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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  恋人までの距離(ディスタンス)
この映画を観た誰しもは、“美しすぎる一夜”は、美しいままの「思い出」にすべきだと、考えることだろう。 この映画の主人公の男女も、ちゃんとした“大人”なので、一時の“甘美”に溺れることなく、「朝」の訪れとともにちゃんと一旦断ち切って、それぞれの旅路に戻っていく……一応は。  そのまま付き合って、結婚しても、きっとこんなにも幸福な夜は二度と味わえないことはきっと二人共分かっている。 それでも「再会」の約束をせずにはとてもいられなかった。 失望することが分かりきっている選択をすることは、愚かなことなのだろう。 けれど、その愚かで、滑稽な様こそが、「恋愛」であり、結局人間にとって、それ以上に優先されるモチベーションなんて有りはしないのだと思える。  僕自身は現在結婚5年目で、まだまだ酸いも甘いも経験値としては序の口程度だろう。 ただ、もしこの映画の二人のような美しすぎる思い出の夜があったとして、その綺麗なままの思い出を、時に辛辣な現実と比較して、ただただ「今」を悲観することほど不幸なことはないと思う。 そんな一夜を過ごせたならば、その思い出を抱えて、二人、たとえ罵り合い続けてでも共に生きたほうが、やっぱり幸せなのではないかと思える。   見知らぬ外国人夫婦の日常的に繰り広げられているのだろう喧嘩がきっかけで、この映画の二人は出会う。 それは、この二人に向けての何かの暗示なのかもしれない。 それでも、冷静を装った“大人”を理由にただ離れることなんて出来ない。 それが恋愛、それが人間、残酷で、だからこそ眩い。   ふいに出会った愛しい人と、夜通しを歩き通したことによる疲労感と多幸感の中でまどろみに沈んでいくラストシーンのヒロイン。 目覚めた時、彼女は何を思い、どういう人生を歩んでいくのか。  20年前の公開時にこの映画を観たならば、この後の彼らの人生に思いを巡らせつつ、気になってやきもきしたことだろう。 それはそれでこの恋愛映画の醍醐味だったことだろうと思う。  しかし、幸か不幸か、2015年のタイミングで今作を初鑑賞した僕は、彼らの人生をあと映画2作品に渡って確認することができる。 “美しくすぎる一夜”の後、残酷な時の流れを経て、一体二人の何が変わり、何が変わらなかったのか。 それを確かめることは、とても恐ろしくもあるが、やはり楽しみでならない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-09-29 23:36:23)
2.  ゴーン・ガール 《ネタバレ》 
「怖えぇ…」 苦笑いを引きつらせつつ、そう思わず呟いてエンドロールを迎えた。   映画は、妻が突如として失踪した夫の“戸惑い”から始まる。その“戸惑い”の描き出し方が先ず巧い。 あらゆる可能性を秘めたストーリーテリングの中で、夫を含めたすべての人物が怪しく見えてくる。 夫を演じるのはベン・アフレック。愚鈍さと狡猾さが次々に見え隠れするこのスター俳優の配役は、まさにベストキャスティングだったろう。 今作は基本的には彼の視線から描かれるわけだが、彼自身の人物像が結局最後まで掴みきれないので、観客は終始絶妙な不安定を強いられる。  そして、妻役のロザムンド・パイクが物凄い。 殆ど無名に近いこの女優のパフォーマンスには、度肝を抜かれた。 一人の女が持つ明確な多面性と狂気。その様はもはや悪魔的であり、登場人物たちも観客も「どうしようもない」と諦めるしかなくなってくる。 キャラクターとして凄いのは、決して恐怖の対象として留まっているわけではないということだ。狂気が顔を出すまでの彼女は、間違いなく美しく、魅力的だ。馬鹿な男が次々に惚れてしまうのも無理はない。そして、狂気がさらけ出された後でさえ、この女はどこかキュートで虜にされてしまうに値する魅力を携えている。 その様は、やはり「悪魔」と形容するに相応しいかもしれない。  恐怖と狂気に溢れたサスペンスとして、それだけでも充分に完成度は高い。