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1.  隣の女
感情のシーソーゲーム。どちらも相手に対して完全には優位に立てない。男は招待パーティから逃げてしまい、友だちとしてやっていく可能性を封じてしまう。夫の留守に逢引するのは乗ずるようでいやと言っていた女も、その禁を破ってしまう。ひとつひとつ障害となるべき葛藤を破りつつ越えて、破局へ歩んでいく、その道行きの味わい。ひそやかな不倫の緊張が、パーティの席で解き放たれるのは、破局でもあるが快感でもあった。偶然の出会いまでは、それぞれどうにかやっていたわけで、別に死んだような人生だったわけじゃないのに、もうダメ、こうなってから振り返ると、もう後戻りは不可能。この情熱の不合理、心の奥に潜んでいるものの不気味さ。こういう破局の快感でしか、解き放たれない魔があるんですなあ。「隣」と言う曖昧な関係の設定がいいんだな。友人のように深くは立ち入らないが、微妙に付き合っていかねばならない。赤の他人より、他人を意識する関係。そこに最も深く心が関わる人間が据えられてしまったことによる、ひずみ。ヒロインを神経衰弱にしたことは、トリュフォーの好みなんだろうが、ラストを弱めてはいなかったか。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-23 10:05:21)
2.  東京裁判
ドキュメンタリーの興奮は感じられないが、ホンモノなんだなあ、と有名人たちを眺める感動はある。大川周明に頭叩かれた後の、東条さんの表情なんか良かった。広田弘毅が傍聴席を見上げるシーンは、ちょっとジーンとしてしまう。東条さんの「陛下の忠良な臣」としての発言が天皇の立場を危うくしていくあたりも、あの時代の愚かしさが凝縮して感じられる。しかし全体として茶番っぽい。戦場から遠く離れてしまってると言うか、抽象の出来事を抽象で処理している感じ。この戦争のタテマエ的な「あちら」の部分を「あちら」で裁いているだけで、現実の死が満ちていたアジアの諸地域や南の島や空襲下の日本など「こちら」の悲惨とはあまりにもかけ離れてしまっている、というシラけた感じ。ぜんぜん死臭が漂ってこない。裁判ってのはつまりこういうことなんだ、ということは納得できた。不完全な人間が不完全な人間を裁くことの無理。弁護側と検事側のゲームのような駆け引きに、いい気なものだと思わされる。国という単位を脱して、「こちら」連合が「あちら」連合を訴える裁判はできないものか、という夢を持ってもみるが、「こちら」だってそう罪がなかったわけではなく、「あちら」を弱腰だと煽ったりけしかけたりした歴史が厳として存在したわけで…。などとネチネチ考え込まされ、そういうものを導くのもドキュメンタリー映画の成果ではあろう。
[映画館(邦画)] 7点(2012-08-28 10:11:59)
3.  時をかける少女(1983) 《ネタバレ》 
けっきょく最初スキーを持ってなかったってのがヒントなのね。画面の中央に丸く色がついていく。ラベンダーの匂いをかいだときは、逆に中央だけ色が抜け落ちる設定。途中で色がサーッとひいていく切なさがいい。ラストはいろいろ解釈できる。深町君への思いが深いところに残っていて、吾朗ちゃんと結ばれずにいる、ってのか、あるいは再び深町君と結ばれる可能性を与えているのか(そうじゃないな)、深町君と吾朗ちゃんは理想と現実と思うべきか(一度何らかの純粋を志向する夢を持ってしまった者は現実とうまくやり合っていけなくなるってのか)。老いた上原謙と入江たか子のシーンが必要以上に長くインサートされているのも、ヒロインとの対比なのか。諦めた者と諦めない者と。それらをひっくるめて、青春の切なさなんです。演出としては、花壇の中からフラスコが倒れるとことか、深町君が原田知世の頬にマンガン(?)をなでつけるとこなんか、ハッとした。でも一番嬉しいのは、倒れていたのが起き上がって歌いだす驚き。いちいちのシーンのときに少しずつ撮りだめしてたんだろうな。
