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1.  となりのトトロ 《ネタバレ》 
その細やかで美しい作画同様に宮崎駿監督は、牧歌的な風景の中を元気に飛びまわる姉妹の楽しい日常と、それでも彼女たちがどうしようもなく胸のうちに抱えている、母親の不在がもたらす不安とを、トトロというファンタジーを用いてとても丁寧につなげていく。「あの子たち見かけよりずっと無理してきたと思うの。サツキなんかききわけがいいから、なおのことかわいそう。」病室の母親が気遣うように、姉でありまたしっかり者のサツキには子どもながらに母の不在は自分が支えなくてはならないという自負がある。幼い妹メイを守るのはほかでもない姉の自分であり、父にも母にも決して心配をかけてはいけないのだという思い。「お母さん死んじゃったらどうしよう」一人胸に隠し持つそんな不安についに耐えきれず彼女が泣きじゃくるのも、自分たちを気にかけてくれる近所のおばあさんの前で一度きりだ。暗い森のバス停でメイといっしょにお父さんを待つ夜。不安に手を握りしめる妹と、反対に大人のように強く平気なふりをしなければならない姉。けれど本当はサツキだって恐いのだ。妹を守るため限界まで背のびをつづけるサツキ。そんな彼女の小さな肩が「大人のふり」の重みにそれでもどうしようもなくつぶされそうになる時、神出鬼没に見えるトトロだがサツキの前に彼が現れるのは決まってそんな時だ。何をしてくれるわけでもない、ただ心強くそばにいてくれる、あるいは猫バスを貸してくれたりする。なかでもことさら素晴らしいのは、夜の庭で空を飛ぶシーンだ。大喜びで真っ先にトトロにしがみつくメイとは対象的に、大人でいなければならないサツキには無邪気にそうすることができない。とてもさりげないその描写のけれどなんと繊細なことか!促すように見つめ返すトトロにサツキはやっと理解する。今この瞬間だけは、自分も子どもでいていいのだと。背のびをやめてもいいのだと。そしてその時やっと、彼女は子どもとしての等身大の自分に戻る。ありのままの子どもの顔で、幼い妹のように夢中でトトロにしがみつく。それはそれはうれしそうに!そんなサツキの姿はまた、大人として当たり前に大人であらねばならない我々の姿でもあるのだろう。サツキがトトロにしがみつく時、我々もまたつかのま子どもに還って、思いきりトトロにしがみつき、そして夢のように夜空を飛ぶのだ。
[DVD(邦画)] 9点(2009-07-30 00:53:56)(良:12票)
2.  時をかける少女(1983) 《ネタバレ》 
芳山和子は大林監督の理想の少女だったのだろうか。彼女のきれいな言葉遣いや遠慮がちながらも清く正しいその所作は、旧き佳き時代の日本的美しさを湛えている。同級生である深町君の家で雨宿りする際にも、雨から逃れる性急さの中で出来る範囲で、彼女は靴を入船ではなく出船に揃え、さらには彼の靴までそっと直したりする。その美しさ!80年代とはとても思えない古い町並みの尾道と、そこに閉じ込められたかのような少女、芳山和子。ドタバタ喜劇を中心に描くことが多い大林映画だが、『時をかける少女』では喜劇色は岸部一徳と根岸季衣のネクタイをめぐるコミカルなやりとり程度にとどめられ、一貫して儚げな和子の沈んだそのたたずまいを捉えることに終始する。尾道三部作の中でも本作がどこか異彩を放つ印象なのはそのせいだろう。あまりに作りものめいた星空や、せっかくのクラシックな雰囲気を台無しにせんばかりのタイムリープの特撮、深町君の冗談のような台詞回し、ラストの美しくもかなしい余韻を断ち切るほどの可愛らしいミュージカル的エンディングなど、大林宣彦を大林宣彦たらしめている大林映画ならではの彼のその破壊的こだわりが、『さびしんぼう』の前半部分などと同様に本作の喜劇部分であるとも言えるのだが。そんな子供騙しに凝らした意匠の裏で彼がそれでも真摯に描くのは、未来人が拝借したささやかな傷の記憶が結ばれるはずだった二人の頼りなく幼い恋を引き裂く無情、書き換えられた恋でもその気持ちはうそではなかったと涙する少女の痛み、そして愛したその思い出すらもまるごと消し去られてしまうことの残酷さだ。冒頭のタイトルバックで描かれる障子越しに俯く和子のシルエットは、内気な少女のとまどいやためらいと同時に、指の傷を見つめる彼女の失われた初恋の姿でもある。拙く荒唐無稽な物語世界に潜む、そんな遠い日の痛ましい初恋がたまらなく胸を刺す。芳山和子を演じた原田知世は大ヒット曲である本作の主題歌『時をかける少女』を、今の私の歌ではないとして長い間封印してきたという。彼女がアレンジを変えつつもこの曲を再び歌うようになったのは、映画のラストで描かれる1994年どころか、ごく最近のことである。演じた原田知世までもを四半世紀に渡ってそこに封じ込めてしまうほどに、大林宣彦は忘れがたい少女像をこのフィルムに焼きつけたのだ。 
[DVD(邦画)] 10点(2009-07-26 17:28:20)(良:6票)
3.  マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ 《ネタバレ》 
