゆるお笑い芸人がこぞって映画監督に“腰掛けている”が、彼らとは映画に対するスタンスから何から総てにおいて明らかに次元が違うということを改めて思い知った。  “こういう映画”として殆ど文句のつけようは無い。が、敢えて言わせてもらうならば、 椎名桔平の最期酷過ぎるよ、バカヤロー!コノヤロー!続編も期待大だよ、コノヤロー!
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:13:13)(良:5票)
18.  バイオハザードV リトリビューション
アリスの“半裸”拘束衣の復活、ジル・バレンタインの“胸チラ”コスチューム、エイダ・ウォンの“美脚”スリット……それらの要素があるだけで、このシリーズ最新作は少なくとも前作は超えていると言っていい。 敢えて大真面目に言わせてもらうが、ストーリーの整合性とかアクションのありきたり感以前に、前作に欠けていたものは、「エロさ」であった。  長い映画史においても、女性が主人公のホラー映画やアクション映画の傑作には「エロさ」が欠かせない。 このシリーズの第一作「バイオハザード」では、“脱ぎたがり”のミラ・ジョヴォヴィッチを主人公に起用したに相応しく、彼女の“半裸”で始まり“半裸”で終わるからこそ、素晴らしい娯楽映画に仕上がったと言っても過言ではない。 語弊を恐れず言わせてもらうならば、「エロさ」即ち「女性の美」は、それだけで映画の「娯楽」になり得る要素だと思う。  だから、そういう要素が部分的であれきちんと組み込まれている今作は、娯楽映画の方向性自体は間違っていないと言える。  しかし、だからと言って手放しで褒められる映画ではないことは、前々作くらいから明らかで、粗や突っ込みどころを挙げればきりがない。 整合性などは端からなくて、そういうことを気にしていると観られたものではないし、それに憤慨することが目に見えているのならば、観るべきではないだろう。  ここまできてこのシリーズの最新作を映画館まで観に行く人なんていうのは、もはや“ジャンキー”であり、面白くないことは分かっていても、映画館で観なければ気が済まなくなっているのだろう。  せめてもう少しカタルシスを感じられれば、手放しで喜べたとは思う。 あまりに工夫がなく、そもそも破綻してしまっているストーリー展開には呆れるばかりだが、そういうことは容易に予想できたにも関わらず映画館に足を運ばせ、こうなったら続編も観に行くと心に決めさせるこのシリーズの“麻薬性”は大したものだ。続編をどうせ作るんなら、来年くらいにさっさと公開してほしい。  取り敢えずは、最低限備えた「エロさ」に対して及第点。  あ、それと、復活したミシェル・ロドリゲス嬢の相変わらずの腕っ節と、あまりに珍しい女子大生演技のギャップには、もちろん萌え。
[映画館(字幕)] 6点(2012-09-18 23:59:20)(笑:1票) (良:4票)
19.  ゴジラ-1.0
「恐怖」が、戦後直後の復興途中の東京を蹂躙し、街を“再び”焼き尽くす。 たった一発の絶望的な熱線により、「生活」のすべてが吹き飛び、巨大なきのこ雲が立ち上る様を呆然の見上げるしか無いその“無慈悲”は、まさしく本作の映画世界でこの国が経てきたばかりの悲劇の再演であった。 突如現れた畏怖の象徴を目の当たりにして、立ち尽くす“日本人”の視線は、恐怖感や絶望感を超えて、諦観しているようにも見え、その様が事程左様に無慈悲への拍車をかけていた。 “恐怖の化身”という言葉がそのまま当てはまる大怪獣に対する畏怖の念は、1954年の第1作「ゴジラ」、そして2016年の「シン・ゴジラ」に勝るとも劣らないシリーズ随一のものだったと、まず断言したい。  1954年の「ゴジラ」第1作目から70年、国内製作の実写版としてちょうど30作目となる本作。過去のシリーズ作全作、ハリウッド版やアニメ版も含めてすべて鑑賞してきた“ゴジラ映画ファン”である自分にとっても、確実に五指に入る傑作だった。 正直なところ、7年前の「シン・ゴジラ」があまりにも大傑作だった故に、もうこれ以上ゴジラ映画を製作することは難しいんじゃないかと思っていた。 今年、新作が公開されるという情報を見聞きしても、期待感はそれほど膨らまず、ギリギリまで高揚感も高まらなかった。 山崎貴監督は、その懸念と軽視をものの見事に吹き飛ばし、蹴散らしてみせたと思う。  自らの得意分野であるVFXによる圧倒的ビジュアルを駆使して、観客を映画体験を超えた“ゴジラ体験”に引き込んでみせたことが、成功の最たる要因だろう。 これまでのシリーズ作においても、伝統的な特撮技術や、先進的な撮影手法による魅力的なゴジラ造形や映像世界の構築は多々あるけれど、そのどれよりもゴジラを巨大に、そして“間近”に見せていると思えた。 ゴジラの巨躯と対峙する登場人物及び、我々観客との圧倒的に短い距離感こそが、この体験のエキサイティング性を際立たせているのだと思う。  そしてゴジラが登場する映画世界の舞台を1947年にしたことも的確だった。 過去作でいくつも昭和の日本描写をクリエイトしてきたこともあり、その精度も最大級に高まっていた。精巧な映像世界の“創造”ができるからこそ、それを“破壊”することにおいても極めて高いクリエイティビティを発揮できているのだと思う。  