221. 続・男はつらいよ
昨年の正月にシリーズ第一作目の「男はつらいよ」を初鑑賞して、一年ぶりに第二作目の今作を鑑賞。 来年以降も、年のはじめに“寅さん”を観ることを恒例化していこうと思っている。 自分自身が今年で40歳になる。 「不惑」という言葉の意味に対して、自分の精神年齢が程遠いことは否めないけれど、それでも人生の機微というものを何となく感じ取れるようにはなってきた。 自分の人生において何が大切で、何がそうではないのか。そういうものがおぼろげながらも見えてきた今、この国民的喜劇映画が描き出す「娯楽性」は、ことほど左様に心を満たす。 渥美清演じる「車寅次郎」というキャラクターはもちろん強烈だけれど、劇中において何か劇的なことが起こることはない。 が、しかし、なんでもないシーンで笑いを生み、なんでもないシーンでしみじみとした感動を生む。 これぞこの国の「喜劇」の真骨頂だろうと思える。 このシリーズ第二作においては、脇を固める豪華俳優陣の存在感も際立っている。 寅次郎の恩師役の東野英治郎は、個人的に幼少期に観ていた「水戸黄門」の印象が強く、あの特徴的な声の響きがとても懐かしかった。 若き山崎努は、30代前半にして既に映画俳優としての稀有な雰囲気を醸し出しており、今作ではヒロインの恋人という「普通」の役柄を演じていることが逆に印象的だった。 そして何と言っても、寅次郎の生き別れの母親役として登場するミヤコ蝶々の存在感が抜群。 数少ない登場シーンの中で、稀代の女漫才師ならではの“しゃべくり”と、この国の喜劇を牽引し続けていたのであろうコメディエンヌとしての表現力が圧倒的だったと思う。 渥美清も、東野英治郎も、ミヤコ蝶々も、既に亡くなって久しい。 けれど、彼らが昭和の時代に生み出した数々のまだ観ぬ「娯楽」を、これからまだまだ堪能できることは幸せなことだと思える。 [インターネット(邦画)] 8点(2021-01-28 10:31:52) |
222. 宇宙大怪獣ドゴラ
本多猪四郎監督によるれっきとした特撮映画ではあるけれど、特撮描写というよりは、全編通して展開されるスパイ映画テイストの娯楽性の方が印象的で、その部分に面白さがある少々異質な映画だった。 先日鑑賞したゴジラシリーズ初の長編アニメ映画「GODZILLA 怪獣惑星」の冒頭シーンで「ドゴラ」が一瞬登場し、「随分マニアックだな」とほくそ笑んだところで、今作を未鑑賞だったことに気付き、早速Amazon Prime Videoでレンタル鑑賞。 多少マニアックな映画でも、思い立って1分とかからず自宅鑑賞出来てしまう今の世の中は、ほんと便利なものだなあと、レンタルビデオ世代の映画ファンとしてはつくづく思う。 ただ、冒頭に記した通り、この特撮映画において“ドゴラ”なる宇宙怪獣の印象は極めて薄い。 なぜなら登場シーン自体が極めて少なく、大々的に映し出される描写においても、ポスターに描かれている“宇宙クラゲ”的な造形ではなく、ただ巨大な軟体動物を空に合成したような「お粗末」と言わざるを得ないものだったからだ。 特撮映画としては満足に足るものでは到底なかったけれど、その一方で時代感のある娯楽描写は中々楽しいものだった。 隙だらけの国際犯罪組織と日本警察、そして某国際組織のエージェントとの三つ巴の攻防戦は、極めてチープだけれど、そういう部分も含めて娯楽としての味わい深さを醸し出していたと言える。 日本を舞台にした007映画「007は二度死ぬ」の数年前の映画であるが、同年代の作品であることを実感させる日本各地の街並みや風俗描写、そしてボンドガールにも抜擢された若林映子の存在感が光る。 [インターネット(邦画)] 6点(2021-01-24 00:18:49) |
223. GODZILLA 星を喰う者
愚かで傲慢な“旧時代”の人類は、「存続(=勝利)」し続ける限り、憎しみと虚栄を捨て去ることができない。 絶対的な「畏怖」の対象と、それがもたらした「新しい世界」を目の当たりにして、旧時代の英雄は、自ら“憎しみの螺旋”を断ち切るために飛び立つ。 三度、あまりにも強大な宿敵と対峙し、憎しみと怒りをぶつける彼が見せた“最期の安堵”。それは、自分が本当に”滅ぼすべきもの”が何だったのかということに到達した儚くも、勇ましい帰着だった。 というわけで、れっきとした“ゴジラファン”でありながら、世評の悪さから鑑賞を先延ばしにし続けてきたこの長編アニメ版「GODZILLA」トリロジーを一気に完走。 各レビューサイトとも、世評はやはり「否定」の嵐だったが、僕自身は、この三部作を通じて、想定外の世界観の深さと、ストーリーテリングの振り切り方に驚き、感動したと言っていい。 ハリウッド版含め30作以上に及ぶ玉石混交の「ゴジラ」映画全シリーズ作品を根底に敷き詰め、まるで原作版「風の谷のナウシカ」のような人類文明終末の虚無感と運命への抗い、そして、永井豪の「デビルマン」のクライマックスを彷彿とさせる人間の本質的な「業」がもたらす罪と罰の様相が、豪胆なストーリーテリングの中で展開されていたと思う。 無論、今作が、過去のゴジラ映画シリーズ随一の映画だとか、上に挙げた伝説的漫画作品に匹敵する作品だとは決して言えないけれど、そういった偉大な過去作に対する明確なリスペクトを掲げつつ、この製作チームが目指した高みは、素晴らしくチャレンジングで、間違いなくエキサイティングだった。 大多数からの“拒否感”は認める。だが僕は、ゴジラ映画ファンのはしくれとして、過去の全30作を鑑賞してきたことを踏まえて、敢えて全方位的に「肯定」したい。 日本の映画史、そして世界の特撮映画史に燦然と輝くゴジラ映画シリーズだが、控えめ言ってその7割以上は「駄作」である。 特に、このトリロジーの直接的な原作とも言える1964年「三大怪獣 地球最大の決戦」をはじめ、以降の昭和時代に製作された各作品は極めて陳腐で子供だましのものが圧倒的に多い。 ただ、そういう駄作群も含めて、長きに渡り世界中の映画ファンに愛され続けているのが、「ゴジラ」という歴史であり、魅力であろう。「三大怪獣 地球最大の決戦」にしても、ゴジラ・モスラ・ラドンのまるっきり“コント”のような共闘の滑稽さに呆れつつも、キングギドラ登場のインパクトと精巧さには惚れ惚れする。そういうアンビバレントな感覚を堪能することこそが醍醐味だと思う。 このトリロジーの諸々の強引な設定や中二病的なストーリー展開に対して鼻白み、批判する評が多いようだが、個人的には、そういう部分こそが特撮映画っぽさ、ゴジラ映画っぽさでもあり、全くもって許容範囲だった。 むしろ、そのある意味伝統的なチープさを取り込みつつ、最新のSFアニメとして最大限増幅し、振り切ってみせていることが、ファンとして高揚感を高められた最大の要因だったと言える。 ゴジラ映画としても、アニメーション映画としても、歪だし、独善的な映画であることは否定しない。ただそれ故に印象的で忘れ難き作品になっていることは間違いない。 ただ……、“モスラ”はちゃんと孵化させて、ゴジラ、ギドラと同様に圧倒的なアニメーションで見せて欲しかった。 アレンジされた「モスラの歌」が双子姉妹によって奏でられるのを今か今かと心待ちにしていたのだけれども。 [インターネット(邦画)] 9点(2021-01-22 23:43:40) |
