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ドラえもんさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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61.  トニー滝谷
次々と繰り出される横移動のカメラによる平面的な映像は、どこか都会的でアンニュイな雰囲気を漂わせている。今の場面と次の場面との繋ぎの役割を果たしているのは柱や壁。それらの影から登場人物たちをそっと覗き見しているような感覚は、昨今のドマラ性のあるCMを観ているようで、CM界出身という市川準のセンスを存分に感じさせる映像表現である。すべてを忘れ捨て去ったときに初めて生涯で最も大切なものに気づくというテーマの本作は、しかしながらストーリーを語っていく作品ではなく、あくまでも映像で綴っていくタイプの作品だと言える。だからだろうか、研ぎ澄まされたセリフのひとつひとつには深い思いが込められ、少ないセリフだからこそ余計胸に突き刺さるのである。登場人物は基本的にイッセー尾形と宮沢りえの二人だけ。長年一人芝居でキャリアを積んできたイッセーの才能は、ここに於いて遺憾なく発揮され、彼にしか出せない味を体現してくれた。また「父と暮らせば」などで二人芝居づいている宮沢りえは、二役をさり気なくしかし絶妙に演じ分け、一段と演技力が増したように思う。演技力があればこその起用であろうし、二人とも見事それに応えている。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-27 18:35:01)
62.  宇宙大怪獣ドゴラ
数々の名作を世に送り出してきた特撮映画の東宝が、目先の変わった怪獣映画として生み出したのが本作。宇宙大怪獣と言っても人間には殆んど危害を加えず、エネルギー源である炭素を求めて地球に飛来してきた宇宙生物なのである。ただ、人間を襲わない未知なる生物は脅威ではあっても恐怖感などは生まれるべくもなく、本来ならその時点で怪獣失格なのである。しかし本作はそのあたりの不備を、ダイヤモンド・ギャング団と宝石Gメンと刑事との三つ巴のドラマを絡ませて、従来の怪獣モノとはひと味違う作品に仕立て上げている。単なるアイデア倒れに終わらせまいと脚本にも苦心の跡が窺えるが、ドラマ部分のコミカルな味わいがやたら面白くて、ズッコケ調のギャング団の間抜けぶりや宝石Gメンと夏木陽介扮する刑事との珍妙な遣り取りなどは、本多猪四郎監督のコメディ・センスを改めて感じさせる。中でも、宝石Gメンのヘンな外人ダン・ユマのすっ呆けた味わいは棄てがたく、肝心の「ドゴラ」が霞んでしまう程だ。で、この“主役”の影が薄いのも脚本や演出だけの問題ではなさそうで、やはり円谷特撮にもその責任の一端はあるように思う。クラゲとタコをミックスしたような、半透明でユニークな生物の造形力は素晴らしいが、いかに円谷英二と言えども着ぐるみ怪獣とは勝手が違い、この当時の技術では十分に表現しきれなかったようだ。勿論、洞海湾上空での攻防戦は迫力十分で見応えはあるし、石炭を吸上げるシーンの凄まじさには、さすが円谷特撮と思わず唸らされる。とりわけ薄暗い上空から触手が降りてくる不気味さなどに、工夫の跡が窺える。しかしやはり「ドゴラ」の出番が少ない事もあり、それらの現象以外に観るべきものがないので、どうしても物足りなさを覚えてしまう。当時、劇場用ポスターや宣伝用のスチール写真が見事だっただけに、本編との落差に少々ガッカリしたことも憶えている。でも「ドゴラ」というキャラクターをこのまま埋没させておくのも勿体無い話で、今のCG技術で是非復活させて欲しいと密かに期待している今日この頃であります。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-23 18:15:30)(良:1票)
63.  サマリア
細かい状況設定を思い返すと、不可解さばかりが目立つ作品だ。例えば、援助交際の相手の連絡先を、一人残らず手帳に記していたという事。飛び降りて死んでしまったチェヨンの後日談には、さっぱり触れられていない事。しかも彼女の死顔の微笑みは謎を残したままだ。映画は彼女の死などまるで無かったかのような描き方をしているのは、チェヨンという少女がそもそも存在していなかったからではないだろうか。映画の中盤からは、主人公のヨジンとその父親のドラマへと収束されていく以上、チェヨンの存在理由はますます遠退くばかりだ。想像の域は出ないが、ヨジンは自らの心の空洞を埋める為に、もう一人の自分をチェヨンとして演じていたのではないだろうか。ヨジンにとっては理想の少女がチェヨンなのだ。