ただこの映画が最終的に行き着く先はそういう類いのことではなかった。 上質なサスペンスに彩られて終に描き出されたのは、「○○」というあまりに普遍的な“形式”が孕む“恐ろしさ”。 笑いが相応しい映画ではないはずだが、この映画には随所に滑稽さが内包されている。ある意味でこの映画は、テーマとなるその“形式”を極めてショッキングに誇張した“コメディ”なのではないかとすら思えてくる。  男と女。その二種類の人間という生物が関わりあうことで生まれるおぞましさにも似た恐怖と、呆れてしまうほどの滑稽さ。本来相反すると思われるそれらの要素が絡み合う濃ゆい映画だった。   実は、僕自身が「○○」をしてちょうど5年目。問題はないつもりだけれど、その慢心こそが、この映画で描かれている「恐怖」に直結するような気がして、思わず震える。 夜遅くまで映画を観て帰り、冷蔵庫に残された妻が作ったエビチリを食べながら、また震えた。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-12 23:42:06)(良:2票)
3.  (500)日のサマー
その昔、ある友人の恋模様のエピソードを聞いていると、度々「コーヒーに誘った」という内容が出てきた。 それを聞いた僕は、「コーヒーなんて誘ってどうするんだ?」とまるっきりピンと来なかった。 自分が関心を持っている相手とコーヒーを飲みながら話をするという選択肢自体が、当時の自分の中はなかった。 最近になって殊更に目につくのだが、欧米の映画では男女の会話の中で、「コーヒーでもどう?」という台詞というか“駆け引き”がしょっちゅう出てくる。 ああそうか、男女の駆け引きの中では、“コーヒーに誘う”という行為はものすごく一般的な常套手段なんだな。ということに今更ながら気付いた。 まあそんなことはこの映画には関係ないので、どうでもいい。   「運命」は「偶然」だと思うし、「偶然」は「運命」だと僕は思う。 だから、「すべての出来事は偶然だ」ということと、「すべての出来事は運命だ」ということは、まったくの同意だと思う。  “500日”という時間の中で、出会い、別れた男女の様を美しくユニークな映像世界の中で、切なくポップに描き出したとても良い映画だと思えた。 たとえ“1日”でも恋を経験した人であるならば、男女問わずに、どこかしらに共感できるポイントがあって、その可愛らしくも辛辣なシーンを目の当たりにして、胸がきゅう~っとなる映画だったと思う。  500日目の後に新たな“1日目”が始まる偶然。 500日目の後に“501日目”が始まる運命。 両者は平等に可能性を秘めており、それらを繰り返しながら、すべての人たちは“1日”を生きている。
[DVD(字幕)] 9点(2011-12-10 14:09:29)
4.  ゴーストワールド
“変”なのは自分なのか取り巻く環境なのか?社会の常識と言われているものを迎合して“自立”しなければならないのか?そういう普遍的な10代の思い悩みを、ある部分においては斬新に、そしてある部分においてはとても純粋に描いた作品だと思う。 パフォーマンス的にも、ビジュアル的にも完璧な演者たちが織り成す、少し奇妙なこの映画世界は、実はどの世界にも存在する滑稽で純粋な人間の姿だ。
[DVD(字幕)] 9点(2005-10-26 17:04:13)
5.  コン・エアー
何度観てもこの“馬鹿アクション映画”は面白い。 もう流石に見飽きたかと思い、一番好きなラストカットだけ観ようと動画配信サービスにて再生を始めたが、結局最初から最後まで観てしまった。 この手の大味さこそが売りの愛すべき娯楽映画のことを“馬鹿アクション映画”と勝手に呼ばせてもらっているわけだが、この映画こそが、その頂点に君臨する作品と言って過言ではない。  個人的には、中学生時分に一人で映画館に通い始めた頃に観た作品でもあり、自分の映画鑑賞人生においても印象が強い作品の一つと言える。 思い返してみれば、ジョン・マルコヴィッチもジョン・キューザックもスティーヴ・ブシェミも、出演映画として初めて観たのはこの映画だったような気がする。 故に、勿論その後彼らの他の映画も沢山観ているけれど、この映画のキャラクターの印象度が極めて高い。  