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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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121.  男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 《ネタバレ》 
夢から覚める場がない、タイトルバックが江戸川土手でない、マドンナがとらやの座敷に上がらない、などの変化あり。室内の暗さが今回は目立ち、京都の伝統を出す意識的なものもあろうが、マドンナ(かがり)の暗い情念とも通じていたよう。今回の趣向は、寅がマドンナに追いかけられる、という点。今までもホンワカムードになったのはあるけど、一途に思いつめられて付け文をそっと渡されたりまでする。その前に丹後でかがりの家に泊まることになっちゃうのが予備段階の緊張。かがりの母が近所の手伝いに出てしまい居心地の悪くなる寅の晩餐、自分からお酒を求めるかがり、狸寝入りしている寅、そっと部屋に上がってきて寅の横にしばらく座るかがり(娘のランドセルを取りに来た、という理由はある)。その心理のだんまり芝居を見ているようなせめぎ合いが見事。かがりは失恋の痛手に、加納の「人に気を使うな」という叱責の言葉が重なりズタボロで、ゆきずりの・下駄をくれただけの下駄顔の男に弱った心が一気に傾く。翌朝の別れのとき想いが溢れ、ずっと船を見送り続けているかがりのカットの積み重ね。なんか蛇体となった清姫のような凄味さえ感じられてくる。山田洋次は、臆病になってはならぬといつも言いながら、そうい臆病になる人たちをいとおしんでもいる。寅も含めて。ここらへんシリーズ通してのテーマ。あともう一つシリーズの重要なモチーフとして、かがりは外での寅と内での寅の違いを江の島で指摘した。外で会ったときは優しいのに、家に帰ると違った人になっちゃったみたい、って。本作では恒例のとらやでマドンナがもてなされる場がない。今までの寅は、とらや一家の暖かさの代表としてマドンナに気に入られていた面があったが、本作で個人として自立した(!)、ってことか。あじさい寺に寅が満男を連れてきたのを見て、かがりはちらっと表情を翳らせる。ここには「寅は寅の所属する家の人なんだわ」という嫉妬と落胆がある。寅は旅先ではけっこう大人として振舞えていた。濃い人間関係が生まれそうになったら、無名の旅人としてその場を去れる状況では強い。しかし名を持った個人として剥き出しで女性に対さなければならなくなると、たちまち恐怖に囚われてしまう。そしてシェルターとしての家の代理人を誰か、さくらがだめなら満男でもいい、必要になるのだ。デリカシーのある男はつらいよ、って寅は言うだろうが。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-21 10:12:12)(良:2票)
122.  青い夜明け
アイルランドの田園風景、海岸なんかほとんど『ライアンの娘』のまんま。日傘の代わりに帽子が飛んだ。このヒロインのハッキリした眉毛に記憶があるんだけどなんだったかな(『おかえりなさい、リリアン』?)。ちょっと気の強い感じ。憧れのヒュー・グラントは伯母の評によると「美男だけど内容はカラッポ」で、気の毒だがハマってる。メイドがダニー・アイエロそっくりで笑える。平穏なときが終わる予感。やがてこの家も売られることになってて、こういう没落感に敏感なのがあちら英国の映画。そうなるとA・ホプキンスだ。革命家でありつつどこかウンザリしかけてるところもあって、投げやり。彼を通して、政治や暴力、圧政や民族主義やなんかがぶつかりあう、歴史がきしんでいる「現代」に出会っていくわけ。ちょっと人物の配置がはっきりし過ぎてたか。
[映画館(字幕)] 6点(2012-04-20 09:58:04)
123.  ベンガルの夜 《ネタバレ》 