魔法をかけられたみたいに回をかさねて観れば観るほどに大好きになっていく不思議な映画だ。主人公イングマルはまだ子どもなのに、決してさびしいとは言わない。悲しいとも言わない。人工衛星に乗せられて死んだライカ犬や新聞で読んだ不幸な事故に遭った人たちと比べて自分は幸せだ、とただ思うだけだ。それは悲しみをやり過ごす手段というよりも、それこそが、彼にとってできるただ一つの悲しみの表現だからだ。だから、ライカ犬を思う時、それはつまり彼が年相応に泣くことすらできない時なのだ。それがなんともたまらない。両手を広げてむかえてくれるやさしいおじさんおばさん、友だち、そんなあたたかい村の人たちに囲まれて、笑ってはいても彼はいつもどこか所在なさげだ。彼にとっては、どんなに恵まれていようがそこは本当の居場所ではないのだ。彼が行きたい場所は、浜辺でのでんぐり返りに笑ってくれた母親とのまぶしい光景の中にしかない。そんな彼がはじめて泣きわめき、庭の東屋に立てこもるエピソードは、彼が等身大の自分に還るために必要な通過儀礼でもあったのだろう。人工衛星のような闇夜の東屋で、彼は何を思ったのか。やがて朝が来てライカ犬とは違い無事帰還をはたしたイングマルが見つけたのは、あらかじめ用意されていたその場所こそが自分の本当の新しい居場所であるということ。彼はもうライカ犬と自分を比べたりはしないだろう。悲しい時は悲しいと、さびしい時はさびしいと、言うだろう。自分の手でようやくそんな居場所を勝ちとったイングマルが遊び疲れてソファでうたた寝するラストシーンは、戦士のつかの間の休息のようで、ほほえましくも、とてもたくましい。
[DVD(字幕)] 10点(2009-07-23 21:56:37)(良:5票)
4.  下妻物語 《ネタバレ》 
下妻と代官山の往復はちょっとした小旅行だ。そんな一人旅もステキなお洋服のためなら桃子にとって苦にはならない。彼女してみればむしろその距離は、誰にも邪魔されることなくロココ時代のおフランスに思いを馳せ、うっとりと夢見心地でいられる至福の時間ですらあったかもしれない。しかしイチゴと二人出かけた代官山から(水野晴郎のせいで)一人下妻へと帰らねばならなくなった桃子に、唯我独尊を突き進むいつものパワーは無い。それは至極単純な、けれどおそらく桃子にとっては革命的な、さびしいという感情だ。あの子がいなくてさびしい、という気持ち。そのさびしさは幸福の裏返しでもある。出先でケンカ別れしても結局は同じ駅に戻ってくる、別の電車で先に帰り着きながらも雨宿りを装い自分を待っていてくれる、かけがえのない友だちがそこにいてくれる幸福。このすばらしき幸福を前に桃子は、かつて家を出て行く母に幼い彼女自身がうそぶいた人生哲学そのままに、臆病に立ちすくむ。そんな桃子を一点の曇りもなく信頼し、大切な宝物=特攻服を託すイチゴ。そしてそのイチゴの宝物を胸に、自分の宝物=BABY, THE STARS SHINE BRIGHTのお洋服が濡れるのも構わず雨の中へと飛び出して行く桃子。意を決し今まさに幸福へと踏み出す桃子のその一瞬の後姿を、中島哲也監督は心憎いストップモーションで、ほんの少しだけ引き延ばす。一方、「会いたいよ」とガラにもなく弱音を吐く桃子のためなら地球の裏側まででも原付で駆けつけるイチゴ自身は、桃子に自らの弱さを決して見せまいとする。借りは絶対に返す主義のイチゴとって、自分の弱さを他人に曝け出すことなど御意見無“様”な恥にほかならないからだ。そんなイチゴが最後の最後、ついに桃子に打ち明ける。借りは返さないと。あまりにデカすぎて返せるわけがないと。それはまるで愛の告白ならぬ、友情の告白だ。かけがえのない友だちが心強くそばにいてくれること、そんなデカい借りを一体だれが返せるだろう。思えば当初イチゴに語られた桃子の主義は、自分は返さなくていいものしか人に貸さないというものだった。つまりは貸すのではなく、あげるのだと。冷淡なロリータ娘のこのねじくれひねくれた思想が、いつしか一転、まっすぐに友情の真理を貫く。そう、友情は貸すものでも借りるものでもなく、ただ互いに、あげるものなのだ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-07-22 17:20:29)(良:5票)
5.  ラースと、その彼女 《ネタバレ》 
日曜日の教会で、主人公ラースは顔見知りの老婦人から、新しく町に来た若い娘マーゴにプレゼントするようにと、一輪の花を渡される。極端に内気なラースはマーゴを前にして、渡されたその花を明後日の方角へと天高く放り投げてしまう。心優しく繊細なラースにおよそ似つかわしくないその行動は、まさに、気になる女の子を前にした時の幼い男の子のそれだ。人を特別に意識する初めての気持ちにとまどうラースは、何をどうしたらいいのか、皆目解らないのだ。ビアンカが彼の家に「届く」のは、その出来事の直後だ。完全無欠の美女ビアンカとのロマンスと死別を、愛情とおかしみをもって綴るこのストレンジラブストーリーは、内気なラースが可愛いマーゴと向き合えるまでの彼の壮大な恋の予行演習でもある。ビアンカがラースを大人の男に成長させた偉大なる女性として、その役目を終えても、きちんと最期まで敬意をもって描かれ、さらに弔われるのが実にすてきだ。その上で描かれるLars and the Real Girl。リアルガールは勿論ビアンカではなく、マーゴだ。二人が見つめあうだけのささやかなデート。そんなありふれた恋愛映画のオープニングが、この映画ではエンディングだ。ようやく、そしてついに、はじまるだろう愛すべきラブストーリー。そのスタートラインに立ったラースと「その彼女」に、幸あれ!