何と言っても豪華に取り揃えた“凶悪犯軍団”が、馬鹿馬鹿しいほどに魅力的な要素で、彼らの存在感がこの映画の“馬鹿”面白さを助長している。 ボス役の名優・ジョン・マルコヴィッチを頂点にし、ヴィング・レイムス、ダニー・トレホとアクの強い脇役を取り揃え、伝説の連続殺人鬼役にはスティーヴ・ブシェミが不気味な存在感をこれでもかと見せつける。  わらわらと群がるように襲いかかる悪党たち、それに無精髭と長髪を振り乱して奮闘するニコラス・ケイジ、爆発につぐ爆発……、暑苦しくて、工夫の無い娯楽映画に見えがちだが、随所に散りばめられたエスプリが小気味良く効いている。  今後も、観る気がなくとも目の前に映し出されてしまえば、きっと最後まで観てしまうのだろう。 前述の通り、大好きなラストカットを見届けて、そうつくづく思う。
[映画館(字幕)] 9点(2003-10-28 10:06:13)(良:1票)
6.  GODZILLA ゴジラ(1998)
相変わらず評価が悪いけど、この映画はモンスターパニックとして最高の出来であると思う。エメリッヒ監督お得意のB級テイストが実に効果的に映画をまとめている。キャストのノリの軽い演技もモンスター映画的で良い。多くの人が今作をゴジラ映画として評価するけど、それは間違いだ。今作に登場する怪獣はゴジラではない。放射能の突然変異で生まれたゴジラに似た巨大生物なのである。
9点(2003-09-29 12:28:33)
7.  コンテイジョン 《ネタバレ》 
突如として発生した高致死率の新種ウィルスが瞬く間に世界中に広がっていく恐怖を描いた映画。 というイントロダクションを聞いて真っ先に連想してしまうのは、やはり「アウトブレイク」だ。「アウトブレイク」が、殺人ウィルスそのものの猛威とそれに対峙する主人公のヒーロー性を描いたエンターテイメント作品だったのに対し、今作はプロットこそ似通っているが世界観のテイストはまったく異なった映画に仕上がっている。  リアリティを追求していると言えば確かにそうだが、必ずしもすべての描写が「リアル」というわけではなく、随所に非現実的だったり、作為的に誇張されている部分もあったように思う。 思うに、この作品が描いているものは、未知なるウィルスそのものの恐怖ではなく、その“感染”による“パニック”に対応しきれないであろう全世界の社会体制自体の脆弱さ、そしてそこに“巣食う”人間そのものの恐怖だったのだと思う。  映画の冒頭数分で死に至ってしまうグウィネス・パルトロウの描写を皮切りに、文字通り死が伝染する様は恐ろしい。 しかし、それ以上に、ジュード・ロウが演じたような人間から発される作為的な「情報」によって伝染していく個々の人間のパニックが何よりも恐ろしく、結局彼のような人間の存在を治めきれない現代社会の「現実感」に非常に脅威を覚えた。  アカデミー賞クラスのビッグネームを揃えたキャスティングによる群像劇には、流石に迫力はあった。 その一方で、個々の人物描写が希薄に映ったり、そもそも物語が中途半端であるという批判も分からないではない。 リアリズムに振れるにしろ、エンターテイメントに振れるにしろ、もう少し踏み込んだ展開があれば、もっと印象的に化けた映画になっていたようにも思う。  ただ、この映画で描かれるまさに「今そこにある危機」を紡ぐにあたって、この物語の中だけで完結していない半端さは、逆に問題意識を巡らすための余白を生んでいると言え良かったのではないかと思う。 そういう意味では、いつもスティーブン・ソダーバーグ監督作品に感じる、“何だか物足りない”感じが、意図的にか偶然かは分からないけれど効果的に反映されている映画であると思った。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-02-15 14:01:44)(良:2票)
8.  恋はデジャ・ブ