思春期の少女の揺れ動く心は、シャワーを浴びるふたりの姿で表現される。それはまるで汚れを知らないかのような可憐で妖しい美しさ。男に体を売る自分と、それを外から見守る自分。分身である一方の自分が消滅すると現実に引き戻される自分がいる。映画はファンタジックな世界から、やがてリアリズムの世界へと変貌していく。後半、随所に出てくる生々しい暴力描写はギドクらしさに満ち溢れているが、父親の異常なまでの感情の爆発は明らかに常軌を逸している。彼の理解を超える行動は、娘のとった行為に苦悩していると言うよりも、まるでそれを正当化しているように見え、焦点がぼやけてしまった印象は拭えない。喧騒からやがて静寂の世界へと父と娘の癒しと懺悔の旅は続くが、父親がそうであるように、彼女のとるべき道も彼女自身すでに分かっている筈である。だから象徴的なラストは敢えて必要ではないとも思う。しかし現代人の抱えている問題を、どこまでも寓意に満ちた手法で描き切ったギドクにはやはり目が離せない。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-16 16:10:50)
64.  エレニの旅
アンゲロプロスの映像世界には、他の誰もが真似ることが出来ないこだわりとオリジナリティがある。今日に至るまで、死守され続けてきたこの人だけの映像スタイルは、黒澤とそして小津の影響が明々白々であり、その姿勢は愚直なほど一貫している。オープン・セットでは超望遠レンズを多用して映像に奥行きと重厚さを生み出し、室内シーンともなると固定キャメラで延々と芝居をさせる事などがその顕著な特徴である。本作はギリシア悲劇をベースに、繰り返される戦争の虚しさとそれに翻弄される民族、そして愛する者への慟哭を描いたものである。これはアンゲロプロスが作家として追い続けている永遠のテーマであり、また世界的に見ても唯一無二である事で、独自の地位を築き上げてきた人である。一大叙事詩とも謳われるその映像は、まるで能の舞台を観るかのような様式美で統一されていて、室内よりむしろオープン・セットにより彼らしさが表れている。それは彼の作品のモチーフでもある「河」に象徴的に描かれる。ときに国境として、あるいは祖国を分断するものとして、さらに民族の分裂から仲間や家族との別離といったシーンにより深い意味が込められ、今まで以上に大きな役割を担っていると言える。オープニングの難民たちに始まり、洪水に見舞われ水没する村々、あるいは多くの舟が整然と並び、漕がれる櫓が幾何学模様となって河を渡るシーンなど、それらはまるで静物画のような美しさで描かれる。また、木に逆さ吊りにされた無数の羊たちのショット、あるいは土手を挟んで二人の息子が再会する様子を、幻影として見つめる母親の姿を捉えた終盤のシーン等々、物言わぬ映像が多くの事を語りかけてくる。悲しくも美しい映像には枚挙の遑が無いほどだが、ひとつひとつのシーンはまさに芸術品であり、あたかも美術館を巡っているようである。細かなプロセスが省略されていても、個々のエピソードは十二分に理解でき得る。映像の持つ力とはそういうものなのである。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-15 18:32:14)(良:2票)
65.  ウィスキー
下町で古びた靴下工場を細々と経営する初老の主人ハコボの元へ、疎遠になっていた弟のエルマンが訪ねてくる。ハコボは事もあろうに、従業員のマルタに偽装夫婦になる事を頼み込み、三人での束の間の奇妙な共同生活が始まるというのが、大雑把なストーリー・ライン。何故、ハコボは結婚していなかったのか、或いは偽装結婚を何故する必要があったのか、などと言った素朴な疑問には殆んど触れられないまま、ドラマは進行していく。勿論、それらには然したる意味はなく、何の変化もない同じ事の繰り返しで明け暮れしている所へ、一石を投じた事によりドラマが生まれ、やがて人間の本性が炙り出される面白さ。様々なエピソードを積み重ねる事でそれらは的確に描出されていく。静かな語り口だが演出は実に巧みで、ドラマらしいドラマがなくとも、多くの事を語りかけてくる作品だ。もう若くもなく、同じスタイルに固執し変化を望まない一組の男と女。仕事以外のことには無気力・無関心で、自分の殻に閉じこもって人生を楽しもうとしないハコボ。今までどのような人生を送ってきたのだろうか。しかし羽振りのいい弟には弱みを見せたくないという、兄としてのプライドだけは持っていて、その頑なな姿勢はどこまでも崩さない男だ。年配の従業員マルタも寡黙で仕事には従順な女性として描かれるが、利己的で単純なハコボと違い様々な表情を垣間見せる。彼女は一人では生きていけない事を自覚し、そして何かに期待を抱きながら生きてきた女性なのである。偽装夫婦を頼まれた時に快く応じたのもやはりその何かを期待したからで、たまたま年恰好が同じという程度の理由で、マルタを選んだハコボとは大違いだ。だからラストのしっぺ返しも当然の成行きとも言える。表向きは例え同じ方向を向いているようでいても、生き方や考え方というものはやはり人それぞれ違うという、至極当然のことを映画は改めて教えてくれる。“チーズ”と“ウィスキー”の違いはあっても、人生を笑顔で過ごしたいのは何処の国の人も同じだと、作者は言いたげだ。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-09 16:21:21)(良:3票)