この「夜」を耳にしたとき、あちらの人にとっては night と knight の二つの発音が引っ掛けられてる、なんて言葉遊びみたいなもの、あるんだろうか。と思ってたらフランス映画だった。イギリス系の俳優が出てるもんで。青年、自分は騎士のつもりでいたが、夜の闇の中に融けていってしまう話。けっきょく彼はインド人一家にとっては邪悪なほうの(カーリー女神だっけ)運命の使者になってしまってたわけで。白い人にとってのインド。明晰な西欧に対して、沼のような世界。欧米がサックスの響きなら、セン家で聞こえるのはクラリネット。気の触れた妹の存在。百年後におまえが作ったものでなにが残ってる、いうニヒリスト、上海帰りのジョン・ハート。こういうジャーナリスト浪人みたいのに時代の空気感じる。セン氏は養子にしようと思ってたのに、青年は娘と結婚するんだと思ってしまった、という誤解なんだけど、これ民族の相互不理解といった普遍性にまでは持っていけてなかったな、そういう話じゃなかったのか。
[映画館(字幕)] 5点(2012-04-11 10:07:46)
124.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 
山田洋次の陰影のあるメロドラマとして異色。でも心理の細やかさが間違いなく山田さんのもの。たとえばハナ肇に襲われかけたシーン、「どうして助けてくれなかったの?」「…親しい方かと思ったもので」なんてあたりで、「外部の人」として振舞わなければならない高倉健の位置を確認している。それが「もう他人と思ってないわ」に至るまでの細かい揺れが、メロドラマの醍醐味でしょう。最後の晩に健さんがドアを叩き、開けた倍賞のやっと時が来たという表情、ところが女心の分からぬ健さんに「牛の様子がおかしいんです」と言われて若干の自嘲と諦めを浮かべ、そして酪農家の顔になって作業着に着替えるあたり、ここらへん味わいの頂点です。男にとっての逃げ場所が、女が根付こうとしている場所だった、そのズレが最後まで重ならなかったというメロドラマ。二人とも二年前に連れあいを亡くしているという共通点も遠くから響いている。ハナ肇の使い方がすごく丁寧。まず「悪役」として登場させ、しかしそれだけでは退場させず、かつての馬鹿シリーズを思わせる「気のいい男」になり、そしてラストでは「取り持ち」として現われるなど、おいしい役どころだった。メロドラマとしての希望を描いたラストで、酪農業のほうは廃屋になっており、現実の厳しさを一つ打ち込んでいる。女手一つでは難しいと言う以前に、もう日本の小規模酪農業自体が困難になっていた。健さんはかつても「時代遅れ」の任侠一家をしばしば背負っていたが、ここでも時代遅れの滅んでいく側に加担したわけだ。一人で酪農を続けていた倍賞は、仁侠映画に出てくるイイモンの一家の老親分をほうふつとさせる。時代に乗っていたのは、たとえば健さんの妻を死に追い込んだ金貸し。裁判で出たその名前は「松野八郎」。当時はすぐにロッキード事件がらみの松野頼三、海部八郎の名前を思い浮かべられたものだった。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-08 10:04:37)
125.  恋の掟 《ネタバレ》 
社交術ってのは、ゲームの教育ってことか。無垢で純粋な小娘への教育、彼女を駒として使うゲームでもあり、そのルールを更新していく残酷さもある。ゲームを終えたふりをして次の手に進むあたりのタノシミ。生きることそのものがゲームであった時代、頽廃なのか洗練の果てなのか、ゲームは戦争となり、同じゲームをしている者同士の共感が、騙し合いのゲームの果ての孤独に追い詰めていく。田舎でのディナーのそれぞれの表情を、話者と話者以外の者とのカットの積み重ねで描いていくあたりなんか好き。せっかく若い恋人たちのために妖しい雰囲気を作ってやるのに、ハープの練習をして「AじゃないBフラットだ」なんてやってるお笑い。A・ベニングは好きなんだけど、ちょっと線が細すぎたか。ゲームの相手も失う極北で、カンラカラカラと豪快に笑ってほしい気もする。
[映画館(字幕)] 7点(2012-02-03 10:05:11)
126.  家族ゲーム
