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1.  バーニング 劇場版 《ネタバレ》 
逆光が強く印象に残る。それは女友達ヘミが半裸で踊るパントマイムの夕刻だけではない。彼女が住む、弱々しい一条の光線が北向きの窓からかろうじて射す薄暗い部屋、さらには、ジョンスが外界から恐る恐る内部を覗き込む荒れ果てたビニールハウス。それらもまた悉く逆光の構図で描かれている。空港からヘミとベンを乗せて走るジョンスのトラックのその車内でも、光はリアウインドーから射し込む。光源に背を向けた彼らは、時に陰影が描き出す水墨画のようでもあり、また、その墨の濃淡に仔細な表情を隠す模糊たる存在でもある。常に翳ったヘミの部屋では実存すら不確実であった猫ボイルがのちにその姿を顕にするのが、隈無く光に充たされたベンの部屋であるということはとても象徴的だ。生命力が迸るかのようなグレートハンガーを陶然と踊るヘミは、墨絵からやがて輪郭だけをくっきりとふちどるばかりの影絵となり、刻一刻と夕闇に塗りつぶされていく。のちにジョンスが見る夢の中では徹底的な無音で描かれる、烈しく燃えさかり焼け落ちていくビニールハウス。イ・チャンドン監督はヘミに於ける無情なその様を、あらかじめ丹念にここで描出している。一つの救いは、そこにマイルス・デイヴィスの喇叭が哀切に鳴り響いているということだ。井戸の記憶や、猫、さらには自分自身の存在すらも焼き尽くし、彼女は泥のような眠りに落ちる。思えば『シークレット・サンシャイン』のジョンチャンは、女の見つめるささかなな陽だまりを、傍らで静かに共有することで、彼女に深く愛を示した。『オアシス』のジョンドゥは愛する女のため、禍々しい影絵を鋸で果敢に切り落とした。だがジョンスは、与えられたそのどちらの機会も、ただただ無感動な傍観者として逸してしまう。そうして、這々の体で微睡みから目覚めた瀕死の女に、男は決定的な言葉を投げつける。女は二度と男を見返すことなく闇に溶け、この世界から跡形もなく消え去る。やがて描かれるフィルム・ノワールめいた後段は、一方でジョンスにとっての喪の作業、その隠喩でもあるだろう。無いことを忘れる、それはこんなにも苦しく、そして難しい。靄と煙の立ち込める曖昧な境界線をぐるぐると、彼は息を切らして永遠に走り続ける。
[映画館(字幕)] 10点(2019-02-26 00:19:56)
2.  リバーズ・エッジ 《ネタバレ》 
岡崎京子の原作漫画に強い思い入れがある人間は多い。彼女ら彼らの、その思い入れの強さは少し常軌を逸している程だ。本作の登場人物の名を借りるなら、田島カンナ的であるとさえ言っていい。そして間違いなく、私もその黒焦げの田島カンナたちのうちのひとりだ。それゆえに初見では、まさに岡崎の漫画を読んでいたあの頃そのままに、頑なに閉ざした私の心はぴくりとも動かなかった。好演は認めつつも二階堂ふみら俳優たちがどう見ても大人であることが許せなかった。そして何よりも、吉川こずえとして登場するのが(無茶な話は百も承知で)90年代の異星人じみた吉川ひなのでないことが、どうしても許せなかった。それでも思い直して、改めて二度目を観たのはなぜだろう。目から鱗が落ちたようだった。あまりに自然に、素直に、この映画を受け容れている自分がいた。永遠にやって来ることのないUFOにあらかじめ見棄てられ、それでも平坦な戦場で彼らは生き延びていく。心からそう思えた。行定勲監督は、漫画の構図を意識して本作に4:3スタンダードを選んだと言う。さらにその画面の中に展開する物語や描写もまた、原作漫画を、執拗なほど、忠実になぞっていく。映画監督としては、漫画を「映画」として新たなマスターピースに創りあげていくことが、本来の使命であるはずだ。しかしながら行定は、その作家としての主張を敢えて抛ち、終始職人役に徹した。とても危険な賭けだ。そして事実批判の声もあるようだ。しかし私は、彼の選択は正しかったと思う。行定勲の、ではなく、岡崎京子のリバーズ・エッジをまずここに焼きつけることこそが、少なくとも本作に限っては、彼の使命であったのだ。随所に挿入される二階堂らが役を演じたままインタビューに答える原作にはないシーンは、90年代を生きる若草ハルナたちと現代を生きる生身の俳優らをシンクロさせる意図が不発に終わった感が否めないものの、彼らのサバイブの隠喩として原作よりも印象深くガジェットとして機能する牛乳や、火だるまとなってゴミ棄て場に転落する田島カンナの軌跡をタバコの吸い殻によってあらかじめ提示する描写などには、行定勲ならではの冴えが垣間見えることも付け加えておきたい。
[インターネット(邦画)] 8点(2018-08-12 16:05:01)
3.  エドワード・ヤンの恋愛時代 《ネタバレ》 
楊徳昌は、4時間にも及んだ前作『牯嶺街少年殺人事件』に匹敵するほど複雑に相関する登場人物を、このたかだか127分の中に無造作に配置し、配置された彼らはのべつまくなし饒舌にまくしたて、そのややこしく入り組んだ人間関係に言及する。説明描写の一切を放棄したまま、彼らの夥しい会話=情報だけがひたすらぎっしりと詰め込まれていく様は圧巻だ。だが、膨大な台詞を膨大な字幕で追いかけなければならない我々外国人にとっては、もはやお手上げである。『牯嶺街』でその名を世界に轟かせながら、続く本作がカンヌに出品されつつ無冠に終わったのは無理もない。(台詞を極端なまでに排した蔡明亮の『愛情萬歳』が、同年のベネチアでグランプリを獲得したのは皮肉な話だ。)この映画を初見で完全に理解することは、ほぼ不可能だからだ。だが二度観なければ理解できないとすれば、その映画ははたして映画失格だろうか?おそらく映画祭の審査員にとってはそうだ。多くの一般の観客にとってもそうだろう。しかし私にとっては違う。過剰にして饒舌なこの映画には、けれど恐ろしいほどに一切の無駄がないのだ。その映画的ボルテージは傑作『牯嶺街』にすら引けをとらない。