66.  ミリオンダラー・ベイビー
「ミリオンダラー・ベイビー」はそのタイトルからくるイメージとは程遠い、実に重みのある作品だった。もちろん途中までは、確かにアメリカン・ドリームを実現しようと奮闘する、いわゆるウエルメイドな痛快篇であることには違いないが、人生、好事魔多しで、奈落の底へ叩き落とされた途端、ドラマは後半急速に深刻さを帯びてくる。実の娘あるいは家族への想いが届かないもどかしさに、人生のほろ苦さを味わうフランキーとマギーは実の父娘以上の、まさに運命共同体である。そんな戦友とも言える二人が見た束の間の夢は、残酷な形で跳ね返ってくる。それはたまらなく悲惨で、ひたすら重苦しく、ほんの僅かな望みさえ奪われてしまう二人の無念さが、胸に迫ってくる。本作で表現される光と闇は他で類を見ないほど巧みであり、暗い情念の世界がスポットライトを浴びているファイトシーンとの対比で、悲惨さをより際立たせるには実に効果的だったと思う。そしてフランキーが応急処置のスペシャリストでもあることが、図らずも皮肉な形となって表れるのが終盤のシークエンス。その一部始終を暗闇から見届ける親友のスクラップの眼差し。神に背いて究極の選択をするフランキーに対し、スクラップのその眼差しは、まるで沈黙する神のようである。自らの運命を宿命として受け入れるスクラップの生き方に対し、見るに見兼ねてひたすら行動に移すフランキーのイメージは、「許されざる者」のマニーの姿とだぶる。そして、生きることに絶望した人間に一縷の望みを叶えてやるという魂の救済の物語としては、「ひとりぼっちの青春」のM・サラザンとJ・フォンダの関係に重なり合う。まさしくフランキーは“廃馬を撃った”のであるが、マギーの微笑と一滴の涙がすべてを物語るように、彼自身の魂をも救済されたと思いたい。これが本作が究極の愛の物語と言われる所以であろう。人間とは哀しく生きることは苦しいという使い古されたテーマが、これほど切実に心に響く作品も滅多にお目にはかかれない。どうやらアカデミー会員は最良の選択をしたようだ。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-08 18:36:39)(良:3票)
67.  コーヒー&シガレッツ
喫茶店などの喫煙タイムで、我々が日常よく目にする光景を掬い取ったのが今回のJ・ジャームッシュ作品。 11のエピソードから構成されているが、ここに登場する人物たちは必ずと言っていいほど複数であり、寸暇を一人で楽しむR・フレンチ嬢ですらウエイターが絡んでくると言った具合。それぞれのパートには実に個性的な顔ぶれが並んでいる。で、そのアトランダムな組合せから生じるミスマッチな会話の面白さが、本作の狙いなのかと問えば、否、会話そのものは大して面白いものでもなく、むしろ会話の噛み合わなさから来る気拙い空気を、コーヒーや煙草で間を持たせようとする、彼らのリアクションそのものに妙味があるという事なのだろう。エピソードとしてはS・クーガンとA・モリーナのパートが面白い程度で、それ以外は実に他愛ないものばかり。それにしても、ここに用意されている喫茶店あるいは喫煙室の無機質で殺風景なこと。モノクロだから余計そう感じるのかもしれないが、少しも楽しそうには見えないぞ。オセロの碁盤のようなテーブルクロス(カップが何故か余分にある)に、マルボーロとキャメルなど定番ものばかりで、忙しなく啜るだけのコーヒーと、ふかすだけの煙草など、まったく美味そうには見えない。コーヒーと煙草という本来の主役も、ここでは間を持たせる為の道具としてしか存在しないという、アンチテーゼともなっているようだが、旨みやコクといったことにはほとんど触れられない事で、「スモーク」でW・ハートがさり気なくお洒落に煙草をふかしていたシーンから伝わるものが、本作からは感じとれなかった。だから、少なくともこの作品を観た後で喫茶店に入ろうとは、私は思わなかった。
[映画館(字幕)] 6点(2005-06-02 18:33:29)(良:1票)
68.  ZOO(2004)