あえて焦点を絞りきらない作品という気がした。何か滑稽でいながら不気味なものが描かれているんだけど、それがはっきりしない曖昧なままくっきりと(!)提示されてる感じ。くっきりと提示された曖昧さ、ってつまり「夕暮れを完全に把握しました」っていうようなこと。曖昧さは周囲に充満しているんだけど、それを焦点を絞らないまま明晰に描ききった労作。それは思春期の曖昧さでもあり、家族というものの曖昧さでもある。映画は登場人物の人物像を結ばない。いわゆる「人間が描けてる映画」にはしていない。登場人物は人と関わることでのみ描かれ、ぼそぼそとした会話と行動だけが手掛かりだ。その会話を含むリズム感が抜群で、二度目に殴られても鼻血が出ないあたり、先生のガールフレンド美人ですか? と尋ねられてゆっくりハンカチを取り出すあたり、おかしい。これを最初に観た当時は想像することも出来ないことだったが、ラストのヘリコプターの音、サリンを撒いてるオウム真理教を今回はふと思った。カーラジオで事件が起こってないか確かめたり、そういうことにつながってもおかしくないような不穏の気配は、曖昧な夕暮れのようにひしひしと迫っていたのだ。それにしても監督が亡くなっても、もう夭折と言われないだけの時がたってしまっていたのだなあ。その間に松田優作の若死、伊丹十三の自殺、と不幸もあった。戸川純より健全そうだった妹さんの自殺もあった。ちょっとだけ顔見せた清水健太郎の逮捕は何度もあったなあ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2012-01-14 10:06:55)(良:1票)
127.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 
いいのは母親とのやりとりのところ。アハマッド君は間違って友だちのノートを持ってきたことを発見する。返さなければ今度こそ友だちにとって大変なことになる。返しに行きたい。しかし母親は次々に用事を言いつける。ノートを口実に遊びたがっている、と母親が誤解していることを彼自身分かっている。つらい立場だ。落ち着かない。弟は宿題を済ませたから遊べるんだよ、と母親は教訓を垂れる。そのとき彼はイライラするのではなく、キョトンとした表情で静かに困惑するのである。これがいい。イライラするのは、誰かに自分の困惑を見せたいからだ。最終的にドラマをまとめてくれる物分かりのいい大人に見せたいからだ。しかしこの映画ではそういう大人は残酷なくらい排除されている。それらしく登場する老人もけっきょく少年の足かせになってしまうし、先生もただ鈍感なだけ。少年の気持ちを汲み大人の世界に翻訳してくれる救済者はついに登場しない。少年は最後まで世界の中にただ一人で立っている。そういう少年だからこそ、別の場所に一人で立っている友人のことに心を寄せられるのだ。ただ一人で立つ少年は、責任という問題に出会っている。宿題をやることが出来なくなっている友だちを助けられるのは、彼一人しかいないというところが辛いのである。おそらく今まで一度も母親の言いつけに背いたことのない「いい子」だった彼が、ここでそれよりも「責任」を、キョトンと困惑しながら選び取っていく。イスラム社会では強大であろう親や老人たちの言いつけを越えて、友だちの家を探しにポシュテの町へ走っていく。翌朝、間一髪で彼は友人を救うことが出来る(ここらへんの友人の絶望しきった描写が傑作)。彼のしたことは先生や親に褒められることでもなく、ただ友人の心配を消したことである。その充実が彼への最大の褒美だ。そういう彼の昨晩の冒険の証人には、小さな一輪の花がふさわしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-11-10 10:02:51)(良:2票)
128.  北の橋
この人はベンチに座る女性ってのが好きみたい。本を持っているとなお良い。屋外で座る、ってことか。そして次第に親密になっていく二人の女性、ね。本作のポイントは、崩れていくパリの風景を描いたところ。ラストもパリの廃墟にパンして幕となる。時代への苦味のようなものが感じられる。それがスゴロクともっと絡まってくれれば楽しめたんだけど、あんまりスゴロクは生きてなかった気がする。この監督はそういう遊びを中心に据えると乗ってくる人なんじゃないかなあ。スゴロクに至るまでに十分バネを溜めて突入したって感じでもないんだよな。女二人が映画の中で別のストーリー(新聞の切り抜き)に入り込んでいく、って構図は『セリーヌ』と同じなんだけど。最近読んだ本で、フランス人の詩人が山手線の駅を一つ一つ巡りながら詩を作っていく、って趣向のがあったんだけど、なんかその遊びの精神が十分に発揮されずに「エスプリ」っぽい感じだけで終わってしまってた。フランス人の遊びは、ときに「エスプリ」のポーズだけを気にして趣向倒れになるから用心しないと。