そしてそれを今度は他愛のないラブコメの枠組みでやってのけたのだから、やはり楊徳昌は恐るべき天才だ。孔子の論語の引用から物語りはじめる小賢しく皮肉屋の楊徳昌だが、本作において彼が最後の最後に見据えるのは、物質社会に翻弄され困惑する儒者の末裔=現代人が、それでもひたすらに誠実であろうとするその有り様だ。打算や虚栄が前提の世界だからこそ八方美人と揶揄されるチチ。親友モーリーとの友情にも亀裂が入り、「用もないのに来られたら目障りだわ」となじるこの友人に対して彼女が出す答え。「会いたかったの。あなたもでしょ?」それは途轍もなくシンプルで美しい、ありのままの感情だ。そしてラストシーン。去りゆく相手をそれでも想って一度閉じたエレベーターを開くこと、あるいは去りゆく相手をそれでも想ってエレベーターの前に舞い戻ること。扉が開き、そうして目の前に現れるのは、あまたのラブコメにおける御都合主義的ハッピーエンドとは決定的に違う、必然の邂逅だ。楊徳昌は言う、これこそが真実なのだと。心のままに向かいあった「もう片方」を、彼らは心のままに、力いっぱい抱きしめる。いつかではなく、そう、今すぐに。
[DVD(字幕)] 10点(2018-03-16 01:59:58)(良:1票)
4.  恋恋風塵 《ネタバレ》 
少女の名が雲(ユン)であることはとても重要な隠喩だ。カメラは頻繁に上空を流れる雲を捉える。時にゆっくりと時に急速に、形を変え流れていく雲。さらに候孝賢は全編に渡り幾度となくこの「雲」を連想させるさまざまな装置を散りばめ、そしてくり返す。開巻劈頭からしてそうだ。トンネルを抜けた列車が走る鮮やかな緑の木々は、心なしか微かな靄につつまれている。少年遠(ワン)の乗るオートバイが別れを告げた印刷工場の玄関口に残す排気煙もそうだろう。たばこの紫煙や、線香や冥銭を燃やす煙、畑の野火に至るまで、それらは「雲」の変奏たる風塵として画面に刻まれていく。なかでもいちばん強く印象をのこすのは、兵役に就くため駅へと向かう少年のかたわらで彼の祖父が淡々と鳴らしつづける爆竹だろう。爆竹からたちのぼり、しばし漂い、そしてあっけなく消えていく白煙の儚さは、背景の美しい田舎道の光景とあいまって強烈に胸に沁みる。少女が働く仕立て屋の隣りの建物が家事になるという不穏な煙の挿話もまた、雲の暗喩の一つといえるだろう。やがてカメラは再び上空の雲を捉える。少年が軍務に服する金門の林の梢を一面蔽う、その雲だ。少女の結婚を知り慟哭する少年をじっと見据えたのちに映し出されるこの雲は、それまで描かれてきたそれらとは明らかに違う様相を呈している。それはあたかも永遠に時を止めたかのように、重苦しくそこに停滞している。だが真に驚くのは次の瞬間だ。この不動の雲を捉えたカメラはやがて、カメラのほうが、横滑りに動いていくのだ。悲しみと悔恨で一処に滞り続ける彼の痛みを、まるでそっと押し流すように。単なる横移動に過ぎないこのオーソドックスなカメラワークに、けれど私ははっきりと映画の奇跡を見た。ラスト、分厚い雲間から洩れる陽光が山あいをゆっくりと移動しながら照らしていく。再び流れはじめたその雲と同じ速度で。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-05-26 00:26:18)
5.  青春神話 《ネタバレ》 
蔡明亮の処女作にあたる本作にはまだどこか不完全でごつごつとした手触りが残っている。だがその原石めいた無骨な感触こそが強烈に本作を青春映画たらしめてもいる。窃盗目的で破壊される公衆電話からはじまり、受け手不在のまま鳴り響くテレクラの電話で終わるこの映画が、所謂“コミュニケーション不全”を描いているのは明白だろう。蔡明亮は、若者たちが内に抱える不全感を心象として強くふちどることで、都市生活のざらついた不毛をくっきりと炙りだしていく。コンパスで刺しても死なないゴキブリの強靭さにたじろぎ、苛立ちにまかせてガラス窓を突き破る予備校生・小康。心配を見せる母親と叱責する父親双方に等しく向けられる敵意と拒絶。あるいは公営アパートに住む不良少年・阿澤もそうだ。意図せぬ4階で決まって一時停止するエレベーターにも、排水孔から逆流し部屋を浸食する大量の下水にも、他人のように暮らす兄にも、彼は一切動じない。彼にとってそれらは日常なのだ。機能を失った排水孔のように決して疎通することのない彼の意思。だが少女阿桂との出会いによって、塞がれていたはずの排水孔はゆっくりとその機能を取り戻す。澱んだ水は一滴のこらず阿澤の部屋から流れ落ち、水は大量の雨となり、今度は小康めがけて降りそそぐ。土砂降りの中、何かに反撃するかのように小康が振り下ろすのは、鬱屈した勉強部屋でゴキブリを刺し貫いた件のコンパスだ。羨望とも、嫉妬とも、復讐とも、憧憬とも、恋慕ともつかぬ、その衝動。そうして無残に破壊されたオートバイを黙々と押し歩く阿澤に、ここに至り、ついに声をかける小康。けれど阿澤の眼中に小康が捉えられることは最後までない。それは彼がはじめて自ら他者に歩みより働きかける一瞬であり、そしてそれが即座にこの他者によって打ち砕かれる瞬間でもある。その残酷と痛みが胸を抉る。翼をもぐことでようやく対等になり得たはずの相手=阿澤からの強烈な拒絶の一撃に呆然と立ちすくす小康。家を追われテレクラの個室へと辿り着いた彼が無感動に眺めるのはヒステリックに鳴り響く電話器だ。狂ったように疎通を希求し誰彼かまわず、けれど特定の誰宛でもなく虚しく鳴り続けるその呼出音を背に、彼はどこへ向かうのか。分厚く垂れ込める雲はいまだ突破口を見せず、出口を失った小康は気づかぬままだ。それでも、閉ざされていたはずの扉はほんの少し開かれ、静かに彼の帰りを待っている。
[DVD(字幕なし「原語」)] 10点(2013-05-25 23:41:07)
6.  グミ・チョコレート・パイン 《ネタバレ》 