[DVD(字幕)] 7点(2009-11-10 01:10:17)(良:5票)
6.  少年時代(1990) 《ネタバレ》 
戦時下における軍国主義的大人社会とその縮図として展開される子ども社会、そうした構図の見事さもさることながら、それ以上にすばらしいのは、少年期特有の幼くも常に真剣な彼らの感情やゆらぎをきちんとそこに写しとっていることだ。戦争のため都会から田舎へと疎開してきた少年の心もとない不安と、地元の少年たちが見せる他所者への軽蔑と畏怖いりまじる好奇心。少年社会における厳然たる階級と、ひそかに渦巻く野心。その中でもひときわ目をひくのは、ガキ大将武が主人公進二に見せる幼い恋にも似た複雑で入り組んだ感情だ。仲間内では高圧的にふるまう武が進二と二人きりの時にだけ見せる特別なやさしさ。自分自身わけのわからぬそんな感情にいらだつ武は、進二が上手だと褒めた零戦の絵を闇雲にぬりつぶし、時に無意味な乱暴さで進二を小突く。しかし反面、隣町で悪童たちに囲まれる進二のもとへと黒いマントをひるがえし駆けつける彼の疾走は、愛する者を守るため悪に立ちむかうヒーローのそれ、そのものでもある。秀逸なのはそれに続くシークエンスだ。追っ手から逃れ隠れた雪の納屋で子どもらしく小便する進二とその後ろ姿をただ見ている武のさりげなくも印象的なショットを経て、二人がその足で向かう写真館。再び湧き起こる厄介な感情に、武はやはりどうしようもなく進二を力でねじ伏せてしまう。そしてただただ涙をこぼすのだ。この一連の武の姿がたまらなく胸をしめつけるのは、それが彼の初恋の有り様にほかならないからだ。物語の終盤、クーデターにより失墜した武が頑なに進二を遠ざけるのは、ガキ大将として以上に幼い恋を前にした一人の男として、彼が敗北を喫した自分に厳しく課す、貫き守るべき最後の誇り、それがゆえだろう。トンネルのゆるやかなカーブにつれてゆっくりと彼方に閉じていく少年時代、やがてそれは写真館で撮った二人の写真へとつながる。身震いするほどにすばらしいラストシーンだ。飾られた写真の中の幼くも凛々しい二人。形にはなり得なかった、けれどもなにより確かなその思いの、なんと誇らしく美しいことだろう。たとえトンネルの向こうには二度と還れなくても、それはあの日の武のように誇らしげに胸をはり、確かにそこにあるのだ。輝かしくも傷だらけの少年時代の、そのかけがえのない勲章として。
[DVD(邦画)] 9点(2009-09-16 21:04:43)(良:5票)
7.  ソーシャル・ネットワーク 《ネタバレ》 
ガールフレンドとの噛み合わない会話で主人公の人となりを如実に示す導入が見事だ。主人公マーク・ザッカーバーグが如何に傲慢なティーンエイジャーであるか、そして自らのその傲慢さに如何に無自覚であるか、さらには彼が如何にコミュニケーション能力の欠落した孤独な嫌われ者であるかを、監督デイヴィッド・フィンチャーは、一見他愛のない冒頭の数分間だけで強烈に印象づける。ボストン大の学生なら時間を惜しんでまで勉強する必要もないだろうと悪気なく言う彼が、一目散に走り戻る名門ハーバード大の学生寮。フラれた腹いせにガールフレンドの中傷をブログに書き込むマークは、それが恥ずべき卑劣な行為であるなどとは夢にも思わない。自分を必要としない凡庸な人間への怒りと渇望、それこそが彼の持ちうるただ一つのコミュニケーション手段だからだ。悪趣味な女子学生の品評サイトも、それに続くSNSの立ち上げも、マークのそうした幼い承認欲求に基づく産物であるという意味では、本質は同じだ。欲求をあからさまにむきだしたブログや品評サイトは反発を食らい、欲求を包み隠したスマートなFacebookは万人に受け入れられた、両者の差違はただそれだけでしかない。彼の思惑どおり、驚異的なスピードで膨れ上がっていくFacebook。だがフィンチャーがここで真に見据え、そして描くのは、この若き天才青年によるサクセスストーリーの、奇型的なその裏側である。Facebookの爆発的成功とはうらはらに止めどなく空洞を拡げていくマークの青春と、その失敗。彼の不遜なまでの優越感と一方でその内に巣喰う巨大な劣等感は、まさに青春映画の構図そのものだ。 ウィンクルボス兄弟のようにボート部のエースとして活躍すること、あるいはエドゥアルドのように名門クラブから招待を受けること、そんなちっぽけな権威や名誉は、史上最年少で億万長者になったマークの成功に比べれば子どもだましな玩具のようなものだ。しかし誰もが羨む成功を手にしたこの孤独な天才が心の底で本当の本当に望んでいたのは、その玩具の方だったのかもしれない。ラスト、はじめて自分から痛切に友だちを求め「更新」キーをクリックし続けるマーク。皮肉たっぷりなビートルズのBaby You're a Rich Manが、負け犬の栄光と挫折を辛辣に祝福する。祈るように彼が見つめるモニターは、そして彼が見つめるその世界は、いつか更新されるだろうか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-18 17:33:04)(良:5票)
8.  キャリー(1976) 《ネタバレ》 
俯瞰で捉えたバレーボールコートから、ピノ・ドナジオの美しい旋律にのせて流麗に描かれるロッカールームまでの冒頭のその数分間で、ブライアン・デ・パルマ監督は主人公である少女キャリーの学校生活における孤独、性の芽生えへの罪悪感、さらにはのちにあきらかになっていく彼女をとりまくさまざまな異常な状況までもを、くっきりとそこに浮き上がらせる。初潮の恐怖に半狂乱となるキャリーを笑い者にするクラスメイトたち、それを阻止するひたすら高圧的な教師、キャリーの悲鳴に呼応して割れる電球、17才にして初潮をむかえてもその意味さえ知らされていないキャリーとその家庭環境。この最初のシークエンスにおいて端的に描かれるそれらは、すべてが彼女をとりまく複数の「異常」、その一つ一つなのである。そしてそのそれぞれの「異常」が、どこにも居場所のないこの孤独な少女をやがて袋小路へと複合的に追いつめていくこととなる。