フルアニメを含む5話のショート・ストーリーからなるオムニバス作品。若手人気作家・乙一の原作が基になっているという事だが、私は知らない。いや、むしろ原作の世界観を知らないからこそ、映画として純粋に楽しめたとも言える。ホラー・心理サスペンス・近未来もの等々、内容はバラエティ豊かにチョイスされていて、しかも実にバランス良く配列されているため、些かも飽きる事はない。様々なジャンルで活躍する若手演出家にそれぞれのパーツを受け持たせて、個性のぶつかり合いの面白さを狙ったとも言えるが、押し並べて水準以上の作品に仕上がっている。全編に共通しているのは「人間の死生観」が色濃く滲み出ているという事なのだが、だからと言ってこの作品に哲学的なテーマを嗅ぎとる人などいないだろう。極めて限られた空間=小宇宙での物語だが、本作はあくまでもエンターティンメントなのである。個人的には、第1話の「カザリとヨーコ」のブラックさと、双子の姉妹を演じ分けた小林涼子の自然な演技、そして第2話「SEVEN ROOMS」の横並びの密閉された部屋が、狭い水路で繋がっているというアイデアを巧みに利用した点などがお気に入り。あっ!と驚くような仕掛けこそ無いが、それなりに演出上の工夫もなされており、ヒネリもスパイスも程よく効かせて、現代社会の抱えている問題をさり気なく提示している。そして本作は小品ながら、人間の心理というものを巧みに描出している点では何より傑出しており、出演者も見事それに応えている。ただタイトルでもある最終話「ZOO」だけは残念ながら誉めようが無いほど独りよがりな作品で、「恐怖」と「悪趣味」とを明らかに混同しているようである。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-02 15:42:12)
69.  悪魔の発明
半世紀の時を経ての念願叶い、生涯最も観たかった作品とついに巡り逢えた。作品の素晴らしさは筆舌に尽くしがたく、そのイメージは想像で思い描いていた以上であり、これが五十年も前に創られた映画なのかと改めて驚くと共に、長年待った甲斐があったとしみじみ感じる。噂では知っていたけれど、実際には観たことがないカレル・ゼマンの世界は、まさしく「イメージの宝庫」と言えるものであり、それ以上に「斬新さと独創性」というものが強烈に印象付けられるものであった。作品世界は今で言う“SFファンタジー・アドベンチャー”だが、如何にも使い古された感のあるこのフレーズには全くと言って当て嵌まらない。私にとっては、まさに“未知との遭遇”なのである。その映像は“実写とアニメの共存”とでも表現すればいいのだろうか、例えば「ロジャー・ラビット」等とは対極にある、絵画で言う平面画にこだわりを見せている点である。アニメーションと言っても現在のイメージとは大きく違い、西洋の古き書物の挿絵あるいは絵画の下絵から抜け出てきたような、まさに“絵が動く”のであり、その新鮮な驚きは感動的ですらある。しかもそれらアニメ部分や実写との合成、或いは書き割りに至るまで、銅版を用いた線画で表現することに徹していて、さぞや気の遠くなるような手間隙かけた作業であったろう事は容易に想像できる。さらにモノクロ映像にしたのも功を奏したようで合成だと思っていたら巧妙に創られたセットだったりと、目を凝らしていても解からない。これらの、まるで騙し絵のような摩訶不思議な映像の洪水には圧倒されてしまう。もはやストーリーやテーマなどそんな事はどうでも良く、目の前で展開される予測のつかない、まるで玉手箱のような映像に身を委ねていればそれでいいのである。ミニチュアからセット・デザインに至るまで、映像のプロとしての緻密に計算され尽くした画面構成と、カレル・ゼマンの少年のような無邪気さと奔放な遊び心とが見事に結実したこの「悪魔の発明」は、「天才の発明」した、まさに世紀を超えた傑作であると、私は断言したい。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-01 18:39:22)(良:2票)
70.  コラテラル
ここに登場するT・クルーズは殺し屋だが、むしろ淡々と仕事をこなすビジネスマンといった印象で、従来の殺し屋のイメージとは大きく違う。初の悪役という事もあり、おそらく型通りの役作りを彼自身が嫌ったのだと思われるが、その為か、表層的には冷酷で非情な男ながら、かなり人間臭い面も表現できたように思う。そして一方、都会を仕事の場として生きている事では、J・フォックスのタクシー・ドライバーも同じである。違うのは仕事の中味。目的と手段とが異なる二人の男が一つの車に乗り合わせた事により生じる熱いドラマ。都会にささやかな人生の望みを抱いて生きてる男と、生きることに疲れ、こんな生き方しか出来ない自分に嫌気がさしている男。本作はそんな対照的な二人の男の生き方を通して、クライム・サスペンスのスタンスを保ちながら、都会で生きることの孤独を痛切に描いた作品である。