224. GODZILLA 決戦機動増殖都市
ゴジラ映画初の長編アニメシリーズ(三部作)の第二弾。 世間の評判の悪さから長らく敬遠してしまっていたのだが、ようやく鑑賞した前作「怪獣惑星」が、思いのほかゴジラ映画ファンの琴線をくすぐってきたので、同日に続けて今作を鑑賞。 「決戦機動増殖都市」というこの副題が、中二病的でとても良い。 このタイトルを堂々と掲げることで、この映画は“そういう映画だ”ということを宣言しているのだと思う。 詰まりは、この国が長年に培ってきたアニメ文化、特撮文化、そしてオタク文化を愛し続けた者たちが、寄ってたかって“自己満足”を積み上げた作品であるということ。 そして、「それの何が悪いのか?」ということを、開き直るように力強く叩きつけている作品であるということだ。 前作のラストで、ようやくゴジラを討伐した歓喜も束の間、ほぼ間髪入れずに現れた真の絶望。 あまりにも巨大な絶望に対する次なる対抗手段として描き出されるのは、共闘する異星人がかつて地球に持ち込んでいた“メカゴジラ”の「構成素材」で2万年の間に勝手に出来上がっていた“増殖都市”という、完全にワケガワカラナイ代物。 ワケガワカラナイが、だからこそケレン味に溢れ、極めてSF的だと断言したい。 “メカゴジラ”のビジュアルを一切登場させることなく、その“素材”と、それを扱う異星人たちの異質な“思考原理”のみで、もはや地球環境そのものとなっている“ゴジラ”と対峙し、ストーリーをテリングしていくこの作品のあり方は、やっぱりマニアックでぶっ飛んでいる。 肝心要のゴジラの描写すらもそこそこにして、舞台であり、兵器である“増殖都市”そのものの禍々しさを突き詰め、その中で異なる思考をぶつけ合う人間同士の消耗戦と、それに伴う悲劇に主眼を置いていくストーリーの顛末が極めて興味深かった。 そして、そんな異質なストーリーテリングを展開しながらも、しっかりとゴジラファンの高揚感を煽る描写、伏線が張り巡らされている。 双子の美少女、卵を崇める民族、隠された異星人の思惑、そして「ギドラ」という忌まわしき言葉。 世間の評価がどんなに低かろうが、前作に続き今作もしっかりと“ゴジラ映画”であり、“SF映画”であったと思う。 主人公を見つめるヒロインの目線が絶妙に合っていない不気味さすらもはや味わい深い。 さあ、次はいよいよトリロジーの最終作。“地球最大の決戦”に向けて準備は万端だ。 [インターネット(邦画)] 8点(2021-01-18 00:21:32) |
225. GODZILLA 怪獣惑星
まず冒頭のプロローグ的なニュース映像の中で最初に登場する怪獣が、カマキラス、そしてドゴラだったことがマニアックで、思わず喜色を浮かべた。 地球が滅亡したくだりを伝えるこのオープニングクレジットは、非常に端的であり、かつ東宝特撮映画ファンの心をくすぐる娯楽性に溢れたものだった。(“ヘドラ作戦”が気になる!) “ゴジラファン”でありながら、今作に対してはあまり良い評判が聞こえてこなかったので、今の今まで鑑賞を先延ばしにしまっていた。 随分とハードルを下げきったことが逆に良かったのかもしれないけれど、今作は、想定を大いに超えた満足感を得られるれっきとした“ゴジラ映画”だったと思う。 タイトルが「GODZILLA」となっているように、そのキャラクター性を含めたゴジラの造形や世界観のテイストは、2014年のハリウッド版「GODZILLA」の方向性に限りなく近い。 ゴジラ自体の姿形もハリウッド版とほぼ同じフォルムであり、「破壊神」と称されるに相応しいその巨躯はこのアニメ版においても迫力があった。 その一方で主人公をはじめとするキャラクターたちの台詞回しや、作戦進行を中心としたストーリーテリングにおいては、2016年の「シン・ゴジラ」を彷彿とさせる要素も垣間見れ、個人的には適切なバランスで両国版の「ゴジラ」が融合している印象を受けた。 一般的な評価はやはり低く、「ゴジラ映画として認められない」という意見も多いようだけれど、「ゴジラ」を初めてアニメーション作品で描く上で、実写での特撮映画では実現が難しい試みに挑んでいることは、正しい映画作りのあり方だったと思う。 そして、この映画には「ゴジラ映画」として相応しいテーマがしっかりと備わっているとも思う。 そのテーマとは、ゴジラに対する人類の「畏怖」の念だ。 第一作目の1954年「ゴジラ」しかり、「シン・ゴジラ」しかり、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中で確固たる傑作として輝いている作品は、ゴジラという大怪獣に対する「畏怖」をどれも等しく描きぬいている。 今作に対しては手放しで「傑作」とは言い切れないけれど、人類のゴジラに対する「畏怖」については、どの過去作よりもダイレクトに描きつけられていると思う。 突如地球に出没した“破壊神”ゴジラの「災厄」としての存在感を突き詰め、人類文明を明確な「滅亡」に至らしめたのは、今作のゴジラが初めてである。 「ゴジラによって地球の人類文明は滅亡しました」というイントロダクションから始まる今作の豪胆なストーリーテリングは、今作が実写シリーズとは一線を画したアニメ映画だからこそ成し得たものだったと思う。 SF、アニメ、トリロジーというフィールドを最大限活かして、これまで誰も見たことがない「ゴジラ映画」を見せようと試みたこの映画プロジェクトの精神は、まったくもって正しいと思うのだ。 極限的に壮大なストーリーのわりに、主人公をはじめとする登場人物たちの言動が直情的でやや希薄に感じたり、諸々の設定がさすがにぶっ飛びすぎているというような「粗」が溢れかえっている作品ではある。 ただ、そういった雑多な映画的テイストもまた「東宝特撮映画」の文化であろう。 とりあえず今は、続編2作品を続けて観られることが楽しみで仕方がない。 [インターネット(邦画)] 7点(2021-01-17 15:08:57) |
226. ソウル・ステーション パンデミック