[映画館(字幕)] 6点(2011-11-07 10:34:47)
129.  血の婚礼 《ネタバレ》 
足でドンドンとやりだすと、こちらも文句なく興奮してくるのは何なんだろう、原初から人間に伝わる労働のリズムなのか。フラメンコって足が雄弁なダンスだ(ハワイのフラダンスなんかはほとんど手だけの踊り。足のほうが活躍するのは北のロシアコサックぐらいか。緯度の高低とダンスって関係があるのかな。さらに思ったのは、暖かい地方の阿波踊りは手がひらひらしてて、北のねぶたになるとやたらジャンプしてるぞ、と脱線しかけてやめる)。フラメンコってのは、対立シーンになると盛り上がる。女同士にしろ男同士にしろ。フラメンコはもともと「わだかまり」を描くものなのかもしれない。だってあんな苦悶の表情をたたえて踊るダンスってほかにあるか。楽屋入り、化粧、レッスン、衣装つけての通し、とだんだん現実の世界から虚の世界に入っていく趣向。レッスンで鏡のほうへ向かって斜めにくるくる回りながら並んでやってくるあたりから、だんだん現実と虚構のさかいがあやしくなってくる。オハナシは「女房持ちの男と結婚ひかえた女が出来てて式の日に駆け落ちし、決闘で男二人とも死んじゃう」ってんだけど、すべて情熱なのよね。理性で抑えきれないものが騒ぎ出し、しかめつらの舞踏になっていったものがフラメンコなのか。窓からの光が美しい。決闘シーンではスローモーションふう振り付けになる。最初のほう、中央に二人が重なってわかれていくあたりがすごくいい。さて花嫁の血は、あれは演出だったのか否か? と惑わせる趣向。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-03 10:09:32)
130.  泥の河
一番ジーンとしたシーンは、姉弟が初めてうどん屋を訪れたとこ。大人は子どもたちを・姉は弟を・招いた者は招かれた者を・招かれた者は招いた者を、それぞれ見守っている。いたわっている。弱者同士が肩寄せ合って生きていく、っていうとクサくなってしまうのだが、そういう高揚した感じはなく、実に礼儀正しくいたわり合うのだ、まるで自明の作法があるように。決して水臭いというのではない。「カスのように生きてきた者」にとってのルールなのだろう。こちらからは傷つけないから、そちらも傷つけないでくれ、っていう。この帰り道、送っていくと橋の下を舟が通り抜けていく、ここらへんの正確さがたまらない。少年が初めて加賀まりこの部屋を訪れる場面もいい。ここにあるのも礼儀正しさだ。女の溢れるばかりの感謝の気持ちを、じっと静かに保たせている緊張がいい。「おばさんもおいでよ」「りこうな子やね」。礼儀正しさが頂点を極めるのはラストであり、子どもの呼びかけに絶対人影を見せない舟の姿である。我々はその舟の中でじっと一つの恥を中心に肩を寄せ合っている家族の姿を想像し、その腹立たしいまでの礼儀正しさに感銘を受けるのである。 /(蛇足)田村高広と池部良の俳優歴って似てる。デビューはズレるがどちらも戦後民主主義の時代を体現する若者として登場し、役柄は「まじめ」。が東京オリンピックに向けた経済成長期になると、そのまじめさが俳優としての幅を狭めてしまい、影が薄れた。ところがオリンピック後の1965年に、どちらもプログラムピクチャーの脇役を得る。田村は『兵隊やくざ』、池部は『昭和残侠伝』、勝新太郎と高倉健という戦後民主主義を「体現しない」主役との戦中戦前を背景にした作品で新境地を開き、その後の渋いバイプレイヤーの地位を確定する。なんかこの二人の俳優歴に、戦後史そのものが重なって見えてくるよう。だから田村のデビューごろの時代を描いた本作で、彼は自分の俳優生活の総括をしたようにも思われるんだ。(11年9.29)
[映画館(邦画)] 8点(2011-09-29 10:10:44)(良:1票)
131.  はじけ鳳仙花 わが筑豊わが朝鮮