しかしこの物語の最たる悲劇は、そんなキャリーの力になろうと奔走する女教師やクラスメイトのその善意までもが、結果として後の惨劇を招く一端となってしまうことだろう。キャリーを守るため横暴な制裁を行ったがため反感を買った女教師は生徒たちに残酷な企てを計画させ、良心からキャリーをプロムに誘ったクラスメイトはあずかり知らぬところでその企みの渦中にキャリーを立たせてしまう。さらには、仕掛けられた罠からキャリーを救うべく駆け寄るそのクラスメイトを誤解した女教師は、皮肉にも同じキャリーを守らんとする善意により、間一髪の救いのその手を蚊帳の外へと閉め出してしまうのである。善意が善意を阻害し、バケツいっぱいの悪意だけが真っ逆さまにキャリーにふりそそぐそのシーンの徹底的な絶望は、まさにデ・パルマ映画、真骨頂だ。あまりに皮肉で痛ましく、そして途轍もなく悲しい。デ・パルマはいつも勝者になり損ねるアウトサイダーとその背中を描くが、この映画では悲愴な背中で家路を辿るキャリーがそれだ。彼女は口をあけて待ち受ける第二の悲劇をおそらく知っている。知っていてなお最後まで痛切に光を求めて母の胸に抱かれる。それが生きるということだからだ。キャリーはデ・パルマでありデ・パルマこそがキャリーだ。だからこそ彼はありったけの愛をもってキャリーを描き、そしてその屈折した愛ゆえに彼女を泣きながら殺すのだ。
[DVD(字幕)] 10点(2009-07-30 00:37:19)(良:4票)
9.  男はつらいよ 寅次郎相合い傘 《ネタバレ》 
雑多に盛り込まれるゲスト出演者やエピソードを巧く消化しきれず空回りすることも多い『男はつらいよ』シリーズだが、本作『寅次郎相合い傘』は、その中にあって桁違いの完成度を誇る奇跡のような一作だ。あらゆる登場人物が挿話が場面がそれぞれ見事に噛み合い、唯一無二のアンサンブルを織り成している。言うまでもなく渥美清がすばらしい。そして浅丘ルリ子がすばらしい。だが、それ以上に倍賞千恵子がすばらしい。添え物のように控えめに画面を彩る彼女はけれど、妹として姪として妻として母として友として、その時々にそれぞれの表情を見せる「さくら」という確固たる一人の人間として、ゆるぎなくそこに存在する。シリーズ全48作を通し、まるで定点カメラで撮影された花のように次第に萎れていった倍賞千恵子だが、スクリーンに刻んだそうした年輪の如き変化をも引っくるめ『男はつらいよ』にひたすら愛された彼女は、日本一幸福な女優だ。おそらくどのマドンナよりも。そして寅次郎を愛すればこそ一喜一憂する、とらやの面々。ある時は近所の人々の心ない噂を悲しみ、ある時はリリーとの夢物語を語る「寅のアリア」に聴き惚れる彼らの、家族としてのその表情の、なんという繊細さ!美しさ!店先で甘えるようにさくらの腰に抱きつく幼い満男や川原で虫を追いかけるその満男をさらに追いかける博の姿が、愛情に満ちた彼ら親子のその有り様をさりげなくも雄弁に語り、柴又の道端や寺の境内で遊ぶ子どもたちを捉えた他愛のないワンショットまでもが、この映画に温かい血を通わせている。さらにはメロンを巡る馬鹿馬鹿しい諍いから「相合い傘」へと至る一連のシークエンスのすばらしさ!子どもじみた寅次郎を一喝するリリーは、いつしか天涯孤独な身の上の客人としてではなく彼ら「すばらしき家族」のその一員として、そこにいる。そのことのなんという幸福感!東京の下町のケチな団子屋の、このささやかな家族たち。市井に暮らすつましい彼らのありふれた、けれどかけがえのないその瞬間瞬間を、映画は斯様に丁寧に切りとる。そうすることで山田洋次は人の世のすばらしき「幸福」を、そしてその美しさを、見事にここに描いたのだ。もしも何も知らぬ外国人に『男はつらいよ』とはどんな映画かと訊かれたら(そんな機会はまずありそうにないが)、私は間違いなくこう答えるだろう。happinessの映画だ、と。
[DVD(邦画)] 10点(2010-04-23 15:21:25)(良:4票)
10.  転校生(1982) 《ネタバレ》 
『転校生』のプロットはまさに画期的かつ奇想天外だ。だが本当に面白いのは、この突飛な設定に反し本作が実は一貫してオーソドックスな青春映画でありつづけようとすることだ。一美が一夫であり一夫が一美であるという彼らの身に起こる一大事は、言わば本人たちがただ勝手にそう主張し上を下へと大騒ぎしているだけに過ぎない。つまりは彼らがいかにハチャメチャな騒動を巻き起こそうと、映画はひたすらに何の変哲もないありふれた青春の、それゆえ美しい日々を、ただありのままに捉えるのだ。そんな風にして描かれるのは、だれしもがかつて学校の音楽室で耳にしたはずの入門編クラシックと、郷愁をさそう尾道の町並み、そしてそんなノスタルジアを背景に先述の二人がくりひろげるそれこそ古典的なまでのドタバタ喜劇。それらを奇を衒うことなく綴っていく大林宣彦監督のその視線はいつにも増しておおらかだ。彼が前作『ねらわれた学園』や次作『時をかける少女』では一転、角川映画の製作費を投じ大林印のきらびやかな特撮を駆使していたことを考えると、そうした特撮を徹底的に除いた本作のカラーは低予算ゆえの決断だったかもしれない。だが逆に言えばその英断ゆえ、本作は大林印に免疫のない観客層にも訴求する力を持つ作品となってもいる。一美役に起用した小林聡美がいわゆる大林印の美少女でないことも然りだ。主人公二人の内面だけに起こる目に見えない奇想天外、それを特撮もデコレーションも排したありきたりな風景の中でファンタジーとして体現できる女優は小林聡美をおいて他にいないだろう。「さよなら私」「さよなら俺」、手をふりあう一美と一夫。それは転校生とそれを見送る者とのセンチメンタルな別れであると同時に、子ども時代というファンタジーの終焉でもあり、さらには人知れず悩める思春期との決別であり、また、初めて意識しあった「異性」との別れでもある。望遠レンズでも追いつかないほどにどんどん小さくなっていく「俺」はいつしか「あなた」となって、別れに胸を痛めながら、それでも健気に軽やかなスキップでまたその先を進んでいく。そうして八ミリの中の豆粒のような斉藤一美は、消える寸前、ついに芳山和子や橘百合子に負けない大林映画の美しきヒロインとしてフィルムにくっきりと焼きつくのだ。「さよなら俺!」、やさしくささやくような一夫の、その言葉と共に。