とりわけ“街の片隅で野垂れ死にしても誰も気に止めない。都会とはそういうものさ。”というような意味のセリフは、自らの行く末を暗示すると同時に、父親の死に様の含みをも持たせ、都会の冷淡さと厳しさを痛烈に感じさせるエピソードとなっている。だからだろうか、生きていく事に執着するドライバーに対し、殺し屋は死に場所を求めて街を彷徨っているようにも見える。話が進むにつれて二人は、殺そうとする者とそれを阻止しようとする者として対立するのだが、孤立無援で闘いに挑むフォックスに対し、クルーズをターミネーターのような怪物に仕立て上げたのは、演出プランの計算違いというものだろうか。しかしそういったストーリーやドラマツルギーよりも、日常・非日常の世界が渾然一体となって息づいている大都会そのものが主役である事こそが重要なのであり、ロスの夜を舐めるように活写したカメラが見事な効果を上げ、そしてそれが美しく魅惑的であればあるほど、人間の寂寞感がより際立つ役目をも果たしている。終始都会的センスで描き切ったM・マンの力強い映像は、言葉よりも雄弁で、やはり凄いという他ない。
[映画館(字幕)] 9点(2005-05-26 18:17:41)(良:5票)
71.  TUBE/チューブ
「ヒート」を彷彿とさせる導入部の銃撃戦が迫力十分で見応えがあり、これからの展開に大きく期待を抱かせたものだったが、結局、見所はそれだけという実に無残な作品だったと言える。韓流ブームにも乗って日本の映画興業界は、今や韓国製映画が闊歩しているような感がある。たしかに優れた作品も少なくは無いが、やはり不出来な作品の方が圧倒的に多いのも、また事実。その代表例が本作で、とにかくアイデアのみで突っ走っているというだけで、物語の根幹をなす作劇や状況設定、あるいは登場人物の性格付けなどがまったくの未整理で、明らかに脚本の不備が指摘されて然るべきである。その欠陥を補えるほどの力量が監督にあればまだしも、この監督自身がほとんどシロウトのような人で、その演出力は学芸会レベルと言ってもよく、演出家の資質というものがまったく感じられない。 一番残念なのは、これだけ多くの人物を登場させていながら右往左往させるばかりで、殆んどドラマに生かせていない点である。主人公カップルなどは、愛だの恋だのというには余りにも幼く、また魅力の乏しいのが致命的。そもそも二人はどういう関係で何故同じ列車に乗り合わせたのか、何故彼は自己犠牲になる必要があったのか等々、多くの何故が噴出するばかりの、観客にとってはまったくの意味不明な作品である。今後、予告編やポスターからくるイメージだけで判断すると痛い目に遭うという教訓にしたい。
[映画館(字幕)] 2点(2005-05-25 18:10:02)
72.  交渉人 真下正義
皆さん、結構評価厳しいですね。個人的には大変面白く拝見させていただき真下。スピン・オフってハリウッドには多く見られるものの、日本映画では極めて珍しく、TV番組で好評を博し、その後の映画化でさらに圧倒的な支持を受けた「踊る」シリーズならばこそ実現できた企画ではないだろうか。だからと言って、決して安直さに堕することなく、むしろ本家をも凌駕するほどのスケール感と作品に対する熱気が感じられ、実にしたたかな作品に仕上がっている。見えざる敵から指名された交渉人とが頭脳ゲームを展開するという、コンセプトそのものは珍しくもないが、それを映画初主演のユースケ・サンタマリアが演ずるところに意外性の面白さがあり、本作が新鮮に感じるところ。声質が明瞭である反面、少しトボケた言葉の響きから、交渉人と言うよりも、いかにも頼りなげなサラリーマンといった彼の風情が、本作のひとつのアクセントともなり、その屈託の無い表情や演技の上手下手とは関係ないところで魅力を放つ、不思議なタレントだと言える。そういう意味ではズバリ!彼の起用は成功したと言っていいのではないだろうか。彼以外にも国村準、寺島進あるいは金田龍之介など、プロフェッショナルに徹した男をそれぞれが好演し、存在感を示している。場面場面で登場人物の表情を的確にしかもカッコ良く捉えたカメラが素晴らしく、通称“クモ”と呼ばれる実験車両の冷たく光沢を帯びたマシーンの妖しい美しさや、動と静の呼吸の間が、まるで生き物のような不気味さを感じさせて秀逸。さらには煌びやかな光に彩られたイヴの夜を俯瞰で捉えた爆発シーンや、象徴的にカラスをうまく採り入れた演出など、都会的な洗練された撮影技術が効力を発揮している。緊張の連続の中でホッとするような笑いを入れるなど、本広演出のテンポも実に心得たもので、邦画としてまずは上々の作品ではないだろうか。粗や矛盾点は探せなくも無いが、難癖をつけだすと、このテの映画は楽しめないという事も心しておく必要がありそうだ。