公開中のゾンビ映画「新感染半島 ファイナル・ステージ」に続き、一応シリーズ作の一つであるこのアニメ映画を鑑賞。 シリーズ一作目の「新感染 ファイナル・エクスプレス」の前日譚となる作品で、人をゾンビ化させる最凶ウィルス蔓延の“はじまり”を描いている。 各実写作品の監督も務めるヨン・サンホ監督は、元々アニメーション監督だったようで、アニメ作品はお手のもののようだ。 一作目の「新感染 ファイナル・エクスプレス」が成功した要因の一つとして、アクションの見せ方のフレッシュさが印象的だったが、それもアニメ制作で培った構図づくりが活かされているのだろうと思う。 韓国製アニメを観る機会はあまりない。随分前に「マリといた夏」というアニメ映画を観たが、それ以来の韓国製アニメの鑑賞だったと思う。 アニメーションとしての精巧さにおいては、日本のアニメ文化と比較するとチープだと言わざるを得ないけれど、韓国映画独特の雰囲気はアニメ映画にも映しこまれていると感じた。 恐怖映画であることもあり、キャラクターの何気ない一挙手一投足に不穏さや不気味さがにじみ出ており、クオリティーのチープさを補う秀逸な空気感を携えていたと思う。 感染者(=怪物)と、人間(=怪物)に板挟みにされる絶望。 文字通り、「進むも地獄 退くも地獄」のその様は、絶望にまみれたこの世界そのものを表しているようだった。 そのシーンも含めて、やはりこの監督は、ストーリーを効果的に映し出すための舞台立てや構図づくりが巧い。 前日譚でもあり決して大きなストーリーテリングを見せるわけではないのだが、各シーンの舞台づくりが尽く巧いので、恐怖やスリリングをきちんと表現すると同時にシーンに相応しいドラマ性を生んでいたと思う。 ある夜に突如発生したパンデミックが、瞬く間に広がり、その絶望の極みと共にこの映画は終幕する。そのラストカットが美しい朝焼けであることもまた印象的だ。 今まさに世界はパンデミックによる恐怖と絶望の只中でもがき苦しんでいる。 明けない夜はないと言うけれど、果たしてこの夜はいつ明けるのだろうか。 そして、朝日が照らす世界はどうなっているのだろうか。 [インターネット(字幕)] 7点(2021-01-15 23:40:16) |
227. 新感染半島 ファイナル・ステージ
娯楽映画として、“楽しい”映画ではあったと思う。ただし、「新感染 ファイナル・エクスプレス」の続編として期待したならば、楽しみきれない。 前作は、韓国という国の社会性や人々の人間性を踏まえつつ、このジャンルの映画に相応しい「風刺」を併せ持ったゾンビ映画の傑作に仕上がっていた。列車を舞台にすることによる“パニック”の上乗せ加減も見事だったと思う。 しかし、この続編は、その後の世界を描きつつも、映画的なテイストはリセットされ、まったく別物の映画として作られていた。 前作が持っていた“韓国製ゾンビ映画”としてのフレッシュさを期待していた者としては、正直「思ってたんと違う」感は否めない。 文字通りの「地獄」に取り残された人間たちの狂気と、そこから生まれる恐怖やさらなる絶望を娯楽映画として描き出そうとした試み自体は興味深かったけれど、その世界観の作り込みがありきたりで希薄だったことが、「別物」の映画としても楽しみきれなかった要因だろう。 また、登場するキャラクターの一人ひとりは個性的で魅力的な要素を持っていたと思うけれど、それらをストーリー的にあまり活かしきれておらず、中途半端な人物描写に終始してしまっているとも感じた。 人がゾンビ化するウィルスの蔓延を止めることができず、4年間放置され、韓国国内のみマッドマックス的に崩壊しているという設定は豪胆で潔い。 北緯38度線(南北境界線)により、北朝鮮から先の大陸には感染が広がっていないという設定も無茶苦茶ではあるが、娯楽映画としては許容範囲だろうし、原題「Peninsula(半島)」が表す意図も際立っていると思う。 もう少しその「半島」というテーマが孕むこの国の特異性や、ある意味での孤立感みたいなものを、ストーリーに盛り込むことができていれば、このシリーズの続編としても、ゾンビ映画としても相応しい批評性が生まれたのではないか、と思う。 [映画館(字幕)] 5点(2021-01-10 23:22:10)(良:1票) |
228. ミッドナイト・スカイ
世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。 だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。 彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。 「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。 人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。 そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。 恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。 宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。 人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。 それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。 地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。 ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。 ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。 前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。 難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。 彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。 [インターネット(字幕)] 8点(2021-01-02 00:26:34)(良:1票) |
229. ザ・コール
序盤から充満している不穏な空気感は、やはり韓国映画ならではのものであり、洗練された映像世界の中で主人公にひたひたと迫りくる「恐怖」が、この映画のクオリティーの高さを物語っていた。 「ザ・コール」という端的なタイトル、インフォメーションビジュアルから伝わってくるテイストは“ホラー映画”のそれだったが、実際、今作で展開されたストーリーは、ホラーでもあり、サスペンスでもあり、スリラーでもあり、SF・ファンタジーでもあり、普遍的な親子ドラマでもあった。 様々な映画的エッセンスが、重層的に、巧みに混ざり合い、独創性に溢れたストーリーテリングを見せていたことが、素晴らしく、なかなか忘れ難い作品に仕上がっていると思えた。 1本の電話が20年の時間を超えて、過去と現在を繋ぐ。 似たような着想やアイデアが組み込まれた映画は世界中に沢山ある。 ただそれらの作品の多くは、心温まるファンタジーや、家族愛を描いたものが多く、ここまで恐怖に振り切った映画は記憶にない。 オカルト、タイムパラドックス、シリアルキラー、映画的娯楽要素を極めて大胆に織り交ぜつつ、主人公の苦悩と絶望が二転三転しながら確実に深まっていく展開が斬新だった。 そして、ヒロインとして立ち回る主人公の合わせ鏡のように、存在し、悪魔的な存在感を高めていく過去の世界の連続殺人犯のキャラクター造形も素晴らしかった。 この殺人犯が、その異常性と残虐性を深めつつ、徐々にヒロインと対峙する“ダークヒロイン”として際立っていくことが、この映画のエンターテイメント性を更に高めた要素であることは間違いない。 