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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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281.  未知との遭遇/特別編 《ネタバレ》 
想像以上に“いびつ”で、“混沌”とした映画であったことに驚いた。 もっと大衆向けの感動映画なのかと思っていて、それがこれまで今ひとつ食指が伸びなかった理由でもあったけれど、想定外の映画の世界観に心が掴まれたことは間違いない。 この映画は、スティーブン・スピルバーグのイマジネーションと深層心理が混ざり合った、ある意味極めてパーソナルな作品なのではないかと思う。  映画の序盤からラストに至るまで、「不可解」という言葉が常に寄り添う映画だった。 解消されるものも、解消されないままのものもあり、壮大なエンドロールを経て、「一体、何だったのだろう?」という思いがポツンと残った。 きっとそのことが、望んだ娯楽性に合致せず、この映画を嫌う要因になっている人も多いだろう。  ただ僕は、その「不可解」さこそが、スピルバーグがこのSF映画に込めたかったものだと思えてならない。 “科学的に説明のつかないもの”を不可解と認め、追求し続けることこそが、「科学」なのだと思う。 したがって、最後まであらゆる状況や言動に対して明確な「理由」を示さなかったことこそが、この映画が「科学」に対して極めて真摯であることの証明だと思えた。  “いびつ”で“混沌”としたストーリーに「粗」は多い。個人的に主人公の言動には終始共感出来なかった。 けれど、泣ける。 分かりやすい涙は流れなかったけれど、主人公が選んだ道、いや選ばざるを得なかった道に対して、心がさめざめと泣いていた。  壮大で感動的な映像と音楽に彩られているが、この映画のラストは、決して“ハッピーエンド”ではない。 人生に拭いされない違和感を感じ続け、結局自分のことも家族のことも幸福に出来なかった寂しい男が、唯一の“よりどころ”を盲目的に追い求め、そこにすがらざるを得なかったという話だ。 「希望」はもちろん描かれているが、代償となる「喪失」も確実に存在している。 この物語から滲み出ているものは、描き出したスピルバーグ監督自身が抱える葛藤なのだと思う。  自分自身も含め、"ある種”の人間の本質を生々しく切り取った映画であるからこそ、多くの人の心に吸いついて離れない作品に成ったのだろうと思う。 正体不明の物体が靄の中に見え隠れする映像が象徴するように、観た者の心にも靄を残す映画だ。 故に傑作であることも間違いない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2012-09-29 16:03:44)
282.  DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る
すべてを観終えて、「少女たちは傷つきながら、夢を見る」というタイトルが痛烈に突き刺さった。 “彼女たち”は、自らの夢を追い、それを達成するために必要な「喪失」に対する「覚悟」が半端ないと思えた。 文字通り「身を削りながら」彼女たちは、ステージに立ち続け、笑顔を見せ続けているということを、このドキュメンタリー映画は想定を超える濃密さで、ファンであるかどうかなど全く関係ない次元で、観ている者にぶつけてくる。  今をときめくアイドル達の等身大の姿、なんて言い回しが非常に生温く思える。 そこに映し出されていたのは、"アイドル”という人生を生きる少女たちの「生身」の姿だった。 ドキュメント映像の大部分において彼女たちは笑っていない。慟哭し、怒り、憔悴している様が延々と羅列される。  前田敦子は払拭できない孤独感の中で倒れ、大島優子は凛とした立ち振る舞いのすぐ裏側で打ちひしがれ、髙橋みなみは次々に倒れていく仲間たちすべてを引っぱり満身創痍で突っ走る。 華やかな大ステージの舞台裏は、「戦場」という比喩が決して大げさではないほど悲愴感と混沌が渦巻いていた。  “アイドル”という「綺麗事」を大衆に売る彼女たちが、もっともその生き方が「綺麗事」ではないことを知っている。 汗にまみれ、涙にまみれ、世間のおびただしい視線にまみれ、どのようなスタンスで、どのようなプロセスを経たとしても、“センター”に立つ者が「正義」であるということを、全員が本質的に理解している。  汗も涙も悲しみも怒りも、時にはスキャンダルまでもが自分自身の「売り」になるということも、 震災で荒れた被災地を巡ることも“大人たち”の戦略の一部だということも、 自分たちの存在のすべてが“つくられたもの”だということも、 そしていつかはそれに終わりがくることも、 すべて、彼女たちは知っている。  そんな「リアル」さえ、彼女たちは踏み越えて堂々とステージに立ち続けているのだ。 大人たちの思惑や、世間の蔑みや批判なんてどうでもいい。 訪れた被災地の子供たちが、一瞬であれ悲しみを忘れ、心から喜び熱狂している。 彼女たちにとって、その“事実”以上に価値あるものなどきっとない。