十数年に渡って、この映画のジャケットをレンタルショップで幾度となく見続けてきた。 そしてその度に、「若いビル・マーレイが出ているチープなラブコメなんだろうな」と思い続けてきた。 何より、「恋はデジャ・ブ」という邦題がださ過ぎる。恐らく、多くの映画好きの日本人が同じような印象を持っているんじゃないかと思う。  ところがこの映画が、アメリカの歴代映画ランキングの「ファンタジー」部門で8位にランキングされており、驚いてしまった。 そして追い打ちをかけるように、TSUTAYAの“発掘良品”の企画棚に並んでいるのを観て、この映画の存在を知って十数年目、初めて手に取った。  いやあ、良い映画だった。まさに“8位”、まさに“発掘良品”に違わない。  自尊心ばかりが強い意地の悪い主人公が、嫌々訪れた田舎町で、“或る一日”を抜け出せず、繰り返し繰り返し同じ一日を生きなければならなくなる。 良いことも悪いこともすべてが繰り返され、主人公は時に楽観し、時に悲観し、心情の浮き沈みさえも繰り返す。  人は誰しも、とても良いことがあっても、とても悪いことがあっても、「また同じ一日をやり直したい」と思う。 では、実際にそういう状況に陥ったとき、果たして何が出来るのか?ということをこの映画はひたすらに描き出す。  永遠に繰り返される一日。それはやはり“悲劇”であり、“恐怖”だと思う。 何を成功しても、何を失敗しても、目が覚めると”ゼロ”に逆戻り。 その儚さは、「一日」に“始まり”と“終わり”があることの「価値」を雄弁に語る。  ラブコメであるこの映画は、恋の成就とともに一応ハッピーエンドを迎える。 ただそのハッピーエンドには、また繰り返される一日が表裏一体で存在しているようで、何だか怖い。  ビル・マーレイが演じる主人公は、繰り返される一日に苦悩しながら、人生における様々な発見と経験を得ていく。 この映画は、“同じ一日”を繰り返して描くことで、人生にまったく“同じ一日”なんてものは無いということを、ファンタジックな辛辣さの中で物語っている。  最後に……やはりこの邦題だけは最悪だ。
[DVD(字幕)] 8点(2010-10-31 19:06:14)(良:3票)
9.  コーヒー&シガレッツ
自分が、コーヒーと煙草を好んでいないことが悔しくなる映画だ。苦々しい口当たりを表すような各シチュエーションの会話と、だからこそこみ上げてくる奥深い味わいがモノトーンの映像世界に溢れる。 シニカルなうわべだけのどうでもいいような会話が、なぜにこうも深みをもってくるか。たぶん、それがコーヒーと煙草の魅力なのだろう。 ケイト・ブランシェットの自演&一人二役をはじめ、ビル・マーレーのヌけた演技と出演者たちの存在感が、独特な世界観に拍車をかける。 コーヒー&煙草同様、まさに空いた時間に、何気なく、リラックスしてみるための作品だ。
[DVD(字幕)] 8点(2005-12-28 12:54:41)
10.  ゴスフォード・パーク
時代背景に裏づけされた人々の階級模様がそのまま舞台となる屋敷と映画の構図となり、非常に濃密で多面性のある群像劇が展開される。この手の映画は大得意な巨匠ロバート・アルトマンだけにストーリー展開とカメラワークが極めて見事で、多数の登場人物が混合することなくスマートに映画が進展していく。群像劇のみでも充分に見応えはあるが、そこに殺人というエッセンスが加わり映画としての味わい深さがさらに増す。
[映画館(字幕)] 8点(2004-01-26 17:51:02)
11.  恋におちたシェイクスピア
観る前のイメージに反して非常にテンポの良いストーリー展開と小気味いいキャラクター陣が大いに楽しめた。主演のグウィネス・パルトロウとジョセフ・ファインズの雰囲気がとても文芸的で映画世界にマッチしていたと思う。演出、映像世界など映画自体の完成度も極めて高く、存分に満足できる娯楽文芸映画だった。
[ビデオ(字幕)] 8点(2003-12-13 19:46:08)
12.  告発
ケビン・ベーコンは全体的に秀逸な演技を見せてくれたが、特に娼婦にフェラをしてもらうシーンの演技がとても切なく深いものがあり巧かった。あまり評価されてないけど、クリスチャン・スレーターの演技もなかなか良かったと思う。物語の核となる2人の配役がこの映画の成功を決めたと思う。
8点(2003-10-14 15:25:10)
13.  ゴーストバスターズ/アフターライフ