登場する女性画家、朝鮮人の代わりに発言するんだ、という気負いが強く感じられ、これって一種の思い上がりじゃないか、と最初のうちは引き気味に観てた。でも画家を離れてくると、画の力に引きずられて、のめりこんでいく。朝鮮人坑夫を怒鳴る日本人の顔のシーンで、突然また画家が現われる。加害者としての日本人の顔がどうしても描けない、と悩むんだな、ここが面白い。どうしても決まりきったデフォルメになってしまい満足できない、デフォルメを抑えると今度は「人のいい日本人」の顔になってしまう。自分の顔を鏡で見ながらいろいろ口を歪めたりしてみるのだが、納得の顔が出てこない。「加害者」の顔は地の顔と連続していない、という発見。環境が与えてしまうものなのだ、というギリギリの性善説が見えてくる。ふだんは加害者の顔になれない人間が、立場によって加害者の顔にされてしまっている。否定的な告発の絵の底に見えてきた性善なる人間。おそらくこの画家は曼荼羅図のようなエロスの世界や、空の星を吐き続ける竜の絵など、肯定的な画のほうに真骨頂があるのだろう。というか、世の中を肯定的に捉えることと否定的に捉えることとは反対の方向へ延びていくものではなく、縄を綯うように一方向へ延びていくものなのだ。その星の画を見せてて、ふっと画家の手が伸びてきて星を描き加えるとこなどハッとさせる。冒頭では骨の画を描いていたその手なのだ。過去帳に書かれた「某鮮人」というのに、生々しい残酷を感じた。ラストの指紋のスライドが重なる美しさ、社会を離れて指紋をそれだけ眺めれば、それはただの模様なのだ。
[映画館(邦画)] 7点(2011-09-28 10:03:12)
132.  狼の血族 《ネタバレ》 
夢を紡ぐのも物語をするのも全部女性。少女に限らず、老婆を含む女性たちの物語。少女の成長の話だが「女性」の物語になっている。「これこれこういう話だから、こういう映画になった」というより「こういう雰囲気の映画を作りたくて、こういう話を選んだ」って気もする。監督が男だし。三つのエピソードで、次第に狼が恐怖の対象でなくなっていくの。加害者であった狼も、終わりのほうでは「狼にされる」という被害として扱われる。また「狼が人になる」ってのが何かの恵みのように見られる視点もある。「狼」のイメージが多岐に膨らんでいく。ラスト、赤ずきんの話で復習するよう。ばあさんを「殺してくれた」狼と一緒に狼の血族に入っていく。そして現代、もう眠っている場所は子ども部屋ではない。と窓を破って躍り込んで来る狼。フロイト流に見ればかなり露骨な象徴で、なんかつまんなくなっちゃうんだけど、これが男が作った「女の映画」の限界か。というより、女性たちに「男はこう考えてますが」とこわごわ「おうかがい」をたてている映画なのか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-13 09:43:00)
133.  食卓のない家
松竹出身の松竹らしからぬ監督であったが、最後の作品はホームドラマになった(監督が熱望していた『敦煌』は、とうとう製作権を得られず)。ほとんど家族の内部に視点を固定して、家族が襲われた悲劇を眺めていく。この主人公が社会に対して決然としていた、ってことを具体的に見せられればいいんだけど、「何もしなかった」ってことを演出するのは難しい。押しかけるマスコミとか、テレビで謝罪させられるほかの親とかやると、陳腐になってしまう。言葉で立派立派とか冷酷冷酷って言っても、こちらに映像としての手がかりがないので仲代さんが浮いちゃう。この家族をカメラが離れたのは真野あずさ兄妹のシーンだけか。弁護士のとこでも必ず誰か家族がいた。そのことによってこの家族を客観視するチャンスが観客に与えられなかった。あの真野あずさはいらなかったんじゃないか。岩下志麻に全部おっかぶせちゃえば30分削れたみたい。金魚鉢割るとこ、一発のシーンであるべきなのを角度を変えて繰り返してた。小林さんが、こんな野暮やると思わなかった。「おかあさん、きちがいだから」と次男に迫るとこはよかった。ちょっとノレたのは後半の釈放劇のあたり、あのお父さんの、自分はキリッとやってるのに国家がそれに付き合ってくれない、という裏切られたような気持ちね。小林作品の仲代は最後まで信念の人だった。もっともそれを独白で表現してしまうんだけど。武満が晩年の小林に作った音楽は、『燃える秋』といいこれといいメロディアスな「分かりやすい」曲になる(『東京裁判』の音楽の記憶があんまりないが、たしか陰気な弦の響きのパターンで、少なくともメロディアスではなかったな。武満さんは『黒い雨』など戦争がらみの作品ではだいたい弦楽レクイエム調)。本作ではスメタナの「モルダウ」みたいな、ミ、ラ~シド~レミ~と言うシンプルなメロディラインで驚かされた。それが複雑な武満トーンで味付けされ、美しい抒情をかもしている。