昭和時代の人間模様を描いたドラマとストーリーテリングには、この監督らしい懐古主義をいい意味でも悪い意味でも感じ、台詞回しや演出プランには、ある種のベタさやオーバーアクト的な雰囲気も感じたけれど、その点も“昭和のゴジラ映画”へオマージュを含めたリブートと捉えれば的確だったし、印象深い演技シーンも多かった。 神木隆之介の華奢な主人公感、浜辺美波の圧倒的に美しい昭和女優感、吉岡秀隆の一瞬イカれた目つきを見せるマッドサイエンティスト感、佐々木蔵之介の分かりやすくべらんめえ口調な江戸っ子感等々、愛すべきキャストのパフォーマンスが、本作への愛着を高める要因となっている。   一つ一つの台詞に対する丁寧な伏線回収や、クライマックスの作戦終盤において熱線放射寸前で発光しているゴジラを海中に沈めることで状況をビジュアル的に認識できるようにした工夫など、本作は努めて“分かりやすく”製作することを心がけている。 ストーリー展開や登場人物の心情の少々過度な“分かりやすさ”は、世界のマーケットも見据えた本作の明確な製作意図であることは間違いない。  私自身、ハリウッド版ゴジラの各作品や、国内で制作された“アニゴジ”の3部作、Netflix配信のアニメシリーズ「ゴジラ S.P」の鑑賞を経て感じたことは、世界的なカルチャーアイコンとなった「ゴジラ」に対しては、ファン一人ひとりにおいて「観たいゴジラ映画」があって良いということ。 そして、“ゴジラファン”を経て、クリエイターとなった一人ひとりにおいても、「ゴジラ」をテーマにしたストーリーテリングは、自由闊達にその可能性を広げて良いということだ。 そのためにも、日本国内のみならず、より広い世界のターゲットに向けて、改めて「ゴジラ映画」の魅力を提示し、新たな展開に繋げていくことは、ともて意義深いことだと思う。  「映画作品」としての質や価値を主眼にするならば、本作は1954年「ゴジラ」や、「シン・ゴジラ」には及ばないかもしれない。 ただし、世界中の人々が愛することができる「ゴジラ映画」として、この作品の立ち位置はまさしく一つの「最適解」だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-11-04 23:39:30)(良:5票)
20.  ラ・ラ・ランド 《ネタバレ》 
夢に憧れて、夢を持ち、夢を見て、見て、見続けて、ついに夢を叶えた時、夢は終わる。 それは、二人が踊ったマジックアワーのように、限られたものだからこそ、美しく、何にも代え難い。  「LA LA LAND」とは、文字通りロサンゼルス、特にハリウッドを指す言葉である。 そこには夢に取り憑かれ、夢に浮かれるあの街と、そこに住む“夢追い人”の様を揶揄する意味合いも含まれるらしい。 しかし、そんな“周囲”のフツーの価値観などは百も承知。或いは愚かだろうが、浅はかだろうが、跳ね除け、歌い飛ばし、踊り飛ばす。 そんな“夢追い人”として生きようとしている人、または生き続けている人々の「気概」が、このミュージカル映画のタイトルには込められているように感じた。 もちろん僕はハリウッドには行ったことすらないけれど、少なからず何かしらの夢を持ったことがある人間の一人として、彼らのその気概と、必然的に伴う現実の切なさに対して熱くならずにはいられなかった。  そして、夢に生き、一つの夢の終わりを見届けた二人の或る終着点に、刹那的な美しさと、堪らないエモーションを感じずにはいられなかった。 ラスト、別れた二人が邂逅した時、まるで在るはずのない走馬灯のように、彼らが“辿らなかった”人生模様がめくるめく。 そこにはファンタジーのような多幸感が満ち溢れ、これでもかと我々の胸を締め付ける。 他者を遮断し、感慨にふける二人。しかし、彼らの表情に後悔はまったく感じない。 選ばなかった人生が多幸感に溢れていたとしても、それが「=幸福」ではないことを他の誰でもない彼ら自身が最もよく分かっているからだ。 夢を叶えて、夢の終着を見た二人は、そこに必ずしも幸福が付随しないことをとうに知っている。 そして、成就しなかったからこそ、美しさが永遠に保たれる事柄があることも。  この映画の主人公達の人生は、決して美しくはなく、褒められたものではないのかもしれない。 でも、夢を追い続けた彼らに後悔はない。いや、後悔などしていられないのだ。 “ファンタジー”を愛し、そして同時にそれを“非現実”だと認めること。 それこそが、あの場所で夢を追い求めるすべての“ロマンティストたち”に与えられた宿命であり、矜持なのだろう。  決してただ単に「夢」を描いてラララと楽しい映画ではなかった。 もちろんその楽しさと美しさも認めつつ、苦しさや醜さをもひっくるめて、現実と非現実の狭間で、“夢を追う”という生き方を力強く肯定しているからこそ、この映画は素晴らしいのだと思う。   故に、特にハリウッドで生きる「映画人」たちからの賞賛の場であるアカデミー賞においては、最高賞の栄誉に相応しい作品だったと思う……本来であれば。 こういう映画がすんなりと“No.1”に輝く時代になればいいのだけれど。
[映画館(字幕)] 9点(2017-03-09 23:39:25)(良:5票)

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