[映画館(字幕)] 8点(2005-05-20 18:13:09)(良:1票)
73.  ハウルの動く城
宮崎アニメの作画の細やかで丁寧な仕事ぶりは作品数を重ねるごとに一段と磨きがかけられ、本作もその映像の際立った美しさは相変わらずなのだが、琴線をくすぐる程度で、心が大きく揺さぶられる程の感動をもたらせてはくれない。原因のひとつに、やはり物語性の希薄さと曖昧さが指摘できようか。しっかりとしたドラマツルギーがあればこそ、映像も引き立つというものなのだが、映像だけが独り歩きして、ドラマが付いて行っていないのだ。まるで宮崎自身が製作途中で飽きてしまい、その為に物語の構築が頓挫してしまったような印象を受ける。とりわけ映画の後半、物語性が後退していくに従って、映像の輝きが急速に失せていく。何より様々なキャラクターや状況設定が混沌かつ曖昧であること。そしてそれ以上に宮崎アニメのモチーフでもある魔法の驚きや神秘性への憧憬、そしてその必要性すらも曖昧さに終始している。何かが言い足りない。何かが描き足らない。まさに必要不可欠なシーンがカットされているような気がしてならない。(これが本当のディレクターズ・カットと言うのかも知れない。)映像さえ美しければそれでいいのか・・・と、つい言いたくなる。しかし世界的に大成功を収めている宮崎アニメに、我々はいつからそんなクオリティの高さばかりを要求するようになったのだろうか。今年八十歳になる母親に本作を見せてやると、「話はよく解からなかったけど、映像が美しくて心が洗われるようだった。」と喜んでくれた。それいいのだと思った。
[映画館(吹替)] 7点(2005-05-19 18:03:40)
74.  ビヨンド the シー/夢見るように歌えば
「天は二物を与えず」の格言からすると「天は、ときには幾つも与える」という事なのだろうか。とにかくK・スペイシーの才能には改めて脱帽するしかない。その歌唱力の確かさは大向こうを唸らせ、堂々とした歌いっぷりには男の色気が漂う。さしずめ歌舞伎の大見得を切るイメージと言ったところか。とりわけ”♪Mack the knife”で颯爽とステージに登場するオープニングのシーンは鳥肌モノ。そしてこの人にもこんな面があったのかと、楽しげに踊るダンス・シーンの見事さにも感心する。“俺には生まれながらにしてこんな才能もあるんだぞ”と言わんばかりの自信満々ぶりが表情にも出ているが、決して嫌味にはなっていない。そして、これらがハードなレッスンの賜物であることも想像には難くない。 B・ダーリンに心底傾倒し、本人に成り切りたい一心で作り上げられた本作は、完璧主義者=K・スペイシー一世一代のお祭りムービーであり、作品に対する意気込みや熱意というものが、画面からビンビン伝わってくる。奇しくも同時期に公開された「Rey/レイ」とは、伝説のミュージシャンを扱った作品という点では同じだが、前者がしっとりとした湿り気のある作風であるのに対し、本作はより深刻なテーマを内包しているにも拘らず、むしろカラッとしたテイストの作品に仕上がっている。だから、ひたすら明るく楽しいエンターテインメントに徹して描いている点は、作り手側の潔さを感じるし、それと同時にまったく無駄というものがない音楽映画の秀作だと言える。
[映画館(字幕)] 9点(2005-05-17 15:17:38)(良:1票)
75.  セルラー
今や我々の日常生活に欠くことの出来ない携帯電話の特質を巧妙にとり入れた、サスペンス・アクションの佳作。それはそれはタイトルが始まってからエンドロールに至るまで徹底されていて、主役はあくまでも携帯電話なのだという事が否応なく印象づけられてしまう。本作はいわゆる巻き込まれ型サスペンスで、プロットはいたってシンプルだが、さらに二重構造にすることで空間的な広がりが生まれ、またそれぞれがラインで繋がっていて、移動することにより局面が次々と変化し、そこに予測のつかないスリルが展開されていく面白さ。ストーリー・テリングの巧みさやトリックの仕掛け方など、考え得るありとあらゆるサスペンスのエッセンスをふんだんに作劇に絡ませ、娯楽作品として絶妙の味付けを施している。まさにアイデアの勝利といったところだが、やはり電話をモチーフにした「フォーン・ブース」の脚本で既に実証済みのL・コーエンならではの発想で、アイデアマンとしての面目躍如たるものがある。人助けという思いもよらないトバッチリを受けながらも、咄嗟に機転を利かせて大活躍をするC・エバンスが作品全体を盛上げているが、いかにも小市民的なおじさん俳優W・H・メイシーの意外性のある活躍も見逃せない。ただ、J・ステイサムは「トランスポーター」などで既にヒーローを演じている人だけに、今回の役にはそぐわないような気もする。いずれにしても、小品だが時々こういったキビキビした作品に出逢うから、やはり映画は止められない。