[DVD(邦画)] 9点(2012-09-21 23:24:22)
283.  アベンジャーズ(2012)
もし、この映画を自分の意志で観に行って「つまんねー」なんて言う人が居たならば、そんな人はもう映画なんて観なくていいのにと思ってしまう。 こんなにも幸福な“THE MATSURI”映画を心行くまで楽しめないなんて、そんな不幸なことはない。  冒頭怒濤のドタバタから自分の口元は“ニヤリ”と緩みっぱなしで、結局最後まで嬉しそうにニヤニヤしながらスクリーンに食いついていた。 ストーリーが薄いとか、辻褄が合わないとか、滅茶苦茶だとか、そんなことは本当にどうでもいい。 爆音と爆発、音と光の「娯楽」のみで最初から最後まで押し通したこの映画の在り方は極めて正しく、「エライ!」と思った。  様々な世界観に息づくヒーローが一堂に会する明らかに「雑多」な映画が、これほどまで娯楽映画としてバランスよく仕上がっているとは思わなかった。 「大味」であることはそもそも覚悟して、たとえ中だるみや陳腐さがあったとしても許容する用意はしていたのだけれど、そういう部分が驚くほどに無かった。 無意識に「見て見ぬふり」をしているだけかもしれないが、観客にそうさせることが見事だと思う。  「ヒーロー大集合」とはいえ、結局はトニー・スタークが活躍の大部分を占める「アイアンマン2.5」的なスタンスなのかと思っていた。 実際良いところはやはり彼が持っていくのだけれど、それぞれのキャラクターも充分に持ち味を見せてくれ、非常に魅力的な「群像活劇」に仕上がっている。  超人たちの中で明らかに場違いに見える“生身の人間”である“ブラック・ウィドウ”と“ホークアイ”は、仰々しく雑多になり過ぎて不足しがちな“ドラマ”部分を担当しつつ、時に超人たちを押しのけるほどの大立ち回りを見せる。 スカーレット・ヨハンソンとジェレミー・レナーの“肉弾戦”なんて、この映画でなければ決して見られまい。  そして、主要キャストの中では明らかに地味なキャスティングとなった性格俳優のマーク・ラファロ演じる“ハルク”が、強烈な二面性と神をも振り回す“最強”ぶりで、見事な“オチ”をつける。  このキャラクターやキャストの関係性も含めた絶妙なバランスの良さが、想定外の完成度と爽快感を生み出していると思う。  いやあ満足、素晴らしい。この“祭り”にはまた参加したい。  エンドロール後のシークエンスに、“祭りのあと”の寂しさを感じつつも大笑いして、殊更にそう思った。
[映画館(字幕)] 9点(2012-08-25 01:32:16)(良:1票)
284.  アウトレイジ(2010)
タランティーノばりに馬鹿馬鹿しい映画だなと思った。勿論褒めている。 ヤクザが雁首付き合って罵り合い、殺し合い、血みどろになる。ただそれだけの映画だと言って良い。 それだけで面白いのだから良いのだと、映画作品そのものが堂々と居直っているように見えた。  “タランティーノばり”と言ったが、この映画が彼の映画を模倣しているという意味ではもちろんない。 それはむしろ逆で、映画オタクであるクエンティン・タランティーノが愛し憧れた日本映画の姿が、この映画に久方ぶりに現れたと言った方が正しい。 つまりは、世界中の映画ファンが“観たい日本映画”とは、体裁ばかりに無駄に大金を投じて中身がスカスカの恋愛映画やSF映画などではなく、“切った張った”の血みどろ映画であるということに他ならない。 この映画は、「ヤクザ映画」というかつて日本の娯楽映画のメインストリームに確かに存在し、日本が世界に対して、アニメ映画と怪獣映画以外で勝負し得た確固たるエンターテイメントの“再構築”だと思う。  「全員悪人」というか、「全員愚か者」と断言できるキャラクターを、そうそうたる俳優陣がそれぞれ抜群の存在感をもって演じている。 彼らのパフォーマンスは皆過剰なまでに仰々しく、決して今の時代において「リアル」なんてことは言えない。 ただその演出は間違いなく正しく、非現実感も含めこれこそが「ヤクザ映画」におけるエンターテイメントだということを高らかに宣言しているようだった。 そういう明確な意志を持って、総愚か者を演じたキャスト全員が素晴らしかったと思う。 また鈴木慶一によるスタイリッシュだがどこか冷酷なまでの軽薄さを感じる音楽も良かった。  それらすべてを導き出した北野武という映画監督は、やはり映画に愛されているのだなと感じた。昨今、ありとあらゆるお笑い芸人がこぞって映画監督に“腰掛けている”が、彼らとは映画に対するスタンスから何から総てにおいて明らかに次元が違うということを改めて思い知った。  “こういう映画”として殆ど文句のつけようは無い。が、敢えて言わせてもらうならば、 椎名桔平の最期酷過ぎるよ、バカヤロー!コノヤロー!続編も期待大だよ、コノヤロー!