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-03 03:05:57)(良:3票)
11.  クレイマー、クレイマー 《ネタバレ》 
お父さんとお母さんどっちが好き?と人に訊かれたら、私は迷うことなくお母さん!と答える子どもだった。父は毎日仕事で忙しく、顔を合わす機会も母と比べると極端に少なかったからだ。おまけにあの頃の父は、照れくささからなのか父親としての威厳を保つためなのか、わが子と親密なコミュニケーションをとるのが途轍もなく下手くそな人だった。そんな父の書斎の本棚にこの映画のパンフレットが大切に収められているのを見たのは、たしか小学生の頃だ。それ以来何度かテレビ放映を観逃しているうちに、私はいつしかお涙頂戴映画には拒絶反応を示すような生意気な十代になった。つまりこの映画は私にとって観る価値のないものとなったのだ。それ以来レンタルビデオ屋に行っても何百回と当たり前に素通りしてきた本作のDVDを、先日なぜか仕事場で貰うという奇妙な機会に恵まれた。そして観た。やはりお涙頂戴映画だった。私は泣いた。ダスティン・ホフマンにでもメリル・ストリープにでも可愛い金髪の子役にでもなく、この映画のパンフレットを東京の映画館から後生大事に持ち帰っただろう若き日の父に、泣いた。父は今も健在だ。だが父に似て親密なコミュニケーションをとるのが途轍もなく下手くそな人間に育った私は、このことを当の父には話せずにいる。父と子の関係なんて、たぶんそんなもんだ。だけどどれだけ照れくさくでもそれでも、そこにはちゃんと愛がある。お父さんとお母さんどっちが好き?と人に訊かれたあの頃、少しくらいは迷っておけばよかったなと、大人になった私はなんだかバカみたいだけれどそんなことを思った。
[DVD(字幕)] 7点(2010-07-22 17:23:29)(良:3票)
12.  告白(2010) 《ネタバレ》 
告白とは主観だ。そこには話者の思い込みや誤解、そして嘘が含まれる。つまり告白とは純然たる真実をありのままに語るものであるとは限らない。少年と少女が睦まじく戯れる同じ光景が、少女の告白においてはまぎれもない恋である一方、少年の告白の上ではくだらない暇つぶしに過ぎないようにだ。いびつな道路反射鏡や防犯ミラー、あるいは姿見に反転させて中島哲也監督が描くのは、そうしたこの世界の不確実さだ。窓外の風景は常に磨りガラスやカーテンにより遮蔽され、リアルから切り取られたその世界の上空には常に不純物としての雲が配置される。時に鈍色に時に茜色に空を蔽う雲は、まるで真実を不透明に彩る彼らの告白=嘘の暗喩のようだ。森口先生の娘を殺した修哉と直樹それぞれの嘘、直樹の母親の嘘、修哉の理解者たる美月の嘘、1年B組の教室に渦巻く嘘、さらには熱血教師ウェルテルの滑稽な存在意義それ自体の嘘。だが、無限の嘘で塗り固められたその箱庭を、中島は最後の最後に容赦なく爆破する。そうしてそこにただ一つの真実を強烈に叩きつける。それは、粉々に魂を砕かれる人間の、想像を絶する痛みと、断末魔だ。中島が『夏時間の大人たち』や『嫌われ松子の一生』で祈るように描いてきた、階段上の一室で両手をひろげて自分を待ち侘びてくれる、大切なだれかの愛情。修哉にとってのその階段が、愛が、木っ端微塵に破壊され焼失するさまは、まさに胸をえぐるばかりの壮絶さだ。愛する人に見せたかったくだらない発明品=逆回り時計によって甦る彼の切望した光景が、針を戻したこの装置に再び跡形もなく焼き尽くされるその地獄。牛乳に血を混ぜたと語る森口の告白を、美月の告白における森口が覆したように、時限爆弾の顛末もまた森口の嘘であったかもしれない。「あなた方は嘘をつくのが実に上手」だと生徒たちを評する彼女にとっては、その嘘こそを彼らへの復讐の刃とすることに大きな意味があるからだ。大切なものが消える音が私にも聞こえたと森口は言う。すさまじい形相で彼女が放つ爆発音は、あの夜プールサイドで彼女自身が聞いた、その音でもあるだろう。そうして森口が突きつける、本当の地獄。想像を絶するその痛みに自らも貫かれた時、少年Aはようやく森口と同じ地平に立つ。リアリズムの映画ではない。正しい映画でもない。だが、ただ一つの真実が、凄まじいその痛みが、観る者の胸をも木っ端微塵に打ち砕く。
[映画館(邦画)] 10点(2010-06-08 12:36:37)(良:3票)
13.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 
オスカーの栄誉に輝いた本作だが、お世辞にも上質な映画とは言い難い。ご都合主義的ストーリー展開は勿論のこと、せわしなく切り替わる画つなぎも、まるでMTVの出来損ないのような粗雑さだ。だがおそらくそれでいいのだろう。エンドロールの破壊的かつ感動的なミュージカルが示すように、本作は、オスカーよりもラジー賞こそがふさわしい、そんな壮大にして素晴らしい超一級のB級映画なのである。華やかなクイズ番組とカットバックして描かれるのは、主人公ジャマールがそこに至るまでの苛烈な運命だ。引き裂かれた初恋の少女ラティカの存在が象徴するように、運命のままあらゆるものを奪われるばかりだったジャマールの人生。スラムでことごとく奪われたそれらを懸命に取り返すかのように彼は解答者席で答えを導いていく。彼が生きていく上で学ばなければならなかった、だからこそあらかじめ知っている、つまりは過酷な人生と引きかえに彼が手にしてきた、なけなしのその答えを。自分の人生にまつわるクイズに一つ正解するたびジャマールは、スラムでの痛ましい日々のその一つ一つを、それでも価値ある答えへと変えていく。かけがえのない生の意味を、空っぽに思えた自分の人生に吹き込んでいく。悲しみのままに負ってきたたくさんの傷にも、一つのこらず肯定する意味があるのだと。そして観客たちの拍手や歓声が、まるでジャマールのその人生を讃えるかのように、力強く彼を包みこむ。ラストに至りようやくラティカを抱きしめるジャマールは、彼女の美しい唇より先に、その頬に刻まれた痛ましい傷に口づける。悲しい傷をも、生き延びた勲章としていとおしむように。そうして彼は野良犬のような人生を、それでも一心に信じつづけた愛を、逞しく力強く、何より誇らしげに、肯定するのだ。そしてお待ちかねのエンドロールだ。歌えや踊れやのバカバカしいミュージカルが、彼の人生を、生きることを、そして生き抜くことを、それはもう涙が出るほどバカバカしく全肯定する。この映画は素晴らしきB級映画だ。そして素晴らしき人生讃歌でもある。