このヒロイン、ダークヒロインを演じた二人の若い女優たちが両者とも素晴らしい。 主人公を演じたパク・シネは、この直前に鑑賞した「#生きている」での勇敢なヒロイン像も印象的だったが、華やかさと哀愁を併せ持った良い女優だなと思う。(コロナ禍の影響で主演映画が2作とも劇場公開中止になってしまったことは不憫だ) 一方、殺人鬼を演じた新星チョン・ジョンソは更に強烈だった。病んだ心を更に拗らせ、悪魔的な素養を覚醒させていく“禍々しさ”を見事な狂気で表現し切っていた。 今年観た「The Witch/魔女」の主演女優キム・ダミの見せた狂気も鮮烈だったが、韓国映画界の肥えた土壌は、若手女優層の面でも芳醇だなと思う。 映画は最後の最後まで加速を緩めずに、恐怖と絶望を突き詰める。 20年の年月を超えて鳴り響くコール音。 「奇跡」は、文字通り悪魔的な「災厄」に転じ、恐怖の螺旋が未来をぐるぐると絶望へと追い込んでいく。 絶望の“ベール”をめくられた主人公。その戦慄の極地で彼女は痛感しただろう。 誰が、悪魔を“コール”したのか? 私が、悪魔を救ってしまったのか? いや、私が悪魔を生んだのか……と。 [インターネット(字幕)] 8点(2020-12-29 00:18:15) |
230. ワンダーウーマン 1984
先ず言っておくと、決して「精巧」な映画ではない。ストーリーは強引だし、様々な側面においてはっきりと稚拙な部分も多い。 映画的なテンションの振れ幅が大きく、まとまりがない映画とも言えるかもしれない。 でも、「彼女」は時を超えて、変わらずに強く、美しい。それと同時に、等身大の儚い女性像も内包している。 世界の誰よりも強く美しい人が、世界中のすべての女性と同じように、悲しみ、苦しみ、戦う。 その様を再び目の当たりにして、僕は、前作以上に高まる高揚感と、殆ど無意識的に溢れる涙を抑えることはできなかった。 舞台は、前作の第一次世界大戦下から70年近く時を経た1984年。“ワンダーウーマン”ことダイアナ(ガル・ガドット)は、最愛の人スティーヴ・トレバー(クリス・パイン)をなくした傷心を抱え続け、それでもたった一人正義と平和のために日夜身を投じている。 そんな折、古の神の力を秘めた“願いを叶える石”によって死んだはずのスティーブが数十年の時を経て甦る。奇跡的な邂逅の喜びに包まれるダイアナだったが、その裏では或る男の陰謀が世界を破滅へと導いていた。 序盤は、1980年代のアメリカ特有のサイケ感と、前作に対するセルフパロディを楽しむべき“コメディ”なのかと思った。 当代随一のコメディエンヌであるクリステン・ウィグが放つ雰囲気と存在感も、その印象に拍車をかけていた。 この序盤のテイストは、かつて70年代〜80年代に製作されていたアメコミヒーロー作品に対するオマージュでもあったのだろう。(エンドクレジットにおいてサプライズ登場する或る人物も、当時のアメコミ映像化作品に対するリスペクトだ) 1984年の世界のビジュアル的な再現に留まらず、良い意味でも悪い意味でも“おおらか”で“ユニーク”な80年代の娯楽映画の雰囲気までもが、今作には充満していた。 それはそれで娯楽映画としてなかなか味わい深いテイストであったし、実際楽しい展開だったと思う。 だがしかし、そこから展開された今作のストーリーテリングは、「時代」という概念を超えて、極めて現代的なテーマと、まさにいまこの瞬間の「世界」における辛苦をまざまざと突きつけるものだった。 その語り口自体はどストレートであり、王道的だ。だが、“ワンダーウーマン”だからこそ伝えきるメッセージ性のエモーションに只々打ちのめされる。 オープニングのダイアナの幼少期のシークエンスからてらいなく描き出されていたことは、真実を偽ることへの「否定」と「代償」。 この現代社会において、“偽る”ことはあまりにも容易だ。不正することも、嘘をつくことも、いとも簡単にできてしまう。 そして、名も無き者の一つの「嘘」が、さも真実であるかのように世界中に拡散され、後戻りのできない悲劇を生んでしまう時代である。 今作においてヴィランとしてワンダーウーマンの前に立ちはだかるのは、文字通り「虚言」のみを武器にしたただの「男」である。 彼は野心的ではあるが、世界中の誰しもがそうであるように、夢を持ち、家族を持ち、ステータスを得て、“良い人生”を送りたいと、努力をし続けてきた普通の男だと言えよう。 ただ、一つの挫折が、この男を屈折した欲望と偽りの渦に落とし込む。 その金髪の風貌や、クライマックスの全世界に向けた“演説”シーン等のビジュアルからも明らかだが、このヴィランのモデルは“前アメリカ大統領”に他ならない。 あまりにも利己的で傲慢な者が、異様な力(権力+発言力)を持ち、世界に向けて「発信」することによる社会的な恐怖と鬱積。 この映画に充満した“絶望”とそこからの“解放”は、アメリカという大国のこの“4年間”そのものだったのではないかとすら思える。 傲慢で愚かなヴィランは、怒りや憎しみを超えて、もはや憐れに映し出される。 そんなヴィランに対して、ワンダーウーマンが取った行動は、攻撃でも封印でもなく、「対話」だった。 それはまさに、今この世界に求められる“真の強さ”であろう。 「欲望」は世界中の誰もが持っていて、それを追い求めること自体はあまりにも自然なことだ。 しかし、世界の理を無視して、世界中の欲望のすべてが「虚像」として叶えられたとしたら、この世界はどうなってしまうのか。人間は何を「代償」として失うのか。 その真理と恐怖を、この映画(彼女)は、信念を貫き、力強く叩きつける。 [映画館(字幕)] 9点(2020-12-19 22:19:02)(良:1票) |
231. #生きている
ホラー映画は苦手だが、アクション性の高い“ゾンビ映画”であれば何とか見られる怖がり映画ファンにとっては、程よく恐ろしく、程よくエキサイティングな映画だった。 韓国映画とゾンビ映画の相性の良さは、昨年鑑賞した「新感染 ファイナル・エクスプレス」でも確認済みだったので、一定のクオリティは期待でき、実際そつなく仕上がっているし、終始ドキドキ、ハラハラしながら鑑賞することはできた。 主人公の設定が、団地に住みオンラインゲームに熱中する男子高校生ということは、韓国の現代の社会性をストーリーの中に反映する上で、効果的だったと思う。 舞台設定を主人公が済む団地の室内及び敷地内に限定して最後まで描き切ったことも、過剰なスペクタクル演出に頼らずに、突如として日常生活が一変したパニックを描き出すことができた要因だろう。 また、今年(2020年)に公開された映画に相応しく、“コロナ禍”による今現在進行中の「混乱」や「制限」を風刺する描写もあり、この映画がこの年に製作され、劇場公開中止の憂き目にあいつつも、Netflix配信で何とか世界配信に至ったことには意義があったと思う。 ただ、その一方で、タイムリーな題材、フレッシュな設定に対して、もう一歩、二歩、踏み込みが足りなかったとも思う。 アプローチこそ新しかったが、描き出されたストーリー展開や、その帰着は、あまりにもオーソドックスなものであり、ホラー映画としても、ゾンビ映画としても、サバイバル映画としても、捻りが足りないなと思ってしまった。 安易などんでん返しというようなことではなく、何かハッとさせられるラストの顛末が見たかったなと思う。 まあそれは、韓国映画の“土壌”が豊かであることをよく知っているからこその贅沢な注文なのだろうけれど。 [インターネット(字幕)] 6点(2020-12-19 22:11:48) |