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:13:13)(良:5票)
285.  トゥモロー・ワールド
或る深夜。寝室から愛娘の泣き声が聞こえる。夜毎の夜泣きは楽ではないが、それは彼女が“生きている”ということの一つの「証明」のようにも思えて、とても安心する。 自分に子供が生まれ、明確な「恐怖」として感じるようになったことがある。 それは、幼い命が育たないということに対する恐怖だ。 日々のニュースの中では、毎日のように、何らかの理由であまりに短い“生”の時間を終えなければならなかった幼い命に関する事故や事件が伝えられる。 その度に、悲しみや憤りとともに、恐怖を感じる。  幼い生命が育たないということは、人類にとって、いや生物全体にとって、最大の恐怖なのだと思う。 このSF映画は、そういう人類という生物が直面するかもしれない絶対的な恐怖を壮絶に映し出している。  18年間、新生児が誕生していない近未来。 映画は、クライヴ・オーウェン演じる主人公が立ち寄ったコーヒーショップから出た直後に突如爆破されるシーンから始まる。 このファーストカットが驚くべきロングテイク(長回し)で映し出され、一気にこの映画の世界観の中に放り込まれた。  この映画ではとにかくロングテイクが多用されており、壮絶な襲撃や市街戦を描いたアクションシーンまでもが目を見まがう程の完璧なロングテイクで徹底的に描き出されている。 それにより観ている側は、この悲劇的な未来世界の中で問答無用に息づかせられ、荒涼とした世界の空気感と荒んだ人間たちの感情までもがひしひしと伝わってくる。  ストーリーの設定や展開は、よくある近未来世界を描いたその他の映画と変わりはない。 しかし、突き詰められた映像構造と、生命とそれが育つことの価値に対する真摯なスタンスにより、他にはないリアリティを生み出している。  一つの小さな生命を救うために数多くの生命が犠牲になっていくこと。それが何故正しいのか? この映画では何事においても明確な理由や答えは最後まで示されはしないが、現在の人類が今一度立ち返るべき根本的な価値観と在り方、それを考えるべき機会が示されていると思う。  幼い生命が育つという本来当たり前であるべき事象。それが成立するための条件が、「平和」ということだというのならば、やはりそれを願わずにはいられない。 「シャンティ シャンティ シャンティ」
[DVD(字幕)] 9点(2012-04-30 10:21:19)(良:2票)
286.  第十七捕虜収容所
サスペンス、スリル、可笑しさ、爽快感……映画の娯楽性を彩る要素は多々あるけれど、ビリー・ワイルダーの映画には、そのすべてが詰まっている。 捕虜収容所での“スパイ探し”を描いたこの変わった趣向の戦争映画には、想像以上に娯楽性を高める様々な要素がバランスよく入り交じっていて、それぞれの要素が見事に主張し合っている。  第二次世界大戦中の捕虜収容所を描いた映画と言えば、有名過ぎるのはやはり「大脱走」だろう。ドイツ軍管理下の捕虜収容所からの脱走を図る捕虜たちの群像劇を描いたプロットは、今作との類似を大いに感じる。 大名作として誉れ高いのは「大脱走」の方だと思うが、制作年数は今作の方が圧倒的に早いので、ヒントを得た部分は大いにあるのだろうと思う。 そして、個人的には圧倒的に今作の方が面白かった。  ナチスドイツ管理下の捕虜収容所というイメージ的には陰惨極まる舞台設定において、決して不自然ではない映画的娯楽を展開させる巧さに、ビリー・ワイルダーという映画人の偉大さを改めて感じずにはいられない。  そして、スリルやコメディの娯楽性の裏には、しっかりと悲愴な環境下で生き抜く人間たちのドラマと戦争による混沌も見えてくる。 そうすると、収容所内の人間たちの少々仰々しい感情表現も、生き抜くための一つの“手段”に思えてきた。  映画は終始薄汚れた捕虜収容所内で展開され、派手さは皆無だと言っていい。しかし、噛めば噛むほど様々な味覚が存在を主張し、そのどれもが深まっていく。 週末の深夜、巧い映画とはこういうものだということを改めて知った。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2012-04-22 23:44:07)(良:1票)
287.  シャーロック・ホームズ/シャドウ ゲーム
綴られた文章の最後に、あまりに小気味良い「?」が追記され、エンドロールが流れ始めた瞬間、正直言って殆ど「完璧」に近い娯楽映画だと思えた。 前作も充分に面白かったので期待感はそもそも大きかったけれど、その期待をひょいっと超えてくれたエンターテイメントに対して嬉しい興奮の連続だった。  文句なしにそう思えるほど、現代において新たに焼き直されたある意味まったく「別物」のシャーロック・ホームズというキャラクターと、この元祖問題児俳優と、この英国人監督との相性は前作に引き続き抜群で、二作目として一つ二つ高いレベルのエンターテイメント映画として昇華されていると思った。  ガイ・リッチー印とも言えるアクションシーンでのスローモーションの多用や、「推理」シーンの表現方法に対して、“シャーロック・ホームズ映画”としてどうなのか?という違和感を覚える人もいるのかもしれない。 しかし、もはやこれは趣向の問題で、違和感なんて覚える前に独特の映像表現と世界観に対してワクワクできた者の“勝ち”だと思う。  相変わらず映像技術は日々爆発的に進化していて、ただ派手なだけでは興奮すらしなくなってしまった中で、これほど全編通して「娯楽映画を観ている!」という高揚感に支配される映画も珍しく、それがこの映画における最高の価値だと思う。  このレベルのバジェットの映画としては脚本も極めて巧く、最後の最後に至るまでの細やかな伏線の回収が、殊更に高揚感を高めてくれている。 アーサー・コナン・ドイルの原作に対して程遠い人物描写と世界観に見えるけれど、シャーロック・ホームズをはじめとする主要キャラクターの本質に対して実は真に迫っている部分も多いようで、世界一有名な探偵小説に対して勇気と尊敬をもって挑んでいるとも言えると思う。  さて、小気味良いエンディングに表れているように、当然の如くまだまだ続編への意欲は高い様子。 “敵対するもの”に対してもしっかりと伏線は残されている。 前作を観た後は、“シャーロック・ホームズ”と"ガイ・リッチー”のまさかの組み合わせの妙に嬉しい衝撃を受けるばかりだったが、二作目にしてより一層に“最新作”が楽しみなエンターテイメントシリーズに見事な進化を遂げたと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2012-03-24 23:47:28)