[映画館(邦画)] 7点(2012-08-20 10:10:45)(良:1票)
4.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 
いいのは母親とのやりとりのところ。アハマッド君は間違って友だちのノートを持ってきたことを発見する。返さなければ今度こそ友だちにとって大変なことになる。返しに行きたい。しかし母親は次々に用事を言いつける。ノートを口実に遊びたがっている、と母親が誤解していることを彼自身分かっている。つらい立場だ。落ち着かない。弟は宿題を済ませたから遊べるんだよ、と母親は教訓を垂れる。そのとき彼はイライラするのではなく、キョトンとした表情で静かに困惑するのである。これがいい。イライラするのは、誰かに自分の困惑を見せたいからだ。最終的にドラマをまとめてくれる物分かりのいい大人に見せたいからだ。しかしこの映画ではそういう大人は残酷なくらい排除されている。それらしく登場する老人もけっきょく少年の足かせになってしまうし、先生もただ鈍感なだけ。少年の気持ちを汲み大人の世界に翻訳してくれる救済者はついに登場しない。少年は最後まで世界の中にただ一人で立っている。そういう少年だからこそ、別の場所に一人で立っている友人のことに心を寄せられるのだ。ただ一人で立つ少年は、責任という問題に出会っている。宿題をやることが出来なくなっている友だちを助けられるのは、彼一人しかいないというところが辛いのである。おそらく今まで一度も母親の言いつけに背いたことのない「いい子」だった彼が、ここでそれよりも「責任」を、キョトンと困惑しながら選び取っていく。イスラム社会では強大であろう親や老人たちの言いつけを越えて、友だちの家を探しにポシュテの町へ走っていく。翌朝、間一髪で彼は友人を救うことが出来る(ここらへんの友人の絶望しきった描写が傑作)。彼のしたことは先生や親に褒められることでもなく、ただ友人の心配を消したことである。その充実が彼への最大の褒美だ。そういう彼の昨晩の冒険の証人には、小さな一輪の花がふさわしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-11-10 10:02:51)(良:2票)
5.  時計 Adiue I 'Hiver
こういう長い記録をドラマに織り込むって試みは、きっと多くの人が思いついても実際は面倒でやれなかったものだから、そのことだけでも褒めていいと思う。ただその5年間の少女の成長の記録をあまり生かせてなかった。お話が決まっていなくちゃ、そう無駄にも撮れないから、まあ通うとことか練習するとことか何にでも使えるカットになってしまう(現在なら廉価でハイビジョンビデオ使えて、いろいろな想定されるシーンをたっぷり撮っておけただろう)。だから本当にドラマが動き出すのは、現在に至った後半になってしまう。最初にかっちりシナリオを作って配役を拘束し5年撮影し続けるってのは大変だろうし、それではその5年の間に新たに発見するものを映画に加えていけない。そこらへんうまく働けば、映画ならではの記録性とドラマ性が融合した作品が生まれただろう。こういう試みがテレビ畑の人から出てきた、ってのが皮肉。刹那的なものを追っていたようなテレビのほうが、記録性ということに敏感になっていたのか。
[映画館(邦画)] 6点(2010-11-17 09:57:23)
6.  トットチャンネル 《ネタバレ》 