2022年2月12日、「ゴーストバスターズ」を生み出した映画監督アイヴァン・ライトマンが亡くなった。 この最新作にもプロデューサーとして名を連ね、監督を務めた息子ジェイソン・ライトマンと共に出演していたプロモーション映像でも顔を見たばかりだったので、その訃報は一映画ファンとしてとても悲しかった。 ただ、同時に、彼がクリエイトした娯楽映画史上に残るポップアイコンを自らの手で息子に託し、亡き盟友ハロルド・ライミスに捧げた本作の公開を見届けて逝ったことには、運命的なものを感じた。  そういった映画作品にまつわる様々なメタ的要素も絡みつつ、“若い世代”によってクリエイトされた本作は、1984年の「ゴーストバスターズ」が公開された“あの時代”に子どもだったすべての大人たちのためのジュブナイル映画であった。只々楽しく、そして泣けた。  1984年にアイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」の文字通り正統な続編であり、あの大人気映画があったからこそ意味を成す作品であることは間違いない。 そういう意味で、今の時代に相応しいテーマ性やアイデア、新鮮味がある映画ではないかもしれない。  でも、何も新しい物事を追い求めることばかりが、“新しい映画”にあるべきことだとは、僕は思わない。 過去の優れた娯楽や芸術を、新しい才能で蘇らせることもまたクリエイティビティなことだと思う。 敢えて80年代当時の着ぐるみ的な質感を携えたゴーストたちの造形だったり、80年代の空気感を残す田舎町を舞台にしたことなど、明確な演出はしっかりと創造性を孕んでいた。  そして、「継承」というテーマを映画世界の内外で強く意識した作品であるならば、その価値は更に意義深いものになる。 父親が生み出した世界に愛されたポップアイコンを、偉大な父以上の一流映画監督となった息子が継承し、その映画世界の中では、“お化け退治”の知識と技術と勇気が祖父から孫へと継承される。 この映画製作における文脈そのものが、大変エモーショナルだったし、王道的にエキサイティングだったと思うのだ。  息子ジェイソン・ライトマン監督が映し出した「画」は、尽くエモーショナルで素晴らしかった。 主人公の少女が佇む何気ないカットから、ゴーストバスターズ専用車両“ECTO-1”が田舎町を疾走するカットに至るまで、すべてのシーンが叙情感に溢れていて、それだけでも「いい映画だな」と思わせた。  一方で、ストーリー展開的において踏み込めていない要素は正直なところ少なくない。 主人公の少女を始めキャラクターたちは皆魅力的だったとは思うが、現在に至るまでの背景的な描写が極めて希薄なので、彼らが成長したり変化したりすることに対する感動は上手く表現できていなかった。  主人公フィーヴィーを演じたマッケナ・グレイス、兄役のフィン・ウルフハード、友達となるローガン・キムら若いキャストたちはキュートでジュブナイル性に溢れていた。 人生において破綻寸前の母親のキャラクターや、片田舎の冴えない教師に甘んじる地震学者を演じた“アントマン”もといポール・ラッドも、良いキャラクター性を孕んでいたのだが、「活かしきれていない」という印象は拭いえない。  「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」等々、人生に打ちひしがれた人間ドラマでこそ卓越した手腕を発揮してきたジェイソン・ライトマンだからこそ、そういう“負け犬たちのワンスアゲイン”的なキャラクター描写に物足りなさを感じてしまったことは、もったいなく思う。  だがしかし、振り返ってみれば父アイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」も、決して完璧な映画などではなく、くだらない部分はどこまでもくだらなくて、ポップでライトな“ノリ”に溢れた作品だった。 その“ちょうどいい”娯楽感こそが、「ゴーストバスターズ」であり、やっぱり正しい「継承」だったのだと思う。 短い時間ではあるが、亡きハロルド・ライミスを含めたオリジナルの4人が揃い踏みし、その中でビル・マーレイやダン・エイクロイドが気の抜けたジョークを繰り広げる。 1981年生まれの映画ファンは、そのさまを観て、率直に「ああ、良かったな」と思えた。