288.  アジョシ
過去に訳ありの殺人術に長けた男が、孤独な少女と出会い、彼女を救い出すために決死の闘いに挑む……。 プロットそのものはあまりにありふれており、同様の作品は世界各国で量産されている。 そしてタイトルは“アジョシ(=おじさん)”。飾り気の無いそのタイトルは、食傷感を助長するには充分だったと言える。 韓国映画の全体的なクオリティーの高さは認めつつも、価値観の相違による居心地の悪さから若干の苦手意識もないことはない自分としては、某ラジオ番組で絶賛されていなければ、きっと見向きもしなかったろう。  結論としては、“食わず嫌い”をしなくて本当に良かった。この映画をこの“タイミング”で観なかった場合の損失はあまりに大きかったことだろうと思う。  “タイミング”という表現の意味の対象は、主演のウォンビンに他ならない。 今この時期のウォンビンという俳優の「凄さ」と「可能性」を知っているかそうでないかでは、今後の韓国映画に対する捉え方が大いに変わってくると思う。 即ち、今後彼の出演作は漏れなく注目していかなければならないということだ。 そう言ってしまって過言ではない程、前出演作「母なる証明」に続き、この美形俳優の存在感が半端なかった。 異性が求める「男性」の魅力の究極の様を同性でありながら強烈に感じずにはいられない。 その元来生まれ持った天性の美貌を更に高め爆発させるように、俳優としての存在感が際立ってきている。  孤独を深めていた男が徐々に怒りを爆発させていく。 その鬼神の如き様は、戦慄を覚えると同時に、自らに対する何かしらの“救い”を求めもがいているようにも見え、激しく感情を揺さぶられた。 鮮烈なバイオレンス描写の中に、これ程までセンシティブな情感を映し出した映画は中々ないと思う。  その総てを己の身体一つで表現している主演俳優の素晴らしさ。そして、彼の存在に説得力を与え、より際立たせている映画構成の巧みさに感嘆する。 ウォンビンの惚れ惚れするような体躯と同様に絞り込まれたタイトな演出と、端役に至るまでしっかりとキャラ立てがされている人物描写の上手さが、ありきたりなプロットの上に成り立つ映画を唯一無二の高みへと磨き上げていた。  こういう映画を長編第二作目の新鋭監督が鮮やかに作り上げてしまう隣国の映画制作のレベルの高さに、毎度のことながら驚き、ついつい羨望の眼差しを送ってしまう。
[DVD(字幕)] 9点(2012-03-01 18:13:33)
289.  ボルト
個人的に“犬好き”なので、涙腺が緩んだポイントなどは挙げればきりがない。 ブロックバスター映画顔負けの劇中映画を描いたオープニングで、主人公ボルトが飼い主の少女を綱で引いてハイウェイを激走するシーンはもとより、その前のプロローグ場面から涙腺は緩みっぱなしだった。  そんな“犬好き”を惹き付けることなんてことは、この映画にとっては朝飯前のことだったように思える。 今作において最も特徴的で素晴らしいことは、“犬を犬として描き切っていること”だと思う。 他の多くのディズニー映画と同様に、今作においても動物たちは生き生きと喋る。しかし、それはあくまで動物間でのやり取りに限られており、必要以上に擬人化はされていない。 主人公の飼い主の少女をはじめ、登場する人間からは犬は犬、猫は猫、ハムスターはハムスターとしか見えておらず、きちんとそういう描かれ方がされている。 今までもそういう設定のアニメ映画は多々あったろうが、この映画で描かれている世界観は、あくまで人間社会の中で生きる動物たちのお話であり、動物が動物らしく描かれていることが、紡ぎ出されるドラマ性をより効果的に高めている。 それは、クライマックスで主人公が愛する飼い主を救い出すシーンのちょっと驚くくらいの「地味さ」を観ても明らかだ。  娯楽映画として単純な見た目の盛り上がりの乏しさに対して不満を漏らす人もいるのかもしれないが、この映画におけるその徹底した「犬の犬らしさ」こそが、ディズニーの動物映画としては珍しいほどのリアリティ感を生んでいると思う。  この当たり前のように言っている「犬を犬らしく描き出す」というアニメ表現を、さも当然のように成し遂げているディズニー・ピクサーの圧倒的な技術力と表現力に、改めて舌を巻いた。 それぞれのキャラクターの立たせ方、伏線を生かした小気味良い展開力、脚本自体が巧いとしか言いようがなく、それがこの魔法のようなアニメーション技術によって形作られているわけだから、面白くないわけがない。  前述の通り“犬好き”で簡単に涙腺が緩んでしまうので、逆に「犬映画」は積極的に観ないし、あまり好きではなかったりもする。 だからこそ敢えて言いたい、この映画こそ史上最高の「犬映画」だと。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2012-02-29 16:12:52)(良:3票)
290.  妻は告白する