232. 愛してるって言っておくね
自分自身が、「親」という存在になって9年半。 この12分の短編アニメに登場する「娘」は、愛娘とほぼ同じ年頃だ。 無論、悲しくてやりきれないし、理不尽さに対する憤りに心が張り裂けそうになる。 映し出される両親の虚無感は、極めてシンプルだけれど情感的なアニメーションによって、静かに、ゆっくりと、鑑賞者の心をも覆い尽くした。 この20年あまり、同様の悲劇のニュースが、かの国から絶えることはない。 自分の子が生まれてからも、幾度となく、無差別な銃乱射によって理不尽に奪われた子供たちの命を知る度に、とても他人事とは思えず身につまされてきた。 この短いアニメーションの中では、「惨劇」そのものが映し出されることはない。 ただ、大きな“星条旗”の下で、凶弾と子供たちの叫び声が響き渡る。その「意図」は明らかだろう。 「If Anything Happens I Love You(愛してるって言っておくね)」 この短いメッセージを、誰が、誰に対して、どのような状況で伝えたのか。 それが明らかになったとき、堪えてきた涙腺は一気に決壊した。 12分という短い時間は、必然的に“悲しみ”の感情でほぼ埋め尽くされている。 でもこのアニメは、ただ悲しいだけ、ただ辛いだけの作品では決して無い。 彼らにとって何よりも大切な娘を失ってしまった喪失感は、絶望と共に深まると同時に、彼女が確かに存在したことも確実に浮き彫りにしていく。 転がったミートボール、おかしな壁の修繕跡、Tシャツの残り香、思い出の写真や音楽、そして、彼女と過ごした記憶そのもの。 彼女の短い人生の中の無数の思い出は決して無くならず、思い出すことがまた思い出となっていく。 悲しみが消えて無くなることはないけれど、それでも生きていく。 人間は、そういうふうにできている。 [インターネット(字幕)] 7点(2020-12-19 22:10:49)(良:2票) |
233. シカゴ7裁判
人類史において「正義」というものほど、絶大なパワーを持つ言葉でありながらも、それが指し示す意味と範疇がひどく曖昧で、都合のいい言葉はない。 世界中の誰でもが強い意志を持って掲げられる言葉だからこそ、とてもじゃないが一括にできるものではなく、本来、その是非を裁判なんてもので問えるものではないのだと思う。 今作で描き出された「裁判」においても、それぞれの主張はどこまでいっても平行線であり、折り合える余地などそもそもない。 なぜならば、被告として裁かれる活動家の面々は勿論、悪辣に描かれる裁判官にしても、微妙な立ち位置で己の職務を全うしようとする検事にしても、この映画に登場するすべての登場人物たちは、ただひたすらに己の「正義」を貫こうとしているのだから。 この裁判劇は、様々な側面から「正義」という言葉の意味とその本質を問い、その価値も、その危険性も、平等にあぶり出している。 正義を掲げる者たちが、突発的な怒りによって、いとも簡単に暴力を生み、無秩序な憎しみの螺旋に引きずり込まれるという事実。 すべての争い、すべての戦争も、詰まるところ「正義」と「正義」の衝突であるというあまりにも空虚な皮肉。 エディ・レッドメイン演じる主人公は、その現実に、自分自身が無意識のうちに呑み込まれていたことに気づき、思わず言葉を失う。 だが、それが愚かな人間の拭い去れない本質である以上、もはや絶望しても仕方がない。 自分自身の愚かさと罪を認めつつ、それでもなお、自分自身を駆り立てる「正義」を、自分の言葉で叫び続けるしかないのだ。 ラスト、主人公の“最終陳述”で発されたものは、主張でも、弁明でもなく、彼らを突き動かした「動機」そのものだった。 2020年、全世界的に混迷を極めたこの年にこの映画が“公開”されたことの意義はあまりにも大きい。(コロナ禍の影響による劇場公開断念を受け、いち早く権利を買い取って世界配信したNetflixの功績は大きい!) 大統領選に伴う大国アメリカの分断は、今年の混迷を象徴的に表しており、この映画で描かれた時代の空気感とも類似する。 この映画の主人公の手元にある“リスト”と同様に、今この瞬間も、社会の犠牲者はリストアップされ続けている。 映画の着地点と同じく、今この世界に必要なことは、一方的な「正義」の主張などではなく、大局的な見地で、この酷い「現実」を今一度直視することだろう。 次のメッセージが大衆の声によって高らかに発せられ今作は終幕する。 The whole world is watching !(世界が見ている!) 今まさに、私たち一人ひとりが、自分の目で世界の現実を見て、動き出さなければならないのではないか。 [インターネット(字幕)] 9点(2020-12-19 22:09:32)(良:1票) |
234. Mank マンク
「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」 これは、映画「エド・ウッド」の劇中で、実在の悪役俳優ベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドーの台詞だ。 エド・ウッドは、奇しくもオーソン・ウェルズと同時代に“史上最低監督”として悪名を馳せ、ウェルズとは対照的な立ち位置で、今もなおカルト的な人気を博している映画監督である。 ティム・バートン監督作の「エド・ウッド」は個人的なオールタイムベストの上位に長年入り続けている大好きな作品なのだが、今作を観ていて、その“悪役俳優役”の台詞を思い出さずにはいられなかった。 それは、この映画が、時代を超えて、業界や、社会や、もしくはもっと大きな“仕組み”の中で使い捨てられる人々の苦闘と反抗を描いているからに他ならない。 今、このタイミングで、今作がWeb配信主体で全世界公開された「意図」は明らかであり、現代社会に対する社会風刺的かつ政治的なメッセージも強い作品だったと思う。 まさに今の時代も、ハリウッドの内幕に留まらず、社会全体が人を噛んで吐き捨てている。 巨大な組織、社会、国家に対して、「個」の力は小さい。そして、脆弱な「個」は、この世界の傲慢さに都合よくないがしろにされ、“消費”されている。 でも、だからと言って、「会社が悪い」「社会が悪い」「国が悪い」などと、ただ愚痴を並べたところで何も好転はしない。 状況を打開するのは、いつの時代も、小さくも強かな「個」の力なのだ、と思う。 「市民ケーン」の共同脚本を担った主人公ハーマン・J・マンキーウィッツ(マンク)は、業界に対する失望とアルコール依存に押し潰されそうになりつつも、後に映画史の頂点に立つ作品の脚本を書き上げる。 