この映画はダサい。けれどその輝くばかりのダサさ爆発こそがまさに描かれる1986年という時代そのものでもある。ふがいない少年たちと80年代型美少女を徹底的にカッコ悪く描くケラリーノ監督は、確信犯だ。『ビーバップハイスクール』や『ウォーターボーイズ』みたいなカタルシスなんてこの映画にはないと冒頭で宣言するとおり、彼は物語が青春映画らしい熱をおびかけるそのたびにいちいち水をさす。たとえばヒロイン美甘子を侮辱するクラスメイトに飛びかからんとする主人公賢三の一世一代の怒りの鉄拳は、勢い余った拍子に行動を起こす前に蹴つまずき、不発のまま人体模型と共に砕かれる。あるいはそれに続く学校を去る美甘子を追う場面でも、賢三のその一直線な情熱は間の悪い写真屋や自転車のアクシデントによって脱力的に二度三度と中断され、阻まれてしまう。そうして照れ隠しのようにドラマチックな定石をことごとく避けた上でやっとこさっとこ描かれる別れのシーンは、けれどありきたりな飾りを排したその愚直さゆえ逆にストレートにしみじみと胸に迫る。『ニューシネマパラダイス』と自嘲する8mmのシーンもまた然りだろう。そんな中、賢三と美甘子のたった一度きりのデートのシークエンスだけはひたすら真摯に描かれるというのがなんとも心憎い。夜明けの色にすら気づかず夢中で語り合う二人。暁の空の下、人生はグミ・チョコレート・パインだと笑いながらチョコレートの数だけ進んでいく美甘子とジャンケンにすら勝てず足踏み状態の賢三は、彼らの未来の姿でもある。ラスト、死んでオナニーできなくなるのはイヤだ!というプリミティブかつアホ丸出しな雄叫びを上げて生き続けていく道を選ぶ1986年の賢三。バカバカしくもリリカルなその疾走はまたもやここぞという時に蹴つまずく。それを見つめる2007年の賢三もまた、チョコレートの歩数のその先で死を選んだ美甘子の背中には未だ遠くおよばぬままだ。けれどそんな賢三の姿を一体だれが笑えるだろうか。2、30年も生きねえよ、と若さのままにうそぶいていた彼が、それでも生き続ける人生。それが彼の答えだ。やさしくおだやかなその表情は、私たちに静かに物語る。このくだらない人生にも、それでもちゃんと生きる意味はあるのだ、と。人生七転八倒!
[DVD(邦画)] 9点(2013-04-28 01:50:20)(良:1票)
7.  息もできない 《ネタバレ》 
主人公サンフンは見知らぬ女を執拗に小突いている男を殴り倒し、うずくまり怯える女の頬を今度は自分が叩きながら「お前は殴られてばかりでいいのか?」と問う。その直後、彼の後頭部めがけて振り下ろされる強烈な一撃。わずか数カットで主人公の生き様を示唆するこの冒頭から以降も、映画は幾度となくこうした「反撃」を繰り返す。反撃とはつまり暴力の連鎖だ。ヒロインたる不敵な少女ヨニとの出会いすら、彼女の勝気な平手打ちへの過剰な反撃として描かれる。だが、ひるむことなくこの暴力男と渡りあうヨニが彼に突きつけ求めるのは、反撃へのさらなる不毛な反撃などではなく、缶ビールの形を借りたささやかな詫びと落とし前だ。石段にならんで座る二人に流れる静謐は、サンフンの凶暴な人生哲学が初めてゆらぐその一瞬でもあっただろう。かつて暴力により家族を奪った父に「反撃」として制裁を加える彼にとって、暴力とは元来憎悪すべきものであったはずだ。殴る男(父)への憎しみから受動的に端を発した彼の暴力が、けれど次第に能動的衝動へと肥大し、かつての父のそれと相似形を描いていく恐ろしさ。その矛先は取り立て屋として訪れた先の債務者や手下の弟分に向かう。制裁を超えた私刑として下される父への「反撃」もまた然りだ。原題が示す「糞にたかる蝿」のように強迫観念にも似た暴力衝動に囚われ、自らこそが怪物となるサンフン。一方そんな彼にとっての菩薩となる、自分自身傷だらけのヨニ。互いの過去を嘆くでもなく胸に秘めたまま、夜の漢江のその畔で、痛々しい膿を搾り出すが如く涙をこぼしあうサンフンとヨニ。だが慟哭するサンフンに膝を貸し嗚咽をこらえるヨニが彼女自身の膿を出し切ることはないのだ。容赦のない連鎖の罰を受けながらも魂を浄化するように息絶えるサンフンと、その亡骸を前にやはり懸命に嗚咽を殺すヨニ。そして膿を吐き出せぬままの彼女が回想する、膿の元凶たる母の死。その余白にちらりと過る男の影がやがてくっきりと焦点を結んだ時、ヨニはサンフンの遺した幸福な光景と、等しく彼の遺した拭い去れぬ糞の痕跡、そのはざまに息を呑んで立ち尽くす。彼らのささくれだった魂がまるで閃光のように強烈に、フィルムにそして私たちの眼に焼きつく。恐るべき傑作だ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-28 01:49:44)(良:3票)
8.  トト・ザ・ヒーロー 《ネタバレ》 
主人公トマは、向かいに住む金持ちの息子で同じ日に生まれたアルフレッドと自分は産院の火事で取り違えられてしまったのだ、と固く信じている。あらかじめ奪われた人生。そんな子どもの頃に思い描く貴種流離譚はつまり自分の置かれた環境や劣等感から逃避する手段としての夢物語であるが、そうした空想にふけるのは決して不遇な子どもに限ったことではないだろう。事実、トマの子ども時代は、愛する家族に囲まれて、彼の人生で唯一輝いていた時代でもあるのだ。にもかかわらずトマとしての自分の人生を否定し、アルフレッドへの羨望やトト・ザ・ヒーローへの憧憬をいつまでも捨て去れなかったことに、トマの不幸はある。この映画がすごいのは、子ども時代の空想やトマの姉アリスの美しい思い出に囚われつづけるそんな人生を、トマと相対するはずのアルフレッドにも等しく課してしまう点だ。終盤、老人となったアルフレッドが同じく老人となったトマに語る一言は、トマがアルフレッドだったようにアルフレッドもまたトマであったことを意味している。自ら創り出した空想が真実をも呑み込んでしまった時、きちんと与えられていたはずの本物の人生を、まがいものの人生として共に生きざるをえなかった2人。それを踏まえて行動するトマの最期は、ややもすれば被害妄想を貫きとおしたようにも見える。しかしそれは違う。