[映画館(字幕)] 8点(2005-05-17 00:24:46)(良:1票)
76.  Uボート 最後の決断
性格俳優として、また名脇役として近年とみにその重責を担っている感のあるW・H・メイシーの最新主演作。若くもなくハンサムでもない、何処にでも居そうなごく普通のオヤジ、といったキャラのメイシーの名演がひときわ光彩を放つ作品だ。潜水艦あるいはUボートをテーマにした戦争映画も少なくないが、本作はその中でもとりわけ小粒で、いかにも低予算で作られた作品だというのが観ていて良く分かる。それは極限状態に追いつめられた男たちの人間ドラマに焦点が絞られている為であり、ハリウッドお得意の大掛かりな戦争スペクタクルなど敢えて必要としていないからとも言える。戦争映画におけるアメリカ人が描くドイツ人とくれば、ヒットラーに代表されるような、情け容赦のない極悪人といったイメージが相場だが、この映画に登場するドイツ人はごく普通の人間として、そしてあくまでもアメリカ人と対等に描かれている。従って本物のドイツ人の俳優を出演させて、話す言葉もドイツ語なのである。これはロシア人を演じようとドイツ人を演じようと、アメリカ人の俳優を使ってしかも英語で喋らすという、ハリウッド悪しき伝統から見れば、対立する両国を際立たせると言う意味において、至極当然の配慮だと思う。だからこそ、祖国を愛し、大切な人を愛し、生きて帰りたいという男たちの願いは、国は違えども同じであるというテーマがより鮮明に浮び上がってくる。とりわけ機関工を象徴として描かれたように、互いに現場で働く者同士、言葉が通じなくとも血の通った人間として気持ちは通じ合い、やがて友情は芽生えるものだという主張は、痛いほど伝わってくる。どこかの国の某戦争映画のような、余計な泣かせを演出するわざとらしさがないのも好感が持てる。また、閉ざされた空間内で伝染病が蔓延していくエピソードには真実味があり、敵国との戦いとはまた違った、より身近な恐怖を感じさせサスペンスを盛上げていく。それにしても、ここに描かれる男たちには本当のカッコ良さがあり、テーマである男の友情がラストシーンでシンボリックに描かれ、名場面ともなっている。 そう言う意味でも、本作はまぎれもなく男の映画だと言える。
[映画館(字幕)] 8点(2005-05-12 18:13:43)
77.  レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語
突然の火災で両親と住むところを失った三人の幼い子供たちに、さらなる不幸が襲いかかるという事以外まったく予備知識なしで本作に接したのだが、これがまったくの拾い物の実に良く出来たファンタジー・アドベンチャーだった。 原作が世界的ベストセラーだと言っても「ハリ・ポタ」ほど日本では馴染みがないだけに、劇場公開も少々地味で、多くの人の目に触れないまま終わってしまうには、あまりにも勿体無い作品である。本作でなにより素晴らしいのが凝り凝った数々のゴシック風美術デザイン。小道具から豪華な衣裳、あるいは大掛かりなセットに至るまで、このお伽噺を語る上で無くてはならない物ばかり。それらが作品の成否のカギを握っているともとれ、そういう意味においては絶大な効果を上げていると言える。また物語の性格上、存在し得ない世界を構築する為のヴィジュアルは、余計なものは排するという簡素化に徹し、必要とする描写(例えば、暴風で釘が抜け出るようなシーンなど)には事細かく取り入れるという拘りを感じさせる。それは全篇が曇りがちのぼんやりとしたトーンで貫かれている点にも感じられ、「スリーピー・ホロウ」の撮影監督E・ルベッキの手腕がここでも大いに発揮されたと言える。子供目線に徹したカメラアングルや遠近法を巧みに利用した撮影技術など、まさにプロの仕事である。利発で機知に富み極めてマトモな子供たちに対し、ことごとく選択を間違える感度の鈍い大人たちにイライラが募り、そのハラハラ感が面白いのだが、大人を出し抜く爽快感には欠けているようだ。J・キャリーは、こういった役にはやはりこの人でないとと思えるぐらい、その怪人ぶりを発揮。水を得た魚の如く、悪役を実に楽しげに演じている。また、M・ストリープには極めて珍しい役どころだが、ジムの演技を確りと受けとめ、少ない出番ながら、さすが大女優の存在感を示している。二人の本格的な初共演がこんな形で実現するとは夢にも思わなかっただけに、ファンとしては嬉しい限りだ。本作はオープニングからエンドロールに至るまで、実に細やかで丁寧な作りの映画であり、内容的にもファンタジーと呼ばれる作品の中でも群を抜いている。子供たちの不幸はまだ始まったばかりだと考えると、本作に物足らなさを感じた人もきっと納得してくれると思うが、果たして続篇はあるのだろうか?