それはまさしく、業界に使い捨てられた者の意地と抗いだった。 80年前の時代を懐古的な映像表現で精巧に描き出しつつも、前述の通り、そのテーマ性は極めてタイムリーな作品だった。 Netflix配信の映画らしく、忖度しない踏み込んだ表現ができたことは、デヴィッド・フィンチャーとしても監督冥利につきたことだろう。 デヴィッド・フィンチャー監督に限らず、マーティン・スコセッシやスパイク・リーなど、多くの巨匠が「Web配信」へと映画表現のフィールドを変えていっていることはある意味致し方ないことだろうと思える。 作家性が強い映画監督であればあるほど、その主戦場を「劇場公開」から「Web配信」へ移行しようとする潮流は、もはや止められないとも思う。 ただ、その一方で、今作が映画作品として完璧に「面白い!」と思える「作品力」を備えているかというと、一概にそうは言えないと思う。 その他のWeb配信映画にも総じて言えることだが、作り手の作家性やメッセージ性が強くなる半面、ともすれば独りよがりになっていたり、作品時間が長すぎるなど、小さくないマイナス要因も見え隠れする。 新作映画のWeb配信が活性化することで、映画表現の幅が広がることは、映画ファンの一人として複雑ではあるが、喜ぶべきことだろう。 しかし、何事においても、“「自由」になればなるほど「自由」ではなくなる”、という矛盾した真理を孕んでいるものだ。 「自由に作ってくれ」と言われて、喜ばない映画監督はいないと思うが、その上で、結果として万人が面白い映画を生み出すことができる映画人は相当限られるだろう。 映画表現の幅が広がるということは、同時に、これまで「制限」の中で才能を発揮してきた映画人たちの新たな資質を問われるということなのだと思う。 「映画」という表現が、その形態を変えざるを得ない時代において、この先どのように進化していくのか。 それこそ、80年前にオーソン・ウェルズが成したような「革新」が今まさに求められているのかもしれない。 [インターネット(字幕)] 7点(2020-12-13 00:25:22)(良:1票) |
235. ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey
2016年の「スーサイド・スクワッド」は、その年の期待値No.1クラスのエンターテイメント大作だったけれど、率直な感想としては、「“ハーレイ・クイン”に扮したマーゴット・ロビーがサイコーなだけの映画」であり、もし彼女の存在が無かったとしたら年間ワースト級の作品として記憶されていたに違いない映画だった。 恐らくその感想は、世界中の多くの映画ファンにとっての共通認識だったようで、映画作品としての失敗をよそに、割と早い段階で、“ハーレイ・クイン”の単独映画の企画は持ち上がっていたような気がする。 そういうわけで、今作に至っては、問答無用に「ハーレイ・クインがワルくて、カワイイだけでサイコー!」な映画になるはずだった。 そして、概ね、そのような映画に仕上がっているとは思う。 映画の鑑賞中は、作品の主人公らしく終始大立ち回りを繰り広げる我らがダークヒロインの活躍を楽しく見ることができた。 ただ、エンドロールを終えて芽生えていた感情は、一抹の物足りなさだった。いや、一抹では足りないかもしれない。時間が経つほどに、二抹も、三抹も、“求めていたもの”との乖離に気づき、不満として膨らんでいる。 ある程度時間が経ち、冷静になってみると、不満の出どころは明確だった。 詰まるところ、前作「スーサイド・スクワッド」に登場した“ハーレイ・クイン”と比較して、今回の彼女はその“悪辣さ”がまったくもって希薄になってしまっている。 前作のハーレイ・クインは、もっと悪く、もっとイカれていて、だからこそそこに同居する文字通り悪魔的なキュートさが堪らなかった。 そもそもが「バットマン」に登場するヴィランズの一人であるわけだから、悪くてナンボ、イカれててナンボのキャラクターだろう。 しかし、今作では主人公らしく振る舞いすぎており、彼女の感情が露わになるほど、その魅力が半減していくように感じた。 いくら原作アメコミとは一線を画する単独のスピンオフ映画だとはいえ、キャラクターとしての性質そのものがブレ過ぎだったのではないかと思う。 ただ、彼女がそういう“らしくない”キャラクターに陥ってしまった理由も至極簡単で明らかだ。 ずばり、“ジョーカー”との破局により、恋狂う対象が不在だったことにほかならない。 “ハーレイ・クイン”というキャラクターは、立ち位置が悪役だろうが、正義の味方だろうが、主人公であろうが、先ず第一に悪のプリンス“ジョーカー”に恋し、狂っていなければ、成立しないのだ。 もしこのスピンオフ映画の企画において、昨今の映画のストーリーテリングにおける一つの潮流とも言える、独立した女性像、男に媚びない女性像、そういう類のテーマを定型的に掲げていたのだとしたら、それはお門違いで、ナンセンスだったと思う。 たとえディズニーのプリンセス映画が、「王子様不要!」「ありのままで!」と力強く氷の牙城を建てたとしても、ハーレイ・クインだけは、誰に馬鹿だと言われようと、誰に愚かなだと言われようとも、ひたすらに恋に溺れ、乱れ、破滅的に暴れまわり、ひたすらに“王子様”の愛を求める。 それこそが、僕たちが彼女に求めた「娯楽」だったのではないかと思う。 「恋愛至上主義」という生き方が小馬鹿にされる時代だからこそ、悪も正義もないがしろにして、只々惚れた男のためにバットを振り回す姿を見たかったなと。 来年(2021年)公開予定のリブート版「ザ・スーサイド・スクワッド」においても、マーゴット・ロビーは“ハーレイ・クイン”役として続投が決定しているとのこと。そして監督はジェームズ・ガン! 過剰に品行方正を求めるちょっと窮屈な時代だからこそ、ぶっ飛んだダークコメディ、そして、また悪魔的に魅力的なハーレイ・クインを観たい。 [インターネット(字幕)] 6点(2020-12-06 00:30:14)(良:1票) |
236. 見知らぬ乗客