『雨に唄えば』のテレビ版というか。「初めの自由さ」がのびのびと描かれている。試行錯誤の時代、それと青春の試行錯誤が重なっている。買い物ブギの派手な振り付けと、その後ろを不気味そうにカバンを抱えて通り過ぎるトット。だって街中でああいう人を見掛けたらジロジロ見てしまうんではないですか、という理屈。いかにも白紙の状態で入ってきたという感じ。バタンと倒れてガヤガヤが入るとこも、ちゃんと本人には理屈があるのがいい。手錠も面白かった。あとは火鉢の灰か。いい度胸してると言われるまでになる。あれがないと、どうしてこう失敗ばかりしてて抜擢されるのか、ってなるんだけど、あれがあるのでつながる。で壁を支えるところで仕上げって感じかな。「ケーキ」のシーンは見なかったことにすれば、コメディとしてかなり楽しめた。もちろん植木等もいい。別荘での青春談義、医者と監督の間で揺れた大森君自身の言葉でもあるんだろうね。あれがラストのトットの決意につながっていく。恋愛のない青春ものとしても貴重。
[映画館(邦画)] 7点(2010-06-02 12:08:01)
7.  泥の河
一番ジーンとしたシーンは、姉弟が初めてうどん屋を訪れたとこ。大人は子どもたちを・姉は弟を・招いた者は招かれた者を・招かれた者は招いた者を、それぞれ見守っている。いたわっている。弱者同士が肩寄せ合って生きていく、っていうとクサくなってしまうのだが、そういう高揚した感じはなく、実に礼儀正しくいたわり合うのだ、まるで自明の作法があるように。決して水臭いというのではない。「カスのように生きてきた者」にとってのルールなのだろう。こちらからは傷つけないから、そちらも傷つけないでくれ、っていう。この帰り道、送っていくと橋の下を舟が通り抜けていく、ここらへんの正確さがたまらない。少年が初めて加賀まりこの部屋を訪れる場面もいい。ここにあるのも礼儀正しさだ。女の溢れるばかりの感謝の気持ちを、じっと静かに保たせている緊張がいい。「おばさんもおいでよ」「りこうな子やね」。礼儀正しさが頂点を極めるのはラストであり、子どもの呼びかけに絶対人影を見せない舟の姿である。我々はその舟の中でじっと一つの恥を中心に肩を寄せ合っている家族の姿を想像し、その腹立たしいまでの礼儀正しさに感銘を受けるのである。 /(蛇足)田村高広と池部良の俳優歴って似てる。デビューはズレるがどちらも戦後民主主義の時代を体現する若者として登場し、役柄は「まじめ」。が東京オリンピックに向けた経済成長期になると、そのまじめさが俳優としての幅を狭めてしまい、影が薄れた。ところがオリンピック後の1965年に、どちらもプログラムピクチャーの脇役を得る。田村は『兵隊やくざ』、池部は『昭和残侠伝』、勝新太郎と高倉健という戦後民主主義を「体現しない」主役との戦中戦前を背景にした作品で新境地を開き、その後の渋いバイプレイヤーの地位を確定する。なんかこの二人の俳優歴に、戦後史そのものが重なって見えてくるよう。だから田村のデビューごろの時代を描いた本作で、彼は自分の俳優生活の総括をしたようにも思われるんだ。(11年9.29)
[映画館(邦画)] 8点(2009-12-29 12:07:26)(良:1票)
8.  友だちの恋人 《ネタバレ》 
等身大の人物に、作者の目はベッタリついてもいないし、見下ろしてもいない。心のふるえを精密に映して、しかもその精密さを自慢げに誇示しない。つまり上品なんだな。人と人は理解し合えないこともあるけど、理解し合えることもある、他人てのもオツなものです、って話。柄ものでない単色の衣裳と機能的な都市空間で、普通なら冷たさを表現する画面づくりが、逆の効果をあげている。女同士の義理なんて、日本だとここぞとばかりに思いっきりベッタリと描くところを、さらっとやってのける。ラスト、緑のブランシュが森を背景に右、青のレアが湖を背景に左。“男”の会話が別々の人物を指していたことが分かって、「じゃああんたファビアンと寝たの」とくる間が絶妙。青いファビアンと緑のアレックスが、木陰に隠れているカットもいい。
[映画館(字幕)] 7点(2008-03-05 12:18:58)
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