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-10 00:00:33)(良:3票)
14.  さびしんぼう 《ネタバレ》 
映画の冒頭、主人公ヒロキはそのモノローグの中で、手の届かない女子校の生徒たちに過度な幻想を抱き、反対に女性らしい潤いのかけらもない母は子どもの頃から美しい夢など一度も見たことなんかないのだろう、と語る。ものごとの片側だけしか見えない夢見がちなそんな少年の前に、母親の隠されたもう片側の美しい夢(さびしんぼう)が形となって現れるという展開が秀逸だ。けれど彼にとっては見たくない側のさびしんぼうの存在は迷惑でしかなく、思いをよせる少女百合子にたいしても、ヒロキはそのもう片側を決して見ようとはしない。自転車を押しながら憧れだった百合子と歩く奇跡の中でさえ、いつも見つめていた自分の知る側の彼女だけを見ようとする彼は、恥ずかしいからと家の前まで送られるのを拒んだり、ありふれた口うるさい母親の話になぜかステキねとほほえむ百合子のもう片側に、気づくことができない。「あなたに好きになっていただいたのはこっち側の顔でしょ?どうかこっちの顔だけ見ていて。」別れの場面で少女は言う。その台詞は、それがヒロキの失恋であると同時に百合子の失恋でもあったことを意味している。ラストシーンのようにヒロキのかたわらに百合子がいる日がくるとすれば、おそらくそれはヒロキがもう片側をも抱きしめられる男になれたときなのだ。もう1人のヒロキが弾いてくれた別れの曲のメロディとその恋を一生忘れないと16才のヒロキに語る16才のままのさびしんぼう。邪険にあつかってきたそんな母親の悲しい片側をわけも解らずそれでもせいいっぱい強く抱きしめる彼の姿や、木魚ばかり叩いて何を考えているか解らない父親がもう片方の顔を見せて語る風呂場の台詞は、それゆえに熱く深く胸にしみる。極私的な意見だが、坂道で自転車に乗った橘百合子がすれ違うヒロキに見せるそのお辞儀の美しさは、時をかける少女で芳山和子が深町君の家の縁側で靴を揃えるシーンとならんで、大林映画のベストショットだと思う。秋川リサ先生の三度にも及ぶパンティーはワーストショットであるけれど。そしてそれもまた大林映画のもう片側だと言えなくもないけれど。
[DVD(邦画)] 10点(2009-07-20 22:51:59)(良:3票)
15.  さんかく 《ネタバレ》 
吉田恵輔監督は宮崎あおいの熱烈なファンであるに違いない、と推測してみる。宮崎との結婚で世間の反感を買った高岡蒼甫が扮する本作の主人公百瀬のキャラクターは、結婚騒動で高岡を逆恨みする宮崎ファンが憎き彼に抱くマイナスイメージそのものなのだ。ビッグマウスでナルシストのくせに器の小さいダメ男。女癖だって絶対に悪いに違いない。こんな奴が俺のあおいちゃんを幸せにできるもんかい畜生!という、やっかみ120%なイメージ。だが面白いのは、吉田監督(および観客)のこのどす黒い悪意を真っ向から受けて立つ当の高岡が 実に生き生きと、このいけ好かない軟弱男を演じ切っていることだ。不敵な面構えを見せた『パッチギ』での好演をも凌ぐ高岡の凄まじい本気っぷりは、演じるキャラクターに反してもはや清々しいほどだ。そして田畑智子。彼女もまた、 かつての天才子役というナメられたレッテルを、ここでついにぶち破る。田畑智子という役者をここまで見事に活かし、さらに神がかったそのポテンシャルを引き出した映画監督は、それこそ彼女のデビュー作『お引越し』を撮った相米慎二以来だろう。多少なりとも角のとれた感のあった前作『純喫茶磯辺』は別にしても『なま夏』『机のなかみ』と、吉田の意地の悪さはすでに折り紙付きだ。だが本作で吉田はさらにその上をいく。ラストシーン、田舎町の畦道にたたずむ男と女と少女のストーカー三角形。幕切れは女、佳代の笑顔だ。佳代=田畑の慈愛に満ちたその表情の何という 美しさ!だがこれは能天気なハッピーエンドなどではおそらくない。劇中、佳代にとっての「愛」は相手をうんざりさせるほどヒステリックに泣き叫びまた見苦しく追いすがるイタい行為として終始描かれる。ではそんな彼女が笑顔を見せる瞬間とは何なのか。自ら両腕を掻き切るほど必死で追い求めたその男の正体を前に、彼女は別人のように柔和にほほえむ。それは「百ちゃんがバカなのは知ってる」はずの彼女がついに真実を悟り、はたと我にかえる瞬間だ。怒濤の愛から醒め呪縛から解き放たれた彼女は、その時本当の意味で男のすべてを赦し、男のすべてを包み込むことができる。菩薩の如き慈愛は、裏を返せば女としての拒絶でもあるという残酷。美しい映像や照明に騙されてはいけない。柔らかく照らし出される田畑智子快心の笑顔。そのラストショットに、吉田恵輔は、愛が今まさに終わる無慈悲なその瞬間を描いている。   
[DVD(邦画)] 9点(2010-11-29 00:01:26)(良:3票)
16.  息もできない 《ネタバレ》 