自分の人生を一から否定しつづけてきたその思い込みの間違いに、彼は気づいている。彼がすべきは、真実を否定することでも人生を嘆くことでもなく、自分の手で台無しにしてしまった人生そのものをそれでもありのままに受け入れ肯定すること。アルフレッドとなって死んだトマだが、そうすることで彼はアルフレッドの人生ではなく、アルフレッドになりたかったトマとしての人生を見事に生ききったのだ。間違いだらけであっても灰色であってもそれでもすばらしい、彼の本物の人生を。灰となって空を飛ぶトマの笑い声はだからこそ底抜けに陽気で、そして人生賛歌のように薔薇色の世界に燦々と降りそそぐ。ぼくの人生はこんなにもすばらしいぞ、と。こんな思いがけないラストを用意してくれたジャコ・ヴァン・ドルマル監督に心から拍手を送りたい。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-28 01:48:56)(良:3票)
9.  エターナル・サンシャイン 《ネタバレ》 
人類にとって最も深い悲しみとは何だろう。おそらくそれは大切な何かを、或いはかけがえのない誰かを、「喪失」することだ。家族を友だちを愛犬を恋人を、つまりは愛した誰かを、私たちは時に失う。そうしてある日突然訪れる深く耐え難い悲しみに、私たちは傷つき苛まれる。そんな時、私たちは自らの弱さにまかせて願うだろう。この記憶をまるごと消し去ることが出来たならどんなにかいいだろうと。耐え難い「喪失」をひとまわり大きな「さらなる喪失」でまるごとくり抜いてしまえたなら、と。だが『「喪失」による悲しみをも喪失』した時、人間は本当に幸福なのだろうか。本作『エターナル・サンシャイン』は、一筋縄ではいかない小賢しい話法を用いて恋愛の本質を綴る類いの正直いけ好かない映画だ。だが、いけ好かないはずなのにそれでも私の胸を悔しいほどストレートに打つ。それはこの映画がまさに人類の切ない夢=『「喪失」とさらなる喪失』の物語を驚くほど真摯に見つめているからだ。愛しあい、そして別れたジョエルとクレメンタイン。彼らが再び惹かれあうラストは、恋の奇跡を謳った安直なハッピーエンドにも見える。だが消去した過去と同じように、2人はいつかまた同じ別れに辿り着くだろう。クレメンタインが言うように、2人は同じ道を、永遠ではないその道を、再びいたずらに辿るだけだ。耐え難い「喪失」に靴先を向けて。それでもジョエルは言う。オーケーだと。それでオーケーなのだと。永遠ではない愛に、はたして価値はないだろうか。答えは否だ。断じて否だ。クレメンタインが氷上の記憶を決してぬりかえられなかったように、永遠ではなかった愛にもかけがえのない価値がある。同じ道を行きやがて「喪失」に辿り着いても、おそらく彼らが再び「さらなる喪失」を選択することはないだろう。その時、彼らは耐え難い「喪失」をついに真正面から受け止める。そうしてそれぞれがそれぞれに、耐え難いその悲しみを今度こそ幸福な血肉とする。ラストショットは雪に戯れる2人の姿だ。それはその先のハッピーエンドを示す夢のような未来の光景ではない。ニット帽に隠されたクレメンタインの髪の毛は、それが過去であることを示す赤色だ。それでも、そう、それでも、だ。永遠を叶えられなくてもそれでも、消去されることなく残った記憶は永遠の煌めきで輝き続ける。映画は言う。オーケーだと。それでオーケーなのだと。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-04-28 01:47:55)(良:2票)
10.  猟奇的な彼女 《ネタバレ》 
野暮ったい演出に加えて、空回りするギャグシーンのオンパレードは、最早しょっぱなから駄作の風格満点だ。けれどこの大駄作は、それでもいつしか思いがけず胸の熱くなる怒濤のラブストーリーへと雪崩こんでいく。クァク・ジェヨン監督は、例えるならば80年代の大林宣彦である。かつての日本で大林宣彦が持ち得た、途轍もなく出鱈目であるがゆえにきらきらと輝くそんな映画の魔法を、ジェヨンは21世紀現在の我々に真っ向から見せてくれる。その魔法は、魔法を忘れて久しい日本人にとっては80年代的遺物であるため、どこか気恥ずかしくもある。本作で唐突に出現するUFO、『ラブストーリー』における作り物めいた蛍、あるいは『僕の彼女を紹介します』の紙飛行機、さらに『僕の彼女はサイボーグ』ではそのものズバリ未来人、といったようにジェヨンが描く子ども騙しな仕掛けの数々。けれどそれらは、魔法を忘れたはずの我々の心にも、それでもストンと落ちていく。彼の映画はいつでも正しい美しさにみちている。猟奇的なはずの「彼女」は、けれどやることなすことすべてが正しい。電車内で年寄りに席を譲るのは当然だし、落書きをしてはならない。援助交際もタバコのポイ捨ても然りだし、ハイヒールを履く女を好む男はハイヒールの歩きづらさをまず思い知るべきなのだ。そして、彼女にとっての「二度め」の薔薇の花を誠実に届け、彼女とつきあう10箇条を語るキョヌもまた、彼女にふさわしく正しい。わざわざ高校時代の制服を着て踊るため、未成年入場禁止のクラブで身分証をきっちりと提示する彼らの毅然とした姿は、まさにその正しさの表れだ。声の届かぬ距離でやっと彼に思いのたけを叫ぶ彼女。清く正しい彼女がキョヌに対してだけまっすぐになれないのは、癒えぬ恋の傷を隠し持つ彼女のそのあまりに正しいまっすぐさゆえであるという逆説が胸を打つ。過去に囚われるそんな彼女が未来人を夢見るのは、キョヌという頼りなくも愛に満ちた未来への切望からだろうか。運命は努力した人にだけ偶然という橋を架ける。その言葉の通り、偶然を必然としてついに未来を掴みとる二人は、ようやく正々堂々と心から向き合えるのだろう。またもや身分証を提示し制服姿でクラブへと乗り込む彼女と彼。彼らのその一点の曇りもない正しさが、力強くそして誇らしげに、愛の勝利を物語る。そう、正しいことは決して恥ずかしいことなどではないのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-28 01:44:28)(良:2票)