[映画館(字幕)] 9点(2005-05-12 01:12:26)
78.  スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー
“よくぞここまで映像化して下さった”と、感謝するとともに思わず拍手したくなるほど、これぞ私が久しく求めていた超娯楽映画。理屈抜きの大スペクタクル冒険活劇とはこのこと。第二次世界大戦の歴戦の勇士といったイメージで登場する美男パイロット。ロイス・レインを彷彿とさせる美人女性新聞記者。世界征服を企むマッド・サイエンティストとその手下たち。巨大ロボット群団の攻撃。空中に浮かぶ航空母艦。プロペラ戦闘機による空中戦。時代を象徴する飛行船に始まり、クライマックのノアの箱舟風ロケットに至るまで、荒唐無稽なドラマを演出する為のお膳立ては総て揃えられている。それと同時に、本作は「キングコング」から「007」に至る過去の名作活劇映画へのオマージュともなっている。光線銃といった小物から大掛かりなメカに至るまでの、レトロな感覚で統一されたデザインは、まるで昔の少年雑誌のイラストから抜け出てきたようであり、何故か懐かしさのようなものがこみあげてくる。序盤の“Tの字”型の影となって、ビル街を低空飛行するロボット群団を俯瞰で捉えたシーンと、彼らから発せられる光線砲の音などは、年配の人なら思わずニヤリとするに違いない。時代色を出す為にカラートーンを極端に抑え、ドイツ表現主義を模した陰影に富んだ映像にしているが、物語が進むにつれ映像もどこか近未来SFっぽくなり、エンディングが近づくにつれ、いつの間にやら鮮やかな総天然色に変貌しているのには驚かされる。本作は、昔ながらのオーソドックスな古臭さの再現と、現代風のスピード感と軽快なテンポが絶妙にミックスされた、古くて新しいエンターティンメントだと言える。他愛ないと言えばそれまでだが、古き良き時代のいい意味での陽気さというものが全編から溢れている好篇だ。
[映画館(字幕)] 9点(2005-05-05 16:38:15)
79.  理由(2004)
大林宣彦監督の或る一面を端的に表現する言葉に、とかく当たりハズレにバラツキの多い人だという通説がある。それは私個人にも感じるところで、映画史に残るほどの傑作を放ったかと思えば、箸にも棒にもかからない凡作を連打するという極端ぶりで、なかなかコンスタントに水準作を残せないという特徴がある。しかしそこが大林監督作品の魅力ともとれ、出来が良いか悪いかは観てみないと分からないといった、作品に接するヒヤヒヤ感そのものがミステリアスなのだ。何が飛び出してくるか分からないという意味で、私などは大林作品を“闇鍋的な面白さ”と表現する事にしている。余談が長くなったが、本作はそう言った、いかにもの大林ワールドの凝縮された面白さに満ち溢れた秀作に仕上がっている。驚かされるのが、よくもこれだけ集められたと思うほどの演技人や著名人の数。きっと大林作品のファンでもあり出演依頼には快諾した人たちばかりであろうと推察されるが、それにしても贅沢な話である。そして多数の証言を巡る物語という性質上、なくてはならない彼ら登場人物すべてが事実上の主人公だと言えるのではないだろうか。時間軸を奔放に交差させながら複雑に絡み合った人間関係を解きほぐし、サスペンスを盛上げていくという構成は、長尺の作品にもかかわらず見事に整理されて解かりやすく、観る側へ最大限の配慮がなされている。一杯の味噌汁に下町人情の温もりを感じさせ、人々の様々な思いを、つっかけの音に凝縮させたシーンには情感が溢れ、余韻を残す。それだけにエピローグは不要のような気もする。語り過ぎることは必ずしも得策ではないという事である。
[映画館(字幕)] 8点(2005-05-04 16:37:09)
80.  血と骨
前作「クイール」とはまさしく対極にある、本来の姿に立ち戻った崔洋一の真価を問う問題作。一旗揚げる野望を抱きながら、朝鮮半島から日本は大阪へと出稼ぎにやってきた金俊平という男が、金儲けと暴力で明け暮れるという壮絶な生きざまで、昭和初期から末期までの時代を駆け抜けていく。一種の“ピカレスクもの”とも言え、暴れん坊一代記といった趣の内容である。とにかく凄まじい暴力シーンの連続で、観るに耐えないような過激さを有する作品だが、平穏な生活を破壊してしまう金俊平の行動は常人の理解を超えるものであり、感情移入を挟み込む余地が無い程の理不尽さである。このあたり自分の為だけに本能のままに生き、他を受け入れると言う寛容さには無縁の男として徹底的に描かれていく。ただ、人間と人間との感情のぶつかり合いから激しいドラマが展開されるも、崔監督自身が暴力描写に心血を注ぎ過ぎたのか、金俊平の傍若無人ぶりばかりが強調されたような印象を受ける。彼にとって未知の土地で生きていくという事が、闘う事と同義語なのは理解できるにしても、これではハミ出し者が単に暴れているだけにしか見えず、本来の生きるという意味からは大きく逸脱しているように思う。純粋に愛を育んだ清子との関係に重点が置かれ描かれたように、人間としての内面をさらに掘り下げてほしかった。ビートたけしはこの人なりの力演を見せるが、相変わらずの一本調子で、過激なシーンだけは、まるで金俊平のDNAと一致したかのような暴れっぷりで、本領を発揮している。また濱田マリやオダギリ・ジョーなどが強烈な存在感を示しているだけに、鈴木京香の描き方には今ひとつ食い足りないものがある。 オープニングに新天地へ向かう若き日の金俊平が、目を輝かせながら工業地帯を遠景に臨むシーンを、エンディングにも用意したことが余韻をもたらし実に効果的であった。
[映画館(字幕)] 7点(2005-05-04 01:32:09)(良:1票)
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