映画の最終盤、若き若尾文子が雨に打たれずぶ濡れになった姿で愛する男の前に現れる。その姿は狂気的で、あまりに美しい。 撮影を重ねよほど感情を盛り上げて挑んだのだろうと思われたこの映画随一のそのシーンが、撮影初日に撮られたということを知りまず驚いた。そして、当時若尾文子はこの程度の映画を年間10本以上のペースで撮り続けていたというのだから、もの凄いとしか言いようが無い。  映画監督の西川美和がある誌面でこの映画を絶賛していたこともあり鑑賞に至った。成る程、物語の序盤から西川監督作の「ゆれる」を彷彿とさせる要素が多々あり、多分に影響されているのだろうと想像できた。  登山の最中に滑落事故が起こり、ザイル一本で宙づり状態になった3人の男女。絶体絶命の状態の中、中央に位置した女は自分の下のザイルを切断。当然、下方に宙づりになっていた男は落下し絶命。死んだのは女の夫、そして生き残ったのは女の愛人……。 故意か自己防衛かを争点にし、殺人罪に問われた女の裁判劇を中心に描かれる男女の愛憎劇、その濃密さが見事過ぎる。  序盤から終盤に至るまで、「妻の行為の真相」がつまびらかにされていく物語だとばかり思っていた。 実際その色彩は強く、望まない結婚を強いられた妻の鬱積と、そんな折に生じた横恋慕の対比がとても丁寧に描かれ、妻の「動機」が徐々に明確になっていく。  そして、ついに明かされる妻の真意。 本来ならこの時点での衝撃をもって映画が終幕しても充分に成立するものを、この作品はさらに真理を突き詰める。 結局、登場人物の中でもっとも何も分かっていなかった「馬鹿」が、もっとも重い業を背負う羽目になる顛末に、その「馬鹿」同様に呆然としてしまった。  この作品は、「夫婦愛」のまさに対極に位置する「夫婦憎」を描き付けた映画だと思う。 結婚をして3年目になるが、この映画を夫婦で鑑賞するのは非常にはばかられる。しかし、「恐いもの見たさ」という人間の本能故か、だからこそ逆にいつか夫婦で観たいとも強く思わせる。 そういうことをつらつらと考えていくと、「夫婦愛」と「夫婦憎」本来対極にあろう関係性は、実のところ表裏一体で一対のものなのかもしれないと思われて、一人で映画を観終わった後、既に寝静まっている愛妻の横でなかなか寝付けなかった。
[DVD(邦画)] 9点(2012-02-28 11:31:14)
291.  レスラー
冒頭、カメラは主人公の背中を延々と追い、そのうらぶれた様を映し出す。 そこからは、ただこの男が惨めな生活に追いやられているという状況説明だけでなく、プロレスラーとして確実にあった過去の栄光を雄弁に物語ると共に、彼が今なおリングに上がり、そこで少なからずの尊敬と敬愛を受けているということがしっかりと伝わってくる。 そういう描写の後に、ミッキー・ロークの表情が映し出された瞬間、「ああ、この人はかつてのスターレスラーだ」とリアルな存在感を持って納得させられる。 この冒頭数分間の主人公描写の時点で、この映画の成功は間違いないと確信した。  イントロダクションからは、かつてのスーパースターの復活を描いたサクセスストーリーのような印象も受けるが、今作は決してそのような綺麗な映画ではない。 主人公の風貌そのままに、汚れ、くたびれ、傷だらけの映画だ。 「満身創痍」という言葉が相応し過ぎる映画世界、そしてミッキー・ローク演じる主人公の「大馬鹿野郎」としか言いようがない生き様に対して決して共感は出来ない。 ただしかし、引き込まれ、目が離せなくなる。  プロレスに生き続けた老ファイターが、遂に最後までリングにしか居場所を見出せなかったと言えば聞こえは良い。 しかし、そこに映し出されているのは、愚かで、切ない一人の男の姿であり、この映画が描こうとしたことはまさにそういう人間の根本的な無様さだ。  “現実”の死を厭わず恐らく最後になるであろうリングに立つ男の姿に涙が溢れるわけではなかった。 唯一残された「居場所」、そこに立つまでの男の全ての言動が、哀しく切ない。 この映画に描かれていることも、描かれていないことも、この男の人生そのものに涙が溢れた。  リング上で闘い続けるということが、逆接的に立ち向かうべき己の人生から逃げ続けたこととイコールになる悲哀。 ただし、それが不幸だろうが幸福だろうが、決して他人はその人生を否定も肯定も出来ない。 その価値を計れるのは、紛れもないその人生を生きた本人しかいない。  「生きる」ということの普遍的な厳しさと、だからこそ垣間見える人間の煌めきが心を揺さぶる。これはそういう映画だ。
[DVD(字幕)] 9点(2012-02-11 01:33:57)(良:2票)
292.  ミッドナイトクロス
ヒロインの「悲鳴」に気づき、ジョン・トラヴォルタ演じる音響効果マンの主人公が彼女の危機を救うべく走る。  このクライマックスまで冴え渡るブライアン・デ・パルマのカメラワークを観ながら感心しつつ、一方で「意外とオーソドックスな映画だったな」と、その後に訪れるであろうエンディングを予想して思った。  そして、同時にジョン・リスゴーが扮する殺人者の存在性や解消されていない物語設定に若干の整合性の欠如を感じ、「不満」が顔を見せ始めた。    しかし、その直後、「不満」は速やかに叩き伏せられた。  安直な予想を覆す圧倒的に印象的なエンディングに言葉が無かった。  時に軽妙ささえ巧みに醸し出しながら展開してきたサスペンス色豊かな映画世界が、一転して上質な「悲劇」へと帰結する。    過去に傷を持つ男が、或る事件の遭遇によってかつての正義感を揺り起こす。それは、不遇を極めている人生からの起死回生の脱却を図った一人の男の姿だったと思う。  しかし、人生の無慈悲は、ふいに生まれたその転機のきっかけさえも、無情過ぎる悲劇をもって消し去る……。    大いなる失意の中で音響効果の仕事に戻る男。  試写を観ながら「いい悲鳴だ」と繰り返し呟くその様は、男が静かに精神の闇に沈み込んでいく様子が如実に表れており、胸が詰まるラストカットだった。     本編への重要な伏線となる劇中映画を用いたオープニングからはじまり、ラストの美し過ぎ悲し過ぎる花火シーンに至るまで、全編に渡ってブライアン・デ・パルマの卓越した映画術が冴え渡っている。  おそらく、一度観ただけでは気付かないような細かな映画的工夫も随所に散りばめられていることだろう。   そして、ジョン・トラヴォルタは、映画世界の展開とそれに伴うテンションに混じり合うように呼応し、音響効果マンの主人公を演じ切ってみせている。    群衆の賑わいに掻き消される悲鳴。誰にも届く筈の無い悲鳴が、主人公にのみ届くという映画的な巧さと絶望感。  鑑賞前に予想していたものとは全く違う感情を覚えたが、それこそが映画の醍醐味だと思う。  良い監督と良い俳優による文句なしに良い映画だった。
[DVD(字幕)] 9点(2012-02-02 13:47:26)(良:1票)
293.  スーパー!