11.  僕の彼女を紹介します 《ネタバレ》 
チョン・ジヒョンを主演に勝気な女の子を描くというプロット、さらにはことあるごとに『猟奇的な彼女』と同調させてしまうジェヨン監督の節操のなさから、どうしても二番煎じの印象は拭い去れない。けれどこの映画は決して単なる焼き直しなどではなく、『猟奇的~』と表裏一体の、もう一つの愛の物語なのである。『猟奇的~』が二度めの恋と向き合えるまでの少女の葛藤と奇跡を描いていたとするならば、クァク・ジェヨン監督が本作で描くのは、猟奇的な「彼女」が痛ましくも一途にその胸のうちに抱え紐解かれることのなかった、隠されたもう一つの主題、つまりは一生に一度の忘れえぬ初恋の記憶である。本作の前半における、他愛なくもきらきらとまぶしいばかりの輝きは、まさに初恋のそれだ。水しぶきをあげて車の行きかう土砂降りの往来で、歓喜のダンスを見せるギョンジンとミョンウ。前作『ラブストーリー』でも熱心に描かれていたように、恋する二人にとっては雨に濡れることすら幸福な瞬間なのだ。愛を誓いあう時、人はだれしも永遠を信じる。けれどその永遠の魔法が解けた時、人はどう生きるべきなのか。コミカルな描写を織りまぜつつも、やがて世界に一人とりのこされるギョンジンを見据えるジェヨン監督の視線は真剣そのものだ。ロミオとジュリエットのような心中への希求、あるいはマグマのように沸きこぼれる悲しみや憎しみ、そのどうしようもなさ。それは一生に一度のかけがえのない愛を奪われた私たちの姿でもある。生まれ変わったら風になりたい。前半で語られるミョンウの言葉。紙飛行機に風車、そして頁を繰るパラパラ漫画は、風の存在なくしては意味をなさない。それはギョンジンの心象でもあるだろう。彼女の部屋を過剰なまでに埋め尽くすそれらのガジェットは、同時に決して埋めることのできないギョンジンのその胸の空洞を物語り、ミョンウの不在を浮き彫りにする。彼女の魂を浄化するようなラストは、まさに映画ならではの陳腐なファンタジーである。けれど陳腐なファンタジーを信じるその力こそが、私たちに人生を生き続けさせもする。唐突にキョヌが登場し強引に『猟奇的な彼女』へとシンクロするラストシークエンス。けれどそれは単なるお遊びではない。なぜなら、彼女の進むその先、その指標こそが、エピソード2としてあらかじめ用意されていた『猟奇的な彼女』という物語にほかならないのだから。
[DVD(字幕)] 9点(2013-04-28 01:43:22)
12.  楽日 《ネタバレ》 
多くの映画が2時間で主人公の一生を描ききるように、時間の跳躍は映画の醍醐味である。観客は我を忘れ小気味良いこの跳躍に酔いしれる。一方、長回しはこの小気味良さから我々を現実的な時間軸に引き戻し覚醒させる技法である。ではそうした長回しを用いて映画を撮ることの意味とは一体何だろう。その一つの答えを蔡明亮は本作で提示している。カットを割ることなくカメラが空間を捉え続ける時、それを観る我々の時間は自ずとスクリーン上に描かれるその時間と同調し、ぴたりと重なりあい同じ秒を刻む。そのとき私たちは画面に映し出される映画と、時間をそして空間を、共有する。恰もその場に居合わせたかのようにその瞬間を「体験」するのだ。本作でも多用される固定カメラによるワンシーンワンカットの長回しには、映し出される被写体の動きや変化が不可欠となる。フィックスの構図で何ひとつ変化のない光景を映せば静止画と判別がつかない。だからこそ、下心を秘め彷徨する男たちや、しどけない年増女の怠惰な蠢きですら、この空間に息を吹き込む生命となる。びっこを引きずり通路や階段をのろのろと行く女従業員の陰気な歩みも、画面の奥でひたすらに窓を打つ激しい雨垂れもだ。あるいは映写技師不在の映写室で彼の残したタバコの吸いさしから立ち昇る幽かな紫煙のゆらぎ、それだけでもいいだろう。映画を映画たらしめるそのささやかな動きすら失った時、映画は死ぬ。だが驚くべきことに蔡明亮はそれを実行する。かつて栄華を極めながらも楽日を迎えた映画館。最後の上映を終えライトに照らし出された夥しい客席を、先述の女従業員がのそのそと横断しやがてフレームアウトする。一切の動きを無くした巨大な空間は、無音の静止画となり、ただそこに横たわる。映画が映画としての機能を停止する(=死ぬ)この数分間にも及ぶ「静止画」に込められる万感の思い。主を失い時を止め今まさに息絶えた映画館に、カメラはただただじっと寄り添い続けるのだ。まるで最後のその別れを惜しむように。そうして蔡明亮は、映画の死を以て映画館の死を悼む。土砂降りの中をバイクで去っていく映写技師を見送り、女従業員もまた違う方角へと歩いていく。彼女は気づいただろうか。男がバイクに跨るほんの一瞬ヘッドライトが照らし出した緑色の炊飯器を。その中には彼女が半分残した巨大な桃饅頭(まるで哀悼の意を表す葬式饅頭のようでもある。)が息をひそめている。
[DVD(字幕)] 10点(2013-04-28 01:41:07)
13.  海角七号/君想う、国境の南 《ネタバレ》 