[映画館(字幕)] 7点(2022-02-18 22:48:34)(良:1票)
14.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 
ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。  その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。  と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。  「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。  その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。  ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。   でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)  実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。  詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2019-06-01 23:30:00)(良:2票)
15.  ゴースト・イン・ザ・シェル
アニメ映画の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」と、その続編である「イノセンス」は“一応”観ている。が、しかし、押井守監督が生み出したアニメーションの独特の質感と、鬱々とした世界観が、個人的にどうにも肌に合わず、面白いとは言い難かった。 人間と、電脳、アンドロイド、サイボーグが混在する近未来の混沌を描き出すにあたり、描き出されるテーマがどんどんと陰鬱に、インサイドの更にインサイドへと突き進んいくストーリーの構図が、精巧に感じる反面、酷く“ひとりよがり”にも感じてしまったことが、拒否感の最たる要因だったと思う。  そんなわけで、満を持してのハリウッド映画化の報を知っても、特段興味はそそられず、本来東洋人設定であるはずのヒロインにスカーレット・ヨハンソンを配したキャスティングにも安直さしか感じなかった。 “ビートたけし”の主要キャスト起用にも、キアヌ・リーヴス主演の往年のトンデモSF映画「JM」を彷彿とさせるばかりで、観る前から“やっちまった感”を覚えた。  だがしかし、だ。そうやってハードルを下げきって実際に観てみたならば、いやいやどうして、フツーに面白かった。映画とは、本当に厄介な娯楽である。 少なくとも、アニメ映画「攻殻機動隊」の非ファンとしては、想像以上に面白かったと言える。  考えてみれば、これだけ世界的なファンと非ファンを持つ作品の映画化にあたっては、どれだけ完成度を上げて仕上げたところで、どこかしらの角度からの「否定」は避けられないわけで。 そんな火中の栗を拾うようなプロジェクトに無謀に、いや果敢に挑み、統一された価値観で纏め上げて見せていることには、今作の製作陣のプライドを感じた。 当然ながら原作のファンなのであろうスタッフ陣が、原作はもとより「日本文化」そのものに対してのリスペクトをしっかりと掲げて映画の世界観を構築してくれていることも、この国の映画ファンとして意気に感じる。  また、懸念材料だったキャスティングも、強引ではあるが辻褄は合っているストーリー設定で整合性を保っているし、想像以上に主要キャラクターだったビートたけしと、桃井かおりの存在感が光っていたことも誇らしかった。  今一度、アニメ版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を見直してみようと思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-08-12 00:20:01)
16.  コードネーム U.N.C.L.E.