想定を大いに超越する“トンデモ”映画だった。 同時期に製作された「キック・アス」と殆ど同じプロットだと思っていたが、これはまさに“似て非なるもの”で全く「別物」の映画と言っていい。同様のカタルシスを得られると思って観てしまうと、とんでもないしっぺ返しを食らうこととなるだろう。実際そうだった。  この映画で描かれているものは、「キック・アス」のような新たなヒーロー像を構築したエンターテイメントでは決してない。 己の人生に絶望し、それを歪んだ正義感に繋ぎ合わせ、悪に対する憎しみを最大限に増幅させてしまった凡人の“狂気”の様だ。 主人公の想定外の暴走は、観ている者の心を問答無用にかく乱し、「衝撃」なんて飛び越えて、唖然とさせる。  自ら去った愛する妻の奪還、心のよりどころである神への信心、主人公を突き動かす要因は様々だが、そのすべてはほんの小さなきっかけに過ぎなかったのではないかと思う。 “ヒーロー”の「仮面」を被り、悪の抹殺行為が過剰に加速していく様は、主人公の男がそして人間そのものが元来持ち得る「衝動」が、膨らみ、弾けてしまった結果のように見えた。  あらゆるものを失い、主人公は“一応”目的を果たす。 ラストではそれでも何かが救われたように描かれているけれど、それこそがまさに“フェイク”で、偽物のヒーローが辿り着いた先はやはり「悲劇」だった。  映画において、何と言っても衝撃的なのは、エレン・ペイジである。 即席ヒーローと化した主人公に呼応し、相棒役“ボルティ”に扮するリビーを演じた彼女のパフォーマンスは、文字通りに終始“弾けている”。癇癪玉のように突如として弾け、これでもかと弾け続け、ふいに弾けとんで終わる……。 主人公が徐々にその狂気性を高めていくのに対し、リビーはそもそものキャラクター性が暴走的で狂気じみている。 リビーの行動を引き起こしたのは主人公だが、主人公の行為を破滅的に深めたのはリビーであるという絶妙な関係性が、この映画の肝と言っても過言ではない。  その重要な役所を、相変わらずの小さな体で“妙ちきりん”に魅せたエレン・ペイジこそが、この映画の最大の見所と言ってもいいだろう。  前述の通り、決して気分の良い映画ではない。ただ、批判も肯定もとにかく観てみないことには何も始まらない。
[DVD(字幕)] 9点(2012-01-29 10:46:48)(良:1票)
294.  その土曜日、7時58分 《ネタバレ》 
「その土曜日、7時58分」この邦題も嫌いではないけれど、原題「Before the Devil Knows You're Dead」は、「悪魔があなたの死に気付く前に天国にあらんことを」というアイルランドの諺を引用しているらしい。 人生においてもはや“死に体”となった主人公を始めとする登場人物たちの様を如実に表したタイトルだと思う。  後戻りできない悪循環にはまった人生を好転させるため、“或る犯罪”を企てる兄弟。容易に思われた計画は思わぬ形で頓挫し、更に最悪な悪循環にはまっていく。 ドラマとして素晴らしい点は、描かれる「悲劇」が、必ずしもその犯罪に端を発しているわけではなく、主人公の兄弟をはじめとする彼らの家族が、そもそも孕んでいた屈折した関係性から生じているということ。  この家族は、決して心の底からお互いを憎んでいたわけではないけれど、長い年月の中で少しずつ鬱積し増幅した軋轢やコンプレックスが、後戻りできない悲劇を生んでしまった。 「家族」という最も身近で、最も微妙な人間関係を主軸に据えたサスペンスが、鈍く光る鋭利な刃物のようにゆっくりとそして確実に突き刺さってくるようだった。  ただでさえ深い面白味をもったストーリーを、時間軸をずらした構成で巧みに描き出し、サスペンスの緊張感と驚きを越えたその先に、濃密過ぎるほどの人間模様を映し出した演出は、まさに「巨匠」のそれだった。 長きに渡り、重厚な社会派ドラマを映画史に刻みつけてきたシドニー・ルメット、その遺作に相応しい映画だと思う。  ラスト、自らの手で悲劇の終止符を打たずにはいられなかった老いた父親が、一人光の中に消えていく。 その先に居たのは悪魔か天使か。その答えはあまりに分かりきっていて、悲し過ぎる。
[DVD(字幕)] 9点(2012-01-21 14:13:03)
295.  インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア 《ネタバレ》 
まず感じたことは、これほど“つかみどころ”のない映画も他に覚えがないということ。 それは面白味が見出せないということではなく、「ああこういう映画か」と認識するや否や、つかみかけた映画の世界観のテイストがするりと手の中から抜けていく感じを冒頭からエンディングまで終始受け続ける作品だった。  序盤は、ハリウッドのスター俳優としてこれからどう転じていくかという一つの岐路に立たされていたトム・クルーズと、その後釜を虎視眈々と狙い始めたブラッド・ピット、二人のスター俳優の新旧の“色気”が画面に映し出されるままにせめぎ合う完全な“女性の欲求くすぐり映画”だった。  そういう映画だろうという予想が、この映画を無意識に敬遠していた要因でもあったので、「ああやっぱりこういう映画か」と若干テンションが下がり始めた頃、掲題の女優が登場。