かつて台灣は日本であった。個人的に大日本帝國の植民地政策を肯定するつもりはさらさらない。しかし日本統治期を生きた台灣人の夠くは、それでもかつて自らが「日本人」であった過去を愛おしみ、また懐かしむという。日本が第二次世界大戰に敗れ、台灣が中國國民党に委ねられた時、彼らは思ったに違いない。なぜ私たちを見棄てて行ってしまうのかと。あなたたちと同じように、私たちもまた日本人ではなかったのかと。『海角七號」が描くのは、まさに日本人が台灣を去ったその日に書かれた七通のラブレターである。手紙を書いた若き日本人教師とその宛先たる女学生は、かつての日本と台灣の姿そのものだ。手紙は語る。「君には解るはず。君を棄てたのではなく、泣く泣く手放したということを。みんなが寝ている甲板で、低く何度もくり返す。棄てたのではなく、泣く泣く手放したのだと。」引き出しの隅に隠され決して投函されることのなかったその戀文を、「海角七號」に住むうら若き「小島友子」はどれほどの想いで願い、そして待ち望んだことだろう。楊徳昌や侯孝賢らの名を持ち出すまでもなく、台灣映画のレベルはとても高い。その意味では、本作の出来はお世辞にも良いとは言い難い。冗長で野暮ったく、粗だらけですらある。だがこの映画には、多くの台灣人の想いを代弁する“心”が宿っている。台灣では、映画館に足を運んだ日本統治期世代の老人たちが劇中幾度も挿入される日本語の唱歌「野ばら」を合唱し、おそらく心のどこかで待ち望んできたであろう件の聲にそっと涙したと聞く。だが台灣映画の歴代興収を塗り替えるほどの大ヒットとなった本作が、日本で大きな話題になることはついになかった。日本人から台灣人へのラブレターを描いた『海角七號』は、その実、台灣人が日本人に宛てた切なる戀文なのだろう。だが日本人はまだ、引き出しの隅に大切な手紙を仕舞い込んだままだ。
[DVD(字幕)] 7点(2012-01-24 15:58:52)
14.  さんかく 《ネタバレ》 
吉田恵輔監督は宮崎あおいの熱烈なファンであるに違いない、と推測してみる。宮崎との結婚で世間の反感を買った高岡蒼甫が扮する本作の主人公百瀬のキャラクターは、結婚騒動で高岡を逆恨みする宮崎ファンが憎き彼に抱くマイナスイメージそのものなのだ。ビッグマウスでナルシストのくせに器の小さいダメ男。女癖だって絶対に悪いに違いない。こんな奴が俺のあおいちゃんを幸せにできるもんかい畜生!という、やっかみ120%なイメージ。だが面白いのは、吉田監督(および観客)のこのどす黒い悪意を真っ向から受けて立つ当の高岡が 実に生き生きと、このいけ好かない軟弱男を演じ切っていることだ。不敵な面構えを見せた『パッチギ』での好演をも凌ぐ高岡の凄まじい本気っぷりは、演じるキャラクターに反してもはや清々しいほどだ。そして田畑智子。彼女もまた、 かつての天才子役というナメられたレッテルを、ここでついにぶち破る。田畑智子という役者をここまで見事に活かし、さらに神がかったそのポテンシャルを引き出した映画監督は、それこそ彼女のデビュー作『お引越し』を撮った相米慎二以来だろう。多少なりとも角のとれた感のあった前作『純喫茶磯辺』は別にしても『なま夏』『机のなかみ』と、吉田の意地の悪さはすでに折り紙付きだ。だが本作で吉田はさらにその上をいく。ラストシーン、田舎町の畦道にたたずむ男と女と少女のストーカー三角形。幕切れは女、佳代の笑顔だ。佳代=田畑の慈愛に満ちたその表情の何という 美しさ!だがこれは能天気なハッピーエンドなどではおそらくない。劇中、佳代にとっての「愛」は相手をうんざりさせるほどヒステリックに泣き叫びまた見苦しく追いすがるイタい行為として終始描かれる。ではそんな彼女が笑顔を見せる瞬間とは何なのか。自ら両腕を掻き切るほど必死で追い求めたその男の正体を前に、彼女は別人のように柔和にほほえむ。それは「百ちゃんがバカなのは知ってる」はずの彼女がついに真実を悟り、はたと我にかえる瞬間だ。怒濤の愛から醒め呪縛から解き放たれた彼女は、その時本当の意味で男のすべてを赦し、男のすべてを包み込むことができる。菩薩の如き慈愛は、裏を返せば女としての拒絶でもあるという残酷。美しい映像や照明に騙されてはいけない。柔らかく照らし出される田畑智子快心の笑顔。そのラストショットに、吉田恵輔は、愛が今まさに終わる無慈悲なその瞬間を描いている。   
[DVD(邦画)] 9点(2011-04-22 16:36:07)(良:3票)
15.  カッコーの巣の上で 《ネタバレ》 
本作は1975年の映画だが、描かれる物語の舞台はそこから12年遡る1963年のオレゴン州だ。そのことを映画は冒頭、さりげなく表示する。何故わざわざそんな但し書きが必要なのか、何故この物語が12年前のものでなくてはならないのか、観る者が漠然と抱くその他愛のない「何故」が、やがてマクマーフィーのこめかみに容赦なく刻み込まれる縫合痕へとゆるやかに帰結する。そのワンショットが静かに示す絶望。この映画はそうして人間の希望と絶望を丹念に描く。だがそこに安易な解答は一切用意されない。刑務所から精神病院に移送された主人公マクマーフィーが詐病か否かについて、彼を担当する医師が明確な診断を結局下さぬように、映画もまた最後までその答えを留保したまま終わる。描かれるのはただ、レジスタンスの英雄然とした彼の立ち居ふるまいと、カナダへの逃亡という夢物語を雄弁に語りながら結局はその巣にとどまり続ける彼の姿だ。物語の終盤ついに脱出口を眼前にしたマクマーフィーはしかし、自分との別れを惜しむ若者ビリーの一夜につきあう名目で深酒に酔いつぶれ眠り込む。やがて夜が明けても、今度は不幸にも自死に追い込まれたこの若者の仇を討つため、巣の上で手を振り外界へと促す雌鳥たちに背を向ける。だがはたしてその逡巡と失敗は彼にとって本当に繊細なビリーを庇護するため敢えなく選択された決断だっただろうか。映画が表立って描くのは、医療の名の下に人間がその意志を切除されるロボトミーの悲劇だ。だが一方でミロス・フォアマン監督はより根深い悲劇の可能性をも示唆する。手術が行われるよりずっと以前にマクマーフィーの「翼」はすでに自身の手によって無惨に切り取られていたのではなかったか、と。映画が最後に祈るように見据えるのは、マクマーフィーの奪われしその「翼」を引き継ぐべく鉄格子を破り、羽ばたくように外界へと巣立っていく大男チーフの姿だ。彼が力強い足取りで目指す先は、おそらくマクマーフィーが夢見たカナダの地だろう。自由へと飛び立っていくチーフの大きな背中は、ついに脱出口をくぐることなくそれでも最後までそれを願いそして夢見たマクマーフィーのその小さな背中でもある。大きな大きなチーフの背中に乗り、マクマーフィーは死してようやくカッコーの巣の上へと解き放たれるのだ。彼が見た絶望と、そしてその先に見据えつづけた希望とをたずさえて。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-04-22 16:24:32)(良:2票)