「雰囲気」だけの映画である。でも、その「雰囲気」こそが、この映画において、製作陣が意図し観客が求めるものであり、それが最高なんだから、「それでいいじゃん」と思う。  ある種のクラシカルさすら感じる“ザ・映画スター”とでも言うべき風貌と体躯が抜群な主演俳優の二人が先ず良い。 様々な社会的風潮や映像技術の進歩等も手伝って、映画スターにおいて必ずしも肉体的な逞しさや美しさが重要視されなくなって久しい。 けれど、この映画の主演俳優たちは、背格好に恵まれているという映画俳優としての大前提とその重要性を改めて表し、彼らの立ち振舞そのものが「娯楽」であるということを雄弁に伝えてくる。  勿論だからと言って、ヘンリー・カヴィルとアーミー・ハマーが、見た目だけに優れた俳優だというわけではない。 それぞれがキャラクターの心情を的確に表現できていたからこそ、この二人の主人公はとても好感度の高いキャラクターに仕上がっているのだと思える。  その二人の間に存在しあらゆる意味で騒動の中心となるヒロイン役にはアリシア・ヴィキャンデル。この1、2年で一躍トップ女優に駆け上がった彼女の存在感は、二人の屈強な大男に対しても決し埋もれることなく光っている。 そして、歳を重ね俳優としての新たな味わい深さで存在感を増しているヒュー・グラントが脇を締め、キャスティングも総じて成功している。  前述の通り「雰囲気」だけの映画なので、軽いノリが売りとは言え、ストーリーテリングが稚拙であることは否定できない。 観終わった後に残るものは、某自虐ネタピン芸人のテーマ曲だけかもしれない。  でも、“U.N.C.L.E”たちの今後の活躍を期待せずにはいられない。 シリーズ化希望。でも、「シャーロック・ホームズ」の続編もちゃんとお願いしますよ、ガイ・リッチー。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-02-15 09:52:17)
17.  GODZILLA ゴジラ(2014) 《ネタバレ》 
神々しくそびえ立つ巨躯。体の髄にまで響き渡る咆哮。 満を持してスクリーンに甦ったそれは、まさに「怪獣の王」と呼ぶに相応しく、その存在感は圧倒的だった。 この極めて完成度の高い映画が、映画史上最高クラスの「怪獣映画」であることは、間違いないと思う。 日本が誇る「怪獣」と「特撮」を、ハリウッドの最前線の精鋭である映画人たちが、多大な“リスペクト”をもって甦らせてくれたことに、先ず感謝したい。  「怪獣映画」として、絶賛は惜しまない。 しかし、絶賛の上で、ただ言いたい。  これは……、「ゴジラ映画」ではない。   最大の違和感は、ゴジラが「何もの」であるかということに対する認識のズレだろう。 今作では、絶対的な存在感を誇るゴジラが、その存在感のまま神格化され、文字通りの地球の「守護神」として描き出されている。 この映画単体においてみれば、ストーリー的な違和感はない。 しかし、これが「ゴジラ映画」というのならば、その描かれ方は致命的な欠陥と言わざるを得ない。  ゴジラという怪獣は、“核の化身”でなければならない。 他の怪獣がどうであろうとも、ゴジラだけは決して“古代生物”などであってはならない。 人類自身が生み出してしまった災厄である「核」。その「権化」でなければならないと思う。  ゴジラはいくらその姿が強烈な畏怖の対象であり神々しくあろうとも、決して神格的なものなどではないし、あってはならない。 なぜならば、ゴジラは人類の「業」そのものであり、愚かな人類にとっての合わせ鏡の如き存在でなけらばならないからだ。  だからこそ、人類は圧倒的な力の差を見せつけられようとも、強大なゴジラに立ち向かい続けなければならない。 だからこそ、時に己の身を賭してでも、ゴジラ(=人類)の暴走を止めなければならない。  「ゴジラ映画」におけるスペクタクルとは、圧倒的で悲劇的な「破壊」と、その破壊を生み出してしまった人類が自戒を礎にし、己に打ち勝とうとする様にこそ生まれるべきだと思うのだ。 それこそが、“戦争”と“核”、そして自らの“驕り”によって一度叩き潰された国が、再び進み出すために生み出した“エンターテイメント”だったと思う。  だから、そういう「精神」が根本的に欠けていたこの映画は、少なくとも僕にとっては、「ゴジラ映画」とは言い難い。