[映画館(邦画)] 6点(2011-09-08 10:26:44)
134.  スターマン/愛・宇宙はるかに 《ネタバレ》 
招待しておきながら非友好的、ってところに皮肉があるんだけど、それが痛烈な皮肉にはならないで、他愛ない話になっていってしまうところが、ま、ハリウッド。コミカルな部分はいいよ。トイレに入ってニッと笑うとことかね、ぎくしゃく歩いて。鹿を生き返らせるとこにはちょいとホロッとした。ラスベガスで、あんまり一ヶ所でやっちゃいけないわよ、言ってるそばで777なんてやってるとこ。ヘリコプター飛んで大袈裟なわりには、宇宙船がチャチでなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2011-09-04 12:05:06)
135.  男はつらいよ 寅次郎恋愛塾
並列的に列挙する。・タイトルのバックが旅先というのは珍しい。・初期の寅のギラギラしていた部分をポンシュウが受け持っている。・帰宅後の寅の会話の中でだんだん若菜が現われてくるおかしさ。「珍しいなあ、男で写植やってる人は」「男と言ったか? 俺は」。・面接の場。こういうなんとはない社会の断面を見せるとこがうまい。・「真剣に恋をしている人をからかうなんてお兄ちゃんらしくないわ」で、民夫への教育となる。『寅次郎頑張れ!』の線。「僕はそんなこと出来ませんよ」「さいなら」のリズム感がいい。・アケミが「人妻になって寅さんの魅力が分かった」てなことを言い、社長と喧嘩になっていく。・「希望? そんなこともありましたっけね」と赤信号を突っ切りうなぎ屋に入り看板を倒してフラフラと去っていく民夫、これは昔の寅だ。・秋田へ行くあたりから調子が落ちる。リフトが行って帰ってくるのなどもう少し撮りようがなかったか。樋口可南子って笑顔が哀しい女優ベスト3に入ると思うんだけど(あと風吹ジュンとか)、あんまりそれが生かされなかった。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-18 10:39:11)(良:1票)
136.  夢千代日記
前半は良かった。ひなびた感じ。でもそれは諦念の世界に通じていきやすく、テレビのときも思ったんだけど、それが反核のメッセージとうまくつながらないのよね。画面が滅びる美しさを奨励しているようで、その滅びの美しさと反核とを正面からきちんとぶつけられたら、テーマとして深まったんだろうが、なんとなく雰囲気として立ち込めるだけになってしまった。腹貸し女と本妻とのシーンはちょっとホロッとした、でも肝心の本筋の北大路君の話が詰めが甘くて大時代的。ラストの桜と吉永さんの顔と踊りとのオーバーラップは俗悪でした。これが監督の遺作か、もう弱ってたのかな。テレビの音楽は武満だったが、あっちも弱ってて『暗室』(無機質なフルートの響きがとてもよかった)で組んだ松村禎三を起用。なんか滅びの映画になるわけだわな。松村さんもいいんだけど、テレビ版の武満の印象が強くて。
[映画館(邦画)] 5点(2011-08-09 10:11:05)
137.  ラヴ・ストリームス