16.  ヒストリー・オブ・バイオレンス 《ネタバレ》 
さびれたモーテルから出てくる二人の男。蝉の声がさんざめく長閑な昼下がり。彼らの他に人影はない。車に乗り込んだ若い男の肩に、しきりに蝿がたかっている。キーを回し車をわずかに移動させ、停止する。始動したエンジン音とカーステレオが途切れ、周囲は再び蝉の声に支配される。やがて若い男がウォータークーラーの空容器を手に、管理人室へと入って行く。二人の男の退屈な動向をただ延々と長回しで捉えたこの冒頭から、画面には異様な気配が漲っている。その怠惰な画面は、単なる平穏ではなく、それに続く暴力への凶兆として存在するからだ。この二人によってある日突然脅かされる主人公トムの安穏な日常もまた然りだ。『ボーリング・フォー・コロンバイン』でマイケル・ムーアは、隣接するカナダとの比較を絡めて「暴力への不安」に蝕まれたアメリカ社会を描いたが、本作の監督がその「カナダ人」であるデヴィッド・クローネンバーグだというのは興味深い。件の二人が(まるで暴力大陸アメリカをあっけらかんと具現化するような)タランティーノ映画の登場人物をどこかしら髣髴させるのは、偶然ではないだろう。本作においてクローネンバーグが執拗に描くのは、アメリカ人が潜在的に抱え持つ「暴力への不安」だ。家でくつろいでいてもダイナーで働いていても不吉に忍び寄る、得体のしれない黒塗りの車。つきまとう「暴力への不安」が常にトムと家族を脅かす。あるいは彼の息子がハイスクールで直面するいじめっ子たちの不穏な威圧。それもまた暴力への不安、その変奏の一つだ。「反撃」という形を借りて土壇場で反転する暴力。その息子の姿は父に重なる。クローネンバーグはそうした反転をたびたび用いることで、月並みなバイオレンス映画の一方向性を封じる。暴力は無限に反転し、転調する。それこそがクローネンバーグが本作で見据える暴力の本質だ。家族たちの畏怖や憎悪の根源が不気味な片目の男から夫であり父であるトム(ジョーイ)へと移行することで、得体のしれない彼らの不安が確固たる恐怖へと転調していく様は圧巻だ。ラスト、不安材料をすべて摘み取り帰宅するトムと、それを知ってか知らずか彼を迎え入れる家族たち。出会った頃のように瞳を読みあうトムと妻。けれどおそらくその先も、彼らは再びの平穏のその裏側で、いつ現れるとも知れない黒塗りの車の来訪を日々恐れ続けていくのだ。
[DVD(字幕)] 9点(2011-04-22 16:15:40)(良:1票)
17.  男はつらいよ 寅次郎相合い傘 《ネタバレ》 
雑多に盛り込まれるゲスト出演者やエピソードを巧く消化しきれず空回りすることも多い『男はつらいよ』シリーズだが、本作『寅次郎相合い傘』は、その中にあって桁違いの完成度を誇る奇跡のような一作だ。あらゆる登場人物が挿話が場面がそれぞれ見事に噛み合い、唯一無二のアンサンブルを織り成している。言うまでもなく渥美清がすばらしい。そして浅丘ルリ子がすばらしい。だが、それ以上に倍賞千恵子がすばらしい。添え物のように控えめに画面を彩る彼女はけれど、妹として姪として妻として母として友として、その時々にそれぞれの表情を見せる「さくら」という確固たる一人の人間として、ゆるぎなくそこに存在する。シリーズ全48作を通し、まるで定点カメラで撮影された花のように次第に萎れていった倍賞千恵子だが、スクリーンに刻んだそうした年輪の如き変化をも引っくるめ『男はつらいよ』にひたすら愛された彼女は、日本一幸福な女優だ。おそらくどのマドンナよりも。そして寅次郎を愛すればこそ一喜一憂する、とらやの面々。ある時は近所の人々の心ない噂を悲しみ、ある時はリリーとの夢物語を語る「寅のアリア」に聴き惚れる彼らの、家族としてのその表情の、なんという繊細さ!美しさ!店先で甘えるようにさくらの腰に抱きつく幼い満男や川原で虫を追いかけるその満男をさらに追いかける博の姿が、愛情に満ちた彼ら親子のその有り様をさりげなくも雄弁に語り、柴又の道端や寺の境内で遊ぶ子どもたちを捉えた他愛のないワンショットまでもが、この映画に温かい血を通わせている。さらにはメロンを巡る馬鹿馬鹿しい諍いから「相合い傘」へと至る一連のシークエンスのすばらしさ!子どもじみた寅次郎を一喝するリリーは、いつしか天涯孤独な身の上の客人としてではなく彼ら「すばらしき家族」のその一員として、そこにいる。そのことのなんという幸福感!東京の下町のケチな団子屋の、このささやかな家族たち。市井に暮らすつましい彼らのありふれた、けれどかけがえのないその瞬間瞬間を、映画は斯様に丁寧に切りとる。そうすることで山田洋次は人の世のすばらしき「幸福」を、そしてその美しさを、見事にここに描いたのだ。もしも何も知らぬ外国人に『男はつらいよ』とはどんな映画かと訊かれたら(そんな機会はまずありそうにないが)、私は間違いなくこう答えるだろう。happinessの映画だ、と。
[DVD(邦画)] 10点(2011-01-29 02:00:44)(良:4票)
18.  渚のシンドバッド 《ネタバレ》 
一見無駄の多い映画だ。物語を語る上でさして重要とは思えないささやかなシーンを、橋口亮輔監督は、けれどとても丁寧に描く。それは主人公3人以外の登場人物の描写、なかでもお調子者奸原くんと優等生清水さんの本筋とは無関係に描かれるシーンに特に顕著だ。落ちこんでいる無器用な清水さんにこれまた無器用な奸原くんが器用に披露するトンボ返り。学校の屋上でその脇役の二人が二人きりで見せるさりげなく心やさしいやりとり。その二つのシーンが主軸をさしおいて本編屈指の名場面になっていることからも分かるとおり、この映画の魅力はまさにその無駄さにある。さらに言えば、彼ら登場人物を延々とまるごと捉えようとする長回しや、描かれる人物の心情によりそうように二拍、三拍と長すぎる余韻をおいて切り替わる場面転換もまた、物語を語る上では冗長さやテンポの悪さを生じさせる無駄と言えるだろう。しかしながらそうした無駄の一つ一つが、そのくせなんとも魅力的なのが面白い。橋口監督にとっておそらくもっとも重要なのは、小気味よく物語を語ることではなく、彼ら一人一人の繊細な感情をじっくりとそしてしっかりと捉え、それを大切に大切に積みかさねていくことなのだろう。そしてそんな彼の、無駄を恐れず主役も脇役も等しく愛をもって見つめるそのまなざしこそが、この青春群像劇を心にふれる傑作たらしめている。まさに無駄ばかりの映画だ。けれどその無駄には一つのこらず愛がこめられている。ラストの自転車に乗って走り去る奸原くんの姿は、そんな無駄の上に咲くべくして咲いた大輪の花だ。その花は力強く、美しく、胸を打たれずにはいられない。無駄だらけのこの映画に本当は無駄など一つもありはしないのだ。