[映画館(字幕)] 7点(2014-07-29 23:32:19)
18.  ゴールデンボーイ(1998)
互いに心に闇を持った少年と老人のどろどろしい心理攻防に息を呑む。最近のサスペンス映画にはめずらしいスピード感に頼らないじっとりとした展開が秀逸だった。陰影際立つ映像美も良く気持ちを途切らさない。生まれたばかりの心の闇を表現したブラッド・レンフロも良かったが、奥深い年輪さえ感じさせる心の闇を持つ老人を演じたイアン・マッケランの鬼気迫る存在感が凄かった。ラストに盛り下がってしまうのは残念だが、作品としては高いクオリティを見せる。
7点(2004-01-30 22:09:37)(良:1票)
19.  コクーン
老人ホームにて自らの老いに対して葛藤する老人たち。置き去りにしてきた仲間を救い出すために地球にやってきた異星人たち。彼がふいに出会うことで繰り広げられるSFファンタジー。 数年前に初見した時と同様に、概ねのプロットはそういうことだった。 最後は、老人たちと交流を深めた異星人たちが、不老不死の自らの星へ老人たちを誘う。  どストレートな物語だという印象だったけれど、久しぶりに観て違う印象も生まれた。  果たして、異星人たちの誘いのままに不死の世界へ旅立った老人たちの選択は正しかったのだろうか。 ある老人はたった一人、「ここが故郷だ」と別れを告げて、地球に残る。 彼の選択こそが、自然の中で生きる人間として健全なことだったのではないかと思った。  もちろん、地球を離れることを決意した主人公たちも、自らの行動が自然の理に反することは重々理解しており、「ちょっと自然に反抗するだけだ」と自身に言い聞かせる。  ただやはり思うのは、「生」の素晴らしさは、「死」が終着にあってこそはじめて成立するものなのではないかということ。  この映画においても、老夫婦が愛し合う姿や、長年の伴侶との別れを悲しむ姿に涙が溢れることは、長い「生」を全うしてきた彼らの姿だからこそ生まれる感動だと思う。  この映画は、馬鹿正直にまっすぐなファンタジーを描きつつ、人間という一生物の本質的な“運命(さだめ)”を物語っているのではないかと思った。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2003-11-02 19:43:31)
20.  ゴーストバスターズ(1984)
昨年公開されたリブート版のせいか(観ていないけど)、発端となる動機が定かではないけれど、ふいにこの僕自身が3歳の時に公開された娯楽映画を観たくなり、Netflixで観た。 こういう“衝動”に対して、動画配信サービスはとても便利だ。  そして、何年かぶりに観たこの娯楽映画は、そうやって衝動的に、気楽に観るに「ちょうどいい」作品として、今に息づく作品だと思う。 10年前ならただ絶妙に古臭くて退屈な娯楽映画として思ってしまったかもしれないけれど、今となればもはや「この時代の娯楽」として古典的な価値さえ感じる。 こうやって、本当に面白くて、愛される映画は、時代を超えて、その時々で価値観を変えながらも、存在感を放ち続けていくのだろうなと思う。  若いビル・マーレイやダン・エイクロイド、シガニー・ウィーバーは当然目立つが、リック・モラニス演じる色々な意味で“ギリギリ”な会計士が堪らない。
[インターネット(邦画)] 7点(2003-10-03 18:02:33)
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