初冬、久しぶりのヒッチコック映画を鑑賞。 列車に乗り合わせた厚かましいくらいにフレンドリーな男が、徐々にその異常な本性を現していく様が怖い。 序盤のシークエンスのみでは、列車内で初めて顔を合わした二人の男のどちらが、この映画の主導権を握っていくのか判別が付きづらい。 というのも、私生活においてトラブルを抱え、明確な「殺意」を表すのは、フレンドリーな“見知らぬ乗客”の方ではなく、主人公のテニスプレイヤーの方であり、彼が激情のあまり殺人を犯してしまうのかとミスリードされる。 しかし、次の展開では、見知らぬ男の方の狂気が、不気味に、淡々と映し出され、主人公と同様に、我々観客も戦慄させられる。 このあたりのストーリーテリングのテンポや間の取り具合が、1950年代の映画としては非常にサスペンスフルで洗練されていると思う。 殺人の舞台となる夜の遊園地や、犯行の瞬間をメガネのレンズ越しに映し出す演出など、流石はアルフレッド・ヒッチコックだと思わせる映画術がしっかりと冴え渡っている。 序盤は「交換殺人」というキーワードを主軸にしたサスペンス映画の様相だったが、男(見知らぬ乗客)の本性が現れてからは、この男がストーカー的に主人公の前に出没し続け、殺人を強要していくスリラー映画として、映画作品自体がその“本性”を現す。 その映画的な塩梅も、古い映画世界に相反するようになかなかフレッシュだった。 テニス会場のラリーの応酬に対して一斉に左右に首を振る観客席の中で、一人微動だにせずこちらを見つめてくる男の不気味さや、ラストの“超高速回転木馬”のスペクタクルに至るまで、終始観客の心理を鷲掴みにして離さないヒッチコック監督の映画づくりを堪能することができた。 そしてその“ラリーの応酬”や、ちょっと“廻りすぎなメリーゴーラウンド”は、映画の中で対峙する二人の男の「運命」を象徴させているようで、そういう隠喩表現も巧みだ。 キャストの中では、サイコパスな殺人者を演じたロバート・ウォーカーがやはり印象的。 非常に真に迫った名演だと思えたのに、名前を聞いたことが無いことを不思議に思ったが、この映画の後に32歳の若さで急死したとのこと。 どうやら少年時代から心に傷を追った生い立ちだったらしく、俳優になった後も妻の不倫やアルコール依存等が重なり、精神的な不安と混乱を抱え続けていたようだ。 そんな彼にとって、この作品の役どころはある意味まさに「適役」だったのだろうが、俳優本人の人生の不遇を思うと複雑な思いにかられた。 [インターネット(字幕)] 7点(2020-12-05 00:58:55)(良:1票) |
237. クロール -凶暴領域-
まず最初に言っておくと、“B級モンスターパニック映画”好きとしては、この映画は断然アリ。 流石は「ピラニア3D」を手掛けたフランス人監督アレクサンドル・アジャ、この手のジャンル映画の何たるかをよく理解した上で、とても丁寧な映画作りがなされている。 競泳選手の娘が、ワニと洪水の恐怖の渦を得意の“クロール”で泳ぎ切り、父娘の絆を取り戻す話。 と、この映画のプロットを文面にすると極めて「馬鹿」みたいだけれど、そういう馬鹿馬鹿しさを、大真面目にパニック映画として映し出すことこそが、“B級映画”としての醍醐味だろうと思う。 馬鹿らしいプロット、馬鹿らしいストーリー展開だと感じつつも、主人公の心情や、恐怖に至るまでのプロセスがきちんと描かれているからこそ、彼女が突如として巻き込まれる悪夢のような状況にすんなりと入りむことができる。 また、極めてミニマムな映画的題材や素材を最大化し、エンターテイメント性溢れる「恐怖」を紡ぎだしていることも巧みだった。 まず「ワニ」という題材が相当地味だ。それも、馬鹿な科学者が遺伝子操作で狂暴化させたモンスターワニなどではなく、近所の“ワニ園”にいる極々フツーのワニが襲ってくるという設定が、地味すぎて逆にチャレンジングだった。 恐怖の対象となるワニの地味さを、舞台設定を主人公家族がかつて住んでいた家に限定することでカバーすると共に、フレッシュな恐怖心や緊迫感を創出することに成功している。 更には大部分の展開を、湿地の性質も加味されたジメジメと不潔で不快極まりない地下スペースに絞り込むことで、主人公たちが味わうストレスとパニックを何倍にも増幅させている。 そして、舞台となるかつての“マイホーム”は、主人公の娘と父親が抱える“喪失”とも巧みにリンクし、そこからの脱却が、父娘のドラマをエモーショナルに盛り上げる。 襲い来るワニの精巧なビジュアルや、しっかりと迫力をもって映し出される暴風雨や洪水の災害描写を見る限り、それなりに巨額の製作費が当てられていることは見て取れる。 もっと分かりやすく仰々しい舞台設定を構築することも恐らくできたのであろうが、それをせず、あくまでも“マイホーム(家族)”の映画に仕上げたことこそが、今作の最大の狙いだったのだろう。 そういう明確な“チャレンジ”に溢れた作品だからこそ、ベタベタな王道展開にも素直にグッと親指を立てたくなる。 [インターネット(字幕)] 7点(2020-11-23 23:50:08)(良:2票) |
238. もう終わりにしよう。
《ネタバレ》 晩秋、39歳になった夜、極めて混濁した映画を観た。 「面白い」「面白くない」の判断基準は一旦脇に置いておいて、この映画が表現しようと試みている人の脳内の“カオス”にただ身をゆだねてみるのも悪くない。と、思えた。 僕自身が、人生の後半へ足を踏み入れようとする今、ことほど左様に自らのインサイドにも切り込んでくる映画だったとも思う。 主人公は、何の変哲もない恋に食傷気味などこにでもいる女性。 彼女が、恋人と共に、彼の実家へと古くくたびれた車で向かう。 あたりは吹雪が徐々に強まり、白く何も見えなくなる。 車内での弾まない会話が延々と続き、主人公も、私たち観客も、退屈で飽きてくる。 ただし、この序盤の退屈な車内シーンの段階で、妙な違和感は生じていた。 前述の古い車も含め、主人公たちの服装や街並みも確かに古めかしい。 いつの時代を描いているのだろうと思いきや、着信音と共に彼女の手にはiPhoneが。 あれれ、じゃあ現代の話なのか?と思うが、その後の彼氏の実家のシーンにおいても、およそ現代的な描写はなく、益々困惑してくる。 そして、随所に挟み込まれる高校の用務員らしき老人の描写。 更には、極めて居心地が悪い彼氏の両親の異様な言動と、明らかに時空が混濁しているのであろう描写が連続する。 “彼女に何が起きているのか?” 避けられないその疑問が、この映画が織りなすカオスのピークであろう。 ネタバレを宣言した上で結論を言ってしまうと、この映画が描き出したものは、或る老いた用務員の「走馬灯」だった。 主人公のように映し出された“彼女”は、年老いた用務員の脳裏でめくるめく悔恨か、一抹の希望か、それとも、迫りくる「死」そのものか。 いずれにしても、記憶と積年の思いは、彼の脳内に渦巻き、甘ったるいアイスクリームのように溶けていく。 人生は決して理想通りにはいかない。 劇中でも語られるように、人生は、時間の中を突き進んでいるのではなく、ただ静かに、ただ淡々と過ぎ去っていく時間の中で立たされているだけということ。 そのことをよく理解しつくしている老人は、ただ時間の中に身を置いている。 そこにはもはや絶望も悲しみもない。 特に死に急ぐということもなく、いよいよ虚しくなった彼は、己の人生に対して静かに思うのだ。 「もう終わりにしよう。」と。 あまりにも奇妙な映画世界の中で、人生の普遍的な虚無感を目の当たりにした。 その様は、とても恐ろしく、おぞましくもあり、また美しくもあった。 映画作品としてはどう捉えても歪だし、くどくどと長ったらしい演出はマスターベーション的ではある。 チャーリー・カウフマン脚本の映画を長らく興味深く観てきているが、監督作になると良い意味でも悪い意味でも“倒錯”が進み、ただでさえ混濁した物語がより一層“支離滅裂”な映画に仕上がることが多い。 やはり個人的にチャーリー・カウフマンの映画は、彼が脚本に専念した作品の方がバランスの良い傑作に仕上がることが多いと思う。 ただし、もし、あと40年後にこの映画を観る機会を得られたならば、もっととんでもない映画体験になるだろう。 自分自身が人生の終盤を迎えたとき、この映画の老いた用務員が最期に見た風景の真意も理解できるのかもしれない。 [インターネット(字幕)] 7点(2020-11-21 23:36:37)(良:1票) |