[映画館(邦画)] 10点(2011-01-29 01:41:47)(良:1票)
19.  ソーシャル・ネットワーク 《ネタバレ》 
ガールフレンドとの噛み合わない会話で主人公の人となりを如実に示す導入が見事だ。主人公マーク・ザッカーバーグが如何に傲慢なティーンエイジャーであるか、そして自らのその傲慢さに如何に無自覚であるか、さらには彼が如何にコミュニケーション能力の欠落した孤独な嫌われ者であるかを、監督デイヴィッド・フィンチャーは、一見他愛のない冒頭の数分間だけで強烈に印象づける。ボストン大の学生なら時間を惜しんでまで勉強する必要もないだろうと悪気なく言う彼が、一目散に走り戻る名門ハーバード大の学生寮。フラれた腹いせにガールフレンドの中傷をブログに書き込むマークは、それが恥ずべき卑劣な行為であるなどとは夢にも思わない。自分を必要としない凡庸な人間への怒りと渇望、それこそが彼の持ちうるただ一つのコミュニケーション手段だからだ。悪趣味な女子学生の品評サイトも、それに続くSNSの立ち上げも、マークのそうした幼い承認欲求に基づく産物であるという意味では、本質は同じだ。欲求をあからさまにむきだしたブログや品評サイトは反発を食らい、欲求を包み隠したスマートなFacebookは万人に受け入れられた、両者の差違はただそれだけでしかない。彼の思惑どおり、驚異的なスピードで膨れ上がっていくFacebook。だがフィンチャーがここで真に見据え、そして描くのは、この若き天才青年によるサクセスストーリーの、奇型的なその裏側である。Facebookの爆発的成功とはうらはらに止めどなく空洞を拡げていくマークの青春と、その失敗。彼の不遜なまでの優越感と一方でその内に巣喰う巨大な劣等感は、まさに青春映画の構図そのものだ。 ウィンクルボス兄弟のようにボート部のエースとして活躍すること、あるいはエドゥアルドのように名門クラブから招待を受けること、そんなちっぽけな権威や名誉は、史上最年少で億万長者になったマークの成功に比べれば子どもだましな玩具のようなものだ。しかし誰もが羨む成功を手にしたこの孤独な天才が心の底で本当の本当に望んでいたのは、その玩具の方だったのかもしれない。ラスト、はじめて自分から痛切に友だちを求め「更新」キーをクリックし続けるマーク。皮肉たっぷりなビートルズのBaby You're a Rich Manが、負け犬の栄光と挫折を辛辣に祝福する。祈るように彼が見つめるモニターは、そして彼が見つめるその世界は、いつか更新されるだろうか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-18 17:33:04)(良:5票)
20.  ガタカ 《ネタバレ》 
近未来を舞台としたSF映画でありながら『ガタカ』は、建築、自動車、衣装、さらには登場人物たちの髪型などといったあらゆるデザインを、ことごとくクラシックに描いている。そんな未来像がまず目をひく。そしてそれはうわべの美術的なデザインだけにとどまらない。遺伝子工学の発達という設定こそ未来的ではあるものの、生まれながらにして階級が決定しその階級が人の人生を左右するという思想は、旧時代にこそ色濃く社会を支配していたものだったはずだ。科学は飛躍的に進歩しても、ファッションや社会構造は循環し過去に遡行するという発想が面白い。つまりこの物語は、近未来に舞台を借りて現代人が描いた古典映画なのである。たとえば、兄弟での遠泳競争といった未来どころか前時代的な男同士のチキンレースは『理由なき反抗』を、そして不適正者としてのコンプレックスや屈折を見せる主人公ビンセントの姿は『エデンの東』のジェームス・ディーンを彷彿させるほどだ。あるいは宇宙飛行士として旅立つ「ジェローム」を見送る検査官が、旧き佳き時代の遺物のような伊達男っぷりを発揮するのもまた、それゆえだろう。そう考えるとアンドリュー・ニコル監督は、現代劇や時代劇として描くにはあまりに率直でアナクロニズム溢れるこの物語を語る照れ隠しとして、あえて近未来を選んだのではないかとさえ思えてくる。そんなすばらしきこのクラシック映画の中でもっとも現代的なのは、輝かしいはずの適正者の側の屈折を表現するユージーンの存在だろう。不適正者であるがゆえあらかじめ可能性を奪われたビンセントと、適正者でありながら自らその可能性を唾棄せざるを得なかったユージーン。対照的なはずの二人でありながら、それぞれに隠し持つ魂のその等しい痛みが重なりあいジェロームという1人の人物を創り出す展開が見事だ。ユージーンの最期は、尿や血液のサンプルとしてのみかろうじて存在してきたその肉体の抹消に他ならない。宇宙に旅立ったのはユージーンのサンプルをまとったビンセントではない。2人で1人のジェロームなのだ。ビンセントとユージーンそれぞれの魂を共に乗せて、ロケットは新たな地平を目指すのだろう。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2011-01-02 21:23:26)(良:1票)
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