一気に“ちっちゃいキルスティン・ダンストの才能爆発映画”に転ずる。 キルスティン・ダンストがこれほど子役の時代に出演している映画とは知らなかったので、前述の二人のスターをも凌駕する衝撃的な存在感を目の当たりにして驚きが隠せなかった。  その後映画は、ヴァンパイアたちの悲しく激しい対立と運命が描かれつつ、シリアスにそして切なく深まっていく。 「ああ、なかなか悲哀深い映画だった」と結論付けようとしたところ、ラストで更につかみ損ねた。  延々とインタビュー形式で綴られたヴァンパイアの悲しい運命の物語が、何百年に渡る“ぼやき”として軽快なロックと共に一笑に付せられた瞬間、映画ファンとしては幸福なほくそ笑みを浮かべずにはいられなかった。  豪華過ぎるキャスティングの印象が強かったせいか、ミーハー女子好みのある種ベタで王道的な映画世界が展開されるのだろうと思っていただけに、想定外に毒っ気が強く、カルト的な映画世界に最終的に圧倒された。 結局のところ最後まで“つかみ切れない”映画で、美しい部分はとことん美しいし、悲しい部分はとことん悲しいし、馬鹿馬鹿しい部分はとことん馬鹿馬鹿しい。 とにもかくにも、ちょっと他にない類いのユニークな映画であることは間違い。  ああ、生き血をすすりたい欲望を抑えるルイよろしく、なんだかじわじわと滲み出てくる「愛着」を抑え切れない……。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2012-01-09 02:51:59)(良:1票)
296.  ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル
50歳手前のトム・クルーズが、とにかく走りまくり、飛びまくり、吹き飛ばされまくる映画だ。 この映画に対して「どういう映画だ?」と問われれば、こう答えたいと思う。 正直言って、彼のそのパフォーマンスだけでも「脱帽」だと言えるし、必ずしもトム・クルーズのファンでなくともその部分だけでも観る価値はあると言える。 ハリウッドの映画スターとして存在し続ける彼の在り方は、まるで一流のベテランアスリートを見ているようだ。彼自身の俳優としての鍛錬と向上心が、“トム・クルーズ”というハリウッドスターの存在性と輝きを保持し続けているのだと、思わずにはいられなかった。  映画自体は、「ミッション:インポッシブル」というスパイ映画シリーズとして「面白い」としか評する言葉は必要ないと思う。PART2、PART3の出来が決して良くないので、そもそも質の高い映画シリーズとは言い難い部分はあるが、今作は、それらを補える程の面白味を携えたPART4として仕上がっていたと思う。シリーズ最高傑作と言っても間違いないと思う。  こういったシリーズ物の悪しき特徴として、最新作の設定において前作の苦労があっけなく水泡に帰してしまっているということが多々ある。今作にしても、前作で必死になって守り切ったものが、すでに喪失してしまっているというくだりがある。 それに対しては大いに難癖を付けたかったところだったが、今作はエピローグで見事に消化してくれている。  そのこともあり、ラストのシークエンスがより爽快感に溢れ、50歳を過ぎようがなんだろうが、トム・クルーズの更なる続編に期待は膨らんだ。  とにかく映画の中のあらゆることが超格好良くて面白い。それだけの映画だ。
[映画館(字幕)] 9点(2011-12-25 23:59:09)(良:2票)
297.  塔の上のラプンツェル
「ああ……テレビが小さ過ぎるな……」  目の前では、居なくなったプリンセスを憂いて無数の灯りが夜空に向けて上げられている。 自宅の32型の液晶テレビに映し出される、その美し過ぎるシーンを観ながら思った。 同時に、この映画を映画館で、そして3Dで観なかったという“失敗”に今さら気づき、遅過ぎる後悔を感じた。  理屈ではない。ディズニーはやっぱり素晴らしいとしか言いようがない。 ディズニー映画に対する問答無用の高揚感はもはや条件反射で、それは世界中の子供たちに行われ続けている“幸福な刷り込み”によるものだと思う。 大人になって、ディズニー映画の新作を見てもすんなりとその高揚感を味わうことは少なかったけれど、この映画にはかつて自分自身が子供の頃に“刷り込まれた”愛すべきディズニー映画の“源泉”が溢れ出ているようで、ただただその世界観に包み込まれた。  四の五のと御託は必要ない。今の自分を取り囲む“いろいろ”を一旦ソファーの横にでも置いといて、世界で最も信用度の高いブランドによる「夢の国」に入り込むべし。  P.S.残念ながらDVDやBlu-rayで観るのであれば日本語吹替で可。しょこたんギザウマス+ギザカワユス。
[DVD(吹替)] 9点(2011-12-21 15:50:43)(良:1票)
298.  羅生門(1950)