主人公サンフンは見知らぬ女を執拗に小突いている男を殴り倒し、うずくまり怯える女の頬を今度は自分が叩きながら「お前は殴られてばかりでいいのか?」と問う。その直後、彼の後頭部めがけて振り下ろされる強烈な一撃。わずか数カットで主人公の生き様を示唆するこの冒頭から以降も、映画は幾度となくこうした「反撃」を繰り返す。反撃とはつまり暴力の連鎖だ。ヒロインたる不敵な少女ヨニとの出会いすら、彼女の勝気な平手打ちへの過剰な反撃として描かれる。だが、ひるむことなくこの暴力男と渡りあうヨニが彼に突きつけ求めるのは、反撃へのさらなる不毛な反撃などではなく、缶ビールの形を借りたささやかな詫びと落とし前だ。石段にならんで座る二人に流れる静謐は、サンフンの凶暴な人生哲学が初めてゆらぐその一瞬でもあっただろう。かつて暴力により家族を奪った父に「反撃」として制裁を加える彼にとって、暴力とは元来憎悪すべきものであったはずだ。殴る男(父)への憎しみから受動的に端を発した彼の暴力が、けれど次第に能動的衝動へと肥大し、かつての父のそれと相似形を描いていく恐ろしさ。その矛先は取り立て屋として訪れた先の債務者や手下の弟分に向かう。制裁を超えた私刑として下される父への「反撃」もまた然りだ。原題が示す「糞にたかる蝿」のように強迫観念にも似た暴力衝動に囚われ、自らこそが怪物となるサンフン。一方そんな彼にとっての菩薩となる、自分自身傷だらけのヨニ。互いの過去を嘆くでもなく胸に秘めたまま、夜の漢江のその畔で、痛々しい膿を搾り出すが如く涙をこぼしあうサンフンとヨニ。だが慟哭するサンフンに膝を貸し嗚咽をこらえるヨニが彼女自身の膿を出し切ることはないのだ。容赦のない連鎖の罰を受けながらも魂を浄化するように息絶えるサンフンと、その亡骸を前にやはり懸命に嗚咽を殺すヨニ。そして膿を吐き出せぬままの彼女が回想する、膿の元凶たる母の死。その余白にちらりと過る男の影がやがてくっきりと焦点を結んだ時、ヨニはサンフンの遺した幸福な光景と、等しく彼の遺した拭い去れぬ糞の痕跡、そのはざまに息を呑んで立ち尽くす。彼らのささくれだった魂がまるで閃光のように強烈に、フィルムにそして私たちの眼に焼きつく。恐るべき傑作だ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-05-13 17:20:14)(良:3票)
17.  誰も知らない(2004) 《ネタバレ》 
母は年端も行かぬ長女京子の爪にピンクのマニキュアを塗る。いいかげんなこの母にとってそれは悪ふざけの一環としての単なる遊びだっただろう。だが母のその気まぐれに、京子は顔をほころばせる。大人の女のように爪を赤く飾りたいから、ではない。そのマニキュアを塗れば自分も母とお揃いの爪になれるからだ。そして何よりも当の母が自分の手を取り丁寧にその「お揃い」を施してくれることに、京子は喜ぶ。だがこの至福に引き続き描かれるのは、手を滑らせ大切なマニキュアの瓶を床に落としたがため今度は母にこっぴどく叱られる彼女の姿だ。そして、ある日突然失われるこの母の存在。母との親密さの象徴たる誇らしい爪のマニキュアは日を経てあっけなくはがれ落ち、過ちの痕跡としてこびりついた床のマニキュアだけが拭い去れぬまま在り続けるその部屋で、京子は不安な母の不在に懸命に耐えなければならない。母が去ったのは、彼女にとってはマニキュアの瓶を台無しにしてしまった自分のせいなのだ。つまり、事の真相を知る長男明を除いた3人の子のうち京子だけは、罰を受けるように自分を責めながら、母の帰りを待つ。本来責めるべき母を罰すべくその服を売り払おうとする明を必死に阻止する役回りは、だからこそ、彼女でなくてはならない。今度こそ京子は母の大切な所有物をその身を呈して守らねばならないのだ。そうして彼女は母の代わりに罰を受け続ける。本作は、一般的に認知される通り長男明の映画だ。だがもう一方では長女京子の映画でもある。子どもが正当に子どもでいられぬ悲劇を、是枝裕和監督はこの幼き長男長女に託し、静かに見据え続ける。自分の過ちのせいで母を失い、またきょうだいたちからもその存在を奪ってしまった京子。やがて彼女は自らこそが母となることで、その罪を贖おうとする。妹を隠したスーツケースを不安に見送る弟のその手を確かな力で握りしめてやる「母の役割」を補い担うのは、やはり京子だ。その姿に私たちは、彼女が母の不在をついに永遠のものとして受け容れたことを知る。そして、子どもが子どもとして存在しうる正当な幸福を幼い彼女が痛みを伴いながらも自ら抛つその瞬間を、息を呑んで目撃する。照りつける日差しの下、もはや希望も絶望もなくサバイブし続けて行く子どもたち。生ある限り彼らは逞しく生き抜くだろう。だが、剥奪された彼らの尊い子ども時代がその手に再び還ることは、もう決してない。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2010-06-04 18:07:43)(良:3票)
18.  夏時間の大人たち HAPPY-GO-LUCKY 《ネタバレ》 
父親役の岸部一徳を除けば、主人公タカシを含めた登場人物たちは無名の俳優ばかりである。根津甚八や石田えり余貴美子ら顔の売れた俳優は、現実世界と同様にブラウン管の中で陳腐な昼メロを演じるか、C.C.ガールズの青田典子のように夢に登場するだけ、というのが面白い。サエない小学生タカシの日常と、そこにシンクロしていく彼の父母それぞれの子ども時代。彼らは当たり前に父であり母であり子どもである。けれど父であり母であり子である彼らからその当たり前な時系列を取り除けば、そこに残るのは、アツオとジュンコとタカシという対等にサエない3人の子どもの姿だ。中島哲也監督は魔法もSFも用いずサラリとそれを見せてくれる。妹のイタズラ描きを誤魔化すためダイナミックに塗りたくっただけの風景画がコンクールに入選してしまうこと。欲しくもない賞状をもらうこと。それがちっともうれしくないこと。あるいは病弱で寝たきりのお母さんがヘビ女であること。お母さんの部屋につづく階段を昇るとき、だから少し足がすくむこと。だけど、雨に濡れ自分もヘビ女になったって構わないくらい、お母さんが大好きなこと。本当はお母さんに甘えたいこと。子どもたちそれぞれの悩みや人には決して言えない思い。彼らかつての子どもたちを現在のタカシの延長線上に置かず、そっと並列させるのがいい。タカシの目下の悩みは逆上がりができないこと。おっぱいの大きな女の人が好きなこと。ダメ人間になりたくないこと。人には言えないそんな思い。それは逆上がりができない自分が許せないトモコも、さらには何度叱られても校則違反の買い食いをやめないヤスノキヨミだってそうだ。悩みは尽きなくて、だれにも話せない自分だけの思いがあって。逆上がりができたら今度は跳び箱が「乗りこえなきゃいけない人生の障害」として立ちはだかって。世界の仕組みは謎だらけで。だけど河原に吹く風はとても気持ちよくて。そうこうしているうちに鉄棒でつくった手のひらのマメはいつのまにやら消えている。それが人生だ。ラスト、神様に願いごとをするタカシ。逆上がりの悩みはまた別の悩みに変わっている。トモコが好きで、そんなトモコも同じように悩みを抱えていて。でもトモコが悩みを一つだけでも乗りこえたら自分のことのようにうれしくて。だけどトモコのおっぱいは小さくて。やっぱり悩みは尽きなくて。人生、それでいいのだ。