239. スパイの妻《劇場版》
《ネタバレ》 太平洋戦争開戦前夜、運命に翻弄され、信念を貫く、或る女性(妻)の物語。 正義よりも、平和よりも、彼女にとっては優先されるべき「愛」。 危うく、愚かな時代の中で、それでも貫こうとする狂おしいまでの女の情念は、恐ろしくも、おぞましくもあるが、同時にあらゆる価値観を跳ね除けるかのように光り輝いてもいた。 “昭和女優”が憑依したかのような蒼井優の女優としての存在感は圧倒的で、ただ恍惚とした。 映画ファンとしてデビュー以来この女優の大ファンだが、そのことが誇らしく思えるくらいこの映画における蒼井優の存在感は絶対的だった。 1940年代から50年代における“日本映画”の世界観を蘇らそうとする映画世界に呼応し、あの時代の“女性”というよりも、あの時代の“女優”としてスクリーン上で体現してみせた様は、まさに「お見事です!」という一言に尽きる。 映画における秀でた女優の魅力は、ただそれだけで“芸術”として成立し、“エンターテイメント”として揺るがない輝きを放つと思い続けているが、今作における「蒼井優」は、まさしくこの作品が織りなす「芸術」と「娯楽」の象徴だった。 そして、彼女の存在を軸にして、運命の渦を加速させる二人の男。 最愛の夫をミステリアスに演じた高橋一生、幼馴染の憲兵隊隊長を非情に演じきった東出昌大の両俳優も素晴らしかったと思う。 無論、黒沢清監督による映画世界の構築も「見事」だった。 俳優たちへの演出はもちろん、1940年を再現した街並みや家屋、人々の衣装や髪型、その一つ一つの表情に至るまで、この映画で映し出されるべき「時代」そのものを映画の中で構築してみせている。 個人的には、自分が生まれるよりもずっと昔の昭和の日本映画を、長らく好んで鑑賞してきたので、この映画が挑んだ試みと、その結果として映し出される映画世界は、終始高まる高揚感と共に堪能することができた。 成瀬巳喜男監督の「女の中にいる他人(1966)」や、増村保造監督の「妻は告白する(1961)」などは、描かれるテーマや時代こそ微妙に違えど、昭和という時代の中で生きる女性(妻)の情念や強かさを描ききっているという点において類似しており、興味深かった。 ただし、そういった昭和の名画を彷彿とさせると同時に、それ故のマイナス要因もこの映画には存在していると思う。 それは、今この時代に、この作品が製作され、主人公・福原聡子というかの時代に生きた女性像を描き出すことに対して、踏み込み切れておらず、その意味と意義を見出しきれていない印象を受けたということ。 この映画が、かつての名画を忠実に再現した“リメイク”ということであれば、何の問題もなかろう。 だが、黒沢清と若手脚本家たちによって今この時代に生み出されたオリジナル作品である以上、太平洋戦争直前から末期を描いた時代映画だからこそ、映画の結論的な部分においては、2020年の時代性を表す何らかの価値観や視点を表現し加味してほしかった。 その唯一の不満要素が顕著だったのは、ラストシーンだ。 この映画は、戦禍を生き抜いた主人公が、夜明け前の暗い海で一人咽び泣くシーンで終幕する。 何よりも孤独に恐怖し、何よりも夫への情愛を優先した主人公の心情を表すシーンとして、この描写自体はあって然るべきだろうとは思う。 ただ、その描写で映画自体を終わらせてしまうのは、あまりにも前時代的と思え、工夫がないなと感じてしまった。 必要だったのは、悲しみと絶望から立ち上がり、新しい時代に踏み出していく女性の颯爽とした姿ではなかったか。 エンドロール前のテロップでは、その後聡子が、一人アメリカに降り立つということが後日談的に伝えられる。 そのような展開を物語として孕んでいるのならば、やはりその様はビジュアルとしてたとえ1カットだったとしても映し出されるべきだったと思う。 仕立てのいい洋装で身を包んだ聡子(=蒼井優)が、サンフランシスコの港に凛と立つ。 そんなシーンでこの映画が「Fin」となっていたならば、鑑賞後の余韻と映画的価値はもっと深まったのではなかろうか。 [映画館(邦画)] 8点(2020-11-11 22:39:30) |
240. 透明人間(1954)
欧米では過去数十年に渡って幾度も映画化されている「透明人間」という題材。 その殆どが、SF作家のH・G・ウェルズ原作の映画化のようだが、日本でも「透明人間」という映画が存在していたとは知らなかった。 しかも1954年という公開年が益々興味深い。 1954年といえば何を置いても、「ゴジラ」第一作の公開年である。日本の特撮映画史におけるエポックメイキングと言える年に、特撮映画の一つとしてこの「透明人間」が製作されていたことは中々意義深いと思える。 第二次大戦中に秘密裏に存在していた透明人間部隊の生き残りの男を描いた悲哀は、時代的な背景も手伝って深いドラマ性を孕んでいる。 そして、その透明人間の主人公が、“ピエロ”の姿で“正体”を隠し、サンドウィッチマンとして生計を立てているという設定も、非常に映画的な情感に満ち溢れていたと思う。 (そのキャラクター的な特徴と立ち位置には、映画「JORKER ジョーカー」の逆説的な類似性も感じられ益々興味深い) 戦争における人間の功罪を、文字通り一身に背負う主人公の孤独と絶望は計り知れない。それでも彼が生き続け、守り続けた希望は、この時代にこの国で製作された映画だからこそ殊更に意義深いテーマだった。 “透明人間”という怪奇を映像的に表現した円谷英二による特撮も白眉だったと思う。 また、70年近く前の東京の風俗描写をつぶさに見られることも、時代を超えた映画的価値を高めていると言える。 この時代の特撮映画として不満はほぼない。 が、一つ不満があるとすれば、その後日本では「透明人間」という映画が殆ど存在しないことだ。 アメリカでは、1933年の「透明人間」以降、H・G・ウェルズの原作をベースにした作品だけでも4~5作品以上は繰り返し映画化が行われている。 それは、「透明人間」に関わらず、“ドラキュラ”や“フランケンシュタイン”しかり、古典的な怪奇映画の中では、時代を超えて普遍的かつ本質的な人間ドラマを見出せることを、映画産業としてよく理解しているからだと思う。 日本においても特撮映画隆盛期の1950年代から1960年代においては、今作以外にも、「ガス人間第一号」や「電送人間」「美女と液体人間」など、タイトルを聞くだけで印象的な数多くの怪奇SF映画が製作されている。 そういった往年の特撮映画を「古典」として、移り変わる時代の中で継承することができていないことが、この国の映画産業の弱体化の一因ではなかろうか。 今一度、今この時代の日本だからこそ描ける「透明人間」に挑んでもいいのではないかと強く思う。 [インターネット(邦画)] 7点(2020-11-08 01:54:25) |