三船敏郎の豪快かつ虚無的な“馬鹿笑い”が脳裏に焼き付くようだった。 彼をはじめとする、往年の日本人俳優の圧倒的な“エネルギー”を改めて感じる作品だった。  黒澤明監督の「羅生門」という作品の存在は、当然ながら随分前から知っていた。 海外でも殊更に評価の高く、名作名高い映画であることも知っていたが、個人的には敬遠していた節があった。 それは、「羅生門」という芥川龍之介の原作からイメージされる文芸色の強さに対して、あまり魅力を感じることが出来なかったからだ。 高校時代の国語の教科書に芥川龍之介の「羅生門」が掲載されていたが、“ニキビを気にする下人と薄汚い老婆が屍の上で押問答を繰り広げる短編”という印象が強く、その世界観が映画としてどのように展開しているのかが甚だ懐疑的だった。  ただ実際は、同じく芥川龍之介の短編「薮の中」を映画化し、人間のエゴイズムを如実に表した“裁判劇”だった。  うだるような暑さの山間で巻き起こった強姦と殺人。一つの事件が、当事者らの証言によって紡がれる。 自己の保身と美化によって、自分たちの都合の良いように繰り広げられる証言。三者三様の言い分が食い違っていく様が、人間の愚かさを印象的に映し出していく。  照りつける太陽の下で繰り広げられる「事件」の描写と、天をひっくり返したような豪雨の羅生門で繰り広げられる事件に対する「考察」の描写が、人間そのものの浅ましさと無様さをあざけ笑うかのように表現され、黒澤明という絶対的名匠の存在性を改めて感じた。  個人的にはラストにもうひと捻りが欲しかったところだけれど、そこには、人間の愚かしさを延々と描いた作品だけに、最後の最後には“一筋の光”を入れずにはいられなかった巨匠の「希望」が垣間見えた。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-12-13 11:20:18)
299.  スティング
若々しいロバート・レッドフォードが、ブラッド・ピットに見えて仕方がなかった。“そっくり”ということはないけれど、醸し出される俳優としての雰囲気が、とても似ていた。 個人的な推測だけれど、これだけの名作において現在に至るまでリメイクの企画が出ていないわけはなく、その度に“フッカー”役にはブラッド・ピットがキャスティング候補として挙ったのだろう。 そして、ポール・ニューマンの“ゴンドーフ”役には、ジョージ・クルーニーあたりが挙っていたのだろうけど、「オーシャンズ11」を先にやられてしまい、そのままのキャスティングではあまりに二番煎じすぎてインパクトがなくなってしまったから、リメイクの企画が頓挫しているのではなかろうか。まあ邪推に過ぎないが。  とにもかくにも、「詐欺師映画」の金字塔とされる名作と呼ばれるに相応しい素晴らしい娯楽映画だった。 往年の娯楽映画においては、どんなに「名作」と呼称され、作品の“売り”を見聞きしていても、“肩すかし”を食らうことが多い。 それは、次々に生み出される映画が、過去の名作を踏まえてより観客に衝撃を与える作品として製作される以上仕方がないことだと思う。 今回、今作の鑑賞に至っても、映画世界そのものの雰囲気と往年のスター俳優たちの格好良さを堪能出来ればそれでいいくらいに思っていた。 しかし、しっかりと「詐欺師映画」として“驚き”と“娯楽”を楽しむことが出来、そのことが最大の「衝撃」だったと言える。  ブラッド・ピットに見えるロバート・レッドフォードも良かったが、何と言っても、ポール・ニューマンの老練熟達した“男ぶり”に惚れ惚れしてしまう。 この二人のスター俳優の「名優」としての記憶が新しい限り、“リメイク”のハードルは極めて高く、そのことが慢性的なネタ不足のハリウッドでさえなかなか本腰を入れて手が出せない最たる要因なのかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2011-12-12 16:55:51)
300.  (500)日のサマー
その昔、ある友人の恋模様のエピソードを聞いていると、度々「コーヒーに誘った」という内容が出てきた。 それを聞いた僕は、「コーヒーなんて誘ってどうするんだ?」とまるっきりピンと来なかった。 自分が関心を持っている相手とコーヒーを飲みながら話をするという選択肢自体が、当時の自分の中はなかった。 最近になって殊更に目につくのだが、欧米の映画では男女の会話の中で、「コーヒーでもどう?」という台詞というか“駆け引き”がしょっちゅう出てくる。 ああそうか、男女の駆け引きの中では、“コーヒーに誘う”という行為はものすごく一般的な常套手段なんだな。ということに今更ながら気付いた。 まあそんなことはこの映画には関係ないので、どうでもいい。   「運命」は「偶然」だと思うし、「偶然」は「運命」だと僕は思う。 だから、「すべての出来事は偶然だ」ということと、「すべての出来事は運命だ」ということは、まったくの同意だと思う。  “500日”という時間の中で、出会い、別れた男女の様を美しくユニークな映像世界の中で、切なくポップに描き出したとても良い映画だと思えた。 たとえ“1日”でも恋を経験した人であるならば、男女問わずに、どこかしらに共感できるポイントがあって、その可愛らしくも辛辣なシーンを目の当たりにして、胸がきゅう~っとなる映画だったと思う。  500日目の後に新たな“1日目”が始まる偶然。 500日目の後に“501日目”が始まる運命。 両者は平等に可能性を秘めており、それらを繰り返しながら、すべての人たちは“1日”を生きている。
[DVD(字幕)] 9点(2011-12-10 14:09:29)
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