「愛の不条理」なんて言い切ってしまうと、途端に安っぽく聞こえてしまうが、でもカサヴェテスの映画って、そう言える。人は本当なら愛の中でこそ安らげるはずなのに、なぜ愛とリラックスは同居できないのか。そんな問いが、いつも聞こえてくる。そして登場人物は、またはしゃぐ。ボーリング場での男あさりは序の口。動物たちを家に連れてきたりして、白眉は30秒で夫や娘を笑わせようとする場。くつろぎを求めて疲れ果ててしまう、という彼のモチーフのエッセンスシーンだ。おどけふざけプールサイドでさんざんはしゃいだ後、後ろまわりでプールに飛び込むまでの30秒、あのまったくコミカルでないジーナ・ローランズが演じるだけに、その痛ましさと言ったらない。「演じること」のモチーフは夢の中のオペレッタになる。どの場もキレよりコクで勝負の監督。本作には姉と弟という神話的構図があり、家畜たちとの嵐の場なんか。神々しくすらあった。カサヴェテスは、じたばたしている人間を、ほとんど神のように尊敬を込めてコッテリと描く。人間のそういうところが好きなのだ、とでも言いたげに。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-08 09:38:37)
138.  タンポポ
これ伊丹映画の欠点が出てしまった気がする。たとえば原泉と津川雅彦の追っかけを思い出してみる。「設定が重要なのではなく、映像上の人物の動きこそがサスペンスを盛り上げる」という考えでしょ、監督は。だからああいうエピソードも生まれる。でもあれ、面白かったですか? 映像だけではサスペンスを盛り上げるほど自立できないんですよ。観客も映像だけで愉悦を味わえるほど純な存在じゃないんです。すぐ意味に寄りかかりたくなる、で、それを無意味が引き剥がそうとして葛藤するところに映画の面白さがあるのに(たとえばミュージカル映画においてダンスという不意の無意味さが輝く興奮)、最初から「無意味」に身を投じてしまったのでは、けっきょく「意味」に身を投じた演説映画や説教映画と同じ拘束を受けてしまうことになる。「無意味」が目的になることによって「意味」の一種になってしまう。そこにこの映画の窮屈さがあって、ブニュエルの植物が繁茂していくような自由さは、とうてい味わえなかった。比較的面白かったのは井川比佐志のエピソード、ここにはその葛藤らしきものがあった気がする。
[映画館(邦画)] 6点(2011-07-26 12:11:26)
139.  黄色い大地(1984)
冒頭、八路軍兵士が一人で小さく心細そうに現われてくるだけで、「あれ? これは今までの前向きの共産主義者とは違うぞ」と驚かされ、それと重なってくる荒々しい民俗音楽で、なにか新しい中国映画・というより国籍とは関係ない「映画」を観てるんだ、という気になった。過去の悲惨を扱って現在の矛盾から目をそらしてる、と言う批判も出来るかもしれないが、それよりも一本の映画としての完成度にまず驚くべきだろう。照明はスクリーンで観られるギリギリぐらいにまで落とし、ふいごの音や室外の家畜の声が際立つ。目を凝らし耳を澄まさないと捉えられないような世界を築いていく。この時間が粒だって清水のように流れていく感じは、最良の映画だけが持てる幸福な感覚だ。その自然界と結びついたような時間の中に不意に登場人物の民謡が飛び込んでくる刺激、ここに「大きな自然と小さな人間」という彼らの生活が直接に表現されている(特に弟が歌いだす瞬間)。政治的メッセージよりも、人間が生活していることへの新鮮な驚きとそれへの畏敬がベースになっている。突然中国映画の新展開を見せてくれた忘れ難いフィルム。
[映画館(字幕)] 8点(2011-07-24 10:17:41)(良:1票)
140.  台風クラブ
子どもたちのイライラを描く。「イライラ」という不定形なものを描いてこれだけ迫力を出せた映画というのも珍しい。ただ、たしかに子どもたちはイライラしてるんだけど、イライラしたふりをして防衛している「何か」もあるわけで、そこらへんの子どものずるさをも描くだけの距離があったら、もっと良かっただろう。台風に閉じ込められたふりをして、立て籠もった子どもたちという設定なら、もっと校舎を使いこなすべきだった。職員室のドアを蹴るとこと、机を積み上げるとこがいい。カメラが蹴った穴を通って外に出たりする。物語から離れるところで、この監督はイキイキしてくる。何かが持続するところを描くと気合いが入ってくる。商店街でマッシロな男女がオカリナを吹いてるのはシラけた。大西結花が、三上君と工藤嬢が仲良く話し合ってるのを見てて、こちら(窓)を向き、背伸びを二度ほどやって風が吹く、なんてとこがいいんだ。
[映画館(邦画)] 6点(2011-07-06 10:44:27)
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