[DVD(邦画)] 10点(2009-11-29 01:42:11)(良:3票)
19.  僕の彼女はサイボーグ 《ネタバレ》 
「彼女」は言う。「実は私、すごく遠い未来から来たの。いまから100年も先の遠い未来から。タイムマシーンに乗って。驚いた?」そりゃ驚く。そしてあきれる。21世紀現在、こんな恥ずかしい台詞を臆面もなく人気女優に言わせる気骨ある映画監督が、世界に一体あと何人いるだろうか?クァク・ジェヨン監督は言わばシーラカンスだ。この古式ゆかしいシーラカンスは、アラをさがしては鬼の首を獲った気になるひねくれた「映画鑑賞」がいかにつまらないものかを、そっと教えてくれる。なにしろジェヨン映画はいつでもアラだらけだ。無限に溢れるアラを指折り数えあげたところでキリがないし、何の自慢にもなりゃしない。それじゃあここは一つ、この子ども騙しな監督にあえて真っ向から、丸腰で騙されてみようじゃないか!そう思えたら、しめたものである。この幼稚で荒唐無稽で破廉恥なトンデモSFが、まるで宝箱のようにきらきらとした輝きを放ちはじめる。『猟奇的な彼女』をワンパターンに踏襲する「強い女の子と弱い男の子」像も、お得意の未来人も、イグアナ鍋にカピパラのウンコにゲロといったお馴染みの悪趣味なジェヨン節さえも、だ。スクリーンやブラウン管を食い入るように見つめた子ども時代のように夢中になり、笑い転げ、胸を熱くさせる。そんな至福の映画体験が間違いなくここにはある。夢物語に騙される喜び、それこそが映画じゃないかと言わんばかりに。ジェヨン監督は魔法使いだ。魔法は、それを信じた者にだけ力を持つ。階段でくり返されるいつか見た光景はまさに魔法だ。一度目は涙声で強がる「彼女」を遠景で捉えていたカメラが、二度目のシーンで初めてその美しい泣き笑いを接写する。彼女の心を感じる、感じることができる、ように。強く美しい綾瀬はるかと、それをおっかなびっくり笑顔で包み込む可愛らしい小出恵介のコンビは、単なる『猟奇的な彼女』の焼き直しを超えて実に魅力的だ。本作はまさに綾瀬はるかの映画である。サイボーグの「彼女」と未来人の「彼女」、二人は同じ顔をし記憶チップを共有はしていても、別人だ。その別人の二人を一人に融合させる強引なハッピーエンドは、「彼女」がどちらもまず「綾瀬はるか」であるからという非論理的な子ども騙しにほかならない。けれどそんな反則技に騙されてみるのも、このさい悪くない。そう思える私は、シーラカンスの魔法に、まんまとかかってしまったようだ。
[DVD(邦画)] 9点(2009-10-25 00:51:23)(良:3票)
20.  パッチギ! 《ネタバレ》 
井筒監督がここで描くのは単なる暴力ではなく、あくまでコミュニケーションの一形態としての喧嘩だ。たとえ不毛ではあっても、血気盛んなアンソンたちにとって喧嘩上等はある種の身体言語であり、彼らなりのせいいっぱいの自己表現なのだ。アンソンの弟分チェドキが主人公康介に打ち明けるように、本当はそれが怖かったとしてもだ。だからこの映画が描くアクションは、一つのこらずそんな彼らの「生きる」そのことに直結している。生きるということはつまり、この困難な世界にそれでも頭突き=パッチギをかますべく立ち向かう、そのことにほかならないだろう。時に流血するほど過激にエスカレートする彼らだが、その姿が一方でどこか清々しいのは、解りあえず敵として立ちはだかる憎き相手もしかし自分と等しく生きるべき人間なのだということを、当たり前のこととして野蛮なはずの彼らが知っているからだ。人間はそれでも等しく人間なのだ、と。この映画が終始一貫ひたすらに語ろうとするのは、つまりそれだ。友情を誓いあったチェドキの葬儀の席で「お前は日本人だから」と遺族に糾弾される康介。一人涙にくれ、橋の欄干で大切なギターを叩き割る彼の姿は、朝鮮部落のみすぼらしいあばら家の、チェドキの棺も入らぬ小さなその入り口を、泣きながら懸命に叩き割るアンソンの姿にぴたりと重なる。日本人であることと朝鮮人であることが、同じ大切な友人を失ったこの二人の等しい悲しみすら別次元に分断してしまう現実。それぞれにその厄介な現実にどうしようもなく打ちひしがれる二人は、けれどそれでも同じように傷つき、そして同じように涙をこぼすのだ。そんな中、急速に浮き上がってくるのは、アンソンとの子を身籠る桃子の存在だ。ライオンと豹のあいの子レオポンをしきりに見たがった彼女の出産は、まさにこの物語の軸となる。そうしてイムジン河の「分断」から「融合」としてのレオポンへと、堰を切ったように雪崩込んでいく大団円。それぞれの熱くほとばしる血潮が一つの心臓へと巡っていくように、桃子の腹に宿る生命めがけて、映画はいつしか漲る力強さで確かな鼓動を脈打ちだす。それは日本人だからでも朝鮮人だからでもなく、人間がただ人間として生まれ来る上で等しく奏でる、逞しく尊いその心音だ。井筒はそうして、生きることを、生き抜くことを、つまりはパッチギることを、惜しみなく、ただひたすらに祝福するのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2010-03-14 00:45:30)(良:3票)

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